tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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再演 マインドファクトリー~丸める者たち~

再演 マインドファクトリー~丸める者たち~

かわいいコンビニ店員 飯田さん

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2019/07/24 (水) ~ 2019/07/28 (日)公演終了

満足度★★★★

ちらちら気になっていた劇団をこの機に観劇。名を知る出演者が橋渡しに。すみだパークスタジオの横広使い(桟敷童子に同じ)は正解で、客席からしっかり芝居に噛める。
言葉(論理)と物理的暴力が、非力な側の人間を支配するリアルな描写に心疼きながら、成り行きを見守った。終盤、抵抗から敗北へと辿る主人公だが、そこはまだ伏線の段階で、待ち受けるラストの最悪の図が浮かび、それはやめてくれと心中懇願する自分が居た。それだけ入り込んでいたようである。
オーラスの時間はリアルというより象徴的な描写で「思春期の一コマ」と括られるような処理だったが、生々しいのはいかにも学校っぽいモルタル壁の肌合いがこの空間の閉鎖性(さらにそれを擁する小さな町という閉鎖社会)を示し、十代に味わう成長への希求ゆえの無力感をフラッシュバックさせるものがあった。
体罰教師(野球部コーチ)は法に抵触しているため最後には捕まる運びとなるが、悪は滅びる式の結末でもなく水面下に広がる体罰の実態を告発するのでもなく、「この体験とは何なのか」「この実態とは何なのか」と舞台は問うて幕を下す。
若手、かどうかよくは知らないが、地に足のついた堂々たる舞台。

ネタバレBOX

劇団や劇団名の由来、主役青年や悪役教師はじめハマり過ぎな俳優陣と、触れたい部分は多々あれど割愛。内容について幾つか。(書き直し)
体罰教師の手管には、「力」の不均衡・非対称性の存在する場所に自然発生する以上の周到さがあり、社会的背景を思わせる。「なぜ俺がお前らを追い込むか判るか!」と教師は前置きして大義名分や目標に近づくための独自の理論を語る。言っている事はコロコロ変わるが、余白の残し方、崇高な目的のアピール、実にうまい。既に力関係が固まった中では、教師の理不尽な措置にも生徒は「きっと何か理由があるはず」と思わざるを得ない。主人公である忍耐力あるキャプテンは一定受け容れていくが、ヘタレ達は不平を言い「辞められない」状況を嘆きながら、如何にサボるかに走る。その中の一人はあり過ぎる隙を突かれて「みんな、もうこいつの相手しなくていいぞ」と暴言されるまでに「ハメられ」る。一方、一度も叱られた事がなくよくサボる約1名(登場しない)がおり、主人公は二度、この部員の事を教師に質問する。「やつは結果を出してる」と、それらしい回答でお茶を濁す教師。「結果」とは何か、どこまで結果を出せば叱られないのか、は示さない。冒頭語られる「ヒットを打って勇んでベンチに戻った瞬間教師に殴られた。」エピソードが示すように、常に体罰を加える教師はむしろプロセス重視だろう(でなければ体罰の理由が希薄になる)。理屈をつけるなら「お前ら結果を出せない選手のくせに、結果を出したからといって浮かれるな」。この矛盾した理屈を意外に日本人は受容してしまう所がある。判断を目上の者に丸投げする精神性は、政治がここまで私物化・売国化しても許してしまう事にはっきり表われている。
物理的暴力と暴言と、後に発覚する女生徒の性的奉仕という「甘い汁」を、力ある側に提供する「環境」は、一人教師の特質ではなく、町にとって(一度甲子園に出た)野球部が特別視されている事にも原因する。「町の人が悲しむ顔を見たいか。喜ばせて上げたいだろう」・・教師は大義名分を「利用」した側面があり、町はその窮状から野球部への偏愛を生み歪な構造を作ってしまった側面があったろう。どちらがより濃いか判別つかないが、この図式には大戦時の日本陸軍というこれ以上ないサンプルがある。「上官の命は天皇の命なり」という大義名分は、上官による下級兵士への無制限のいじめを常態化し(究極的には南方で軍令違反の罪を着せて処刑しその肉を食った)、そこでは本来の目的「戦に勝つ」など霧散していたに違いない。教師は「町のため」という大義名分を体罰や暴言という快感、後に発覚する女生徒の性的奉仕という快感を、享受できる構造を作り上げ、その地位に甘んじたに過ぎない。その僅かな部分で、生徒の事を「思っていた」という事はあるのかも知れない。野球部に異常な期待を寄せる町の状況を「非常時」と表現するなら、スパルタ教師は「どうにかして期待にこたえよう」とした、などという擁護もできそうな気がする。非常事態が許す無法は、権力の側に利する。それを行使できるのは物理的に力を持つ者だからで、どのタイミングで権力はこの手を使うか私は常に不安である。この芝居がリアルなディテイルに支えられている事は確かで、色んな意味で観る者にとって無縁ではない示唆的な芝居でもあった。
しだれ咲き サマーストーム

しだれ咲き サマーストーム

あやめ十八番

吉祥寺シアター(東京都)

2019/07/19 (金) ~ 2019/07/24 (水)公演終了

満足度★★★★

サンモールスタジオ公演以来2~3年振り二度目のあやめ十八番。自分が観るようなモンじゃないな、と思ったものだが、昨年の「ゲイシャパラソル」は題名にそそられ(観られず)、今回は吉祥寺シアターでやるというので何故だか観たくなった。
予想通り、ではないが期待を裏切らず、目を喜ばす美術が広がる。目一杯高さを利用して渡された橋、階段、舞台面からは闇に溶ける奥行があり、巨大な月の一部が覗いている。箱庭的なカタチに乗っかって、「江戸」のノリと気分が舞台上に持続する。もっとも「現代」要素も悪びれずに現れて共存し、なんちゃって感を祝祭的に高める生演奏の音曲と、江戸らしい啖呵や口上に導かれ芝居は進んで行く。
ストーリー自体は散漫である。最初からその兆しがあり、結句その通りであった、と思う。最終的に作者がどの人物にフォーカスしたかったかは判らないが、答えの一つは千秋楽終演後の挨拶で作者自身が披露した作品解釈=「3人の誰がオチを取るかの奪い合いのようなもの」。なるほど、焦点は定まらなくて自然な訳である。
各人物は互いを牽制しあう事で人間像や生涯像が棲み分けされ、トータルで群像を形成する。群像はその背後に何かを見せる。彼らがうごめく吉原という土地そして江戸という時代。「終わり」へ疾走する終末の気分が支配するのは、欲と金に追われる者共のはやる心のせいもあろうが、「江戸」がやがて終りを迎える時代区分、もっと言えば消え行く文化である事が影響するのだろう。この劇団が(本家の花組芝居も)なぜ「江戸」をやりたがるのか、の回答が芝居の作りににじみ出ており、ある種の憧憬や願いに観客も同意し、架空世界の構築に加担していく。どんな芝居もそうなのであるが、希薄なストーリーでも成立してしまう裏にはそういう事もあろう。
一回目の観劇ではそれ(ストーリー性の問題)がネックになったが、今回は「話」に入り込もうとせず冷静に筋を追いながら観た。ヘタに整理をつけようと言葉数が増えるより、ノリの持続を選った潔さ?を快く受け止めた次第。

ネタバレBOX

そう言えば中盤「昼飯(ひるまま)」=枝雀師匠の出囃子=の変奏が鳴ったのは嬉しかった。落語を「発見」した作者の欣喜雀躍に共鳴。
美しく青く

美しく青く

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2019/07/11 (木) ~ 2019/07/28 (日)公演終了

満足度★★★★

赤堀新作戯曲inコクーンは何作目になるか(調べりゃ判るが)、年々こなれて来たように感じるのは「見慣れた」せいもあるかも知れない。きわどい人間像を炙り出しながらそれを包摂していく世界観が赤堀作品の一つの特徴で、ピンポイントなシチュエーション描写がツボだ。今回は「8年前」という台詞が仄めかす東北の、猿害に悩んでいるというから農業人口が一定数あるどこか。農業が生業でない主人公の住まいはマンションの一室のようであり、彼と同世代(アラフォー)や20代の若者が自警団を構成してもいる。主人公夫婦と妻の実母、自警団に同道している役所の男、飲み屋のママ、そこで働く地元の若い女性、農業を引退した頑固老人等等が個性的かつ普遍的な人間像を見せ、典型的でない言動の背後に今この瞬間を浮かび上らせていた。
五場面の大転換も何気に美味しい。

ネタバレBOX

地方の描写としては、限定させる要素を除き、やや引いた視線での描写に止めていた(毎回の事だが)。原発事故の影もあるが言明されず前面には出てこない。
だが主人公がリーダーとしてのめりこむ自警団が彼にとって何であるのか、というあたりに「地方」の病理を匂わせ、そこから「逃げるのだ」と東京に出ていく若い娘に言わせる窮状は、ひとり「猿」のみに由来せず、全体的な厳しい状況が彼らの生活を侵食している事を想像させる。工事半ばの「海が見えなくなる」防潮堤の高さも異形で痛々しいが、作者は客観的な「窮状」をそれ以上際立たせず、人間同士の間に生じたものを人間同士の力(自然治癒力?)で乗り越える風景を切り取っていた。
だが痛々しさは現実を言い当てており、リアルに裏づけられた光景として脳に像を残した。
芙蓉咲く路地のサーガ

芙蓉咲く路地のサーガ

椿組

新宿花園神社境内特設ステージ(東京都)

2019/07/10 (水) ~ 2019/07/22 (月)公演終了

満足度★★★★

「毒おんな」(@スズナリ)以来の椿組観劇(@花園神社は2年振り)。汗まみれを覚悟して出掛けたが、夜になると気温は落ち、そのせいか劇場に近い集中度で芝居に入る事ができた。土着性を扱う中上文学の世界が、椿組「夏の野外劇」の祝祭性をも飲み込み、厚みのある芝居になっていた。
今回で4回目の野外劇体験だが、劇的高揚感は最も大きかった。サイドの自由席でも比較的前列の内寄りに陣取る事ができ、距離感は最適で台詞はよく聞こえ役者の表情も見えた。主役級の常連俳優の他、久々に見た佐藤銀次やこの所ご無沙汰の張ち切れの二女優、初見の役者も力を寄せ合い弾け合う一夏のお祭り公演である。

舞台の高揚は、劇作のうまさというより取り扱う対象、中上が描く土着的神秘性に由来したのだろう。中上健次の小説はどれも未読だが、映画では幾つか観た(『青春の殺人者』『火まつり』『千年の愉楽』等)。ザッツ中上と言えば二番目になるか。三番目のは近作で(高良健吾主演)、血にまつわるスキャンダラスな筋書は追えていたが空気感まではフィルムに捉えていない。殆ど説明のない(台詞も少ない)『火まつり』が忘れ難い。その他評論等で言及された中上論から作られた私的中上像を、見出そうと構えて芝居を観たが、正体不明の土着に踏み入れた作家と「向かい合う」のでなく、同じテーマに迫ろうとする作り手のベクトルを見出した事で、良しとした所がある。

舞台は紀州の新宮という地名が出てくるので南西部(中上所縁の熊野に近い)である。
母の手で育った路地の青年・秋幸(主人公)の実父は、かつて織田信長に協力し、後に対立して討死する浜村一族の末裔を自認する。秋幸にとって「悪」そのものである父の人物像は後半変化し、浜村一族の末裔としての自覚(?)へ向かうか否かという物語の線がある。一方、彼らが育ち様々な出来事が生起する「路地」は彼らの生活世界そのものであり歴史を形成しており、ところがこの路地を消失させる張本人が父であり、土地を取得して財を成す父は「皆は恨みを自分に向けるが、皆路地を出たいと思っている」と秋幸に言う。路地を愛した秋幸の葛藤は極まる。ところが旅から戻った秋幸が目撃したのは父の自死の瞬間であった・・筋を見て行くと相当な端折りがあり、小説ではどう書かれたのだろうと想像する時間がある(劇中ではナレーションで小説の文が読まれる)。あらゆる有機物質を分解する土壌のように猥雑さを許容する「路地」が、彼の屈折の源でありながらも包み込む母胎である、これを主題とすれば、父の浜村一族信仰は寄る辺に過ぎず、行動規範は近代の拡張主義のそれで、いずれ破綻を見るものである・・といった文明批評を読み取るのが作品の正しい読みだろうか。しかし舞台で見ると、織田信長に反旗を翻して戦わざるを得なかったという浜村一族の歴史紹介に始まり、その霊魂が超然と語ったりする。一方、秋幸の他にも二人の女を孕ませていたという父こそ路地の権化に思われ、浜村信仰に寄って行くべきは秋幸で、やがて父と対峙する、という図をなぞろうと劇を見ていた所もある。
が、そうした筋立ての問題はともかく、中上文学が発掘した太古に繋がる人間像に現代人である私は見入ってしまう。そこには理性がとらえがたい活力があり、逆に現代とは何なのかを捉え直す入口を示すようにも思われる。

命、ギガ長ス

命、ギガ長ス

東京成人演劇部

ザ・スズナリ(東京都)

2019/07/04 (木) ~ 2019/07/21 (日)公演終了

満足度★★★★

話題性のある公演だろうに「スズナリだし..」と理由なく油断していて気づけば完売。千穐楽を当日券に並んで観た。選挙結果に依っちゃ芝居にうつつを抜かす日々もそう永くはないぞ、と気もそぞろながら、敢えてそんな不安を拭ってくれそうもない公演を選ぶ天の邪鬼。
1時間前のスズナリには二十人余りの列だったが入れた(当日券21枚、残りはキャンセル待ち数名)。足は痛かったがベンチ席で役者2名を舐めるように見た。体調悪く序盤に何度か気を失ったが、奇妙でフシギなスズキワールドを噛み締めた。

ネタバレBOX

松尾スズキ(大人計画)作品と言えばここ数年の間にサイズ大の劇場で三、四作を遠目に観た。大人計画の出自である小劇場色を離れたエンタメ寄りな舞台に、毎回不全感を覚えていたのだが、今回は変った趣向ではあるものの松尾スズキ的世界が間近で味わえた。
学芸会仕立ての舞台で松尾氏と安藤玉恵それぞれの持ち味と演技術を動員したギャグがポロポロと零れ、反応素早く笑いに沸く会場に必ずしも共鳴しなかったが(何度か大笑いしたが)、やがて散らかされたネタが意外な仕方で回収され、底辺な人びととアッパーな人びとが底意地を晒しながらいつしか、彼らのしぶとさ、いじましさに光が当てられている。
社会的弱者という概念の相対化は松尾作品の一特徴とは言え、今これをやるべきかと一瞬疑問がよぎったが、観ていく内に底辺の者らの手練さとアッパーな者らの愚直さという転倒が絡みあい、転倒しても尊厳ある個への屈折した愛情が場に満ちていった。
実際は順序だたない構成や意表を突く展開で、何がどうなったか大部分記憶にないのだが。。
小劇場でやり続けるべき演劇人のツラを二人の中に見た。二弾、三弾まではやって欲しい。
『その森の奥』『カガクするココロ』『北限の猿』

『その森の奥』『カガクするココロ』『北限の猿』

青年団国際演劇交流プロジェクト

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/07/05 (金) ~ 2019/07/28 (日)公演終了

満足度★★★★

「北限の猿」・・以前同じアゴラで観たはずだが印象は随分違う。横長に設えた客席からは役者の肌の具合も見える。「この森の奥」はこの作品の姉妹編(国際バージョン?)という所。「猿・類人猿」ウンチクがやはり面白く、3作品の中で最もバランスの良い脚本、そのせいか演者も伸び伸びと演じていると見受けた。割と核に据わる役に坊薗女史、これがダブルでもう一組では川隅女史、こちらも観てみたいが。
この作品を書いたきっかけが前年に出版された立花隆著『サル学の現在』という。
人間とは何なのか・・この問いを別角度から投げる類人猿研究の、20年後の現在は?

ハムレット

ハムレット

しあわせ学級崩壊

nagomix渋谷(東京都)

2019/07/17 (水) ~ 2019/07/17 (水)公演終了

満足度★★★★

昨年のいつだったか当日券を求めて(確か御徒町へ)赴いた際は満員で入れず、気になっていた同劇団を今回機会を得て観劇。都内音楽系ライブスペース3軒ハシゴ公演の最終会場渋谷に来た。1drink=500円で入場3000円。開演前からビートの効いたサンプリングサウンドが流れ、立った客が体を揺らし結構盛り上っている。ステージ上のテーブルで楽器の代わりに機材を操作するメインとサブの背後にはコラージュな映像も流れ、客はステージ側と対面してライブの様相である(一昔前に初入場して以来のクラブの雰囲気)。最初は戸惑いつつも耳と体を慣らし開演時刻を迎えると、ステージ上には先のパフォーマーに代って劇団主宰が立ち、女3+男1の役者陣から演技エリア(登場箇所)の説明があり「舞台」がステージでなく客が立っている平場である事を知らされる。客の顔も見え、僅か3~40人の中に見覚えある俳優や作家、劇評家もいた。
噂に違わぬ大音量の中のパフォーマンスはマイクを持った黒い四人(直前まで場内スタッフとして立ち働いていた)によって展開、音の摩擦熱の充満する空間に身を委ねる1時間が始まった。
台詞聞こえの難を超え、言葉と心情表現の「立ち方」が背景の音に拮抗する具合を味わう内に、同時空での出来事に同期し飲まれていく感覚がある。
(物語=ハムレットについては後日追記、のつもり)
そう言えば公演最終日は同会場21(日)18時だとか。

明日ー1945年8月8日・長崎

明日ー1945年8月8日・長崎

劇団青年座

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2019/07/10 (水) ~ 2019/07/17 (水)公演終了

満足度★★★★

KAAT地点の当日と迷った末こちらに決めた。青年座らしい、新劇色濃い役者たちの立ち回りだが、「明日」という作品が持つ独自の構造ゆえ、リアリズムな時間がファンタジックな色を帯びている(生の演奏が貢献)。この題材の舞台化の一着地点を認めた。

ネタバレBOX

「明日」と言えば私にはまず黒木和雄監督の映画。青年座の舞台はその二年前に作られていて、折節に上演されてきたらしい。映画は学生だった私に実に新鮮な感動を与えた。長崎の原爆が投下される前日のある人々の平凡な、また切実な日常の場面を切り取っている。原作者井上光晴は現地取材し実際にあった事を小説に反映しようとした、とある。つまり未曾有の破壊兵器使用という歴史事実あってのドラマである。この構造が独自だ。史実にまつわるその周辺の話というのはよくあるが、「明日」に描かれるのは戦時下の「非戦争」的日常であり、これに徹している事で「明日来るもの」の意味が示唆される。「明日来るもの」を告発するドラマでありながら、完全に手段化された庶民の風景がそれ自体で感動を誘うドラマになったのは音楽、時計、回転舞台といった演出と俳優の微妙なバランスにありそうだ。どこかいじると崩れそうな風もある。
外部の仕事が目にとまる小暮女史も本家で印象的な場面を作っていた。
『その森の奥』『カガクするココロ』『北限の猿』

『その森の奥』『カガクするココロ』『北限の猿』

青年団国際演劇交流プロジェクト

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/07/05 (金) ~ 2019/07/28 (日)公演終了

満足度★★★★

「カガクするココロ」初観劇は桜美林大での学生発表(多分10年以上前)で、これが現代口語演劇初体験。時代に合った表現を見た気がしたと同時に、音楽がないストイックさ、娯楽性フィクション性を削ぎ落とし客に忍耐を強いている印象も。確かズンドコ節の替え歌を全員がアカペラで歌って幕が下り、ああこれが取って付けたようだが終劇間際のサインなのね、と納得。後に青年団バージョンを見て、学生版にはなかったディテイルのリアルに面白さを発見した。
さて今回はキャスト全てフランス人。学生の発表公演のために仏語バージョンに書き換えたリニューアル版だそうである。フランスだけに恋愛話や口説き文句が増えていたが、惚れた腫れた以外の内容はほぼ無く、日本語バージョンも実はそうだったか?と記憶をまさぐった。日本人は恋愛感情も関心もオブラートに包み、その苦しさがモチーフになる。オブラート(表層)部分すなわち建前の論理も日本では他者との関係性では重要になる。そういった文化的背景を仏語バージョンでは当然変えねばならなかったという事は想像できる。字幕の観劇では人物関係を把握するに至らず、伏線回収場面を部分的には楽しめた。若い俳優たちは内面から滲み出る個性を風貌に刻んでおり、制御された佇まいは青年団のそれだが、日本人俳優の場合「見せなくてもいい」と割り切って演じているように見えるのに対し、キャラが濃いせいか劇空間も単に記号的でなく熱が通ってみえる。
他の発見としてはフランス人なりの多様な個性、キャラが少しずつ見えてきた。ただそれが俳優が作ったキャラなのか、俳優自身が持つキャラなのか・・平田流では本人キャラだろうと推察。少なくとも恋愛に深く絡む人物には「見た目」の良いのが選ばれるのは「この森の奥」とも共通。ただしこのステロタイプな配役はもう一つ面白味に欠ける。

『その森の奥』『カガクするココロ』『北限の猿』

『その森の奥』『カガクするココロ』『北限の猿』

青年団国際演劇交流プロジェクト

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/07/05 (金) ~ 2019/07/28 (日)公演終了

満足度★★★★

オリジナルではなく過去作の改作だという。「北限の猿」を以前観た感触を思い出した。
マダガスカルにある研究所に日韓仏の研究者が集まり猿・類人猿を研究している。日常的な挨拶くらいは出来るが踏み込んだ会話は携帯式の音声翻訳器で行い、観客には正面に左右2つのディスプレイに字幕が映される。ポータブル翻訳器は今なら実在しそうでもあるが、10年前なら「近未来」の設定だったろうか。いずれにせよこの研究所のような国際プロジェクトが例えば英語でなく、母国語による会話で実現し、様々な夾雑物を排除できる時代にはファンタジーでなくリアルベースで多文化の現場が芝居になる。それを実際に仏人役を仏人俳優が、韓国人役を韓国人俳優が日本人と演じる舞台がこのたびお目見えとなった。字幕が挟まる事の観劇上の障害はあるがどうにか大意は掴める。
その上で「お話」の良し悪し、好き嫌いはあるのだろうが、面白い芝居ではあった。核心は彼らの研究対象である類人猿に関する知見。我々人類と突き合わせ、比較する事で人間や人間社会と動物(の社会)との差異があやふやになってくる。会話は新たにやってきた女性研究者、マダガスカルの観光事業に研究所を組み込もうとする日本からの民間プロジェクト3名との接触を契機に展開される。作者のうまい設定だ。
ただ、話題は差別や侵略の歴史にも踏み入って行くが、そうした話題を「出す」事で溜飲を下げ、最後はみそぎを終えたかのようにスッキリ、虹を見に行こう!と切り替わるのには何やら座りが悪い。ほぼ出揃っていた出演者が最終的には「虹」を見るべく全て退場するのだが、最後に会話を閉じて(舞台の締めくくりを担って)出て行く女性3人組には殆ど虹を見たい欲求を感じない。誰も居なくなった空間を見せて幕、というパターンは平田オリザ作品に多いが、互いの理解を深める大事な会話が「授業時間」などで中断されるならまだしも、見なくていい「虹」のために切り上げられてしまう。
「芝居の都合」とは思いながらも、欲求に従うのでなく「付き合いでする行動」には日本の連れション的行動パターンの嫌疑がもたげる。フランス人なんだがなァ。

皿の裏

皿の裏

Rising Tiptoe

座・高円寺1(東京都)

2019/07/03 (水) ~ 2019/07/07 (日)公演終了

満足度★★★★

最近まで名も知らなかったユニットだが、作演出美術音響その他何でもござれ、才媛ここに在りと10年以上も前から発信していただろうに気づかなかったとは。との自省を込めつつ、自ら完結させてしまう舞台はどんなものかと座高円寺を訪れた。劇作家協会プログラムだけに劇作家・宇吹萌作品上演という色彩が強いのか、どうかは判らないが作家の趣向が覗く舞台ではあった。再演に耐える現代的寓意に満ちた作品だが、舞台はオリジナルな手触りで、美術をはじめ俳優の使い方、音楽の使い方にも先人の薫陶を授かった堅実さを離れて独自の匂いがある。特に俳優の扱い=演技アプローチの統一性の面で「成長(改良)の余地」のある作り手、という印象が個人的には際立った。

MITUBATU

MITUBATU

なかないで、毒きのこちゃん

OFF OFFシアター(東京都)

2019/07/02 (火) ~ 2019/07/09 (火)公演終了

満足度★★★★

同劇団二度目の観劇。若い才能は公演と公演のインターバルも短く次から次の攻勢に追い付かず二、三やり過ごして漸く、かの卓袱台返しならぬ破壊芝居の記憶も生々しいOFFOFFへやってきた。どこで培ったのか前回爆発させたplay with audienceを今回もやらかして本編に入り、終いにもやって閉じ繰っていた。
意外や話はしっかり作られ、バラックの内部のような溜り場で寝起きする辺境人らの矜持を描き取っていた。話を構成するのはどこかで見たような設定や人物だが取り合わせに必然性と新鮮さがある。
メインステージ(下手側=溜り場)は狭いものの、上手のカラオケステージのような段(小屋の外)、客席の上手最上段(おとぼけ刑事=女上司と男部下の車中)、時には観客用出口も使い、自由度が高いというだけでなく理に適っている。
役者は皆達者で、笑い系に強いのが笑わずに堪えて(アウトローゆえに「笑っちゃう」生活実態ではあるのだが)、人物を生き通した末に滲み出る否定しがたい色というか香り、人物らしさを滲ませ、一つの絵ができていた。

存在しないが 存在可能な 楽器俳優のためのシナリオ

存在しないが 存在可能な 楽器俳優のためのシナリオ

シアターX(カイ)

シアターX(東京都)

2019/07/05 (金) ~ 2019/07/07 (日)公演終了

満足度★★★★

レパートリーシアター海外編2度目の観劇。
今回もポーランドから招聘した舞台だが、俳優ヤン・ペシェクが76年初演以来40年以上演じ続けてきたこの「一人芝居」は、完成度の高い、というより特筆すべき演目であり日葡国交100周年の今年3度目の来日が実現した。
劇場主催レパ公演だから入場1000円だが、上演時間の短さ(1時間)を差し引いても(他国語である事への配慮など諸々体裁を整えれば)最低でも3500円が相場だろうと無粋ながら考えた次第。

タイトルにある「楽器俳優」という単語が刺激的である。関心の向きはシアターXのサイトで確認の程。演者は老優とはいえ今年75歳とは思えない身のこなしと闊達さで「晦渋な演劇理論」(を喋っているらしいとはパンフにあった)を懇切に熱っぽく表情豊かに語りながら、舞台上に散在する物に目を留めてはそれと戯れる。凡そ「理論」と似つかない優れて具体的なモノとの交遊のバリエーションがツボである。
言語を介して生徒(大学の講義を想定すれば観客は学生)と対峙する態度と、物と対峙する態度はどうやら同じ次元にある。人類の始原を描いた映画に登場した猿のような「物」への純真な眼差しと、同じく演劇にも向けられた結果なのに違いないがこなれて難解化した理論とのギャップは激しく、それが同じ時空の中に区別なく配置されているので笑ってしまう。異国語じたい「難解」な訳だがこの言語世界に、「物」と遭遇する事で浮上する「反応する身体」が首を出す。だが本人の脳内では講義の時間は途切れなく繋がり延長している。

シナリオを書いたボグスワフ・シャフェル氏は1960年代に当時演劇を学んでいた19歳のヤン氏を見出し、この俳優に当て書きしたこの作品を10年後(74年)に渡したという。ヤン氏自身はこの作品を当初はつまらないと思ったとの事だが、あるアイデアと共に輝き始め、楽器俳優との概念が示す演劇=音楽(音で作品が構成される)との視点から多くを学んだという。

ネタバレBOX

初日は終演後ロビーで交流の時があり、通訳を介して会場との様々なやり取りがあった。日本初のパントマイマーと紹介された人、ヤン氏演出による日本での舞台の出演者などなど。ヤン氏とシアターX、日本との関わりの年月を垣間見る。会場には欧州系の人々の姿が相当数見られ、日本語ポーランド語どちらの発言にも反応していた。ポーランド人が日本に居ても不思議はないがこうしてみると新たな発見である。
ノーカントリーフォーヤングメン

ノーカントリーフォーヤングメン

コンプソンズ

シアター711(東京都)

2019/07/02 (火) ~ 2019/07/07 (日)公演終了

満足度★★★★

初の劇団。チラシが中々の好みである。タイトルにも何かくすぐるものがあった、と後で思い当たるが気付くのは芝居の途中。既視感を覚えてある映画を思い出す。と、芝居のタイトルの中に映画のタイトルが...。
その映画と符合する所から書けば、ある得体の知れない男がある地方(田舎)を訪れている。連れの女がこの地に住む人を訪ねたがったのに付き合った格好だが、まず交番での会話で人物の異様さが明らかとなる。この種の人格を造形し得た事が私としては大きい評価対象だ。男は常人に受容されがたい理屈を、真顔で威圧感と説得力を持って語るのみならず、他者の人格の隙き間(非整合性)に冷酷な楔を平然と撃ち込み、獲物を狩るようにしとめる。しかもそれが当然の事として行なわれ感情を高ぶらせることもない。
映画館でその映画を視た時は衝撃で動けなかった。確かパルムドールも取って広く知られた作品だが、善悪の彼岸にある風景、言うなら前世紀末からの不穏な思潮を煮詰めて人格化したかのような怪物におののくと同時に、深く納得する所があったものである。映画の中にある娯楽要素とは、勝敗が(一方の「死」によって)容赦なく決まる所であったが、この殺戮者の中に何らかの一貫した哲学を感じさせる要素は映画の中に仕込まれている。結局それが何かは「判らない」のだが。
芝居のほうではこのサイコパスは話を進める一要素に過ぎないが、芝居が取り上げているテーマ(超越的・超自然的存在と人間の関係?)にうまく絡み、深みを与えている。
話の本筋は、彼の来訪を受ける「地方=田舎」のスピリチュアル世界に毒された?若者たちによって展開される。神社の神主(巫女カフェを作って金儲けし、人格的成長を一切拒否して人格者的著名人になりたい超低劣な俗物)、マタギであった父との幼少時代に何らかの傷を負っている元野球少年(父と居た山の中で父が撃たれ自分が生き残った。野球人生に挫折した)、警察官であるその兄、その彼に自殺を止められ一緒になった妻(常に夫を罵倒している)、その親友でやりマンの女、その夫(地元愛が強く先祖からの墓を大事にしており、神社と接する墓を壊すぞと神主から脅されている)、元野球少年は十代から女子にはモテ、大人や子供からは期待されるタイプだが今は超自然のパワーで世界を(村を)守ろうとするサークルのリーダーをしている。そのメンバーであるどこか抜けている3人の男女、そして彼に影響を与えている「たんぽぽ」なる女性、この人物も幼少時に不思議な逸話を持ち、ある霊的な力を持っている。この話は、その力を関係者(神主然り)がほぼ皆信じている前提で進む。
エピソードは点描式に転換でテンポ良く進み、印象としては超自然要素に加え意表をつく着ぐるみや歌と踊りなどが挿入され、タッチは殴り書きに近い。だが喧騒に支配されない静謐の時間が確保され、聞こえるか聞こえないかの協奏曲は美しくはないが心地よい。正論を勝たせる事なく混沌を良しとし、露悪に陥らずエネルギッシュで悲哀も滲むが冷徹、という線をうまく位置取り、結論を持たない劇であったが中身は好物であった。

エダニク

エダニク

浅草九劇/プラグマックス&エンタテインメント

浅草九劇(東京都)

2019/06/22 (土) ~ 2019/07/15 (月)公演終了

満足度★★★★

ロングランも折返し地点。鄭義信演出版「エダニク」を浅草九劇にて鑑賞の日がやっと来た。3度目になる同戯曲の観劇、関西人作家の作品をコテコテ鄭演出がどう料理するかが関心の中心であったが、序盤で吉本新喜劇路線全開、演出家の血は韓国以上に関西が強いのではないか・・との考えさえ。
ヒューマンなドラマと笑いには奇妙な親和性があり、鄭義信の舞台はこの笑いを極大化した中に発露するヒューマニズムが特徴、とも言える(かも知れない)。その特徴が果たして今回のこの戯曲とうまくマッチングしたか、が一つある。戯曲から笑わせ所を発掘し見せ場とする技はさすがである。ただ終盤、笑いからヒューマンへの転換にG以上の急降下を要する箇所では、胸にぐっと迫る場面への豹変を待ったがそこへ持って行けなかった。感動的な終演を狙っただろう照明(光量の上昇)もやや付け焼刃の印象。
鄭の「極大化舞台」の立役者となるには、3俳優の力量の総和はこれに及ばず、もしくはこの戯曲にその路線が正しい選択だったのかの問題は残ったと思う。

ネタバレBOX

公演も10日を超え、芝居も熟す頃合いと期待したのだが・・・舞台は「観客が育てる」もの、しかも唾も届きそうな小劇場、みれば平日昼間とは言え客席の殆どが若い女性である。ジュノンボーイ稲葉友の超デフォルメ演技に声の無い笑い(肩を揺らす)が起きる妙な空気感に、「育ててもこの程度」の原因を邪推したものであった。
終演後、二列ばかり後ろの座席に、先日目にしたばかりの「御大」の姿があり驚いたが、受付に並んだグッズを見て思い出した。役者の一人が大鶴佐助(御大の息子)、意外に巨漢で社長のボンボン役の秀逸な演技を見せていたが、ラストの予定調和なヒューマン場面では所在なげな風も。関西弁を連射する役に阿佐ヶ谷スパイダース・中山祐一朗が一人野育ちのような毛筋で、一切笑顔をみせず、お笑い生産面では真正面演技で健闘していた。
フィーバー・ルーム

フィーバー・ルーム

PARC 国際舞台芸術交流センター

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2019/06/30 (日) ~ 2019/07/03 (水)公演終了

満足度★★★★★

既に公演は終え、「次」の機会がいつかも知れないが。
映画監督アピチャッポン・ウィーラセタクンの名をどこかで見た、というだけの縁だが一昨年TPAMに「来た」と聞いて色めき立った。今回、事前情報は殆どなく“観劇”に臨んだが、映像作家による未踏の実験パフォーマンスであった。

ネタバレBOX

プレイハウスのロビー内は「整理番号」順にぐるりと紐状の一列が既に出来ていた。案内があり、順次ステージ側に通じる薄暗い通路を通る。会場に入ると目が慣れるまで時間の掛かる僅かな照明(床上何cm位を走る照明?)を手がかりに空いた席を探して座る(座席エリアは比較的狭い)。後部の椅子席はほぼ埋まっており、前部の座蒲団席を選んだ。「皆様がお席に着き次第始まります」とアナウンス。
照明が消えるとゴォォォ..と環境音が唸り、映像の受像幕が天井から降りて来て、いよいよ始まり。(時間があれば後日追記。)
白鳥の歌/楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜

白鳥の歌/楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜

劇舎カナリア・劇団だるま座

ギャラリーX(東京都)

2019/06/27 (木) ~ 2019/06/30 (日)公演終了

満足度★★★★

最近シアターXで古典発掘的な単発公演をやってるユニット(以前は確か問合せ先にこの名を見たような気がするが今回は団体名義の公演)。
『楽屋』に惹かれ、といっても他公演を断念して次候補の同公演が浮上。全くの未知数であったが、結構面白く観た。
シアターXの建物の別口の階段を上がったギャラリーXというスペースで、劇場ではないがそれなりにステージを設えての上演。中央に大きな柱があり、それを避けて二方向に客席が階段式に組まれ、ステージの方は最奥(部屋の隅)上部から黒布(黒幕)が川のように長く緩い傾斜で末広がり、「平野」部分が一定面積あって箱馬4つ置かれている。
開演直前に入場すると主宰・山本氏が喋っている。長い前説を終えると「一応こっちに引っ込んでネ」と客席のうしろに回り、「では、入ります」とか言いながら前へ再び出ると「ここから、お芝居」照明変化するが相変らず「お喋り」は続く。だが、無駄感なく一人芝居の枕、本編とも「楽屋」の前段・導入となっており、力の入らない滑らかな語りからの流れはうまく作られていた。
氏の事はよくは知らないが演劇界での経歴を積み、このユニットは氏なりの実験・実践の場であるらしい。役者としては勘所を押え、「楽屋」演出にも場所ならではの趣向や遊びもまじえ、役者のキャラと場面の流れには一つの正解を提示し、一々納得させるものがあった。(「楽屋」には様々な正解の形と正解に至らなかった形とがあると思っている。)
ただ私の好みでは、全員白ずくめの衣裳、顔に白が入った(生者も)象徴表現は、火傷跡などが作り物じみてしまうのを回避していたが、役者の顔はもう少し見えたかった。
演技は緩急を気持ちよく見せ、中々達者揃い。

メディアマシーン

メディアマシーン

劇団 風蝕異人街

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/06/28 (金) ~ 2019/06/30 (日)公演終了

満足度★★★

リオフェスも終盤、今年は無念にも吉野翼企画も見逃し、この一本のみであった。
終演後「これから準備が出来次第××を始めます」と案内があり、見ているとブルーシートや、岸田理生の遺影が持ち込まれ、どうやら始まるのは慰霊祭らしい(後で調べれば「水妖忌」と言い、命日の6/28に行なわれるそう)。
故人の死は2003年。リオフェス(岸田理生アバンギャルドフェスティバル)は2007年に始まり今年第13回。数年前アゴラでの観劇をきっかけに作品と作家を知りフェスの他会場にもたまに足を運んだが、参加パフォーマンスは傾向というか部類というか、ある共通項がある。その印象は今回のパフォーマンスにも合致したが、意外な事にこの集団は「寺山作品などずっとやってきたが身体パフォーマンスは初挑戦」だという。北海道を拠点に、背負った劇団名である。
劇団サイトには「踊りたい人募集」的な文字があり、「初挑戦」と考え合わせ、どういう踊り手との出会いがあったんだろう・・等と想像する。「コンテンポラリー演劇」といういささか長閑な命名の実態は、要は「踊りと芝居」の融合な訳だった。私流に解釈すれば、劇団としての新領域への挑戦は、時代を遡っての追体験という事になっているのではないか・・。もし当たっているなら、望むのは一つ「新領域を作り出して欲しい」。

ネタバレBOX

観劇の時間に戻れば、、初挑戦でなく得意部門をやっているに違いないとの前提で観て気になったこと。舞踊としてみた基準では動きが凡庸である事に加え、幾つかのパターンの動きと対になっている曲(オリジナル?)じたいはそれなりであるが、出力での音質の悪さはかなり気になった。そしてリフレインで作られている曲のある部分、曲調の変化をもたらすチャレンジがもう一歩あって良かった(ここがもしや分かれ目であったかも)。以上、「今」の自分に届く何かあり得るとしたらそのポイントは何か、つらつら考えた事。
男女逆転〈マクベス〉

男女逆転〈マクベス〉

ワンツーワークス

赤坂RED/THEATER(東京都)

2019/06/20 (木) ~ 2019/06/30 (日)公演終了

満足度★★★★

ワンツーワークスを観る頻度もやや上がって来たような。今回は「マクベス」である。黒澤明『蜘蛛巣城』を含めると結構な回数この悲劇を味わって来たが、はっきり言って好きである。そして今回の舞台はこの作品の勘所はきっちり押えて、嘆きの言葉さえ聴く者を酔わせ、激情をかき立てる終始緩む事なき悲劇な物語に浸らせてくれた。
経験の浅そうな若い俳優からベテランと思しい俳優まで、それぞれ役割を果たしている。次のシーンや行動へ弾みをつけるための抜かりない動機の仕込みがなされ、思う通りにボルテージを高めてくれるのを快く味わいつつ、悲劇的情緒に心を燃やすという、こういう罪な娯楽もないかも知れない。が、こいつが人間というものと自覚すべし。

ネタバレBOX

男女逆転、とある通り、女優の数が半端でない。先日の座高円寺での芝居も、「役」に女性が多く、それを男が演じて全員男性であった。今回は男として書かれた「役」を女性に置き換え、女は男に、という翻案である。それによって生じる文化人類学的な問題、例えば女が外で戦い男が家を守るという形について考察が始まる。「女系社会」というのは実際に見られる形なのだそうだが、男女の役割分担が異なることは「あり得る」事だと想定でき、「そんなもんだ」と思えば違和感なく見ることが出来てしまった。もちろん、疑問を持ちつつ検証しつつ舞台を観ることにはなった。そして見事クリア。徐々に「これが当り前の姿かも」と、錯覚し始めている自分がいた。
特に最後の勝利の歓声は、女性が心底から発することで、男性が上げる声とは異なる純粋さが滲む。それは感動的である。女性が持つマイノリティ性という「現代」の感覚を投影するからだろうか。オーラスで剣を提げた女性戦士らが、前方を見つめて今に涙しそうに歓喜に震えるシーンがある。この場面、一般的演技になりがちなところ、古城氏の演出だろうか、最大級の感情表現をもって来させた。カタルシスである。
その前段、例の(寝返ったとみられ、事実そうだった)マクダフの家族殺しをやらせたマクベスと、マクダフ本人の対決が最後の戦闘シーンでのクライマックスだが、妻もとい夫と子供達を虐殺された原因が、前王もとい女王の息子もとい娘の下に駆けつけたことにあると悟って泣く。この場面から最後の対決シーンまで、演じた山下夕佳が文句なしに「格好いい」と思えた。そういう役柄ではあるのだが。
異性ゆえに、異性(女性)に対する心情でなく性を超越して凛々しく立つ姿に、素直に「すげえ」と思ってしまったが、本当に男女逆転した社会では、男性が女性に「惚れる」時、このような感情が生れるのではないかと想像させた。
その日のトークでは女優3名が、「男性は何をやって暮らしているのか」という疑問をやはり持っており今も解消していない事を述べていた。演出には「そんな事は気にしなくていい」と一蹴されたとか。
オレステイア

オレステイア

新国立劇場

新国立劇場 中劇場(東京都)

2019/06/06 (木) ~ 2019/06/30 (日)公演終了

満足度★★★★

中劇場へのなだらかな階段を上ったのは昨年1、2月頃、シス「近松心中物語」で久々だったが、新国立主催公演では何年振りになるか。2011~2013頃白井晃演出舞台や、森新太郎エドワード二世、宮本亜門サロメなどを観たものだが、今や殆ど貸し小屋状態である(PARCO休館の影響大か)。その中劇場で、文学座新鋭上村聡史がやるというので、昨年の「城塞」を観そびれたリベンジもあり、デカイ箱をどう使いこなすかも気になり、また「オレステイア」海外作家の翻案というのも気になり、今回は休暇を取って予定に組み込んだ。
実はもう一つ、燐光群出身の俳優下総源太郎をしかと観るため。燐光群と言えば現状、腕のある俳優が「流れ着く」場所であり、俳優休業で姿を見なくなったというのでなく役者として研鑽を積み「上」を目指そうと退団した人はあまり見ない。話が逸れまくるが、2000年代前半からの燐光群ウォッチャーとしては当時宮島千栄や江口敦子、内海常葉(後に音響に専念)、向井孝成、ペ優宇といった面々がおり、そして声を聞かせる下総源太郎の名があった。当時は芝居=戯曲一辺倒、幾らか演出という観念で、私は坂手の「本」や演出に心酔したものだったが、それを支える俳優という存在に意識が向かいつつあったのも、存在感ある俳優との遭遇があり、下総氏はその大きな要因だったに違いない。もっとも坂手氏は俳優の出来不出来に左右されない舞台の作り方をする人とも思うが。

さて4時間20分の構成は、3幕あるオレステイアの1幕が1時間余、2・3幕が1時間半余、最後の裁判シーンが1時間弱。休憩2回計40分。
「翻案」は、主人公オレステスが精神科医の治療室で自分の過去を思い出し、その再現として本体のドラマが展開される、そしてオレステイアを構成する3作品の3つの事件が終えた後、生き残ったオレステスを被告とする裁判が開かれる、というものだ。
今展開する情景は客観的な事実なのか、誰かの主観による再現なのか、微妙に揺らぎ、判然としない中で物語は進む。だが、客観性が際立つカメラによる中継映像が流れたり、主人公の発する言葉と周囲との微妙なズレなど、二次元の画用紙に書いたような一篇の物語に収まらず幾重にもメタ解釈が仕掛けられていそうな雰囲気が醸されているので、飽きない。
趣里、神野三鈴の達者ぶりと横田栄司氏の完成形のような風情が特に印象的。佐川和正やチョウヨンホの勿体ない使い方も。倉野章子の舞台を私は初めて目にした。生田斗真は顔は知っててもどういう仕事をしているのか全く知らない事に気づいた。
客席の女性率の圧倒的高さには、毎度圧倒される。

ネタバレBOX

物語: 男オレステス(生田斗真)の幼い頃、父アガメムノン(横田栄司)がトロイとの戦争に勝つため、神託に従って娘イピゲネイア(趣里)の命を神に捧げた(神託を授ける者/狂言回し=下総)。だが長い戦いの末勝利を収め、凱旋した夫を母クリュタイメストラ(神野三鈴)は捕虜にした愛人もろとも殺してしまう。母は夫を憎む一方でその弟アイギストスと親密になっており、我らがオレステスは父を奪った母を憎み、アイギストス共々殺してしまう。この最後の殺しを本人は中々認めることができず、物語中時折登場したエレクトラ(音月桂)は実は彼が作り出した存在である事が終盤に判ってくる(解離性障害)。
娘殺しの夜、父に会えて嬉しそうにはしゃぐ娘に、三つの紙コップに入った飲み物を飲ませ、命を奪うシーンでは、幼いオレステスは紙コップの盆を運んでいる。このシーンでは現場に撮影クルーが入り、父が娘と頬を寄せ合うドアップの映像が舞台上方に映し出されるのが、秀逸である。ちなみにその「場所」というのは奥行きの長い舞台のやや奥あたり、2幕では半透明のカーテンが囲う四角のエリアで、殺人の象徴である西洋式の浴槽が置かれたり、場面により効果的に演出される。最後の裁判の場面では被告以外真紅の法衣をまとった中で、1人預言を行なう者(倉野章子)が背後で歩きさまよう場所にもなる。クリュタイメストラが凱旋した夫を「娘の死(戦争による死という事になっている)」にもかかわらず殊勝に迎える演説をぶったり、インタビューに答えるシーンにも(ここでも映像が入りカメラを通じて映像が客席に語りかけるこれも秀逸な場面)。

こうした演出や趣向が戯曲の文体にも馴染み、程よく難解で面白く見られるが、裁判の場で「物語」が男の罪という視点で議論が始まると、議論のレベルがいささか単純、学校の教科書解説本で解釈を読むような所で緊張の糸が緩み掛ける瞬間も。だが最終的に男は有罪か無罪かの判決をもらうことになり、この判決というものはズシンと重い。裁判がどんな法的効果、実効性を持つのかが示されておらず、議論のための議論にも見えていた所が、「判決」と聴いた時の厳粛な気分というのは不思議なものだ。
判決を聞いたオレステスが、それをどう受け止めるかまで戯曲は台詞にしているが、最後の言葉のチョイスは難しい。別な言葉でも良かった気がするが、ギリシャ悲劇への西洋人の一つの読み方というものを味わった気がする。

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