
シブヤデマチマショウ
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2025/08/01 (金) ~ 2025/08/03 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
シブヤデマタアイマショウが予想外に面白かったので、こちらも観に詣でた。例のアクターズ出身の若手が出演陣と思しいリーズナブル価格という事もあり。
冒頭のアナウンス(前口上)では簡素な美術を卑下しつつ、松尾スズキ芸術監督就任して間もなくの東急デパート解体、コクーン休館にも自虐ネタ的に触れる。氏の渋谷愛・コクーン愛の眼差しがそこに住まい、行きかう人にも届く。その一粒たちである彼ら、夢と現実の狭間に揺れる現代の二十代なりのリアルに寄り添うエピソード、台詞に心がほどけて行く。やはり独自の世界観を持つ作家であり演劇人だな、と思う。若き俳優たちがこれを目一杯、十全に体現している(歌や踊り、楽器と何気にレベル高し)。

おーい、 救けてくれ!
鈴木製作所
雑遊(東京都)
2025/07/30 (水) ~ 2025/08/03 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
過去それなりに上演されていた模様だが認知したのは初めて。サローヤン作、に目が止まり、馴染みのある川口龍氏出演の回が都合良く空き時間に当ったので観に行った。約50分。短編戯曲として起承転結よく出来ているが、舞台としても二人の出会いの「純粋で無さ」を含めて生身の人間同士が出会うことの感慨に導かれる、匂いのある舞台だった。(短編のよく出来た戯曲で狙われがちなスタイリッシュさや軽演劇的な味付けには向わず、人間描写に徹し好感が持てる舞台。)

vol.41 「廃墟」、vol.42 「そぞろの民」
TRASHMASTERS
駅前劇場(東京都)
2025/07/25 (金) ~ 2025/08/03 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「廃墟」を観劇。Corichページを開き、改めてTRASH観劇歴を振り返ってみると・・題名で内容を思い出せる作品が少ないのでレビューなど眺めて「あーあの作品か」と合点。一作ずつ辿ったがほぼ観ている。初回が「狂おしき怠惰」これは「背水の孤島」が話題になったのでその次作を観たというヤツで。従ってTRASH歴13年になった。
以後観ていた中で一度、開演時間を一時間取り違えて駅前劇場を訪れ、しょんぼりと帰宅した事があったがそれが「そぞろの民」(レビューを書いていないので)。だがこの作品の記憶があったのは雑誌に戯曲が載ったのを読んだからだった(それを元に脳内で舞台イメージを作っていた訳である)。
と、今気付いたのでもう観劇には間に合わない。残念・・
というわけで「廃墟」の感想を。
新作ばかりを観てきた自分としては異例の公演に欣喜雀躍であったが、あの一晩中侃々諤々やる三好戯曲をTRASHがやると、TRASH的議論劇になるのかも・・?と一抹の不安ありであった(自分としては敗戦直後の物的に逼迫したリアリティをしっかり表現してほしい思いがあった)。だが結果は、中津留氏は基本リアリズムの演劇人であったのだな、という感想。以前文化座・東演の合同公演で観た衝撃の三好十郎世界の発見の体験に、十分拮抗した、また清新な切り口もある「廃墟」であった。
難点を先に書いておくと・・・リアリズムという点からするとキャラクターと配役の合致は望みたい。長男役の長谷川景は肺病を病んでなお「理想」に己の人生を賭けようとする造形としては、やや病弱イメージが薄い(台詞には「こんなに痩せちゃって」等とある。それでも会話は成立し、大過ありという訳ではない)。叔父役が少々リアリティに欠いた。お調子者の要素を強めに出していたが、南米に渡って一時は鳴らしていた事もある世慣れた人物像、それなりに一家言あるが殊更に(周囲の者のように)大声で主張しないだけ。熱くなりすぎず達観した所から物を言う。ある意味この劇を進める緩和剤的な位置であるが、今回の舞台では「おいおい」とツッコまれちゃう非常識側の色が強く出ていてそぐわなかった。また衣裳もセーターの色が合わず、わざとそうしたのかもだがもう少し別なチョイスがあったと思う。川崎初夏演じる居候(母代わり)「せい」は真心が表に出すぎ(役者として秀でているという事ではあるのだろうが)、女の弱さが不可抗力的に真面目な男(ここでは長男)を翻弄する「無意識の狡さ」があれば満点なのだが、という所。
浮浪者については、後半出て来て何をするでもない役だが、精神を病んだ「戦争の犠牲者」を想起させる役どころで、その描写は、本人は口がきけないだけに、彼をいじる側の演技次第という面がある。その点では次男を演じた倉貫氏の特攻帰りのアプレゲールの持つ狂気「押し出す」演技としては文句の付けようもない印象なのであるが、「見栄張り」と脆さをもう少し自然な演技の中に偲ばせる人物造形により、彼の「自然さ」を鏡として浮浪者の異常さを観客に認識させるのが、方法ではなかったか、と思う所。
顔に火傷を負った次女と、父役には満点を付けたい。
本作は「議論」としての凄みのある一方、物質的豊かさが「政治の季節(熱い季節)」を終焉させ「高度成長期」をもたらした事が象徴するように、劇中の彼らはひもじさをも「糧」として敗北からの未来を見通すための話をしている風景としても、見える。勿論、その前年まで「戦争」という激烈な状況を味わい、悲痛にあえいだ記憶が何より彼らを「その事をどう処するのか」の思考へと突き動かしているのだが、このような議論をした家族は無かっただろう。飢えをどうしのぐか、どう我慢して夜を明かすか・・そんな状態で普通議論はしない。ただしこの作品の彼らは仮にも歴史を教える大学教授の息子・娘らであり、そのような家風であった事は無理筋ではない、が、それでも行きがかり上あのような会話が生まれ、議論に発展し得るという事は奇跡に近いのであり、戦争を直に体験した三好十郎という一人の作家による架空も良い所のフィクションなのである。
にも関わらず、そこには真実があり、人間の感情があり切実な思いがある事は否めない。「戦争」というものをあの時点で三好は「憎んでもいない人たちの事を殺し」と人物に言わせ、「二千万人もの仲間を殺した」とする。このとき三好十郎は、新たに敷かれた国境(それまでは植民地・満州そして開戦後の占領地はニアリーイコール日本だった)の内と外を切り分けて人間を捉えず、「人間にとって」必要なこと目指すべきことについて考え、台詞に殴り書くように書いたのではないか。今考えるべき全てを洗い出し、ある生き方を全力で貫こうとする人物を通して議論させた。それをやらずに先へは進めなかった、のだろう。裏を返せば、恐らく「過去は忘れるべきもの」とばかり新時代を要領よく生きる人間たちが溢れていた故に、彼らを横目で見ながら、危惧を抱くと同時に彼らの分まで考え抜こうとした。
そして作者が戯曲に刻んだ言葉・・父の立場、長男の立場、次男そして次女それぞれの立場から吐かれる言葉は、彼らがその存在を賭して提示した思考をなおざりにし、遠い過去である事を良いことに都合の悪い事実を伏せて責任放棄を決め込んだ現在の日本及び日本人を、鋭く突く。意図せざる皮肉である。

寺山修司生誕90年記念認定事業「盲人書簡◉上海篇」
PSYCHOSIS
ザムザ阿佐谷(東京都)
2025/07/24 (木) ~ 2025/07/30 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
PSYCHOSISの前に観た舞台は高取氏の作品で独自の文体を演出を駆使して飲み込み易く舞台化してくれた印象があった。アングラ劇世界の現代的上演という特色で集客を得、精力的に活動を展開(頻度も高い)と思しいが、さて今作。寺山作「盲人書簡」は初めてであったが、数組ある「登場人物/場面」が、順繰りに暗転を挟んで現れるが、組が多くて相互の関連がいまいち分からなかった。関連自体があるのかも・・
その意味では、各場面の人物(ら)によって具現される存在(人物)群と、その象徴となる言葉と、それらの素材を通して寺山氏が透徹する人間というものの本質・姿を想起する劇・・・とはなっていた。少年愛の嗜癖に溺れる明智小五郎と、彼に利用されまた捨てられる盲目の小林少年、暗躍する黒集団、不在の母へのマザコン魂がある娼婦と出会いで妙な発展を遂げる少年、部屋にこもる少女・・特徴的な人物/場面が衣裳、歌、踊り、ギミックと飽きさせない趣向で繋いでいたものの、物語叙述の面では(恐らく題材によるのだろう)追えなさがあり、やはり観客は物語を追いたくなる。原作を知る人には、どう見えたか分からないが。
今回も深海洋燈が美術を担当、音楽もレベルが高く、PSYCHOSIS初期(つっても何年か前)に比して全体に力量が上がったと感じさせる(人が入れ替ったのか人が変ったのかは不明だが)。ただ作品世界の精神を伝える目的に技術が先行する勿れ。
次作を楽しみに待とう。

六道追分(ろくどうおいわけ)~第七期~
片肌☆倶利伽羅紋紋一座「ざ☆くりもん」
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2025/07/09 (水) ~ 2025/07/20 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
第三期だったかを観劇し、いたく満たされた時間であったのでもう一度観ようか、と思い立って観た。
結論的には、前回観たのが大変良かった分、今回点数が落ちてしまう。席も前回は前から二列目、今回は後ろから二列目。見え方も違ったが、俳優が違うとノリも深みも変わる。
とは言え、物語の骨格がしっかりしており、要所を締めて最終盤、本作の(自分としては)売りである現代に通じる世評を問いかける場面、人物それぞれ意を通じさせる場面で観客をぐっと引き込み、最終場面に持って行くのは流石。自分の周囲の女性たちは一様に落涙の様子。
と書きつつも、やはり前回は人の人間味や、細やかな機微が体現されており、序盤から個々の俳優に愛着が湧いていた。台詞のテンポの良さは今回が上であり、拍手や掛け声が湧く場面も前回以上であったが、自分が芝居そのものに引き込まれたのは終盤漸くであった。
私の好みはテンポ、粋なノリより「中身が沢山詰まっている」事なのやも。
第八期、最後のチャンスだが、さて。

みんな鳥になって
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2025/06/28 (土) ~ 2025/07/21 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ワジディ・ムワワド作品は覚悟を持って観ざるを得ないのだが、本作のえらくファンタジックな題名共々「一体どんな?」と未知数ゾーンへ入る気分で観劇。
終わってみれば休憩挟んだ3時間20分。地の果ての国のとある人々の人生、家族の歩みを胸一杯に飲み込み、心の友となった。
後日追記。

みんな鳥になって
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2025/06/28 (土) ~ 2025/07/21 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ワジディ・ムワワド作品の観劇は腰を据えて相応の覚悟で・・・というのも氏の戯曲は情報量が多く、長く、家族の物語だけに濃厚。情報的にも情緒的にも付いて行くのが大変なのでコンディションを整え、大きく息を吸って幕開きを待たねばである。
にも関わらず(午後は休みを取ったのだが)体調低下のタイミングに当ってしまい、前半何箇所か寝落ちした。が、それでも十分過ぎる情報と情緒とが終演時には自分を満たしていた。
過去目にしたムワワド作品「炎」「岸」「森」と若干趣きが異なったのは、(「家族」「民族」「他者」「人類の歴史と己の歴史(人生)」といった概念群についての壮大な問いかけである共通点はあるが)恋愛と性が「歴史」という大きな枠組みの中に組み込まれて叙述されていた過去(観た)作品に比べると、「恋愛と性の側から」歴史を規定しようとした事、である。即ちこれは男女の恋・愛の物語。作者はなぜそうしたのか・・
そんな事は判りはしないが、イスラエルを舞台にパレスチナ問題に触れる作品である事と当然無縁ではない。本作は2017年初演の作、とは後で知ったが、劇中時折伝えられる「自爆テロ」の報など、2023.10.7ハマスによるイスラエル攻撃以降すなわち現在をベースに語った物語かとも思いながら観た。(テルアビブからの脱出を話している家族の終盤の会話から少し時代が違うかな、とは思ったが、パレスチナ=イスラエルという「戦後」最も長く、最大にして最悪の紛争当事国をテーマに据え、作者が描こうとしているのは何か、凝視せざるを得なかった。)
作者ムワワドは「にも関わらず神は与えたもう」というのと同じ次元で、「にも関わらず二つの民族が壁を乗り越える時が来るだろう」と投げかけている。「今は離れざるを得なかった」二人を、いずれは再会せしめる事、又はその時の到来を約束すること(約束を真実たらしめるのは神であり人はそれを「信じる」しかないが、確信とは既にそれが(時を超えて)実現しているのと同義である)、執筆当時さえあまりに現実と乖離した「夢」だったろうその切望を終幕間際に作者は台詞に書き連ね、その筆致が生々しく痛々しい印象さえ残した。
恐らくそれは現在、地球上に存在する概念の内最も「悪」である名「悪魔」とでも呼ぶしかない某国の所行と、これを看過するしかない世界の絶望を前にすると、夢はあまりに儚く、それを語る意義も霞んでしまいそうで、痛々しいのだろう。
ただ私ら日本人の常識とかの国々の人々との違いも考える。悠久の時の中に己の(家族の)生を認知する宗教的な世界観と時間感覚は、引き裂かれた二人がなお結ばれようとする思いをリアルに受け止め得るのかも知れない。
ラストで見せたのは(過去作がそうであったような)世界という不動で深淵な摂理の中の二人、ではなく、この先の世界を見ようとする二人、であり、未来である限りにおいて希望が無いとは誰にも言わせない二人、である。

宮沢賢治『フランドン農学校の豚』
シアターX(カイ)
シアターX(東京都)
2025/07/09 (水) ~ 2025/07/13 (日)公演終了
実演鑑賞
ルティ・カネルという女性演出家とシアターXとの仕事は10年スパンに及ぶらしく、今回私はこの演目だった事で注目し、発見に至った訳である。座高円寺の上演はかの佃典彦脚色という事もあり宮沢賢治の世界観を美味しく味わった気になったのだが、原作は読んでおらず、今回例のアフターミーティングで観客の感想等を聞けば、例えば「この作品は宮沢作品でも異色である」事や、その原作の色合いを「忠実に再現した舞台であった」事など、自分が想定しない意見が述べられていた。
まず芝居としては「役作り」的な面は詰められていない。演出意図や趣向を具現する要員として立ち働いていた印象。その演出だが主人公である豚を訓育するためにムチを使い、そこだけ暴力的な音が出る。舞台装置や小道具が象徴的なのに対し、このムチはその象徴的であるはずの物(台)を力任せに叩いてパチーン!という音を出し、音量が突出している事もあって生々しい。が、叩いているものは偽物だからエセである。エセなのに本域で(リアルな動作として)叩くので、はっきり言って引いてしまう。
正直言えば例によって睡魔とも格闘していたので細部をかなり見逃している。そこで先の他の観客の感想と考え合わせると、宮沢賢治風のどけさは封印した、動物を食らう屠りの現実を無慈悲に描いたシリアス路線として見えたものだろうと推察。豚の叫びを賢治は皮肉を込めて描いたのか、寄り添うべきものとして描いたのか。仏教的な背景を考えると「殺生」とはこういうものだ、という賢治なりの、やはりシリアスな(子ども向けではあっても)ドキュメントであったのかも?
まずは原作を読んでみよう。

料理昇降機
劇団夢現舎
新高円寺アトラクターズ・スタヂオ(東京都)
2025/06/20 (金) ~ 2025/07/13 (日)公演終了
実演鑑賞
「ダム・ウェイター」とも呼ばれるピンターの本作は二度目なのだが、以前はどこかの商店街の一角にある店を借りた上演で、不条理劇の「判らなさ」と建物の構造を利用した演出が作品にどう噛んだのかの「判らなさ」に放逐された。今回の観劇においてはほぼ参考にならず、真っさらな気持で観始めたのだが、「判らない」不条理劇である事には変わりなく、逆に戯曲への関心がもたげて来た。
実は風邪に見舞われた体で薬を飲んで観劇。軽微に思っていたが薬が効いたのか寝落ちも幾度かに亙ればこの劇では追うのはつらいものがある、ただ以前観た「温室」や「管理人」に通じる「ピンターの不条理劇」の片鱗はあった。別役実と違い、ピンターの説明されない事態は背後に何か明確な対象が想定されている感じがある。それを探り当てるのは難儀だが、それを前提に観るのが正しく、眼前の現象のその向こうにあるものを凝視して行く事で見えて来るものがある・・その予感からすると、寝落ちしながらの観劇では到底辿り着けようもない、という結論である。
喧騒の合間に、全く動かない静寂の時間がある。これを耐えさせる緊迫感は中々であった。二人芝居。

音楽劇 金鶏 二番花
あやめ十八番
座・高円寺1(東京都)
2025/07/07 (月) ~ 2025/07/13 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
前作「雑種・・」を観た同じ座・高円寺の広いステージで、前回は対面客席だったが今回は通常の一方向観劇。TV画面を覗く構図に似つかわしい。横に十一間、奥も六間はある。舞台ツラから二列目かのステージ台を両脇を残して外し、中央の一つは一列目も外し、上手下手両側に一間四方の台が可動式の台として場面ごとに動される(人一人が引っ張ったり押したりで動く。高さ1M程度だろうか)。その向こう一、二間あたりには巨大な白いレースが吊され、その手前全体がTVスタジオ、周辺の照明機材(本物)も舞台装置に馴染んで溶け込んでいる(照明係りの役が一度それを使う場面がある)。レースカーテンが切れた上部、客席からは遥か上を見上げる格好だが、キャットウォークにも人物が動く。実験放送に着手したNHK(日本放送機構)を管轄するGHQの下部機関CIE(?)の日系人トップが君臨するように歩く姿、またスタッフが糸操り人形を手板で操ったり・・。
上手のシーリング近い高さには太陽のようにデカいパラボラのような円の物体が吊るされ、ぼんやりと白く光る(これは照明を当ててそう見せている)。楽器隊は下手奥。Key、Dr、accord、ファゴット?、tpが入って五重奏と贅沢。
「音楽劇」と謳うだけあり、普段のあやめ十八番も生演奏の劇伴は劇全体に及ぶが、その比でなく、拍手ものの華麗な(レビュー曲のような)楽曲から、涙ものの胸熱の歌、他バリエーションはミュージカル並み(音楽劇との名称は控えめに感じる)。
C/Dの分数コード(の短三度上げ)のノリ(これは言葉で説明できん)が冒頭でポロリンと流れた時は「ほーらTVだよ」と無理に盛り上げ話に付き合わされる訳じゃあるまい、と一瞬警戒したがすぐに解消。戦中の回想をまじえた終戦直後が舞台のTV黎明期の話が、ありきたりにならず、戦争を都合よくドラマに利用しておらず(これには観客それぞれの感覚があるだろう)、史実を踏まえつつも遊び、と言って飛躍し過ぎず、芝居が紡がれていた。
自分はドラマの「甘さ」に敏感(否定的な意味で)なたちであるが、音楽的表現はそれを凌駕する事がある。これを勘案したらお釣りが出るほど高評価に値する舞台。

トレマーズとバック・トゥ・ザ・フューチャーの同時上映を観に行った僕のその後の話
カワモとメイメイ企画
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2025/07/02 (水) ~ 2025/07/06 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
中々のものだ。バイバイの「ワレワレノモロモロ」等で川面女史の創作的側面をチラ見はしていたが、田中氏原案(自らの半生を記した)、脚本・演出川面の舞台は出来として予想をかなり上回った。
トークにて、川面氏は個人のリアルなエピソードを劇化したいらしく、その感性はもしやバイバイで岩井作品のリアルを元にした創作と舞台製作で育まれたものか、と想像した。
役者のチョイスも秀逸である。アルシェという狭小空間にも合っていた。
手脚の長い菊池明明を、武器として用いていた。二人のコンビは以前春風舎でケラ作品をやったのに遡るが、あの気合の入った本域芝居をやっただけで演劇的ポテンシャルが知れるという代物で。
今後もこのユニットで(不定期でも良いので)活躍を期待する。

平田俊子作品連続上演『夜の左側』『ガム兄さん』
流山児★事務所
Space早稲田(東京都)
2025/06/23 (月) ~ 2025/07/21 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
まずは「夜の左側」、平田俊子という作家を再発見の時間であった。台詞が面白い。秀逸。
「ガム兄さん」がかつて書かれた脚本で、今作は当時のアパート住いの男が今もそこにいた、という設定と読めるようだ。が特にその事に言及するわけではなく踏まえる必要もない。人生とはかくの如し、の一言で足りる。が、劇中に執拗に言及される「あいつ」が、過去作に実際に登場するというなら興味がある。ゴドーのように観客が目にする事のない存在としてあっても良いのだが、一点、あいつは男なのか女なのか、混乱しそうではあった。仮想のあいつはその時々で違うのか、自分の生涯に決定的な影響を与えた存在が、一人ではないとの含意か、人生の末期にあって混濁した記憶の中の「誰か」を通して自分の人生を捉え返すという事なのか、またはそのどれもか。。
何より塩野谷氏の存在感である。流山児氏は「必ず噛む」が予測内だし立ち方と発声の構えが決まってるので予測内、にしてはどうにか芝居に貢献できていた。龍昇氏も常に変わらないが笑わせる。伊藤女史も役目が判っておる。玄人ばかり揃い踏みの初々しい芝居。

KYOTO
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2025/06/27 (金) ~ 2025/07/13 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
坂手氏オリジナルと思い込んでいたが翻訳物であった。燐光群の場合翻訳劇はほぼ「本邦初」であるが、本作も非常に興味深く観た。
CO2排出制限目標を出した京都議定書はそれなりに有名だが、今はSDG'sを経てさらに進んだ段階にあるとは言え、意識の面では「慣れ」に拠るものか、相対的に低くなった気がする。ネットの深化によって陰謀論やフェイク、オカルティズムも、様々な「あり得る事実」の一つ程度に光を浴び、等しく無視できるものとなる。現実を捉える感覚が変質し、玉石混淆に存在する有象無象の言説に埋もれて、平準化されると、CO2問題も一旦カッコに括り、「夏は暑い!」けれど「それはそれ」で終ってしまう。
異常気象(以前はこの語句だった気がするが今は「気候変動」?)の問題、実は産業と結びついている眉ツバな分野と自分などは疑う一人だったが、京都議定書を扱うなら脱酸素を「善」とする前提だろうと推測しつつ、温暖化とCO2の因果関係に関する研究がどう絡んで来るのか、芝居の行方を眺めた。
科学の領域の話である「温暖化とCO2の関係」については、劇中ある研究成果に言及されるが、脚光を浴びたその主張は反対勢力の巻き返しにあい、学者は地位を失墜させられる事になる。
本作で「科学的裏付け」について触れられたのはここのみであった。
が、この作品のテーマは別の所にある事が見えて来る。物語としての面白さを語りたいが(今書き始めると長大になる事間違いなし)、日を置いて書いてみる。

骨と肉
JACROW
シアタートラム(東京都)
2025/06/19 (木) ~ 2025/06/22 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
座高円寺公演に続いての観劇。前作は政治(家)物、今作は企業物で再演とは言え8年を経て随分中身も変わったとの事。
舞台上にリングが出現している。舞台奥行の半ばあたりにロープ2本を渡したリングの2辺から、こちら側が格闘(論争や権力闘争)の場、あちら側には椅子が並べられ、登場しない俳優の控えとなっている(照明は低く落している)。
日替りゲスト出演者による選手入場のアナウンス(「あーーーおーーーコーナー、××××」と矢鱈盛り上げるやつネ)で登場人物の入場。紹介されるのは同社内役職の者たち。それでバトルと来れば、企業の内紛が題材と知れる。で、どこかで聞いたような・・と、ふと大塚家具という単語が頭をよぎる。ほぼ関心は無かったがそれでも聞こえて来てた程であるから世間的に随分話題になったのだろう。
結論的に言えば、ドキュメントではないフィクションとして見るにしても、長年社長を務め大企業に発展させた既に老境の二代目(現会長)と、彼の長女である新社長の果してどちらに理があるかは、実際には具体的な話に立ち入らねば判別できない。そこを伏せて進んで行く話であるので、評価がしづらい、という事がある。
勿論ストーリー展開の面白さはあるのだが、人の行動への評価はどんな状況に対しどう対応したか、であり、具体的言及を回避した物語の進行では、「これは女社長が良い側で会長が悪役?」いや実は「女社長に決定的な欠陥があったりするのでは?」とどっちを軸に観て良いのか迷ってしまう。(それが意図ならその通りになった訳だ。)
割切って見れば面白い、かも知れないが(実際面白いには面白いが)・・といったあたりを書こうとしたが言葉が探せないので後日また加筆することにする。

ザ・ヒューマンズ ─人間たち
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2025/06/12 (木) ~ 2025/06/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「母」に続いて観劇。今季はこの調子で三作とも観劇できそうである(三作観られる期は中々ない(一昨年は「レオポルト・シュタット」を見逃し残念な思いをした)。
と言っても今回は急遽時間枠が出来たお陰で観られたのだが..。つまり空席有り。公演はまだ序盤とは言え、集客に手こずる陣容だったか?と訝く思いながら後方席に座った。芝居は十分鑑賞に堪えた。毎度ながらキャストスタッフの事前チェックを忘れ、キャスト紹介のペラ1枚を一瞥して目に入った山崎静代(南海キャンディーズ)。変わり種の登場でどんな空気感が生まれるかも楽しみに開演を待った。

蝉追い
劇団桟敷童子
すみだパークシアター倉(東京都)
2025/05/27 (火) ~ 2025/06/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
似通った設定や劇世界との指摘は承知の助、「大体3つ位のパターンを順繰りにやってる感じ」と東憲司氏本人が言うように、今回は炭鉱の話だが、毎回の作劇の着想や強調点の微妙な(そして決定的な)違いは今作にもあった。「形やテンポで見せるノリの芝居」と「リアリズム演技」の浸食のし合いという視点が自分にはあって、リアリズムとの劇的な邂逅の舞台として音無美紀子との二度の共演が記憶に刻まれている。
今回は作劇上の特徴にハッとしたのだったが、時間が経ってしまって今思い出せない(よーく細部を反芻しないと)。
役者としては前々作が増田薫であった実力を問われる脇の役どころの位置に、今作では三村晃弘氏。
炭鉱と言えば、落盤事故の際、被害が広がらないよう水を流し込むというのがある。救出は絶望的と判断され、救出の可能性を断つ無慈悲な措置。先日観た「三たびの海峡」にもこのモチーフがあった。桟敷童子の今作では「そろそろ呆けの始まった一人暮らしの男」(山本宣)の奇行の源を探って行く過程でその事実に行き当る。
冒頭、男が暮らす実家に三人の女がやって来る。男と疎遠になった三姉妹だが、近頃見知らぬ女が出入りしているとの噂を聞いて真偽を確かめに来た。この三姉妹が長女板垣、次女もり、三女大手このコンビが何とも良い(美味しい)。
群像劇としては一人一人の役の担う重量が今回やや軽く、その分人物同士の繋がりの線が薄く、もう一掘り描写が欲しい実感はあったが、こういう回もあるのかと逆に新鮮であった。

LAZARUS
イープラス/キョードー東京/KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2025/05/31 (土) ~ 2025/06/14 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
我が青春の時にそれなりに食い込んだと言えるアーティストDavid Bowie所縁の舞台という事で、迷った。音楽要素の濃い舞台とあれば懐かしの曲目も奏してくれようし。・・と急遽勤務シフトが変わり、これは観に行けという事かと合点して観る事にした。
正直言えば今一つ。お値段を加味した採点なら☆一つ減、と断り書きしておきたくなる程には。劇的高揚が訪れない。なお二の足を踏んだ理由は演出家の名(申し訳ない)であったが、題材は難しかったかも知れない。
が、それでも演るというなら、エンダ・ウォルシュ戯曲と言えば白井氏、の前例にこだわらず、デヴィッド・ボウイーに心酔し、必ずや観客(ボウイ―ファンも含め)を満足させると執念の炎を燃やせる人材にオファーすべきだった。
最初の違和感は、ボウイ―に重なるだろう主役(地球に落ちた男とボウイ―自身との関係に同じ)の身体が「らしくない」事、歌唱においてボウイ―に寄せた歌声が「らしくなってない」事。歌の音量とバックとのバランスも。もう一つは、シンプルな感情露出の出来る脇役たちの演技がテンプレ、典型をなぞるようなもので、思わず「歌えるからって演技は<それなり>程度でも甘い顔してもらえると思ったら大間違いだからな」と心で呟いていた。忍耐の末に「ここは成立したな」と思えたシーンもあったが、興醒めを塗り替える展開があるわけでもなく、残念ながらラストでの挽回もなかった(ファイナル曲は“Heroes”。“Just for one day”のリフレインが胸熱だが残念ながら「曲の感動」を超えるの劇としての感動は無かった)。
冒頭から演技を丹念に組み立て、楽曲の構築も「大切に届ける」スピリッツがほしかった。ヴォーカルの音量をどこかのライブハウスっぽく上げてるのも違う気がした。ボウイ―のコンサートの場面、でもなく、劇中に位置づけられた「楽曲」なのだから。
悪口を並べた所で少し冷静に書けば・・この物語の世界観が、形成されそうになると邪魔が入り、最後まで構築されない感じである。それは戯曲なのか楽曲なのか、歌唱なのか演技なのか演出なのか特定できないが、「地球に落ちた男」=「人間となりたまいし神」のモチーフの変奏として、俗人化と神聖さの混在する物語の空気感が描き切れなかった。「俗・聖」が並立して共存する緊張感が、ポイントだったか。

少女仮面
オフィス3〇〇
ザ・スズナリ(東京都)
2025/06/11 (水) ~ 2025/06/22 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
唐十郎戯曲、殊に「少女仮面」は作り手により大きく変容する作品と再認識。スズナリはつくづく良い劇場だと思う。先日たまたま渡辺女史の出演したラジオ番組を聴いたらワイワイと賑やかしく音だけ聴いても密度が凄い。毎度の台詞「今回ももちろん赤字なんだけど」その最大要因は俳優の出演料だろうと踏んでいた所、今回のスズナリ公演、これでもかと趣向を詰め込んでいる。全部に金が掛かってる(掛けちゃう)んだろうこの人は..。今回も生演奏を入れ、演者と演奏者の区別もほぼ無しの混成(混沌?)舞台で(唯一演奏のみに専念したチェリストの女性も登場から終始歪んだ表情で物語世界にコミットしていた)。
過去観た少女仮面で思い出せるのは梁山泊(最晩年の李麗仙が登場)、人形劇、唐ゼミとそれぞれ優れた舞台化だったものの、今回こんなクライマックスあったか?と訝るやり取りに驚いた。改稿?それとも別バージョンがあったとか?等と。。
宝塚俳優春日野(同戯曲に登場させている実在した2名の人物の一人)は、後半唐作品にしばしば登場する突然詩情に煽られ語り出す人の一人として自分語りを語るのだが、それを聞く少女役が毅然と立ち立場逆転の様相を見せる時、芝居に限らず私たちがある種の義侠心や使命感に駆られてそうするあの透明な精神が、少女の中に立ち上がり、人生の孤独を激白する春日野との絶妙な関係の糸がすうっと浮かび上がって見える。このくだりは見事な普遍性を獲得しており、渡辺えりがこの演目を上演したかった所以であるかな、、判らないが、圧倒され通しの1時間45分であった。老若男女、若干女性多めの観客層であったが、退出渋滞に並ぶ高揚した顔顔の中にとめどなく涙を流す女性の姿が一人ならず。
代わって広報すれば...プレイガイドでは指定席完売だが、仕込み後二十席余裕が出たので今からチケットお求めの向きは劇団に連絡を、との事である。

愛一輪 バカの花
動物電気
駅前劇場(東京都)
2025/06/07 (土) ~ 2025/06/15 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
久々の動物電気、調べると2017年あたりに一度だけ観ていた。2020年に手が届く年、割と最近?と思いきや年は一つずつ経て行くもの也、8年と言や10年である。手練の演じ手の元気芝居を面白く観た記憶の残りがあるのみ。
が、観ていて思い出す。無茶振りで役者に勝負させる系(芸人系)ノリを挟みつつ小ネタ挟みつつの最後は人情喜劇?という。演者にも既視感あり。
コロナを忘れなきゃ(忘れさせなきゃ)演れない(楽しめない)芝居であり、劇場は復活した感あり(テント芝居然り)。

セザンヌによろしく!
バストリオ
調布市せんがわ劇場(東京都)
2025/06/01 (日) ~ 2025/06/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
なるほど!
全く何も知らなかった事が観て判った(というのも変だが)ユニット。多分野融合の舞台というもの自体は初めてではないが、棘がなく、深さはあり、技量は高く、恐らく細部が効いてるのだろう心地よいながらも感覚を刺激し揺さぶるものがある。新鮮。