公演情報
遊戯空間「山吹」の観てきた!クチコミとコメント
実演鑑賞
遊戯空間の「妖話会」は二度目。リーディングを彩る「場」の選定(前は確かプロトシアター)、ストライプスペースは以前オフィス再生「正義の人々」で訪れ(その時出演の加藤翠が勧めたもの哉)、三年振りに六本木駅から坂を下った。
さて「山吹」、一年以内に読んでいるのだが、鏡花流の耽美な小品で「舞台化」を思い描きながら(ある人が本作の上演を目論んでいると耳にしたので)読んで興味深かった。が「興味深かった」記憶のみで他の収録作品と判別つかず、会場で確かめる事に。
リーディングであった事を開演して合点し、脳のスイッチを慌てて切り替えるも疲労の身がこれに堪え得るか一抹の不安。予感通り、開幕後暫く状況が把握されず時々意識が飛んだ。
だが和楽器の設楽瞬山、篠本氏(人形使い)、加藤翠(小糸川子爵夫人)の妖気立上る演技、中村ひろみ(その他の役、ト書)の語りが濃密空間を作り、話の抜き差しならなさとこれを包む心地良さの角突き合わせに身を任せる。そして朧げな記憶がぼんやり蘇り、終幕を前に一気に鮮明になった。
元料亭の娘で華族に嫁いだ縫子が、身分を隠しつつ修善寺を訪れている事実、その理由が詳らかにされるよりは、ただ夫人の宙吊りにされた心の「昇華」を切望する心身状態が、たまたま遭遇した裏通りの店に飲んだくれていた辺栗という人形遣いに受け止められ、当てのない旅へ出る、という事の中から浮かび上がらせている。一方の自棄飲みの辺栗も、かつえた魂の昇華を淫靡な方法で遂げるのに夫人の手を借り(という場面があったが原作にあったかは思い出せず)、殆どあり得ないカップルの道行きが、夫人の強い意志に引き摺られるようにして始まる、というものであった、と思う。強風の吹き荒ぶ荒野へ何も持たず拠り所もなくただ二人が互いを支え合う信頼のみを頼みに、歩を踏み出す姿が、鮮烈であった事を最後に思い出したものであった。
世のままならなさ、個人の夢も国家の理想も、私利私欲と小賢しい計略、右へ倣えの非主体と裏切りによって穢され、魂の擁護のためには死か飢えか苦痛の道を行くしかない選択の局面が誰がしも、遠くない場所に潜んでいるのではないか。
この物語は修善寺を訪れた画家の目によって捉えられ、描写されている。画家が目撃した奇異な光景を、追体験する。画家という人物の感覚というフィルターを通す事により、より幻想的な趣きが加わる。画家はただ見たものを紹介しているが、この事件の本質は観客の想像に委ねられている。