拝啓、衆議院議長様 公演情報 Pカンパニー「拝啓、衆議院議長様」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    鑑賞日2020/09/18 (金) 14:00

    座席B列7番

    どういう評価を下そうか。
    これを、古川健の糾弾として観る場合、彼が糾弾しているのは何なのか。その捉え方によって、見方は180度変わると思う。解釈としてどうあるかは別として、ここでの糾弾がいかに悍ましい「思考の停止」に対するものであるということなら、素晴らしい作品だとしよう。

    ネタバレBOX

    「優性思想」「障碍者差別」「被害者意識」「死刑廃止論」「介護労働の重篤さ」諸々の問題を、ごった煮にして、人間の平等、人間としての強さ、人命の尊重という体のよい美辞麗句のもと、思考することを放棄した自分に都合の良い解釈で、一人の人間の思考が抹殺される過程をこの舞台に見た。

     何と弁護団の醜いことよ。被告がなぜそういう考えに至り、こうした悲劇を生みだしたかを論ずるどころか、人間の平等を盾に、加害者を差別論者だと罵倒した上、意気揚々と死刑廃止論を謳いあげる。

     私は、加害者は日本の法律に基づいて、その「行為」によって、厳正に裁かれるべきだと思うし、彼の思考の文脈から言っても(本人が、遺贈への強い謝罪意識を持ち、安楽死についての在り方について自身気付き悔恨したとしても)情状酌量の余地はほぼないと思う。

     ただ、彼が定義するところの「心失者」は安楽死させるべきだ、という考えをそのまま、弁護士が神のように全否定し、死刑反対論という自身の主張の正当性のための道具にするということ自体が、まさに加害者に対する一方的な差別である。

     犯人の主張は、もっとその根源から見直されるべきだと思う。

     弁護士は、同僚の介護士の言葉を聞いて(夜勤で20名もの要介護者の世話をさせられる、痛みを伴う行為に対しても笑顔で返さなければならない、など)、被告の「コスト」という言葉の意味を顧みなかったのだろうか。それは介護に携わる人々が持つ苦しみのことに他ならない、と。
    要介護者を押さえつける行為について、同僚は大変だと苦渋を込めてつぶやくのに、被告はそれを楽な行為だと言い放つ。仕事というのも、それくらいだけだからと。そこに被告が至った精神的な境地は見直されるべきではないのか。心を空洞にしなければ、そうした行為の繰り返しには耐えられなかったのではないかと。

    被害者の家族の話にも、切に心に迫るものがあった。ただ、その声だけでよいのか。被害者家族の中には、被告の一刻も早い死刑を望む憎悪の声はなかったのか、あるいは被告の行為を憎みながらも、一方で介護から解放されて(経済的、精神的、肉体的)、心のどこかで平穏を感謝する声はなかったのか。

    弁護士は、ネットで見られるように、匿名で無責任に誹謗中傷を垂れ流し、人を見下したり差別したりする風潮を、被告の行為の背景として特徴と位置づけ、意気揚々としてい。しかし、実のところ、弁護士自身が、よく相手の意見を聞い、それを理解しようとする寛容さに欠け、それ自体がネトウヨと変わらないことに気付いていない。
    だから、彼は被告に「絶対間違っている」「強くなれ」と叫ぶだけで、被告の心に何も迫れないのではないか。
    悲惨なことに、

    荻野貴継の演技が秀逸。彼はいわゆる通常の思考を持った男がいかに、善意や理念によって、その思考の在り方のみで、まさに「差別」され、理解される機会さえも持たないかの苦闘をよく体現していたと思う。彼の人物解釈そして表現なくしては、この舞台に置いて上記のような視点は得るべくもなく、ただの死刑反対論者の人権もて遊びとして、星は1つにも満たなかったと思う。
     人間の寛容さを解くなら、被告が短気であったり、大言壮語を吐いたり、考えの詰めが甘かったり、頑固なところがあることをもってして、彼が異常な思考をもつ、大量殺人を犯した悪人だと決めつけてはならない。そんな言動をする隣人は山といるのだから。彼は特殊な人間ではないのだ。

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    2020/09/20 15:57

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