tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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愛、あるいは哀、それは相。

愛、あるいは哀、それは相。

TOKYOハンバーグ

座・高円寺1(東京都)

2021/06/13 (日) ~ 2021/06/20 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

初演を観た自分の目にこの芝居が今どう映るのか、あるいは広いステージでこの芝居を今どう演出して見せるのか、との関心につられて観に行った。
幾分遠い(高い)席では座高円寺は不利なことがある。今回は台詞が聞こえない箇所や、若い女優が扮する人物の混同、「間」に語らせるニュアンスの読み取りづらさ、等あった。ただし(前記二つ目を除き)その根本の原因は、震災・原発事故からの歳月が初演時の倍を超えた今、確実に「当時なら皮膚感覚で共有できた」であろう一つの言葉が持つ含意や風景が、必ずしも一つに集約されない事にあるのでは、と思った。言葉は震災という唯一無二の事件から(良くも悪くも)解放された、という事になるか。
原発事故に関して、時間経過によって明らかになっている(はずの)事実を示される事で、この歳月の空白を埋めたい(何もできなかった後ろめたさを幾らかでも軽減したい)願望を持つ自分は、震災直後に設定されたこのドラマによって「痛いところを突かれない」事に不足感を覚えてしまう。何とわがままな観客か、という事であるが、それが正直なところで実感である。
初演とは俳優陣が大幅に変わり、いくつか演出が異なる部分もあった。総じて良くなったと感じる反面、やはりこの芝居は間近で、狭い空間で観たい思いは残った。

オイディプス/コロノスのオイディプス

オイディプス/コロノスのオイディプス

隣屋

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/06/03 (木) ~ 2021/06/08 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

隣屋の名称は耳にしていて、一度d倉庫の現代劇作家シリーズ「ハムレットマシーン」を観たようだが記憶になく、レビューでも言及していないので印象に残らなかった模様。といって気に食わなければ必ず一言申す自分が「書いてない」という事は、まあ統一感のある舞台ではあったのだろう。
さて今作は二作ともコロナを意識した「一人芝居」と場内数か所で映写される「映像」で構成。上演時間約1時間の中程で20~30分ほどの一人パフォーマンスがあり、他の時間に映像を観覧して回る。ただし映像は俳優の語り又は字幕、つまり「時間」で拘束するもので、全体を見終えるのに1時間程度必要である。で、1時間経つと音声は再生を終え、退出扉が開けられ閉幕。「展覧会」とは異なる。
一人芝居の一場面で「オイディプス」の物語を思い出しながらも、主人公オイディプスの「悲劇」の叫びが遠い声に聞こえた。神から告げられた「父を殺し母をめとって子を宿す」との忌まわしい予言から逃れようと旅に出たにも関わらず、オイディプスはその旅先で図らずも予言を自ら現実化させる。調べさせた家臣にその事を知らされるという場面が「芝居」のシーンだ。この悲劇は、尊属殺、母との姦通が「禁忌」であるという事実の上に成り立つが、禁忌の子であるアンティゴネとイスメネはその後も人間らしく生きて行く(作品「アンティゴネ」において)。古代では「罪」は「刻印」されるものであり、厄災の源だったが、現代においてもこの原初的「罪」を扱いかねている面はある。ただこの上演で強調される「嘆き」や人物らの「主観」を切実に受け止める素地が自分にはない。むしろこうした禁忌に苛まれる人間(又は禁忌で人を追い込む社会システム)への観察へと促されるものがある。「何をそんなに嘆いているんだろう・・」と。

「コロナ」という状況が如何に演劇をゆがめているか、その婉曲表現なのではないか、と思う所もある。まず一人パフォーマンスを行なうエリアは天井から吊り下げられた透明シートに囲われ、演じる台にはブルーシートが敷かれている。そして独特な衣裳(ギリシャ風をもじった)をまとった演者がゴーグルやマウスシールド(確か)など二重三重に「対策」を講じた姿で大真面目でオイディプスを演じる。観劇人数は10名程度に抑えられている。
感染対策に「ひたすら(大真面目に)忠実」であるのか、感染対策を強いる社会を「揶揄した表現」であるのか、判別がつかない。ただ、様子からして大真面目の方だろうと思うが、私は後者を望む者だ。「感染ゼロ」を理想とする形を目指す態度、その事自体に私は非人間性を覚える。何度も引用してしまうが戦中の竹槍訓練に「虚しさ」を感じるか、それとも「協同性の美しさ」を見るか、ベクトルは正反対になる。
私はクレバーでない政治・決定を盲目的に人に強いる力への隷従を忌む。竹槍訓練を本気で「戦争に勝つため」に指導した者はいたのだろうか・・。想像するに大半は自分の地位安泰だけが目指されていた。同様に、今の感染対策の殆どが感染防止よりは「異端視されないため」もしくは「濃厚接触者の認定を回避するため」に為されている。これは喜劇を通り越した悲劇だ(「悲劇を通り越した喜劇」のレベルを通り越している)。

今作、演劇のカテゴリーとしては評し難く、☆は上の通り。

外の道

外の道

イキウメ

シアタートラム(東京都)

2021/05/28 (金) ~ 2021/06/20 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

従来のイキウメ作品から受ける快感は、未知の領域へと分け入るぞくぞく感、謎の事象が「解明」されて行く痛快さにあり、常識を揺さぶる世界観とこれに息を吹き込む俳優への「感心」の要素が大きかった。
ところが今作はストーリーや世界観の斬新さより、新型コロナ禍の下で加速するある種のベクトルへの疑問を全力で投げかけたものと感じる所大であった。従来作品では人間同士の悩ましい諸々はあっても、あくまで「敵」は(現実世界に問題を持ち込んだ)不可知領域であった。だが今作では不可知領域(が示唆するもの)に気づけない人間、空気に従いしたり顔でステロタイプを押し付けて来る浅薄な人間が不気味な「集合」として見えて来る。(主人公となる二人以外の人物たちを風景として描き、コロス的な動きをさせる演出にそれは表れている。)
これを書かせた作者の心底は知る由もないが、わが眼には舞台に切実なそれが滲み出すかに見えた。

ネタバレBOX

今作ではセンスオブワンダーの世界を如何に矛盾なく(あるいは二時間楽しめる程度に)解明し、成立させるかは殆ど目指されておらず、あらゆる超常現象がまるで地球を滅ぼす人間に対して全面戦争を挑む妖怪たち、という構図を思わせる。「無」の存在、「空鳴り」、過去のない人間・・。時々聞こえる不穏な「空鳴り」の方へ人々はその時注意を向けるが、垂れ籠めた黒雲の下に長らく住まう日々を受け入れている風でもある。「無」は主人公(ら)にだけ感知され、「その他大勢」には見えない。この違いが「無から生まれた人間」の存在の受け止め違いに表れ、両者が似て非なる事を観客は見る。超常事象をその存在ごと感知する希少種である主人公(ら)は、現実世界では不器用な生き方の選択をせざるを得ず、明確に表裏の関係となる。彼らは最後に一つの決断をするが、この物語上の解釈はどうあれ、確かなのは自分を守る(売り渡さない)ために「この社会に暮らせなくなる」選択をする勇気が常に試みられている事(主人公二人のように)。
イキウメ作品にあった現代人の精神生活に豊かさを分け与える「あり得る一つの考え方」は今や急迫を告げる事態の中で皆に指し示されるべきあり方、となったのではないか。今現在に対する態度を観客に問う、芸術の側からの申立てを物語構成を通して物した前川氏の筆力にはやはり「感心」。
十一夜 あるいは星の輝く夜に

十一夜 あるいは星の輝く夜に

江戸糸あやつり人形 結城座

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2021/06/02 (水) ~ 2021/06/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

日本の老舗人形劇一座を初観劇。時間枠が取れたので直前予約で観た。鄭義信作・演出だな..と何気なく見やっていたが開演ギリで劇場に向かう途中おもむろに期待がもたげ、徒歩が小走りに。客演植本純米の八面六臂も意外、そしてシェイクスピア「喜劇」を力技で翻案した舞台の最後も・・期待を超えて満足。
人形劇は面白い。ひとみ座が自分の中では筆頭だが(他にあまり知らないが)糸操り人形劇では一糸座のシュールな舞台を観ていた。結城座とは接点無しと思っていたが、スズナリで流山児舞台に客演していた(先代孫三郎の風貌が記憶の片隅にある)。「伝統」「料金高め」という印象であったがパンフを見ると実はアングラ時代から現代劇作家・演劇人との共作、コラボ等人形芸の開拓者の一面もあった由。

糸操り人形の「歩き」は不格好である。が微細な手の動きや角度で表情を作る。ポイントを押さえて風情が宿る。何より声である。主役の双子の兄妹を新孫三郎が、ゲップ親父を先代が演ずるが、その他は全て男役を女性、女役を男性が演じる。形代が持つ観客の想像力誘発の機能に最大限頼み、換言すれば観客の理解力に信頼しその限界を攻める演出の熱に、心底でやられている(まあ座員の男女比からの必然とも..)。
これら人形と絡む唯一の「人」である植本氏の芸達者振りにも驚いたが、大胆な起用というかこの演出ありきの台本を書いた鄭氏に敬服。

ネタバレBOX

一点減点の理由は言っても仕方ないのだがラスト、瓜二つの兄妹(妹が男装していたため)が一場にまみえる場面で兄の声をそこだけ先代が代行したのが、言っても仕方ない事だが勿体ない感が。
新座長がやがて無二の芸達者となった暁、兄妹を入れ替わり一人が演じて笑いを起こし、涙の大団円に・・想像だけは誰にでもできるがこれは観客の特権。
言うまでもないが「人形劇だから」と差し引いた評価は一切なく堂々たる舞台。東北弁が使われる理由は最後に判る。
アントロポセンの空舟

アントロポセンの空舟

水族館劇場

臨済宗建長寺派 宗禅寺 第二駐車場 特設野外儛臺 虹の乾坤(東京都)

2021/05/14 (金) ~ 2021/05/31 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ザッツ水族館劇場。東京の果て、雨降る夕刻に集った客と俳優の数は共々少なめであったが「らしさ」は健在、堪能した。役者陣のデコボコ感、歴史を貫通して詩的文体に刻むテキスト、目を喜ばせる舞台装置、水。
後の席に座った親子連れの子供二人がしばしば遠慮なく「感想」を差し挟んで途中邪魔っけだったが、フィニッシュの大展開に「やった!」の一声は観客の心と一体化していた。(分ってるぢゃないかっ。)

てげ最悪な男へ

てげ最悪な男へ

小松台東

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2021/05/21 (金) ~ 2021/05/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

凡そ9か月振りの三鷹。小松台東は昨年のグッドディスタンス、アゴラ公演でさほど久々感は無いものの本拠地で本領発揮の「細部にこだわる芝居」が観れた。「痛い」男の話であるが男は一度は経験するだろう「失恋」のロングバージョン。ただ、そこをオチにしたのはたまたま、とも見える。不幸な生まれの女子物語としても通るしそちらの目線で追えばハッピーエンド。裏表の関係。
小松台東での瓜生氏の役柄は割と枠に収まっている気がするが(そういえばiakuの舞台でも恋の成就しない哀れ男だった)、時には二枚目役も見たいぞよ。

ネタバレBOX

前作でも「殺し」が出てきたが、松本氏の役柄も身を持ち崩す系に寄っているような。。
破滅的な話にしては話の筋に無理を感じる箇所は、脇役である同町内の男の笑わせ所のためにせよ、小園演じる女性が長年同居した叔父に気を許し「過去から逃れられない」と悲観して思わず叔父の抱擁に身を任せる時間が長い。回覧板を届けに来た時その二人の姿を見て「誤解」し、回覧板を音を立てず足をそれ以上踏み込まずどう置いて去るか、を色々試した揚げ句諦めて持ち帰る、というくだりだから長くはなるが・・。
女は叔父の「妙な動き」に気づいて「そうだったの?」と呆れ、百八十度真逆の存在となる。冷たい世間の風を二人でしのいできた歳月も色あせ、父代りの叔父が彼女の新しい恋人に中々会おうとしなかった事とも符合した。だが、、「過去」は拭い去れず、従って「二人」で生きて行くしかない、その「絶望」(叔父にとっては希望)が叔父との紐帯を確認する事となり、抱擁に至ったのであれば、そこから男女の関係の可能性もゼロではない。むしろ、ある。ただし、女の絶望に乗じる男も「最悪」ではあるが・・しかし女も叔父にしなだれかかる程には、実は絶望しておらず、新しい彼氏との関係に不安ながらも希望を抱いていた訳である。つまり抱擁は彼女の素直な表現でなく、彼氏との面会を拒む叔父を「懐柔」するため、悲劇のヒロインを演じ「絶望するな、希望を持て」の台詞を引き出そうとした。計算があり、純粋一本でない、と見える。
ただ、叔父の父権主義な態度を女が「許していた」一面があったとすれば、その裏側には「叔父は自分のために存在してくれている」という仮説、信頼が存在しており、その暗黙の契約関係を叔父は(愚かなことに)破棄したという事態とも見える。
いずれにしても、この「最悪」は男の人格や存在が、というより、ここに至った事態が、であろう。年輩男が年下女性に恋心を抱くことを「汚い」といった形容で規定するのは殆ど「見た目」の問題に思える。もっとも見た目は重要だが、瓜生氏でないタイプの男(しゅっとしたダンディ男、またはもっとうんと不細工)が同じ思いを抱きそれを実現させようとしたと想像すると、「汚い」と眉を顰めるのでない別の物語が生まれる気がする。その違いは・・客観的には見た目だが、主観的には「汚い」と感じているかどうかなのだろう。この芝居の男は恋心を打ち明ける事なく、流れに任せて事に至ろうとした。言葉に出来ない後ろ暗さがあった、という事の証であり、自分の主観に閉じこもって相手を実は見ていない、そのエゴを貫徹するのでなく押し殺し「演じてきた」事が、最悪なのだろうと思う。実に、よくある話だ。。
おかめはちもく

おかめはちもく

Nakatsuru Boulevard Tokyo

サンモールスタジオ(東京都)

2021/05/16 (日) ~ 2021/05/23 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

背信を鑑賞。中津留作品だけに政治物ではあるが軽妙さもある独自なカテゴリー。小飯塚女史のキャラがこのカテゴリーにはピッタリである。
実は第一回配信日をライブ鑑賞したのだが疲労で後半をそっくり逃し、ラスト10分で復活したが、2日間のアーカイブ期間にも見直しできず。上演後の短いアフタートークにて、「初舞台」の二人が登壇。一人は「どこかで見た事のある演劇関係じゃない人」、その正体は以前物議を醸した若手女性議員、もう一名はT1PROJECT主宰(作・演出)友澤晃一氏が実は一度も俳優経験のない御仁であったと知った。
この度全配信回のアーカイブを約一か月間配信で売るというので宣伝にまんまと乗って再度観た。
「そう思って」見ると、前衆議・上西小百合氏は、周囲のベテラン演技陣には及ばないながら声量もあり、若手与党市議の憎まれ役を務めていた。
芝居は地方テレビの報道現場を舞台に、何年か前に起きた議員らの不正事件の波紋を現在の日本の国政に絡め、報道のあり方、報道人の姿勢を問うもの。おかしな論理が報道現場で通用してしまうのが、不自然に感じられない。それだけ現状では日本のジャーナリズムが後退している証なのだろう事をやんわり伝えて来る。現実と重ねれば絶望的な話ではあるが、どことなく喜劇臭があって救われる。

獣唄2021-改訂版

獣唄2021-改訂版

劇団桟敷童子

すみだパークシアター倉(東京都)

2021/05/25 (火) ~ 2021/06/07 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

新・すみだパークスタジオ倉へは二度目の訪問(二度とも桟敷童子の観劇)。新館の特徴はステージが奥深、客席の段も多い(と見える)。天井高め、最上段にオペブースが組まれ劇場全体にフェードアウト感があるのに対し、旧スタジオは横長で最上段は背中が壁、天井も迫る感じだったから閉塞感即ち一体感もあり、客席とステージも間近。前回、今回と最上段から観たことで、長い旧スタ時代に完成されたとも言える桟敷童子舞台の検証の機会となった。
前作『花トナレ』は千秋楽、今回は初日を観たが、アングラの系譜を辿れる桟敷童子の「テント」に劣らぬ熱量が、新スタジオの最上段=「巻き込まれ感」圏外まで直接には届かず(地球が最適距離なら火星位か)、俯瞰の目線になるが、それでも前回の『花トナレ』は一個の有機体にも似る劇団の即応力(観客や場の空気に対する、また「同時代」に対する)にただ感服し、抑制から滲み出る純度がコロナ下の一つの理想形にも思えた。
今回、「そこまでではなかった」との感想はまだ初日のせいか、客演率の高さ(主役も客演)のせいか・・。人間どうしても比べてしまうが、同じ回を観た知人は前作に比べて大満足だと笑顔をこぼしていた。
詳細後日。

ネタバレBOX

村井国夫氏が初演では降板していた事を今回知った。初演も初日を観劇。微妙なバランスで成立した芝居だと感じたのを覚えている。家族を顧みない「花ト」(山地の崖を渡って蘭の珍種を採る名人=花を商う村に固有の職業)である老父と、彼を(生活苦で)母を奪った奴だと恨みながらも「花」に魅せられ父に弟子入りする長女、足の悪い次女、同じく花トに憧れる三女の三姉妹との関係を中心軸にドラマが展開する。
満州に本社を置く花販売会社(東亜満開堂)の社長の「幻の花=獣唄」への情熱、社長の妻と古参の女中、社員が村に現地法人を設立し、長期逗留となり芽生える姉妹らとの仄かな恋、戦争の深化に伴う「花商売」の暗い雲行きと、戦争体制に迎合する在郷軍人会による「非国民」狩りとエピソードが分岐して行くが、時代という不安定要素が言わば写実的になぞられる居心地の悪さが「悲劇」の構造に収斂される事で(逆に)観客が安定を得るのは、三姉妹の死によってである。
戦時の花禁止令で村と花ト、東亜満開堂は万事休すとなるのだが、辛うじて繋ぐ糸は幻の花と言われる蘭の一種「獣唄」の伝説、即ち「絶望の際で姿を見せる」花の存在だ。ただし現実的な敗勢の中では、この花の存在は希望とならない。もっと別の意味での絶望がこの花の存在と紐づけられている。
花の生産地が戦争時代花禁止令で苦悩する古い戯曲を見たことがあるが、初演に無かったのは今や「不要不急」の典型である演劇がこの芝居の生業に重ねられている(と感じる)ことだ。
さて老父は花きちがいの偏屈物だが長女トキワ(板垣)が弟子入りして一年、長女を花トにしようという気になっている。そこへ三女シノジ(大手)が「自分も弟子入りできるよう話を通してほしい」と姉に頼み、聞き入れない姉をよそに自分で山に入って珍種の花を採って来る。二人の感情的な対立は初演ではもっと肌の泡立つ感覚があった。次女ミヨノ(増田薫)は幼少時の事故で足を痛め「村の男らの慰み者」として存在を許されてきたとされるが、村では異質の者であった三姉妹が(そうとはっきり書かれていないが)花トとして村に貢献する存在となり、また東亜満開堂の登場により村に活気がもたらされ、長女と三女が村の宴席にも呼ばれると次女にも行こうと誘う等、本来対等な村の成員である権利意識も描かれる。男好きのする次女ミヨノにまず接近するのが東亜満開堂の社員加藤(稲葉)。同情・憐憫の域を出ないと見える加藤は招集を受けた時、ミヨノを袖にするがそれが良心の発露であるのか逃げであるのかが不明(初演では男の一時的な熱情であった事が露呈した、それに絶望して自死する経緯がはっきり見えた)。一方社員山浦(三村晃弘)は考え深いタイプ、これにトキワが惚れ、相思相愛となるが山浦は戦争に対する疑問を口にし、徴兵逃れの方法を教えた咎で捕まってしまう。三女は一本気で空気を読まない突進型に描かれているが、村で徴兵にも取られない男三平と何故か気が合いカップルのようになっているが、その三平がついに徴兵に取られる。・・・こうして老父(村井国夫)は、時々登場して我が儘ぶりや、長女との関係の変化を示す程度であった所が、(作者がそう書いたのだから当たり前ではあるが)三姉妹が皆死することで「望まずして」主役に躍り出るのである。
初演での印象は、この老人は「花に捕えられた」男であり、人間関係には不器用だが花採りにだけは才気を示すような存在、その男が娘と(親子ではなく花トの一味として)関係を持つこととなる。全てを選んで来たようであっても宿命の中に生きるしかない存在、そのようにも見える余地があった。頑なな老人が、娘を失うことでまるで「思い出したように」そこにあったはずの何かに自らが(はからずも)依存していた事に気づき、絶望する。この懊悩の中で、男は三たび「獣唄」と出会う。そして終幕で辛うじて体を支え、生きてやると叫ぶ。ラストで受け取ったのは父の存在(を演じる俳優)それ自体であり、村井国夫の父あっての感動だった。
この「感動」を基準に今回の初演観劇を振り返ると、父のスタンダードと「変化」の描写に物足りなさを覚えた。簡単には認めない父である。頑なさ、傍若無人さ、人の神経を逆撫でする存在を存分に感じてから、娘の怪我に狼狽する父の姿が見えたかった。
次女の自死に必然性がもっと見えたかった。花採りが禁じられた後、冬山に入る長女と三女の衝動がもっと見えたかった。正直な感想だが、「比べてしまう」自分にも困ったものだ。
蝶のやうな私の郷愁

蝶のやうな私の郷愁

​ひなた旅行舎

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/05/26 (水) ~ 2021/05/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

延期された公演の中でも観たかった一つ。期待は裏切られず大満足。変哲のない夫婦の日常の刹那性と永遠性。のっけから永山演出の読み解きに感覚動員され、松田正隆作品である事を忘れていたが正に松田作品。
二人芝居の出演者の一人は2018年永山氏による東京レジデンス作品「島」にも出演していた日高氏、そして“我らが”多田香織女史(KAKUTA)。子のない夫婦の一つの関係の図は、過去に規定されつつ現在に縛られつつたゆたう。何気ない生活の断面が、黒い舞台の中に儚く切なく映えて美しい。
日常の場面をかたどる俳優の演技は、陥りがちな定型にハマらず、生き生きと時間は過ぎて行く。俳優両氏に敬意を表する。

さて永山氏の演出には抽象表現がさりげなく多用されるが、読み解きが追い付かない事がままある(「島」でもその経験をした)。本作のラストも何か大切な事が示唆されていそうであったが、「何」であるかは判らず。ただしこの舞台の醍醐味はその時間経過にあり、謎解きの比重は高くなく結末は何にも置き換えられる(解釈を完全に観客に委ねている)感も。
特段の「幸福」エピソードもないこの夫婦を、作者は一つの理想として描いたのだろうか、と永山演出のこの舞台から想像した。

うちのばあちゃん、アクセルとブレーキ踏み間違えた

うちのばあちゃん、アクセルとブレーキ踏み間違えた

劇団チャリT企画

座・高円寺1(東京都)

2021/05/16 (日) ~ 2021/05/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

チャリTらしい舞台である(当たり前だが)。インターネットに流れる議論や情報のいかがわしさと、それに見合わぬ影響力。このアンバランスの弊害はコロナ禍に目を奪われている間に実は加速しているのではないか。
作品が描く事件はSNSを介した情報の錯綜が起こした騒動である。三世代家族に祖母からの電話の一言だけが残され(その後は圏外不通)、現状を知り得ない状況にもたらされる不十分な情報が憶測を広げ、勘違い情報がまことしやかにネットに流れ、それに翻弄される人たち。荒唐無稽な要素もあるが、これが交通事故ではなくコロナに関わる出来事であれば今は笑えない深刻劇にもなりそうである。

ネタバレBOX

セットは双葉家の居間。ここで五人家族の右往左往が展開(正確には娘とその恋人、息子、父母、たまたまやって来た叔母の6人)。
他の場面はスポットで下手にyoutuber仲間3人、上手には6歳の息子が家に帰って来ない母とママ友、つぶやき五郎、セット上のプラットホームには匿名電話や書き込みをする者たち。
事故そのものより、事故を契機に発生するあれこれが本題である。まずネットに上った「事故を起こしたおばあちゃんの孫」に関する誤情報。住所を突き止めたと面白おかしく紹介するyoutubeの動画が発端で、何者かが割り出した「孫」の名=双葉淳(じゅん)と同姓同名の双葉淳(あつし)が誤ってその標的となる。
これにつぶやき五郎なるネットで知られたネームの持主(実は教師)がコメント付きリツイートするが、これに憤慨した「誤解された方」の双葉淳の仲間の先輩がプロバイダーにアクセスしてパーソナル情報を入手し、相手に電話をかけて法的措置を取るぞと脅す。
一方、息子・翔が夜になっても帰宅せず焦り始めた三田は、ネットに上った「今日の交通事故現場に黄色い帽子が残されていた」との情報(結局はガセ)を失踪と関連付け、真相を知ろうとする。彼女は双葉家の娘・葵の元バイト先の同僚でもあり、「双葉淳」情報を見て珍しい名前にふと思い当たり、それとなく葵に電話して住所を尋ねるが、ネットに上った近所の(丁目違いの)住所と違っていた事で誤解だったと安堵し、「本物の(実は偽物の)」双葉淳宅を訪ねる。
場面はその双葉淳(あつし)の部屋、そこへ先の母を含めた3名が、それぞれの事情で順次訪ねて来る。母の他の二人は若い男女であるが知らぬ同士、その事情とは「事故を起こした車」の助手席に「レンタル彼氏」(恋人派遣業)が乗っていたとの情報(これもガセ)を見て、いずれも「丸一日連絡が途絶えていた自分の恋人」だと確信し、訪ねてきたと言う(ここでは恋敵の反目を男女でやってる図で笑いを取る)。
次の場面、元の双葉家の居間にて、youtuber仲間3人と「自称恋人」2人、母・三田が座卓を挟んで双葉家の者と対峙する。結局レンタル彼氏とは不通だった電話が通じ、「車に乗っていなかった」と判明、三田の息子翔もママ友からの電話でその娘・麻里矢と隠れんぼをして押入れに寝ていたと報告あり、行き違いは解決。そして警察からの電話で母の行方も判明、病院には搬入されたが殆ど無傷であると知らされる。残ったyoutuberたち。「誤解」による炎上を円満解決したく、「本物とのご対面」場面を動画に撮りたいと申し出るが断られる。
ただの迷惑者と思われたyoutuberらだが、「本物」の双葉家の所在を彼らが知ったのは偶然UberEatsをやってる双葉淳(あつし)の携帯に、食事を据え置かれた双葉家からマックポテトの注文が(「双葉淳」名義で)入ったから。「本物」宅へ注文品を届けた際に他の二人も同伴して警戒され、注文拒否に合うのだが、帰り際、そのポテトを淳(あつし)が淳(じゅん)に渡す。
最後の伏線回収は今日の双葉家のイベントであった娘の恋人からの「大事な話」。予期せぬ展開の中で使命感を帯びた恋人の思わぬ奮闘あって、歓迎モードですんなり結婚承諾と相成る。これら問題解決は皆、知った者又は現実に「対面した」者同士で遂げられるが、劇中、不協和音のようにネットや電話での無責任な情報提供、誹謗中傷が折々に挟まれる。そして終幕では顔の見えない者に対する「負の感情」の放出の図を通してネット世界、引いては現実世界の闇が仄めかされる。

喜劇は大団円を迎えるが、最後に残るこの情景こそ劇のテーマで、コロナ禍を描いた劇と見えた所以。
「母 MATKA」【5/17公演中止】

「母 MATKA」【5/17公演中止】

オフィスコットーネ

吉祥寺シアター(東京都)

2021/05/13 (木) ~ 2021/05/20 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

前日の公演が中止だった事を当日知った。体調不良者が一人出たためだという。メールの「中止」の文字に一瞬ドキッとしたが、趣旨は「全員陰性を確認したので今日の公演は予定通り」。ホッと胸をなでおろす。陽性者がなかった事にでなく、自分が芝居を観られる事に。エゴも極まれりだが本心だ。

舞台は期待通り。役者に心酔し、演出に心酔した。「演出誰だっけ・・上村聡史?」と当たりを付けたが、稲葉賀恵であった。着実にキャリアを積み、力を示している。
2年ほど前「チャペック戯曲全集」という分厚い本を(高いので買わず)借りた時、『母』はざっとは読んだらしい。「息子の死」がリフレインであった事を徐々に思い出してきた。
チャペックの戯曲は『R.U.R.』が有名で2回観たが、最も秀逸であったのは小説『クラカチット』の舞台化(演劇アンサンブルのブレヒト小屋最終公演)。どの作品にも万人が共感できる普遍性と同時に、作者が生きた「時・場所」を思わせる要素があり、それも含めた風味がある。
この作品で男らが肯定的な響きで口にする「戦争」には、第一次大戦によって覆される前の戦争イメージ(限定的な場所でルールに則って為され、軍人だけが闘って死ぬ)が同居しており、戦争を巡っての男たちと(唯一の女である)母の論争は絶妙に拮抗している。大量破壊兵器が連想される現代の「戦争」が否定的な意味しか持たないのとは違う。医学や科学の進歩に対しても、懐疑的な現代とは異なるものを感じさせる(が、作者は懐疑的視点を織り込んでいる)。
その事情からか、増子倭文江演じる「母」が唱える非戦は、知的なイメージを帯びがちになる。増子氏の好演がこの舞台の質を確かなものにしていたが、時代性の違いを「翻訳」「変換」する作業は(自分が勝手にだが)幾ばくかはやっていた。

喜劇として場面は仕上がり、喜劇である分だけ母の悲哀が迫る舞台。反戦という一つの確立された思想への帰着は回避されている。母の人生というものを想像し、イメージの扉が開かれる(母を体験する事がなく、そういうタイプの母を持たなかった者としては)。

舞台は、軍人であった亡き父の部屋である。この部屋に息子らはよく忍び込む。母はこの部屋で息子らが父に「感化」される事を嫌い、恐れている。部屋の隅に大きな額縁があり、その後ろに肖像画の主人公である父(大谷亮介)が立って風景の一部になっている。武器の類はワイヤーで吊るされ、喧嘩ばかりしている双子はフェンシングの剣を取って大はしゃぎ。国内で紛争が起きると銃を取った。
母はこの部屋では死者と対話ができる、という設定がユニーク。それゆえ、初めは息子が死んだ事に気づかない。息子はおずおずと母の許しを乞うように(悪戯をした子どもが叱られる前みたく)「死んじゃった」と報告する。
開幕時既に死んでいた長男オンドラ(米村亮太郎)は伝染病の研究をしていて感染。次に死ぬのが技術畑に情熱を傾けていた次男イジー(富岡晃一郎)、母に止められていた飛行機に乗って墜落。そして内戦が激しくなると、国軍派と反乱軍派に分かれた双子がそれぞれ、ペトル(林明寛)は反乱罪で銃殺、コルネル(西尾友樹)は戦闘で死ぬ。芝居の冒頭から「この子だけは違う」と信じ、可愛がっていた末っ子・トニ(田中亨)が、ラジオから流れる切実な声に使命感を焚きつけられ「行かせてよ母さん」と告げた時、母は狂乱する。女性の「国家の危機です、起ち上って下さい」と呼びかける声がラジオから響く。部屋には母の父(鈴木一功)も息子・孫らに駆り出されて登場し、既に死者となった男たちが内戦という事態に浮足立ち、「男に目覚めた」トニのためにと何のためだか判らない作戦会議を開いている、という光景。それへ入って来る母が、彼らに対決を挑む。だが全く平行線に終わる論争の後、再びトニと対峙した母は、息子の変わらぬ意志を確かめると全てを諦めたように脱力し、「行きなさい」と言う。

舞台は黒褐色を基調とした昔の欧州らしい調度が点在するが、奥には広いレースの白いカーテンが張られている。このカーテンが不確実な外界(息子らを死に追いやる)との境界を示すかのよう。自在に揺れ、開くカーテンはいつでも息子らを飲み込み、逆光に照らされたシルエットを残して去って行く。作品の幻想的な側面を引き出した演出が舞台に膨らみを持たせていた。

ネタバレBOX

前日の公演中止は「関係者の体調不良」によるという。それだけで中止という判断は、「劇場でクラスター」のニュースが演劇界に与える最悪の影響を懸念しての自己犠牲だろうと恐れ入るが、「感染者が居ても大丈夫」なようにステージとの距離と換気をしている訳である。やるせなさがよぎる。
演劇に限らず「かけられる保険」を何重にも無駄にかける生活にはある程度慣れっこになったが、根本的な「やれない事」は放置されている。このアンバランス。
個人・民間レベルでやれる事は1年間飽きもせずやってきたが、公的レベルにしかやれない仕組の変革が何も為されていない。終電繰り上げで「コロナ対策やってる感」出してるが、逆に電車は混む(乗客減少に対するコスト削減に違いないが、名目は「人を遅い時間まで町に居させない事」・・だが30分~1時間程度帰宅を早める事がどれほど感染抑制に繋がるのか...)。飲食店の時短も人混みを作る一因になっている。フレックス出勤も今は無かったかのようにラッシュが起きている(自己都合に任せたらそうなるに決まってる)。
何より咎められるべきは、体調や近隣者の感染で不安を感じたらすぐ検査を受けられる、という体制が未だに作れていない(感染の把捉を遅滞なく行う唯一の対策だと1年前から言われているのに未だ保健所管轄の検査しか公式に認めていない)。そして医療の逼迫。公的部門の無策のため個人と民間が割を食っているとどうしたって見える。

各病院の努力と苦労が取りざたされ、個人には「わがままを言うな」という空気だが、本当ですか?と。 病院の努力とは医療報酬が経営のぎりぎりのラインにさせられて来た過去の経緯があって、「それにも関わらず、自腹で、コロナ対策やっている病院がある」・・? ちゃんと公的支援しろという話だ。自己犠牲を「褒めてる」場合じゃないでしょ。
ただ確かに重症コロナ患者がECMO対応になれば習熟する者の負担は大きくなるだろう。受け入れてしまえばその対応に割く時間は「必要に応じて」決まって来る。だが緊急対応というイレギュラーは通常であっても担う部分だ。消防然り、介護然り、公務員的な働きを「させられている」事を同情したり「褒める」前に、公務員並みの保証をしろ、となぜ言えない。「我慢してる人」をほめ、本当は相当我慢して窮乏に陥っていても生活のために店を開けば「我慢していない」と叩かれる。医者は少なくとも食っていけている。過労死云々の話なら、ブラック企業にしか入れず心身を病んでる若い世代の事を心配しても良いんじゃね。医療体制が整わないのは民間の法人独自の努力に「お任せ」しているからで、もっと言えば民間法人である各病院の流儀(経営、社会貢献と社会的地位の享受、従業員の勤務体系等々)を尊重しているため(大きな票田だし)、公が口を出せない領域だからであり、公務員的働きを要求すれば「お金がかかる」と思い込んでいるからだ。全てのしがらみが「何も変えない」政治を許し、ただ感染数が増えた減ったと一喜一憂する「頭の悪い国」にしている。もういい加減、頭の良い政治家を歓迎し、国民が選ぶ政治風土を(そういう当り前の文化を)手にしよう・・そんな声も風に吹かれてさよなら。日本は廃れて行くのみ。
あ、そうだ。日本には神風があったんだっけ。そうだな~、何も考えず楽勝楽勝、と思ってる方が楽かもね~~
みえないランドセル

みえないランドセル

演劇集団 Ring-Bong

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/05/13 (木) ~ 2021/05/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

文学座俳優にして「書く人」である山谷典子女史のring-bong観劇は久々の二度目。休憩10分を挟み二時間半とアナウンスを聞いてお~と思う。前に観た芝居は(失礼ながら)この時間に耐えるだけの戯曲が書けるという印象を持たなかった。
だが開幕し、出だしから作劇に磨きがかかった事を実感。母子の世界と、なぜかパン屋に設定されたセミパブリック空間に自然に入り込め、序盤で登場する殆どの人物らを手際よく紹介し識別もしやすい。休憩後の二幕は照準を当てた人物に接近し、生々しさを増す。深みに降りていく筆捌きは中々。ここで漸く登場となる、水野あきの貢献が大きい。
ただ大団円は「長い」と感じる自分がいた。その感じ方はよく女性だけの会話の場に立ち会った時のそれに似ている気が。性差、とは簡単に言いたくないが・・

ビルマの竪琴

ビルマの竪琴

劇団文化座

俳優座劇場(東京都)

2021/04/15 (木) ~ 2021/04/25 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★★

映像で鑑賞。劇場に行かれず大そう悔んだが映像配信と聞いて一も二もなく視聴券購入。時間のある日曜夜ゆったりと鑑賞した。
小説も読まず映画も観ていなかった自分には、シンプルな物語素材と構成による本作は新鮮で、シンプルである事の強さに感じ入った。歌われる唱歌もシンプルな旋律のものばかりだが素朴に琴線を叩いて来る強さがある。
演劇のカテゴリー的には新劇の範疇になろう演目、冒頭流れるインストの旋律だけの音楽が、一気に「現代」の時間へと物語を引き寄せた。
舞台はニッパの葉で織った小屋と、薄茶けた兵隊服、背後は恐らく映写でもって和紙を刷毛で汚したような肌合いに、遠く高山の頂き付近と見える稜線がさっと墨で描かれ、全体で見事に調和した絵となり自然の広大さも感じさせる。既に終戦と間もなく知らされる時期、兵士らは長引く駐屯の殺伐を合唱で和ませている・・やや浮世離れした閉じた世界と、外界との対照がいい。
水島上等兵という特異な一人の存在の投げかけるものを、受け止める余地が隊員たちにある。これらの人間像は「戦後文学」(と言われるカテゴリー)の中で、あるいは現実の日本人においても一つのモデルであり、平和憲法を頂く日本の戦後レジーム(安倍が用いたネガティブな意味でなく)の平和思想を象徴するようにも思う。
水島は「目にしてきたもの」を心の内に秘め持つようだが、具体的なエピソードとしては語らず思想の問題として孤独に乗り越えようとし、仏教へ傾斜する。そして彼を遠い人のように眺める凡人らは、しかしビルマに残るという水島を「忘れない」という決意をする。
戦争の惨禍に見合う決意を、今描くとするなら、「水島を忘れない」ではなく「水島が何をどう見たか」を忘れないと言わせたい。だが捕虜生活を終えた兵士らには彼を忘れないという宣言が精一杯の良心の発露であったと想像する。
戦争はそれが終わった時、生存者に様々な恩恵も与えた。だが日本はその恩恵を使い果たしてしまった。

アンティゴネ

アンティゴネ

SPAC・静岡県舞台芸術センター

駿府城公園(静岡県)

2021/05/02 (日) ~ 2021/05/05 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

丸一年お預けを食ったSPAC訪問。休日の小旅行を兼ねた久々の観劇にほくほく。目当ての『アンティゴネ』は2019年NY公演からの凱旋上演が1年越しで実現した舞台(とは前説で知った。何しろ昨年はそれどころではなかった)。
夕刻辿り着いた広大な駿府城公園内の特設舞台は、西向きの客席の前に横広に広がるステージを挟んだ向かいに荘厳な高い壁(足場に網を張ったもの)がそびえ、薄い残照に骨組みが透けている。目の前のステージは全面に水が張られ、下手、中央、上手に石が組まれ、クリーム色の布をまとった者らが火をともしたガラスの器を手にうごめいている。衣裳は一枚物のドレスにターバン、顔の下半分に薄布を垂らした形で、顔が見えないのはもどかしかったが、本編に入って(話者=スピーカーでない方の)演者=ムーバーはいつの間にかマスクを取り素顔を見せていた。アンティゴネの演者を初め若手の新人と見ていたら、終盤漸く美加里氏と認め、驚いた。

開演の合図は鳴り物。団扇太鼓等を手に上手・下手奥からプールサイドの畔を通って6名が道化よろしく登場、観客に向かってフレンドリーに「アンティゴネ」をかみ砕いて概説。だがラスト手前までをほぼほぼ説明し、「さてどうなる事やら」で去ったので、ごっそり省略して終盤をどんな上演に?と見ると、物語はやはり最初からやられていた。

宮城總によるギリシャ悲劇演出の肝は、音楽にあった。もっとも宮城舞台の殆どに棚川女史の打楽器主体の音楽は欠かせないので、言うなれば我々の耳馴染みのある「和」の音を橋掛かりに、翻案されていた。それが明白になるのは吉植氏が日本の盆踊り風の音頭で謡いをやった時。開演時の火入り器の縁をなぞって音を出す導入から、筏を漕いで出る僧侶、彼がラストに水面に流す燈籠と、「弔い」を介在して和洋を取り結ぶ舞台となっていた。

この物語での「悪役」である王クレオンは、アンティゴネ、及びイスメネの二人の兄の死(差し違えによる)に際し、国家への貢献と叛逆それぞれに報いる扱いをする。即ち弟エテオクレスには天に送る弔いを、逆賊の兄ポリュネイケスは遺体を放置し、弔った者を死罪にするとのお触れを出す。見せしめの処置である。これについてクレオンは政道に従ったのみと自らの哲学を語る場面がある。
だがアンティゴネはお触れに背き、兄ポリュネイケスを土に埋葬し、三度水を垂らす正式な儀式で天に送る。妹イスメネは姉の身を案じ、自分も死んではならない、姉が行くなら自分も行くと説得しようとするが、アンティゴネは決意揺るがず妹をこれに加担してはならぬと制止する。
王の死とその息子兄弟の死により王位を継承する事となったクレオンは、アンティゴネら兄妹の叔父に当たる人物だが、アンティゴネはクレオンの息子、ハイモンの許婚でもある。アンティゴネの所行により、クレオンは息子の許婚を処刑せざるを得ない巡り合わせとなるが、父は「政策の一貫性」にこだわり、庶民の間にアンティゴネの所行を賛美する声もあると聞いても曲げようとしない。
この父に対するハイモンの説得場面が「歌う」ギリシャ悲劇のリズムを逸して、現代的な高速台詞での議論となる。政策の失敗を認めないためだけに「政策の一貫性」にひたすらこだわり続ける様は、日本の現政府の態度そのものだが、その愚かしさをこの場面はあぶり出す。弁の立つ議員とそれに答えようとする大臣が居れば、このようであろう国会質疑を見る感覚である。

ハイモンの必死の説得の後、クレオンはアンティゴネを洞穴に閉じ込める(これは餓死に導く死罪に当るのか本人の努力次第で生き延びる余地がある措置なのか不明)。ただ物語は、アンティゴネの自死とその後を追ったハイモンの自害が「事件」としてもたらされ、王は初めて悔い己を死をもって罰せよと天に叫ぶ。(二人の死がまとめて事件として伝えられるので、ハイモンの死だけが予期しなかった事件なのか、アンティゴネの死も事件の範疇なのか不明、作者はうまくぼかしている?)
クレオン「気づくの遅いよ」と、突っ込みが入りそうになる。
じつは解決法は簡単で、現代の我々ならこう整理する。
アンティゴネの「弔い」は肉親の情愛からのもので「個」に属し、クレオンの処置は国家としての処置であってそれはそれで成り立つ。個人は弔い、国家は死者に罰を与えた、で終われば良い。つまり「奴を弔った者は死罪」が余計なんである。
逆賊を他者が弔うならそれは政治的な叛逆の姿勢の表明になるが、肉親が弔っても世人の理解も得られる(王への叛逆とは考えない)。お触れの出し方がまずかったんでしょ、で収まってしまうと言えば収まる。

それでもこのお話、見始めて暫くは、以前新国立研修所の『アンチゴーヌ』を観て今一つであった事を思い出したが、時間を追うごとに普遍性の土台をもって迫ってきた。

ネタバレBOX

アンティゴネの哲学とクレオンの哲学、この二つは一見、政治論としてはどちらが正しいとも言えない気がする。

だが、「死者は弔われるべきだ」とのアンティゴネの思想は、生前その者が何をしようと、生を全うした者に敬意を払うべきだ、と翻訳できるだろうか。
ポリュネイケスが叛逆した「国家」とはその時点での国家でありポリュネイケスは本来あるべき国家を望む故にその時点での国家に叛逆したのかも知れない。(その辺の事情は出て来ないが、死者を冒涜するだけの正邪の確かな審判など人間には出来ない、との含意は認め得る。)
この点でのアンティゴネの(直感的な)正しさに対置されるクレオンの思想は、実は対置するようなものではなく、他者の言葉をもはや聞き入れない自己絶対化に陥った愚者の「行為」であり、議論の成立しない関係とみるのが正解ではないか。

ありきたりな結論ではあるが、これを今に振り向けると、国会の議論がこのサンプルになり、これを我々は追認しているのではないか。
つまり・・野党が「議論に値する相手だ」との想定で与党へ質疑を試み、時に「共同して」成立させてきた法案が、どれも不正解に思える。問題を解決するどころか山積する問題を積み上げた政権には、クレオンに対するハイモンのように「対決」こそ必要なんでないの?という事だ。
「政治」に参与している実績を積みたいためだろうか、野党は愚か者を「相手にしている」。これでは公明党と同じ、「最悪の法案を通されるよりは少しでもマシなものにする事で貢献する」の論理に埋もれてしまい、「野党も与党も違いが判らない」状態にまたぞろ近づくだけではないか。
コロナ特措法、デジタル法案、問題ありの法案になぜ賛成してしまうのか。それは議論する相手でもないクレオンに対決せず、譲歩を引き出すためだと(傍から見れば)政権にすり寄り、ありもしないメリットを得ようとしているからではないか。。私には自民側が譲歩できる余地を残し、野党に「参加意識」「やってる感」を与え、ガス抜きしてるだけでないかと思える。まんまと手玉に取られている。

話がだ~いぶ逸れたが、古今東西人の過ちというものは変わらぬ。そして人々は「見えて」いても、無力。だから物語を見ようとする。自分を持ちこたえようとする。
お後がよろしくありますように

お後がよろしくありますように

大人の麦茶

ザ・スズナリ(東京都)

2021/04/14 (水) ~ 2021/04/25 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

ほのぼのチラシで名のみ知る劇団を「配信」で観劇。舞台は舞台として、まず劇団の持ち味を知りたい自分は「いつもと少し違ってた」らしいレビューも参考に探ってみる。若手のインディペンデント色の強い劇団と勝手に想像していたのだが、俳優が割と容姿的に粒揃いでハードボイルドやっていたのは意外。その意味で(年齢の問題でなく)「若手」という印象ではない。後で調べてみると15年前あたりに第十二回公演とあるので実は20年選手、紀伊國屋ホールでやってたりしたと知れば益々印象は変わる。
「カッコ良さ」を演出する石澤氏のギター生演奏は今回の趣向でなく、過去からお馴染みのものらしく、チラシが醸すほのぼのイメージはほぼ消えた。

ネタバレBOX

舞台の方は「探偵」「裏社会」をコロナの現在を時代設定にうまくフィクション化していたが、ストーリー的に突っ込みどころは多々ある。ただそこを脇へ置いて見ている自分がいる。何を見ているかと言えば、役者の放つ魅力?というよりやはり容姿力だったように振り返る(今の)自分がいる。ぶすが泣いても石投げられるが美少女の涙はそのストーリーに入りたいと男に思わせるというベタなアレであるが、作者は役者陣を当て込んで作劇をしている模様。
新型コロナの世情ならではのエピソードが考えられているのは特徴と言える。夫が職場で事故に遭っても濃厚接触者なので搬送先の病院に入れない、と訴えに来た妻(看護師)に、「探偵」グループは妻を女性弁護士に変装させ「非合法に」夫に合わせる措置を取る。そこには過剰な警戒が人権を損ねている現状への批判的眼差しがある。
ただ、「go-toも五輪もやめちまえ」と言う台詞は少々芸がなく感じる。

go-toも五輪も利権の産物であるのは共通であるが、経済政策としてのgo-toは、実施を前倒しした事、県境を越えさせた事は全くの「コロナ無視」。その事をもって利権性が露呈した。が、産業へのテコ入れは必要だ。
五輪については運営のまずさをもっと反省すべきだが五輪そのものに罪はない。「コロナ拡大イベント」にならない開催方法が探られて良く、「どうせ利権だ」と全否定すべきでないと個人的には思う。
否定論の理由の一つに日本人のワクチン接種率の低さが挙げられているが、6万人の選手と関係者分のワクチン接種で「感染イベント化」は防止できるのでは?と思う。 (接触する人の片方が「隔離人口」に含まれていればそこでは感染は起きない、という単純な理屈が忘れられている。)
欧米に比べて2桁も低い感染率の日本の現状で大騒ぎしてるのは、殆ど医療体制の問題だ。この医療体制・検査体制の問題に殆ど手が付けらておらず、しかもそれへの批判が見られない事は、私には人々が「本気」でこの病気を克服しようとは考えていない証ではないかと思える。病気より、自分が「悪」の側に認定される事の方を恐れている・・?

大きい話になるが、感染弱者(重症化しやすい人)を「感染から保護する」という観点が語られないのももどかしい。
もっとも日本の高齢者は人口の三分の一近いので「隔離」という言葉のイメージにはそぐわないが、感染弱者の行動の自由を確保するために、未来を担う若者が貴重な「行動」「体験」の機会を奪われ、全体の活動を制限することで経済は停滞し、結果日本全体を損ねている事が、このコロナ禍下の「厳しい現実」でもある。(1年余で1万人超のコロナ死者数は、交通事故死3千人やインフルエンザの数千人より多いが、元々高かった自殺者2.1万人は減少傾向から上昇に転じた)。
これが「感染防止」という価値最優先社会の帰結だとすればどうだろう。。
経済についても、停滞にコロナが追い打ちをかけている今、根本策に踏み出す時ではないか、と考える所だ。
たとえばオンラインであれオフラインであれ、回せる経済を回すには、人々がその場その場で泉から汲んだ水(=モノ・金・サービス)を経済の回路に注ぎ込むあらゆる機会を可能にする事だ。それには手近な所に泉があり、そこに色んな所から水が流れている事。大元の供給者は政府である。「格差の固定化」にこだわる狭量な人間を無視できるなら、「サービス使用権(通貨)」を全体(個人や個人に近い単位である中小企業)に振りまく政策が最も有効ではないかと考える所以である。

関連して、感染弱者(重症化しやすい人)は「出歩かない」事で身を守る選択肢が与えられるべきで、個人が「出歩く」選択をして感染すればそれは自己責任だ、という考えに到達できるかがカギだと思う。
この論は「医療逼迫」への処方箋ではないが、逆に、医療現場は過重な労働を強いられない自由がある、と考えるべきだ。
残る問題は行政の領域になる。お上頼み、ではなく私たちが真摯にそれを求めて行く必要がある。行政は医療の受け皿を縮小してきた方針を見直し、再編を試みるべきだが、この時、各個病院・施設が馴染みある働き方や地位を保証されてきた過去と決別し、公共機関としての使命の下に(消防士と同じく)再編に応じる覚悟ができるか、ここは大きな障壁になる。
医師会を票田に持つ自民党に抜本的な改革は無理、だからどうでもいい時短要請、緊急事態宣言(言葉だけは仰々しい)しかやれていない、との勘繰りにも合理性がある。

ただし、検査体制の方は「増やす」という話なので進められるのではないかと考えるが、これが一向に進まないのはお金を渋っているからだろう。民間の検査機関を含めれば隣国や欧米諸国と遜色ない検査数の分母が用意できるのに、やらないのは無料PCR検査に民間を絡めると業者に払う金が要るから、という単純な話。「お金の使いどころ」で五輪を批判するのは大いに賛成だ。(そもそも復興五輪だったのに五輪の恩恵がないばかりか被災者に優しくない政策ばかりやって来た。)
検査の話、歯科医や薬剤師にも技術を習得させ、検査拡大しようという話が出ているが政府は相手にもしていないようだ。「本気」でコロナと対峙しようとしていないのが判る。
なぜ検査拡大が必要か。発症前感染者(最も感染力が強い)を把捉するためだ。これができないから感染防止は一向に進まない。

でもこの状況はあの原発事故を起こしてさえ原発利権構造を解体できなかった日本では、自然な光景なのだろう。従前のあり方が「成功」だと思い込んでいる日本人に、従前の形を手放す勇気などなく、ゆでがえるのように凋落の時を待つしかできない。

・・・つまり、「五輪」は汚れた利権構造の象徴だが、これを叩くだけではコロナ状況の根本問題は解決しない。
以上、「少々芸がない」、と書いた理由。
こどもとつくる舞台『花をそだてるように、ほんとうをそだてています。』

こどもとつくる舞台『花をそだてるように、ほんとうをそだてています。』

ひとごと。

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/03/24 (水) ~ 2021/03/28 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

後日、映像で鑑賞。
思っていた以上によい。大人の言語に翻訳できない不分明な子どもの言語世界の秩序(又はカオス)を大人が体現する。
壊れやすいしゃぼん玉の中の世界を、守ろうとする感覚は自然や健気さや美に対する人間の本能的な性質に通じるのだろうか・・。演者はそれぞれ子どもの味方となる「大人」に同期した存在。父親になって間もないお父さん、生涯独身で自分の生き方を楽しんでる親戚のおばさん、女子高生の娘を持つ何でも話せるお母さん、バレリーナを目指す近所の憧れの的のお姉さん・・。
原作者=子どもたちの作ったと思しい登場キャラ・・ふたしかちゃん。いっぱいいっぱい先生。あるがまま(有賀茉奈、のイントネーションで。以下同)ちゃん、あるがわかちゃん? どっちでもないばあちゃん。

パンドラの鐘【4月25日~5月4日の東京公演中止】

パンドラの鐘【4月25日~5月4日の東京公演中止】

東京芸術劇場

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2021/04/14 (水) ~ 2021/05/04 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

当日券発売が中止になり落胆していたが「見切れ席」というのが代りに売られ(同じ料金)、あっさり観劇と相成った。松尾諭、緒川たまき以外は不知。ヒロイン役の女優が、観劇後パンフを開いて門脇麦と知り、容姿と名前が初めて一致。相手役を務めた金子大地も観客の大半を占める若い女性には叱られる程のネームなのだろう。
若い二人の初々しさ(小悪魔的と研究馬鹿の取り合わせがまた破れ鍋に綴じ蓋)と、対照的な年輩男女の天晴な屈折具合とが拮抗した役者力で飲み込む。
最大の関心、野田戯曲の検証(他演出家の手による舞台化)は、コトバの表層でテーマらしさを並べる野田作品の印象を覆して、深い部分に触れてきた。パンフには演出の熊林氏が独自な読み込みをした、といった風な書かれ方をしている。私のような者にとってはこの戯曲に「光を当ててくれた」という事になるのだろう。劇を通じて何か一貫する目線があり、言葉のバトンリレーもその構えの中にあって、言葉遊びがうざくない。言葉が遊ぶ時、人物自身も遊んでいる(遊んだ言葉さえも身体化している)ので、舞台上では台詞に合わせてコマ割りのように身体と場の変化が刻まれ、目まぐるしいが心地よい。
秀逸であったのは台詞にもある「空気」への言及。一瞬の事であるが人物がさらりと(素を見せて)現代批評を語ったかと錯覚した。
「鐘」とは長崎のそれであり、古代の遺物が発掘される現代と、古代そう呼ばれたパンドラの町の場面とが交錯する。若い男女と年輩男女+もう一人の男の5名が現代(といっても設定は戦前)と古代では別の役を演じる。この交錯の仕方は80年代流行っただろう「走り回り叫び回る」感じの荒唐無稽系の「お話」であるが、熊林演出はこの荒唐無稽さに汚しをかけ(ぼかし加工?)、含みのある風景に仕上げていた。舞台中央にでかでかと置かれたギリシャ建築風の一部の肌合い、舞台上に置かれた近代的な縦型白色照明、なぜか靴が持ち込まれてドカッと置かれたり回収されたり(視覚的な美を損なわない範囲)、底の抜けた棺の活用など、一つ一つの寓意は読み解けなやいが今回の『パンドラの鐘』の世界観を全体で形作っていた。
終盤、相合傘の落書きが原爆きのこ雲を表すという展開があるが嫌味なく受け止められた。芝居がこの重いテーマ(売る価値のある?)に着地する事で「成立」するという構成ではなく、そこに至るまでに十二分に「人間」の本音が暴露為され観客的には快楽を得ているので、帳尻合わせに「原爆」を持ち込まれたように感じない。史実の一つとしての原爆の長崎を思う時間は、ふと訪れるのである。
緒川たまきの中年女性役(二役)は突出していたが門脇麦も「女王」を演じるだけの素材であった。

ネタバレBOX

4回コールがあった。3回目に周囲は立ち上がったがもう一度呼び出していた。拍手は楽だ。立ち上がるのも大した労力じゃない。役者を労う、あるいは称賛の気持ちが本当ならもっとそれを表現すれば?と思う。痛くなる程手を叩く(その様子を相手=役者に伝える)とか、叫ぶとか、役者がやって見せたものに「返礼」するならその方法を考え、伝えなきゃ・・と思うのだが。変か? 著名人だからコールしないと失礼と思ってんの?とか、素顔を見せろ、金払ってんだから、という感情なのかな?とか、考え込んでしまう。伝わらないから役者の方も愛想笑いしか出来んのだと思う。
でもたまに役者もコールに素直に感謝の顔がこぼれるような、そんな場を見る事もある。「いいなあ」と思う。
いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校【4/28 (水)・29 (木・祝)公演中止】

いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校【4/28 (水)・29 (木・祝)公演中止】

ロロ

アトリエ春風舎(東京都)

2021/04/19 (月) ~ 2021/04/29 (木)公演終了

実演鑑賞

不思議な感触、架空の世界観にアトリエ春風舎という劇場もよく貢献している。
物語は危ういバランスで進み、見入らせて行くが惜しい所で(私としては)塗料が剥げる的な(好きな人には待ってましたなのかもだが)展開になる。ただこの「世界」の構築への役者の貢献には感心。「世界観」だけあって、ストーリーは前面に出なくても良いのでは?等と思ったりした。(これポストドラマの事を言ってるかな。。)

ネタバレBOX

・・「劇的」を狙ってるなぁと判ってしまう、叶わぬ恋の相手に手紙という名の台本を渡して「告白」する場面、そして愛を叫ぶ的なラストも、自分的には「勿体ない」。だが劇の核はそこ(恋愛礼賛)にある以上やむなし、か。。
てくてくと【4月28日~4月30日公演中止】

てくてくと【4月28日~4月30日公演中止】

やしゃご

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/04/17 (土) ~ 2021/04/30 (金)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

「アリはフリスクを食べない」「きゃんと、すたんどみー、なう」「アリはフリスク」再演(観ていない)に続き、今作も知的障害者を捉えた劇であったが初めて合格点を出した。援助者と障がい当事者の関係のあり方が軸に据えられ、現場のリアルを踏まえて普遍的な作品に仕上がっている。
自分が近い所にいる「障害」当時者を「用いた」ドラマにはよりリアリティを求めてしまうが、それ以上に親族らが十分味わい、乗り越えた苦悩を本人が成人した時期に未だ翻弄されているような描写は(たとえそういう事例が実際にあったのだとしても)、彼らの力を舐めている、人間はもっと胆力を養い、現実を生きていると作者に言い返したい思いが湧いたのであった。
私が見なかった「フリスク」再演はしかし評判がよく、劇評家を納得させる明確な視点を持ちえたようだ。あの台本では自閉症の兄を持つ弟が嫁の家族の気持ちを忖度して兄との別居、即ち兄の施設入所を決めるというあたりが物語の焦点であったが、20年以上生きてきた兄弟の歳月を無視して近視眼的になる弟や、事情を分かって交際したはずの嫁のあまりの非寛容さにリアリティの欠如を感じたものであった。が、「劇的」らしく声を張り上げる事をせず態度に葛藤を滲ませる、等の演技上の工夫でも成立したかな・・等と想像を巡らしていた。
過去二作は家族の物語であったが今回の舞台は家庭ではなく障害者の就労支援を行う施設(菓子作りが中心らしい)。冒頭、女性のジョブコーチと対面する利用者(この職場では清掃を担当)演じる藤尾勘太郎が最初「どこかで見た顔」だが「その人」にしか見えない。この職場で彼のサポートを担当する(職場の責任者でもある)男(岡野康弘)は彼の隣に座り、忙しく紳士的。もう一人の「障害者」は井上みなみ演じる発達障害を持つ女性で、この風情もリアルで「障がい者」の居る現場にはこういう控えめなヒーローが潜んでいるのも真実である。彼らの事を「思い」ながら己のエゴを映す鏡の存在に日々静かな格闘に臨まされている。音楽のない平田流を受け継ぐ劇にひたひたと情感が流れる。・・「我が意得たり」な瞬間色々と挙げたいがそれはまた。

ドップラー

ドップラー

KOKOO

シアター風姿花伝(東京都)

2021/04/20 (火) ~ 2021/04/25 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

芝居をハシゴして山手通り側から劇場に到着。「目白駅からの徒歩でない」行き方を前回に続いて開拓して一つ地理に詳しくなった(要町から椎名町まで徒歩ですぐとか..)。
本日も未知数度95%初お目見えの劇団を風姿花伝にて鑑賞した。チラシ、サイトから想像された「落ち着いた」イメージをひっくり返し、喧噪とスピードと汗の2時間(休憩有)であった。

ネタバレBOX

本がとにかく饒舌なのであるが、若い役者達がアクション+高速台詞を緩急ある声調で展開し、(音量は大きく標準速度は高いのに)場面は多彩な表情を見せる。もっとも「物語」の方はある昔話をモチーフに縦横無尽に展開して「回収」の意思を疑う程であるが、破綻と集約の予感の境界を行きながら、台詞一つで世界が変わる奥儀(唐十郎)、走り回る様(野田秀樹)、ギャグの頻度(松尾スズキ)といった若者なりの温故を感じなくもなく。
題名は「遅れて来る」人の意であるらしいが、とある二人の青年+少女を核に進む話ととりあえず理解できる。二人の内の一方が足も生き方も早いが「ヒーローは遅れてやって来る」を体現、一方はのろく人生に不器用な存在を体現して観客が感情移入しやすいキャラとしてある。だがラストは人物の高ぶる感情に同期する根拠を掴み損ねる。台詞一つで世界を変える技も、結語を導き出すにはより周到な仕込みが必要という事か。あるいは早い展開の中に散らされた伏線をこちらが読めてないのか。。 ただこの集団の特徴である最大化された「動き」(にも関わらず息が上がらない..汗はかいてたが)は秀逸で、ちょいと気になる集団になった。

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