ミュージカル「NINE」 公演情報 TBS/ 梅田芸術劇場「ミュージカル「NINE」」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    ライブ配信で鑑賞。映像は生に及ばない事は承知で、一言感想を。

    藤田俊太郎演出舞台は今年春の「VIOLET」が流れ、今回漸く初鑑賞できた。
    「観たい」と思った理由は、フェリーニ監督の『81/2』(はっかにぶんのいち)に因んだ作品であること。更に賞をとった舞台と来れば期待は嵩増しである。
    フェリーニの映画は好きだった。十代の頃テレビで観て衝撃を受けた『道』や、「カビリアの夜」あたりの初期作は「小さな存在」への眼差しがあり、フェリーニの原点が偲ばれるが、中~後期の映像詩と呼ぶべき作品こそ「フェリーニ映画」、度肝を抜くセットや破天荒なフィルム繋ぎ、ストーリー説明がなく強烈なイメージの映像が語るに任せる独特な手法、フェリーニ節が全開である(見たのは「そして船は行く」「カサノバ」「サテュリコン」「ジンジャーとフレッド」「インテルビスタ」「ボイス・オブ・ムーン」)。「81/2」もザッツ・フェリーニと言うべき作品で、映画製作に行き詰まる(アイデアが湧かない)映画監督グイドの苦悩と荒廃と、再生の物語。最後には不思議な幸福感に包まれる。この作品が芸術及び芸術家について書かれたものであるのは言を俟たないが、さらに人間を描いていると感じるのは例えば監督自身の幼少時の記憶を蘇らせる場面等である。

    さて「NINE」である。大型ミュージカルの「威力」を私は「ビリーエリオット」で知り、また「LENT」は映像で観ても楽曲が持つ魅力にやられてしまう。しかし「NNE」は色々と物足りなさがあった。
    大きな一つは楽曲である。昔懐かしのミュージカルメロディが「狙い」だったのか、それとも米国の音楽文化の割とスタンダードな形なのか分からないが、小編成オーケストラによる楽曲が私には物足りない。本来大編成での迫力を想定して作曲されたものを「簡略化」したように聴こえるからか。タカラジェンヌ出身女優が大部分を占める出演者の「生声」の歌はさすがだが、メロディラインをヴァイオリン等が補強していて、同じメロディをなぞる女優達の声を合わせると、どうも宝塚の舞台の雰囲気になってしまう。(別に宝塚が悪い訳ではないがどうも音楽的・声楽的には1ランク下がった感じに聞こえる・・何故か分からないが。)
    まあとにかくそれもこれも楽曲の良し悪しだろうと思う。しんみりと聞かせる母の歌や、女たちの荒々しさが見える群唱の曲など、中々見せる場面もあるが、ラストを締める曲が、曲・詞ともに深みがなくバシッと決まらない。散文詩のような舞台では、最後は楽曲でぐいっと心をさらうくらいでないと・・という後味であった。

    「物語」は城田優氏の演じる主人公グイドの女性関係と、修羅場と化す彼の映画製作及び人生そのものの行き詰まりを描く(そのあたりは原作と同じ)。心の拠り所である妻ルイザ、情熱的に彼を慕う女性カルラ、作品のインスピレーションをもたらす女優クラウディア、この3人に加えスポンサー、プロデューサーも女性。その他彼のファン、行きずりの女性と、ダンサー以外の出演者は皆女性だ。
    ある時彼はクラウディアから「あなたは一人の女では足りないのよ」と言われ、(実際は『81/2』より後の作品となる)『カサノバ』を着想する。ようやく製作が波に乗って来たのも束の間、作品中に自分のプライベートが使われていると憤慨した妻に去られ、「夫と別れた」とノリノリで言ってきたカルラをそれどころじゃないと邪険にした結果ついに思い改めた彼女にも去られ、元々気難しかった女優クラウディアにも映画現場を去られ、グイドは一人になる。「全てを追う者は全てを失う」、という格言が自ら語られ、出演者総勢による合唱で劇は閉じられる。

    映画を構成する多彩な映像イメージは、主人公の現実であったり想念であったり、また「あり得る」別の現実であったりする。だがその判然としない中に光が刺す。ありきたりな言葉を使えば「物事全て捉え方次第」、フェリーニの出自であるカトリックの「全ては起こり得る」楽観性(神への信頼)もバックボーンにありそうだ。『81/2』の最後、恐らくだが作品制作に対しグイド自身が持ち込んでいた負荷から彼が解き放たれ、映画製作を放棄しても確かに存在する自分自身に出会い、その瞬間彼がそれまで出会ってきた人々の存在にも気づく、という事が起きる。その時彼は、映画もそのように撮ればよかったと気づくのだ。そしてそれは毎回映画製作者としてのフェリーニが苦悶の果てに辿り着く「完成」までのプロセスなのだろう、とも想像させる。人生においても何が肝心なことかを見失う場面を体験する。映画のラスト、人々が広場で隊列を組んで歩き出すと、それまで孤独にあえいでいたグイドの目に、彼らが自分の味方である(友人である)と映っている。
    「NINE」の舞台は、孤独になった主人公が孤独を歌い上げるクライマックス、その後特に説明を施さず皆が登場して比較的淡泊な楽曲の「大団円風」でさらりと幕を閉じた。結局原作(映画)の設定を「使った」だけにすぎず、ミュージカル化する意味があったのか・・私にはもう一つピンと来なかった。

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    2020/11/25 06:36

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