地の塩、海の根
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2024/06/21 (金) ~ 2024/07/07 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
公演序盤のステージを観たが書き忘れていた。正直「当たり率」の低迷が個人的には続いた時期があったがこの所、往年の燐光群舞台、坂手洋二氏の筆致が蘇る感覚がある。本作はウクライナに照準した。二年前に関西で行なわれた反戦イベント(渋さ知ラズの名も出ていた)の会場に立って当時を振り返り、この場所で今リーディングを行なうとしているのだと男が語ると、俳優らがわらわらと登場。取り上げるのは、ウクライナ出身作家「地の塩」である。
場面変ってウクライナのとある地方都市の郊外、ロシア語で書かれたこの小説をウクライナ語に訳す使命(ウクライナ人アイデンティティの模索)を自らに課す男と、彼の良き対話相手の妻が登場し、当地で開かれた演劇祭に参加したOFFにそこを訪れた日本人の男女と、草原を見渡すそこで出会う。演劇舞台の話題も少々。
その夫妻の息子が今、自らの意思でロシア(クリミア)に滞在していると言う。やがて息子は帰郷した折、「ロシア人であること/ウクライナ人であること」の意味を探る旅の中で彼が得た必ずしも父母と考えを一にしない考えを告げる。
ある場面ではロシア・プーチン大統領の演説が、説得力を持って演じられる。プーチン大統領の資質についても語られる。が、彼を礼賛するネットの記事や書き込みの中には不正確で盛った事実も随分あると、日本人のリーディング話者らの会話により紹介される。引いては日本のリベラル派識者の中に「さえ」ロシアを擁護する人間がいる事を嘆く台詞も。
ウ露関係を前世紀から歴史的にひもとき、現在の状況の本質を作者なりに捉えた現在地は、横暴なロシア・プーチンの所業はどこまでも看過すべきものでない、というものだった、と思う。そこに結論の押しつけ感はなく、ウクライナにも様々な声がある事、我々は事態を「よく見て行く」責務がある事、この結語へと芝居は収斂する。
ウクライナの場面では、「地の塩」翻訳の志が事態の緊迫により頓挫した、とあったがそこから時を経て(確かそこがエピローグ)、翻訳作業は妻が引き継ぎ、ほぼ彼女の手で完成を見た事、夫は「地の塩」の続きを「海の根」と題して書こうとしている事、その未来への眼差しで芝居は幕を下ろす。
今回の舞台装置は十年近く前観た舞台(不正確だが「ゴンドララドンゴ」あたり)で使われた、前方客席をえぐり取って残った最前列前に壁を据えて、死角部分が「袖」代りという設え。奥側へ傾斜した舞台を見下ろし、手前の壁上のエリアでの演技を超至近距離に見る。これの視覚的な塩梅も面白かった。
OVERWORK
キュイ
スタジオ「HIKARI」(神奈川県)
2024/06/28 (金) ~ 2024/06/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
直前に飯を(しかも消化の良くない)食って観劇に臨んだ。この所観劇中のうたた寝がなく完全に油断していた。第一部の後半1/3と第二部の前半1/3を見失ってしまった。二演目の間に中央手前に調理台となるテーブルが出て来るが微かにその記憶があり、演目の境目と認識しなかったような体たらくであったが、中々面白いと思わせるものがあった。
綾門氏のテキストも久々。モノローグ系の戯曲を書く作家の中では最も早く目にした(というより聴いた)人だが、恐らくそれは変わらないだろう、息の詰まるシビアな現実(又は心的風景)を書いてるに違いない、という予想はその通りだったが、言葉が立っている。睡魔の中では言語が逐語的な理解に到達させないがその手前の所で、語感やリズムで感覚的に伝えて来るものがあり、流石と思う。美術批評家椹木野衣氏の言う作品を「丸ごと飲み込む(食べる)」という奴か。
ニュアンスの伝達は役者の貢献である。
第一部は3名がそれぞれのモノローグを別個に、日々のルーティンを象徴する動きをしながら、時に折り重なって吐き続ける。第二部は一人によるモノローグを、松森モヘー氏がテーブル上で野菜を切り出す所からスープを作りながら、喋り続ける。マイクを通して時に加工した声を使ったり音楽、照明、ある種のパフォーマンスに勤しみながらとにかく喋り続ける。語る主体は女性と思しかったが、人物が一人なのか別人物をも演じているのかまでは判らない。中野坂上デーモンズを私はほぼ初めて観たが中々の迫力であった(テキストはきっと報われたろうと思わせた)。
日本社会の絶望は根が深い。立ち上がらないからであり、立ち上がらせない力学が働くからであり、切腹だけが最後に溜飲を下げさせる唯一の手法だという倒錯の文化を有難く引きずり続けているからだ。自分もそこにどっぷり浸かっている。
二十一時、宝来館
On7
オメガ東京(東京都)
2024/06/26 (水) ~ 2024/06/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「灰皿役」とあるので擬人化の遊び要素がありそうだが回替わりのゲストが矢部氏、青山氏、On7メンバー(当初宮山だったのが小暮に替わり、宮山は小暮灰皿の回のみ人間役で参加)と、余りにかけ離れたチョイスでどの回に行くか正直迷った。擬人を演じる姿が想像されてしまう矢部氏より、On7フルの回、または予想の付かない青山氏の回が良いな、と思い始めるも行き易さを優先し、結果矢部氏の回を観た。予想通り「予想を裏切らない」演技であり佇まいで正直裏切って欲しかった(灰皿というモノに扮してるのに違和感がないのである。違和感がない事は逆に「?」を残す。俳優は役になりきって演じるのでなく、演じる姿(俳優自身)をさらしてナンボだったりするので、矢部氏は円筒形の灰皿(赤い)を頭に被り全身真っ赤なタイツ姿をさせられた事に、些かの違和感を覚えたならばその事態に何らかのアクション、抵抗感や違和感が漏れる等の内的アクションがほしいし、逆に心地よいのであればそれを全開で伝えて欲しかったりする。
とは言ってもそれは役者としてはかなりら高度な技に属するのだろうが。。
無茶振りにどう応えるか、というお題のようなものだ。
とは言え話は面白く、高校時代の同窓会会場のホテルの喫煙室での短い芝居の中に、三者三様の時代を反映した生きる切実さがあり、その模索の先は暗澹としているが仄かな救いの予感のようなものもある。三人を点とした面は群像を作っていてそれが胸をざわつかせる。
灰皿の語りから始まった劇は最初標準語だったので「おや!」と驚いたが、女性らの登場以降高知版(幡多弁)がスタンダードとなり、安堵。耳に心地良く台詞を聞いた。
音埜淳の凄まじくボンヤリした人生
ほろびて/horobite
STスポット(神奈川県)
2024/06/21 (金) ~ 2024/06/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
久々のほろびて。と言っても本公演2本、さいたまネクストシアターへの書下ろし作品(演出:岩松了)を観たに過ぎない。今回は初期作品のリクリエイトとの事で、新鮮な感触が味わえた。
表現上「これは幻想なのか、想像なのか、現実なのか」が決定的な部分で判らなかった所があった。二つばかりの解釈があり得るそのどちらかによって評価が分かれるという所でもあり、あらまほしい解釈の方を信じたいが、そのためにはもう少し表現上の工夫がなければ・・という感想であった。
STスポットを横長に使い、調度は置かれているが住居内の「壁」部分は床にテープで示され、映画『ドッグヴィル』(黒い床に白ガムを貼りつけただけの「村」のセットの中で演じられる)で、人物らが次第にリアルな存在に立ち上がって行くのに似た、「段々見えて来る」感覚が中々面白かった。
雨とベンツと国道と私
モダンスイマーズ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2024/06/08 (土) ~ 2024/06/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
正直ツボであった。ハラスメントがテーマとして浮上しており、回想場面と現在進行形の場面を行き来するが、芝居の真ん中で長尺の回想場面がぐっと入り込ませる。根底には総合芸術である映画を「創り出す」営為と、非対称的な関係性の歪みをどう評価するか(できるか)の問題がある。前作「ビリー..」も劇団の話だったが、映画現場ではより「仕事」の側面が強くなる。芸術性の要素に「お金」の要素が大きく絡む。勢い現場は熾烈になる。ハラスメントすれすれの言動が飛び交う。
句読点シリーズが始まった頃だったと思うが入場料3000円にこだわると宣言し、コロナを経て今はそれをアピールすらしていないが、今となっては破格である(無論芝居のレベルも勘案して)。
芝居は映画界に憧れを持つ(講座に通ったりして一度現場の手伝いに入った事がある)女性が語り手となり、彼女の視線で久々にお手伝いを乞われて久々に訪れた撮影現場の光景が描かれる。だが彼女は語り手に留まらず、徹するのでなく、以前行ったその現場と、久々にお手伝いを頼まれて訪れた現場の二つは、世の中では終息しようとしているコロナ同様、彼女にとって「終っていない」問題として交錯する。彼女がかつて見たハラスメントの飛び交う現場は、彼女にとっては「勇気をもって立てなかった」忸怩とした過去であり、それは彼女の儚く終えた「初恋」に絡んでいる。パワハラ一般の問題ではなく、個的な体験としてある。世間一般で言う「パワハラ」はその当事者である監督のスキャンダルとして映画界から放逐される要因として機能するのみ。物語はそうしたもやもやと未解決に取り残された問題群を看過する事なく、最後に拾い上げる。
見事に溜飲を下げる場面に私は快哉を禁じえなかった。放送コード、コンプライアンス・・表現そして芸術の領域に、これらが果たしてどう有効に機能するのかは大きな議論が必要だと思う。その議論を喚起するに適切なケースが、この芝居では作られている。そこが巧い。色々と語りたくなるが、もう少しまとまったら書いてみるか。。
火の方舟
名取事務所
小劇場B1(東京都)
2024/06/14 (金) ~ 2024/06/23 (日)公演終了
実演鑑賞
堀江安夫戯曲は以前一度拝見した程度でほぼ未知数だったが結局観た。完成度云々で語れない迫力がある。原発擁護論を一身に担う父役と反対論の二人(新人新聞記者の娘とその伯父=父の兄)が拮抗し、父が養子入りする格好になった妻と兄弟の過去そして反原発運動を担った妻の亡父の存在も絡んで語りに語られる。奇しくも2011年3月10日、たまたま沖縄から所用で出てきた兄との何十年ぶりの再会を機に、原発の是非からジャーナリズム、人生を語り尽くす一夜の劇だ。
演出桐山知也の名を突如?頻繁に見るようになったが、数年前にも観ていた。所属はなく実力で伸して来た新鋭のよう。
おちょこの傘持つメリー・ポピンズ
新宿梁山泊
新宿花園神社境内特設紫テント(東京都)
2024/06/15 (土) ~ 2024/06/25 (火)公演終了
実演鑑賞
ほぼ諦めていたが、何とか客席に滑り込む事ができた。
どこから吟味すべきか・・。
本戯曲、初演は1976年。状況劇場時代の演目であった(場面転換が少なく登場人物の人数の大きく変化する場面も少ないこの類型は唐の後期戯曲と勝手に決めつけていた)。
この演目を知ったのはSPACが珍しく唐作品を取り上げた事(2020コロナ中止、2021年上演。未見)によってであったが、2022年唐組で上演したのを観た(他の上演記録がないのでここで観た事になる)。梁山泊では初である。
何と言っても話題は今回の俳優の布陣に集まるが、劇場公演で金守珍が著名俳優の座組を演出する事はあっても、今回は花園神社・紫テントである。サプライズ感の大きい豊悦と勘九郎、今回の舞台のレベルは両名無しには達せられなかった事を認ざるを得ない。作品本位での配役である。一つ付け加えれば、(御大の死を金守珍が予感したのかは知らないが)状況劇場が当時具現していたテントの熱気を今ここに彷彿させようとしたのではないか、とも。そんな思いが過ぎったのは寺島しのぶ演じるヒロインが李麗仙に見え、相対する白スーツの豊悦が唐十郎に重なるような幻視の瞬間がふと訪れた時。(もっとも私は最晩年の李麗仙が梁山泊「少女仮面」に客演したのを観たのみで、唐十郎は短い映像でしか見ていない。)アングラ前の時代を知る人に、当時アングラは何だったのかと訊いたら、言葉を探しながら「(あれは別カテゴリー、というニュアンスで)有名人が出たりしてね」の言葉でまとめていたのを印象深く覚えているが、私なりの解釈を重ねると、スター性を帯びた特権的肉体が、一身に視線を受け止める事で成立する観客との交歓がテント公演の熱気であった・・となる。私の想像の届かなかった「時代の中のアングラ」の一側面を感覚的になぞる(追体験する)観劇となった。
世界に憧憬し悩む無垢な青年と、曰くある過去を持つ大人(男そして女)の構図はやはり唐十郎世界に欠かせないなと改めて思った次第だが、その青年役を勘九郎が担い、冒頭から喋り倒す。見事である。感想はまた改めて。
残す所1ステージ、完売。ネットでの当日券抽選も前日に終えている。
ただ一点、当日になって空席が生じる可能性はゼロでなく、テント公演の寛容さは「前日抽選の当選者か」を問う管理的目線より「観たい」情熱を受け止めてくれそうな現場での心証ではあった。「外で声を聴いて想像するだけでも良い」と腹を括れる熱量の方には、足を運ぶ事をお勧めする。
水彩画
劇団普通
すみだパークギャラリーささや(東京都)
2024/06/17 (月) ~ 2024/06/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
今回も茨城弁の日常風景を切り取った会話劇。堪能した。
おなじみ用松亮と坂倉なつこ(奈津子改め)の夫婦役コンビに、娘(安川まり)とその婿(浅倉浩介)がまた「らしい」。
同じカフェスペースを訪れ隣のテーブルに陣取るカップル(伊島空・青柳美希)も、地元で結婚を控えた風情で年代差もうまく出てる。
後者の話題が序盤は聞き取れず、両グループ同時進行とは言え(青年団のように)重なる事なく聞き取れるが、序盤での若者コンビの方の会話は四人組に比べると少々理解に難があった。中盤以降漸く会話とそこに込められた感情が見えてきた。
この二組同時進行の会話劇が、今回の試みであったが、まずまずであった。
古い夫婦像がモデルになっていると感じるが、2020年代の今も、ああいう感覚は生きているのだろうか。坂倉演じる母の「曲げなさ」が見物だし、用松父のあの感じ(うまく言えない。そういう領域を表現しているんである)も相変わらず良い。
地元で暮らして行けてる、という所で人物ら全員がとりあえずは生活の安定が約束されてる感があるのだが、今の時代シビアな経済面への言及が、(そういう問題を忘れる時間が有難いのも本音だが)リアルを穿つ劇としては、欲しい所。
地元で教師をやっていたのが黙っていなくなり、最近東京でNPO活動をやってる事が分った友人が、若者カップルの主な話題で、そのあたりで微かに触れてはいるのだが。
白き山
劇団チョコレートケーキ
駅前劇場(東京都)
2024/06/06 (木) ~ 2024/06/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
随分ご無沙汰してしまった当劇団であるが、観に来て正解。斎藤茂吉という題材を、うっすらと(終盤では濃く)戦争に絡めて描いていた。急遽主役の変更との事だったが、緒方晋の出演も楽しみで観劇した。この人にしか出せない味がある(そういえば一応は関西弁は封印していたな)。村井國夫氏では全く違っただろうと、とりわけ主人公の特徴「雷を落とす」場面で、想像もしながら観た。茂吉の息子二人を浅井と西尾、弟子を岡本、三人のコンビネーションを茂吉に対置させ、第三者の存在として近所の農婦を柿丸氏に振って五人芝居、シンプルな構図も憎かった。
地の面
JACROW
新宿シアタートップス(東京都)
2024/06/14 (金) ~ 2024/06/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
久々に生観劇のJACROW、今回の舞台は不動産屋。
作劇と俳優と演出と、快楽に満ちたステージ。名古屋演劇界から参加した両名が実によい。気づけば、男だけの芝居であった。面白い。
阿呆ノ記
劇団桟敷童子
すみだパークシアター倉(東京都)
2024/06/04 (火) ~ 2024/06/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
「夏至の侍」(2022)にて筑豊地方の斜陽産業の金魚問屋の女将を演じた音無美紀子が再び客演。桟敷童子は東憲司の言うように毎度似たような話(凡そ三つのパターンを焼き直している)だがオリジナルを生み出しており、売りは完成されたテンポ感と高揚感、舞台装置と屋体崩し的クライマックス、という事になる。この桟敷童子の芝居に音無美紀子が加わり、ナチュラルに真情こぼるる姿がハマる。墨汁が広がるように芝居の隅々まで「リアル」の魔法が掛かるのである。私にはそれが圧巻であったが、今回も全く同じ事が起きていた。
桟敷童子の物語は神的存在や天災や魔物の伝説が民間伝承で伝わっている村落が舞台となり、やがて近代化の波に浸食されて行くといったものが多いが、今回「敵」としての近代は、狩猟を生業とする村に対する鉄道事業(工事で使う発破で獣らがいなくなる)、戦争協力の要請(銃の供出、徴兵)である。近代化は根本的な誤りを抱え、人間を虐げる。そうした被虐の人間が己らの復権を目指す時、伝承が蘇るのである。
今作の伝承は「阿呆の子」と言い、村が飢餓などの危機に瀕した時、生け贄に捧げられるべく育てられた「捨て子」たちがいて、劇中では三人の子という事になっていて時に舞台上に姿を現わす。実際に彼らを目で見たのは幼い頃のおばあ(音無)のみで、まだ子供だった彼らと山の中で話した記憶が劇の終盤に蘇り、そして今「婆」となった彼らと、再び相まみえる。猟で食べて行けず鉄道工事の人夫となった男たちにも(徴兵は免除されると言われたのに)赤紙が届き、不幸な事故も続いて村は荒廃し、強風が吹きすさぶ山の天候をして阿呆の子らが怒りの声を上げている、とする。
もう一人の主人公は、鉄砲問屋をモーゼル銃付きで追われた一人娘。おばあが呼び寄せた娘を、昔妻を亡くした自分の息子の後添えにと考えたが息子はまだ妻を忘れられぬと拒否するも、宿を与えて村に棲み着く事になる。この娘(大手)のキャラが秀逸。後に悲劇のヒロインとなり行く。悪役をやらせれば何と言っても原口。
我らが板垣女史は・・阿呆の子に扮していた。顔をさらすのは終盤の「出会い」の回想場面。一瞬とは言え変幻自在振りに嘆息(先般のこまつ座での客演に続き役の振り幅があって最初気づかず)。
主役の露出が突出した分他の俳優が控えめであったが相変わらず見事なアンサンブルである。
Medicine メディスン
世田谷パブリックシアター
シアタートラム(東京都)
2024/05/06 (月) ~ 2024/06/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
アイルランド産の戯曲は日本でもよく取り上げられ、話題作も多い。主に英語で書かれ英米で上演されやすい=各国にも翻訳されやすい、という事もあるだろうか。
エンダ・ウォルシュは近年(2000年代以降)の作家で若手のよう。日本ではいずれも白井晃の手で演出され、私は今回初めて目にした。
チケットは早い段階で完売であったが、当日券に並ぶと結構な数があり、最後尾に並んでも「座席」には座れた。どういう売り方を?・・とふと疑問が。
幕が開くとそこはだだっ広いスタジオのような空間。物がやたらと置かれてある。パジャマ姿の男が入って来て、どうやらパーティの残骸らしい物たちを男は仕方なく片付ける。奥にドアがあり、ドアまでの幅広の通路の左側に防音室のような部屋が設えられており、正面がガラス張り。ここへも頻繁に出入りする。その手前の横に広い舞台空間は、上手に人一人入る小さなブースが、下手には小卓と椅子が、奥には音響設備が置かれた小さなワゴンが置かれ、その下手側の隣にドラムセットがある。
三人芝居。プラス、ドラマーが参加。
戯曲の語りの技巧というか、洗練され具合が現代的で、隠喩の手法が独特である。
精神障害、と思しい青年がそこは病院か施設に通じてあるか内部なのだろう、パジャマのまま(着替える間を与えられず)年一度というこの日を迎えたものであるらしく、彼のためにこのスタジオは予約されている。
彼自身の物語を語るパフォーマンスを完遂させるための助っ人として、二人の女性(たまたま二人ともメアリー)と、ドラマーが順次、入って来る。
青年自身が書いた台本を読む彼のバックで、ドラマーが即興の伴奏、音響係の女性が効果音やマイク音量調整、そしてもう一人のメアリーが全体を仕切り、台本を勝手に(断りなく)削ったり、スタッフに指示を出す。彼女はこのイベントに実は深くコミットをしており(趣旨を理解しており)、青年が今後も施設で暮らし続ける選択をするよう誘導するのが使命らしい事が後に分かる。
そこまでのミッションを伝えられてない(趣旨にそれ程賛同も関心も寄せて一方のメアリーは、彼のパフォーマンスを完遂する、という表向きの使命に真面目に取り組む内に青年の語り(幼少時の虐待=ネグレクトの風景など)をその言葉通りに(意味付けせず)受け止め始める。このパフォーマンスのポップな演出に疑問を持ち始めた様子で、孤独であり続けてきた彼の「友達」(あるいは恋人)となって行く。
まるは食堂2024
Nana Produce
座・高円寺1(東京都)
2024/04/17 (水) ~ 2024/04/21 (日)公演終了
実演鑑賞
何度目かこのタイトルをチラシで見て(「続」が付いたのも同じデザインらしく)、「では一度観てみるか」と足を運んだ(正に宣伝効果)。
実話に基づく芝居であり、知多半島で夫婦で漁師をしていたおかみが夫の若死にから紆余曲折を経て食堂そして旅館を経営するようになった一代記なのだが、脚本・演出は佃典彦、恐らく中京文化圏における「郷土史の宝発掘」の趣きである。従って「いい話」という大前提がある。何しろ女将は近年まで実在したのである。
これは演劇が一つの「歴史」を描く際にどういうスタンスがあり得るかを考えさせる。
私はこの舞台に物足りなさを感じたのだが、その大部分は竹下景子の演技であった。女将という既に大きく認知された存在、その評価の量的大きさに、竹下景子というタレントのタレント性の量的大きさを当てている、その企図だけが私の目に入って来る。特に鼻に付く演技をしているわけでも目立ち過ぎといった事でもない。一見普通にお芝居をしているのだが、その演技の根底に、「俎上に乗る」覚悟がない。女将という存在は大きく、その大きさを体現できるわけではない自分を、彼女はどう処しようとしたのだろうか。シリアスな場面も無くはないが、基本コメディタッチである。これは演出の意図に違いないが、そこに乗っかる主役として、何らかの人物像(決して本人にはなり得ないが俳優なりに作り出した)を果して提示しようとしたのか・・そこに大きな疑問が残る。その作業を「敢えてしなかった」のかも知れず、演出のリードではその余地を見出す契機を捕えられなかったのかもしれないが、私には「さぼった」としか思えない。つまりそこがボッカリ穴になって見えた。
感情を露わにする真剣な演技が出る場面もある。だが、他の場面になると「戻って」しまう(そのように見える)。
一つの人生を描いてはいる。だがこの女将でなくても良かった。全く架空の人を描いた事にしても良かった。何だかそう思えてしまった。酷評であるが、私がこだわる部分に「抵触」してしまったようである。
破壊された女
お布団
サブテレニアン(東京都)
2024/05/23 (木) ~ 2024/06/02 (日)公演終了
実演鑑賞
お布団は昨年7月漸く初観劇してまだ二度目ながら、期待値は勝手に上昇。一人芝居という事で難解さもある程度覚悟して観劇に臨んだが、その覚悟を上回り、汲み取れずに見終えてしまった。
台本を買い、半分を割とすぐ、残りを一週間後に読む。やはり厳しいものがあった。台本から若干端折った部分があったのかどうなのか・・中盤に差し掛かったあたりで台本では台詞を断ち切るように「暴力が発動」、「身体が倒れる。立ち上がる。」と指定するト書きが頻出する。これ、やっていたか、別の動作で代替していたか、も忘れた。途中瞑想の時間が生じてたのやも。ほぼ全編、客席に向かって俳優は語る。例外は、三部構成の二部で「女」が働く現場の描写が(これも語りの台詞を断ち切るように)頻繁に差し挟まれる。「先にお席の確認からお願いします」(カフェでの接客)、その職場を出て、次はコンビニ「いらっしゃいませ」「申し訳ありません。トイレの貸出しは行なっておりません。」・・ここではカスハラ客のネチネチと怒って来るその客の台詞も言う。(このやり取りは「語り」の内容のヘビーさと相まってかなり消耗する。)
第一部は「彼女」の物語。「絶望」や「悪」という、「彼女」が帯びる属性について語られる。他者の物や、人との関係、希望や生き甲斐を「奪う」技に長け、そこにしか「生きる実感」を感じる事がないことを自覚し、それを実践する。
この内面描写的な始まりから、少し進むと叙事詩的展開となる。「彼女」はやがてカリスマ的存在としてカルトの教祖のようになり、「現実を生きづらい人たち」の帰依の対象となる。使徒を引き連れた彼女は「悪」の実践の果てに地上を破壊するが、正義の勇者によって殺される。さらに話は神話的となる。彼女は復活し、再び悪を為す。そして二度殺された後は、彼女という存在がアイテムとして流通し、象徴となり、果てはゲームキャラとなり、消費され尽くす。絞り取られた「彼女」のエキスは枯れた挙げ句ついに完全に消えてしまう。これが第一部。
「彼女」について語った「女」は、さてこれからどう生きるかと現実に立たされている。第二部には現代の風景がある。コンビニやカフェで働く接客場面の台詞、そしてチック症状のような動作が、「語り」の台詞を絶えず中断させる。動作は単純作業(例えばコンビニでの仕事)を手が習慣的に覚えていて勝手にしようとし、それを止める、といったもの。語りはいつしか「女」にとっての「彼女」、を語る「私」の語りになっている。女の内面にある「彼女」の残滓についての言葉は、人は何によって立つか、生の根拠、力の源、といった要素について語っているようで。
そして第三部はどうやら、既存のそれも含めた「神」と、人間の関係を語っているようだ。結語のあたりで、「神は死んだ」という言い尽くされた事実が、もちろん別表現でではあるが据えられ、語りは終わる。この部分が私には、結局着地できなかった思考の経過を見せられたような余韻を残した。舞台を観ての「わからなさ」の理由は、思考が辿る旅が終着点に来たと感じられない自分にあった、のかも。
現代人の存在のあやふやさを、神的な要素をメスとして切り開き語ろうとした試み、それ自体は大変応援をしたくなる内容ではあった。
テキストは現代の生にまとわりつく精神的な「生きること」を巡る困難を想起させる。物語としては成立した(書き切れた)とは言えず、スッキリもしないが、問題の球をガンガンと投げている。
ゴツプロ!第九回公演『無頼の女房』
ゴツプロ!
本多劇場(東京都)
2024/06/06 (木) ~ 2024/06/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ゴツプロ!二度目。中島淳彦作品も実質二作目。先般拝見した中島作品と同じく、歴史人物を題材に物した脚本。その前作(昭和の女性漫画家たちの群像劇)がかなり上出来であったので比べてしまうが、中島淳彦世界を堪能。良い。
スズナリ10回行ってやっと1回程度(いやもっと少ないか)の本多劇場。余裕あるステージには日本家屋の広い居間(美術:田中敏恵)が古い木造家屋の濃い茶系で落ち着きがある。最奥に廊下がわたっているらしく、全面窓から緑の庭が見え、その上手寄りに庭へ出る扉、さらに上手袖はその先に部屋々々があるらしい。上手側面の壁には戸付きの棚、それを正面に見た右側(舞台前面)へ消える通路もはけ道。下手手前から袖へ玄関、そこからまっすぐ舞台奥の上方へ、二階へ上がる階段。作家の書斎に至る。
五つの出入り通路を頻繁に行き交う動的な舞台である。見れば演出が青山勝。道学先生の作・演コンビの舞台は拝めないと思っていた(故人の作を再び青山氏が演出する事もあり得た訳だ)。その主要メンバー・かんのひとみの水を得た魚の如き存在感も初めて目にした。一挙手一投足が、美味しい。
他俳優も特色ある存在感で役柄を演じ分け、質が高い。改めて見たゴツプロのサイトにて、所属俳優がある旨を知り、この劇団のネームが入った公演チラシを目にする頻度が高い理由も理解。
ゴツプロ!を初めて観た舞台も別の作・演出だったが、所謂<レベル高め>?な俳優集団が傾きがちな甘めウェルメイドに堕ちず、味付け辛めで好感触。その線は今回も裏切らずであった。
無頼派、と言えば二名の小説家を知るのみだが、事実は小説より○○の世界がそこにあり、作者が魅惑され、見つめたのだろうその眼差しに同期し、なぞって行く舞台。
デカローグ5・6
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2024/05/18 (土) ~ 2024/06/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
5話と6話は映画化された2作に当たり、本シリーズの中核になるのかな?とぼんやり想像しつつ楽日を訪れた。(なおパンフによるとキェシロフスキ監督に「十戒」をモチーフにしたシリーズドラマの企画がもたらされた時、テレビドラマ撮影の資金がないがために興行収入を当てに映画を撮ったのだとか。自分は大昔観たが「殺人」の方は面白かった記憶のみ、「愛」の方は「殺人..の方が面白い」と感想を持った微かな記憶。で、舞台を観て思い出したかと言えば「殺人」はどことなく、「愛」の方は微かに「あったかな」と推察した程度。)
現代の神話である「デカローグ」。「ある殺人に関する物語」(演出=小川)は、都会にやって来た寄る辺ない若者と、司法修習生を終え晴れて弁護士となった死刑廃止論者の青年にフォーカスし、その動線を淡々と描いた最後、訴訟において出会う。若者はあるタクシー運転手を殺した。白髪混じりの運転手は乗せてほしいと言う客をいつも無下に断っている。一度は妻を病院に連れて行きたいという男に、食事中だと待たせ、パンを食い終えてエンジンを掛けたと思うと、走り去ってしまう。ある日の事。若者はあるカフェで紅茶を注文して断られ、ミルクをと注文し、荷物を確かめる。ロープがある。例のタクシーが停まっている。若者が近づき、「○○まで」と言うと男は暫く相手を値踏みするように凝視した後、ドアを開ける。表通りから裏路地に入れと指示し、停まった直後事に及ぶ。縄だけでは殺せず、若者は道端の石を男の頭部に振り下ろす・・。
死刑判決が出たらしい法廷を、警備に付添われて去る被告に、若き弁護士が思わず声を掛ける。自分の名前を呼んだ方角を驚いたように探す若者。死刑執行の日、若い死刑囚が初めて信用できる人と会ったと言い、呼び出された弁護士に自分の田舎での事などを話す。学校帰りに遊びが高じて友人が運転したトラクターで自分の妹を轢き殺してしまった事、家にいられなくなって都会に出てきた事・・あの事がなければ、きっとこんな事になっていなかった、と若者は言う。長官からの催促の内線を伝える担当官、今初めて人生を語ろうとしている死刑囚を前に、弁護士は何度目かの催促に対し苛立ち紛れにいっそ無期限の猶予を乞うといった趣旨を伝え、やがて役人達が物々しく入って来る。死にたくないと叫ぶ青年は引きはがされ、舞台装置の上方に先程から据えられた縄を首に回され、刑に処せられる。
デカローグにおいて観客は人間の時に滑稽で残酷で、運命や他者や己自身に翻弄される姿を、俯瞰で見る。音楽は如何にもな、というか、通り一遍な「寄り添い方」をする。神の視線の神とは無感情に人間を突き放す存在でなく(聖書の神は自分をかたどって人間を作ったとあり、慈しみ要求し罰する神である)、人間的眼差しがあるものの、しかしどこか距離がある。
「ある愛に関する物語」(演出=上村)は、十代の若者の独りよがりな「愛」の帰趨を描く。彼は団地の向かいのとある部屋に住む女性を望遠鏡で覗いている。郵便局で働く彼が窓口におり、彼女が「為替の通知が来た」と言って通知を差し出すと、リストを眺めて「無い」と答える、という場面が冒頭にあるのだが、後に同じやり取りが再現されその前段で彼が手紙を書いて彼女の部屋のポストに入れるという行動が置かれ、真相が分かる。彼は彼女が部屋に連れて来る男との逢瀬も目撃している。彼女が牛乳配達を頼んでいる事を知った彼は早朝の牛乳配達のバイトもこなす。彼と同居している年輩女性とは微妙な距離感があり、実は母ではなく、彼女の息子が不在のため、息子の友人であった身寄りのない彼を引き取っているのだと分かる。親代わりを自認する彼女は彼の引きこもりがちな質を心配しており、時々それとなく聞き出してみている。ただ、望遠鏡を通した恋がある、という事は感づいている。
ある夜、望遠鏡越しに、男と彼女が事に及ぼうとするのを見た彼は咄嗟に、ガス漏れの通報をする。技師が彼女の家を訪ね、検査に立ち入り、男は気分が冷めて帰ってしまう。この場面でだったか、女は己の中に惨めな姿を見たように、嗚咽する。
ドラマが動くのは、そうした諸々(無言電話も結構かけている)を奇妙に感じていた彼女に、青年はついにニアミスをし、己の存在を告白し「愛している」と告げる。笑うしかない彼女であったが、興味も湧いてカーテンを開けた窓の前で、彼にサインを送ったり悩殺ポーズを取ったりする。
彼女との接近は、カフェでのデートの約束を取り付けるまでに発展し、その夜、一張羅を着こんだ彼を見て同居のおばさんは安心したように彼を送り出す。
女は若い燕と遊びたい様子で、名乗り合った時点で相手の名前も覚えていない(と後で分かる)。彼は「覗き」をやるきっかけや、自分の思いを明け透けに語る。少年の憧れ以上のものを感じない彼女は、性愛には興味がないという彼の証言を聞き、帰り道、タクシーを見て「あのタクシーに間に合ったら私の部屋に来て。もし間に合わなかったらこれっきりね。」と彼を試し、後刻二人は部屋に居る。ここでの時間は破綻に行き着くが、その後の場面が本作の核になる。
・・部屋で彼女は若者からゆっくりと服を一枚ずつ剥がし、男女の関係は所詮物理的な結びつきに過ぎない、と告げる。彼女にとっては「誘導」であったようだが彼はその誘導を拒否し、部屋を飛び出す。彼が異性に寄せていたものの行き着く果てが残酷な「現実」だったに過ぎないのか、尊いものだと信じていた意志を彼女によって踏みにじられたという失望であったか・・
その日の夜、彼は浴室でリストカットし、湯に浸す。一命をとりとめて病院に搬送されたが、若い男を傷つけた事を察した彼女は、青年を探し始める。郵便局も休んでおり、窓の方角から団地の部屋の位置を定めて、おばさんのいる部屋へ行き付く。問題の夜、実はおばさんは彼が望遠鏡で覗いている存在が相手だろうと踏み、頃合いにベランダに出て覗き始める、というくだりがある。そして破綻の瞬間までを見ている。女の来訪を受けた時、「もう関わらないでほしい」と告げる。行きかけた女は戻って「彼の名前だけ教えて下さい」と言い、おばさんは呼び名(ファーストネーム?)を答える。
彼に会わなければならないと、急かれるように郵便局へ行き、彼の苗字を聞き出す。と、彼が退院したその足か、荷物を提げて職場に戻ってくる。対面する二人。照明は二人に絞られる。(このメロドラマチックな演出も好感)ここで青年が最後の台詞を言い、戸惑った彼女の表情を映して芝居は幕となる。
このラストは映画ではどうだったろう。ラストのその先は未知数である。彼の台詞は、女性を見切ったとも取れる。が、自分のそれまでのあり方との訣別、即ち新たな関係を結びたい宣言とも解せる。前者だとすれば、あまりに移ろいやすい思春期の「風邪」が治った彼を前に、深刻に考え過ぎた(そして彼を思っている)己を自嘲する女の残像、という事になるが、後者ならば、突如対等な大人として現れた彼との未来に、戸惑う姿とも見える。
純粋さと汚れとが入り混じる思春期の恋愛の心模様を思い出させるドラマであるが、思春期に限らず恋愛に付きまとうテーマでもある。
「殺人」「愛」どちらにも、物語の前面には出ないが、客観的には境遇的に恵まれない若者という設定があり、裏テーマになっているようにも思う。いずれも筋書は「よくある話」の類であるがどこか真実味がある。(「愛」の方はガス会社の人間が強引に部屋に入って行って逢瀬の邪魔しいが成功したり、「偽の通知」の件で郵便局を訴えた女性に局長のプライドから逆に女性を追い払う、等は微笑ましいご都合主義。)
殺される事になるタクシー運転手と、彼を殺す若者の接点については何も語られていないが、運転手の行動の幾つかは、衝動殺人なら特段必要な場面ではなく、計画殺人なら「殺してもいいやつ」と判断させる材料となった可能性を示唆する。
私の説は・・、二人に過去に接点(あるいは若者が運転手を見て知っていた)は無く、鳩には餌をやるが「タクシーに乗らなくても余裕で暮らせる奴」と見れば乗せる気が失せる偏屈おやじが、どういう巡り合わせか、殺されてしまった・・である。些か深読みすれば、彼は偏屈親父の中に同類の匂いを嗅いだ。殺人は屈折した精神が必死で導き出した結論だったのかも知れない、作者はそう観客が考える事を歓迎しているようには思う。死刑廃止の本質的議論は、犯罪の責を個人のみに着せられない、との思想を背景にしており、若者の正義感に寄り添ったドラマになっている。ありきたりなドラマではあるが、大多数の国が死刑を廃止している論拠に拮抗するだけの議論を、日本の死刑制度擁護論が為し得ていない現実があるとすれば、この「ありきたりな」ドラマを日本人としてどう観るべきか、厳しく言えば問われざるを得ないし、物事の本質に切り込めない緩すぎな日本のドラマ事情は決して「笑える話」でもないとつい愚痴が出る。
少々長過ぎたか。
こどもの一生
あるいはエナメルの目をもつ乙女
王子小劇場(東京都)
2024/05/15 (水) ~ 2024/05/19 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
配信映像で鑑賞。観たかった中島らもの本戯曲をやっと拝めた。
蓋を開けると、凡そ元脚本から想像のつかないようなメタル調の設えで、音楽、踊り、衣裳、演技のタイプも、グロい方に寄っている。が、これはこれで本バージョンの色が貫徹され、成立。
一方自分が感じたいと思っていた作家の作風は俳優が喋るテキストから汲み取っていた。
「こどもの世界」の描写が秀逸。これは中島らもの引出しだなと感じさせる。
色々とチクリやってる台詞がちりばめられていて気がするが、芝居の作り的にはそこはさらっとさり気なく流してる感じ。
正直な感想は、もっと普通にというか、人間のリアルな佇まいを提示し、その口からあの台詞たちが吐かれるのを見たかった。その方が面白いに決まってる。本舞台の演技とは比較にならない緻密な演技にはなるが、彼らも役者の本領をそのように発揮したかったのでは?(演出ディスりになってしまうが。)
泥人魚
劇団唐組
花園神社(東京都)
2024/05/05 (日) ~ 2024/06/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
この日は別の芝居を観た後、思いの外短い芝居だったので「この足で花園間に合うんじゃね?」 と電車を調べたら19時10分前には行ける。恐らく当日券は出すだろう(一応劇団電話に電話するも出ず)と踏んでちょうど大雨の降る中を「ちょっとドラマチックだな」と悦に入りながら向かった。
そう言えば唐組を観始めた頃もあったな、と久々の立見を覚悟して受付窓口で当日券購入。テントの最後尾の出入口はどうやら今回役者は使わないようだ。その少し前あたりに小劇場演劇の重鎮さんが丸椅子に座り、芝居を見ながらやたらと笑っていた。他にも何人か演劇人が居たな。。
という訳で、コクーンや梁山泊でも(確か)観たこの有明海ギロチン堤防を題材にした演目を、改めて味わい直す事に。
お祭り好きだった唐十郎を弔うかのように?テント内は熱気でにぎわい、舞台共々笑いが絶えず。一方自分は改めてこの戯曲の言葉を割と冷静に追いかけていた。
「ほっぺ」と言ってるのか「ほうべ」と言ってるのか、本戯曲の幾つかのキーになるワードの一つは最後まで不明のままだったり、ガンさんと二郎とヤスミともう一人の女性の関係も結局のところ、これだけ耳をそばだてて聴いても分からずじまい。以前観た時の印象と同じくであるが、台詞で状況を説明する分量がえらく大きいのが本作の特徴だ。湯たんぽを作っているトタン板の工場を舞台に、遠く離れた有明海での事が(なぜ皆ここに集まって来てるんだか分からないが)延々と語られるのである。この「言葉で状況や情景を説明する」比重は元々唐作品には多いとは言え、本作は中々の比重なのである。
この作品は人間の無策で無思慮の産物のようなあのギロチン堤防が人間と「人魚(のような存在)」に象徴される生物、その両者の関係に悲しい物語を引き起こす、という大括りの構図を感じさせるが、唐流の幻想譚は本作に限っては、現実を抜け出た先の彼岸を像として結晶しない。幻想が幻想の世界のままに終わる(自分の連想力が及ばないとも言える)。自分の中で「ギロチンは怪しからん」と結論を持っているからだろうか・・。現実において目を見開く事を要請されるより、幻想の中に眠る以外ない、となる。
てな事言ってもテント公演の主眼はお祭りなのである。掛け声が飛び、拍手と笑いが起き、爽快な気分で劇場を去る。それでいいと言われればその通り。状況劇場によく同行した劇評家扇田昭彦氏が亡くなった時唐十郎が訪れ「また楽しいことやろう」と死に顔に囁いたのだとか。楽しんだ者勝ちだ、ってのは強いメッセージだ。
ライカムで待っとく
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)
2024/05/24 (金) ~ 2024/06/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
観劇直前にキャストが初演と変わっている事に気づいた。演出、脚本と長塚氏の対談がKAATサイトにあってながら見をしたが「若干、俳優が変った事で台詞を変えた」「装置も微妙な所で変わってる」、と言っていた。
初演は下手側中段あたりから観た記憶。今回は最前列ど真ん中。(実は少し前完売だったので当日一か八かで・・と考えていたら、楽前日昼夜とも空席が出ていた。)
観始めると、風景が違う。劇の感触も違う。まず亀田佳明が中山裕一郎に。このドラマの中心的な「目」である記者の存在が、コメディ色を帯びて安心させる亀田氏が、どちらかと言えば朴訥なキャラにシフト。(亀田氏は新国立「デカローグ」1~10話に通しで出演する唯一の俳優のため元々無理であった由。)
変更になったもう一名が、沖縄に飛んだのっけに乗るタクシーの運転手(劇中では「事件」の主要登場人物の一人に)。初演では30代の飄々とした風情の役者で、この芝居のナゾめきの空気を担ってもおり、とりわけ最初のタクシー場面では客(記者)を翻弄する振る舞いで笑いどころ多め、劇の始まりの緊張を解き、沖縄場面(過去と現在、あるいはどっち付かずとある)の風景と観客はニュートラルに対面する事となった、と思うのだが、今回は笑い処は一つあるものの他はそこはかとじんわり、といった程度(つまり弾け方が押さえられていた)。
そのせいなのか、あるいは二度目の観劇だったり見る角度だったりなのか、話の筋を時折「同じだ」と確認できた以外は、別物を観る感覚であった。
と、どうしても比較して観る事になるが、沖縄を訪れた記者とその妻と子どもの話(実は妻方の祖父が亡くなった事で帰郷し、夫の方は別口からの依頼があって取材に訪れた)と、記者が取材する事となった事件にまつわる過去のドラマが交互に進み、最後に「死者たちとの対話」と「過去の時空に紛れ込んだ」とも判然としない異空間が作られ、強烈な言葉が吐かれるのであるが、この最終場面になって漸く、私としては劇に追い付いた。
もっと正確に言えば、そこまでの「見え方」が随分と変わっていて、初演以上に直截に「怨嗟」や「沖縄問題」的な証言が届いて来ることに戸惑っていた。恐らく、タクシー運転手であり「事件」の当事者の役が25歳と若く、生硬に寄った演技の質感によるものだろう。(作者は対談の中で、この俳優同士の空気感なら、もっと踏み込んだ言葉を吐くだろうと思えたりした所を、変えたと言っていた。)
そして初演のやや無責任雑誌記者のキャラを通してコメディ感覚で事態を眺めさせていた亀田佳明バージョンとは異なり、場面の直接的な情報伝達によって「見えてきた」情報もあった(これは二度目というのが大きいかもだが)。そしてコメディ調のヴェールによって流れていた台詞の細部に引っ掛かり、意味を読み取ろうとするセンサーも働いた。
従って、「見やすさ」とは裏腹に、事象が苦いまま粒立って迫って来る(私はこの感触は田中麻衣子演出の技量によるもの、と思う所が過去にもあったのだが、もし「敢えて」なのだとすれば、基本的に異化効果を好む演出なのかも知れない)。ギザギザと不快な感触さえ伴って風景が象られると、初演ではギターをかき鳴らす異化効果が、今回は屋上屋を重ねるようであったのは、私としては少々残念(勿体なかった)。
この「飲み込みにくさ」、そして朴訥感のある記者の捉え処のなさが、最後に効いた。(そして亀田氏バージョンでは最後にその味が出なかったな、と初演で微かに感じた事も思い出した。)
それは、イノセントな、所謂罪意識の無い平均的日本人の感性が、痛烈な皮肉で語られた沖縄の亡霊たちの言葉を、受け止める佇まいに凝縮されている。その言葉らを自分の「大切な存在」を人質に取られた今やっと、「聞く」体勢に「させられた」彼は、せめて記者の使命感に支えられてと言いたい所だが、戸惑いながらどうにか目を見開き、対峙できて(させられて)いる。その姿に、本土人である自分が重なるのである。
良いキャンペーン
譜面絵画|FumenKaiga
アトリエ春風舎(東京都)
2024/05/25 (土) ~ 2024/06/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
若手の「何か挑戦してる」未知数舞台に目を向けてみた、という感じで観に行った。中々面白い。トークで劇中の各場面の意味合いをゲストが訊いていて、それに対する答えを聞いて「それ判らんやろ」と突っ込みを入れつつも、判らずとも響く全体的な趣きがあり、面白げな劇空間が出来ていた。
女性5名が演じ、場の条件から瞬間ふと生まれる「かのような」現代口語演劇の演技の面白さを味わったという感じだろうか。
テキストは簡素な中に(惹句にあるような)テーマが織り込まれている。