夜から夜まで
劇団競泳水着
駅前劇場(東京都)
2021/05/12 (水) ~ 2021/05/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
客席半分の冷え込んだ劇場に入ると、電子ピアノでメロディを作ったいい感じの客入れの音楽がかかっている。春らしい日和の午後。久しぶりに30歳前後の大人前期の観客が60人ほど。舞台は5年ぶりの公演と言う初見の劇団競泳水着である
劇の中身は30歳前の世代の世間への出発の風俗劇で、約十人の同年代の男女が性と職業をめぐってこの難しい年代を暮らしていくドラマである
漫画家、ライター、セラピスト、トレーナー、デリヘル嬢などといかにも現代風を身にまとった男女の登場だが話の中身はお泊りと結婚の意外によくある古いお馴染の話だ。物語を貫く大きな話が弱いのでつなぐエピソードで運んでいく。シュニツラー「輪舞」の趣向。一つ一つは、笑いながら楽しんでいられるが、ではどうだ、と言うところがない。
そのどこにでも転がっている身の上相談のようなところがいいという人も多いだろうが三浦大輔風でも平田オリザ的でもない作風でパンチに欠ける。俳優も十人も出ていれば、一人くらいは目につく人がいるものだが、皆収まるところに収まっていて個性に欠ける。演出も、役者も少し羽目を外したら面白かったかもしれない。
2時間。休憩なし。
パンドラの鐘【4月25日~5月4日の東京公演中止】
東京芸術劇場
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2021/04/14 (水) ~ 2021/05/04 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
野田秀樹の旧作を、今の新しい演出家が手がける。クリエのKERACROSSと同じような試みだ。この二人、方向は全く違うが、間違いなく現代の日本演劇をリードする劇作家である。共通するのは、彼らが登場するまで、日本演劇を蔽っていたリアリズム演劇からは遠い演劇世界を作って成功したことだ(ほんとにすごいと思う)。その野田も、65歳、ケラも間もなく60歳。両者とも多作という事もあって、ひょっとして、自分の戯曲、後世に残るのかな?と気になったのか、いや、そんな下世話な勘繰りでなくとも、疾走してきた足跡を若い世代の舞台で再見したい気分にはなる年齢だ。
初演の時、野田・蜷川の二人の演出競演になった旧作を、コロナで世間がお休みになっているような時期に世代も作風も違う熊林がどうするか見てみようというのは、なかなかいい企画だ。クリエも満席だったがこちらも満席。熊林演出は、どこかでふざけなければ気が済まない野田とは違うクールな舞台作りだった。
野田作品は、東西の古典から現代の流行や政治まで、さまざまな人間事象の引用に次ぐ引用で独特の世界を作っていく。「パンドラの鐘」はタイトルにも、ギリシャ神話のパンドラの箱を開くと、善悪さまざまの人間の業が飛び出してくるという物語に、出てくるものは鐘で、それが長崎型の原爆だ、と言う寓意を重ねている。熊林演出は、この作品の寓意性を生かして、何かときな臭い世界情勢を映す時事性の強い舞台になった。具体的には、事実の背景としては先の戦争と原爆投下我描かれているだけなのに、時代をこえて観客に訴える力が戯曲にあることを証明して見せたのだ。
Kera Crossに続いて、この上演も日本演劇の里程標になった。
カメレオンズ・リップ【5月2日~4日大阪公演中止】
KERA CROSS
シアタークリエ(東京都)
2021/04/14 (水) ~ 2021/04/26 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
幕が開くと、アメリカの田舎の山中の一軒家、謎の死を遂げた妹そっくりの使用人(生駒里奈)と暮らす主人公ルーファス(松下洸平)が、亡き妹は嘘が大好き、真実の中に嘘を交えてこそ、嘘の名人なのだと話しはじめる、生のピアノとレコードを使った嘘とホントのギャグ、観客はたちまち、ケラの世界に引き込まれる。
ジャニーズ客がいなくても、かつてのようにさまざまな世代で埋まり満席(コロナ席なし)になった客席が、筋もよく掴めないナンセンス劇に笑っている。何だか懐かしい舞台を観ているような感じ。思い起こせば、コロナ騒ぎのこの一年、舞台の上も、観客も一体になって芝居に心を開く安らぎのある舞台には出会わなかったような気がする。
ケラリーノ・サンドロヴィッチの初期の作品をいま現役の若い演出者が再演するKera Crossシリーズの第三弾。今回の演出者は河原雅彦である。
今回の上演はケラの舞台の経験のほとんどない俳優たちが演じながら、まるで、ナイロン100℃の公演のドッペルゲンガーのようにケラの乾いたナンセンスの世界が作れたという発見が最大の見どころだろう。初参加で快演した岡本健一がパンフレットで言っているように「登場人物がそれぞれの事情を抱え自分を偽りながら現実に対して必死にあがく哀歓漂うドラマ」(まとめ方、うまい!!)を、この家に集まってくる様々な人々、亡き姉の夫(岡本健一)、元使用人(ファーストサマーウイカ)、近所に住む眼科医師(森準人)、姉の友人(野口かおる)、なくしたハンドバッグを取りに来る女社長(シルビアグラフ)近所の退役軍人(坪倉由幸)、がそれぞれに嘘をつき、騙し合い、演じていき、不条理な世界が笑いに包まれていく。
嘘が事態を混乱させ、破綻してゆくクライムストーリーの筋を追うことはほとんど意味がない。しかし観終わってみれば、ドッペルゲンガーみたいだったこのドラマはやはり、バブル後のケラ本人の作った二十年前のナイロンの世界とは違う。いまの演出家、河原雅彦は不条理なドラマを、俳優にはナイロンの演技を踏襲させているように見えて、どこかすっきり整理している。貼り絵のようなタッチの美術(石原敬)も、井澤一葉の音楽も舞台にマッチしている。
ケラリーノ・サンドロヴィッチと言う日本演劇界に突然現れた特殊な才能がこれからも長く生き続けられる証明にもなった上演だが、何よりも、この一年とげとげしく冷たかった劇場の空気が、ここでは温かく弾んでいたことを高く評価したい。
ゴヤ-GOYA-【4月25日~29日公演中止】
松竹
日生劇場(東京都)
2021/04/08 (木) ~ 2021/04/29 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
スペインの画家・ゴヤの生涯を素材にした国産・新作ミュージカルである。
言葉では説明されていない絵画を言葉で、と、画家は演劇のみならず、小説や、映画の素材によく取り上げられる。共通点は、このミュージカルがテーマ曲にしているように、絵画は「一瞬の時を残す」、演劇は、上演したその時しか生きられない。ともに現在では複製化はできるが、根元は一瞬のものという事か。
日本演劇では、フランスの画家ゴッホを主人公にした「炎の人」が近代古典化している。
画家の生涯と作品から、芸術家の創造の原点を解き明かし、演劇と言うローカルな場で再生させたということになる。「炎の人」のラストには日本人への呼びかけの言葉が延々とある。
ゴッホは日本では人気の高い作家だが、ゴヤは名前こそ知られていても、評伝も堀田善衛の大作「ゴヤ」が売れたくらいで、長く生きた波乱万丈の生涯も、スペインと言う国の特殊性もあって、あまり知られていない。
そこを危惧したためか、この作品はゴヤの生涯をかなり丁寧に追う。上昇志向の強い才気のあるサラゴサの地方青年が、マドリードの宮廷政治に巻き込まれ、聴力を失い,フランスへ逃れ、その間に画風も次々と変わっていく。スペインの自主性のない日和見王制がフランス革命に揺れるくだりなどは知らないこともあって、面白い。ミュージカルだからスペイン風俗のフラメンコや、宮廷のシーン、ゴヤの絵画が活人画になる(王の家族、裸のマハと着衣のマハなど)サービスもあって、一幕90分、休憩20分を挟んんで二幕80分、堂々たる国産ミュージカルである。
コロナ禍の不自由な環境の中で大作をまとめたのはさすが、松竹と思わないでもないが、やはり、折角の大作だから幾つかの注文は出てくる。
G2の脚本は生涯を分かりやすく描いていてなじみのない国の政情はよくわかるがそこに巻き込まれたゴヤと言う芸術家の転向点の心情に迫るところが弱い。「一瞬の時を残す」という一点に絞っても、もっと深く作ることもできただろう。ことに二幕の、プロローグにもあるラストの「異様な風刺」につながるところが弱い。一幕はもっと整理してもいいと思う。ミュージカルらしいシーンにしても、時代や場所のエキゾチックに見える説明シーンが多く、ゴヤの内面を歌や踊りに昇華させたシーンがない。音楽も無難に走って曲は意外に平凡、歌詞としては生硬な言葉を選んでいて乗りにくい。
主演の今井翼はスペインの親善大使でもあるそうで、フラメンコを踊って見せるくだりなどサービスもあり、ジャニーズ時代からのファン向けには久々の復帰公演でよかったかもしれないが、この大作を背負う芸術家のゴヤの生涯には遠い。初歩的なことを言えば、年齢の経過がほとんど表現されていない。そんなものは必要ないと考えるのはジャニーズ時代を引きずっているからで、これから松竹に移籍して舞台で主演を張っていくためには舞台の細やかな配慮が必要である。今回は助演に妻役の清水くるみ、ポルトガル国王になるゴドイ(塩田康平)の期待できそうな新星が目立った。脇も、山路和弘や天宮良のベテランが固め、仙名彩世(モデルの伯爵夫人)キムラ緑子(スペイン王妃)がしっかり笑いをとっている。
折角これだけ仕込んだのだから再演することもあるだろうが、大幅に手を加えてもっと切実な締まったドラマとして見せてほしいものだ。
斬られの仙太【4月25日公演中止】
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2021/04/06 (火) ~ 2021/04/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
かつては、よく上演されていたが、忘れられていた大作戯曲の上演である。
初演(1934)は知らないが、戦後の時代背景がやりやすい環境だったからか、たしか商業劇場でも上演されていたし映画にもなったやくざモノなのだが、最近はお目にかからなくなっていた。三好十郎存命中も、著作権保護期間中は、著作権継承遺族が戯曲の改変にうるさかった事情もあったのだろう、戦後の上演もみどりの上演だったように思う。何しろ八時間はかかろうという大作である。
その保護期間も終わって、今回は、四時間半に全編をテキストレジしているがそれでも十分に長い。この上演は新国の「人を思う力」(なんのこっちゃ?最近のこの劇場の柱にはいつもこの種の大入叶の札が貼ってあるが、わけがわからない)というシリーズの第一回の上演である。
戯曲のことは後段に回して、上演は、フルオーディションらしい顔ぶれで、上村演出も原戯曲を生かしながらの舞台になった。
八百屋飾りにしたノーセットの舞台に若干の大小の道具を持ち出して、休憩二回を挟んで、時世に左右された農民上がりの仙太(ばくち打ち・伊達暁)が政治に巻き込まれていく生涯が描かれる。改革派とも、保守派とも、権威主義なのか民衆派なのかも、集団としてはよくわからぬ武士階級を母体にした水戸の天狗党の乱が背景になっていて、ここが、お客には維新期を背景にしていても、新選組のようにけじめがつきにくい。そこを農民出身の仙太の村社会と農業への信念で乗り切る。周囲の人物もよく描かれていて農民仲間の段六(瀬口博行)や利根の甚五左(青山勝)、農村の孤児を預かるお妙(浅野令子)など、普段の舞台でよく見る助演者たちが生き生きと好演である。ほかにもタカラヅカの陽月華とか武士では加多源次郎の小泉将臣など、全部で八十役あるという舞台をボロを出さずに十六人で演じ切ったのは演出も、俳優もお見事だが、少し引いてみると、やはり、農民も武士も「らしく」はない。生活感がない、とよく言うが、ほぼ二百年前のこういう舞台を観ると、それは必要なのか、と逆に思ってしまう。何しろ、舞台は板一枚のノーセットだし、非常に効果的に使われている過不足ない音楽(国広和毅)は西洋のオケである。上村もギリシャ劇やシェイクスピアの体験からその種のリアリティよりもドラマだ、と取り組んだのだろう。
それなら、とないものねだりになってくるが、もっと大胆に戯曲に手を入れてもよかったのではないか。農民と武士層の齟齬や、江戸幕府との関係をふくめ、もっと切ってもよかったと思う(そうすれば歴史的な水戸天狗党の評価に反するというのは歴史学者の言で、二百年もたてば芝居見物の客は、この中身ならせいぜい二時間半で見たい)し、お蔦などはもっと生かすところがある。
演劇は常に時代とともにあるものだからそうなれば、今の観客にもわかりよく楽しめたのではないか。折角の熱演の舞台も残念ながらガラガラ、三分の一がやっとという入りである。
新国の上の中劇場では横内謙介の「モダンボーイズ」をフジテレビの仕込みで上演している。紀伊国屋で劇団上演した時は苦しかった舞台も、ジャニーズ出演で客はぞろぞろ入っている。役者買いも演劇の大事な側面ではあるが、これもコロナ疲れかもしれない。客が楽なものしか見なくなっている。ここからの回復はかなり長くなりそうだ。全興連は、責任も取らない無定見な政府のいう事などべんべんと聞いていては我が身を滅ぼすぞ。
聖なる日
劇団俳小
d-倉庫(東京都)
2021/03/19 (金) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
一昨年、小劇場翻訳劇「殺し屋ジョー」でクリーンヒットを飛ばした俳小の新作翻訳劇公演。開拓時代の原住民と侵略者の対立はいままでも様々なケースで舞台化されてきたが、これは19世紀半ば、入植時代のオーストラリアの先住民アポロジニと白人開拓者の対立である。
白人側にも、その地がイギリスからの犯罪人流刑地であった背景や、自国移民層のアイルランドとスコットランドの対立、老朽化しているキリスト教会の宣憮然活動システムなど複雑な事情がある。
舞台は、奥地の砂漠地帯で中年女のノーラ(月船さらら)が営んでいる売春宿を兼ねた貧しい木賃宿。彼女はアボリジニ(オーストラリア先住民)との混血の少女・オビーディエンス(小池のぞみ)を従順な使用人として使っている。そこへ荒くれ者、ガウンドリー(いわいのふ健)が僻地で仕事を求める三人の白人流浪者達(遊佐明史・北郷良)を率いて現れる。彼らはオビーディエンスを一晩の慰み者にしようとするが、ノーラは激しく拒否する。彼らの滞在中に白人の宣教師と赤ん坊が行方不明になり、教会も焼け落ちるという事件が起こり、既に開拓者として地域で生きている白人農民(斎藤真)を巻き込んで、先住民と移民白人の戦いが始まる……。
戯曲は、それぞれの人物の立場、生きるこだわりやキャラクターについても細かく触れる。それは確かにオーストラリアのなじみのない辺境を知らせてはくれるが、舞台の上の人間像やエピソードは暴力的で荒々しいばかりで観客に身近になっていかない。
それは俳優の演技にも及んでいて、客演のいわいのふ健も月船さららも柄はいいのだが、演技がパターン化している。たとえば、いわいのふと、彼が連れ歩いている舌を切られた少年との関係、月船と宣教師の妻(新井晃恵)と生き方をめぐって対峙するシーン、いずれも類型的な演技に逃げ込んで独自の真実が見えてこない。ベテランの斎藤真以外の劇団員も、それに引きずられている。一面に水面のような青く反射するガラス面を張り巡らしそこに枯れ木を数本立てた舞台ですべてのシーンが展開する。この美術は美しいし、照明もよく舞台を追っている。この新大陸の民族音楽らしい管楽器を軸にした音響も効果的だが、この舞台の抽象性が戯曲の生々しい現実感とそぐわない。
演出の真鍋卓嗣は、昨年、僻地を舞台にした人間崩壊劇「心の嘘」を既に本拠の俳優座で演出している。西部の荒廃した辺境社会の人間模様が、現代人の心にも響くいい舞台だった。一昨年の「殺し屋ジョー」も観客の生活体験と重ならないトレーラーハウスの殺伐な殺し合いの世界だったが、共感できた。だが、この一種混沌とした舞台からは、舞台の全ての人が願ったようなであろう「聖なるもの」は出現していなかった。
俳優座の衛星劇団から出発した俳優小劇場は、かつては、新劇の範疇に収まらない都会的な洒落た作品を個性的な俳優でつぎつぎにみせてくれた懐かしい劇団だが、これからも自劇団に閉じこもらず、作品を軸に新しい世界を見せてくれることを期待している。
林檎の軌道
とくお組
駅前劇場(東京都)
2021/03/12 (金) ~ 2021/03/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
しばらく、公演を休んでいたという小劇場劇団「とくお組」の6年ぶりの新作だが、この間にこの作品の舞台となっている宇宙と我々との距離はずいぶん変わったのではないか。
このコメディの舞台は火星で、ほぼ半世紀ほど未来。人間の居住可能性を確かめるために派遣された第一次隊が行方不明になって、その捜査のために送られた第二次隊の捜査が主筋になっている。
約一時間40分の舞台は細かいネタをうまく拾って話をつなげていって笑いながら見てしまうが、作も演出も俳優も、そこまで、と言う感じがする。こういう失礼なことを言うのは最近は宇宙も随分リアルに身近になっていて(本当は相次ぐロケット失敗のようにそれほど容易なことではないのだが)こういう作りだと、どうしてもファンタジーと思わざるを得ない。そうすると、結構多い日常的なギャグや、人物設定がリアルにもファンタジーにもなり切れず、宙に浮いてしまう。そこがSFコメディとしても残念だった。
6年前までのこの劇団を見ていないので、今後の方向もつかめないが、グループのアンサンブルはいい。続く活動を見てみたいと思う。約40の席は満席。
「シャケと軍手」〜秋田児童連続殺害事件〜
椿組
ザ・スズナリ(東京都)
2021/03/17 (水) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
犯罪は時代を反映する。80年代に転位21を主宰した山崎哲は、世間の注目を集めた猟奇犯罪事件を素材に犯罪に埋め込められた時代の声を次々とドラマにした。久しぶりの椿組での登場である。
この舞台の素材は十五年前の秋田の地方都市で実際にあった児童連続殺害事件である。
舞台では、家族内の無関心、家庭の貧困、地域社会のいじめやネグレクト、など具体的に事件の詳細が明らかにされていくが、さらに、犯罪の中に潜む日本社会に通底する病癖を抉り出そうと試みる。その手法がいわゆる社会科学的事実のドキュメンタリーではなく、演劇的、文学的(詩的と言ってもいいか)表現であるのが、山崎哲の犯罪シリーズのユニークなところである。
例えば、被害者の少女(長峰安奈)が周囲から与えられるわずかな玩具は、母(井上カオリ)がたまたま金を持っていた時に与えられた二百円のテレビキャラクターと、年上の男の子からもらった魚の飾り物なのだが、秋田の象徴である白神から流れ出る川に捨てられた少女は自身が体の中に飼っていると信じている魚となって旅立っていく。そこに彼女の知る唯一の絵本「海のトリトン」が絡んでくる。
客観的な裁判や捜査を枠取りに進む犯罪物語の中に挟まれるこういう現実と少女の間の大きな乖離を示す乾いた短いエピソードが、事件の深層へ繋がっていく。
事件を囲む現実は、すべて男、女と番号でしめされる二十名近い俳優で演じられる。
演出は西沢栄治、多分椿組では初めてであろう。初日を見たが、多くの多様な俳優たちを巧みにさばくだけでなく、暗黒の中から突然フットライトと音響ともに事件の核心人物を登場させるかつての転位21の手法を踏襲する余裕もある。
新旧の作家と演出の顔合わせが成功して、80年代小劇場の空気を今に生かすことになった。休憩なしの二時間。飽きずに見たが、遂にタイトルの「軍手」の意味が分からなかった。
日本人のへそ
こまつ座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2021/03/06 (土) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
井上ひさしの戯作者ぶりがよく出ている処女作を、きれいにまとめた。栗山民也としても会心の舞台で、お見事!と言うしかない出来だ。この作者の後半生の作品は次第に「庶民の倫理正義感」が強く前面に出て、それはそれでいいのだが、この処女作が書かれたときのような世間の全てを笑い飛ばす活力はなくなっていた。
作品が時代を経ていく過程では仕方がないともいえるだろうが、このきれいにまとまった舞台からはこの作品が書かれた時代(1969年)の猥雑さは影を潜めている。逆に、この作品が素材にしている差別や性表現や障碍、ジェンダーの話題は現代では「自粛」の対象となるものが多く、それを思うと、何かこの無意味な自粛劇場でこの芝居を観るのも、歴史の皮肉のような思いだった。69年、エコーの芝居が面白いという風の噂で、見てみようと何度も試みたがとうとう見ることはできなかった。その時に「二階の照明席のわきに一人入れるんですが、いつ落ちるかわからないので、お客様を入れるわけにはいかないんです」という劇団の答えはいまも覚えている。その舞台は、素朴、未熟ながら時代に密着していたに違いない。それは芝居というものの宿命のような気がして、粛然とした。
ほんとうのハウンド警部
シス・カンパニー
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2021/03/05 (金) ~ 2021/03/31 (水)公演終了
満足度★★
上演時間はわずか75分。しかも、中身が理解不能。いくらジャニーズファン向けとはいえ、コクーンの一月公演で、これはいかがか。まだ空いたばかりだから、前売り客でコロナ客席は埋まっている。
この戯曲は演劇を問うメタシアターのドラマとして、演劇好きには知られている五十年ほど前に書かれた戯曲で、翻訳も本になって出ている。しかし、それは米英の演劇都市の演劇事情をもとに書かれた一種のバレ本で、ミステリ劇がお国の看板観光資源になっている国や、初演の翌日に大新聞に演劇批評がでかでかと出る(日本の新聞のように終演間際になって決まった枠で申し訳のような批評が出るのとはわけが違う)国情があって成立する。9割八分がジャニーズ客だった「オスロ」と違って、コクーンとなるとジャニーズ客は8割くらいにとどまり、幅広い年齢の男女の顔もちらほら見えるが、この芝居、大方の客にはどこが面白いか解らなかったに違いない。幸い本を読んでいたから、俗悪ミステリ劇や、批評家へのほとんど嫌がらせのような悪態や、舞台で繰り広げられる演劇の構造への批評も意図は読みとれたが、多分、英米では爆笑・大受けのところがクスとも笑えない、笑わない。それは演劇のバックグラウンドが違うからである。幕内は散々読み合わせをして万端尽くしたとパンフレットで言っているが、それは幕内だけのことで、演劇には観客がいる。仲間内でいいことにしましょう、と言うのはまるで今の政治だ。
コロナ騒ぎの中で、さっそく、身近でやりやすそうなこの本を見つけてきたのはさすがシスカンパニーだが、今回は読み違えた。この本は時々小劇場で上演していて、日本初演は、パルコの確かパート3で見た記憶がある。そこらあたりで好き者が集まって喜ぶ才人の若書きの本だろう。海外で、「日本人のへそ」をやろうという興業者がいないのと同じである。
岸辺の亀とクラゲ-jellyfish-
ウォーキング・スタッフ
シアター711(東京都)
2021/03/06 (土) ~ 2021/03/14 (日)公演終了
満足度★★★★
いかにも今どきありそうな話だが、面白く見ていてもどこか物足りない現代世相劇である。
物語の主人公は多摩川河口の下町あたりの中学校の女教師(南沢奈央)、ア・ラ・サーティで結婚前提でお泊りを重ねている男性(岡田地平)もいる。その一DKのアパートが舞台である。
物足りなさをひとつ上げて見ると、この物語、77年のテレビドラマ「岸辺のアルバム」を意識して作っている。前の年に起きた多摩川岸辺の洪水で、あこがれのマイホームを流された家族の物語である。この戯曲は2011年の初演。今回は手を入れての再演だが、五十年も前の世相劇を背景に持っていることが足かせになっている。
岸辺のアルバムの時代はテレビドラマが最も社会的な影響力もあった時代で、この作者の山田太一をはじめ、向田邦子、橋田寿賀子、倉本聰などのテレビ世相シリーズは家族の生活モラルも支配していた。そのモラルが崩れてしまって、変わりうる新しいモラルも見いだせていない現代では、モラル談義は一言で言うとウザイ、上から目線がうっとおしい。
現代は、この女教師のように一人生きる社会で、そこでは家族やパートナーですら縛られたくない。この主人公は、ちょっと面白い人物像なのだが、その物語を囲む人間たちが古い。考えて見れば、このカンパニーの主宰、演出の和田憲明も60歳を過ぎている。この演出家はかつて新宿にあったトップスで新鮮な小劇場社会劇を作っていて経験も豊富、演出は手堅い。今回もそこは遺憾なく発揮されているのだが、若い世代を扱うと、上から目線が見えてしまう。
人物では、一階上に住む年の離れた男女。主人公への絡みは面白いのだが次第にありきたりになっていく。大学時代のサークルの友達、ユニークな万引き女として登場する(この登場の部分はよく出来ていてリアリティがある)がこの折角の人物も今風に生かし切れていない。
2時間、飽きないで十分面白いのだが、どこか通俗に流れている、そこが丁寧な仕事の割には残念なところである。このカンパニーの再演戯曲の選択はなかなかのもので次回を大いに期待したい。
義経千本桜―渡海屋・大物浦―【伊丹・北九州公演中止】
木ノ下歌舞伎
シアタートラム(東京都)
2021/02/26 (金) ~ 2021/03/08 (月)公演終了
満足度★★★★
義経千本櫻は、歌舞伎の代表作と言われているが、「仮名手本忠臣蔵」や「四谷怪談」のように、全編を通してこういう芝居、と言えない複雑な物語である。乱暴に言えば、源氏平家の争いを「義経」という人物のエピソードに沿って見ていく、と言うあらすじで、この二段目の「渡海屋―大物浦」と四段目の「河連館」とは内容のつながりもほとんどない。そこが歌舞伎の面白いところでもあるのだが、この木ノ下歌舞伎では、最初にこの粗筋を二十分くらいで一気に見せてしまう。なにか見たような気がした(それは各段を切れ切れに見たことがあるからでもあるが)一昨年だか、花組芝居が全段を一気に見せてくれた公演があったからだ。正直に言うと、全段見たから演劇として満足か、と問われれば、そうでもないのだが、終始一貫の近代劇を見慣れた若者がそこで躓くといけないという配慮らしい。
現代語と現代音楽をバックにしたスタイリッシュなこの冒頭の「時代背景とこの後のあらすじ」部分がよく出来ていて、当時の天皇権力をめぐる争いがよくわかる。音楽と、装置の面白さにつられてここを見てしまうと、そのあとは、古典に従った場面でもついていきやすい。古典の名セリフや見せ場は全部入っている。
「渡海屋―大物浦」は、天皇家に振り回された平家、源氏の二大勢力の激突を、瀬戸内海の港町の船宿を舞台に、見せる、と言う趣向で、両者の策略を歌舞伎お得意の「実ハ」を使って二転三転、見せ場を作っていくので、細かい筋はとても書ききれない。しかし、見ていればそのいきさつが分かるのだから、確かのこのアダプテーションはよく出来ている。
ことに今回は人の世の争いがテーマになっていて、安徳帝入水の説得「争いのない海の底には平和な世界がある」を柱に使っている。
「碇知盛」のような歌舞伎の見せ場も多く取り入れている。知盛はあらすじと本編と二度もバック転をやらなければならないのだからさぞ大変だろう。ほかもほとんどうまくいっているが、魚づくしのセリフで笑いをとるところはうまくいかなかった。語呂合わせが突然出てくると、芸人時代の若者もついてこれないか。ここは歌舞伎役者に敵わないのは仕方がない。
16年の上演の演出多田淳之介の続投。押せ押せの演出で力強い。いつもは凝った小道具が面白い木ノ下歌舞伎だが、今回はほぼ正方形の板の角を上下に八百屋に組んだ舞台がよかった。板には七か所長方形の窓がありそこからの照明を効果的に使っている。音楽は標記がないから既成曲のアレンジだろうが、うまくはまっている。「戦場のメリークリスマス」をおもわせるメロディは少し耳につく。休憩なしの2時間15分。トラムを半分の客でやるのだから劇団は苦しいだろう。ご苦労さま、と言うしかないが次の作品も楽しみにしている。早い機会に昨年上演予定だった「三人吉三」を見せてほしい。
アユタヤ
MONO
あうるすぽっと(東京都)
2021/03/02 (火) ~ 2021/03/07 (日)公演終了
満足度★★★★
久しぶりのMONO新作。舞台は十七世紀のタイ。アユタヤの日本人町である。当時山田長政などのリーダーのもと、南方へ進出していた日本人が、次第に追われる立場になっていたころ、アユタヤの商人兄弟を中心に、流れてきた武士、商人、労働者、現地妻などの人間模様である。この京都の劇団はかつて、ゲイの若者たちが共同生活するアパートの日常を描いた作品で、鮮烈な印象を残した。それからもう30年もたつという。確か男性だけの劇団であったがそのメンバーが今も残っていて、今回の舞台にも出ている。みな、結構おっさんになっていて、時日は残酷だなとも思う。しかし、このちょっと小味な劇団が、関西と東京で劇団のカラーのある上演を続けてきたのは、同じ京都のヨーロッパ企画と並んで、演劇界に快いアクセントをつけてくれたと思う。
今回の作品は、作者も書いているが、落ち着かない世相に足をとられてしまった。この作者で、この素材なら、もっと面白い設定や展開があるだろうが、極めておとなしい。細かさと言うならほんの一月前に秋元松代の「マニラ瑞穂記」を見ているので、どうしても比べてしまう。もちろん秋元とは別の線を狙っているのだが、うまく成功していない。もう東京での活動が多くなってしまった作者、俳優を擁する要するMONOだが、自分たちの年齢(初老の曲がり角)に見合った小劇場作品を考えてみたらどうだろうか
帰還不能点【3/13・14@AI・HALL】
劇団チョコレートケーキ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2021/02/19 (金) ~ 2021/02/28 (日)公演終了
満足度★★★★
太平洋戦争にあれだけ不利が明白だったのになぜ日本が参戦したか。戦後さまざまなところでその理由は論じられてきたが、これは当時の若手エリートを官、軍、民間から集め、内閣のブレーンとなるべく設立された総力戦研究所の記録を素材に、国が開戦の決意をする帰還不能地点を探る歴史探索のドラマである。
のっぴきならなくなる帰還不能点が、仏領ベトナム南部の油田占拠のための進駐の時点(アメリカの強硬姿勢の引き金となった)と言うのは、おおむね現代史では認められているところで、この作品はその不能点を確定するよりも、既に明らかになっている多くの資料の上に立って、科学的に検討すれば、だれもが日米戦回避となる結論が、なぜ内閣をはじめ、国民の総意にならなかったか、を描いていく。
この作品を特徴づけるのは、それを明らかにするユニークな手法である。
戦後五年、総力戦研究所のメンバーはそれぞれの持ち場で市民に戻っている。その仲間の一人、日銀から出向していた一人が亡くなって、その人が戦後にむかえた後妻が経営している居酒屋で開かれるしのぶ会に当時の会員が集まってくるところからドラマは始まる。すでに数人の故人もいるが、生き残った彼らは、自分たちの研究が戦争を止められなかった理由に改めて向き合うことになる。集まった九人のメンバーはかつての開戦前の自分たちの意見がどのように当時の施政者、政府や軍によって退けられていったかを演じてみるのだ。ここも普通は一人一役になるところだが、夫々がいろいろな役を演じる。つまり、東条も松岡も近衛もいろいろな研究員がやる。その趣向は、意外に利いていて、誰もが行き当たりばったり時世に流された判断しかできなかったという事を如実に表すことになった。反面、研究員ひとりひとりは、それぞれの専門分野で事実と科学に基づいて開戦反対を唱えるのだが、その背景となる個人の信条はえがかれていない。
それが描かれるのはドラマの枠になっている戦後のシーンだが、ここは、亡くなった研究員の後妻(黒沢あすか)のドラマが、圧倒的でほかの研究員のエピソードはかすんでしまう。
戦争を止められなかったことを深く恥じた故人は、戦後闇市の仕切りや担っていたのだが、たまたま、戦後の混乱の中で自殺しようとして見も知らぬ女を助け、生活のためになるならと後妻にまでしていたのだ。おおきな社会の悲劇を救えなかったからといって、ひとりの悲劇を見過ごしていいという事にはならない、と言うのが彼の戦後の信条である。ドラマの全体の軸として舞台となる居酒屋の女将でもある女性の運命が、前半の国の運命の裏打ちとなって効果を上げている。惜しむらくは黒沢あすかはガラはいいのだが演技がストレートで、戦後を生き抜いてきた女には見えないところだが、それはないものねだりだろう。
全体は、メタシアター作りの歴史ドラマと言ってしまえば、その通りなのだが、責任を押し付けあう倫理感の乏しさが当たり前になっている今の世の中では上演する意味は大いにあった。それは、単に芝居のスタイルとしてメタシアターであるなし、などという事を超えて、
歴史を俳優という肉体を使って立ち上げてみるという演劇の効用だろう。
少年のころ見た東条の演説が(まったく形は違うが)いまの総理大臣の論理構成と全く同じであることにも気づかされた。これもまた演劇の効用で、権威的な政府が演劇を弾圧したがる意味もよくわかった。
マニラ瑞穂記
新国立劇場演劇研修所
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2021/02/19 (金) ~ 2021/02/24 (水)公演終了
満足度★★★★
戯曲には運・不運があるとつくづく思う。あまり上演されない、いい作品を見た。
秋元松代の「マニラ瑞穂記」は、64年の「ぶどうのの会」の初演。「村岡伊平次伝」の続編のような作品だが、ほとんど再演されていない。前の芸術監督の栗山民也演出でここで再演(2014)されたときも珍しいものをやると思った記憶があるが、結局見なかった。今回はこの劇場の研修生の卒業公演で、研修所長を務めた宮田慶子の演出である。
感想をいくつか。
改めて、秋元松代の戯曲のち密さにおそれいった。この作者の場合は、演出を兼ねる事がなかったために戯曲に全力投入されている、内容はもちろんだが、場割の構成から、登場人物のキャラ、セリフ、俳優の出ハケ、まで考え抜かれている。
日本帝国主義の拡大期を舞台にしているが、南方を舞台にした作品は珍しい。時は20世紀にはいる直前、アメリカの統治時代になろうとするころのマニラ日本領事館が舞台である。スペインからアメリカへ、その争いの中で独立運動や割って入ろうとする日本の思惑など、歴史的にもなじみのない背景が、あまり説明セリフがないのによくわかる。登場人物は日本領事館の領事や駐在武官と、内乱を畏れて逃げ込んできた南方進出の女衒と女たち。上部構造と下部構造。約二十人の登場人物が巧みにかき分けられて、研修のテキストにはもってこいの本である。だが、それだけではない、今見ると、南洋に売られた日本の女性たちが、男どもの小賢しい政治を乗り越えていく逞しさが心に残る。さすが、日本の女性劇作家の先陣を率いた作家である。向こう気の強い作家だったから、当時、ぶどうの会のみならず、日本演劇界の精神的支柱であった劇作家木下順二への対抗心が内心あったかもしれない(ただの個人的推測だが)。劇がしなやかで強い。
演出の宮田慶子にとっては自分の生徒たちの門出の公演なのだが、昔の宮田演出らしい、優しいタッチだ。生徒たちもそれぞれ持ち味を引き出されてのびのびとやっている。この研修所は全国から俊英集う演劇の東大みたいなところ、と聞いているが、なるほど、皆うまい。普通、こういう卒業公演だと、幾人かの力不足があからさまに出てしまうのは、やむを得ない、となるのだが、一人もいない。これも恐れ入ったところで、もう、どこでも使えそうだ。俳優は経験が大事で、研修所は囲い込む必要もないのだから、これから、積極的にいろいろな舞台で見てきたいものだ。
舞台は、卒業公演と言えないような本格的な舞台作りで、装置、音響、それぞれお金もかかっていて、観客もこの料金では贅沢に芝居を見物できた。
Oslo(オスロ)【宮城公演中止】
フジテレビジョン/産経新聞社/サンライズプロモーション東京
新国立劇場 中劇場(東京都)
2021/02/06 (土) ~ 2021/02/23 (火)公演終了
満足度★★★★
2016年にオフブロードウエイで初演された20年ほど前のイスラエルとPLOの電撃的なオスロ平和合意の舞台裏のドラマである。なぜ、ヨーロッパの中でも影の薄いノルウエイの外交官夫婦の手で、米ロが散々てこずった中東平和が一時的でも実現したか。
イスラエル問題は、日本では、実際にその地を踏んだ人も少なく、ヨーロッパと中東の間に位置する文化的複雑さもあって核心がなかなかつかめない。長年の課題解決を、舞台では、夫婦の粘り強い交渉術(多分事実なのであろう)を実在人物を織り交ぜながら見せていく。
いはば、歴史ドキュメンタリー実話ものだが、英米で、たちまちオフから大劇場公演に移ってトニー賞はじめ多くの賞を受賞したのは、距離的にも、文化的にも事件への身近さが大いに影響したのだと思う。この公演はジャニーズの主演興行でいつもなら、グローブ座だろう。今回は新国立の中劇場で1階だけでも千人を超える客席の大劇場である。2階は締めているが、客席を埋めたのはほとんどが三十歳以下の、久しぶりの芝居見物と気合がはいるファンクラブの女性観劇客で、男性客は合わせて二十人もいなかった。オスロ合意のころは生まれたばかりだった観客でこの内容、大丈夫か、と思ったが、結構ダレない。
内容は政治劇で、パレスチナ問題の難しさにももちろん触れるのだが、ドラマの軸を、無理難題の中での目的達成のためにめげないで七転八倒するノルウエイの若い外交官夫婦に絞ったので、中東問題を見過ごしても夫婦の成功劇としても楽しめる。この芝居のつくりでは主役は妻役(安蘭けい)の方のようにも見えるがこの舞台は夫(坂本昌行)が主役である。
演出(上村総)はすっかり大舞台にも慣れていて、多くの場面を照明を変え、プロジェクションマッピングも多用して現実感も見せながらテンポよく運んでいく。俳優の動かし方など見事である。しかし、事件の大きさからすると、やはり、全体が上滑りしているような感じがぬぐえない。俳優は短い時間でなじみのない実人物の性格を見せなければならない。一番大変だったのは、坂本昌行で、対立する勢力を人間的な魅力でまとめ上げて「リスクをとって世界を変えていく」役柄だがその核心がない。妻の安蘭けいの方が、腹をくくったような性格をよく表現していて好演だが、それは脚本のせいかもしれない。
1時間40分の一幕と20分の休憩をはさんで二幕1時間。コロナで自粛と言っても、配役表くらいは置いてほしい。那須佐代子が出ているのに気が付かなかった。
草の家
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2021/02/05 (金) ~ 2021/02/18 (木)公演終了
満足度★★★★
トラッシュマスターズに続いて、戦後、産業構造が変わる中で、農業社会から過疎化へと大きく変貌した地方の家族の姿を描いた舞台である。こちらは四国の地方の戯曲賞の受賞作品。選考委員だった坂手洋二が自らの劇団で、演出もして、異色の舞台になった。
かつては農村社会で欠かせなかった計量器を小売りする店の一家が舞台だが、今はほとんど客もなく一家はそれぞれ村外に働きに出るか、村の中でも別の仕事についている。現代の農村を描くのに、この意外な「計量器を売る家」の設定が成功した。昭和の時代までの農村社会は何事も律義に計量することで生活を立ててきた。この家がそのたくまざる暗喩になっている。
一人残った老年の母(鴨川てんし)の面倒を見ていた早世した長男の嫁(舞台には出てこない)が血液がんで入院したところから幕が開く。東京から駆け付けた次男夫婦、独り暮らしを気ままに送ってきた大学教員の三男、家に残ったが家業を継ぐ気はない四男が、一人残されることになった母の生活問題をきっかけに、一族の運命の中でそれぞれの自分の人生と折り合いをつけざるを得ない事態に向き合うことになる。
日本の農村の過疎問題必ずしも新しい問題ではないのだが、この新人作家の筆は、一人ひとりの息遣いを丁寧に拾っていて、好感が持てる。病いに倒れた長男の嫁が、地元の短歌の同人になっているとか、時節になると庭に蛍が現れるとか、大学の教員をしていた放浪の三男がいつの間にか仕事を辞めていたとか、昔も今も訪問販売の富山の置き薬屋はやってくるとか、舞台の外の細かいエピソードが誠実に生かされている。
坂手洋二の演出も、今までの社会劇とはかなり違うタッチで、この新人女流作家の世界に寄り添っていく。それは昔で言えば、中野実や真船豊の新派劇とあまり距離がないスジガキなのだが(もちろん芝居運びのテンポは全然違う)、それが意外に今の時代に至る農村の道程を新鮮に映し出している。前に見た「天神さまのほそみち」(別役実・作)とおなじような燐光群の新境地である。声高に、スローガンを叫ばれなくても、観客に共感が広がる。
俳優では何と言っても、ジェンダーを超えて老婆を演じた鴨川てんしだろう。今回の配役はカンパニーの中だけのメンバーだが、この劇団の長い歴史が演技に反映している。
1時間40分。ちょうどいい長さだ。
堕ち潮
TRASHMASTERS
座・高円寺1(東京都)
2021/02/04 (木) ~ 2021/02/14 (日)公演終了
満足度★★★★
昭和の末期、バブルもさほど届かない西日本の海辺の田舎町。土地の素封家の女主人(みやなおこ)は、南京大虐殺で活躍した亡夫を誇りに五人の子どもたち夫婦を保守の論理で支配している。その弟(渡辺哲)は土地の土建会社を経営して、その利権のために市会議員出馬を狙っている。一家のためにと哀願されて一家(登場人物一家15人)を集めた女主人は金銭的な助力を約束する。それが一家のため、という論理だが、一家の生活の実情には今までの保守の論理にはみ出すことが続出している。近隣にいる在日二世の選挙権、土建会社の談合、家族の職業選択、子供の教育方針、などなど、時代の動きをここでは、女主人は抑え込んでしまう。そして選挙で弟は当選。一家はその利権で潤って第一幕は終わる。第二幕は10年後、とそのさらに10年後。この間に昭和の「保守」のほころびは顕在化して、家族の中の軋みは大きくなり、市会議員の弟は死に、女主人は記憶も怪しく病床に伏している。
潮には満ち潮と引き潮があるように、引き潮にさらされ堕ちていった地方の一族モノである。
昭和のころまでは、高度成長で都会に出てきた一家が故郷へ帰る機会も多かった。多くは一族の冠婚葬祭。一族の数もおおかったし、叔父叔母も、従弟とも親しく付き合った時代だ。だれにでも経験のある家族設定で、これほどの大家族でない自分にも一つ一つの設定や人物にも「あるある」の実感がある。だが、ストーリーとして見ると、確かに「あるある」なのだが、どれもよくある話で、ラストに現代人が、昭和、もしくはそれ以前からの悪しき日本の保守体質を克服するのは心の問題だ、と説かれても、あまり心では納得していない。現代はさすがにこの段階は終えていると思うからである。(そうでもないのかな?)
舞台は、一幕から一族が意見対立の大声でやりあうシーンが長く、舞台慣れしていない俳優さんも少なくなく、見ている方もつかれる。わかりやすく安心して見ていられるのは型通りながら渡辺哲、清水直子、と言った他の劇団のベテランで役がよくわかる。女主人役のみやなおこはちょっと荷が重すぎた。15分の休憩をはさんで3時間半は長いが一族のクロニクルをやるとすればこれくらいの時間は仕方がない。しかし、もっとストーリーにも登場人物にもアクセントのつけ方はあるだろうと感じた。
横に長い座高円寺野間口一ぱいに広がった舞台は狭い劇場でシネスコを見ているような感じでこれが、意外に若い役者には舞台に立ちきれない原因になったのかもしれない。見えない仏壇を中央に配した設計はなかなか洒落ていたが。
ローズのジレンマ
東宝
シアタークリエ(東京都)
2021/02/06 (土) ~ 2021/02/25 (木)公演終了
満足度★★★★
ニールサイモンの晩年の喜劇、十数年ぶりの再演とのことだが初演は見ていない。演出者は変わったのかもしれないが、いかにも晩年の小品である。
夫がなくなって失意の中で経済的にピンチに陥った大物作家ローズ(大地真央)が、締め切りに追われている。作品のヒントにと夫(別所哲也)の遺作を手に取るが、自分ではとても手が付けられず、娘の秘書(神田沙也加)や、たまたま手に取ったミステリのワンブックライター(村井良太)が近所にいるというので助手に呼ぶ。四人だけの登場人物で、作品を仕上げるまで。舞台の仕掛けとしては、忘れられない亡夫が終始ローザには見え(現実に舞台に出てくる)、ほかの人には見えないという約束事で、そこでの登場人物たちのすれ違いが笑いを作っていくが、ここはそれほど新味もなく、夫婦の愛情物語も型通りのベタで、折角の母娘関係の葛藤にもニールサイモンらしい切れ味がない。
出演者はミュージカルもこなせるメンバーなので、最後に短いミュージカル風なシーンもあるが、まずは収まりのいい幕切れにはなっている。しかし、いかにものブロードウエイ喜劇で、太地も神田もいつもは、キャラクターを膨らませるのにおとなしい。男優陣も伸びやかさに欠ける。観客席もまだ始まったばかりなのに三分の二くらいしか入っていないので喜劇らしく盛り上がらないのが残念。
こういう芝居は日本の商業演劇に欠けているところで、この劇場(芸術座)を始めた菊田一夫が目指したのは首都市民が一夕楽しめる東京現代演劇を作ろうという事だった。社会劇の新劇とも、伝統を引いた新派、新国劇とも違う独自ので大衆現代劇で、芸術座は三益愛子の「がめつい奴」や森光子の「放浪記」で現代商業演劇の新境地を確立したわけだが、この手の喜劇はできなかった。いまなら、三谷幸喜だろうが、続く作者が出てこない。ケラとなると、もう、このレベルは超えている。時代に合った喜劇はつくづく難しいものだと思う。
今回よかったのはホリゾントのマッピングで、こういう技術の発展も芝居を変える。
我が友 ドラキュラ
劇団NLT
劇場MOMO(東京都)
2021/02/03 (水) ~ 2021/02/07 (日)公演終了
満足度★★★★
喜劇では既存のキャラクターの使い方が難しい。登場させるのは簡単だし、著名なキャラクターだと下手な説明をしなくて済む。便利だが、知られているキャラに振り回されるという事にもなる。
ドラキュラと言うと、森の奥の古城に生きる不死の生命、処女の生き血を吸う、殺すには心臓を杭打ちしなければならない、などなどのキャラクターが知られている。架空の悪役キャラクターでは、ルパンに並ぶ人気者である。
今回の作品では、不死に飽きて早く死にたいと悩むドラキュラをめぐる話で、そこはあまり新味はないが、二幕では、そのために芝居を組むというところが新しい工夫である。しかし、その新しい部分がこなれていなくて、人物も、話も、笑いも渋滞する。新人賞と言うが、作者は既に上演作品もあって、一幕などは手慣れた感じがするが、そこからうまく広げていくところがスムースに進まない。役者も、川端慎二はドラキュラ役を楽しそうにやっているが、ほかの役には役者がなじんでいない。そこが舞台では浮いてしまう。
喜劇は難しいもので、喜劇が旗印のNLTやテアトルエコーはまず本で苦労している。どちらの劇団も喜劇の新人脚本賞を出しているところからもそれはうかがえる。劇としての喜劇は演出、俳優に負うところも大きくすぐれた作品を創り上げるのは時間もかかる。わが国には、三谷、ケラ、宮藤と言う優れた喜劇作家がいるが後続は心細い。いい作品を待望している