紛争地域から生まれた演劇シリーズ12 公演情報 公益社団法人 国際演劇協会 日本センター「紛争地域から生まれた演劇シリーズ12」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    毎回情報を得た時には完売のパターンで2012年「第三世代」から数えて今回で鑑賞4度目であった。それぞれ興味深い内容で少なからずカルチャーショックを受けた事を思い出す。それを求めて普段は想像してみさえしない国・地域の演劇を観に行く。
    さて1演目のみ上演の年は今回初めてで、芸劇アトリエでのリーディングという風情は変わらぬものの(主催側の構えも違う=一作入魂?という事なのか)1500円のリーディングならこの程度、という枠をかなり超えていた。小林七緒演出、彼女の所属劇団(流山児事務所)の常連でもある諏訪創が音楽をふんだんに提供し、これが最初現地での上演から借りたものと思った程異国情緒がネイティブ。キャストはその前提での布陣か、山﨑薫を始め、ソロでは井上加奈子等、群唱も迫力あり。音楽劇の趣きもあった。

    イスラエル・ラビン首相の暗殺を題材にした演劇を、あるセンター(何等かの問題を抱えた人が集う施設)のメンバーによって上演される時間が、この芝居の時間である。冒頭、このリーディング上演と劇中劇上演を兼ねた開始の挨拶を演出小林女史(多分)が行なう。またこのリーディングの主催団体の担当者が、劇中の近い役に動員され「らしさ」が活きている。10名前後の役者も最高齢だろう藤井びん以下各年代にバラけ、キャラも各様で良い空気感である。・・と思ったのだが、どうやらそう感じたのは皆登場した後、台詞のない時間「出番の無い時に座る椅子」に座っていても「役」を演じ続けているからだ、と思い当る。細長いアトリエウエストに、一段高い木製の台がステージとして横長に置かれ、その向こう側に椅子が並び、役者、というより劇中の役者(センターのメンバー)が待機する場になるが、誰かが喋るとにやけたり、感情を表出したり、劇に割って入って止めたりする。彼らはこの演劇を自分たちの「問題への取り組み」の成果として一般の観客(それは市民であったり関係者、または行政担当者、あるいは政治家を想定しているかも知れない)に披露し、理解してもらおうという姿勢が滲んでいる。中断した演劇を再開したりそこで生じた事態に介入する際に観客に向かって説明を行う場面もある。
    上演している現実の時間と、劇中の時間とは錯綜するものの、役名の札を下げたり演技モードが変わるため「劇中劇」との境目は判りやすい(事情に疎い観客には劇構造が飲み込みやすい事はとても重要)。
    ラビン暗殺という結末に至る劇と、それを中断するメンバーによる自己主張がどのような言葉を紡ぎ具体的に何を問題にしているのかは判然としない。だが「首相」という役にしては彼に異を唱える者が多く、しかし「劇」は彼を肯定的に位置づけている事は判り、その役を演じるビンデル(藤井びん)個人は「首相」の立ち位置と同期している事も分かる(後で読んだ解説では劇作りを提案し主導したのはビンデル)。それがため首相と反首相派という劇中の関係のみならず現実(劇が止まった時間)でもビンデルが説得姿勢で相手と対峙する場面がある、というのも何となく。
    そのあたりで漸く私はイスラエルで唯一「パレスチナとの対決姿勢を崩した」首相、即ちかのオスロ合意に調印した「和平に勇気をもって踏み出した英雄(恐らく作者にとって)」という史実に結びついた。なぜ彼は暗殺されたのか、この事実と今どう向き合うべきなのか・・この問いがこの劇の問いであり劇を上演するというシチュエーションにおける対話と事象を通して問おうとした問いである、(という風な状況が描かれている)と判る。
    平和を望むイスラエル人が、その後再び訪れていない雪解けを無にした事件を痛恨の思いで振り返るのだろうその思いを、伝え想像させる熱量のある戯曲であった。
    ラスト、首相を射殺する暗殺者役の若者は、実弾の入った銃で「ビンデル」を打ち殺す。戯曲の言葉を十分に追えていない自分には唐突な展開であるが、現実の社会にある対立構図はセンターの中にも拭い難くあり、ビンデルにとっての理想に近づく手段としての劇作りは、同じく理想に近づこうとしたラビンの行動と同質のものであり、ラビンが受けた「制裁」は当然にビンデルに与えられるというイスラエルの現実を映した。もっと想像を広げれば、ラビン元首相に言及する事それ自体がタブーなのかも知れない。日本にもタブーが随分と増えた気がする。

    ネタバレBOX

    個人的に特筆は、藤井びんに次いでベテランになるだろうか、井上加奈子女史には幾分思い入れがあったのだが、今回の上演で彼女が披露した胆の座った女性が発する低音の声に、私は釘づけになった。
    個人的にと言っても大した話ではないが、演劇に興味を持ち始めた二十数年前にTV放映で見た永井愛作「時の物置」で、描かれた1961年(安保闘争に破れた市民が「経済」へと方向転換していく分岐点)で井上女史が演じた役は、不器用な長男(小さな同人誌を作っているがやがて「名声」に飢え有名作家に自作を売り込む行動に走る)と違って、割り切りよく町工場の経営者にくっついた「前向きな日本人」の典型である根アカな長女役だった。
    井上女史の生の立ち姿を見たのはその十数年後になるか。アルカンパニーの公演で3本程観たどれも秀作だったが、女優井上氏の仕事はどこか控えめな印象。心のどこかで「芝居の世界」に魅入らせたかの作品を弾けた演技で彩った三女優(大西多摩恵、田岡美也子と共に)の近年の活躍を追っている所があり、中でもアルカンパニー絡みで身近に感じていた存在な訳であった。
    さて今回は台本を持ちつつのリーディングとは言え実際の劇のように動く臨場感のある舞台、そして音楽。劇終盤、緊迫した状況での井上女史のソロは、センターのケアスタッフらしい立ち居振る舞いと声共々、存在感があった。そういう役どころであったとはいえ、作者が描こうとする絶望的なテーマの「深さ」を理解し体現する仕事は、誰もが担えるものではないかも知れない、という感じを持つ。厳しい状況の中で、その厳しさを認識しつつ強い心をもって立つ、という姿に、私は感動したのかも。。
    リベラルである事や、人と社会に寛容さと公正を求める心、その生き方を一度潜る事がなければやれない、と言われるような領域に今はなっているのか、等と少々ネガティブな想像をした(よく芝居では極限状況を体現する難しさとして「戦争」が言われそうだが、今は「リベラルな心」の方が体現しにくい時代になりつつあるのではないか)。
    エゴや本音を自ら露呈する(露悪)演技、誇張する演技の方が(ここ20年のお笑いの主流であるし)今時の役者は巧く、自分も舞台上のその弾け具合に笑っているように思うが、一方でいつしか霧消して行く途上にある領域がありそうだ。

    0

    2020/12/17 01:00

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大