九十九龍城
ヨーロッパ企画
本多劇場(東京都)
2022/01/07 (金) ~ 2022/01/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
二年ぶりのヨーロッパ企画東京公演・何だかファン気質で「待ってました!」となる劇団である。
舞台いっぱいに凝りに凝った舞台が組まれているのはいつもの通り。いかさま商品の製造所、やくざの本拠のマージャン部屋、インチキ肉屋、売春ショー、貧民向けの宿と香港の名高いスラム九十九龍城が三階建てでぎっちり組まれていて、いかがわしさ二百%の人物たちが右往左往している。そこへ香港警察の二人がおっとり刀で乗り込んでくる。
物語の進行はいかにものヨーロッパ企画なのだが、仕掛けとしてコンピューター社会が組み込んであって、芝居だから許せる笑いとバランスをとって物語の中で回収していく。二人の刑事の登場が遅いのも、なんだかおかしな展開があるのも、普段のパソコンとの付き合いで出会うトラブルで説明されていくのだ。その辺の塩梅が実にうまい。
以前はあまり見なかった劇団の俳優たちも東京の劇団からのお呼びも多いらしく、かなりなじみが深くなった。
ヨーロッパ企画は二十年を超えて独特のカラーの劇団を続け、本多劇場で22公演、芝居の面白さで東西に固定客を持ち、多くの俳優を輩出し、小劇場劇団の経営に道を拓いた。大したものである。今日の本多劇場も満席だった。
ミネオラ・ツインズ【1月25日~28日公演中止】
シス・カンパニー
スパイラルホール(東京都)
2022/01/07 (金) ~ 2022/01/31 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ニューヨーク郊外のミネオラ生まれの双子の女児・マーナとマーラ(大原櫻子・二役)が1950年代から二十世紀後半に辿るアメリカの歳月を女性の視点から描いた世紀末アメリカ演劇の代表作と言う。初めて見る作者だ。双子の女児の相手役の男〈50年代〉女性(90年代)を小泉今日子(二役)、二人の子供を(八嶋智人・二役)が演じる。「6幕のシーン、4場の夢の場、さらに最低6個の鬘を使ったコメディ」と副題が振ってあって、上演は、アメリカでの公演の形式を踏襲しているようだ。
ホールの中央に横長の舞台を置き両側に客席。裸舞台の上は若干の椅子と長方形の棺桶型の移動可能な箱があって、それを二人の黒子の男が移動させながら舞台は進む。演出の藤田俊太郎がよく使う移動舞台の形である。客席は約三百。
社会の中で女性が変革を遂げていく一種の年代記で、二十世紀後半の保守政権の色彩が濃いアイゼンハワー、ニクソン、ブッシュの三つの時代が「シーン」で描かれる。主人公の双子は十代、三十代、五十代である。それぞれの時代の女性の在り方が「いい」とされたマーラ、「悪い」とされたマイラを大原櫻子が二役で演じる。その鏡となる社会の人物を男女とりまぜ、小泉今日子が演じる。二人の子供(実子と養子)を八嶋智人。コメディと言うが風刺劇的な面白さを狙っているので舞台の上の事件も、いい子も悪い子も極端で右か左か、その相手となる方は振り回される。しかしそれでも時代は進んでいき、双子は歳を重ねていく。
俳優ではあまり舞台を観たことのない大原櫻子が両極端の二役を衣装、鬘を早変わりで快演。男、女、さらにレズビアンの相手役と、性を縦断する小泉今日子、14歳の男の子をブレずに演じた八嶋智人が抑えになって、コント集を超えた90分の舞台になっている。
前世紀の間に女性と社会の関係が、生活倫理も社会における地位も大きく変わったのはアメリカだけでなく、世界どこでもある程度は共通することなので、そこはよくわかる。しかし芝居としての面白さとなると、多分、アメリカで暮らした人でないとよく味わえないのではないか。「ミネオラ」というだけで、NY郊外の空気がつかめるなら、この芝居おおいに楽しめ笑えるに違いない。その点では、これは全くアメリカの地域演劇である。今年早々に見た俳優座のアメリカの芝居「カミノヒダリテ」が、これまた一人の俳優が二つの相反するキャラクターを演じる芝居だったので、アメリカの人たちも、自分たちの中にある「分断」をもう笑ってしまうしかないところまで来ているのではないかと思ってしまう。しかしそれは、また我が国の近未来図なのかもしれない。
hana-1970、コザが燃えた日-【1月21日~1月23日、2月10日~11日公演中止】
ホリプロ
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2022/01/09 (日) ~ 2022/01/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
敗戦後、アメリカ統治下におかれていた沖縄は1972年日本に返還される。その二年前、1970年に米軍基地のあるコザで反米デモが暴動に発展した事件があった。今につながる日米関係の問題点が噴出したようなその暴動の一夜の数時間を描いた一幕、二時間足らずの作品である。最近トラッシュマスターズ以外見なくなった正面から政治的な事件を素材にした社会派問題劇ではあるが、この事件のころまではしきりに上演されていた左翼系の昭和社会派劇とはかなり趣きが違う。論点の多い上演だが、そのいくつか。
まずは芝居としてどうか。
作者が青森在住の畑澤聖吾、演出が大御所の栗山民也、製作がなんと!ホリプロという異色の組み合わせ。バランスのとりにくい座組だが、ここは、劇場が少し大きすぎたのではないか、と言う以外は、よくまとまった一幕ものになった。
正面に大きく窓を造った舞台は、窓の外の光と煙で暴動の推移が背景としてよくわかるという利点がある。タイトルのhanaはその窓がある二階のバーである。
物語は、バーに集まった沖縄にそれぞれの思いのある登場人物たちが織り成していく。戦争の場にもなり占領という特別の経験をした「地元民」の体験や思いは、本土から来たルポライターや、脱走米兵などを使って上滑りしないように組み込まれている。主人公はこのバーの女主人(余貴美子)で、戦時中の孤児だった男の子二人(松山ケンイチと岡山天音)を育て、一方がぐれて沖縄やくざ一方は教師、という設定だ。大技は女主人公が失った女児が沖縄の霊として登場させている(上原千果)ことで、これが女主人公にしか見えない。
もともと芝居つくりには長けている畑澤の本は、この設定と登場人物を使って、本土と沖縄に生きる人の間の生活に根ざす微妙な行き違いを細かく掬いとっている。そこに今につながる「オキナワ」の問題点もしっかりと提示している。俳優たちは健闘で、ことに余は久しぶりの主演だろうが、松山ケンイチ同様、抑制が効いていてなかなか良かった。演出はベテランだからこの広い舞台で俳優たちをうまく動かし、本の細かい仕掛けを生かして、声高な反戦ドラマにしないで最後まで持っていったのはさすがだった。沖縄方言は全くついていけなかった経験があるが、このドラマではいいバランスでセリフになっている。こういうところで「うまさ」が出てくる。「沖縄」を素材にして歴史事件劇を超えて現代の人間劇になっている。
芝居の周囲。
コロナ禍の中で沖縄の新株の拡散が話題になっている。ここでも、この劇が指摘する沖縄問題はまだ続いている。本土との関係だけでなく、海に囲まれたこの国でも国境問題は生活問題として厳しく実在することを改めて感じた。時宜を得た切実な社会問題に広く触れているところがいい。
ホリプロが突然、このような芝居を大劇場で打ったのはなぜだろう。ロビーではメアリーポピンスをはじめ英米ミュージカルのポスターが林立している、違和感は否めない。入りは一階で七分と言う感じで、よくはない。しかし、演劇の狙いとしては座組も成果も成功している。現在、ストレートプレイを軸とする大きな劇団で、この規模の企画を成立させることができるのは新感線、四季、プロダクションではSIS,興行会社では東宝に松竹位で、どこもこの企画だと二の足を踏む。それは経済を考えれば当然だが、そこへホリプロが入ってくれば大きな劇場のジャニーズ頼みの企画にも少しは新しい展開が望めるかもしれない。
だからビリーは東京で
モダンスイマーズ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2022/01/08 (土) ~ 2022/01/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ウエルメイドな小劇場作品だ。蓬莱竜太の青春ものも、歳を重ねて成熟してきたというか。
皆違う方向を向いていながら、惰性で続いている小劇団が舞台である。
幼いころから姉妹のようにつき合いながら反目している二人の女優、韓国人の恋人とうまくいかない女優、アルバイトしながら演劇を命と信じている男優、座付きの作・演出は独自の世界に固執している。そんな劇団に何にも知らない若者が、貰ったチケットで見た「ビリーエリオット」に感激して俳優になろうと面接にやってくるところが幕開きだ。
劇団の青春と言うのは、時代が変わっても変わらないのだろう。六十年前ともちっとも変っていない。しかし、ここで描かれるエピソードは現実と密着していて、若さをたてにケンカに性にと騒ぐだけの劇団や社会派の劇団よりもはるかにリアリティがある。そこに蓬莱竜太の冷静な劇作家の眼がある。
劇作家(津村知与支)が事ごとに花びらを振りかけるウエイトレスと客と言うシーンに固執するとか、看板俳優(古井憲太郎)がコロナカ゚でアルバイトのつもりの家庭教師が大盛況で劇団を辞めてしまう、とかご近所で子供のころから張り合ってきた女優二人(伊藤佐保、成田安祐美)とか、韓国人の恋人と湯豆腐がもとで仲たがいの挙句なんとなく主人公の何も知らないで青年(名村辰)と寝てしまう女優(生越千晴)とか、類型的な役回りなのにきちんと造形されていて、見ているうちに「いま」の風が吹いてくる。舞台は短い駒を並べていくようなテンポのいい構成で、面白い。
この作者と劇団を始めて見たのはもう二十年以上昔の「デンキ島」で、日本の果ての青春が、一つの時代に共通する青春を鮮やかに切り取っていた、懐かしい。デンキ島の青年たちはいまはビリーを目指して、東京にいるんだ。そういう青春の流れも感じる捨てがたい小品であった。
蛇足だが、この公演23公演もある。しかも三千円、上演時間は一時間45分。行って見ると流し込みの自由席である。無料の配役表もある。今どき、五千円を超える小劇場も少なくないがそれに見合う満足感を得られる舞台は極めて少ない。その中で、モダンスイマーズは、人気者を客演に呼ぶでもなく自力でこの値段で満席だった。そいう経営にも拍手。
カミノヒダリテ
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2022/01/07 (金) ~ 2022/01/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
アメリカの新作の翻訳上演だ。2017年の初演だが、ブロードウエイには出ていないらしい。小劇場向けの構えでもある。アマチュア演劇向けかもしれない。80分。
仕掛けはちょっと面白い。テキサスの教会の信者向けのイベントで、人形劇を上演するいきさつがドラマの枠取りになっている。人形劇を上演するのは、教区の中で、夫を失って失意の寡婦の母(福原まゆみ)子(森山智寛)とその子の友人(小泉将臣)とガールフレンド(後藤佑里奈)。牧師(渡辺聡)を加えて、登場人物5人で舞台は進む。左手にはめたグローブ上の顔を右手の棒で人形を操作する。
仕掛けとしてはこの人形にもキャラクターが与えてあって、それは人間の中の対立する価値観、倫理の一報を与えられている。つまり、善悪、正邪に始まって、人が右と言えば左、と言うような対立軸の一方で、之で人間バランスが取れているのだと、最初に幕前で前説がある。
人形劇稽古の間に進む登場人物たちのドラマは、今やアメリカのドラマでは珍しくもなくなった家族崩壊劇で、ほとほと、アメリカの人たちはこういうドラマが好きなんだなぁと思う。宗教もうまく使っていて、アメリカ社会には身近な風景でもあるのだろう。
芝居の中身はさしたることはないのだが、俳優座の俳優の層の厚さには改めて感心した。
右手で、人形を操作しながら、人形と本人の声、それも劇用と本人があるのだからほとんど出ずっぱりの思春期の男の子を演じる森山智寛は、もう大変!と言うところなのだが、全く破綻もなくこなしてしまう。母親の福原まゆみは、生活が世間並みにこなせない不器用な女をうまく演じていて新しい個性の発見になっている。他の三人はほかの舞台でもよく見るベテランで、彼らもソツガない。
訳・演出は田中壮太郎。こちらも役者も演出もこなすそつのない才人なのだろうが俳優座を背負うにはもう一つ骨格が細い感じがする。翻訳ではところどころ、忘れたように英語のままのところがる。無理にでも訳してしまわなければ。そこが「訳者」の務めでもある。役者なら仲代達矢、演出なら千田是也、の俳優座ではないか.(骨太は沢山いるが、例を挙げれば)。正月早々の稽古場公演は、介護者付きの三人の超老人観客を含め、満席だった。
vitalsigns
パラドックス定数
サンモールスタジオ(東京都)
2021/12/17 (金) ~ 2021/12/28 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
野木萌葱、奇想天外の調子が戻ってきた。
深海救急艦が深海で遭難した潜水艇の救援に向かう。その艦内の一杯セット。王冠を伏せたようなちゃちな艦内セットの、中央に遭難艇との接続ハッチがある。艦長(西原誠吾)と操縦士(神農直隆)の二人組が、深海400メートルから800メートルへと救急に向かうところで幕が上がる。
遭難した潜水艇には三名の生存者がいる模様だが、救急艦の二人はなにかおかしい・・・・と疑惑を持ちながら遭難艇に近ずいていく。とにかく出だしはうまい野木節で客を掴んでしまう。
そこから二時間足らず、観客は、深海冒険談につき合うわけだが、ま、お話は超SF級。冒頭のサスペンス溢れる深海潜水譚はやがて、後半はエエッツという展開になるのだが、そこは面白ければいいので、議論の可否については目くじらを立てることはあるまい。変に現実に寄せていないところが却って良い。こういう風に話を飛ばせるだけで作者の劇的才能はよくわかる。全く何もわかっていない新国に目をつけられてひどい目にあい、ここ数年才の発揮を見るところがなかったが、今回は自分の劇団に戻ってのびやかにかつての良さをとりもどしている。小さい小屋だが満席。
新宿のはずれの地下の小劇場で、こういう小洒落た芝居に出会うと、芝居見物の面白さを堪能した気分になる。
俳優は救急艦の二人は小劇場の名優たちだが、救われる方の三名もそれぞれにうまく個性を出している。
彼女を笑う人がいても
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2021/12/04 (土) ~ 2021/12/18 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
樺美智子か!!
同世代に生きて、その後も生き延び、今も生きるものにとってはいわく言い難い存在。それがこのドラマのヒロイン・彼女(木下晴香)だ。その言い難い個人の言説を言えば際限がなくなる。見たものに絞る。
ようやくこのヒロインを舞台に上げられるようになった。大逆事件から「美しきものの伝説」まで約六十年。こちらもちょうど六十年。直接向き合うには、そういう年月が必要な「事実に基ずく」素材である。
舞台は60年安保の国会抗議デモで亡くなった樺美智子を取材していた記者と、東北震災を取材していたその記者の孫にあたる記者(瀬戸康史・二役)の長い年月の複眼の視点から二つの事件が描かれる。一つは政治、一つは天災だから、作者が「事件」を描こうとしているのではないことは察しられる。事実、舞台では時代の流れを大きく変える事件をマスメディアがどう取り上げ、どう報じたか、という事がドラマチックに描かれる。大きな産業組織の中のメディアと、そこで生活を立てていく記者個人、具体的には、経営側の主幹(大鷹明良)と記者の対立、合理化と配転される記者、それがデモ全体の主張と個人、という構図にも重なってくる。テーマはメディアが報じる大きな事件とその中の小さな個人という事に絞られているようにも見えるが、それは、もちろん、この舞台を作った人たちのトリックだろう。
そのメディアに関するテーマは、内容的には既に言われていることも多く、少し辛く言えば記者がタクシー運転手になっていたり、企業記事に配転されたりというストーリーは平板でもある。
やはりこの劇の軸は樺美智子を陰の主役に据えたことだろう。そのドラマについては一時間45分の舞台の中でもあまり触れられていない。しかし、このドラマに描かれた60年安保も東北大震災の事後処理も、日本社会の病癖に深くかかわっていて(もちろん大逆事件も)演劇のみならず、われわれが常に考えなければならないことである。その第一歩として、このドラマはあまり一方的な情報に左右されず、しかし主張を持った素材をうまくアレンジしている。それがかなり難しいことだというのも、同時代人としてはよくわかる。
数年前、気鋭の劇作家・古川健が「60sエレジー」という作品を書いた。あまり評判にならなかったが、60年安保と集団就職を絡ませた優れた舞台だった(この作品でも、警官隊は農民の出稼ぎ、樺は東京市民と一言触れているが)。
これからも、この素材は扱われ続けると思うが、一言言えば、このタイトル「彼女を笑う人がいても」は、考えすぎだろう。同時代人の一人である者にはまったく馴染めない。正直言えば嫌な感じだ。しかし、歳の流れというのはそういうものでもあろう。
Hello ~ハロルド・ピンター作品6選~
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2021/12/03 (金) ~ 2021/12/15 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ピンターの作品は掴みにくい。ノーベル賞作家だし、何しろ演劇王国イギリスの代表的作家である。日本でも何度か翻訳上演された「バースディ・パーテイ」や「ダム・ウエイター」のような、評判も悪くなかった舞台も、正直に言えば、滅多に作品に出会わない観客にとっては、どこか腑に落ちないところがあり、その原因を探しても、スルリと逃げてしまう作家なのだ。
不条理劇のようでもあり、リアリズム演劇のようでもある。芸術至上かと思えば政治的、時には超日常的。今までの演劇のジャンルの枠では推し量れない二十世紀の過渡期の二重性を身にまとった劇作家なのだ。今回の文学座アトリエ公演はそのピンターの短編を6作上演する。いずれも翻訳は出版されているが、読んでもどうせよくわからない、手っ取り早く見てしまえと今冬最も寒いと言う日にアトリエへ出かけた。初見である。昼公演で老若男女取り混ぜ9分の入り。
舞台は柱だけで建てられていて、上下に椅子四客が向かい合っておけるほどの部屋風のスペース、中央に吹き抜けの空間がある。男女8名の俳優は袖から部屋に登場し、そこから椅子をもって中央に出て位置を占める。モノローグと言ってもいいような台詞で舞台は進む。短編六作は,このような一つのタイトルのもとでの上演を想定して書かれたものではなさそうで、二作、三作、一作が10分の休憩を入れて演じられる、計2時間45分。
タクシーの指令室とそれを受ける運転手の二人芝居の「ヴィクトリア駅」や、同じく二人の「丁度それだけ」は、時間もその場だけで解りやすいが、全員が登場する冒頭の「家族の声」や最後の「灰から灰へ」は、物語の背景も、筋立て見えにくく、もどかしい。
ではつまらないかというと、これが結構、筋や演技はよく呑み込めないのに、面白いのだ。
短編ならではの短い瞬間を切り取った作品もあるが、長い物語が背景にある作品でも、演じられる舞台の上は緊迫感があったり、笑えたりする。テーマは、家族関係だったり言語差別だったりするが、一面的でなくそれぞれの戯曲の多面性がよく表現出来ている。文学座でも初めて見る演出家だが、さまざまな物語形式の本を、演出と俳優があーでもない、こーでもない、とやりあった挙句一つの様式的な舞台にまとめたという感じで、やっている人たちはさぞ面白かったと思う。それが一つの物語のテーマに収斂していかないところや、解釈を俳優の自由に任せているらしいところも、人間がすれ違う多様性のある現代のリアリズムにつながっているのかとも思う。
俳優は、文学座らしく手堅いが中でも新人の上小路啓志が新鮮でよかった。音楽の選曲もうまい。
さすがノーベル賞作家の戯曲ではあるが、やはり、もう少し、見方のガイドは欲しかった。この公演は、戯曲に対する一つの回答で、戯曲も読んでみようかという気にはなる舞台ではあった。
シャンソマニアII~葵~
花組芝居
あうるすぽっと(東京都)
2021/11/26 (金) ~ 2021/12/05 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
日本の古典を素材に舞台を作ってきた花組芝居の新作は、シャンソンの名曲に乗せて、源氏物語を舞台に乗せるという趣向である。十数年前に桐壷の部分をやったことがあるという。
今回はタイトルにあるように主に葵上が出てくる源氏物語の初めの名場面が次々に、歌に乗せて舞台で演じられる。花組芝居独特のステージで、ノーセットの舞台の奥には三人のコンボの楽団。その前で、羽織袴で統一された衣装の十五名ほどの俳優による踊りと歌が繰り広げられる。歌はいずれも、昭和のころには流行った懐かしいシャンソンの名曲ばかりで、歌詞は物語に合わせて加納幸和が書いたものだろう。単独唱もあれば、掛け合いになっているものもある。
花組芝居はこういうアレンジはうまいもので、以前「義経千本櫻」名場面をほぼ3時間ほどにまとめて見せてくれたことがある。なかなかの名脚色でこの手でかなり取っ散らかっている源氏物語の名場面集も出来そうだが、歌舞伎や舞踊の名作と違って、今回は同じ古典でも散文である。ずいぶん古典の和歌や本文を取り入れているが、すんなりと観客の腑に落ちない。そこを補うのがシャンソンの情緒性、物語性で、という企画意図はわかるのだが、それなら、歌が今少しうまくなくては。(劇場が大きすぎるのか?)
踊りは一斉に動かす振付の方針が決まっていて、バックダンサーの役割を果たすが、個々の役の俳優が個人で歌うシャンソンになると、かなり苦しい。ことに若い俳優陣はもともとシャンソン経験が乏しいからシャンソンの味をどうして出すか解らない有様で、前半六条御息所が出てくるあたりまで舞台が落ち着かず、バタつく。後半になるとベテラン俳優が軸になってそれなりに纏まってくるが、そこへ行くまでに歌で見物う掴まなくては企画が活きない。1時間50分。
かつて「ショーガール」というアメリカのポピュラー曲で話をまとめる二人芝居のショーが大ヒットしたから、シャンソンでも出来ない筈はない。筋も歌も借り物で異文化の混合だが、そのいかがわしさが何か新しい現代的な興行モノになるかもしれない。しかし、まずは歌だ。
シアトルのフクシマ・サケ(仮)
燐光群
座・高円寺1(東京都)
2021/11/19 (金) ~ 2021/11/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
坂手洋二の舞台は、あまり知られない事実に基づいて書かれていることが多いが、今回は、はじめからフィクションだと断ってある。
先の東北地震災害で、生産拠点である酒蔵を流された地元の醸造業者が再生に向かって進むストーリーだ。その再生の方途として海外での日本酒の醸造を探る。劇中、その可否について、そこは今までの坂手の舞台と同じく、さまざまな情報が描かれている。
醸造という産業では測れない多くの歴史的、地域的問題もあって、問題点はうなずけるが、実際に当面する問題と、ドラマで見る葛藤とではずいぶん違う。突然の災害に出会った地域に住む人たちにとっては共通の問題だろうが、それが言わばローカルで止まるのが作者にとってはもどかしいものだったようだ。今回は従業員も数名という酒蔵を世界的な広がりの中に出してみる、という意図はわかるが、それなら、このおなじみのドキュメンタリー証言形式がよかったかどうか疑問が残る。もっと思い切ってフィクションに寄った方が、もともと劇的構成については長けている作者だけにパンチがあったのではないか。
イモンドの勝負
キューブ
本多劇場(東京都)
2021/11/20 (土) ~ 2021/12/12 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
時代の先端を行くナンセンスで不条理(absurd)な唯一無二の舞台。ケラリーノ・サンドロヴィッチが日本演劇に独自の世界を開いて見せて30年を超える。
戯曲作家としてだけではない。その舞台表現のために意中の俳優を集めたナイロン100℃を率いて座頭としてのリーダーシップ。正直に言って、「フローズン・ビーチ」のころまでは、真価がよくわかっていなかった。ほかにないというが、別役実があるじゃないか、日本の喜劇にはナンセンスの伝統があるじゃないか、だが、そんなことを言っているうちにケラは小さな演劇社会の俗論を振り返りもせず、さまざまな演劇の世界に自らのナンセンスを持ち込み、検証し(岸田國士からカフカ、オールビーまで)、ケラならではの世界を創り上げたのだ。この三十年、ケラが作った作品と、その出演者たちの演劇経験は、教条主義が主流だった日本の演劇の地殻変動を深いところで促してきた。
最近の例をあげれば、阿佐スパの「老いと建築」の村岡希美、長塚圭史にその影響を濃く見ることができる。すごいとしか言いようがない。
そのナイロン100℃の47回目の公演。出発の原点に戻って、ナンセンスを描くという「イモンドの勝負」は本年掉尾を飾る秀作だった。
この舞台、ストーリーは、もちろんある。しかし、ストーリーの役割は普通の演劇作品と違って、多義的で漠然としている。不幸な家族環境から、孤児院(院長・犬山イヌコ)で育ったスズキタモツ(大倉孝二)が選ばれてスポーツの世界選手権に参加する、というのがメインの筋立てだが、タモツの不幸な肉親関係の葛藤とか、探偵が政府高官に依頼されて四つの謎を探るとか、それぞれに結構波乱万丈の脇筋のストーリーが組まれていて、それが複合的にナンセンスな笑いとともに展開する。タイトルの「イモンド」というのも結局なんだかよくわからない。(戯曲で調べて見ればどこかで言っているのかもしれないが、そんなことはどうでもよく客が勝手に想像して、誤解すればいいのである)
舞台では様々なナンセンスな警句が次々に放たれ、笑っているうちに忘れてしまうが、私が気に入ったのは「ミステリの犯人は必ずしも登場人物である必要はない」、ミステリにとっても演劇にとっても、チョー不条理でナンセンスなテーゼである。通りがかりの町の人がみな尾行していることを知っている探偵(山内圭哉)が、犯人を尾行する、とか、話としてはクライマックスになる世界選手権の競技がじゃんけんで、タモツはどこまでも勝ち続け,相手は後出しをしても勝てない。万人熱狂の勝ち負けを笑い飛ばす。一方では「生きていて仕方のない人なんか、二割くらいしかいませんよ」と平然と言ってのける。
出演者は長年のナイロン100°Cnのメンバーに、赤堀雅秋、山内圭哉 池谷のぶえの客演。客演と言ってもこの劇団とは共演も多かった俳優たちだから今回はすっかりケラの世界になじんでいる。
ケラの舞台が時代を超えても古びない要因に、前世紀の後半から、大衆の支持をえて、表現文化の底流を形創るようになった音楽、映像表現を巧みに舞台に取り入れていることがある。もともとミュージシャンだったから、音楽のカンがよく、映像も、上田大樹という個性的でケラと合う作家と組む。今回もそこも鮮やかに決まっている。連鎖劇のようなタイトル映像が出てきただけで観客は嬉しいのだ。変な被り物の動物も、出てきただけで可笑しいが、なんだかわからない。これで、一幕1時間45分。15分の休憩をはさんで二幕1時間20分。3時間20分がダレない。ひょっとすると、これ以上はないかも、と思わせる充実した公演だった。
ケラも作品数の多い作家だから、井上ひさしと同じですべてが成功とは言えない。だが、後年(それがはるか先の時代であっても)ケラを再発掘しようとすれば、必ず「イモンドの勝負」は再演の候補になるだろう。この作品にはケラのナンセンスが集約されている。
ガラクタ
TRASHMASTERS
駅前劇場(東京都)
2021/11/19 (金) ~ 2021/11/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
北海道の漁村の核廃棄物廃棄場受け入れの可否をめぐる政治劇だ。
いずれ、国としては必要なものだから調査だけは受け入れて交付金を受け取ろうという町長(森下庸之)指導の受け入れ派と、放射性物質反対の反対派(星野卓誠)が対立して、小さな二千八百人の町が分断する。現実にある話だから、描写は一方的、教条的ではないが、やはりドラマとしては浅い。ことに村出身の記者(岩井七世)が出てくると、その設定も甘く、キャンペーン風になってしまう。
簡単に言えば、長い時間に耐える正義・正論か、目先の金か、という議論になるが、それは、原子力のような科学に基づくものでなくとも、歴史の中では幾つも起きてきた。どこでも見られたことでは廃藩置県にはじまり、鉄道駅の設置。教育機関の設立。などの是非で全国的に見られた地域内対立で、その時に起きた議論とあまり進んでいない。どちらの側も、それぞれを正当化する大きな思想というか、モラルが見つかっていないので、どうしても現実の生活レベルで落としどころを見つけることになる。どちらの側も根本には過疎地の貧窮化があるのだが、促進派は将来の繁栄期待、反対派は技術進歩による無効化で、どちらも、実はどうなるかわからないところで戦っている。これも昔とあまり変わっていない。時間に対する確固たる信念に乏しく、また社会に対する構想力が浅い国柄が反映する。ドラマの中の議論も上滑りするし、登場人物の、それぞれの事情も類型的になるし、演技も引きずられてしまう。
作者もそのあたりはよくわかっているようだから、新鮮な視角で見せてほしいものだ。
「背水の孤島」のような素材はそれほどあるわけではないが、観客はあの作品の衝撃を忘れていない。
鴎外の怪談【12/16、12/19、12/25公演中止(12/19は1/30に延期公演決定)】
ニ兎社
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2021/11/12 (金) ~ 2021/12/05 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
森鴎外(松尾貴史)をめぐる明治綺譚だ。明治最後の時期、明治43年(1910年)の冬から翌春まで。鴎外は、軍医総監に出世し、文豪の名声も上がっている。若いころからの友人の弁護士平出(淵野右登)や三田文学に推薦した永井荷風(見方良介)などに囲まれ栄達の日々を送っているように見えるが、家では二度目の妻 しげ(瀬戸さおり)と実母(木野花)の嫁姑戦争のただなか。三人目の子どもも生まれようとしている。紀州からきている女中(木下愛華)は文学女中。
いかにもの、明治もの風情だが、ちゃんと今につながるテーマがあり、そして何よりも面白く組んである芝居なのだ。
舞台は鴎外の観潮楼の書斎。幸徳秋水の大逆事件がいよいよ結審を迎えようとしている。今春には、チョコレートケーキの古川健「1911」という大逆事件を素材に開いたすぐれた舞台があったが、こちらは、同じ事件をまた別の視点から見ている。
陸軍部内でも出世を遂げた鴎外は元老の山縣有朋にも直接意見を言える会議にも出席できる。大逆事件についても、でっち上げと分かっていても、天皇制専制国家を守るためには事件化するのはやむをえないのではないか、とも思う、いずれ医者の立場では、という逡巡もある。そいう言うジレンマにある鴎外を作者は家庭の中にある若いころには女でしくじった一人の中年男性、との立場とダブらせて巧みに話を進める。
もちろん歴史考証はされているだろうけど、鴎外が持ち込んだ洋書で西洋の自然主義を周囲は感化されていて、妻のしげが鴎外の「半日」に対抗して「一日」という小説を書いていた、とか、荷風がここで戯作者として生きる決心をする、とか、女中が大逆事件に連座する紀州の医者の元患者で同じく連座する紀州の西洋食堂で知ったデミグラスの味に鴎外が感心する、とか、この作者らしい愉快なエピソードをたくみに芝居に組みこんでいる。
戦後、いくつかの時代の節目に「大逆事件」が演劇で取り上げられるのは、そこに極めて日本的なさまざまな問題が隠れているからで、政治史、社会史的なアプローチを超えて、演劇にも幾つもの秀作がある。その中で、この作品は事件から少し遠いところにいた一人のインテリゲンチュアの姿を描いた秀作である。そのタッチがこの作者らしい時代との距離の取り方にも表れていて、しばらく、「事件モノ」で過ごしてきた作者の復調がうかがえる。
少し内容のことを書きすぎたが、この舞台、俳優のキャスティング、絶妙である。初演〈2016〉からすっかり顔ぶれを入れ替えたというが、それが成功して、リアルとカリカチュアの微妙な間合いが取れている。松尾、池田の軸になる二人はもとより、瀬戸さゆり、木野花の嫁姑、もいい。べたつきやすいところを今風に軽く深く演じている。モデルが実在するのでやりにくかった若い助演陣(見方良介 淵野右登 木下愛華)も事実に余りとらわれず、しかも観客が納得できる。今年の演劇賞でどこを上げられても素直に喜べる出来である。
アルトゥロ・ウイの興隆【1月13日~14日公演中止】
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2021/11/14 (日) ~ 2021/12/03 (金)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
白井晃はKAATの芸術監督を務めている間にブレヒトの代表作を次々に取り上げた。これは最後の作品で、主役・草彅剛の人気と相まってもっとも当たった。現代的な無機的な抽象性を前面に出して展開する白井の舞台の特色がよく出た作品で、二年ぶりの再演だ。地方を含めほぼ2月に及ぶ長期公演だが、既にチケットはほとんど売れている。見た回も完売。
シカゴのやくざ者のウイが卑劣な手段を尽くし、仲間を裏切り,専制者に成り上がっていくブレヒト劇は、今回は一段とショーアップされている。
舞台上段の松尾諭に率いられたオーサカ・モノレールが演奏する主にジェームスブラウンの扇情的な迫力のあるサウンドで終始舞台は進行する。ウイを演じる草彅剛が踊り、歌など全身の表現で舞台を支配する。赤と黒でまとめた尖った舞台美術と衣装で有無を言わせない力量感が舞台から押し寄せてくる。
確かに、ブレヒトの舞台らしく、エピソードは字幕をつないで見せていくが、舞台から与えられるのは圧倒的なショーの力で、しかも、完成度も高い。80分づつの二幕に休憩が20分。見る方もくたびれるが、実によく出来ているのだ。キャスト、スタッフ、いう事なしの出来なのだが、それに反して、一観客としては、これは意外にもブレヒトの意図とはかなり遠い所へ来てしまったという印象はぬぐえない。パンフレットを読むと、白井はこれは現在の日本の政治状況に対する問題提起だと言っているから、ブレヒトの意図を曲げているとは思はないが、現実にはどうだろうか。
草彅剛のようなタレントイメージの固定している俳優を使う危険性は、そこに潜んでいるように思う。彼の熱演はおおいに評価できるし、いわゆる「いい人」イメージの俳優を使うというのはなかなかいいキャスティングとは思うが、時にウイが舞台から観客に同調を求めると、多くの観客は草薙に乗ってしまう。ブレヒトのいうように舞台を客観的、批評的に見るなどという事は観客には難しくなってしまう。俳優の生の力が80年前に書かれた戯曲を踏み越えてしまうのだ。それも、演劇の役割を果たすことになると、白井は言うが、それは危うい、と戦前生まれの筆者は思うのだ。
これは演劇と政治という問題に繋がっていって、簡単に言えないが、演劇の批評性、などという事は、戦後の時期にしきりに俳優座がブレヒトを取り上げていた時代とは環境が大きく変わってしまっていることをまざまざと感じることになった。
パ・ラパパンパン
Bunkamura / 大人計画
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2021/11/03 (水) ~ 2021/11/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
コロナに翻弄された一年の終わりを笑いと祈りで締めくくる祝祭劇だ。休憩を入れて、3時間10分。夜の劇場を出ると、町は戸惑いながらもクリスマスを迎えようとしている。その街をパ・ラパパンパンと口ずさみながら家路につける音楽劇である。
こういう観客の心を和ませ癒す舞台は極めて少ない。この劇場はかつて串田和美が芸術監督だった。オンシアター自由劇場を率いて、わが国で初めてのエンタティメントの音楽劇の道を拓いた。その伝統を、同じ小劇場でも、全く違う背景から出てきた松尾スズキが受け継いでいる。本人は意識していないかもしれない。しかし、劇場がその記憶を受け継いでいる。日本の劇場文化の成熟に感動がある。成功に理由はいくつかあるが、第一はこの見えない劇場の力だと思う。
もちろん、個々の作品の良さもある。「パ・ラパパンパン」について言えば、作構成がいい。
主人公は、ろくでもない青春小説しか書けないまま三十歳も半ばになった女流作家(松たか子)だ。担当の編集者(神木隆之介)に持て余されながら新境地のミステリー小説に挑む。この設定の中でスクルージ(小日向文世)が殺された謎を追う「クリスマスキャロル」のミステリー化が図られる。ミステリ内容と上演の季節がぴったりと合う。古典の登場人物たちと、現代の向こう見ずな作家と編集者の気ままなミステリ化とが交錯する。作者はテレビでは第一線だが舞台は珍しい藤本有紀。テレビで培った時代とのテンポの合わせ方がうまい。ダレそうな話を現代の突っ込みを入れながらいいテンポで運んでいって、最後には大団円にもっていく。その大団円もいかにもテレビ的な万人を感動させる納め方なのだが、それがうまく収まる。そこへ主題歌を持ってくるうまさ!
松たか子がいい。三流のダメな作家が、それでもやはり書かなければとなるドラマを、このクリスマスストーリーの中で生き生きと演じている。歌がうまい。主題歌は三回歌われるが、三つのバージョンそれぞれに歌い方を変えていて、ことに、神の声ともいうべき聖歌風に歌い出した時には劇場が吞まれた。(この演目のタイトルは、何のことかと思っていたが、その謎は途芝居の中で明かされ、抜け目なくクライマックスに続いていく)
松だけではない。スクルージの小日向をはじめ古典の人物たちを演じる大人計画のお馴染のメンバーも役を面白く演じてドラマを盛り上げている。
スタッフワークもよく、作曲の渡辺祟は、こういう芝居での音楽の役割をよく心得ている。説明的な音楽はなく、音楽になれば、観客を打つ。美術(装置・衣装)、音響もよかった。
昨年の「フリムンシスターズ」も松尾スズキらしくてよかったが、ここでは劇場芸術監督の演出としていい仕事をしている。
ジャンガリアン
文学座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2021/11/12 (金) ~ 2021/11/20 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
創作戯曲が二作ほとんど同時に東京の主要な劇場で公演されるのは極めて珍しい。
好評だったiaku公演「フタマツヅキ」に続いて、老舗大劇団の文学座による「ジャンガリアン」。若手劇作家の中でも、ここ数年、一作ごとに力をつけている急成長の関西出身の横山拓也、大忙しである。
「フタマツヅキ」は東京の噺家脱落一家の物語だったが、こちらの舞台は関西。同じような庶民の市井劇である。
舞台は創業60周年の老舗のとんかつ屋「たきかつ」の店。ネズミが頻りに出没する古ぼけた店をリニューアルして店を継ぐと家業には見向きもしなかった長男の琢己(林田一高)が戻ってきた。商店街の中でも独自老舗を売り物にしてきたが、母(吉野由志子)と一人だけのとんかつ揚げの職人(高橋克明)ではのれんを守るだけで経理も満足にできていない。将来は会社組織にして商店会にも加入したいが商店会長は、母の離別した先夫(たかお鷹)で琢己の実父、というのも話をややこしくしている。外人留学生支援をしている常連客(金澤映実)がねずみ退治には対抗する別の種のねずみを飼うのがいいと、ジャンガリアン種のネズミの繁殖をやっているモンゴルからの留学生(奥田一平)をつれてくる。人手は欲しいのだが、外国人という事で周囲の目は厳しい。・・・・
というような物語の展開で、二年前に障碍者の性処理という難しい問題を普遍的なドラマにした「ヒトハミナヒトナミノ」と同じ、横山戯曲、松本演出。先の「フタマツヅキ」に比べれば、町内の小企業とか、外国人労働者問題とか今日的な問題を扱ってはいても、大劇団公演らしい素材選びと処理である。
それだけに、無難なウエルメイド劇に仕上がっていて、それが残念とも、よかったともいえる出来である。劇場もサザンになると文学座・横山の組み合わせでも満席にはならず、7分の入り、老人の観客が多いからこういう穏当な舞台になるのもやむを得ないだろうが、この組み合わせなら、やはり「ヒトナミノ」のような意欲作を見たくなる。少し回数を増やしても、アトリエで次回作を見たくなる。劇場が大きくなったせいか、出演者にもいつもの人の肌触りが薄い。大阪の話なので当然大阪弁だが、新喜劇なら、こうは言わないだろうというところがかなりあって、もちろん、文学座だから動きもよく、セリフはちゃんと方言指導通りにやっていて、よく聞こえもするが、そうなればなるほど、大阪弁の独特のニュアンスからは遠くなっていく。東京の芝居だなぁ、という舞台だった。
ザ・ドクター
パルコ・プロデュース
PARCO劇場(東京都)
2021/11/04 (木) ~ 2021/11/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
開いてからもう十日もたつのに、ネット批評に見てきた、が一つもないのはなぜ?。??と思いながら見れば、全く隙のない完璧の舞台。主演の大竹しのぶをはじめ、巧みなキャスティング、栗山民也のよく読みこんだ演出に従って一糸乱れぬ演技、美術をはじめ、過不足ないスタッフ・ワーク。テーマはコロナで誰もが直面せざるを得なかった「死」をめぐって科学と宗教はどのように人間を救えるか。受けないはずはないのに。
ほぼ、三時間近い舞台の完成度を評価するにはやぶさかではないが、その完璧な取り組みに落とし穴があったとも思える。
昨年ロンドンで上演されたイギリスの舞台は主軸のテーマをめぐって、信仰と科学だけでなく人種、性差別、階級問題、のような一般的な問題に加えて病院の組織や経営問題、日々の生活問題、テレビ番組まで現在のロンドン市民の直面する「ドラマ的な」問題が網羅(でもないだろうが)されている。その戯曲は若干はテキストレジされているのだろうが、ほぼ上演されたものに近いと思う。違うのは「肉体を持った俳優」である。
日本の俳優が下手と言っているのではない。日本の俳優が英国俳優の真似をしても仕方がない。第一、そんなことは誰もしていないだろう。肉体にしみ込んだ英国と日本のどうしようもない違いが戯曲との距離を置かせてしまったのではないか。
このような最新の戯曲をパルコがこのスタッフ・キャストで積極的に取り上げたことは多としなければならないし、この戯曲もつまらないわけではない。この詰め込み方のうまさなどは若い作家には学んでほしいところでもある。国境を越えて、演劇を咀嚼するのは、観客も含めなかなか難しいものだとつくずく思った。
、そうでなければ、「フタマツヅキ」をこれだけ理解し、感動し芝居を楽しんだこのネットの観客がこの作品に対して黙っているのは理解できない、
老いと建築
阿佐ヶ谷スパイダース
吉祥寺シアター(東京都)
2021/11/07 (日) ~ 2021/11/15 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
こういう舞台が上演されることに感懐がある。
まるで、昭和の新劇のようないっぱいセットの人間劇を長塚圭史が、上手に書いている。テーマは「老い」だろう。さすがに、滅びゆくものの美しさ、などという凡なところには落としていないが、阿佐ヶ谷スパイダースを率いて出てきたときのやんちゃぶりを知っているだけに、結構ウエルメイドな出来に「歳月」も感じる。人間が生きて生活する家に、今年流行の「生きた記憶」を埋め込んだあたり時代を上滑りさせない工夫もうまいものだ。いまは横浜の大きな劇場の芸術監督だもんなぁ。
ドラマは大きな庭付きの家に住む孤老女(村岡希美)をめぐる人間模様である。亡くなった建築家の夫が残した家に住む老女はそれぞれ自分の生き方をする息子娘とは距離を置いて、ひとり毅然と生きている。昭和モダンの家のセット(美術・片平圭衣子)が単純だがよく雰囲気を出していて、今の80-50問題や介護の問題も裏に抑えながらの現代人間模様である。セリフがうまい。
プロットの軸が、明確にならないで進んでいくので、一種の家族のシチュエーションドラマかと思っていると、最後の五分の一あたりで突然調子が変わって、ストーリーのドラマチックな謎解きになる。最初の家族風景の部分が、昭和新劇風によく出来ているので、そのまま終わるのかと思っていたらそうではなかったが、そこは賛否両論あるだろう。ドラマチックに終えるには筋立てが少し無理なのだ。
しかし、演劇としてはよく出来ていて、長塚圭史がかつて三好十郎に入れ込んで何作かいい再演をしたことが役立っている。実話キャンペーンドラマみたいな舞台が多い中で見ると新鮮でもあるし、芝居を見たような気にもなる。
村岡希美は、家族を押さえて現代を生きる不機嫌な老女を演じて堂々たる主演である。昭和の戦前のいい時期に生まれ、戦後も時代に沿って生き、戦前の東京郊外の家に住む東京市民の雰囲気を身にまとっている。戦後の世田谷でなく、戦前の杉並の空気が作りモノでなく出来ている(村岡花子の姪だもんなぁ。もっとも花子は大田区だったが)。昭和新劇には時に登場して、山の手女は東山千栄子が一手販売していたような役である。それで、気が付いた、というのもうかつな話だが、これは、昭和という時代を批評したドラマなのであろう。そう見れば、戦前の家を老人向けに改築しながら、その栄華の余禄で生き延びている我が令和時代の姿をこういうドラマにして見せたのが長塚圭史、というのにも感慨がある。ここが第一のみどころだ。
昼間なのに、吉祥寺シアターは層の厚い個人客で完全に満席だった。日本の観客も成熟している。
オール・アバウト・Z
ティーファクトリー
ザ・スズナリ(東京都)
2021/11/06 (土) ~ 2021/11/14 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
コロナ禍の中で、さまざまな形で「人造人間」が現実化してきた。映画ではよく登場するし、小説でも今年はカズオイシグロの「クララとお日さま」や平野啓一郎の「本心」のように、人間との共存社会を正面から描いた作品も評価を受けている。その中で、演劇はチャペックのロボット初登場が戯曲作品であるにもかかわらず、あまり成功しない。ホンモノの人間が「人造人間」を演じることにうさん臭さがあって、作る方にも、見る方にも演劇の愉しみをはぐらかされるようなところがあるからかもしれない。(本物のロボットではやはり芝居にならないのは平田オリザで実証済み)
現実に近くなればなるほど、人間との共存をあらゆる面からさまざまに考慮しなければならなくなり、それはまた、人間の築いてきた歴史・文化を総動員して思索しなければならなくなるから、現実でも架空世界でも一つの「世界」を作るのは大変な作業になる。
しかし、それを考えなければならない場面に人類は近い将来、必ず直面する。コロナ禍はその小さな前兆だ。
テーマはよくわかる。平田オリザが「産業」からアプローチしたのに比べるとこちらの方が深刻だ。
舞台は・・・・
基礎的なアンドロイドができた約三十年後、2050年代。さらに進化したアンドロイドZを創るために、人類が何をするか、というドラマである。
正面から挑んだテーマは大きすぎたのか、結果的にあまり要領を得ないが、設定も今までのSFモノの便宜主義に比べてよく出来ている。劇作家の描く未来ものは、映画や小説と違って、結局ホンモノ人間が演じなければならない、というところから、何か大きなリアルな発見につながるかもしれない。
小劇場出身では(小劇場のいい加減なSF仕立てはさんざん見たがろくなことにになっていない。平田オリザの試みもやってみただけ、だと思う.)この作家は構造もしかりしていてこのテーマが演劇で書ける作家だと思う。はじめからZを目指さないで、小さな素材から始めてみたらどうだろう。
ダムウェイター - the Dumb Waiter-
TAAC
すみだパークシアター倉(東京都)
2021/11/03 (水) ~ 2021/11/10 (水)公演終了
実演鑑賞
久しぶりの「ダムウエイター」、昔地人会で見たっけ?いや文学座だったか(あやしい)、面白かった記憶があるので、ろくろくカンパニーを調べもせずに出かけたのが失敗だった。関西の演出者の個人劇団の公演。初見である。
五十年以上年令も違うのだから、こちらの好みばかりはいっていられないが、これで、若い世代は満足するのだろうか? 記憶に残っている限りでは結構サスペンスもあり、笑いも取れる不条理演劇と理解していたのだが、まるで不条理でも、不気味でも、可笑しくもない。役者は単調にセリフを言いあうだけで言葉を肉体化しようとしていない。技術もない。リアリズムで行こうとはしていないのに、頼るところがなく心細そうにドラマは進む。戯曲の面白さがうかがえない。七分の入りの若い女性観客もつかみかねている。
うまくいったのは音響効果。昇降機の上下音はともかく、終始響いている低音のノイズが劇場の場所と相まって作品にあっていた。70分。