tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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幸せになるために

幸せになるために

“STRAYDOG”

赤坂RED/THEATER(東京都)

2025/10/09 (木) ~ 2025/10/13 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

二度目のSTRAYDOG。毎回公演の案内を見るに予想がつかないこれも一つ。ただ想像の範疇は一度目に見た「俳優たち」の空気感、年齢層が20代~30代という所(ベテラン勢も若干数は居るのだろうけれど)から来る芝居の質感も固有のそれで、父役と子役を同じ年代のキャストがやるものだから、とりわけ今回のような群像劇は最初は混沌として見える。
だがそんな「見えにくさ」はやがて溶解し、ドラマがなだれ込んで来る。
メタ性を遊ぶ感覚(客への意識の顕在化)で軽やかさを出しながら、今作が取り上げるシビアな題材に直裁に語らせるという事がある。少なからず驚かされた。
観始めて「おや?」と見ると鳥居みゆきであった。異質な存在も包摂して成り立っている芝居。ドキュメントとフィクションの狭間で後者の強い作風にもかかわらず、強烈に芝居に突入してくるドキュメントも包摂される。後日ネタバレ含め追記。

ネタバレBOX

日航機墜落事件(1985年)を扱った舞台として思い出すのはNODAMAP「フェイクスピア」(シェイクスピア四大悲劇やイタコと絡めて最後の最後にこの事件がジャンボジェット機の機首が突如顕われるかのように顕われ仰天、震撼となったものである)。公演概要も読まずに観劇に及んだが、「あの事件」を描いた作品である事は序盤で説明され、回帰的に乗客それぞれの前日譚を描く形になっている。つまりはNODAMAPとは真逆のネタバレ先行だが、歴史事実と向き合う正当な順序ではあり、オーソドックスなドラマの構成でもある。冒頭そして最後を客室乗務員役として引受ける客演・鳥居みゆきが独特な演技だが不思議な存在感。そして本編の大部分は坂本九をモデルとした一家を含む五組の乗客家族の「死へと向う」それぞれの人生模様と日常であるが、事故を挟んだ「その後」の姿、証言もある。また予期せぬ要素として、一部で囁かれている救助を遅らせた真の原因=墜落原因は米軍機との接触でありその隠蔽のために時間を要したとの疑惑を取り上げ、語らせる。
時間を戻して5家族の群像・・九ちゃん一家は音楽畑の妻と娘。父母を離れて初めて三姉妹そろっての大阪旅行、細部は忘れたが家族思いの父を送り出す妻と長男とその妹、老父母が送り出した娘、そして別れた夫も同意で息子を一人で大阪行きの飛行機へ乗せた母(鳥居)。日航123号がついに飛び立つ。機体後部で激突音がする。事態が急を告げ、RED THEATERの縦二列の通路を客室乗務員が右往左往し、劇場全体が緊迫の空気に飲まれる。既に人物たちに共鳴している心がその現場へと同道させる。カウントダウン、地上激突の瞬間(閃光と衝撃音)、そして救助場面へとなだれ込む。その前段に救助に当った自衛隊員の、今まさにヘリから降り立った時点を描写する語り=証言がある。バラバラに散った肉片を見た救助隊員らの衝撃を迷彩服の男らが限界ギリギリの声量と速さで伝える。戦場や災害で衝撃的場面に遭遇した人間は反射的な落涙を経験するというその衝撃を、隊員らは言語化して伝え、観客はそれに共振して落涙に誘われる。作者なりの描写であるが前半思いも寄らない40年前実際にあった修羅場が再現される。
炭と化した遺体(従って誰のものかも判らない)と対面する遺族の証言と場面から、遺族同士の励まし合う場面、娘らが帰って来る日を待って40年を過ごした(乗り切った)という主婦が、飲酒依存となった姿も。だがドラマは収束して行く。亡くなった娘らが母に言う「帰って来るわけないじゃん。」けど「ずっと傍に居るよ」。五組の家族は一組、また一組死者と出会い、去って行く。最後に残った鳥居の前にも、やがて息子が現われる。人生の意味への問いに直面するのは必ずしも不条理な事故の経験者に限らず、不条理が日常化している人々が今この時にも生きている。その人たちとの共鳴、あるいは連帯というものを予感させる感動を紡いだ所に脚本家森岡氏の骨を見たような。
出演者多数であったが、場面転換に付随する衣裳の早替え(客室乗務員の制服へ、また迷彩服へ)も中々のもの。歌唱レベルも高く興醒めさせる事がなかった。
I, Daniel Blake ―わたしは、ダニエル・ブレイク

I, Daniel Blake ―わたしは、ダニエル・ブレイク

秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場

紀伊國屋ホール(東京都)

2025/09/26 (金) ~ 2025/10/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

よく見ると本作はケン・ローチ監督の映画が原作。多作ではなく自分も2,3本しか観てないが、彼は炭鉱労働者や社会の周縁にある人々に焦点を当て、苦境にあっても力強く生きる姿を描く「イギリス映画の良心」と言われる(に相応しい)映画監督。

今回の舞台も英国のとある地方都市で「生きづらさ」に直面する人々を描いた物語。主人公ダニエル・ブレイクは老境に差し掛かった、どうやら一人暮らしの男。心臓病の診断を受け仕事を止められるが、役所では就労可能と判断され、手当てを受けるためには就職活動をする必要があると指示される。この役所とのやり取り(闘い)が延々と続く事になるが、その役所での最初の場面で、彼はある母娘が役所の窓口と掛け合う光景を目にする。
母は約束の時間に遅れた事を詫び、今日この町に来て、散々探してやっとここへ辿り着いた事、支給が無ければ万事休すである事を訴えたが、役人は「時間に遅れたため今月の支給は無し、来月来なさい」と回答し、曲げない。母は食い下がる。「自分だけなら何とかする、だが娘が居る、明日から娘は学校に行く。財布の中は、今これだけしかない、見て下さいホラ(と財布を開いて見せる)・・」。言葉がきつくなると役人は「穏やかでない言葉使いは貴方のためになりませんよ」と恫喝する(この台詞は後の場面にも聞かされる。誰がキレさせているのか!・・と観客である自分も頭に血が上る台詞だが、役人には罪意識がない)。
ダニエルは見かねて声を掛ける。役人は悪びれもせず規則だけに従って市民の処理に当る。そして食い下がれば「言う事を聞かない不逞分子」として警察が呼ばれる。

折々に、貧困に関するケン・ローチの言葉や過去吐かれた政治家のコメントが字幕に映される。社会に問題は起きていない、とする言説と、その言説に抗う言説の両方。
かつてイギリス病という言われ方が低迷から脱せない英国経済を言う言葉としてあったが、画期となったのがサッチャー首相であり、米国大統領レーガンと相伴い新自由主義への大胆な転換が図られた、とされる。炭鉱労働者を切り捨て、貧困層と格差を生み出したが、これらに対し新自由主義は冷たかった。その大義名分は「改革」。忍耐の末には改革された社会が待っている・・。
この芝居に描かれた役人の態度は非情で、怒りをかき立てるが、日本のそれとは異なると見えながら本質は同じかも知れない。
なぜ規則を作り、これを厳しく適用するのか(手当て支給の間口を狭めるのか)、と言えば、お金を余計に出したくないから。これは彼らの非情な態度を裏付け正当化する理屈だ。
ダニエルは「ハンコを押せば済む話じゃないか。今彼女の申請書にハンコを押し、彼女は金を受けとる。なぜその単純な事がやれないのか」と言う。だが母親はそれをとどめ、「事を荒立てたくないから」とダニエルの親切を拒む。役人の決定は覆らず、母子共々追い払われる事になる。借りたアパートの鍵だけ預かっているがその場所も判らないという彼女らに、ダニエルは道案内を買って出、これも母は固辞するが結局受け入れ、アパートに入るや、ゴミ溜めのような状態に唖然とする。電気は課金する金がないため通せない。全ては今日の支給を当てにしての算段で、娘には先に新しい学校で恥ずかしくない服を購入し、すっからかんである。僅かな希望にすがり、安い公共住宅にやっと当って遠方へ越して来たらこの有様、萎える母親に、ダニエルは捨てたもんじゃないさとゴミを片づけ始める。この日から母子とダニエルの付き合いが始まる。
一方ダニエルの住む住宅には中国人の男がいて、中国本国で製造している靴の直接輸入で美味しい商売が出来ると息巻き、その最初の売り声、軌道に乗っているというエピソードがある。ゴミ捨てをダニエルに任せるような男だが、彼が困っている様子を見ると心配気に声を掛けて来る。この悪意のない隣人はイギリスの平均的庶民の空気を伝える。ダニエルは不服申し立てという手段に出る。申し立ての機会は担当する相手からの「電話」に応えるという形でしか遂げられず、電話はいつまで経っても掛かってこないと役所で訴えるも聞き入れられない。仕事を探す面接を幾つかやったと報告するが、その証拠は?と訊かれる。「今まで俺がこの口で言った事以外の証拠を出させられた事などない」と答える。
母子を訪ねたダニエルが目にする断片にも、一つずつ変遷が見られる。心配になって訪ねるダニエルだが、母はダニエルの素朴な愛を「自分の惨めさ」ゆえに拒む。子供は学校で臭いの事を指摘され、変な服だと囃し立てられているようである。母はある慈善グループの会合で出会ったある人から「商売」の知恵を授かるのだが、ダニエルが訪ねた時、シュミーズ姿でベッド脇に座る母の姿を目の当たりにする。
訪ねてこなくなったダニエルの家の玄関に、娘が座っている。利発な彼女は、私たちは友達、だから訪ねて来るのよ、と言う。
厳しい現実の代わりに再び、新たに友情を手にした彼ら。ダニエルが切れるきっかけは、面接に訪れたある店の店長から「貴方を採用したい」と言われ、「実は自分は心臓を患っていて働けないのだ」と言うと、「お前はそういう連中の一人だったんだな。周りを見てみろ、皆自分の体を使って働いている。誇りを持ってる。お前らのような公金をくすねようとする狡い奴らが居るからこの国はダメなんだ」と罵られる。自分で選んだ訳じゃない。しかも、手当ては支給されない。その後の役所での女性の対応(面接の証拠がない、面接をしていないで手当てを申請するのは規則違反、違反には罰則が適用される事を覚えておいて下さい、等の説明)に「もうや~めた!」とダニエルは言い、役所の外の壁にスプレーで落書きをする。「私は、ダニエル・ブレイク。」
ついに「不服申し立て」が認められ、証言を明日に控えた日、ダニエルは母にメモを渡す。明日読み上げよう思っている事を書いた。今日帰って目を通してチェックしてほしい。その夜、心臓発作で亡くなるダニエルブレイクは、声なき人々の手によって、静かに葬られる・・という冒頭見せたムーブが繰り返される。芝居はそこに辿り着いたのだ。そして母はダニエルが書いたその読まれる事のなかったメモを、読んで聞かせる。静かに暗転。

ネタバレBOX

米国の新自由主義はGAFAを生み出した。既存構造の受益者には苦難でも、国としてはそこから成長分野が生み出された。
日本は公務員削減、公共部門の民間移行と弱者保護制度の規制緩和などで、企業の利益確保に有利な「改革」を進めたが、イノベーションにはならず既存構造をむしろ保護して延命させる「エセ新自由主義」であった。格差を広げる効果しか生まず、その「痛み」から産まれるはずの改革は、起こら(起こさ)なかった。自民党政権が「終ってる」理由はそれである・・らしい。
誠實浴池 せいじつよくじょう

誠實浴池 せいじつよくじょう

庭劇団ペニノ

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2025/10/03 (金) ~ 2025/10/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

台湾の劇団とのコラボという事で何を見せられるか全く未知の状態で観劇。既視感があったのはペニノが以前やった「蛸入道」だったかのパフォーマンスで、これは最初から最後まで形式に則った儀式を延々と見せられるという際物だった。楽器を鳴らしたり拍子を打ったり、観客も鳴り物を持たせられた。各所で炭火が焚かれ、演者は汗だくになって儀式をやり切るのであった。
本作では海沿いの寂れた場所にある廃業した浴場の中で、日没と共に何らかの商売の営業が開始するのだが、この着想と、これをやり切る執念に脱帽する。異様な光景が、伏線も回収の気配もなく晒され、まごついてる間に、この見せ物は見事に完結を迎えているのであった。片桐はいりという俳優無しにこの世界観を出せただろうか?とも考えた。

砂漠のノーマ・ジーン

砂漠のノーマ・ジーン

名取事務所

「劇」小劇場(東京都)

2025/09/26 (金) ~ 2025/10/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

オーストラリアが舞台の一風変った二人芝居は、森尾舞と西尾友樹という頼もしいタッグにより、また個人的に全幅の信頼を置く演出により約束されたような物、とは言いじょう、作者だけは(日本人なのに)ネットで幾ら探しても素性を知るに至らず、さて何が飛び出すか不安と期待に胸躍らせて劇場の席に収まった。
エッジの効いた脚本の書き手は「滅び行く言語」への大きな関心をパンフで述べている。世界には数千もの言語があり、という事はその大部分が極少数の人間が使用する言語であり、その大部分が絶滅の危機にあると言う。初耳であった。合衆国には数百の、中国にも二百近くの、台湾やチベットにも数十の言語があると言う。国土や人口には比例しない。歴史上国境が幾度も塗り変わったり支配国が幾度も変った(台湾もその一つ)国には、領土の周辺へ追われた「先住民族」が居た訳である。日本における少数言語はアイヌと沖縄地方の数言語であり、それ以外はない。
本作では、二十数年前に「最後の話者が居なくなった」はずの言語を喋る者が警察に保護され、言語の研究者である男が捜査協力を請われてやって来た、という形で言語が取り扱われる。鍵の掛けられた一室にいる女に、マイクを通じて男が喋り掛ける。英語で話す男の声(録音か?)が聞こえるのは冒頭だけかと思いきや、どこかで聞いた声。西尾氏の声である。流暢な英語を話す男の声色は、捜査を担う男のそれではなく、絶望視されていた現存の研究対象を見出した歓喜と興奮のそれである。実にうまい。

「タクボク~雲は旅のミチヅレ~」

「タクボク~雲は旅のミチヅレ~」

江戸糸あやつり人形 結城座

ザムザ阿佐谷(東京都)

2025/09/18 (木) ~ 2025/09/23 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

結城座のコラボ歴はアングラ時代に遡る(遅くとも)とは誰だったか演劇人の一人(渡辺えり?)が言っていたが詳細は分からない。
演劇の自己変革という宿命を自らに内蔵する高芸術志向(それを前衛と呼ぶのかな)の創造主体は多様に存在するけれど、糸操り人形という芸能がどう演劇的娯楽性を持ち得るかの課題は常に大きな負荷ではないか。
今作は久々に名前を見た加藤直氏による石川啄木を題材にした話であったが、とこかしら宮沢賢治の世界を覗いた気にも。ザムザ阿佐ヶ谷は狭さと座席の傾斜で人形(が登場する)劇鑑賞向き。加藤直氏らしい飄々とした、あっさり味の劇(時間も70分とコンパクト)であった(私の舌が鈍いだけかもだが..)。
会長職となった元座長(十二代結城孫三郎)の両川船遊が、常にドラマの主役啄木を演じる若い十三代目を後見し、座員一同(演者は五六名か)コンスタントに小劇場での公演を重ねている。この集団と、観客との温かい関係性の方に目が行く。歴史の中の「今」を感覚し、思考する大事さを思いながら帰路に着いた。

霧ぬけて

霧ぬけて

劇団俳優座

俳優座スタジオ(東京都)

2025/09/19 (金) ~ 2025/09/30 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

桑原裕子作・演出舞台を久々に堪能。俳優座への書下ろしは初めてか。
桑原作品は犯罪が絡むものが多いが、人間の破滅的傾向と「人間」に留まろうとするベクトル(創造主の願望であり観客の中にある理想でもある)との相克を描く点においては本作も例外ではないが、桑原作品(というか本人?)に本来備わる楽天性がこの上ないバランスを作品に与えて、俳優座の優れた布陣によって群像が立ちあがっていた。(老境の面々がまた見せてくれるんだわ。桑原氏が稽古場で諸兄を乗せてる光景が目に浮かぶよう。見た事はないが。) 他にも印象が刻印されてる(強い既視感ある)役者の過去履歴を調べたのだが、近作にはなく数年を遡る。時を超えて立ち上がって来る存在感(無論良い意味での)という事を考える。
諸々、堪能した。

トリプティック

トリプティック

世田谷パブリックシアター

世田谷パブリックシアター(東京都)

2025/09/27 (土) ~ 2025/09/30 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

ピーピングトム・・・演劇的な舞踊作品を製作して来たカンパニーを、最初に観たのは映像でであったが、映像でも目を奪われるものがあった。
集団での動きが「絵画」のように美しい構図を作ると同時に人間の面白さが醸される。ドア、光、風、そして重力が動きのきっかけとなり、人物たちはそれらに翻弄されている。

今作はその最初の印象に最も近い舞台であり、かつ死の臭いのあった前作よりもディストピア感が濃厚。人間はいよいよ抜き差しならない所に来た、と感覚させた。
トリプティクとは聖画の形式の一つで三つで一作品とする。今作はピーピング・トムの過去作品を三つ並べて構成したものという。
舞台上には正面が長くサイドが短めの室内の壁をやや傾けて据えられ、掃除夫やメイドが出入りするので資産家の家の一室かホテルの一室か、という所。これが三作品の基本形で一つが終ると転換作業に入り、室内の設えが変わる。広い床、壁にへばりついて丸テーブルに椅子(飲食店風)だったり、ベッドだったりがある。そういった具象もあるが見事な身体の動きに目を奪われながらも、それらが現世界のある光景を仄めかし、リフレインが微妙に変化を遂げてドラスティックな展開、の繰り返し、いや積み重ねの果てに人は当初予想もしなかった風景を目の当たりにしている。日常起こるちょっとしたノイズ、バグのような場面が、徐々に、まるで世界を制御する者の悪意により絶望確定の様相へ。ホラーである。だがこれは夢ではなく現実なのだ、と知った時の人間の精神の身体的表われ・・と言語化してみたが、確証があるわけでなく、視覚刺激が脳に過ぎらせる断片的印象の一つだ。
全体に照明は暗め。特に三つ目のパフォーマンスは流れる音もアジア的だが途中激しい雨音により世界に暗雲が垂れ込めた終末世界である(ブレードランナーでも常に雨が降っていた)。動きは暗黒舞踊へのオマージュ。白塗りの悪魔のようなのが突然出て来て驚かせたりする。見れば下半身露出し、芥正彦ばりである。日本の舞踏はヒトの原初への回帰、動物に仮託して「おかしみ」が混じる感じを持つが、ピーピング・トムが作るこの場面は人間の暗黒世界を象徴する。いつしか他のパフォーマーたちは乳白色の衣一枚でもろ肌を晒し、水をたたえた床の上でずぶ濡れになる。自然と隔絶した文明を築いた人間が今や自然に浸食された未来図か。人間が動物化した未来を見るようでもあり。

観劇のし始め、身体の動きの面白さ、切れ味に魅入りながらも、暗澹とさせる先の見えない光景には忍耐を強いられる。休憩なしの転換時間を挟んだ二作目も心はざわついたまま。この二作目ではベッドのある風景で、「見知らぬ者」が紛れ込んでいる予感、あるいはそこにいる侵入者の存在により不安を掻き立てられる。「ゲッ」と思わされるのが、ベッド上の横たわった女の首のあたりに女の頭があって産声のような奇妙な声を上げている。よく見れば体と繋がっておらず、この世のものでない(映画「The Thing」で侵入者に体を乗っ取られた中年男が見せるあどけない、従っておぞましい顔、あの感じ)。完全ホラーであるが、ベッドを介してマジックのように人が何時の間にか居なくなったり居たりする技を見せていたのでその一環、と思っていたら、後で再び表玄関の暗がりに立つ男がその顔を抱えている。首は動き、口を開けるとあのイヤな声が発するが、目を凝らしても男の背後に女性が立てる余地が無さそうなのである。(あれは声を発する精巧な首人形か、目をくらますマジックか。)
そして十分な休憩を挟んだ三作目については先程書いたが、この三作目にして観る者は落ちる所まで落ちる(という現実を直視する)必要に迫られる人生体験を思い出させられ、没入する事となる。だがそれでも暗い雲に覆われ嵐の吹く世界に閉じ込められた一室で、ヒューマニズムを削がれた人間の様相が、何らかの光明の訪れによって日の光の中に終幕を迎えるのでは、との予感と期待も持つ。事の成行きを見る。そして最後、薄暗い世界に(物理的な)光は差さずに作品は閉じられるのであるが、そこに大きな納得が訪れる。
別役実がある本で演劇(に限らず人が演じる舞台芸術)を見る観客の中に生じる「共振」という概念を説明していた。パフォーマーの動き・演技に観客はいつしか同期し、同時進行の体験をする、といったものだったが、舞踊作品を観る時の感覚は正にそれで、それだけに没入感は計り知れないものがある。無論客観的に現象を眺めている自分はいても、この仮想のディストピアを体感し、怖れ、不安、嫌悪、想定(期待)と裏切りを経験し、やがて人間はもっと自分を裏切る現実に直面するという、その時間に身を任せていた、と終演時に気づく。

松本清張「点と線」

松本清張「点と線」

カンパニーデラシネラ

神奈川県立青少年センター・紅葉坂ホール(神奈川県)

2024/07/27 (土) ~ 2024/07/28 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★★

地元神奈川での開催であったが公演期間短く都合がつかなかった「とても観たかった」作品。動画配信をやっていて観る事ができた。思わぬ僥倖。無茶面白い。2009年が初演との事だが再演に掛けたのも分かる。タイトルになる題材の抽象的な造形にとどまる作品もデラシネラにはあるが、本作はストーリーをしっかり伝えている。発語がある。闇に浮かぶ陰影の濃い絵、スタイリッシュな衣裳と動き、サスペンスの教科書のような原作中の象徴的場面が美しく提示されて行く。国広和毅氏の音楽は、言わずもがな。

成り果て

成り果て

ラビット番長

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2025/09/24 (水) ~ 2025/09/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

将棋を差す場面が何度か出て来る。対戦の会場は舞台セットの天井をギリ攻めた上段で、盤を挟んで上手下手に対戦者が向き合う。客入れからそこに人が居て、下段すなわちセットの大部分は主人公の棋士森が経営する将棋道場の広間。開演前のそこでは大盤(将棋盤を拡大した、Eテレで良くやってるやつ)を出して観客向けに女流棋士と新人棋士(と名乗るが役だろう)が将棋の入門講座をやっている。
この大盤は最終局面での勝負でまた出て来るが、多くは上段で、その多くも「今対局が行われている」状況説明として、それを背景に目前でドラマが展開する、という構図だ。この対局の打ち手が全て「フリ」でなく実際に打っただろう手を打っていると見えるのである(そこまでのこだわりを当然作り手は持っている、と確信されるのだ)。将棋愛に貫かれた作劇であり、将棋をやってる自分への「なぜ」の問いは誰しもの人生に通じる普遍性も備える。

草創記「金鶏 一番花」

草創記「金鶏 一番花」

あやめ十八番

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2025/09/20 (土) ~ 2025/09/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

休憩挟んで2時間45分の大作。私など「金鶏二番花」に書き込めなかった「はみ出し」部分も捨てがたく、やったのが今作、公演のインターバルも短いしきっとコンパクトな舞台だろうと勝手な想像をしていたのだが、全くの予想外れ。本域で作られた舞台(いやそれが普通なのだろうけれど・・芝居作りを「普通」と呼びたくはないが意味は汲んで下され)。
日中戦争以降の戦時に重なるTV先史(実験放送以前)を、TV開発者金原氏(二番花での中心人物)界隈の他に、歌舞伎界の若手二人を持つ両家を一方において描く。繋がりの無い両者が接点を持つのは戦場であるが、中々に広く散らされた要素をどうにか3時間に圧縮して提示する事に成功している。
テレビ研究においては学校付属研究所の金原氏の有能な助手との浜松での日々、金原には「さち」(中野亜美)という不思議な話し相手(これが女房なのか幼馴染みなのか彼にだけ見えている幻影なのか不明)がおり、やがて上京する事になった時は彼女に世話を頼んだ母がいる。彼は東京砧に新設された放送研究所へ出向という名の転職(栄転)を遂げるが、女房との暮らしを選んだ彼の助手は浜松に留まると言う。彼は研究においても金策に困った折にも大きな貢献をした、と描かれている。新設された新たな職場で彼を出迎えたのが根明な男。研究所には二百人が働き、金原の手足となるのだと氏への憧憬を語る。
歌舞伎界では、一方の屋号では映画出演により人気を博するもその事により歌舞伎出演を父に禁じられた女形の青年。彼の母は映画の脚本書きであり、父母は始終息子を巡って喧嘩をしている。ここへ脚本家を目指して母に弟子志願するも「息子狙い」の魂胆を警戒され拒まれ「女を捨てる」宣言をして住み込んでいる女(金子侑加)と、青年の姉がいる。青年の親友である男役の方の一家は、父が息子の病気に際し、祠の狐(こちらも金子)に頼み込み彼を救う代わりに将来この子を自分の物にする事を約束させられる、という事がある。先の女形青年の姉は、こちらの青年に思いを寄せている。一方、住み込んでいる脚本家志望の女に対しては、弟への思いがあると見込んで(これは当っている風でもある)嫌悪している。
日中戦争から太平洋戦争。
南方へ赴いた者達が南の島で歌舞伎をやる、というエピソードが中心だ(加東大介氏のアレを彷彿)。歌舞伎界からは男役の青年と、金原氏の元助手、新設研究所での根明男が出会う。ある衛生兵(だったか通信兵だったか)が歌舞伎役者がいると聞きつけ、自分は「白浪五人男」をやりたい、歌舞伎を教えて欲しいと頼み込んだのがきっかけだ。練習場所を借りるため鬼の伍長に掛け合った所、「歌舞伎」にどうやらご執心。また右手の指を三本失った軍楽隊のトランペット吹きが「自分は一体何をすれば良いんでしょう」と相談に来る。彼の暢気な様子がおかしみを醸したかと思うと、相談を終えた彼が下手の上段の音楽隊(この舞台の)の所へ行き、楽隊員らとこれまた暢気なやり取りをする(これが笑える)。
そんなこんなで彼も座員となって五人揃った白波五人男の有名な名乗りの場面、元ネタをもじって彼ら自身を練り込んだ自己紹介を歌舞伎調でやるのだが、現地の兵士らが涙を流して笑い喜んだ、とあるのがリアルに「想像される」のは「南の島に雪が降る」を読んでいたからだろうか。
一日限りの興行を行なったその夜、悲劇が起きる。それは現地人による急襲であったが、日本のアジア進出の本質を類推させる要素となっている。(アジア解放の大義とは程遠い現実...)
戦後、帰還した歌舞伎役者の界隈ではもう一騒動(阿鼻叫喚と言うべきか)が巻き起こる。これが作者が今作の典拠の一つとした実話の一端なのかどうかは不明だが、「狐」と取り交わした約束の顛末とすれば、中々どぎつい。敗戦直後という時代には猟奇的な出来事も多発したに違いなく、不思議と違和感を感じさせなくはある。が、ドラマとしてどう飲み込むべきかは苦慮した(特段メッセージ性を求めるべき部分ではないのかもだが)。
折しも映画「国宝」が歌舞伎役者二人の物語のようだが(まだ観ておらぬ)、本作においては崇高な恋愛関係(一方が昇天した事で益々、秘められた聖性の高い)とし、俗世の恋沙汰との対比がある。一つ明快でありたかったのは、書生(女)が狂気へ陥るに至る、狐の仕業としてでない、現世的な観点からの必然性であった。彼女の鬱屈の根底に何があったのか・・そこに強く興味が惹かれる。

十二人の怒れる男

十二人の怒れる男

ハツビロコウ

小劇場B1(東京都)

2025/09/18 (木) ~ 2025/09/23 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

結論を出す事が期限付きで要請された密室の会議、という設定でどれだけの作品が書かれたか知れないが、「12人の怒れる男」なる名作の影響の大きさと作品自体のクオリティの落差が無い、のかどうなのかさえ検証不能な程スタンダードなあり方を呈している。
日本人ならまず「12人の優しい日本人」がこの作品のパロディ界隈では嚆矢でであり孤高に君臨しているが、コメディとして抜きん出ていてもやはり原作の持つ精巧さとメッセージの強靭さには叶わぬな、と今回改めて思った次第。と言っても今回初めて議論の進行の仕方、問題点が浮上する順序に僅かな不自然を見出し、やはり矛盾がなくしかも面白い完璧な脚本は中々存在し得ないものだな、とも。
長い前置きは閉じて。
公演ごとにテキレジが大胆になる印象のハツビロコウであったが、今作は手堅く原作に忠実な(とせざるを得ない脚本でもあるか)芝居の作りであった。ただし本作の正しい審判のあり方を巡る議論とは別にもたげて来る世情を映したやり取り、例えば人種の違い、貧富の差(容疑者もスラムの出身)、高齢者差別(軽視)等の要素が(時代はそれ程特定しないが)噴き出す部分で、ハツビロコウは現代日本いやあの突如躍り出た政党という徒花を見ている今現在誰かの口から吐かれて不思議でない台詞(翻案に近い大胆な翻訳か)を言わせていた。
民主主義の崇高さ、その可能性を説く教科書のような作品だが、場所、時代は戦後アメリカ。日本で作品を味わう時はどこか人種差別はアメリカにあるもの(黒人を奴隷としていたし)、スラムの住人が居る国情も移民大国アメリカのもの(日本は平等主義が強いので格差はあまりないが某国は実力社会)という感覚であった。今の日本はこの物語を「遠いの国の話」と安全なフィルターを通して受け取る必要がなくなった。自分の国で起きている事として見ている瞬間が幾度かあった。面目躍如。役者の揃え方にも大いに興味あり(大半を知らなかった)。キャラが粒立ってこその「12人」であり、この座組のユニークさ、魅があった。自分的にヒットは桟敷童子の稲葉氏の3番。最も観客の心を掴むあの役は、ああ彼に振られたのかと、そこも注視していたが、流石であった。

野良豚 Wild Boar

野良豚 Wild Boar

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2025/09/09 (火) ~ 2025/09/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

久々に文学座アトリエを訪れた。今回は四方を囲む客席。香港の女性劇作家の本作は権力とジャーナリズムを描く。同じく香港出身の文学座座員の女性演出のデビュー舞台でもある。
翻訳劇としての難しさ、彼我の国情の差による状況描写の難しさなどあったようである。不眠気味の状態で観るにはハードルの高い内容だった(要は寝た)が、後半覚醒し、物語の大半の流れは掴めた。大国中国の統制とせめぎ合うジャーナリズムの現在進行形が劇に反映し、主人公の些か素行の悪い記者は、師と仰いでいた先輩記者ユンが撃たれた事を機に、民主勢力の闘争心に火を点け巻き返そうと熱を入れる。だが最終盤、退院したユンが変節した事を知る。この事が徐々に露呈していく過程が秀逸。「パーフェクトシティの建設」は社会の進歩を表わし、これの実現が社会のため人民のためである、という論理が、不正の暴露の使命の前に立ちはだかる。それは計画の中止を意味するゆえ、両論平行線、従って推進派は逃げ切ることになる。
冷静に考えれば、不正の事実を問題化した上で、シティ建設の是非を改めて問うても良いはずなのだが、二択しかないと思わされている(観ている自分も)。かくして悪は蔓延り、正義は二の次に追いやられる(という前例を一つ一つ作られて行く)。日本の政治家とくに権力の中枢に近い者は私は何らかの手段で「脅し上げられている」と推測しているが、それが可能な権力関係を日本は受け入れており、今更抗えない所にまで来ている事が想像されるにつけ、日本が真の民主主義を勝ち取るにはやはり一度血を流す必要があるのだろう・・そんな事を思う。

変身

変身

オペラシアターこんにゃく座

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2025/09/20 (土) ~ 2025/09/23 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

山元清多脚本、に大きく惹かれて観劇。2000年代に確か「変身」をこんにゃく座はやっている(案内が来た記憶がある)。今回は上村聡史とあるから新演出だろう。作曲は林光と、古い。が林光である。大いに期待して劇場に入った。
KAAT大スタジオである事を忘れる舞台の設えで、奥は高い横一本の通路を頂上に、裏にも降りられるが、通路の上手端と下手端を隠すように平面パネルが立ち、天辺もパネルで繋いで巨大な門の形に聳えている。門の手前は傾斜のついた落差の小さい階段が全面に。壮観。
個人的には脚本が見事である。山元氏の台詞は口調がいい。
またカフカの原作が語るストーリーの合間に、脚色者による作品「解釈」を反映した幻想的な場面(原作にはない)が挿入されたり、打ちひしがれるしかない現実を相対化する内省に入り始めた時の、主人公ザムザの想念を散文化したような語りなどで、この不条理な物語は私たちの日常の次元へ意味的な影を落とす。キャバレーのシーンなど作者の才気が炸裂(変身からあれを思いつく人が居るだろうか)、各々が享楽人の扮装したこの場面で、ある少女が「ダビデの星」(ユダヤの象徴)を持って動き回る。おや?と思う。カフカがユダヤ系ドイツ人であり、作品が書かれたのがナチス政権を控えた時代である事などが脳裏をプラズマのように駆け巡り、冒頭物語作者だかその発見者だかが本を開いて作品を読み始めるメタ構造と響き合って、俄に陰影が深まり始める(恐らく照明も)のである。
この一つの伏線から、最後に驚くべき演出が施される(これは脚本に元あったものだろうと思うが、細部は不明)。その先にホロコーストが待ち受けている歴史の瞬間を言い当てているに違いない歌によって、焦点は「変身」の物語から、それが書かれた現実社会へ移される・・のでなく、「変身」の物語そのものに不思議と共鳴していた。
無残な物語、不条理極まりない物語、と十代の自分は読んだし(実際は悲惨さと滑稽さ、人の非情さとヒューマニズム、どちらにも偏重しないラストだった気がするが...)、二三年前結城座が上演した「変身」も理不尽さを如何に強調するかという作りであった。
が、本作は一味違う。グレゴリーに対する家族の理解と無理解の形が、一歩踏み込んだ思索から導き出されたもののようであり、「このような話が本当にあった」として人はどう受け止め得るのか、の問いに彼らは些か腰を上げて真摯に応えてみせ、情感豊かな表現で示したようにも思えるのである。
脚本そして演出、さらにこの抽象性高い脚色者の問いに応えるユニークな楽曲。唸るしかない。

クミの五月

クミの五月

劇団印象-indian elephant-

座・高円寺2(東京都)

2025/09/08 (月) ~ 2025/09/08 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

前回の劇団印象リーディング(鈴木アツト氏の自作)も1ステージのみの公演。確か日程的に断念した記憶だが、今回は行けた。韓国戯曲という点にも背中を押されたが、題材が光州事件とは観始めて判り、身が引き締まる。
伝え聞くにこの事件は韓国現代史に特筆される凄絶な事件であるが(再現映画も衝撃的に描いていた)、本作は街の店を経営する家族を中心に、多様な立場の光州市民たちの目と関心が捉えた事件の姿が描写される。
軍・警察の介入に抵抗し、市民による道庁占拠によって束の間勝ち取った自由が、その後の空挺部隊員らの無慈悲な銃剣による襲撃で敗れたという悪名高い全斗煥大統領の名を更に黒くした事件。
苦しい展開が見えている史実を描いた作品だが、庶民が暮らす場に流れるユーモアや人情の機微が面白くつい入り込んでいる。そして家族や隣近所と同じ目線になっている。語り手でもある主人公クミは、大好きな一人の兄の死に直面する、多くの遺族たちの一人である。
最後にその「死」を無駄死ににはしない使命を、クミは語る。事件が収まった後、行方不明であった兄の遺体とまみえた後、集会で発言するような声で、場内に語り掛けるのだが、惜しむらくは「その時はそう語っただろう」トーン、声量、すなわち悲壮感一色の「今戦う」声が出ていた。瞬間的な激情が言わせる言葉のようにではなく、徹底的に冷静沈着な心から、その決意の声を出して欲しかった・・今の私らにも可能な「決意」の心の形がそこにあると思える声で。歴史の一コマを描いた芝居、という意味ではクミのその声は「恐らくそのように人々に向って語っただろう」と思える正解なのだが、その歴史の時間の中から「今」へ語る要素があり得るとしたら、最後の台詞だったか、と思ったような次第。
キャスティングも含め上質なリーディング上演であった。

ネタバレBOX

1960年代~70年代の朴正熙政権は、日韓条約等により批判される面はあるも経済成長を実現し、富をもたらした大統領だと評価する向きが多い。一方、同じくクーデターによる軍政を80年以降敷いた全斗煥に対する人望は(軍内部からさえ)無かったとの評判である。
その始まりが光州事件であったという事になる。

朴正熙政権時代から民主化勢力のリーダー的存在であった金大中を、幼少から追ったドキュメントが昨年公開されていた。日本でのKCIA拉致事件(日本国内で韓国諜報員の無法な行動を許したとして批判が起きた)も経て1989年「取り敢えずの民主化」を遂げた盧泰愚(軍人)政権~同じ野党勢力の一翼であった金泳三政権5年の後、大統領となった人。
このドキュメントは金大中の背中をカメラで追いながら独裁体制下にあえぐ韓国人の民主化勢力の帰趨を追った映画でもあり、熾烈な独裁政権にどう対抗するか、し得るかを模索する彼の背後にある民衆の存在を想像させるのでもある。その象徴的なシーンがある。
金大中にとって光州事件という悲劇が何であったか、それはその半生を独裁政治に対抗する機を窺う闘争に費やした彼にとっては、自らの力不足によって生じた犠牲に他ならなかった、という含みである。軍政が退いた韓国でついに彼が選挙に打って出るため地方を遊説する中、それまで一度も訪れなかった光州の地を踏んだ時の映像。・・彼はゆっくりと走る車の上に立ち、目的地に着く前から涙をおさえきれない。やがて視界を埋め尽くす何万という彼の支持者は、それを汲み取るように一人一人が手を叩いている。よく生き延び、我々の代弁者として立ってくれた・・と、その心の台詞が聞えるようなシーンである。
光州事件はどのようにしても「終わり」は無いが、もし何らかの区切りを付けるとすれば、それは圧倒的な力でねじ伏せられ奪われた命の犠牲が報いられる瞬間であり、それは恐らく闘争の象徴であった金氏と共に犠牲を悼み、未来をつかみ取る決意を互いに確認する時、であったのだろうと想像されたのである。
政治が腐敗し、私欲権力欲にまみれた為政者によって市民が銃を向けられた経験を持つ韓国、同じ経験をした他の国もそうだが、最終的に「民自身への信頼(それなくして団結はないので)」に立つことで「力」を持つという知を体得している、と思う所がある。そして日本にそれがあるのだろうか、いざとなれば民は団結できるのだろうか、と考える。
『REAL』

『REAL』

metro

インディペンデントシアターOji(東京都)

2025/09/11 (木) ~ 2025/09/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

前作「GIFT」は観なかったが今回は観た。タイトルからして前作~今作は同系統との読みと、第二弾をやるなら勝算はあるに違いない、といった姑息な予測で・・。
舞台。嫌いではなかったが、幾許かでもストーリー性を織り込むなら筋は通したい所、軽視し過ぎな憾みも。
質店を守る次女(サヘル・ローズ)。そこへ売文か探偵か(その両方か)でもやってそうな男(渡邉りょう)が失踪している長女(月船さらら)を題材に書きたく消息を尋ねに訪れる。その際、次女も少し前まで色んな方が訪ねていらした、と証言するからには「追われる」だけの何かを帯びているのだろうと想像している所、割と序盤で長女は現われ、その後もずっと居るのだ。探される身、という事ではまァ学界で注目される神出鬼没の思想家ないし社会学者、と観客側で設定しても良いのかもだが、追われているなら一度現わした姿を最後またくらますか、くらまさないのなら過去の生き方と決別してのラストとなるか、ラスト実は彼女の生き方の延長であったと判るか・・そこだけでも何か整合を取ってくれると、もう一味美味しい(芝居らしい)芝居を観た気になれたのでは、と思う所はある。
宮沢賢治の妹になりきった(憑かれた)三女(犬宮理紗)は「永訣の朝」のために、長女はニーチェ(ツァラトゥストラ)のため、三人は「三人姉妹」のために存在し・・憑依された者の異言の如く言葉が吐かれて行く。晩年のニーチェがイタリアのとある地の路上で鞭打たれる馬に泣き縋り、精神を病んだ彼はついに正常に戻る事はなかった・・というエピソードから馬つながりでヨルダン川西岸のジェニンの「瓦礫の馬」を模した巨大な馬の登場。私の中では次女=サヘル・ローズ本人が、この馬とパレスチナの今を伝えるために存在させたと解釈され、天願氏の脳内を開陳したような本作を自分の中で完結させたものである。
時折鳴る爆撃、終盤の「残っているのはこの家くらい」との台詞で、大正期のような佇まいの静かな質店から、戦場へと観客は駆り出される。ここで三人姉妹の最後の台詞たちが正面芝居で語られるのだが、没落し職と結婚(恋愛よりも)の必要に迫られるもうまく行かない原作の状況(三女の新婚相手が決闘で死んだ朝という緊迫の状況ではあるものの、ある意味日常)で作者が言わせた台詞が、戦場という状況に勝てるのか・・これを凝視していた。辛うじて成立するのを見届けた。

チャランポラン・トランポリン

チャランポラン・トランポリン

東京演劇アンサンブル

吉祥寺シアター(東京都)

2025/09/03 (水) ~ 2025/09/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

8年は経っているか..東京演劇アンサンブルが在パレスチナのイエス・シアターという劇団の主宰と俳優の二人を招いてディヴァイジングで作った舞台があった。今知る所であるがパレスチナ、特にヨルダン川西岸地区では2000年代以降「分離壁」の建設と検問(移動の自由の制限)、入植者と軍の圧力による恐怖に晒される子どもの日常をケアする一方法として文化運動が生まれたと言う。
思い出せばその舞台はアイデア満載の摩訶不思議な時間で、「芝居」は遊具無しに遊べる道具、また「遊び」が芝居になり得る、との発見をその時したように思う。
現実を捉える視点を「物語」の形で提示する「劇」(ざっくり新劇、あるいはリアリズム演劇)と一線を画したそれは、左脳の検問を無検閲パスして情操に働きかける刺激を孕み(観る側以上に、作り手たちにとって、との印象は大きかったが)、(左脳では)評しがたいものがあった。

今回のパフォーマンスは正にその地平にあるもので、出演陣が身体性の高い若手(選ばれし)5人、ノンバーバル(音韻を制限した発語を含む)表現、そしてトランポリンの活用、といった特徴を別にすれば、上記公演と共通する感覚のものである。
ただし空間を演出する照明・音響(音楽)やストーリー構成などは当然ながら全く別物。本作はサイバー・ゲーム空間のような設えであった。
聞けば、韓国人演出家ジャッキー・チャン氏は脳神経学、発達心理学に通じた学者でもあり、理論に裏付けられた実践を続けている人だという。子供を対象とした上演計画を劇団も考えているらしい。
さて黒が基調の風変わりな衣裳の5人は、(後でパンフを読んだ所では)彼らの主人に対する「影」として登場し、時々主人が表れたりもする。影とは本体とは対照的な人格・性質であり、「無い」ゆえに憧れる対象でもある。その彼らはジャンケンという勝負にこだわり、強くなるための訓練をしていたりするのだが、「影」が主人の足を引っ張らないように(?なのかイマイチよく判っていないが)という理由で訓練に勤しむ。存在の最初からある一つの使命を帯びている条件も、ゲームに似ている。
これは間違いなく何かのメタファーなのであるが「左脳」では理解に到達しない。
そうした彼らの「動き」と、珍妙な「発語」による人物同士のコミュニケーション、ダンスやパフォーマンスで場面が構成されていた。

大きな特徴として、フラットな会場が4エリアに分割され(正方形に×を書いた図形の線の部分が俳優たちの通り道)、そこに置かれた座布団が席である。即ち観客は靴を脱いで地べたに座る。
出入口から見た反対側に、大きなトランポリン+両側にラックが組まれ、一人乗り用の低いトランポリンも客席エリアの周囲に4つ5つ置かれる。観客はパフォーマーたちを見るため360度体や首を動かす羽目になる。
冒頭はダンスそしてマジック、芝居の流れの中でのトランポリンの技披露もあるが、一連のストーリーの流れはどことなく「ある」時間の流れにはなっている。

これだけ文字を並べてもうまく説明が出来ていないのがもどかしいが、更にもう一つ大きな特徴が、凡そ1時間の上演を終えた休憩の後、フォーラムシアターをやるというもの。
フォーラムシアターとはある短い劇の上演の後で、再度その劇を通す時には観客が劇に介入したり、別の設定や行動を指定して俳優にやってもらうという形式を言う。今回はそれなりに長かったパフォーマンスに対し、観客からリクエストされた事に俳優が応えて行く。休憩前に配られた紙に観客が書いて提出したリクエストを俳優が拾い、読み上げながらこれを進めて行く。ここではファシリテーターである三木氏(+ご意見番の太田氏)主導の場となり、俳優は俎板の鯉。それを楽しむ時間でもある。
ストーリーとしては判りづらい内容に対して注文をするのは難しくもあるが、結構な量とバリエーションの富んだリクエストがあり、時間の許す限り次々と挑戦して行く。
ある意味「ぶっ飛んだ」パフォーマンスだが劇団公演として成立していた。このあり方はどのような展開の可能性をも擁しており、今後も楽しみである。

ネタバレBOX

1970年代にブラジルの演劇運動家がフォーラムシアターを考案した目的は、人々のエンパワーメントであった。社会の構造悪や圧政に対し、人々が対抗し得るため、自分達の状況を客観的に把握するツールとして演劇=ドラマを用いられる、という所までは近代以降に期待された面もあった演劇の「効用」と言えるが、フォーラムシアターはワークショップの一形態で観客参加の仕組みがある。
「うまく行かない」例えば家族のストーリーに対し、その登場人物の誰かが「こう行動すれば」どう変るか・・という発想を投入していく「変り得る劇」=受け皿である。言わば演劇Playを通じてのストーリーの実験。
被虐に終る主人公が、あるいはそれに関わる人物の誰かが、元の劇とは異なるどのような行動を選ぶ事で事態は変化していくのかを、(俳優たちは精一杯本域で=そう簡単に事態が好転するとは行かないリアルな行動を演じ)見せて行く。それを参加者皆が共有する。
識字率の低い社会ではドラマを用いた啓発教育が効果を持つと言われるが、自分たちを取り巻く何が問題の根源であり、何を変えて行かねばならないか、についての共通認識を多くの人々が持つことが「人々の力」の根源だとすれば・・、今日本は途方も無く分断され、エンパワーされ損なった状態が(もう何時の時代からか判らぬ程に)続いている、とも言える。
演劇を通じて子どもたちの精神が開かれて行く運動が広まって行くとしたら・・と考えると、暗き世に光を見る思いである。
CONSTELLATIONS

CONSTELLATIONS

劇団スポーツ

早稲田小劇場どらま館(東京都)

2025/09/10 (水) ~ 2025/09/15 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

近年注目の劇団を初観劇。久々の早稲田どらま館にて。
serial numberが今後3箇年に亘り2名の女優と組んでのシリーズを始めたと知ったと同時に、こちらの劇団での「シリーズ」立ち上げ、しかも二人芝居、まずは海外戯曲を手掛ける点も共通で甲乙付け難し。双方に食指が動くも一方を選ばざるを得ず厳選なる選考の末こちらを選んだ。
若い俳優の煌めきにハッとする瞬間は芝居の醍醐味。ユニークな作りの本作の「見方」に最初戸惑うが、次第に「多元世界」を芝居に転化した趣向に目と頭が見慣れて来た頃には、「今この生」の多元的な振れ幅(当事者にとっては天と地の差があるに違いないが)に対するある種の達観と、同時にあらゆる可能性への胸騒ぎに見舞われる自分がいる。
舞台では同シチュエーションの様々な可能性が通り過ぎて行くが、入れ替わり立ち替わる場面の中に2つ程、他者(観客)が祝福するに相応しい場面がある。それは「うまく行ったケース」という事になるが、何故かその事で我々が報われている事実があり、何やら示唆深い。
ドラマを体験するとは二度生きる(生き直す)事に他ならず、男女の物語を觀終えた今、それがどの経過、どの結末であろうとそこには「別の可能性」が孕まれている事に変わりはなく、二人の物語の小波、大波が様々な仕方で観客を揺さぶるという事では満たされ度は高いと言えるかも知れない。と同時に、一組の男女の人生を味わった気になっている。時系列的に進む「次の場面」(またその次の場面・・)が二人が辿った凡その経路を示している所はあるので、ざっくり「一つのストーリー」と捉えられなくもない。が、主眼はその展開の仕方の多様さにある。
ただし・・もしかすると異なる展開に見舞われる二人の中に流れる精神というか、魂の交流自体は、表面上の差異にも関わらず「同じ」、即ち、この二人の物語であったと、考えて全く間違いでないと作者は示唆しようとしているのかも知れない。

この男女、ローランとマリアンを三組の男女の俳優が演じるが(組合せも多様)、二人の関係のタイプはその組合せの振り幅も多少あるものの、知的に突出して性格が飛んでる女性の存在に、男性の方が当てられるパターンと見える。男の素朴さ(養蜂家というのもミソ=出来すぎという話も?)に女が惚れ込む面もあるが、頭脳が彼女の仕事の原資であった所へ襲ってくる脳腫瘍という病、人生の起伏の面ではマリアンの感情表現が、それを受けるそれぞれのローランによっても、と言うべきだろうが、三者三様の演者のリアリティがある。「こんなに若い俳優なのに」とは不適切な前提かも知れないが、素朴に、その演技に感服した。

守りたい いろいろ

守りたい いろいろ

劇団桃唄309

RAFT(東京都)

2025/09/03 (水) ~ 2025/09/07 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

劇作家・長谷基弘氏の名は結構な昔から耳にしていたが未見だった桃唄309。一公演に短編数本という上演スタイルを続ける劇団の公演情報を今回は珍しく事前に得て、配信ではあるが漸く初めて観た。
他劇団での客演で名をしばしば目にする所属俳優・佐藤達氏は少し前に小松台東で「父」を演じる姿を印象深く見たばかり。その彼が最後にやる余興的な紙芝居(これが中々良い)を入れて6編、狭小空間の代表格RAFTで計9名が入れ替わりつ演じる。短編のサイズ感も色々だが、どれも近未来とか架空の設定のお話。観れば分かる通り、作者の社会的視点が浮上するための設定である。思考実験であり、思考の材料提供であり遊びである。

この肩の凝らない面白い出し物を、灰皿が飛ぶ稽古で作ってるわけない、とは思うものの、どのような芝居観がそこに・・?開幕すると俳優二人がそぞろに出て来て「次はこの演目でーす」と題名を書いた板を無言で示し笑顔で会釈。暗転後芝居が始まる。一つのモデルを確立してる感もあり、日常と微妙に地続きな感覚は、外界と完璧に遮断された空間での芸術性高い芝居とはまた異なる、一つのあり方ぞな、と思わせるものが。(テイストは違うが現代夢現舎にも通じるような。)
画面で覗いた限りの感想だが、年一回のペースでこんな感じでやってまーす、とライフワークなノリと勿論芝居、「気づかねばならんもの」を間違いなくスルーしてる自分を落とし物のように気づかせる静かな佇まいが、あったな。

Voice Training 2025

Voice Training 2025

虚空旅団

北池袋 新生館シアター(東京都)

2025/09/05 (金) ~ 2025/09/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

うむ。納得の二時間。面白いし(ストーリーが)、聴かせる(台詞が)。「トレーニング」とタイトルにあるその意味は実はそのままの意味であるのだが、物語の縦軸にこれを据え、講師として登場する彼女の「物語」も想像させながら、トレーニングが展開する様が美味しく、見所である。
今井上ひさしの文章講座(的読み物)の一節を思い出しているが、「その人にしか書けない言葉というものがある」・・その無二の台詞が、この芝居の中に見出せる。
小劇場エンタメ系の多い関西(と知見もなく言うのも憚られるが)には珍しい、思想性の高い芝居。

ネタバレBOX

「話し方講座」的な10回コースの文化プログラムの講師が、5回を終えた時点で辞退となり、運営する会社に勤める大迫(妹)が、ラジオパーソナリティの経験もあるプロである姉に、ピンチヒッターを頼んだらしく、その初日を迎えている。
講師役はある苦労の種を抱えているらしいのだが(その中身は終盤明かされるが)、その横軸のドラマは脇へ置かれて成立する「講座」の時間がある。姉役がまさにパーソナリティをやっていそうな口跡と滑舌の良さ、耳心地の良い通る声を存分に発揮する。
そして彼女のプロ性はそうした声や「語ること」に繋がる技術に留まらず、四名の受講者それぞれに何かを渡して行く。ネタバレはまたいずれ。
CRIMES OF THE HEART

CRIMES OF THE HEART

サカバンバスピス

シアター風姿花伝(東京都)

2025/08/27 (水) ~ 2025/09/01 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

秀作としてタイトルのみ記憶にあった本作を贅沢に味わえた。思いの他ウェルメイドではあったが、ハッピーエンドを下支えする含蓄が豊かである。ある一件で久々に顔を合わせる事となった、全くタイプの異なる三姉妹が、当初は「肉親としての繋がり」を表層では見せながら、やがて諍い多かったであろう往時に舞い戻り、それぞれに過去を乗り越えて現在の紐帯を確認する。自宅で人を待つ主役らしい日下由美演じる長女、彼女を齢三十とする台詞があって「え」と一瞬戸惑う(見た目40は超えてなきゃであるが「老けてると言われる」の台詞で一応正当化)が、女優力というのかコメディエンヌな風情で目が離せない。細やかに見せて来る演技という名の「芸」に当てられている。奔放な次女(名塚佳織)、今回の問題児で甘えん坊だが実は芯がある三女(磯部莉菜子)の関係性の核となる。
俳優では久々に目にした(serial numberでは暫く見ない)田島亮、憎まれ役の親戚役・上野裕子、良き心根の役も演れると知れた佐藤銀平とのアンサンブルも良し。
アメリカ南部の「遅れた」町で、問題の三女ベイブが夫を銃で撃ったとの報が入り、既に保釈の身である彼女を呼び戻す連絡をしたのだが、と従姉に語る長女、そして糸の切れた凧の如く「歌手」として地方を回る次女にも連絡をした、と。あっけらかんとした三女。終盤、微かに彼女が精神的支配を夫から受け、人格を損ない続けていた「監獄としての夫婦関係」の気配がよぎる。徹頭徹尾女という主体から見、語られる女性賛歌であり応援歌だが、共感以外になかった。

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