満足度★★★★
小野寺修二がここ数年所縁のKAAT公演で接点のあったベトナム人ダンサーや台湾人ダンサー、シアターXで協働したろう者劇団のダンサーとで製作したステージ。
過去に観た『変身』『椿姫』『あの大鴉、さえも』等、原作という土台からの小野寺流の飛翔・抽象化を味わう観劇と違って(それでも相当程度抽象性は高い)、新作舞台ではあるテーマを「巡っている」感覚を覚えるものの正解には辿りつかない。
小野寺修二の舞台は装置の比重も大きい(動きがセットとの組み合わせで作られている)。原田愛による装置は足が不揃いのテーブルが斜面を作ったり組み合わせて広いテーブル状となったりひっくり返すと奇妙な形状の容器に見えたりする。摩訶不思議感が舞台に充満している。小野寺氏の振付はマイム畑だけにユーモアがありデラシネラの片腕藤田桃子の身体のキレも人間の滑稽さに収斂する「技」が秀逸、他の踊り手もスポット場面を持つが、やはり凄いのはアンサンブル。
70分のステージの「世界観」は私の受け止めでは「境界」「封鎖」、閉じられた世界で生きざるを得ない状況が大きな枠組としてある。ただし彼らの中では別種の存在、すなわち出入り自由な管理人ないし支配者が認識されており(それに当たる役が登場)、非対称が常態となった(支配関係が固定化した)時空の中で、しかし彼らなりに濃密な人生の時間が刻まれているようだ。虫にも一分の魂ではないが、巨視的視点と微視的視点の双方へ誘われる感じがあった。
難解さについて考えるに、小野寺氏は自身にとって具体的な何か(具象や概念)を「動き」=比喩に落とし込む作業がある部分で為されているのではないか。ダンサーや振付師なりの身体言語(表現)体系の「内部」で完結した表現ではなく「翻訳語」(ロゴス=意味に対応する身体表現を探し当てたもの)が混在している、ゆえの抽象性ではないかと思うフシがある。全くの推測だが。