公演情報
ゆうめい「養生」の観てきた!クチコミとコメント
実演鑑賞
自分の中でゆうめいの舞台に共通するのが不思議なバランスで成立している感覚。実も蓋も無いような爆発場面が首の皮一枚で繋がって物語内にとどまる。ヘタをすればコケかねないその瞬間というのがこの作者の特徴だとすれば、それはドラマ叙述が当然備える所の「美化」の真逆。人間のどこまでも醜い横顔を暴露して尚この人間というものを愛せるか?と問う感性、と規定してしまうとまたその逆をやられそうである。
本作のスズナリでの初演を思い出してそんな考えを巡らしたが、一回り大きな空間(KAAT)での上演にも十分耐える作品であったのだなと、まずそれを思った(元々強度のある作品だったか、作品も一回り大きくなったか...)。記憶のあやふやさかも知れぬが所々書き改めた痕跡を認める。より分かりやすくなり、その分皮肉や破壊の力も増したに感じるが、作品の核は変わらない。芝居は語り手の橋本(本橋)の卒製(卒論ならぬ美大の卒業製作)紹介に始まり、脚立を組み合わせた巨大オブジェと養生テープで作られた床と壁という大きな作品が、そのまま深夜の装飾作業の現場となり、学生バイト時代の相棒と共にエスカレーター式に本採用が決まった期間と、相変わらず同じ仕事をやっているが何らかの変化を経た十年後の二人を描く。+一名は学生バイト時代では上司(先輩)、十年後はそれによく似た後輩として登場する。三人芝居の各人の芝居上の比重は等しく、最後に絵に描いたような(奇想天外な)それぞれの破滅が訪れ、撤去作業がままならず「詰んだ」ラストを迎える。美大系とは言え作業自体は第三次産業の悲哀と、ガテン系の無味乾燥さが綯い交ぜになった「いかにもバイト」な仕事のサンプルとも見える。カスタマーとして楽しむ一般人(お客)を傍目にこっちはそのお膳立ての作業をやるが特にリスペクトされる訳でもなく単純作業をこなすだけの範疇。このお客と「対面」するのでない、お客と「近接」しながら立場が真逆である関係、すなわち楽しむ客(貴族)の下僕的立ち位置を間近で思い知らされながらやる仕事独特の空気というものが、この舞台では如実に表れている。そしてこの仕事の対極にあるのは元美大生は本来目指していたであろう「クリエイティブな」仕事である。芝居が終ってみればここには敗北者しかいないのだが、この事実(あるいはそういう判定をする尺度)は現場風景の描写の中に紛れて見えない。そしてそれは現実においてもそうであるに違いなく、作業現場では誰も自分が負け組である事を表明する事はもちろん体から滲み出す事もしない。それをやる事は同じ現場で働く相手をそのように評価する事でもあるから。やらない。観客も登場人物たちの「働く者」目線で彼らの動向を追うが、最後にはそれらが露呈するのである。とは言え、この芝居が現代の階級制の暴露を目的としたものである訳でもなければ、何がしかの意図が仮にあったとしても悟られる下手は打たない。現代文明社会の一隅で健気に生きる(時に間違えた方向に進む)姿をただ描写しているだけである。勿論あるべき演劇とは算術や等式の当て嵌めで答えを得られるものではない、と、これは「断定」しても許される事だろうと思う。