実演鑑賞
満足度★★★★
岩松了の芝居では、よく変なことが起きる。観客にとってわけの解らないこと、と言ってもいだろうか。それも突然。
それは作者が舞台の上に起きることに、ある視角をつけているからで、普通は満遍なく観客に説明していくところを隠してしまう。だから、ある俳優が(経歴が隠されているために)突然観客に理解できない言動をしたり、とんでもないところから(セットが隠されているために)あらわれたり、ストーリーが飛躍したりする。劇中人物にとっては当然のことだが、見る方はそのたびにおやっ?となる。
その一部隠しの作劇術は三十余年前の初期のご近所三部作や竹中直人の会から冴えていて作者お手のものだ。岩松流不条理劇の核心だが、今回はミステリである。もともと、隠すことで読者を翻弄するのが本領のミステリではどうなるのか。
設定は平易なもので、人里離れた飯場に、かつては同級生だった若い男二人(勝地涼 仲野太賀)がやとわれている。舞台はその飯場宿舎の一杯。先輩(光石研)やさきにここで働いていた兄を探しにやってきた男(新名基浩)に教えられながらの職場だ。しかしその職場で行われている事業がよくわからない、山中にある療養所なのだが、そこで何が行われているか先輩をはじめ、皆言うことが少しづつ違う。経営者の身内らしい本部の人(岩松了)に聞いても判然としない。
死亡した人を蘇生させる、事業だとも聞かされ、兄を求めてやってきた男は、兄がその実験材料になっているのではと疑っている。先輩もその噂は否定しない。次第に疑惑が濃くなっていく…、という展開を、登場人物のキャラクターや小さな日常的な身近なエピソードを混ぜながら膨らませていく。二時間、三度の暗転だけで、かなり速いスピードで休憩なしで畳み込んでいく。俳優は全員よく頑張ってセリフをこなしている。岩松了。この作品を台本だけ渡されて処理できる演出者は…ちょっと思い浮かばない。やはり、作・演出、それに出演もやって終始舞台を完結させたお点前お見事ではあった。だが、latticeさんの「見てきた」ではないがこのお流儀になれていないとつらいことも事実だろう。終演後の通路では「どーなってんの?}という声も聞かれたが、それでも九分の入り。かつて、東京乾電池は岩松作品を上演することで固定客が大幅に減ったがめげなかった。今はもっと楽に勝負できている。
ここから先はネタバレで書くが、これはミステリのパロディがテーマという芝居でもない。コロナ禍が生んだ、現代の情報社会への痛烈なパロディでもあるし、常に不条理が伴う現代の社会劇でもある。