実演鑑賞
満足度★★★★
第一部「大岡政談天一坊」。朝11時から見る芝居でもないが、短縮興行の第一部。11時に始まって、2時過ぎまでに終わらなければならないのだから五幕の通し狂言と打ってはいても、超特急で話は進む。その首尾は渡辺保さんの歌舞伎劇評に詳しく書かれているが、すべてごもっともで、ホントに薄味で、歌舞伎座のありがたみのない芝居であった。
これを見たのは、ひとえにコクーン歌舞伎の「天日坊」がとても面白かったからで、天日坊の原型になっている天一坊はいかに?と見に行ったのである。
なるほどと思ったことはいくつかある。
天日坊は天一坊の上書きのようなものだとわかったが、黙阿弥も上書きはうまい。この実話に近い時期に書いた天一坊を、後年、明治になってからの天日坊では登場人物のそれぞれのキャラをうまく立てて芝居にしている。悪い奴に女を一人入れて、天地人のだんまりをやろうなんて、洒落た芝居らしい趣向ではないか。またコクーンで現代脚本にした宮藤官九郎のまとめ方の冴えもよくわかった。
芝居は通せばいいというものではない。これでは、あとで解説を読んで初めて分かることが多すぎる。よく古典を一幕だけやることは批判されるが、古典は筋はわかっているのだから、一幕だけ丁寧にやるのも悪くない。有名な「網代問答」のくだりなどは、歌舞伎らしいオーバーな面白さが出るところだろうが、前後をカットしているので、どう見ればいいのか解らない。
しかしどのようにバージョンを変えても、芝居の小さなリアルな面白さは残るものだとも分かった。例えば、天一坊がさして確信もなく悪の道に走るところ(今回の処理は非常にまずいが)、長吉が天一坊の本性を明かすところ。
役者も、どこか型通りで、裁く方も、裁かれる方も人間味が薄い。第一部とあって、三分の二にした客席が薄さを引き立てて、味気ないことおびただしい。それはまだ、松竹は律儀にコロナ規制を守っているので、客席に芝居見物の華がないことにもよる。歌舞伎に不可欠の掛け声もいつまでも止めている。劇場を殺す官の勝手な自己弁護のための規制なんか守って何のメリットがあるのだろう、芝居は徐々に殺されている。早く二部制に戻して、料金も内容に即した適正な額にしてもらいたいものである。松竹はその辺の計算はよく出来ていた興行者だけに残念である。