雑種 小夜の月
あやめ十八番
座・高円寺1(東京都)
2024/08/10 (土) ~ 2024/08/18 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
いきなり偉そうな言い方になるが「上手くなったなァ・・」というのが最初に漏れた感想。お盆らしく御霊もご登場遊ばすが過剰に意識させず涙腺を弄られるあざとさがなく、それはつまり「リアル」そのものに語らせている。「いい話」には目が厳しくなる自分だが、過不足がない。千葉の田舎町を舞台に凡そ三世代にわたる家族と地域の半径幾許の中の物語が紡がれる。
「雑種」とは作者の実家の団子屋を舞台に書かれたシリーズとの事だが、それだけに作者の飾らぬ筆致が印象的である。(ノリの良い演出は健在だが、空隙を埋めるような過剰さ、つまり借りて来た感がないのはそういう事なんだろう。)物語の中心は母という事にはなるが、皆に等しく眼差しが注がれ、いずれ忘れ去られ、今もひっそりと健気に暮らす者たちの群像が浮かび上がる。どこにあってもおかしくない庶民の物語。
当地を訪問するお客が日替りゲストらしい。私は知らないが花組芝居の名物役者らしく(あやめの客層でもあるのだろう)一々笑いが起きていた。
座組を支える金子侑香の立ち回り方は長女という役柄をはみ出て気丈な女将の如くなのが(主役でなくとも)滲み出るが、客席を向いた時その目力を初めて認識。
音楽(効果も)の生演奏も相変わらず質が高い。祭り囃子を奏でる下座に太鼓までは判るが演者が篠笛まで吹いていた(二人も。リード付き篠笛なんてのがあれば習得に時間は要さないかも知れないが..聞こうと思って忘れた)。
日曜日のクジラ
ももちの世界
雑遊(東京都)
2024/07/25 (木) ~ 2024/07/30 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
念願叶って実力派劇作家ピンク地底人3号の根城ももちの世界(固有名詞が謎満載)の舞台にようやくお目見えとなった。
新しくなった雑遊の「劇場らしい」佇まいも初めてな気がする。とある一戸建て住居の一室がステージ一杯に作り込まれ、漸くにして(つっても自分の観た数回の中では、の話だが)雑遊の名に相応しい貫禄を見せ、胸が熱くなるものがあった。
そして芝居。関西弁が基調のストレートプレイにはある種の笑いが付き物だが、本作は笑い涙を仕掛ける人情喜劇に安易に流れず、硬質でしなやかでリアルで、儚くも残酷で美しい煌めきと、熱情がある。一瞬だが巧妙に現代の剣呑な状況への憂いに触れ、また巧妙に、恋心の存在にも触る。タイトである。
芝居の初め組の舎弟らが執拗に語るヒチコック「サイコ」が最後唐突に出現したのには笑った。
実力ある俳優も注目であったが、こういう良い芝居を観ると関西弁も嫌いでなくなる。(元々嫌いな訳でもないが。)
『本棚より幾つか、』-短編演劇祭-
楽園王
新宿眼科画廊(東京都)
2024/08/02 (金) ~ 2024/08/06 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
日曜の夕刻一回切りの特別プログラム。二演目、すこぶる贅沢な時間であった。
プログラムA、Bの方は短編3編、20~30分程度の「短編」演劇と呼ぶに相応しい中身だがこちらはそれぞれ幾分長めの演目というだけで、相当の深みへと誘う内容となる。
実は「お国と五平」は、是非とも観たかった。ala collectionでもう7,8年前になるか・・毎回秀作を提供する可児市の劇場の企画で小山内薫「息子」との抱き合わせであった(演出:マキノノゾミ)。
この上演は自分と作品との距離(舞台との距離感も)が遠く感じられた舞台だったが、楽園王で改めて観て、完璧に「今」魅せる作品として立ち上げられ、「朗読」要素の強い楽園王流の手練れた演出によりこの作品の勘所・・とりわけ谷崎潤一郎作品としての真骨頂を味わい直す事にもなった。
もう一遍は一人芝居。激烈な告白(結婚式場での)で大いに会場も笑わせていたが、キャスティング込みで優れた出し物となっている。
(これがただ一度切りの上演とは・・)
さらに詳述したい欲求を残しつつ。
神[GOTT]
ワンツーワークス
駅前劇場(東京都)
2024/07/19 (金) ~ 2024/07/28 (日)公演終了
実演鑑賞
ワンツーと言えば古城氏のオリジナル、時々ドキュメンタリーシアター、という性格づけがいつしか海外戯曲もやる劇団となり、初が一昨年の「アプロプリエイト -ラファイエット家の父の残像」、前回の「アメリカの怒れる父」そして今回と3作を観た。今作「神」はパルテノン多摩の秋・リーディング公演の情報で興味を惹かれていた。とは言え、ワンツーの海外戯曲を二本観て来て、ある程度の想像が出来てしまう所があり、若干腰が重かったが、やはりシーラッハ作品という所で(小説でなく戯曲を書いた事に興味)背中を押されて出掛けた。
「読めてしまう」、と不遜な意見を書いたが、「アプロ・・」と「怒れる父」は劇的展開に注視を余儀なくされる戯曲で、笑いはほぼなく、赤裸々な感情吐露がある(「アプロ」では関谷美香子の母役、「怒れる父」では奥村洋治の父役が中心の役どころとなる)。その部分で、戯曲が想定する人物の「状態」に肉薄はしつつももう一歩な余地を残していた。それは所謂「劇的」の創出、そこに人物のテンションの高さ(声量や感情の強さといった)が呼応する事を優先し、緻密な意味での「人間の状態、心情」が結果的に捨象される(観客の想像に委ねる)作りが、「読める」という意味。ワンツーの芝居の安定的なクオリティと裏表の関係でもある、と推察しているが、それが海外戯曲二作に受けた印象だった。
今作。戯曲の意図を体現した、優れた舞台となっていた。
人物の感情はゼロではないが、求められるのは「主張」の信憑性に関わる感情の演技。
ネタバレすれば、「安楽死に対する医師の援助」を求める80代の男性の要求をきっかけに開催された倫理委員会による討論が、全編通しての時間だ。
法律、医療、宗教の分野から呼ばれた参考人に対し、安楽死擁護の弁護士、それとは距離を置く倫理委員会委員が尋問を行なう。討論会を仕切る委員長が観客に向かって討論の趣旨と手順、投票等について説明する。物々しい導入で、まずは申請者であるゲルトナーの証言から本論に入る。
それいゆ
少年王者舘
ザ・スズナリ(東京都)
2024/07/25 (木) ~ 2024/07/29 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
少年王者舘ワールド大炸裂大満足の舞台。天野天街が得意とする昭和の典型的庶民(の子ども)イメージを基底に不思議ちゃん達が立ち回る。大詰めで一対多の長尺リフレイン台詞のくだりが感覚麻痺するまで延々と続くあの体験は他では味わえん(味わえた我が人生に感謝)。千秋楽で役者も力が入ったのか、演出からギリギリまで攻めろと指令が出たか・・と想像したのは、終演時に予定時刻をとうに回っていたからで。ここで何が起きているのかは大きな関心だ。自動機械のように繰り返されるループに「嵌った」身体が「嵌り」ながらにして(台詞も順序も変えずして)同時進行する血の通う人間の感覚がが滲み出てくる。繰り返しの都度、新たな感覚でそれをやっている事を感じながら次は、次は、とは手に汗を握って観客は観る。ライブそのものだ。
戦争、原爆のイメージがサブリミナルのように掠める。何が何だか分からない話にイメージが溢れ出る。これに浸る快楽。
第32回公演『少女仮面』
劇団唐ゼミ☆
恵比寿・エコー劇場(東京都)
2024/07/25 (木) ~ 2024/07/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
唐ゼミは何年振りか。横浜公演野外のノマド演劇「木馬」の付くタイトルのヤツ(同じ場所で後にあったのは同演目だったとしたら、最初にやった方)で、禿恵のヒロイン姿を見た。多分7年近く経ってる。KAATでの「滝の白糸」ユンボを使った大団円にも禿恵が乗った。それより前、横浜石川町の公演にて「お化け煙突」。この時のヒロインはどちらだったか・・。
記憶の中ではその程度だが、もう少し遡れば、一度だけ横国でのテント公演を観ている。「ジョン・シルバー」だったか「少女都市からの呼び声」だったか、この時は間違いなく椎野女史のヒロイン姿を認めていたはずで、狭い濃緑のテントの入り口近くで汗だくで観た。十数年前の事。
唐ゼミと共にあった主演女優、とは勿論認知していたが、今回は「少女仮面」で春日野八千代をやる椎野女史の姿をはっきりと、しっかりと見た。唐十郎作品の勘所を美味しく、味わうように作り上げる唐ゼミの精神もはっきりと感じつつ観た。
役者がよくやっている。ドガドガの丸山正吾はじめ振り切れた演技を皆がやり切っていて小気味よい。
春日野八千代は宝塚ガールの代名詞でもある戦前の女優(男役)として知られ、作者は役名に実物そのままの名前を使っている。
年を重ねた女優の悲哀と、華麗な身捌きに宿る誇り高き精神が、崇高にそびえる。その役どころをやれるのはやはり、特権的肉体という事になるのだろうか。戯曲は「物語を見せる」舞台にも出来るが、唐の精神を受け継ぐ中野敦史は、俳優を見せる舞台とする。
喫茶「肉体」を訪れる春日野ファンで女優志望の16歳と手ほどきをしてるらしい老婆のテンポ良いやり取り(老婆は倉品厚子がコケティッシュに演じて「アングラ行けるじゃん」と感心)、ボーイ達のタップと踊りと店主の理不尽に耐える姿、水道の蛇口を吸いにやってくる背広姿(この意味不明男はつくづく芝居に妖しさを与えてる)、腹話術の男と人形が店の者の嗜虐的態度で転倒していく様、それらをひとしきり見せた後、「もうすぐ風呂だ」という春日野本人(椎野)が、客席上段から初めて姿を現わす。背筋を伸ばして一歩、一歩と超スローに歩いて登場する間、舞台上の全員が「あ」という顔をしてそれを見つめるストップモーションが、長い。そして歩きが、遅い。何しろ遅い。そして長い。ギリギリを狙っているが、バックに流れるのメリー・ホプキンの「悲き天使」が終わると二度目が又掛かる。笑ってしまうが、ヅカガールの男役の身のこなしがこれを成立させてる様に感じ入って笑いがこぼれるのだ。
劇の最終段階、甘粕大尉が現われ「ここは満州」と言い、内地からファンが彼女の「肉体」を持ってやってくるくだりになると、狂気がまじり、戦争の暗い影が人物たちに陰影を与え始める。
堂々たる舞台。久々に観に行って良かった。
らんぼうものめ
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2024/07/20 (土) ~ 2024/07/28 (日)公演終了
実演鑑賞
公演詳細を直前に確かめ、気まぐれに予定化して観に行った。
ステージ手前のかぶりつきにフラットなスペースがあり、子供たちを座らせている。
始まりは二親と田舎の転居先に着いた娘(小学生らしい)が、ぐずっている風景。私物を入れた段ボールを玄関から部屋に運ぶのを嫌がり、「捨てていい」と言って母を困らせている。「本当に捨てていいの?」「捨てちゃうよ」と・・。
新たな土地で暮らす、という事自体を自分の持ち物と一緒くたに拒否しているよう。地団駄を踏む娘の駄々コネや、掃除機を掛ける母親が寝転ぶ娘の足を邪険に突いたり、が子どもに受けている。大人も見ていて笑いが漏れる。
が、話は「異界への旅」へと移行して行く。この異界が、あまり居心地の良い世界でなかったのだが、子どもたちはどう感じていた事だろう。「演劇を観る楽しみ」とは別物を味わっていたのではないかな。
「子ども向け」とか「親子で楽しむ」といった看板で客寄せする出し物にずっと思っている鉄則だが、大人が楽しめなきゃ子どもも面白くない。(勿論大人の「演劇リテラシー」も一様でないだろうが。)
異形の者たちの衣裳・着ぐるみは結構本格的な物(「DUNE」を思い出した)だったが、演技の方に艶めかしさが感じられないのが私にはキツかった(日常的な気安い感じの喋り方・・なぜ?)。
異形の世界を描くには、ルールが明快であるか、もしくは感覚的に納得させる何か、が必要だが、もう一つには、「迷い込んだ異界から戻る」とか「母を連れ戻す」といった課題(使命)が明確である事も必要に思う。
この課題の部分では、作者は「異界の旅を楽しむ」行程を欲張ったのではないか。異形の者たちとの時間を重ねるにつれ、去り難くなる娘、という事なのだが、異形の者たちが「大人」の設定なのが私は失敗だったのではないかと。「子ども」ならばそのキャラが持つ願望、欲求が明快で、娘にとって彼がどういう存在か(心優しい味方か、面倒臭いが何かの時は役に立ってくれる人か、一方的に好いてくれるが大して役に立たない人か、つっけんどんだが頼りになる人か・・等など)が明確になったのではないか。
話は「太陽の神」がいなくなったためその代りを勤める存在として母がさらわれた。その母を追って異界に迷い込み、母とは再会し、異形の者と母との時間を過ごす。「偽物の父」(異界に本物は来れないかららしい)とも過ごした後、元の太陽の神が戻って来て、母と娘が去る日が来る。皆と別れを惜しみ、偽父とも別れる(ここで涙するのだが、偽父ならもっとドライに別れて良いのでは、、等と心の中でツッコミが..)。劇中、幾つかのアトラクションが用意されてあるが、やはり大切なのは本筋、ストーリーだった気がする。
元の世界に戻った時、少し怖いオチがある。父と娘が日常のやり取りを取り戻しているが、遠くで「おーい、おーい、こっちだよー」と呼ぶ声が聞こえる。見れば奥の中央に巨大な「顔がついてる」太陽が浮かんでいる。どうやらそこから声がするのだが、二人には聞こえない。さっき娘と母が手を取り合って異界から抜け出てきたはずだが、二人は「母がいない」事を意に介していない。
客電が点いた後、二つ前の列の男の子が、「悲しいお話だったね」と呟いていた。子供たちは自分たちを楽しませてくれようとした大人達に、礼儀正しく、行儀良く、敬意を示していた。「今時の若者」に感じる行儀の良さは、傾向はさらに進んでいるのでは・・と予感した次第。
そんな事を感じると、演劇はどんな効果を子供たちの前に発揮したいだろうかと考える。今回のステージで言えば、大人たち自身が「子どものように」楽しむ姿を見せる事ができたか・・そこかなと思う。世代の近い若い俳優たちと過ごせて楽しかったかも。子供たちに感想を聴いてみたい。(距離感のある感想になってしまった。)
群論序説『ALICE IN WONDERLAND-不思議の國のアリス-』
PSYCHOSIS
ザムザ阿佐谷(東京都)
2024/07/12 (金) ~ 2024/07/17 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
「不思議の国のアリス」を戦前日本に設定を変えて翻案した話をベースに、数学者にして革命家だったガロアを絡めて、緻密に織り上げた脚本である。
耽美な世界を作っていた。客演に申大樹の姿が。貴族紳士風なビビッドな役どころに嵌まり、キャスティングの妙という所もあるが、私的には何より耽美的で哀切さや混沌の世界観に包み込む楽曲が良かった。凡そ三つ程の相の異なる楽曲(歌付きのもあり)がドラマの風景に変化と情趣を色濃く与えていた。
ザムザ阿佐谷の舞台をやはり縦に高く使い、動的にもダイナミックで躍動感がある。装置や小道具で「不思議の国」感を醸し、人物たちのキャラも寺山修司世界に通じてシュールを体現。高取英戯曲は三本目。
カズオ
世田谷シルク
アトリエ春風舎(東京都)
2024/07/13 (土) ~ 2024/07/15 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
久々の世田谷シルク。とくと見せてもらった。永井愛の本作は今回初めて耳にしたが初期の作品のよう。二人芝居に書かれた脚本ではなく、二人が入れ替わり立ち替わり登場し、秀逸な演技を繰り出す。その様が気持ち良いが、体調により睡魔が邪魔してストーリー把握はおぼつかなかった(視覚情報が薄くなるのを二人は人物を十二分にカリカチュアしてくれてはいたのだが)。楽しい芝居である事は分かったのでリピートできたならもう一度観に行ったと思う。
一つ、核となっているのは「カズオ」という存在が、登場人物ら(女性)にとって恋慕と依存の対象であり、女性の悲哀、滑稽さを自虐的に描いた作のようであった。金だけ貢いで捨てられた事に気づかない女・・等。。
戯曲は書籍として出版されており、どこかで入手できる可能性はある。読みたし。
氷は溶けるのか、解けるのか
演劇プロデュース『螺旋階段』
スタジオ「HIKARI」(神奈川県)
2024/07/26 (金) ~ 2024/07/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
見応えあり。点描式に展開を伝え、くどい説明に走らず、最後には素朴かつ強い人間ドラマの構図を残す。1時間20~30分。他の書き手ならもう一つ二つ書き加えておきたくなりそうな所、ストイックに終わらせた。点描のイメージは周囲が闇に説ける劇場空間、照明のワークによる所も。
神奈川を拠点に精力的に活動する『螺旋階段』主宰による作演舞台を先般観た所だが、舞台の色をガラッと変え、クオリティを維持して実現していた。今日で終わってしまうが地元の方は是非目にして頂きたい。そして今後も注目である。
木のこと The TREE
東京文化会館
東京文化会館 小ホール(東京都)
2024/07/12 (金) ~ 2024/07/13 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
ペヤンヌ・まきの近作で音楽劇。と聴いた時はタイトルの「木」の意味に思い至らなかった。作者自身が住む阿佐ヶ谷の住宅地を貫通する道路建設計画を知り、ブス会で舞台化、一昨年末上演した「The VOICE」に印象的に語られる高木が、今回東京文化会館小ホールのステージに意匠を凝らしてそびえている。主人公(南果歩)に絡む二人の存在(男性)が、劇と同じくだりを(老婆役とかで)再現する箇所で、あの劇に出演した二人だと気づいた。他に踊り子(女性)が一人(これが後半、物語性と比喩性に富んだ踊りをガッツリ披露する場面がある)、そして上手側にピアノ、ギター、コントラバス他の演奏者(イケメン)三人が、存在、音楽ともに舞台に溶けている。
70分程度の小さなステージの中に、劇では言葉でしか伝えられなかったものが詰まっている。人の思いそして木自身の眼差しが、音楽、踊り、賑やかな三人の遊びのような動きの中に花開くように広がる。これを言葉に約めて言えば、「今ここに存在するものを愛すること」だろうか。阿佐ヶ谷の片隅に、神宮の森にひっそり立つ彼ら(木)に思いを馳せる、玉のごとく愛らしく、大切にしたい世界。
会場はほぼ埋まり、会館の会員だろうか、タイトルを見てだろうか、子どもを連れた親も結構いた。幻想的な世界ばかりでなく、木を切られようとする「現実」に声を上げる場面がある。「抗議の声」自体が政治的な響きを帯びてしまう今であるが、この場面の声は、心にまっすぐに届く声だった。こっそり涙を拭っていた客は、当事者に近い人だろうか。子どもたちの心に、何か種が撒かれたならいいな、と願う自分であった。
この問題がきっかけで杉並区政に関心の領域を伸ばしたペヤンヌ女史が撮ったドキュメント映画を観たいと思っているが、都内、横浜と巡演する間に追いかけてはいたが観られず。いつか観たい。またブス会の過去作の映画化もされていて、見逃した芝居だったのでこれも観たい。
スタンダップコメディ・サマーフェス2024
合同会社 清水宏
小劇場 楽園(東京都)
2024/07/18 (木) ~ 2024/07/21 (日)公演終了
実演鑑賞
スタンダップコメディに一言申すなど無粋の一言だが、一言だけ。
さすが。すげえ。一人でやってるだけでリスペクトだが、自分という存在を素材に物語を紡ぐ芸。
大拍手。
百こ鬼び夜と行く・改
仮想定規
中野スタジオあくとれ(東京都)
2024/07/18 (木) ~ 2024/07/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
コロナ期を挟んだ数年前に観た時の印象が蘇ったが、異形の登場人物らが今回は「お寺(神社だったか)の裏の池に住むヒキガエルを媒介して覗かれる妖怪らの世界。そこへ迷い込んだ最近この村に転居してきた男の目撃する「戦い」が、一体何を象徴するのか、が着目点だ。1枚のクレームを記した紙が、始まり。そこには「蛙の鳴き声がうるさいのでどうかしてくれ」という趣旨が書かれている。町内会の意見箱へに入っていたのを、町内会長さんが男に見せに来る。町内会へ強引に加入させられ、おまけに「君、頼むよ」とその紙を渡される。仕方なく夜の池を訪れ、鳴り渡る蛙の大合唱に向かって「おーい、少し黙ってくれ」と、手段無し。そこに口のきけるヒキガエルが現われる。頭の上に草を乗っけると姿が見え喋る事もできる、という設定。後に登場する怪物らも男の前に存在を顕わにするが、5人ばかりの彼らは鬼滅の刃の剣士「柱」っぽく独特のキャラがある。
さてこのクレームは、現代のクレーム文化の隆盛(精神文化のある種の劣化)を象徴し、街に置かれた「自由に弾けるピアノ」の撤去を要求する人たちの存在を思い出す。うるさいから止めさせろ、というのは一見「権利の主張」ではあるが、子どもの声がうるさいから公園を撤廃した町でも議論が起きたように、難しい問題をはらむ。で、これは芸術に対するクレーム(愛知トリエンナーレが好例)にも通じ、「不快」との付き合い方、公共空間の確保、そこで優先されるべき事、等の社会的コンセンサス、もっと言えば社会のエートスを育む視点が問われる大きな問題だ。
蛙の声がうるさいからどうにかしろ、という投書を、妖怪たちは「あいつの仕業だ」と当たりを付け、やがて主のようなその存在(青木詩織)が登場する。ここが私には不満だったのである。一つには、人間界に巣食う望ましからざる精神性の根源を擬人化した存在として、つまり人間と重なる存在として異様に登場してほしかったのだが、妖怪的存在の仕業である事と、それが人間に対してどう影響するのか、という肝心な部分(私にとっては)が曖昧になり、異形の世界の中での出来事になってしまった。夜の内にそれらは解決し、人間界に平穏が訪れる・・・果してそうか。クレームは人間の劣化という症状であり、そこに病理があり機序があるので、そこにメスが入る事と、妖怪界での「戦い」が重なって見えたかった。
(演出面では、妖怪たちの前に突如現われたその存在は、ミザンス(立ち位置)的に同じ側に居るように視覚的に判断されてしまい、混乱した。対決図を見せるなら、主を上手側、これに対峙する妖怪たちは下手側、といった風に、「何かに対峙し、これを解決せねばならない」という風に見えたかった。主役の立ち位置として中央に立ってしまう事を優先したのは正しい判断なのか、というあたりで「?」が沸いて来てしまった。結局の所、彼らが何と戦い、何に勝ったのか、忘れてしまった。
が、冒頭からの自分の期待からはズレて行ったのが残念だったが、中々見モノな場面、笑える場面、奇想天外な場面展開はジェットコースター式エンタメといった所。役者の汗が(肉眼ではなく)見えた。
あくとれを前に訪れたのは恐らく20年前頃。芝居をちらほらと見始めた頃で、知人が出ていた芝居を観に行った、とだけ覚えている。というかその事を思い出した。
その時も中野駅からの単純な道のりを探しつつ歩いた感覚が蘇り、近づくにつれ足が速まる自分がいる。あれは何の芝居だったっけな・・記憶も記録も辿れず、思い出せずに終わりそうだ。どうでも良い話だが。
デカローグ7~10
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2024/06/22 (土) ~ 2024/07/15 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
Eプログラム(小川絵梨子演出)の2本も見応えがあった。
一つ目は、医師の夫(伊達暁)が同僚の医師から、彼の勃起不全が回復不能であると告げられる所から始まる。妻は「美しい」大学教員(万里紗)。二人の間に秘密があってはならないと考える夫は、触れたくない事らしいと察知して体をかわそうとする妻を彼に向き合わせ、「事実」を告げる。が、鷹揚な妻は「今までと変らない」と夫に告げる。だが事態はすぐに不穏に。夫が無言電話を取り、その主らしい若い学生(宮崎秋人)と妻は逢瀬にいたる。いつものルーティンのようにセックスをする。学生は妻が禁止した電話も自宅にかけるわ、車の助手席の下に自分のノート(だか教科書)をわざと置き忘れるわ、「大人の関係」に向かない。
夫は不信を募らせ、逢瀬の場所である妻の母の実家(今は転居して不在で引き払おうかとも話し、妻はそれに戸惑う)での現場を見てしまう(二人で中に入り、一回に掛かる十分な時間の後退出するのを目撃)。妻の態度は不思議なほど夫の前ではゆったりとしており細やかな愛情も感じさせる。夫が車の助手席下から見つけたノート、妻のバッグ中のノートにメモをした学生の電話番号、そしてたまたま妻が母から頼まれた実家にある品物を、夫に代りに取って来るよう頼まれた事。さらには、その日学生からの電話で「ラブレターを送っておいた」と聞かされた妻は夫が居る実家に電話し、品物があった事を確認しがてら、「郵便受けは見なくていいから」と言ってしまい、「物的証拠」を夫は手にしてしまう。
夫の職場である病院で、一人の患者とのやり取りがある。若い彼女は母親から歌手になるために喉の手術を受けるよう説得されているが、当人は「生きてるだけで丸儲け」と頓着しない。だが病院での日常、腕の良い外科医でもある彼の患者に対する責任は、妻の一件で到底負えず、休暇を取っている。妻への嫌疑の追求を彼は最後まで敢行する。実家の鍵を預かった彼は合鍵も作っており、電話の会話を別室で聞くための細工まで行なった彼は、「次の逢瀬」が明日である事を突き止める。そこへ病院から電話があり、手術を拒んでいた彼女が承諾し、明日行なうと言われるが「今はそれどころではない。頼む!」と同僚に委ねる。
妻が学生に電話をして「明日会おう」と告げた直前のこと、夫は妻とのやり取りの間にキレている。妻は夫の拒絶を悟り、すぐさま学生に電話したのだ。
夫は先回りして実家の一番奥の物置に隠れる。やって来た学生に対し、妻は「これっきりにしたい」と告げる。「それを言いたくて呼んだ」と言う。しつこく食い下がる学生をきっぱりと拒否し、追い返した妻がため息を付いた時、奥から嗚咽の声が聞こえる。夫が崩れるように出て来ると、妻は夫の挙動を責めた後、こう言う。「貴方がこんなに傷つく事を自分がやっていたなんて気づかなかった。」そして怪我を負った者を迅速に手当し、介抱するように夫を遇し、二人で家へ帰って行く。
話はもう一山ある。互いと顔をつきあわせるのが困難と見た妻は、当面は別居しようと提案し、自分は休暇を取って遠方にスキーをしに行く(地元に居ては学生との接点が疑われてしまうので)、と言う。その見送りの場面。ところが、その暫く後、スキーウェアに身を包んだ例の学生が空港に現われ、ゲートを通って行く。絶望に見舞われた夫は、自宅で遺書を書く。妻は自分を追って来た学生に驚き、問い詰めると、大学の同僚の教員から聞き出したと言う。ある直感が働いた妻は、夫に説明しなければならないと悟り、公衆電話に走る。まず病院に電話し、夫の同僚から「夫は来ていない」事を確認し、もし夫が来たら「自分は○○から戻っている」と伝えてくれ、と言い置く。そして自宅の方へ掛けようとするが、後ろの男が並び直すように言う。緊急だと訴えるが自分も急いでいると言う。これをじりじりと待つ妻は舞台下手、一方上手の自室で机に向かっていた夫は、遺書を書き上げ、ゆっくり立ち上がる。紙を手にとり、電話機の上にそれを置くと、漸く前の男の電話が終り、妻は懇願するように自宅の電話を鳴らすが、遺書が上に置かれた受話器は既にこの世の者との回路を断ち、夫はふらりと家を出る。自転車に乗る。以前自転車を飛ばし肝を冷やした断崖のある山間へ、向かった事が分かる。疾走する姿が上手上段のスポットに浮かぶ。妻は空港へ。そして自宅へ。電話器の上の紙を見て絶望する妻。夫は過去を振り切るように猛スピードでペダルを踏み、ダイブする。
暗転の後、包帯だらけの夫の前に、妻が現われる。驚いた夫に向かって、妻は「私はここに居る」と言う。
必死に夫との関係をつなぎ止めようとする姿と、いとも簡単に学生と関係し、簡単に関係を終わらせてしまう姿。妻の中の肉体的な欲望があるが、それを捨てる事を厭わないものが夫との関係の中にある・・・その事が「信じられるか」がこのドラマが観客に問う大きな問い、と思える。
万里紗と伊達暁との取り合わせが良かった。
締めとなる第10話も、面白い。「希望に関する」とあるが、冒頭は切手蒐集家だった父が死去し、息子である兄弟の手元に残された切手コレクションが莫大な価値を持っていた、と知る場面。希望とは何か。彼らがこれを処分しようと相談した人間から、切手の「換金価値」以上の価値(記念切手そのものが持つ希少価値)について聞かされ、一転して二人は「売る」のでなくこれを保管し、なおかつ「父が集め切れなかった三点セット」を入手してコレクションを完成させる事に、関心が向かう。180度の転換がここにある。兄は売れたロックミュージシャン、弟は真面目なサラリーマン。二人はずっと意気投合して話を進める。
が、紆余曲折あって、二人は全てを失う。互いに原因をなすりつけ罵りあう、ばかりか強盗の手引きをした張本人ではないかと疑い合う。だが、犯人については二人に思い当たる関係者が浮上し、にわか切手コレクターとなった二人は一枚も二枚も上がいたのだと最後には諦める。
或る時、郵便局に立ち寄った兄、弟それぞれが、切手を買う時にふと記念切手に目が行き、3つのセットを購入してしまう。再び訪れた何もなくなった父の切手保管倉庫で、互いに同じ切手を買った事を知った二人は、互いの心を理解し、笑い合う。
希望とは何か。父の「偉業」を継ぐ事に生きがいを見出したにわか蒐集家の息子らは、その夢を「断たれた」事を自覚したが、凡そ全てのコレクションは凡庸な一つの記念切手から始まる、という本質は変わらない。その事を理解してか否かは分からないが、始めの一歩を二人は刻もうとした。二人が生きている間に父のような崇拝されるコレクターになっているかは甚だ不明だが、切手を愛する事の本質は、「誰が持っているか」とは別の所にある。・・これは愛に似ている。そこに希望を見出そうとした。
デカローグ7~10
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2024/06/22 (土) ~ 2024/07/15 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
公演の後半にDプログラム、最終盤にEプログラムを駆け込みで観た。順番に感想を書いていたら中々のハードルなので簡略に、まとめて。
Dは上村演出の2つ。一つ目の「ある告白に関する物語」は、「子どもは誰のものか」を問う物語。
母=エヴァ(津田真澄)の<娘>アニャ(三井絢月=Wキャスト)を<姉>のマイカ(吉田美月喜)が誘拐する。実際はアニャはマイカの娘であり、エヴァはマイカの母。
冒頭、夜泣きする赤子に手をこまねくマイカの姿がある。マイカは年端が行かないか世間知らずの(発達障害的な?)風情で、これを見かねたようにエヴァが赤子をあやす・・という象徴的シーンが切り取られる。アニャはやっと学校に上がった位の年頃で、<姉>のマイカにもなついているが、頼りにしているのはエヴァのよう。現状を納得していないマイカはかねてからの計画を決行する。ある日アニャと<母>二人が劇場に行った際、エヴァが席を立った隙にマイカがアニャを連れ去る。アニャは「誘拐」を楽しんでいる風だが、エヴァの方は顔面蒼白、夫(大滝寛)に告げて心当たりに電話をかけまくる。一方マイカは子どもの「父親」(章平)を訪ね、一晩の宿を請う。かつてエヴァが校長をしていた学校の生徒だったマイカは、若い国語教師だった彼と「出来て」しまい、子を授かったのだった。
エヴァは激怒して二人を別れさせ、男は教師を辞めたらしい。地味に暮らしていた彼はマイカを見て驚き、自分の子を見て戸惑うが、最初は拒絶感の強かった男もマイカの純粋で一本気な人間性を思い出してか、一個の人格として愛した過去が蘇ってか、宿を与え、彼女のために自分がやれる事をやって良いという気になった事が分かる。男の所にもエヴァから電話が掛かり、彼は「知らない」と答える。
夜、マイカは実家に電話を掛けるとエヴァはホッとするのもつかの間、マイカの強い決意を聞かされ、絶望する。夫はそんな彼女に、「なぜマイカを拒否するのか」と諫める。エヴァは自分がマイカをとうの昔に失っている、とこぼす。ここで母娘関係のしこりが見えて来る。そしてエヴァが「マイカの代わりに」アニャという娘を得たと思っており、仕方なくアニャを引き取ったのではなく「かけがえのない存在」として迎えたのだという事が知れる。十戒の「他人の財産を欲してはならない」が浮上する。私達は如何にマイカが力不足であろうと、子を奪ったエヴァに疑問を投げかけなければならない、と促される。そんな予感が押し寄せる。
マイカは早朝目が覚めると家を出て、近くの駅へ向かう。彼女の行く先はカナダ。遠い。男は彼女の不在に気づくと、エヴァに電話をかけ、マイカが居た事を告げる。酷寒の早朝、始発までの時間駅員は暖かい駅員室へ二人を誘う。うたた寝の間にマイカたちは捜索者に見つけられ、アニャは「ママ」とエヴァへ駆け寄る。ちょうど電車が着いた時だった。エヴァはほんの僅かな変化をここで見せる。アニャを諦め、一人でホームへ向かおうとしたマイカの背中に、「あなたが必要だ」と声をかける。直情的で決めた事に一直線に進む習性のマイカは、去る。彼女の内心は分からないが、娘を奪われた思いだけは消えずに持ち続けるだろう。母はそんな娘を受け入れられなかった過去をどうにかこの時、辛うじて「否」と言えた。マイカの挙行に見合うだけの内省を要請されている事に、気づいたのである。
キェシロフスキの書くエピソードはどれも悲しい運命と、僅かながらの光がある。
二演目めは、他の作品中最もストーリー性に乏しい(又は描き切れてない)話だった。テーマは最も社会的に重いホロコーストである。観察者である「男」(亀田佳明)が唯一、台詞を喋る場面がある。ポーランドの大学のゼミで教授(高田聖子)が与えたテーマを考察するために学生が持ち込んだそのエピソードは「デカローグ」の何作目かのもの、だからそれを「知っている」男がこれを代弁する(女学生は口を動かし、声は亀田のもの)形である。このゼミには訪ねて来たばかりの女性(岡本玲)がいる。教授の著書を英訳した女性であるが、それ以上の縁があった事がやがて明かされる。戦中、アウシュビッツで親を亡くした彼女に関わる事になった教授は、彼女を冷遇したのだった。(ただその具体的な出来事が台詞だけで説明されるその台詞がよく聞き取れず、把握できなかった。)
ユダヤ殲滅が企まれたホロコーストと、その行為がどう重なるのか、別物なのかが不明。ただし「赦し」がテーマである事は分かる。最後の場面までに演出的な趣向が凝らされた後、教授側から彼女へ手を差し出し、抱擁するという美しい形で幕となる。独特な語り口の話であったが、「何があったのか」がその説明台詞以外から汲み取るヒントが得られず、それはその事実を多面的に見る視点ないしは感情が人物を通じて見えてこなかったためではないか・・といった事を考えてしまった。
やはり短くは書けない(言っちゃってるし)。最後のプログラムは別稿にて。
ナイトーシンジュク・トラップホール
ムシラセ
新宿シアタートップス(東京都)
2024/07/16 (火) ~ 2024/07/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ムシラセを二度目の観劇。前回観た芝居といい、お笑い(芸人)の世界がこの作者のホームグラウンド的な(勝手知ったる?)フィールドなんだろうな、と開幕早々に想像された。江戸の戯作者(浮世絵師の名も戯作者として扱っている)の名をもらった登場人物たちが、着物をまといつつ現代の熾烈なコミック作家の世界を生きる当事者たちとなる。当人らは時代がどちらになろうともキャラ・役割とも変わらず、その変化をやり過ごしてるのがノリ突っ込み的な味で、作劇に生かしている。
ネタバレは避けるが、出来る役者、キャラの立った役者を配して美味しいシーンもあるがギャグを日常語とした作風にシリアスが混じると扱いに難渋してる印象が少々(作者的には狙ったニュアンスなのかもだが)。最後はメッセージにうまく落としている。「創り出す者」の苦悶、熾烈な競争世界を生きる孤独、そんな彼らに温かい眼差しを当て、幕を閉じていた。(どう落としたか=どんな言葉を彼らに掛けていたかは、忘れてしまったが・・どうも劇の最終場面は「終わるな~」という感慨が先行するせいでえらく忘れがちである。)
客席に(何故か前の方に)空きがあったのが空間的には淋しかった。直前に公演を知った私のような人も多かったのでは。
オーランド
パルコ・プロデュース
PARCO劇場(東京都)
2024/07/05 (金) ~ 2024/07/28 (日)公演終了
実演鑑賞
作家バージニア・ウルフへの関心とも相まって観たかった演目。序盤のステージを観た。オーランド役の宮沢りえが延々と喋る。台詞の言い淀みも噛みも無いのだが幾許か、探り中な感じが流れるような、ゲネプロな空気感がある。形先行・内面後から・・栗山演出のステージ捌きは(当り前だが)先行している。隅々に血が行き渡ると凄いだろうな、と思う所はあった。
本作の梗概をどこかで読んでいて、時空を旅する超越的な主人公を「ペール・ギュント」と重ねていたが自分の中ではそう外れておらず、幾人かの登場人物は人間だが、(貴族階級の世界というのもあるのか)浮世離れした、それぞれが独自進化したような生物に見える。舞台はイギリス、16世紀から、現代まで(作品は20世紀前半の著)。時代を超え、果ては性別も超えるがそれも「無くはないかも」な空気が流れている。性差が人間に及ぼすもの、についての壮大な思考実験の実験室は舞台奥一面の壁(人一人通れる出入口が中央下にあるのみ)、宮廷のような床の伽藍とした空間で、これが目に焼き付いている。スタッフ陣も一流で音楽・国広氏は相変わらず縁の下に徹した深層に働きかけるような音楽(だから毎回あまり覚えていない)。
作者は女から男、ではなく男から女への転身とした。そこに意味を見出す。ある種の不条理だが、「どちらかに(自分の選択によらず)生まれる」事自体、もっと言えば生命そのものが不条理である、その感覚を深掘りした先にある何かは、人が辿り得る最も尊い「変化」なのかも。
『口車ダブルス』
劇団フルタ丸
小劇場B1(東京都)
2024/07/10 (水) ~ 2024/07/14 (日)公演終了
実演鑑賞
フルタ丸初観劇。「うまいな~」と幾度となく感心しながら観た。下北沢B1は馴染みのある劇場だが、舞台をゆったりと贅沢に使ってる感覚が新鮮。未知数であった「講談」要素がどう絡んでいるのか・・そこにやはり関心が向かうが、開場時間の間流れる女性講談の音源がアウトし、開演となると、見台を高くした台上に何と女性二人が座り、講談調の語りが始まる。さて・・・
もっとも自分は講談を「落語」を通してしか知らない。(神田伯山氏の動画を初めて目にしたのは割と最近。)枝雀の秀逸なくしゃみ芸が聴ける「くしゃみ講釈」や、志の輔の全編講談調の新作を今思い出すが、(伯山氏のを聴いて実感した所の)講談の真骨頂である「クライマックス」のテンションであったりが、今回の作品にも盛り込まれ、また時折高座に出てくるフレーズをうまく嵌め込んだりと、単に「語り手(講談師)の進行による劇」止まらない趣向の充実がある。
ストーリー的には舞台となる保険屋の営業部員それぞれの人生模様が切り取られ、各人の人生の分岐点を華麗に(見た目的にはバタ臭くとも)経て行く物語が講談的に綴られる。
正直、出だしは打ち込みの音楽が「和」と合わないな、とか、可動式「見台」台の二人が人に隠れて見えないといった「不便さ」や多少多めな「甘噛み」など物理的要素に引っ掛かっていたのだが、仕込んだ伏線がやがて花開く考えられた台本に、「なるほど」「うまい」と心で呟くのであった。
ナイロン100℃ 49th SESSION 「江戸時代の思い出」
ナイロン100℃
本多劇場(東京都)
2024/06/22 (土) ~ 2024/07/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ナイロン観劇4度目になるか。比較的、見応えある舞台だった。と言っても以前観た「わが闇」等は一定評価されているので、自分の感受性の問題かも知れぬ。で、今回はナイロン的アプローチを漸く理解し始めたという事なのかも・・?
所詮遊び以上のものではない、と作者は腹をくくってるのだろうと推測しているのだが、何かメッセージらしきものを込めて来る瞬間があり、それが茶化しなのか、その逆(日和った)なのか、どっちだ。やっぱ日和ったのね、と。「いい話」にしたいなら直球でやってみろ、と言いたくなる感覚?それかも知れない。
ただ、死体の腕や足が出て来ても平気で見れてしまうシュールなワールドへの巻き込み術は、さすがである。心から笑えるギャグも一つあった(一つかいっ)。
シュールなワールドでの、俳優の肉体の「力」の貢献を実感する所あり、途中で気づいた存在がズームされて目に入って来る池田成志、同じく途中で気づいた奥菜恵(どこまでも変らない)、コールでやっと気づいた山西惇らの圧は中々であった。客演四名の一人坂井真紀はビッグネームと悟るも、判別できず(坂井美紀、水野真紀、水野真紀未だに識別できない)てな塩梅。
だが、どこか「勿体ない」感が残る。それがナイロンと言えばナイロンなのだな。
小劇場への客演で目にしていた水野小論が出るとホームなのに何故かアウェイで頑張ってる錯覚に。
問わず語りの三文オペラ
YUTOMIKA ゆーとみか
座・高円寺2(東京都)
2024/07/05 (金) ~ 2024/07/06 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
こんにゃく座人脈だろうか、比較的新しいユニットによる「歌」芝居である。クルト・ヴァイル作曲の「歌」が十数曲、この「三文オペラ」という話がよく分かった。シンプルなストーリーだが独特な匂いがある。悪事を働き、女を弄ぶマック・ザ・ナイフが、最後は縛り首になる悪役物であるが、石川五右衛門よろしく最後に公開処刑される怪盗・鼠小僧を翻案した芝居(佐藤信版は観てないが野田歌舞伎版は確かそんなであった)はこれに着想したのかも。。
ヤツに娘をたぶらかされたピーチャム商会の店主、その実乞食らに盲や片輪を演じさせ浄財を巻き上げて伸しているピーチャムが、マック捕獲に執心し、逆に警察署長タイガー・ブラウンがマックを逃そうとする転倒。最後はタイガーは折れ万策尽きるのだが、描かれるマックの人間的魅力を作者は、実は弱き者の味方であったとか、親思いであるといった徳目でなく、己が歓心の赴くまま、自由に生きる姿に見出させる。そこに女郎たちやある種の人間は惹かれ、ある人間は疎ましがり、またある人間にとっては「裏切っても許してくれる」人物。
彼がやった程度の「悪」は、大手を振って罷り通る巨悪に比べれば取るに足らないものだ、という視線は芝居の中でほぼ語られる事がないが、物語の底流にひたひたと流れている。ブレヒトは壮大な皮肉の物語を書いたのだな、と思う。
舞台の方は、演奏者二人(ピアノ、サックス)以外は6名。同好会的雰囲気のあるユニットだが、公演ひと月前に主要出演者の一人が急逝したとの事で、追悼の言葉がパンフにも記されている。そんな事もあってか、初日は台詞が詰まる等厳しい瞬間もあったが、その時の気まずさを超えて、終わってみればドラマの情感を伝えて来るものがあった。歌の力だろうか。
こんにゃく座の芝居がそうである時が私は大変好みなのだが、「歌」に芝居を従属させない、「歌が芝居である」表現に、なっている。歌唱力はバラつきがあるも、個性の振り幅と言え、「歌」が芝居として連なり行く舞台になっていた事が、私は満悦であった。