tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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ひとりでできるもん!

ひとりでできるもん!

うずめ劇場

シアター風姿花伝(東京都)

2022/10/12 (水) ~ 2022/10/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

うずめ主宰ペーター・ゲスナー氏の還暦と在住30年で一つお祭りを、という事で落語を題材にした舞台。前作に続き内田春菊絡みだが、今回は脚本の書き下ろし。下調べゼロ。うずめ劇場の今回の見世物は・・(ひとりでできるもん、の心は・・)?とわくわく開幕を待ったが、文句なしに嬉しい題材。春菊氏のエピソード創造力と、落語への愛情が窺える脚本に観ながら内心ウハウハであった。「一人でできる」のは落語のことである(言われなくたって書いてある)。

毎回終演後のパフォーマンス(女性落語家を中心に)とトークがあり、私の回は三遊亭律歌、小噺の後内田氏進行による対談。客席にいた某元アナウンサーが質問コーナーで振られていたが、彼女は「花柄八景」を生んだ公演企画(噺家縛りの新作上演)を企画した人。そんなこんなで落語三昧な贅沢な時間であった。

芝居の方は最近ペーター氏の演出に感じられる飾らなさと、役者本位、ポイントを押えたアイデア演出(限られた材料で最大効果、的な)が印象に残る。
多彩な客演者もさることながら、うずめ俳優三名(今回はゲスナー氏もガッツリ片言日本語で登場したが)の働きに胸が熱くなった。かなり個人的な思い入れが以前に増して増量しておるが、これも芝居の内、としておこう。

ネタバレBOX

落語女子大の授業風景が中盤の見せ場。講師役をオオタスセリ、荒牧大道らがやる。柳家喬太郎の「落語大学」は落語噺のあるあるネタをパロって茶化してというノリであったが、こちら芝居の方は徒弟制度と落語噺をフェミニズムで(鋭くやんわりと)斬る。古くは鈴鈴舎馬風なる噺家の「落語学校」を作ろうと師匠らを口説いて回る、というていで金語楼や一龍斎貞山等の物真似を披露する演目があるが、物真似はリスペクトの上に成り立つので茶化しはあっても風刺や批評はない。だが今回の芝居も女性目線での批判は、落語大学が出来ている架空の設定の中で発せられるので嫌味がない。
話自体は落語家に「なる!」と決めた主人公の女子が艱難を乗り越えて自分なりの噺家への道を見つけて行くという自己実現譚。この「艱難」の部分に作者は主人公女子が落語を聴いたり喋ったりすると登場人物の一人に入り込んでしまう、という「病気」?を仕込んだ。オチを言えば我に返る。この時既に彼女はある噺家に弟子入りし、他の弟子と共に日々修行に励んでいるが、周囲の心配の中、ある時彼女は師匠の落語会で前座を務める事に。女将さんはもし本番中でなっちゃったら、と心配するがゲスナー、もとい師匠は彼女に足りないのは成功体験かも知れない、施設で育った生い立ちが影響してるのかも、と実行を決める。そして本番当日、舞台中央に据えられた赤い高座に座り、既にあらましが話されていた「たらちね」を見事にやるのである。枕から本題へ。嫁がもらえるとなって喜び夫婦の場面の空想が長屋にだだ漏れの中、新婦が到着。幕の袖が開いて女将さんと師匠の「よしいいぞ」と固唾を飲んで見守るシーンの挿入後は、いよいよ新婦の「唯一の疵」である高貴な言葉使いとこれを受けて返す男とのやり取り。そこで彼女は妻役に入り込んでしまう。意を決した女将が舞台へ上がり、客との間をとりなしながら相手役になって会話を続け、オチへ辿り着く。これに至って彼女はガクッと気絶するのだが女将はそれを読んで肩で受け止めて愛敬笑い、と決める。ハラドキから辛うじて難を逃れるクライマックスは落語版バックヤード物と言える構図で、内田女史のこういう所に滲み出る落語愛に感じ入った次第。
大団円は、それ以来彼女にアレは訪れず、修行に勤しみ着実に高座も務めている。最後にはちょっとしたオチが夫婦の会話で話されたと思うのだが忘れてしまった。
車窓から、世界の

車窓から、世界の

iaku

新宿シアタートップス(東京都)

2022/10/01 (土) ~ 2022/10/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

アゴラで観た初演はiaku観劇何作目だったか、「面白い!」と思った記憶があったので、今回足を運ぶ事にした。リーディングという事で何か趣向を期待したが割と普通の読みであった。アゴラの舞台は長い閑散としたホームの美術が見事だった事を思い出し、想像の翼をもがれたように序盤はもどかしく感じたのだが、恐らく今回作者が甦らせたかっただろうテキストの後半のやり取りでは、ドラマに入り込んでいた。こういう話だったか、という感じ。シリアスである。関西地方のとある新駅。ト書きの解説に、住民の要請で出来た「要請駅」の失敗例で利用客が少ないとある。この駅のホームから、中二の女子3人が電車に飛び込んだ。二人は死に、一人は重体で病院の治療室にいる。雨が降るこの日、3人が小学生時代所属していたガールスカウト主催のお別れの会がある。喪服で登場した若い女性教員と私服の若い男。恋人らしい。そこへ同じく喪服を着た女性二人は一人がPTA副会長、一人がガールスカウトでスタッフとして働く女性。電車は事故で遅れており、行き先の同じ2組はいずれ会話を交わすが、屋根のないホームの端のベンチに茫然と佇む若い男を気にして、カップル男が駅員を呼びに行く。やがて現れる駅員、その後やって来る例の若い男と、登場人物は計6人。(舞台上にはト書き読みと合わせて7人が居る。)
若い男は漫画家志望で、実は三人と接点があり、彼は描いた漫画を三人に見せていたのだが、その内の一人が漫画のストーリーに自分と男の関係を重ね合わせているらしい事を察知し、空想を諦めさせるために描いた漫画の続きを見せた所、その翌日に事件が起きてしまったと告白する。そこから、自死の責任問題が一しきり話されもするが、事の責任のありかより、不分明でありながら厳粛な事実を残された者の側に何が問われたのか(と理解すべきなのか)に問いは変質して行く。
現在ネット上で顕著な、個人の行為に対して即断罪、締め上げに走る言論が根本的に見落としている物事の多面的な理解の余地を、この戯曲は示唆する・・とまとめるのは平板過ぎるか。だが時事イシューを巡るネット言論は深刻な病みを抱え、私はこれを参照したテレビラジオ放送、ましてや政治はあり得ん、というより質の低い言論に数が多いというだけで一目置いてしまう振る舞いの奇妙さを思う。

ガラスの動物園

ガラスの動物園

新国立劇場

新国立劇場 中劇場(東京都)

2022/09/28 (水) ~ 2022/10/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

戯曲に目を通して臨む、と決めていたが、自宅にあった文庫本が散逸。図書館各所も全貸出中、最後は新刊書店大手に二か所寄ったが置かれておらず、この公演のせい? 等と妙な推測をしてしまった。
代わりにネットに出ている「あらすじ」を読んだり、以前この作品の戯曲の性質について書かれた文章を思い出しても、いまいちどんな作品なのかピンと来ず、演劇界で著名すぎるこの作品が、とりあえず演劇史的には「現代の精神状況を表現した」(ゆえに同時代性を感じた多く人から支持を得たと思しい)ことが推察されるのみであった。
結果的にはこの演目の舞台を初めて目にして、合点した事は多々あった。

米国を中心とする「西側」諸国の爛熟、全世界的にも科学技術文化メディア等が急勾配で発展した。「戦後」という時代はやはり不可逆な、特殊なものだと言える。その起点で蠢動のような変化があり、国を問わず、芸術家はその変化を察知して作品を成した。「ガラス・・」が描く欠損家族、それを捨てた息子の罪(父がそうであった、とあるのでこれは原罪に近い)。この風景は、戦前ではなくやはり戦後という時代に発見された風景である気がする。何がそう思わせるのかはうまく言えないが(外面的な状況よりも内面に焦点化しているからでは、と取り敢えず考えてみる)、母も姉も、病的であるからこそ、美しく、いじましく、懐かしく、切ない・・。この感覚は、「回想」が可能ならしめるものである、と思う。

この作品の演劇史的な貢献は、回想という手法で(演劇に限らずだが)ドラマ構築の一つの定型を示したこと、ではないか。
回想する主体であるトムが、観客に語りかけるナレーターで、物語を描写する。横内謙介の秀作「ホテル・カリフォルニア」をわざわざ挙げるまでもなく、ストーリーテリングの主要なフォーマットであるが、「ガラス・・」がその原点と言えるのはその完成度ゆえ、なのかも。(今思い出したが戦前の作であるワイルダーの「わが町」もナレーションで回顧する語り口で、「発見」と言うのは大袈裟に違いないが、ただ語られる内容という点では、やはり大きな違いがありそうである。)
この作品で語られているもの(トムが敢えて語ろうとしたもの)は、そもそも何なのか。
刑罰に問われない「内面の罪」は、甘味さを伴う事があるがそれは回想という中においてである。己の加害性にシクシク胸が痛もうとも、(隣国の民族の「恨」のように)ある意味で生きる「原点」となり、いきいきと生きる「実感の源」になる。己を厳粛な思いに立ち返らせるもの、それが己がふと犯した罪の記憶であり、それは真の意味での「生きる価値」をそのままの形で自分に保証する。即ち「悔い改めて進む」道・・キリスト教の影がそこに落とされていると仮説する。
だが、身を貫いた「生きる」実感に応えて、その後の人生を生き直すケースは稀で、多くがそれまでの習い性、怠惰に流れるのが常。だがその事は埃に塗れた自分の中に再び輝きを見出そうとする時に、再び現われ、「怠惰であった己」の罪が、逆説的だが己を照らし、再び「別の道」が示される・・。

もっとも、今回上演された「ガラス・・」は、(戯曲の原形を推測しながら観劇したところでは)原作にあったノスタルジーの色彩を殺ぎ、ドライな後味にした、と見えた。イザベル・ユペール演じる母は「病気」の要素よりも、逞しさ(ラストに見せた落胆は、その喚き散らす様子が「絶望を断ち切る生命力」に見える)があり、トムの姉は原作ではいじいじと傷つきやすい引っ込み思案な所、現代の引き籠りのように救済回路を見出していて、それなりに自宅での生活を送れている・・。ガラス細工の動物への執着はさほど病的に見えない。ジムへの恋に破れた後、彼女は自分の世界で生き続けるのではないか。
この演出は、何となくの印象ではあるが、この作品の「感動」の形である所のノスタルジーを補強する典型的な(同情を誘う)弱者像を避け、境界を跨いで存在する「個性」が一つ屋根の下で同居する様、を示したかったのかも。これもうまく言えてないが、いじましい家族たちは、過去という墓に葬られず、今も生きているという臨場感を示したかったのかな・・という。
想像が飛躍し過ぎかも知れないが。

ネタバレBOX

余談だが・・当日になってチケット予約無効と気づき、劇場に連絡したところ、残席3つ有り、当日予約。その際、電話で席選択をしたが、中央最後方はやめ、やや後方下手端寄り2つの内、中央寄りを選んだ。だが、毎度の事定刻にどうにか滑り込み、席を探した所、数字で当たりを付けた近辺で一つ空いているのが最も端の席、番号が15とあり、私の席番は18。何かの間違いが生じたと踏んでそこに座ったが、少し前列の少し内側に小さく空いたエリアが見え、気になり始めた頃に「手品」が始まった。・・正しくは3列前の数席内側が私の席だったのだが、実は数字は端15とし、内側に1ずつ増えて行く配置であった。紛らわしい数字の振り方である。もう少しクリアに見えたかも知れないのに・・とも思ったが、体力的には固定した姿勢がきつかったので端席は有難かった、と思う事にした。
実際、俳優の表情はよく見えない距離であったが、身体の動きと舞台処理により舞台全体としては雄弁に物語が語られ、受け止める事はできた。
字幕を読みながらの観劇だが、この点では前方席より条件は良かったかも知れない。ただフランス語の抑揚というのは独特で発語に込められた微妙な感情は読みにくい。その点ではやはり表情を見たいというのはある。痛し痒し。
燐光のイルカたち

燐光のイルカたち

劇団青年座

ザ・ポケット(東京都)

2022/09/23 (金) ~ 2022/10/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ピンク地底人3号の作品を一度観た気でいたがどうやら初であった。架空の世界(日本の近未来的な)とそこに暮らす人間を描いた作品で、骨太な印象である。舞台は場末の喫茶店を思わせるカウンターとテーブルのある店(若干広く物が少ないのが寂びれた地方や途上国のどこかを思わせる)。冒頭、風雨の中、店に入って来た若い男をカウンターの中の男が迎えて見合っているが、これが奇異な出会いである事を窺わせる。若い男は「カミ」の地域からやって来た。店の男は若い男の服装でそれを察知し、厳しい目で凝視しながら、庇護する意思を示す。監視塔はカミからこちら側を監視している。手続を踏めばカミからこちらに来る事はできるが、その逆はできない。カミの人間は裕福に暮らし、こちら側は貧困にあえいでいるが、両の経済力の差ではなく、こちら側が囲い込まれているためだ。こうした状況が序盤の短い台詞のやり取りで浮かび上がる。連想は一気に、イスラエルが建設した分離癖で囲まれたパレスチナに飛ぶ(パンフを読むと明確にその事に触れている)。圧倒的に非対称な状況を強いられている、にも関わらず「複雑な歴史的経緯」の一語で「どっちもどっち」と扱われるパレスチナの状況を、日本に仮設したドラマから何が見えて来るか・・。戯曲はそれを試みており、恒常的な「戦時状況」での日常がまことしやかに描かれる。絶望的な状況での分断された人間同士の共生の可能性、といったテーマは当然潜んでいるが、「問題提示→解決」が容易に訪れないパレスチナ人が獲得している(だろう)「日常」は口当たりの良い答えには辿り着かせない。だがシンプルな人間の感情はそこにある。芝居は結末を迎えるが、問いは浮遊する。

天の敵

天の敵

イキウメ

本多劇場(東京都)

2022/09/16 (金) ~ 2022/10/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

2017年の初演から、自分には少々早い再演観劇であったが、超常・異常の世界に浸る娯楽作品に「現在」的視点を鋭く据える作者であるので、パンデミック前後での変化を見たく(配役の違いにも期待)観劇に赴いた。
初演の記憶はわりと鮮明。劇場が芸劇イーストから本多に移っても風景、そして物語にも大きな変化はない。が「見え方」が違う。どこまでもクリアな立体舞台を観た。

ネタバレBOX

まずはTVの料理番組(収録)場面から始まるが、まな板でごぼうを細切りし、フライパンに放り込み、バルサミコ酢を入れる。エアかと思いきや、やがてシャーと音が聞こえ、きんぴらの匂いが客席にも届く。招かれた料理人はこの物語の表の主人公H(名は複数ある)だが、手を動かすのは助手の女性、番組進行をするお喋りMCの質問にはHが答え、コミカルなやり取りの中にHの独自の哲学がちりばめられる。その言葉は簡潔だがMCの、引いては観客が共有する一般認識を覆していく。飽食への警鐘から肉食への疑念、更に「荒唐無稽」な領域へと話は進展するが、領域の境界がいつしか踏み越えられ、不可思議の物語に誘われる。
主人公の役をやる浜田信也が年齢的にも役に適し、荒唐無稽な「仮説」に演劇的リアリティを与える。だが彼と対峙する記者(安井順平)こそ観客が投影する人物で、重い問いを投げかける存在となる。二人の関係という基本構図に彩りを添える周囲の人物らのディテイルが美味しく、人間味ある人間らを鮮やかに象るが、時間を超越した視線を通す事により、人間の類型的な描写を可能にする(「あゆみ」の眼差しに似た、愛すべき人間の形象)。
余白が効いている。冒頭のTV番組での料理の時間、台詞が止まるが料理が進む。限界の長さ沈黙を試みているが、それによってリアルさが刻印される。際物な物語が、どういう身体から語られるのかは重要であった、と見終えてから思う。
台詞の無い若い二人が不思議な存在感を持つ。「現在」の料理教室でアシスタントをしていたりするが、料理番組収録に入る前、真の冒頭でテーブルメイキング等に無言で勤しむ所作が、鮮明な印象を残すのだが、それだけである。ただ、掘り起こされる「話」、世間には出せない事実を、二人は知っているのかいないのか、演出的には特に示唆をしないが、観客はどちらなのか、と「?」を無意識に抱え込む。この存在を置いた事は他の諸々と考え合わせ、演出力を実感させるもの。

総じて、猟奇さが強調された初演に比べれば、奥行きある人間描写により完成度の高い人間ドラマとして見る事のできた再演版であった。
ドードーが落下する

ドードーが落下する

劇団た組

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2022/09/21 (水) ~ 2022/10/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

作演出の近作を3つ観たのみだが、らしい世界観である。平原テツの役柄もあってバイバイの胸苦しい芝居を思い出す(金子氏の出演もあり)。

かもめ

かもめ

ハツビロコウ

小劇場B1(東京都)

2022/09/20 (火) ~ 2022/09/25 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鐘下作品だけでなく古典・名作も手掛けるようになったハツビロコウの今作は「かもめ」。これまでイプセンや三好十郎等、硬軟で言えば「硬」に寄った印象ではあったのだが、(松田正隆作品をやった時はその印象を覆したが残念ながら未見)此度はチェーホフ。ところが開幕前、この希望の無い物語へ誘われようとしている間際に言い知れぬ不安が過ぎった。「与えられなかった」人間がそれゆえ希望を抱けず絶望に堕ちて行くという、身も蓋もない様を高みから愛でる作品(そうして辛うじて直視できる真実)を、己の事のように見せられる予感だ。冒頭の二人、甘く切なく甘味な恋の姿が「形」として(即ち本物と知れるように)描かれる。ハッとする。二人にとってのこの瞬間の「偽りの無さ」が、成る程全ての始まりであった。ハツビロコウの「かもめ」が始まった、と実感する。
かくして麻酔が効いた後の治療のように、ハツビロコウ版「かもめ」(今回はテキレジは少なめに思えた)の活写する酷薄な人間ドラマを、漏らさず味わい尽くす時間となった。
毎度ながら、どう手を入れたのか、と思う程に、戯曲の骨格がクリアに浮かび上がって来る。昨年川崎で観た秀逸な「かもめ」はまるで対照的、人物たちの滑稽な生き様を臆せずぶった切る喜劇的演出を極めた舞台であった。一方こちらはハツビロコウらしい「リアル」を掘り起こした言わば「悲劇」の舞台だが、人間の心の赤裸々なありようを透徹した時、そこに微かな救いが見える。「人間」という作品そのものの美が、チェーホフをして文字に起こさしめた。
最近読んだ「戯曲」に関する論考によると戯曲は大きく分けて「人や世界は変わり得る」と信じる思想に貫かれた戯曲と、「変り得ない」との世界観に基づく戯曲とがあると言い、前者=リアリズム演劇の典型としてイプセン以来の多くの演劇、後者にはギリシャ悲劇、そしてチェーホフが挙げられていた。
なるほど一つの穿った分析だが、困難を乗り越える物語の濃度を高めるのはその困難の大きさであり、現実の中にその困難というものはある。この現実の不条理により肉薄する事で、物語は使命の半分は終えている。より厳しい現実(の抉り方)が問題の所在をまずは明示したからだ。そう考えると、酷薄な現実の描写はたとえその事態の好転を記さなくとも、何らかの解決、和解の萌芽を観客は認めるも可能。チェーホフの長編作品にあるロシアの没落や時間の不可逆性への諦念は、人と世界の真実はこうだと突き放しているが観客は絶望して帰路につくわけではない。人生や社会について噛み締める。それはリアリズム演劇にないというものでもない。

全部あったかいものは

全部あったかいものは

コトリ会議

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/09/14 (水) ~ 2022/09/21 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

アゴラに来るコトリ会議を数年前の「カッコン」から見ているが(前公演「ポチ」は見ず)、久々の今回はちょっと新鮮。最近アゴラで立て続けに見ているトリコ・A、ニットキャップシアターも「おや?これがあの」と意外な作風であったが、こちらも脱力・不条理のテイストは堅持しつつリアルの側面がやはり出ていた。かつて作者がいた職場が舞台という事もあってだろうか・・。不可思議の要素と泥臭いリアルのバランスが私的には程よくなり、変キャラたちも破綻なく存在し、リアル領域では何つっても男女関係のもつれが笑え、<普通>にとどまらぬ関係性が楽しい。非正規のダメ男(主人公)を、正式に付き合ってる男よりも「好きだ」と表明する女(それで関係性を変える訳ではない)や、「やらせてくれない」女と付き合ってる男が男版ツンデレを発揮したり、やらせてもいない女が不貞の相手(やってないんだが)に別れを切り出し、実は最も気にしているのは夫(主人公)であるのに妙な距離を作ったり(これもツンデレの一種か)。その夫がどうやら「住んでるらしい」部屋=契約社員の控室が、劇の舞台となっており、この「場」に何となく居る男や、「出る」らしい女(幽霊?)も、やがて明かされる裏ストーリーの登場人物。もっともこの種明かしの話の部分は如何ようにもである。物語の一本の筋の上で、賑々しく立ち回る人物たちが面白い。

ネタバレBOX

タイトルの由来は不明のまま。全部「温かいものは」、なのか全部あった「買い物は」なのか。。
BREATH

BREATH

キャラメルボックス俳優教室

新宿スターフィールド(東京都)

2022/09/14 (水) ~ 2022/09/19 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

キャラメルボックスっぽい、とかキャラメルボックス風、的、系といった形容はきっとあったと思う、というのも、こういうテンションでノリで演じてる若者の芝居を以前、中々の率で観たし若者に好まれるのも判る。
昔TVで見た(そんな時代もあった)同劇団の「サンタさんが何とか」とか言う芝居が、開演と同時にすぐさま甦った。舞台手前両脇で2人が電話している図、話が噛み合わない内に切れて片方が困り顔、だったり、発語のテンションだったり、総勢で見せる歌、そして踊りのタイプも「効率的に客を乗せる)。テンポを作る音楽(場の間ずっと鳴る)、無音、メロウな音楽の切り替えなど。(観客は終始音楽に気分を誘導されている。)
もっとも本作は数年前に書かれた作品。作者がパンフにネタ元や、自身の過去作からの借用設定等をあっけらかんと紹介していて、バックステージ物である本作で上演される芝居が、先の「サンタさん・・」である事も(確かに台詞練習の場面ではスクリーンのこちら側とあちら側がどうだと言った台詞を吐いていた。かつての公演のパンフにも劇作家はネタ元をウディアレンの某映画だとか、あっけらかんと書いたに違いない)。
転換のインターバルが短いのは数個のエピソードが並行している事によるが、それぞれの接点もある。2、3クール回ると表面上の対立や不具合の背景が少しずつ顕われて来る。最初はランダムな線たちだけであったのが、面の中の空隙となり、やがてはっきりとした穴となり、着実に埋められて行く。
で、思ったのは「キャラメルボックス」的舞台は数あれど本家の完成度には敵わない、という事である。
なお役者を陥落から掬っているのは台詞、台詞がそこへ至る不安定さを解消して役者を輝かせる。

ネタバレBOX

もう少し、頭を過った事を書きたく思っているのだが(今すぐ書きたいが)、後日。
夜の女たち【9月3日~8日公演中止】

夜の女たち【9月3日~8日公演中止】

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)

2022/09/03 (土) ~ 2022/09/19 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

溝口健二監督作品、ミュージカル(荻野清子作曲)、の二点でもって観劇に及んだ。☆5を付けたい衝動はある。ミュージカルとして堪能できた実感は残るが、その「ミュージカル」性について判断つかない、というか持て余す部分がある。いずれにせよ「夜の女たち」の世界を味わい、こみ上げて来るものがあった。そう、映画は未見であったので、自分の中の古きシネマの残滓を集めて投影したような感覚・・(例えば成瀬巳喜男の「浮雲」や川島雄三「洲崎パラダイス・赤信号」「風船」、小津監督の「東京暮色」等)。観劇後、あらためて映画「夜の女たち」を観ると、舞台は原作をほぼなぞっている。若干ニュアンスが異なる部分もあるが、僅かな差異は意味的には大きい。主人公は終盤商売仲間たちからボカスカやられるが、舞台では二度それがあってキツかった(一度であれば記号的な理解に止められるが二度やると生理的にも「持たない」と思われ、それを払拭する演技上の正当化なり展開が求められる)。ネガティブな要素はそこのみ。他は良い効果を持ったと思う。前半の貞淑な妻が夫に死なれ一粒種にも逝かれた後、身を寄せ体の関係もあった社長に実の妹を寝取られる(というより男を妹に寝取られる)に及ぶ。空白の時間を挟んで現れた主人公は夜の商売に身をやつしている。江口のり子の(歌はともかく)関西弁の演技は中々痺れるんであるが、秩序外に生きる人間の心の荒みと、肉親思い(実の妹には母親代り、死んだ夫の妹には姉代り)との両面性が(映画でも田中絹代が好演しているが)見せ所。彼女の己を支える(男への、社会への)復讐心を吐露する時、頭にスカーフを巻いた仲間の一人がすかさず「叛逆やね」と小声で言う。教育のない彼女らに、主人公が知恵を入れたか、「どこかにあるといふ」希望の別表現として「叛逆」を二度言う。これは映画には無かった。だが闘う構えを見せる事で、その対象である大きなもの、社会が照射され、ドラマの構図に到達する。

時分にとっての「目玉」であった荻野清子(音楽)は、今回の仕事でようやく蘇った。
(何度も書いてそうだが)黒テントの「メザスヒカリノ・・」では松本大洋の飄々とした、多彩な場面で構成される舞台を多彩な音楽で支え、松本ワールドを具現した名作となった。長らく名前を見ずに過ごしてある時ミュージカル界にその名前を見つけ、著名な脚本家による舞台を普段は踏み入れない高名なタレントや俳優の出る劇場に(彼女が音楽というので)足を運んだが、ガッカリ(芝居が超つまらなく、これにどう音楽をつけるの?という作曲家の声が聞こえそうな位で、劇中音楽の流れる箇所は僅かだった)。その後も一つ見ていて、こまつ座「十一ひきのネコ」の宇野誠一郎氏の楽曲をベースに新たな楽曲を一、二加えていたが、宇野氏のテイストと荻野氏のは異なり、同じ劇の中で両者が棲み分けている状態(私には荻野楽曲が流れる時間が心地よいが、激全体は宇野氏テイストなのでバランス的に難しいものがあった)。
今回のミュージカル楽曲は全体にジャジーで、特徴的な楽曲2つを多義的に頻度高く用いて効果的であり、劇的高揚を幾度も味わえた。
一つ、ラストではアウトローを自認した女たちの群唱が、転調を重ね、綾なすように声が折り重なるのだが、荻野女史は、最後にテーマのメロディに戻る前の混沌において、一つ音を探し出せなかったのではないか、と思った。「音程の向こう側」を表すにもその音が欲しいはず、、勝手な推測だが。
俳優については江口以外は事前に確認しておらず、舞台上で福田転球が判った以外は後で確認した。
☆4にした理由が判った。女の悲運の物語にいくら感情移入しようが、よく描かれていればいる程、男はその甘味な情感に浸れるのであり、そこには慎みを求められるような。。何となく、そんな感覚に見舞われる。

豚と真珠湾

豚と真珠湾

秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2022/09/09 (金) ~ 2022/09/18 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

沖縄語(八重山方言)を使った舞台で、これについては前方席で観られたのは(恐らく)良かった。(聴いて判らない単語が方言なのか、聞き取れなかった別の単語なのか、の違いが判別できるだけでも随分違う。)
敗戦直後から朝鮮戦争あたりまでを切り取った、石垣島の料理屋を舞台にした芝居。思い起こせば我が青年劇場初観劇の演目も斎藤憐の新作であったが、本作は(演出の力も大きそうだが)改めてこの劇作家の筆力を再認識する機会となった。
様々な「語られるべき」要素が人物の来歴とエピソードに織り込まれ、半紙を一枚一枚折り重ねて固めて柱が顕れるような具合に確かな世界が生まれていた。
演出面で幾つか目を瞠る箇所があり、この戯曲を現代の自分たちの目の前に差し出す事に成功している。
楽日前、土曜夜という事もあって(この劇団の観客的に)客席は淋しかったが役者諸氏の力は漲っていた。

ネタバレBOX

青年劇場と演出大谷賢治郎の相性は過去作を見ても頗る良いのだが、それは戯曲の社会的時代的な制約を「いま」に引き寄せる視点の確かさに依る。沖縄の昔話とは全く感じなかった。
配役も少しユニーク(通常の青年劇場の舞台としては)。演出家の意向が強く働いたのだろうか、等と想像するが、若手が健闘していたのが印象に残る。
青ひげ公の城

青ひげ公の城

Project Nyx

ザ・スズナリ(東京都)

2022/09/08 (木) ~ 2022/09/19 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

震災の年に暗鬱を吹き飛ばすかのような、あるいは癒すような「小鷹狩鞠子」を観たのが初ProjectNyx、以来足が向かずにいたが申大樹演出に注目して「売春捜査官」、説教節への興味で「さんせう太夫」、と観て来て女優だらけの舞台へのハードルも下り、寺山修司の未見作品に注目し、都合4度目のNyx観劇。見世物小屋の復権とは寺山天井桟敷のものだったか・・演劇の祝祭性を煮詰めた一大エンタメをスズナリで所狭しと見せられ、魅せられた。何気に金守珍の演出は毎回マンネリ化せず見事であるが役者揃いとはこの事。披露される「芸」の数々を並べればネタバレになるが、それらが余剰にならず舞台を構成する要素となり、それぞれ群像を形成する。演劇的な快楽がある。

笑顔の砦

笑顔の砦

庭劇団ペニノ

吉祥寺シアター(東京都)

2022/09/10 (土) ~ 2022/09/19 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

前回のKAAT再演を観ての今回。期待通りバッチリ。不明だった部分もクリアに。細密度に瞠目。緒方晋がやっぱりなあ(感無量)。夜が明ける。笑いがある。

ネタバレBOX

KAAT公演ではペニノらしい舞台を観られてよしよし、といった所だったが、客席からの距離があった。遠目に覗く感覚も良いね、とは書いたが吉祥寺シアターでやると聴いて期待したのは当然「間近であれを見る」であった。全くその通り。音響も客席の両サイドから流れ、場に居ながらにして観察しているというこの(VRじゃないが)透明人間の悦楽。前回では不明だった表情の変化・・覚えているのはラストの緒方氏と弟分とのやり取り、笑ってるのか泣いてるのか・・に込めたドラマ(短い時間経過でどう心情が変化したか)が、作者の意図が、分かった。(心が)寒い時は飯を食う。そうして人は力をもらう。俺たちの生業(漁師)はそれなんだなんて事は一言も言わないしメッセージ性めいた匂いは微塵もない。木枯らし吹く大人の心を見てか、台所とは無縁そうな若い二人がそれぞれの場所で、料理をする。素知らぬ風に、黙って。。それで十分じゃん。。と思ってしまう。「赦す」という言葉が何故か浮かぶ。
気づかいルーシー【8月3日~14日公演中止】

気づかいルーシー【8月3日~14日公演中止】

東京芸術劇場

パルテノン多摩・大ホール(東京都)

2022/09/10 (土) ~ 2022/09/10 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

初めてのパルテノン多摩訪問で、再々演にして漸く初お目見えの「ルーシー」を観劇(ちょっといい旅気分)。松尾スズキ原作、ノゾエ征爾脚色演出。ノゾエ氏は松尾氏と浅からぬ縁らしいが、舞台人の中では芝居で「うんこ」と言える人種、で括るも可だろうか。
都心でやるより子ども率(親子率)高めと見受け、地方公演の風景だなとワクワク。明らかに子どもに向かって前説するノゾエ氏が子どもモードになっている。
後方席からは俳優の判別が困難だがノゾエ氏と川上友里氏は声で判る。最初コロスのように立ち回る三人の内、舞踊的な動きは女性が引っ張っており、振付の人?等と一瞬思ったが川上氏であった。身体の切れもあるのだなと改めて。
終演後の「答え合わせ」では、おじいさん役に小野寺修二氏、馬役に大鶴佐助、王子役に栗原類、ルーシー役は岸井ゆきの、結構美味しい座組であった(調べりゃわかるつうの)。
「気づかい」がキーにはなっているが、話そのものは物質的にグロい。(登場人物の皮を剥ぐ、糞をポロポロと出す、馬の前と後ろで人格(馬格)が分かれる、等。)
ただ、話が大団円へと向かうあたりでナレーターの馬が、「気づかい」を奨励するような事を言う。シュールな話に真っ当らしいオチを付けなくても・・とは正直な思いであったが、私は子どもがどう受け取ったのかと、それを思いながら観ていた。「言っちゃいけないこと/やっちゃいけないこと」に次第に包囲されて行く社会(その最大の被害者は子ども)の中で、「何でも言っちゃっていいノダ」の世界に触れているかな??と。

評決 The Verdict

評決 The Verdict

劇団昴

俳優座劇場(東京都)

2022/08/31 (水) ~ 2022/09/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

キンダースペース原田一樹氏の演出舞台はどうやら初めて。映画の印象が強いこの作品であったが、ほぼ映画と同じ流れを辿り(時系列に沿って進む完成されたサスペンスに手を加えるのは容易でなさそう)、イメージが固着した物語のディテールを新たに味わい直す楽しみがあった。
作品と演出とを総合して(どちらの比重が大きいかは判別できない)、物語のもつラディカルさが堅実な作りによって観客の前に差し出された、という手触りがあった。余計な細工をしない演出で若干淋しかったのは、裁判を決定づけた最後の証人と被告側(要は悪者=医療ミスを隠蔽した)弁護人とのやり取りが、映画ではカット、ズームアップによりドラマティックに編集されていたが、同じやり取りが舞台だと平面的になるため、スポットで強調、受け芝居の側が判りやすく動揺してみせる、などを観客なりに考えるがそれは無く、医療事故当時、問診票の改竄を執刀医に頼まれて従い、看護師を止めざるを得なかった無念を吐き出した劇的な証言も、淡々と処理される。ただ、明らかに偏った裁判指揮、証拠の不採用といった処理にも関わらず陪審員が要求額以上の賠償額を添えた有罪判決を静かに読み上げる神聖なクライマックスは、その前段の演出如何に関わらず訪れるのであるが。

真実とそれに拠って立つ公正さを希求する精神が、なぜ「ラディカル」と呼ばれるかは、それを許さない厳しい現実がある、という単純な事実を記すのみである。私達の目の前に恰好のサンプルがあり、かつて相対的穏やかな時代には(この映画も)ドラマの中の話であったもの。それがリアルに切実に臨場感をもって感じられるというのは、演劇界的には有難い事なのか・・。

老獣のおたけび

老獣のおたけび

くちびるの会

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/09/03 (土) ~ 2022/09/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

昔雑遊あたりで観た切り、と思っていたら割と最近吉祥寺でも観ていたくちびるの会。どちらも中々イケる舞台だった感触のみ記憶に残ってい、期待値やや高で観劇。

役者力に頼んだ芝居、とは言え、不条理な設定がじわじわと効力を発し、花開いたと感じた。日本の不条理演劇の開祖別役実の作品に肖った訳ではなかろうが、、チョイスは正解。子供に好かれるキャラ、しかし害獣、の二面を備えた存在に頼んだ芝居、とも言えるか。
終始目に映っていたのは認知症老人という「困った存在」で、そのデフォルメされた表現としてのそれ。「困り」つつも理解に努め、「共生」を模索している所へ排除主義が介入してくる。安全を掲げ、遵法精神を発揮して(法の奴隷)、正義面して人の弱みを突く(コロナが増産した、否見える化した)何とか警察的な人間共を自分はつい重ねて見ていた。
ひいては、そうした大衆の反知性化を歓迎し「何もしない」政治で「やってる感」の演出だけに勤しむ、我が国の統治者たちに身を預けておる現状へのやるせなさも。(まァこれは個人的な、投影ではあるが..。)

父権的で一方的に価値観を押し付ける父、であれば結婚は双方の合意のみで成り立つ、父無視で良いではないか。実家を出て10年間近寄ってもいないのだし・・とはならない所は、現今の何でもありな風潮にはそぐわぬが、慣習は内律的なもの。どこか韓国ドラマを思い出させる(かの国では家父長制が強いがこの理不尽な代物と「付き合う」事を良しとしている所がある・・映画等の印象だが)。
役者力に頼んだ、と書いたが、とりわけN氏の設定を体になじませ「認知の揺らぎ」を無言で見せる演技に感服な一時間半であった。

ネタバレBOX

今回も出演陣はノーチェック。登場のつど嬉しい瞬間が訪れた。開幕ノートPCに向かう主人公らしい青年(明利)。と、そのパートナーらしい女性(千春)。おや橘花梨(見てすぐ判らず声で認識。そう言えばくちびるの会常連であった)。深夜連ドラの脚本の締切が迫る中、恋人はいつ父親に自分の事を話してくれるのかと彼に言い募る。と、兄からの電話で一人暮らしの父の変調が知らされる。「私も行こうか」と彼女。断る青年。彼の側にも理由があり、父は父権的な男で今の自分の状況では結婚を納得させられないと踏んでいる。相思相愛ではある。
所変って実家の居間。あれ中村まこと?そうだっけ(そんな大事なキャスティング見落としたのけ)。象になった、というのは後の台詞と衣裳とを重ねて徐々に理解される。中村氏の痒い所に手が届く気持ちの良い演技(=声の威力はデカい)を味わう。兄登場。木村圭介、間違いなくどこかで見ており、後で調べるとゴジゲンのアゴラ公演、そうあのへんな気がした。が他にも前回のくちびるの会、劇団献身でも二度、少なくとも4回見てるとは...(脳の老化)。
「象になっている」の演劇的表現は、「長い鼻」のついた衣裳の他、上半身の仕草、歩き方で。父権的な態度が一発で知れる。「ああこの父なら逡巡するな」と即座に思わせる。
ピシッとスーツを着込んだ兄(雅史)は、父(徹)の「稼げる職につけ」に従い銀行員になっている。それが嫌で弟・明利は家を出た。実家に近い兄と違い、久々に帰郷した明利には、近所の者も冷たい。父の土地を耕作地に借りている隣の農家の父(大村)と、息子(タカシ)。父が小うるさく、自治会だ何だと顔を出しているが、打算的な裏面が次第に露呈。息子はマイペースで叱られキャラだが、徹とは馬が合う。「象」になった徹にも気づかない(気づいても気にしない=徹と認識しているので)。この息子タカシ役は名に覚えのある藤家矢麻刀(青年団系のユニット、ジエン社、東京夜光で実は見ていた)。不知は大村役の堀晃大のみであった。
残る主役・明利役の薄平広樹は、鮮明な記憶はなかったが、調べれば新国立研修所出身、しかも花の第8期生(私が勝手に親しみを抱いてる)であった。荒巻まりの、滝沢花野、西岡未央、坂川慶成の居た期のメンバーであり、卒公の「親の顔」にも出ていたのだ、と個人的に大いに懐かしむ。若い作家志望の等身大、と思える姿を演じていた。
絵に描いたよなハッピーエンドに、なぜかやられてしまった。
カレーと村民

カレーと村民

ニットキャップシアター

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/08/26 (金) ~ 2022/08/29 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

だいぶ前に一度だけ観た関西の劇団。その時の印象とは随分違う。先日のトリコ・Aに続き、作り込んだリアル美術の前で、こちらは時代物。日露戦争後の世相を描く。とある町の名主の屋敷の土間(町の人らも出入りするセミパブリック空間)にお出ますは、洋行帰りの次男、その許嫁、家督を継いだ長男と嫁(ごりょんさん)、老母。ご近所からは戦地還りの兄とその妹、息子を失った母、息子が復員する事になった夫婦。屋敷には出戻りの手伝い(孫を失った)、そして新しい女中。
(日清戦争と違って)戦死者も多かった日露戦争を終えた年。戦後賠償の額に庶民は注目している。「死に甲斐」を戦後賠償の額でせめて納得しようとした遺族が「賠償金ゼロ」の報に落胆し、やがて妥結した政府に対し撤回を求めて人々が立ち上がるという、史実の断片が切り取られている。提灯行列まで起こった「戦勝」だが、実際には人海戦術のロシア軍との際限ない営みにとりあえずピリオドを打ったに過ぎず、賠償を引き出せる内容でもなく、サハリン南部を取っただけでも御の字であったと、今は知られているが、考えてみれば戦争という賭け事の結果に相場など無いものを何がそうさせたのか。10年前の日清戦争で予期せず高額な賠償金を得たことにより「列強並み」へと持ち上げられた庶民の自意識の為せる業か。
資本主義化の進行と共に、「お金」「領土」獲得ゲームに熱狂する俗物性が露骨になって行く分岐点はこの日露戦争であったと言われる。西欧コンプレックスから明治維新の混乱を経て、国民国家経営の仕組みを整えて行く内部の努力が、対外的に通用したのが日清・日露の戦勝であり、二度目の「成功」はその規模から10倍の賠償金を取りざたさせたが、それが不本意な結果に終わったのだった。

作者はこの史実であまり語られない国民の犠牲(戦死)に焦点を当てたが、芝居の核は反戦にはない。ロシアによる「戦争」を扱う芝居の上演となったが、昨年中止された公演だからウクライナ侵攻を受けて書かれたものではない(改稿してれば別だが)。
作者は特徴的な人物として、知識があり進歩的だが芯の無い次男という存在を置いている。維新以来、付け焼き刃の文明化を走り来った日本の「知」の脆弱さの象徴と見え、その一方情緒的で打算的な庶民はそうとは知らずに歴史を前へと押し進める。

コーリングユー

コーリングユー

快快

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2022/08/26 (金) ~ 2022/09/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

快快を一言で言えば「全く読めない」、製作と思考のプロセスが「想像がつかない」。こりっち的には第2回アワード第一位を岩井秀人作品をアレンジした舞台で受賞とのこと。
自分の初見は2018年アゴラにて、メンバー3名による奇妙なパフォーマンスにはトークゲストの岩井氏が「あれ何?」とガチ突っ込みして笑いが起きていた。その後KAATで多田淳之介の「再生」を岩井演出バージョンで上演、後藤剛範や元メンバー中林舞も加わり、私的には「再生」初体験で衝撃であったが、快快の正体は依然不明。
身体表現に傾倒したグループではあり、集団制作を行なう集団のようで一つのポリシー、才能がリードする製作でないため、構成メンバーによって変容すると思われる。今回の作品も海のものとも山のものとも、であったが、詩人・鈴木史郎康を扱うというので鋭い方向性はありそうと踏み、足を運んだ。
多彩な局面が飛び出てくる。休憩を舞台上で行なうが、客の姿は見えない体でやるので成立している。アゴラで観た時と同じ3名プラス上手側でキーボードと機材で音を出し続けている女子の4名で作る舞台はまるで子供の遊び時間のよう(即ち永遠)であるが、詩人から作り手が受けたもの、授かった何ものかをじんわりと伝えて来る。それは「現代」が、あるいは現代を生きる自分が、時間と共に失って行くもの、あるいは負わせられて行くものからの「解放」を示唆する。史郎康の言葉を言う天の声(雑音混じりのラジオから聞こえる女性の声)が、宇宙との交信のよう。・・人は人生を線で捉えるが、過去は一切なく、未来もなく、現在という点だけ。
延々と続く時間を象徴する舞台上の大きな三角形の上で、演者は移動したり止まって何かをやったりする。時にそこを下りて歩いたり、三角形の中にある水場(浮き輪が浮いている)や、電話ボックス。演者の衣裳も含め風景としてはリゾート地。電話ボックスの使い方が面白い。開幕してのっけに誰か(多分史郎康)に電話をかけ、今から舞台やるんだけど大体○○分位、受話器置いとくから聴いてて、途中眠くなったら寝てもいいし・・半前説的な台詞で始まる。で、電話ボックスだが、途中何度か演者が置かれた受話器を手にとって電話の向こうに話しかけるのだが、相手が実は認知症かのような仄かしがチラと過る。この仕込みによって、聴く者は、折節に読まれる言葉が「詩人の言葉」とも「痴呆老人の言葉」とも解し得ることとなる。すなわち、一詩人という存在を超えて行く。聖書にある預言者(神の言の媒介者)は詩人と同義と言われるが、権威が認める者だけが詩人であるとは限らない。
さり気ない工夫の数々、ディテイルに知とユーモアが潜み、相変わらず快快という集団の正体は判らぬが遊び時間を存分に堪能した。ラッキー。

コスモス/KOSMOS

コスモス/KOSMOS

サイマル演劇団+コニエレニ

シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)

2022/08/25 (木) ~ 2022/08/28 (日)公演終了

実演鑑賞

「狂人と尼僧」が秀逸だった同ユニットの今作は、テキストの解読が難しかった。(と言っても毎度難しいのであるが、、)
時計の秒針を鳴らしながらの上演という(お馴染みの)演出が、観る自分の胆力もあって催眠効果になったか・・。テキストを読んで観劇に臨むか、パンフに梗概が載っているとか、必要ではないのだろうか。
抽象性の高い舞台は観慣れてはいなくとも面白がれる自負だけはあったが、今回は自分はあと何がほしかったか、抽象舞台の成立の要素は何か、つらつら考える事になった。発語者の感情表現、的確な物言い、そこではないか。
テキストはこうした作品(サイマル演劇団の得意とする)の例に漏れず、モノローグが主であり、出演者同士の(役人物の)関係性を知らせる台詞情報は薄く、冒頭近くに最小限の説明が為された感はあるが、それで事足りるはずはなく、ドラマの発展の中で通常はそれらが明瞭に浮かび上がるものであるが、その説明には殆ど字を割いておらず、人物個々にしゃべらせたい事をひたすら喋らせているといったような・・。常連の葉月結子の突出感(おどろおどろしさ)は、ヒントの少ない舞台にあっては有難く、それは意味的な情報をもたらすというよりも、心情表現自体がもたらす快楽である。言語を嚙み砕き征服し、己のものとして吐き出す事が出来ているから、だと思う。台詞を追いかけている演技の段階(モノローグではそれが許されそうだが)では、あの声は出せない。役者的にはその声は役の中心からしか発せられない、という事であるならば、役をどう捉えるかも大きな課題で、テキストを提示する、という役割だけでは舞台として自立しないのだろう。役者の役割は大きい。「人のせい」にする訳ではないが、役の「心」が見える演者が一人増えれば、もっと立体的に見えたのかも・・等と想像を逞しくする。
舞台のビジュアルはよく、演出の手の内に自分がある感じがするし、言葉を発する役者の力量は否定しないのだが・・。

毛皮のヴィーナス

毛皮のヴィーナス

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2022/08/20 (土) ~ 2022/09/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

二人芝居。内容にも拠るが全編ダイアローグで成立する二人芝居を泳ぎ切るだけでアスリートに送る声援と同じ種類の拍手を送りたくなる。一人芝居にも感服するが、二人の方が不確定要素が混じり(いや厳密には一人芝居もそうなのかも知れぬが)、正しくライブ。取り組み甲斐のある題材を剛腕という印象の溝端淳平、ミューズの高岡早紀がポテンシャルぎりぎりを出し切る激しさで好演。戯曲はマゾッホ作品を脚本化した青年が(他に演出できる者がいないという理由で)演出をするオーディションに、遅れて入ってきた女優とのやり取りである。
劇中の戯曲の場面を演じる役者としての二人、素に戻ったときの二人、を行き来するが、「役を変わって」と言われて逆の役をやる場面もあって、人格としては一つなのだが、憑依する演技によって、素の自分(たち)にその影響を及ぼし、二人の関係性をも侵食して行く事で「今誰なのか」が必ずしも判別できなくなる様相。他者を演じることはそこに自分を見出す事でもあるが、この戯曲は眠れるマゾッホ性を見出していく二人という「変化」により、この戯曲総体としてマゾッホ文学=常識の解体(の危険性?)が図られている。ある性嗜好の発見・理解から人間の本質に迫るアプローチと言えるか。対等でなく主従の関係を求め、服従する事に快感を覚える背徳性(「服従するに値する」相手が現われなければ実現しないが)は、人権思想の否定に繋がりそうなタブーな世界観だが、どの時代にもタブー領域は先見性とも言える。(これと似た物として思い出すのは、「人間とは忘却によって辛うじて救われている」、と述べた思想家が居たが、これは「歴史を忘れてはならない」という正論に土砂を掛ける手強い論理である。)
この視点に即して、今舞台では戯曲が何を狙ったのか、というあたりが必ずしも見えて来なかったが、スリリングで楽しく、演技としては指定されている動き(例えば帰ろうとして帰らずに戻る等)を十二分に正当化し、臨場感ある流れを作る様は見ていて気持ちよく、ノリで行くタイプが高岡、計算しているのが溝端、という印象ではあった。
「貴婦人の来訪」で実力を見た五戸演出の、こちらも成功作となった。

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