公演情報
Noism「マレビトの歌」の観てきた!クチコミとコメント
実演鑑賞
純正のダンス公演、と書いてみる。自分が演劇的要素のある舞踊に惹かれるのだとすれば、そうでない舞踊(演劇的要素の薄い又は無い舞踊)との境界線があって、それは舞踊というカテゴリーの端っこに位置するのかも知れぬ、と想像してみる。もっとも「演劇的」と書けばその意味範疇は広く、舞踊というカテゴリーをも包み込んでしまうだろう。意味的には。
舞踊作品に限らず、絵画でも、もちろん演劇(特に抽象性の高い)にも言える事だが、作品の文脈を理解する事によって漸く鑑賞に耐えるという事があるように思う。シュルレアリズムや、ダダといった時代区分の作品を、「なぜこう描きたかったのか」という時代背景とセットで見るのとそうでないのとでは見え方も理解の深みも違ってくるといったような事。
話を舞踊に戻せば、まず音楽(音)が不可欠な要素である。逆に「音がない」舞踊舞台は、その事に意味が付される位に不可分なもの。この音楽がキャンパスの背景色に当り、舞踊はその中で位置を得る関係性だ。関係を違えると(そぐわない動きが入るか、選曲を間違えるかすると)作品としての質に関わる。
Noismの舞台は二度目であったが、前に芸劇で観た舞台は美術や趣向からして演劇的であったのに対し今回は「踊り」の技巧や群舞のアンサンブル、統一性に比重が置かれていた感がある。その分、音楽との緊密な関係性は削がれ、大括りな関係性となっていなかったか(この音楽を流していれば踊りの中身が意味深に見えるという無難な選曲・・舞踊公演には割とありがちに思っている)。目を見開き、凝視していたのだが、群舞はかなり攻めた形を作っていて、技巧的に素晴らしい・・が、訴えて来るものが無い。そのため、これを受け取る心の受信機は暇をこいてこっくり船を漕ぎ始める。耐え切れず爆睡に入ってしまった。・・とは言い訳かも知れないが。終演と同時に大きな拍手が起きた。舞踊関係者が多そうに見えた。「よくやった、すごい。あれだけの事をやれただけでも拍手に値する」そういう拍手である。一方自分は、技術を見に来たのではなく、問いを受け取りに来た。一歩を踏み出す、なぜ?どうそれを説明するのか、を見据える。その連続性の中に、舞踊という表現のドラマがあると期待して経過を見て行く。舞踊を見慣れていない目には、振りが長かったという事なのかも・・。
帰路、人が踊る姿に魅入ってしまう理由、あるいは辞めてしまう理由について、改めて思いめぐらしていた。