tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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『REAL』

『REAL』

metro

インディペンデントシアターOji(東京都)

2025/09/11 (木) ~ 2025/09/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

前作「GIFT」は観なかったが今回は観た。タイトルからして前作~今作は同系統との読みと、第二弾をやるなら勝算はあるに違いない、といった姑息な予測で・・。
舞台。嫌いではなかったが、幾許かでもストーリー性を織り込むなら筋は通したい所、軽視し過ぎな憾みも。
質店を守る次女(サヘル・ローズ)。そこへ売文か探偵か(その両方か)でもやってそうな男(渡邉りょう)が失踪している長女(月船さらら)を題材に書きたく消息を尋ねに訪れる。その際、次女も少し前まで色んな方が訪ねていらした、と証言するからには「追われる」だけの何かを帯びているのだろうと想像している所、割と序盤で長女は現われ、その後もずっと居るのだ。探される身、という事ではまァ学界で注目される神出鬼没の思想家ないし社会学者、と観客側で設定しても良いのかもだが、追われているなら一度現わした姿を最後またくらますか、くらまさないのなら過去の生き方と決別してのラストとなるか、ラスト実は彼女の生き方の延長であったと判るか・・そこだけでも何か整合を取ってくれると、もう一味美味しい(芝居らしい)芝居を観た気になれたのでは、と思う所はある。
宮沢賢治の妹になりきった(憑かれた)三女(犬宮理紗)は「永訣の朝」のために、長女はニーチェ(ツァラトゥストラ)のため、三人は「三人姉妹」のために存在し・・憑依された者の異言の如く言葉が吐かれて行く。晩年のニーチェがイタリアのとある地の路上で鞭打たれる馬に泣き縋り、精神を病んだ彼はついに正常に戻る事はなかった・・というエピソードから馬つながりでヨルダン川西岸のジェニンの「瓦礫の馬」を模した巨大な馬の登場。私の中では次女=サヘル・ローズ本人が、この馬とパレスチナの今を伝えるために存在させたと解釈され、天願氏の脳内を開陳したような本作を自分の中で完結させたものである。
時折鳴る爆撃、終盤の「残っているのはこの家くらい」との台詞で、大正期のような佇まいの静かな質店から、戦場へと観客は駆り出される。ここで三人姉妹の最後の台詞たちが正面芝居で語られるのだが、没落し職と結婚(恋愛よりも)の必要に迫られるもうまく行かない原作の状況(三女の新婚相手が決闘で死んだ朝という緊迫の状況ではあるものの、ある意味日常)で作者が言わせた台詞が、戦場という状況に勝てるのか・・これを凝視していた。辛うじて成立するのを見届けた。

チャランポラン・トランポリン

チャランポラン・トランポリン

東京演劇アンサンブル

吉祥寺シアター(東京都)

2025/09/03 (水) ~ 2025/09/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

8年は経っているか..東京演劇アンサンブルが在パレスチナのイエス・シアターという劇団の主宰と俳優の二人を招いてディヴァイジングで作った舞台があった。今知る所であるがパレスチナ、特にヨルダン川西岸地区では2000年代以降「分離壁」の建設と検問(移動の自由の制限)、入植者と軍の圧力による恐怖に晒される子どもの日常をケアする一方法として文化運動が生まれたと言う。
思い出せばその舞台はアイデア満載の摩訶不思議な時間で、「芝居」は遊具無しに遊べる道具、また「遊び」が芝居になり得る、との発見をその時したように思う。
現実を捉える視点を「物語」の形で提示する「劇」(ざっくり新劇、あるいはリアリズム演劇)と一線を画したそれは、左脳の検問を無検閲パスして情操に働きかける刺激を孕み(観る側以上に、作り手たちにとって、との印象は大きかったが)、(左脳では)評しがたいものがあった。

今回のパフォーマンスは正にその地平にあるもので、出演陣が身体性の高い若手(選ばれし)5人、ノンバーバル(音韻を制限した発語を含む)表現、そしてトランポリンの活用、といった特徴を別にすれば、上記公演と共通する感覚のものである。
ただし空間を演出する照明・音響(音楽)やストーリー構成などは当然ながら全く別物。本作はサイバー・ゲーム空間のような設えであった。
聞けば、韓国人演出家ジャッキー・チャン氏は脳神経学、発達心理学に通じた学者でもあり、理論に裏付けられた実践を続けている人だという。子供を対象とした上演計画を劇団も考えているらしい。
さて黒が基調の風変わりな衣裳の5人は、(後でパンフを読んだ所では)彼らの主人に対する「影」として登場し、時々主人が表れたりもする。影とは本体とは対照的な人格・性質であり、「無い」ゆえに憧れる対象でもある。その彼らはジャンケンという勝負にこだわり、強くなるための訓練をしていたりするのだが、「影」が主人の足を引っ張らないように(?なのかイマイチよく判っていないが)という理由で訓練に勤しむ。存在の最初からある一つの使命を帯びている条件も、ゲームに似ている。
これは間違いなく何かのメタファーなのであるが「左脳」では理解に到達しない。
そうした彼らの「動き」と、珍妙な「発語」による人物同士のコミュニケーション、ダンスやパフォーマンスで場面が構成されていた。

大きな特徴として、フラットな会場が4エリアに分割され(正方形に×を書いた図形の線の部分が俳優たちの通り道)、そこに置かれた座布団が席である。即ち観客は靴を脱いで地べたに座る。
出入口から見た反対側に、大きなトランポリン+両側にラックが組まれ、一人乗り用の低いトランポリンも客席エリアの周囲に4つ5つ置かれる。観客はパフォーマーたちを見るため360度体や首を動かす羽目になる。
冒頭はダンスそしてマジック、芝居の流れの中でのトランポリンの技披露もあるが、一連のストーリーの流れはどことなく「ある」時間の流れにはなっている。

これだけ文字を並べてもうまく説明が出来ていないのがもどかしいが、更にもう一つ大きな特徴が、凡そ1時間の上演を終えた休憩の後、フォーラムシアターをやるというもの。
フォーラムシアターとはある短い劇の上演の後で、再度その劇を通す時には観客が劇に介入したり、別の設定や行動を指定して俳優にやってもらうという形式を言う。今回はそれなりに長かったパフォーマンスに対し、観客からリクエストされた事に俳優が応えて行く。休憩前に配られた紙に観客が書いて提出したリクエストを俳優が拾い、読み上げながらこれを進めて行く。ここではファシリテーターである三木氏(+ご意見番の太田氏)主導の場となり、俳優は俎板の鯉。それを楽しむ時間でもある。
ストーリーとしては判りづらい内容に対して注文をするのは難しくもあるが、結構な量とバリエーションの富んだリクエストがあり、時間の許す限り次々と挑戦して行く。
ある意味「ぶっ飛んだ」パフォーマンスだが劇団公演として成立していた。このあり方はどのような展開の可能性をも擁しており、今後も楽しみである。

ネタバレBOX

1970年代にブラジルの演劇運動家がフォーラムシアターを考案した目的は、人々のエンパワーメントであった。社会の構造悪や圧政に対し、人々が対抗し得るため、自分達の状況を客観的に把握するツールとして演劇=ドラマを用いられる、という所までは近代以降に期待された面もあった演劇の「効用」と言えるが、フォーラムシアターはワークショップの一形態で観客参加の仕組みがある。
「うまく行かない」例えば家族のストーリーに対し、その登場人物の誰かが「こう行動すれば」どう変るか・・という発想を投入していく「変り得る劇」=受け皿である。言わば演劇Playを通じてのストーリーの実験。
被虐に終る主人公が、あるいはそれに関わる人物の誰かが、元の劇とは異なるどのような行動を選ぶ事で事態は変化していくのかを、(俳優たちは精一杯本域で=そう簡単に事態が好転するとは行かないリアルな行動を演じ)見せて行く。それを参加者皆が共有する。
識字率の低い社会ではドラマを用いた啓発教育が効果を持つと言われるが、自分たちを取り巻く何が問題の根源であり、何を変えて行かねばならないか、についての共通認識を多くの人々が持つことが「人々の力」の根源だとすれば・・、今日本は途方も無く分断され、エンパワーされ損なった状態が(もう何時の時代からか判らぬ程に)続いている、とも言える。
演劇を通じて子どもたちの精神が開かれて行く運動が広まって行くとしたら・・と考えると、暗き世に光を見る思いである。
CONSTELLATIONS

CONSTELLATIONS

劇団スポーツ

早稲田小劇場どらま館(東京都)

2025/09/10 (水) ~ 2025/09/15 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

近年注目の劇団を初観劇。久々の早稲田どらま館にて。
serial numberが今後3箇年に亘り2名の女優と組んでのシリーズを始めたと知ったと同時に、こちらの劇団での「シリーズ」立ち上げ、しかも二人芝居、まずは海外戯曲を手掛ける点も共通で甲乙付け難し。双方に食指が動くも一方を選ばざるを得ず厳選なる選考の末こちらを選んだ。
若い俳優の煌めきにハッとする瞬間は芝居の醍醐味。ユニークな作りの本作の「見方」に最初戸惑うが、次第に「多元世界」を芝居に転化した趣向に目と頭が見慣れて来た頃には、「今この生」の多元的な振れ幅(当事者にとっては天と地の差があるに違いないが)に対するある種の達観と、同時にあらゆる可能性への胸騒ぎに見舞われる自分がいる。
舞台では同シチュエーションの様々な可能性が通り過ぎて行くが、入れ替わり立ち替わる場面の中に2つ程、他者(観客)が祝福するに相応しい場面がある。それは「うまく行ったケース」という事になるが、何故かその事で我々が報われている事実があり、何やら示唆深い。
ドラマを体験するとは二度生きる(生き直す)事に他ならず、男女の物語を觀終えた今、それがどの経過、どの結末であろうとそこには「別の可能性」が孕まれている事に変わりはなく、二人の物語の小波、大波が様々な仕方で観客を揺さぶるという事では満たされ度は高いと言えるかも知れない。と同時に、一組の男女の人生を味わった気になっている。時系列的に進む「次の場面」(またその次の場面・・)が二人が辿った凡その経路を示している所はあるので、ざっくり「一つのストーリー」と捉えられなくもない。が、主眼はその展開の仕方の多様さにある。
ただし・・もしかすると異なる展開に見舞われる二人の中に流れる精神というか、魂の交流自体は、表面上の差異にも関わらず「同じ」、即ち、この二人の物語であったと、考えて全く間違いでないと作者は示唆しようとしているのかも知れない。

この男女、ローランとマリアンを三組の男女の俳優が演じるが(組合せも多様)、二人の関係のタイプはその組合せの振り幅も多少あるものの、知的に突出して性格が飛んでる女性の存在に、男性の方が当てられるパターンと見える。男の素朴さ(養蜂家というのもミソ=出来すぎという話も?)に女が惚れ込む面もあるが、頭脳が彼女の仕事の原資であった所へ襲ってくる脳腫瘍という病、人生の起伏の面ではマリアンの感情表現が、それを受けるそれぞれのローランによっても、と言うべきだろうが、三者三様の演者のリアリティがある。「こんなに若い俳優なのに」とは不適切な前提かも知れないが、素朴に、その演技に感服した。

守りたい いろいろ

守りたい いろいろ

劇団桃唄309

RAFT(東京都)

2025/09/03 (水) ~ 2025/09/07 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

劇作家・長谷基弘氏の名は結構な昔から耳にしていたが未見だった桃唄309。一公演に短編数本という上演スタイルを続ける劇団の公演情報を今回は珍しく事前に得て、配信ではあるが漸く初めて観た。
他劇団での客演で名をしばしば目にする所属俳優・佐藤達氏は少し前に小松台東で「父」を演じる姿を印象深く見たばかり。その彼が最後にやる余興的な紙芝居(これが中々良い)を入れて6編、狭小空間の代表格RAFTで計9名が入れ替わりつ演じる。短編のサイズ感も色々だが、どれも近未来とか架空の設定のお話。観れば分かる通り、作者の社会的視点が浮上するための設定である。思考実験であり、思考の材料提供であり遊びである。

この肩の凝らない面白い出し物を、灰皿が飛ぶ稽古で作ってるわけない、とは思うものの、どのような芝居観がそこに・・?開幕すると俳優二人がそぞろに出て来て「次はこの演目でーす」と題名を書いた板を無言で示し笑顔で会釈。暗転後芝居が始まる。一つのモデルを確立してる感もあり、日常と微妙に地続きな感覚は、外界と完璧に遮断された空間での芸術性高い芝居とはまた異なる、一つのあり方ぞな、と思わせるものが。(テイストは違うが現代夢現舎にも通じるような。)
画面で覗いた限りの感想だが、年一回のペースでこんな感じでやってまーす、とライフワークなノリと勿論芝居、「気づかねばならんもの」を間違いなくスルーしてる自分を落とし物のように気づかせる静かな佇まいが、あったな。

Voice Training 2025

Voice Training 2025

虚空旅団

北池袋 新生館シアター(東京都)

2025/09/05 (金) ~ 2025/09/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

うむ。納得の二時間。面白いし(ストーリーが)、聴かせる(台詞が)。「トレーニング」とタイトルにあるその意味は実はそのままの意味であるのだが、物語の縦軸にこれを据え、講師として登場する彼女の「物語」も想像させながら、トレーニングが展開する様が美味しく、見所である。
今井上ひさしの文章講座(的読み物)の一節を思い出しているが、「その人にしか書けない言葉というものがある」・・その無二の台詞が、この芝居の中に見出せる。
小劇場エンタメ系の多い関西(と知見もなく言うのも憚られるが)には珍しい、思想性の高い芝居。

ネタバレBOX

「話し方講座」的な10回コースの文化プログラムの講師が、5回を終えた時点で辞退となり、運営する会社に勤める大迫(妹)が、ラジオパーソナリティの経験もあるプロである姉に、ピンチヒッターを頼んだらしく、その初日を迎えている。
講師役はある苦労の種を抱えているらしいのだが(その中身は終盤明かされるが)、その横軸のドラマは脇へ置かれて成立する「講座」の時間がある。姉役がまさにパーソナリティをやっていそうな口跡と滑舌の良さ、耳心地の良い通る声を存分に発揮する。
そして彼女のプロ性はそうした声や「語ること」に繋がる技術に留まらず、四名の受講者それぞれに何かを渡して行く。ネタバレはまたいずれ。
CRIMES OF THE HEART

CRIMES OF THE HEART

サカバンバスピス

シアター風姿花伝(東京都)

2025/08/27 (水) ~ 2025/09/01 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

秀作としてタイトルのみ記憶にあった本作を贅沢に味わえた。思いの他ウェルメイドではあったが、ハッピーエンドを下支えする含蓄が豊かである。ある一件で久々に顔を合わせる事となった、全くタイプの異なる三姉妹が当初は「肉親としての繋がり」を表層では見せながら、やがて諍い多かったであろう往時に舞い戻り、それぞれに過去を乗り越えて現在の紐帯を確認する。自宅で人を待つ主役らしい日下由美演じる長女は、齢三十との台詞に「おいまじ?」と心中呟くも実は目が離せない。物語解釈において年齢は重要だが「老けてると言われる」で一応の正当化。だがこの細やかに見せて来る演技という名の「芸」に当てられている。奔放な次女(名塚佳織)、今回の問題児で甘えん坊(実は芯がある)三女(磯部莉菜子)の関係性の核となる。久々に目にした(serial numberでは暫く見ない)田島亮、憎まれ役の親戚役・上野裕子、良き心根の役が演れると知った佐藤銀平とのアンサンブルも良し。
アメリカ南部の「遅れた」町で、問題の三女ベイブが夫を銃で撃ったとの報が入り、既に保釈の身である彼女を呼び戻す連絡をしたのだが、と従姉に語る長女、そして糸の切れた凧の如く「歌手」として地方を回る次女にも連絡をした、と。あっけらかんとした三女。終盤、微かに彼女が精神的支配を夫から受け、人格を損ない続けていた「監獄としての夫婦関係」の気配がよぎる。徹頭徹尾女という主体から見、語られる女性賛歌であり応援歌だが、共感以外になかった。

ハムレットマシーン

ハムレットマシーン

サブテレニアン

サブテレニアン(東京都)

2025/08/29 (金) ~ 2025/08/31 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「ハムレット」及び「ハムレットマシーン」の連続上演というベタのようで余り見なかった企画、サブテレニアン常連の怪優(と思っている)葉月結子出演の「ハムレット」は残念ながら見逃したが、こちらを観劇。何年か前にとある劇団によるアングラっぽい演出で観たが、こちらはお布団・得地氏によるテキレジ・加筆が特徴的な上演となっている。戯曲本を開くと冒頭十数頁程度の戯曲が載り、他は関連の論考や解説でそれなりに分厚い単行本である。そのテキストが、俳優の「動き」(遊び)が作る場面を意味づけるために割り振られ、また日本の今を切り取ったような場面が加筆されている。単純に面白かったし、元が晦渋な代物を「今」を忍ばせる事で「見やすい」舞台となった。ただし本作が「問い」を観客に投げ続ける作品である事からは逃れられぬ、という事も再認識。
アンディウォーホルのコピー・アートと「何百年、何度も演じ続けられてうんざりのハムレット」というモチーフが似ている、というのは自分の浅薄な連想かも知れぬが、ハイナー・ミュラーはある社会的視点(冷戦時の)をハムレットという存在にこと寄せて提供したものであるらしいので、あまり冗談のレベルで語っちゃならん(一定の社会的視野を帯びておらねばならん)という縛りもあるようで。いずれ「ハムレット・マシーン」が「ハムレット」を解体したように、本作が古典的扱いを受け、解体の俎上に乗せられる日も・・? 等と考えてみた。

月の海 2025(東京)

月の海 2025(東京)

日穏-bion-

テアトルBONBON(東京都)

2025/08/20 (水) ~ 2025/08/31 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

初演を観、映画版を観、地域劇団の上演を観ての今回。色々と思う所あり。良質な作品ではあるが、登場人物を3名に絞り込んだ映画版が自分には鋭く入って来た。芝居では登場しない主人公の母が登場し、献身的に介護を行なう娘(既に妙齢。芝居では幼馴染みとの恋愛の予兆があるが映画ではどうだったか..)との二人暮らしの家に空き巣が入り込み、姿形が亡くなった息子に似た彼を「海難で死亡と思われていた息子が記憶喪失になって帰って来た」と思い込み・・という所から結末までは同じ流れ。ただ人物がリアルに切り取られた映画では主人公が「本人ではないと判っていながら」喜ぶ母のため、そして自分の負担から少しでも逃れるために敢えて「勘違い」するという、生々しい人間心理を浮き上がらせていた。そこがツボでもあった。
此度の舞台版では・・そこは明確にしていない、というか強調されていなかった。芝居ではご近所の八百屋夫婦、介護職であるその息子とその婚約者、ロートルの新人が同じ訪問介護事務所から出入り、幼なじみのケアマネも必要に応じて登場。そして弟の豊に成りすます事となった泥棒の相棒も「記憶喪失後の友人」として登場する。彼らのうち健在時の豊を知る者が、「だいぶ様子が変った」と言いながらも彼の帰還を無邪気に喜び、主人公とその母のために、という気遣いからでなく真っさらに豊の帰還を信じている風。
ところが偽の豊(大木)の過去を知る者が実はおり(この部分でも一つのドラマが描かれる)、主人公を秘かに慕うケアマネが正義感を発揮「お前は誰だ!」と詰め寄り、主人公が「やめて」「この子はうちの豊だ」と主張するが、ついに大木自ら「俺は豊なんかじゃない、大木だ」と激白。「判っていたくせに今更なんだ」・・。この時の主人公は、「元々判っていた」のではなく「事実を突きつけられたが拒絶」と見える。
ドラマ性においては、主人公は自分と母との関係の葛藤から、泥棒であった彼を利用し、救われたという関係が映画版では明白であったのが、芝居ではぼんやりしてしまった・・そこが自分の中では物足りない要素となった。
母が死んだ後、線香を上げに訪ねて来た大木と主人公の二人が舞台正面、花火を見ながらのエンディングとなる。ここで母が一年前に申し込んでいたメッセージ(地域行事であるこの花火は打上げる前に地域ラジオ局からメッセージを流す=多分有料で=アトラクションがある)が流れ、娘への感謝と激励の文面が読まれ、娘が泣き崩れるのだが、私的には、死者との関係性の意味であったり価値というものは生者が解釈するものであり、読まれた文面を「どう解釈するか」さえも主人公に委ねられている。すなわち母からの「感謝」の文言がなかろうと、その思いを「想像」する事ができ、たとえその文言があろうと「別の解釈」も可能なのである。悪感情か好感情かの二分法で分けられない関係が二人の間にはあるはずなのであり、あのラジオで読まれた一件は、娘がそこに「母らしさ」を見出す事においてのみ、名付けるなら「ハッピーエンド」とする事が可能なのだろう、と考える。文言は美しくとも「母らしさ」から遠ざかっていれば、何か別の後味を残すのだろうし、文言が美しくなくたどたどしくとも、彼女が「いかにも母らしい」と感じ、娘へのある感情が見出せるなら、それは自ずから知れるものである、もっと言えば生前からどこかで感づいていても良いものだ。ドラマ的に言えばこれは「どんでん返し」にはなり得ない。
むしろ強調されるのは、エンディングに立つ二人、娘と偽物の豊がその人生の「未来」へと押し出される様であろうと思う。その意味では、足枷となっていた「過去への拘泥」から解き放たれた、あるいは自ら解き放とうとする姿勢を、互いの中に見出した二人が、その背中を押した共通の人物(母)を思い、笑みを交わす・・恐らく今後二度と会う事もないだろう二人の間につかの間通う「普遍的な何か」が、観客の共有できる何か、にもなり得る。そんな「形」が見たかったな、と思う。ちょっと注文が多すぎかもだが・・。
「妙齢」の女性の座る左隣からは後半啜り泣きと涙を拭う動きが目に耳に入って来た。実際に肉親の介護を経験し、身内故の苦悩を味わった人には説明不要なものがそこにあったのかも知れない。

月の爆撃機

月の爆撃機

劇団イン・ノート

駅前劇場(東京都)

2025/08/20 (水) ~ 2025/08/24 (日)公演終了

実演鑑賞

この所公演を着実に重ねている若手劇団、かつ目を引くタイトル、チラシで初観劇に及んだ。(予定が潰れた枠に候補3つから厳選)
彼ら的には大きなテーマに挑戦した舞台であったと判る。一定のテンションを維持し絶えず高い声を上げていた。
千秋楽を終えた役者の一言感想言いタイムでの今回8月公演にてこの作品とこのテーマに向き合い挑戦できた事を今振り返って取り組めて良かった実感、的な発言を聞くに及び、彼らの等身大、スタンダードな舞台からは些か背伸びしたものと推察したが、実際彼らがそう語るのが自然な舞台でもあった。私などからは不要に思える捨ての場面や時間(効いてないギャグ)が終盤の畳み掛けのための助走であったりしたが、結構な長丁場、飛翔し続けるための、あれは彼らのスタンダードという地面、発射台であったか。
二つの相が交互に入れ替わり、一つは20世紀の大戦でのとある戦闘機内(攻撃に赴く途上、上空)、一つはある法則に則り一つの存在を他世界へ送り出す準備をする架空の世界。二つは最後に交差する。命の誕生と終結、その終結が別の命の誕生を用意する継承的関係への願いに幕を閉じる。

月から抜け出したくて

月から抜け出したくて

劇団銅鑼

シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)

2025/08/23 (土) ~ 2025/08/31 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

大西氏が劇団銅鑼に脚本提供した前の作品(クラウンを題材にした)も静かな味わいある一編だったが、両劇団合同と銘打った本公演での本作は体感的に重量があり、噛み応えあり味わい堪えがある。大仰な台詞はない。全てが日常の範囲に、庶民の身の丈の内に留まっているが、「人生」の時間の幅や、意味的な豊かさ・・・それらが「過ちを犯した」後の人生を送る者の「抑制」の静けさと平穏さの中に、逆説的に激しく満ちて来るのを感じさせる。
中庸という言葉が輝きを持って見える時というのは、こういう人生の形を想像する時。
銅鑼とハンバーグ両集団の役者(若手・ベテランを問わず)の持つ原石の輝きも、改めて見出した思いで胸熱である。

ライバルは自分自身ANNEX

ライバルは自分自身ANNEX

宝石のエメラルド座

ザ・スズナリ(東京都)

2025/08/22 (金) ~ 2025/08/31 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

池谷のぶえの出自として知った作り手であり、前知識はナンセンス、不条理という漠としたカテゴライズのみ。笑いの質は?狂気の度合いは?ストーリーはあるのか・・あれこれ楽しみにスズナリへ赴いた。上手側の廊下に通じるドアから段差無しでステージへの花道が据えられているのは初めての風景。上手側奥辺まで若干の傾斜で続き演技エリア。下手にはあと一段高い台状の演技エリア、最奥でこの段差のある両エリアを煮しめたような色の平台風の台を無造作に置いて繋いでいる。両エリアは角材の柱で支えられ、色はオフィスのグレー系で統一、プロセミアムをなぞって飾られた半モザイク風の板にも延長。床は夜の店風に蒼く沈む。テーブル、椅子等の置物だけはアンティーク味を発色。このいい感じの全体バランスと、流れる都会的なインスト音楽の洒脱さで一定のポテンシャルを保証する空気が出来上がっている。
当然、問題は中身である。
・・今度の手術を執刀する池谷のぶえ、患者である息子の母、佐藤真弓のコービーを飲みながらのやり取り。これ以上のネタバレは控えるが、ナンセンスな台詞を挿入しつつも一応の話の決着をみて暗転、もしくは「話は全て聞かせてもらった」と奥から別人が登場するパターンで次の展開。冒頭シーンはそのままストーリーの出発点となり、話が進んで行くタイプと了解。
笑わせのネタ、仕掛けを様々繰り出して来る。芝居の物理的な事情を人物たちが(素の役者に戻りつ、ではなく人物として)承知しているおかしさ、等は今や珍しくないがこの人がもしや原点?(とすればケラ等は随分参考にしている感じだ)と、今まで足を踏み入れなかった博物館の一角でサンプルを発見する感覚も。
諸々興味深く見たと同時に、俳優を試す(別役戯曲も然り)芝居でもあり、俳優を見たという読後感が強い。話は「前へ」進んで行ったが、話が結局どうなったのかを覚えていない(覚えている必要はない)。ただもう一つ何か、今言語化できないが、何かを残して幕を閉じて欲しかった気がする。(それが狙った結果なのであれば、言う事はないが..)

糸洲の壕 (ウッカーガマ)

糸洲の壕 (ウッカーガマ)

風雷紡

座・高円寺1(東京都)

2025/08/16 (土) ~ 2025/08/19 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

風雷紡at座高円寺というだけで特別感。これまで広くてd倉庫、通常は楽園での記憶しかなく、昭和の事件に肉薄する舞台には狭い空間こそ相応しい感じもある。沖縄、ガマと来ればやはり大戦での沖縄戦が題材だろうか・・と推察しながらも新劇系の反戦ドラマは想像できない風雷紡。興味津々で劇場へ訪れた。
座高円寺1の満席状態というのを初めて見た(やや後方の見渡せる席からずらっとカボチャが並んで隙間がない)。ちょっと前の万有引力「奴婢訓」と、だいぶ前何かの公演で当日押しかけて満席と断られた事があったが、客席に座っての満席の光景は、壮観である。
女子挺身隊に駆り出された地元の女学校生と、当地に配属された軍人たち。臨時野戦病院=ガマ(洞窟)での群像が描かれる。鉄の暴風の艦砲射撃を命からがら逃れた先で、軍司令部が戦闘放棄する時点までの沖縄地上戦の期間を、男女一対にそれぞれエピソードを設けながら丁寧に描いている。
後日追記予定。

えがお、かして!

えがお、かして!

四喜坊劇集※台湾の劇団です!日本で公演します※

小劇場B1(東京都)

2025/08/14 (木) ~ 2025/08/17 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

本多劇場グループが継続中の日台演劇交流の一環で、昨年は日本人舞踏家を演出に身体表現を主とした舞台であったが、今作は若い男女各3名計6名によるのっけから歌が奏でられるミュージカル仕立ての舞台。一気に引き込まれる。
煉獄のような場所に者どもが滞留しており、完全に死んでいない状態の者はある一角にとどめ置かれ、完全に死んだ者はオークション(転生先を競り落とす)に参加できる。ここを管理する者(美形女優がコケティッシュに演じる)に導かれて男が一人やってきた。前世に未練全く無し。オークションに早く参加したい・・。透明な囲いが解かれた男が、平場に降り、他の者に交じるとオークション開始。そして歌。「家」を選ぶことで自分が次の転生先が決まるのだが、琴線を揺らすコード進行のキャッチ―な音楽に乗ってそれぞれのこだわり、夢を語り、転生先を決めて行く。全コインをベット!とやると落とせるらしい(転生すればコインは不要なので実質「早い者勝ち」のオークション)。苦痛や失敗、不遇(に終わった人生)からの転生とは、今生において人間が描く夢のメタファーでもある。その構図にドラマ性が既に胚胎しており、一人ひとりと新たな人生へと飛び込んで行く都度(伴奏はずっと鳴っている)歌われる歌に、もう観客の幾人かは涙を拭っている。
・・これは中規模劇場で、簡素な装置で「空間的間合い」の情趣も味わいつつ観るのが「正解」では(小劇場B1は小さい)、とは思いつつも狭さへの違和感はすぐに溶解し、ドラマに入り込んで行った。本作は10年間上演しているという。姉役の女優が当初から参加している人とか。歌は音程が揺れる箇所もあるが気にならず、勘所を押さえて歌の心が十二分に表現され、何よりも演技が的確。秀作である。

ネタバレBOX

日台交流の企画にゴツプロ!(塚原大助)が噛んでいる事は知らなかった。ゴツプロ自体が7、8年前台湾公演を敢行し、今や当地では著名舞台人なのだそう。今回の俳優メンバーの一人が観光で来日時にゴツプロ公演の打上げに参加した思い出等をトークで語っていたが、本多の若旦那の初渡台にも彼らが同道したとの事。今後も大事に続け育んでほしい催しだ。
帰還の虹

帰還の虹

タカハ劇団

座・高円寺1(東京都)

2025/08/07 (木) ~ 2025/08/13 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

以前一度だけ観たタカハ劇団はやはり「戦争」に関わる題材を扱ったタイムリープ物であったが、リアルに難あり(タイムリープそれ自体よりも人間関係や行動の動機等に)。ストレスな観劇であったが、本作では人物の口から自然に出てくる台詞によりリアルが積み上がっていた。
舞台は都心から離れた田畑の広がる郊外に移り住んだ画家・藤澤の家屋。正に戦時中の「当局」を意識する画家たちの姿や、夫を召集された女とその弟ら地元の者たちを通して、時局の肌感覚にある程度迫れており、物語世界に入りドラマを堪能する事ができた。主役の藤澤はフランス帰りの著名画家で戦争画の製作に勤しみ、妻キヨ子のヒスにも悩まされている。藤田嗣治がモデルに違いないが、二人の画家仲間、その一人が連れて来る見込みのある弟子(乞われて書生として住まわせる事になる)、時折アトリエを訪れる軍人により、架空の物語が進行、兵役を逃れている高等遊民の階層特有の空気感がある一方、地元の女性が女中に雇われ(夫は出征中)、その弟も力仕事で出入りし庶民の空気も行き交っている。途中若者同士(女中の弟と書生)の会話がまるで現代日本の都会の一角で(否舞台の上で)聴けそうな会話で、笑わせ所を作っていたが、この部分はじっと過ぎ去るのを耐えた。
幾つかの軸がある。戦争協力をしてでも画家は絵を描くべきと主張する藤澤と、それに耐えられず離脱していく画家内山(吉田亮)、むしろ軍人に取り入るのに汲々とする画家熊本(津村知与支)、その狭間でもう一人の主人公である書生貞本(田中亨)は揺らぐ。彼を揺るがすもう一人が藤澤の妻キヨ子であるが、彼女は「自分だけを書いていたパリ時代の彼」を最も彼らしい姿とし、戦争画を憎んでいる。もう一つは弟孝則に赤紙が来た事で爆発する女中ちづの訴え・・彼は一度出征して手を負傷して銃の引き金も引けない。貴方がたは偉い方たちと懇意にされているのでしょう、そうやって兵役を逃れて自適に暮らしているのに、自分らは暮らしもままならず、召集も二度かけられる。どうか行かないで済むように頼んで下さい。ダメなら貴方が息子の代わりに徴兵されて下さい・・!
そして劇の山場を作る軸・・終盤になるにつれ藤澤が不審な挙動を示し、いつも出掛けてばかりいるが、何度かアトリエを訪れたあの軍人とつるんでいるらしいとの噂。彼が作製中の大判のキャンバスは開幕以来、ずっと布が掛けられたままアトリエの隅に置かれているが、ある夜藤澤は書生の貞本にこれを見せる。それは件の軍人がかつて味わった屈辱的で凄惨な敗北に終ったノモンハン事件で観た光景であり、藤澤は秘密裏にこれを描いていた。すなわち「本当の戦争とは何か・・」のテーマ。公式の歴史から排除されたその事実を刻み、残したい願望をその軍人は抑えられないと語る。これは画家が持つ「絵を描く」本質的な欲求に通じてもいる。
このことは現実には、真実を伏せ美談で釣って若者を戦場に駆り出している構図に連結するが、その罪深さについて語るのは軍人ではなく、「赤」との接触をしていた画家・内山。彼は憲兵からの暴行で腫れあがった顔で、熊本に連れられてアトリエへ逃れて来るが、程なく例の軍人が現われ、逃亡は不可能である事、仲間が全て検挙された事でお前を拷問にかける必要が無くなった事が告げられる。教え子(書生の貞本)に最後の言葉を掛けると、彼は炭鉱へと連れ去られる。
終章、赤紙が届いたことを知らせる母から手紙を書生は受け取り、最後の時を与えられる。ようやく彼は(物資不足で絵具がなく暫く描かなかった)油絵を、僅かに残されたその時に描こうとする。師匠藤澤が依頼され描いていた地獄絵図の大キャンバス(舞台上では額縁のみ。中は繰りぬかれている)に、絵ごてを当て、暗転となる。
ストーリー上回収され切れてないものは幾つかあるが、胸に迫る幾つかのシーンの欠片が残る。

りすん 2025 edition

りすん 2025 edition

ナビロフト

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2025/08/07 (木) ~ 2025/08/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

没後一年。KAATで初めて天野天街ワールドが開陳となる。2025年バージョン、と銘打っている事が希望。「劇的」を追求した天野天街と少年王者錧の仕事を、何らかの形で継承し今後も我々の目を喜ばせてくれるのでは・・と。
この舞台に関しては出演者3名と(少年王者錧を念頭に置くと)異色なので同列の比較は意味がないが、なぞった感はなく、「古さ」が組み込まれている世界ゆえか、ここ暫くの間(あと三十年位は?)古くなる事はないだろう「今」躍動する劇世界に魅入った。

おーい、 救けてくれ!

おーい、 救けてくれ!

鈴木製作所

雑遊(東京都)

2025/07/30 (水) ~ 2025/08/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

1時間弱の芝居。米国のとある州のとある留置所にぶち込まれた男が、「おーい、救けてくれ」と叫んでいる。夜の明り。彼は今なぜ自分がここにいるのか分からない、といった風にも見えるが、ただ人を呼びたい、あるいは逃げ出す契機を掴もうとしてる・・想定は自由な感じである。どうやら鍵をかけて警官(看守?)は帰宅。誰もいないかと思いきや、予想外にも女の声が、それに答える。壁の向こうにいるのか・・。見えない相手との会話が始まり、窓から漏れる月明かりの下、男は相手をきっと素敵な人だ、と言い、女は恥かしそうに応答する。君を一目見たい、と思いが高ぶる男。でも、と臆する女。その応答が暫く続いた後、通路から本当に女が姿を現わす。
この二人がメイン・キャストで、組み合わせが数組ある。この日は男が川口龍(この名を知っていたので観に行ったというのもある)。途中数人の不良連中が登場するが、配役名としては出ていない。
さて、実は世話係の女が残り仕事で帰りそびれていたのであったが、女の全身姿を見た男は一瞬固まり、言葉を失う。が、すぐさま「素敵だ」と言う。リップサービスなのか本心(実は小太りが好み)なのか不明。話をしようと男は持ちかける。女は次第に男に気を許し、先走って行く(リレー競争で追い抜いて行くあの感じね)。完全に台上に乗り切った女を見て男は一瞬目が淀む。利用してやろうという目だ。
だがその後、男は女に「ここを出て、サンフランシスコへ行こう」と言う。女は今の家庭の状況であれば、未練はない、と思い切る。サンフランシスコへ・・が、二人の合言葉となる。牢屋を出ない事にはどうにもならないのだが、なお男は女にそれを言い含める所にドラマの不思議がある。男は何を目論んでいるのか、あるいは男の中で何が生じているのか・・・。
出奔の準備のため女が一旦帰宅した後、静寂の中に車のタイヤ音が響く。どうやら男はある男の女房を寝取り、夫と悶着の末、相手を伸したため監獄に入れられたらしいと分かる。今日その日のことだ。
その夫婦と仲間らしい男二人がどやどやと、ケリをつけにやって来る。
実は男はその浮気女に迫られたのであり、状況が危ういと悟った女は現場を出て大声を出した、という顛末だったのだが、檻の格子を挟んだ険悪なやり取りの後、夫以外の者が外へ出て、一対一で話す事となる。相手は自分の妻が実はそうした事を悟っている。だが体面上許す事はできない、という。本心を明かす夫に、男は「少し勇気を持てばいい」と相手の良心に訴える。が、形成を変えるに至らず、再びどやどやと入って来た男たちの手で、男は殺される。
虫の息で床に腰かける男のもとへ、女が戻って来る。
男は女に告げる。先に行っててくれ。後から俺も行く。サンフランシスコだ・・。
その後の流れがどうだったか、女の目の前で男が息絶えたのか、女が疑う事なく牢屋を後にした後、また戻って来て気づくのか・・女はその場で佇み、小さく「おーーーい」と言う。
出会って数時間で別れが訪れた男女の物語。恋愛の本質を抉ってもおり、普遍性がある。胸に植え付けられた疼きを撫でつつ、帰路につく。

水星とレトログラード

水星とレトログラード

劇団道学先生

ザ・スズナリ(東京都)

2025/08/02 (土) ~ 2025/08/11 (月)公演終了

実演鑑賞

大人の風格?を見せた先般のOFFOFFでの4人芝居から、保坂萌女史の「らしい」着想が出たと思ったのが、「お婆さんとタイムリープ」。自分の口でこれを言ったら「認知症」が連想され、見事な親和性である。SFなのかリアリズムなのか、という二つのシーソーはリアリズムによる解明へと流れる所、不思議寄りの現象やダンスシーン等の舞台効果により五感に働きかけて左右に揺らし、中々の長丁場を乗り切ってフィナーレへ見事に着地させていた。
SFは設定が命、と幾度となく書いたが、本作の弱点は「一人がループしている」事であり、やがてそれは「一人だけループを自覚している」との説明で切り抜けるも、お婆さん(かんのひとみ)はリープのループ(水曜に始まって火曜の夜に終わる)を自覚するがゆえに自分は様々な対応をしており、一日に起きる幾つかの出来事さえ繰り返せばループしている事になっているというどこかいい加減な現象だ(だがいい加減だな、と思わせてもいけない)。そしてお婆さんがそろそろ抜け出したいと考え出す事から、身内のまず孫に「あたしはタイムリープしてる」と告げる。これをきっかけに母の面倒誰が見るか問題、息子家族や娘家族が抱える問題が炙り出され、一方お気楽なお向かいさん(田中真弓)夫婦と、孫の先輩、もう一人の孫娘の親友という存在が第三者として飄々と介入する。そして孫たち若者らがお婆さんをリープからの脱出を自らの使命とし、動き始める。つまり、何度も繰り返された時間(お婆さんは同じ一週間を51回繰り返して来たと言うが、後で分かった事にはその自覚以前から500回も繰り返していた)の、最後の一回となる一週間を描いたお話、という事になる。
(続く)

不可能の限りにおいて

不可能の限りにおいて

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2025/08/08 (金) ~ 2025/08/11 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

生田みゆき演出による海外戯曲リーディング、という所で「観る」つもりでいたのがふと気づくと既に公演期日。泡を食って予定を組み、幸い観る事ができた(webからの購入を一度やり直したら次は完売。当日立見席で観た)。
どこにその匂いを嗅いだかこの公演じっくりと取り組んだ舞台製作であるよりは、急ぎ上演に漕ぎ着けた感があり、その予感(?実際の所は分からないが)に違わぬ内容であった。即ち「人道支援」の仕事に取り組む人たちへのインタビュー(聞き取り)、今現在待ったなしの状況がパレスチナという土地で進行している事への焦燥が、その印象に繋がっただけ(単なる主観)かも知れないが・・私にはこの観劇体験は必要であった、と振り返っている。

俳優はずらり14名、A、Bの2チームだが裏チームの者も「証言」以外の会話や小芝居の補佐として立ち回るので、全員の姿を見、声を聞く事ができる。
一等最初、前説的な挨拶が終ると、インタビュー「される側」の会話が始まり、そこから最後まで彼らの証言だけで貫徹される(客観視する存在のナレーション等はない)。彼らは目の前にいる(だろう)俳優や関係者=演劇製作のためのインタビューに訪れた者たちに向かって語る。彼らを迎え入れる時の会話・・「私は演劇が苦手。退屈しか感じたことがない」「俳優さんとこんな体験ができるなんて考えもしなかった」「あなた、あなたに私を演じてほしいな。私は穏やかな人間。そして貴方は穏やかな顔をしているから」等々。そして徐に証言が始まり、彼ら「人道支援」を仕事にする者たちが一人ずつ立ち替わり喋ることとなる。

まずはこの演出の見事さ、に触れるのであるが、彼らの証言はほぼ全て、彼らの「訪問先」で体験した事だ。彼らはその地域の事を「不可能」と言う。本テキスト中、演劇的飛躍のある唯一の約束事。自分が住む国は「可能」であり、「可能から不可能へ入る」「不可能の言葉は分からない」といった使い方をする。不可能=紛争地のことだ。
台本を置くための譜面台を前に、最初は一列にずらり並んでのリレー・トークが収束すると、中央に一つ譜面台を残して少し後ろに椅子が横一列、俳優はそこに控え、一人ずつ中央に立って証言するフォーメイションとなる。
言葉が耳から頭へとすうっと入って来る。一番手の話から、情景が眼前に浮かび上る。一つ目は彼らの組織の旗が爆撃後の静かな町の一角にはためいているのを見た職員は、そこにいる二人の男が路上に横たわる遺体を一体一体収まりの良い場所へ移動しているのを見る。仲間であれば自分らの職務が今最も医療を必要としている負傷した人達の元に駆けつけ、処置を施すこと・・にもかかわらず彼らは、手を掛けても甦る事のない遺体を黙って運んでいる。彼らに話しかけると、「手伝ってもらえますか」と言う。語り手はその後、自分の勘違いに気づく。彼らはそこに住む人々であり、彼らはその旗を「それがはためいている時だけは誰からも攻撃されない」お守りとして用いていたのだった。彼は自分たちの組織のシンボルが、その組織のことを何も知らない紛争地の人たちのものとなっている事に感銘を受けた事を語る。証言集の幕開きである。
場内はその後、笑わせシーン以外は物音一つ立たず、張り詰めていた。
様々なシチュエーションに遭遇した彼らの様々な証言が続く。
フォーメーションは幾度となく変る。一人中央に立っての証言(後ろに横一列ずらり)はやがて、ランダムに中央へ向いた椅子の置き方となり、ある男が自分の失敗を語る。話者はしばしば女性の証言を男優が、男性の証言を女優が担う。
ある女性は自分の血の輸血で救ったあるサッカー少年の、後日談を含めて語る。そこでは少年を表わす人形が登場し(人形が中央やや左のテーブルの上、話者は中央やや右寄りに立つ)、パペットシアターに。その少年のお陰で間一髪危機を逃れた後日談は木々の生い茂る中を車で進む様を、左右両の照明の前に木の枝(葉っぱ付き)を左右交互に「近づけて外す」とやってその影で道行きを表わす影絵の手法。
やがて舞台上には何も無くなり、シチュエーションを複数で演じたり、照明だけでキャンプファイアを囲む様子に見せたり・・。その夜はギター弾き(メンバーの一人)も居て、話者が歌う「不可能」の人たちの不可能の言葉で綴られた歌声に聞き入る。彼らは他の者の証言に、常に耳を傾けている。その情景も観客の目が捉える所となる。
逸話のバリエーションに見合うだけの趣向を凝らした演出に、リーディングである事も忘れるが、人の語りというものが様々な場や状況、気分によっても言葉のトーンが変って来ることを考えれば、ごく自然なあり方だ。
台本を持ち、台本に目も落としているのに「読んでいる」ニュアンスが排除されている。語っている臨場感をキープし続ける所が俳優たちの力量を思わせる所であった。
しかし何より、テキストが夏の昼に水を飲むように耳に、脳に入って来る。翻訳の藤井慎太郎は(先日観た)世田谷パブリック「みんな鳥になって」を始め過去上演したムワワド作品を翻訳してきた人だが、今改めて翻訳が持つ力というものを考え始めている。

特記する事でもないが、終演後拍手は鳴り止まず、4コールまで続いたのだが、それが不自然でない舞台ではあった。娯楽とは何か、と考えずにおれない。

『残響』

『残響』

白狐舎、下北澤姉妹社、演劇実験室∴紅王国

シアター711(東京都)

2025/08/06 (水) ~ 2025/08/12 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

下北澤姉妹社、そして出演陣を瞥めて観劇に至ったが、紅王国/白狐舎(前者主宰の故中野氏が企画し、後者主宰の三井氏が脚本執筆)については前に一度両者が作品を持ち寄った合同公演を観ていたというのもあった。昭和史の事件を自分らに重なる「人」の視線で、「人」のドラマとして描いていた記憶であるが、今作は安倍元首相銃撃事件が題材。両団体の正体は知らねども縁あって観劇に至る。良質な舞台であった。
事件の加害者となるらしい人物の属性として仄めかされる「宗教」との関わり(被害)は、決して特殊な事例ではなく、同じアパートに住むカップルや年金で暮らす管理人夫婦ら庶民らも、不遇からの救済を望むゆえにそうした「被害」と地続きである事もいつしか見えている。「信じたい心」「弱さ」を持つ彼らに作者はその報いとしての悲劇を味わわせるわけではないが、相応の結末は到来する。
だが、劇の終盤、ささやかな人生を営もうとする彼らが小さな命を育むあるささやかな営みにおいて、初夏のある日、心和むひとときを共有する。
この感動の所以は、作者が銃撃事件を起こした人物を決して特殊なケースとして炙り出す事をせず徹頭徹尾、同じ時代を生きる人間集団=社会の中から必然的に生まれた「現象」として描いた事にある、と思う。

パチパチ

パチパチ

シリコン

「劇」小劇場(東京都)

2025/07/29 (火) ~ 2025/08/03 (日)公演終了

実演鑑賞

懐かしクロムモリブで目にした俳優名だけを頼りに、フラッと観に行った。
パチンコ屋のバックヤードでの会話、人物の絡み方、展開に目が離せず中盤まではマナコ爛々わくわくと高まっていたが、惜しかったな。人間のサンプルを取り揃えたような状況が、場所がパチンコ屋だと「普通」に見える不思議=リアルを小気味よく眺めていた所、人間の病的特徴、行動を担わせるべき人物の選択をミスってるような?
描きたいのは群像であり、長く勤めた「今日で退職する」女性スタッフの目に、最後にはそこで過ごした時間が蘇る。都会の掃き溜めのような吹けば飛んでしまう存在たちへの作者なりの温かな眼差しが作品の背景にあるのは確かなのだが。。
パチンコ屋の事情を知らなければ書けないディテイルとその狭間に発火するドラマが、真正面から描いているタッチを、あと半寸ズラして「何ちゃって」感を込めても良かったかも(適切な距離感が保てたかも)・・と。

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