公演情報
劇団俳優座「存在証明」の観てきた!クチコミとコメント
実演鑑賞
満足度★★★★★
“数学物”には惹かれるものがある。先般ラビット番長が将棋物でAI(書いた当時は人工頭脳あるいはコンピュータと呼称していたか)との対決を織り込んで人情劇にしていたが、将棋やチェスはまだ「勝負」がある。数学は(純粋数学、という言葉があるらしい・・本作ではこの語句が重要ワードに)純粋に「数に関する法則」をただ見出そうとする営みで、結果その理論が実用に資するとしてもそれは二の次、法則性という「美」を彼らは追い求めて行く。前世紀前半(戦前)と1970年代現在を舞台に長田育恵女史は数理に一定程度踏み込んで作劇をした。
素数が現れる現れ方に法則性がある、との予想(数学の世界ではある定理の存在を一定の根拠を示して提示し=「予想」、それを何世紀にもわたって「証明」しようとする数学者のドラマがある)を証明しようとした数学者の生きた時代と、その子の世代のドラマは前者が主に男性が、後者は主に女性が担うが、その対照にも含意がある。
ドイツの暗号を解読したチューリングも登場するに及び、総花的な感もあって(他の方が述べていたように)「詰め込み過ぎ」と言われれば確かに。ではあるが、数理に踏み込んでドラマを描いた意味で長田女史の記念すべき仕事と言えるのではないか。(過去フェルマーの定理を題材にしたちょっとしたお話をユニークポイントが上演し、近年ではチューリングを扱った海外作品もあったが「人間・チューリング」を「暴く」といった趣き。「数」に捕われた者たちの棲む、ある種異界に踏み込んでの作劇は私は超難関に思えていたので感服しきりである。)