tottoryの観てきた!クチコミ一覧

1-20件 / 1890件中
煙に巻かれて百舌鳥の早贄

煙に巻かれて百舌鳥の早贄

劇団肋骨蜜柑同好会

中野スタジオあくとれ(東京都)

2025/03/26 (水) ~ 2025/03/30 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★★

数年以上ぶり確か3度目の肋骨蜜柑を映像で鑑賞。知的世界の曼陀羅を描写せんとするかの言語遊戯という印象が、久々に観た今作ではまるで人間ドラマであった事にまずもって驚き、好感。肋骨蜜柑らしさの片鱗は終幕あたりに見られたが。。何か思いついたらまた追記するつもり。
(映像鑑賞ではあるが画面のフレームを忘れさせた芝居にはこの星数を。)

嵐 THE TEMPEST

嵐 THE TEMPEST

俳優座劇場

俳優座劇場(東京都)

2025/04/10 (木) ~ 2025/04/19 (土)上演中

実演鑑賞

満足度★★★★

「テンペスト」の初観劇は確か新国立劇場主催、白井晃演出で。段ボール箱とそれを運ぶ台を活用して、中劇場の奥行き深いスペースが物流倉庫に見えたのだが、だから何だという感を否めなかった(著名な戯曲をこんな風に遊んでみた、というビッグネームありきの遊び)。王を演じたのが確か古谷一行。その後この演目には大きな関心を持たず、恐らく今回が二度目である。が、終盤に近づくにつれて勝手知ったる演目かのように再現感覚に見舞われた。この物語が持つ力でもあろうし舞台の構成力かも知れないが、伸びきった膜が突如収縮するように伏線回収に掛かるよう。口跡に難ありの主役(王)のカクシャク老人振りが終盤ピッタリに見えてくる。「こんな世の中に(生まれて来るなんて)」という台詞が最近観たTOKYOハンバーグ「目を向けて、背を向ける」にあったが、「今は不幸な時代」を前提で語られても何ら違和感のない時代認識を、この舞台に当てはめれば、「にも関わらず」私は敢えて許し、和解を望むという王の言葉が格段の意味を帯びる。(当然ながらキリスト教の言う人間のあらゆる罪にもかかわらず、神はイエスの犠牲を通じて人間に赦し=救いを賜ったとのモチーフに通じる。因果応報目には目を、罰する事を通じて道理を思い知らせる意思こそ正しいと言われる今、甘いと言われようが許す、と言う。その見返りは?「争いの種を残さない」ため・・どこかに利己的な動機がなければ信用できない、とは下衆の料簡であるが、そうでない愛の存在を死をもって証そうとしたイエスの磔刑から、利他的な動機はあり得ると、どこかで信じてはいながら大方パフォーマンスで偽善だと思ってしまう我らである。が・・王は自らが島に幽閉された後に得た魔法を失ったものの一矢報いた身で、またミラノ王に返り咲く身で、「許す」態度は可能なのであって・・と考え始めるとワヤである。如何に「許す」ことは難しく「和解」は言う程簡単ではないかを見せつけられている時代に「敢えて許す」「和解のために」と人々が言えるのだとしたら、いや一人の王が為したその決断を支持できる民であったなら。

この演目は俳優座劇場で一度も掛からなかった演目だと言い、「やった事のない」優れた作品がもっと他にあったのか、見出すのに苦労するような案配だったのかは分からないが、劇場の最後を飾るに相応しいメッセージが、というか最後の公演の舞台で俳優の口から出るにそぐわしい台詞が、含まれた演目として「テンペスト」は選ばれたと感じた次第である。
役者は新劇系の幾つかの劇団の俳優が集められ、新劇色の傾きを感じなくもなかったが、「テンペスト」がこれほど鮮やかに自分に入って来るとは予想しなかった。

これが戦争だ

これが戦争だ

合同会社EVIDENT PROMOTION

シアター711(東京都)

2025/04/09 (水) ~ 2025/04/13 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

女流劇作家モスコヴィッチの本作は「紛争地域から生まれた演劇」リーディングで数年前取り上げられ(自分は未見)、今この時に観ておくべき演目か・・と、どうにか時間を作って観た。
2チームある内今見てみたい座組のAチームが観られた。
「これが戦争だ」と呼ぶに相応しい、戦場を舞台にした劇(正確には帰国した兵士の証言で構成)だが、具体的には2001年9・11後のタリバン政権を制圧にかかった米軍によるアフガン戦争を題材にしている。
とある部隊の4名が登場人物で、帰国後、ある作戦実行に携わった事の証言が聴き出されている。
他国の「体制」を否認し、介入した一方的な戦争である点でイラク戦争に通じ、そのように見ても違和感はないが、芝居の中でそうした「戦争の意義への疑問」が言語または態度で語られる事はない。むしろ国家の大義への信頼、忠誠、部下への責任感といった諸々を動員して「任務」へと自らを駆り立てている彼らが、厳しい現実に直面する。戦闘における仲間の死、自らの負傷もそうだが、作戦実行前夜の緊張ゆえの歪んだ行動、あるいは無防備に近づいて来る敵側の子どもに銃口を向ける自分、そうした場面に直面し、苦悩し、耐える、あるいは耐えきれず何らかの歪みが行動に出る。
本作の作者は自分の初名取事務所観劇であった「ベルリンの東」の作者であった。確か戦争犯罪(第二次大戦における)にまつわる戦後の話であったような。太い筆致の作家である。

ネタバレBOX

同日に観た別公演がまた重厚で得がたい観劇体験だった(本サイトに無いので触れると・・)。犬猫会によるリーディングで再々演という「死と乙女」。後藤浩明氏のピアノ演奏(楽器や機械を使って音響も)付き。彼と朗読者3名は固定メンバー。ドルフマンの本作は南米チリの独裁政権下の惨劇(数知れない「行方不明者」がいる)が題材となっており、独裁が終った後なお傷を残す社会の断面を3人の登場人物に凝縮させて描き出す。タイトルは知られた作品だが初めて観た。
一般人が見学できる邸宅(だが私邸である)での上演という事で、広報範囲を限定しているものと推測。
何度となく優れたリーディング公演に触れ、読書もそうだが芝居も読み手・観客の想像力を駆使させ、観客によって完成する芸術である事。そのことによりチリでの事象が私たちの生活、時代に通じるものとなる。
目を向けて、背を向ける。

目を向けて、背を向ける。

TOKYOハンバーグ

「劇」小劇場(東京都)

2025/04/06 (日) ~ 2025/04/13 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「劇」小劇場の特徴(空間的な収まりに影響)が意識される観劇であったが、思い起こしてみれば数年前の名取事務所の果敢な作品もステージの扁平さにもどかしさを覚えたものだった。美的な好みで言えば表と闇との境界が明瞭でなくグラデーションであるのが良く、奥行の無い舞台ではそれが難しい・・まあそれだけの話ではあるが。
久々に大人数(適度な人数とも)で賑々しいハンバーグ芝居の舞台はお爺お婆の集う場所。独居の淋しい老後でない「最後の友達」と過ごす場所には一つ特殊な事情が秘められている。のだが、この特殊な事情は、描かれる日常風景の中に溶け込んでおり、ある意味で「理想の体現」が為されている、と見えている(それが平均的な見え方かどうかは分からないが)。その心は、中盤に一人の老人が若いスタッフに吐露する持論の中に凝縮され、静かに胸を打つ。そしてこれは現日本への静かなプロテストでもある。
キャラクターを生かした役人物たち(ご老人達)の競演が楽しい。

なんかの味

なんかの味

ムシラセ

OFF OFFシアター(東京都)

2025/04/02 (水) ~ 2025/04/09 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

敢えて自分が書くまでもない出来であるからして他の方々にコメントはお任せ・・な気になるだけの「出来」であったという訳で。
今観たい芝居全て観劇できるとしたら本多劇場グループほぼ全館に日々通う事になるこの1、2週間のラインナップだったが、迷って選りすぐって一週の内に3日の下北沢訪問。その2日目は先日観た同じ建物の(左でなく)右の方。
ムシラセ・保坂女史の実リキを体感。出演が言わずと知れた実力派4名(内1名は若手だが先日のコクーン公演とまるで違う人物像を演じて堂々たるもの)というのも大きいのだが、脚本の巧さに今回は当てられた。
家の中でない場所で父娘の会話が始まっている。何故こんな場所?と訝る時間も与えず穏やかならぬ会話、親子の様子。そこへその場所を管理する者(要はスナックのママ)が登場し、さらに部外者のような若い風変わりな女子がバイトと紹介され、黙ってそこに居る奇妙さも先程から解決の見えない父娘の対話に背景化し・・。
こうした展開全てに理由があり、ある事を後の展開で謎解いて行くその途上に、(平田オリザ流に言えば)後出しジャンケン的な情報の持ち込みもあるが、これが後に必然化される。大きな事実が一つずつ、ある者の前で他の者によって、また別の者の前で他の者によって、解かれて行く。解かれた事実は一瞬にして観客の納得を得ている。
そして冒頭から見えていた(と思っていた)よくある風景が、最後には別物(実はここにしかなかった風景)に見えている。
観客が「あれ?」程度に判別できる小さな違和感の差し入れ方がまた巧い。

ネタバレBOX

唸った筆頭は、久々に目にした橘花梨の役の貫徹振り。そして娘さえ「そこまでは読めなかった」事実が、観客の目に明らかになった時、変わらぬ風情がまるで別物と見えてくる有馬自由。同じく、得意の関西弁で「大阪のおばはん」キャラ全開なのが観客サービスでも穴埋めでも無かった、と分かる瞬間に愛らしさを湛える松永玲子。これも出会い頭からの不躾キャラが百八十度違う意味を醸している(この謎解きが本ドラマの最大の胸打つポイントだな)中野亜美。
片親欠落の境遇からの今、という事で言うと、貧困と無縁でない。それ以上に親子関係での理想の「濃度」を保てなかったゆえのこじれは、片親であるかどうかとは実は無関係だがそれはともかく・・関係のこじれ具合は様々な「今」に帰結するもので、もっと陰惨で深刻なケースがあるだろう。
だが橘演じる女性の行動線と最後に見せる毅然とある事を拒否する態度はシビアな今に通じ、ある種の頼もしさを覚える。人間関係図が、あり得る一つのあり方としてよく考えられ、整合性があり、その理由を述べてみたくなる。恐らくああだったからこうなったのだろうし、こういう事もあったろうからああもなったんだろう、とか、色々・・。
「なんかの味」の意味が最後には分かるのだが、「結局は食べ物だよな~」、の一例ではあるものの、作者が施した娘の過去エピソード(祖母に預けられた期間の「味」の記憶)が特殊でありながら「さもありなん」と思え、味にまつわる話題は確かに「誰しもが持つ固有の何か」であるな、と(貧乏人も金持ちも誰しも平等に(否むしろ貧乏人に)それがある)。
ラスト、その誰しも持つ固有(大の大人なら知ってておかしくなかった素朴な事実)が、また一つ本人の発見する所となるが、「おいしい」と一言呟いてカットアウトの終幕寸前の一瞬の表情に、頑なな意思と化した娘の中にふと「透き間」が生じたようにも見える。その空隙に、今拒絶しようとした相手がチョンと入り込んで「こんにちは」と言っても不自然でない余地が、あったりするような、ないような・・。
音楽劇 まなこ

音楽劇 まなこ

HANA'S MELANCHOLY

上野ストアハウス(東京都)

2025/04/02 (水) ~ 2025/04/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

翻訳家としての作演出者の名を知るのみでしかも冠に「音楽劇」とは、想像の埒外。一川華が「自ら書いた」作品世界への興味で、観劇に赴いた。
今この時この作品の上演へと、作者を駆り立てた背景が伝わり、メタ構造の多用と「説明し過ぎなさ」により中々抽象的な舞台だが、切実な何かを伝えている。主人公であるライターとその作品世界が交錯し、幾つかの登場人物群がメタファーを背負って現れるが、作品内か外か、あるいは敢えて指定せずか、見ながら追いつかない部分も。
主人公は編集者とやり取りするので書いてるのは小説かと思われたが、作品は映像ドラマの撮影シーンとして出現するのでドラマのシナリオか、あるいは「仮にドラマ化したら」の架空の撮影シーンか。作者は演じる役者を通して「作品の主人公」と会話を交わすので、架空の(脳内の)シーンの設定かも知れない。
(この作品の)作者によれば、創作のきっかけは5年前に遡ると言う。ビビッドな題材に取り組み、その中である問題提起が為される。ただ演出によってはもっとラディカルな問い掛けになり得た所、抽象性に紛れた感がなくもない。

ネタバレBOX

冒頭、ペンを持って机に向かう主人公が歌い始め、周囲から返しのコーラス。何気にうまく、のっけから「そうだ音楽劇だった」と居住いを正す事に。
(劇中俳優が「歌う」要素は人物表現が優位である事から歌唱力に難がある事もままあるが(それでも芝居は壊れない)、本作はその限りにあらず。)
主人公の女性作家以外のコロス的存在は、彼女を惑わし、迷う彼女の手を引き、観察させたり、突き上げたりを経て、ある場所に辿り着くまで同伴するが、彼女とそれ以外の対照がもっとうんと鮮明でありたい気分がある。と思い出せば、主人公以外の者の顔には雑物が描き込まれていた。工夫の跡であったか、と今更に気づく。これを端緒に、考えが巡って来たのだが、今自分の瞼に浮かぶ「コロスと主人公の望ましい形」には相当な技術と複雑な演技構成力を要求しそうである。が、作品に確かに漂う作者の想念を、圧倒的な美の中に捉えたいという欲求は芸術そして演劇に対する正当な欲望である。。と自己正当化しておこう。
或る、かぎり

或る、かぎり

HIGHcolors

駅前劇場(東京都)

2025/04/02 (水) ~ 2025/04/06 (日)公演終了

実演鑑賞

深井邦彦が描き下ろした芝居を何本か観て、深層で感じていたものが少し形を成すのを感じた観劇。面白い。
家族の物語。小さな会社の職場も兼ねた宅なので従業員も出入りするが、半ば家族の(セミ・ドメスティック?)成員として存在し、また家を出た兄弟、その一人は間もなく家庭を持とうとしていたり、入院中の母に代って家事手伝いに通う従姉妹など小宇宙の程よい広がり。そこへ完全なる他者も現われるが・・。
この劇では「変わらねばならぬ」課題がのっけから鎮座し、乗り越えがたいハードルとそれでも刻まれて行く日常とのバランスが絶妙である。
家庭劇や日常劇、リアルなストレートプレイの範疇でも深井作品には何か守られている原則がありそうに感じたのだが、マニアックな考察はまた後日。
どの役もきちんと描かれ、形象され、こういう芝居では俳優ごと愛着が生まれるが、例に漏れず。

解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話

解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話

1999会

スタジオ「HIKARI」(神奈川県)

2025/01/23 (木) ~ 2025/01/25 (土)公演終了

映像鑑賞

以前確かトラムかどこかでこの込み入ったタイトルの舞台を観たのが趣向・オノマリコ発見の時で、横浜から期待の新人が出た、的な紹介のされ方をしていた記憶だが、ここ最近は受付での立ち姿も見ているので最早中堅、貫禄の部類である。
今回は映像なので簡単に比較できないが、以前観たバージョンの演出は動きの多い処理をしており、忙しなかった印象。台詞が入って来ない難点があったが、今回のは台詞を吐く人物の人格、性格、気分の醸し出しを重視した作りで、思春期~十代の少女たちの苦く痛い哲学的青春群像劇のエッセンスがよく分かった。学校という社会の縮図の側面と、社会から隔絶されたサンクチュアリのイメージとがある。全員が白をまとい、後者の世界。
映像は多分まだ視られるのでは。

電磁装甲兵ルルルルルルル’25

電磁装甲兵ルルルルルルル’25

あひるなんちゃら

駅前劇場(東京都)

2025/03/13 (木) ~ 2025/03/16 (日)公演終了

映像鑑賞

何気にレベル高い出演陣の駄弁芝居(かつてそう自称。今も?)劇団を、以前確か生で観た後は配信で二度程観た程度。何観たっけ・・とタイトルを調べて行くが覚えのある題名がない、ない・・と、やっと見つけたのが「ピッピピがいた宇宙」(2014年)なんと11年前。その後何かは映像で観たのだが、前作の「醤油」なんちゃらだったか、数年前にも観てるはずだが覚えていない。定食屋っぽい場所でうだうだやってる記憶のみ。
一個「へー」と思うのが劇団に書き下ろされた?楽曲。ポップでキャッチー。それは今作の要所で使われる音楽にも言えて、脚本もドラマ性の高い要素に踏み出してる。すなわち「駄弁ですんで、へえ。」でスルーできない領域に、踏み込んでみている。ちょっと感動すっとこもあるでしょ?と。
「すっきだね~~~。ロボットが」と同僚に揶揄される根津が、ロボット操縦士となる(非現実的な)夢を果して叶えるのか・・!?と映画予告編なら投げかけ、観客はそれを踏まえて観た方がより飲み込みやすいかも・・そんな感じの脱力系芝居。杉木氏が良い味を出しておる。
とは言え

ガラスの動物園

ガラスの動物園

滋企画

すみだパークシアター倉(東京都)

2025/03/26 (水) ~ 2025/03/31 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

滋企画第3弾は演目がこれ、ただし演出がヌトミック額田大志氏(音楽兼ねる)という事で(音楽はともかく)主宰が何を狙って?起用したのか興味津々、はっきり言えば自作を自己流に制約なく遊んでる印象の額田氏に既存戯曲しかも20世紀のその後の演劇の画期となる作品の一つを、どう任せるのか。かなりの未知数だったが本ユニットへの盲目的な信奉とタイトルで「今週の一押し」と劇場を訪ねた。
「ガラスの動物園」は数年前まで全く未見だったのだが、イザベル・ユペール出演の仏製舞台と、渡辺えり演出と舞台と中々贅沢な座組を観ての三度目。一度目のは字幕を追っての観劇ゆえ細部に目が届かないためか、意外にオーソドックスな印象、二度目のは音楽の生演奏が入った趣向性の高い演出、そして今回は・・・たっぷり2時間45分、手の痛くなる拍手を送る内容であった。拍手はなぜするのだろう。どこから始まった文化だろう・・とふと考える。称賛を伝える目的で「音を出す」表現であるから、手のみならず(オーケストラがよくやるように)足でどんどんやるのも良いだろうし、指笛や掛け声もある。だから何だという話だが、拍手をした事をもって何かを証明する事にはならない事は「判っている」とやんわり釈明した以上の事ではなかった(失敬)。
音楽が命のクリエイターによる演出では、音楽が非常に控えめに感じられたのは良かった。劇伴に徹した作りは国広和毅氏ばりの「目立たない」が「芝居に寄り添った」もので、氏の演出共々見直した次第。
佐藤滋氏がまず登場して観客に語る。マジックを披露・・そうだった。戯曲の指定通り。うまくいった。二つ目のそれは、笑わせる。だが彼が既にトムとして登場した風情から物語の世界に引き込むその引力にまず感服、情緒を掻き立てられる。原田つむぎのローラらしさ、そしてアマンダ役の西田夏奈子がMVP(アマンダとはそうした役柄でもあるが)。後半この家族を訪れる客であるジム役・大石将弘は彼と判別できず後で確認(大石氏というのは顔を思い出させない役者。何度も見てるはずなのだが..)。彼と、ローラとの二人の対面の時間が、この戯曲に清新さを与えているが、既に成り行きを知る身にはスリリング、心穏やかには見られない。だがごく自然な因果に沿った互いの行為が観る者に物事の必然を受け止めるよう静かに丁寧に促す。
すみだパークシアターを奥まで使い、正面の搬出口を玄関に用いる広さがまた、アメリカであった。
見慣れた向きからは一言あるかも知らないが、私には申し分なく劇世界に浸る時間が愛おしかった(ガラスの動物園とはそういった作品でもあるが)。

オバケッタ

オバケッタ

Co.山田うん

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2025/03/29 (土) ~ 2025/03/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

Co.山田うんのここ最近の公演を逃していたのでこちらを覗いてみた。<子ども>を主な対象に、と同時に大人にも納得な舞台、というのがこういった企画でクリエイターが頭を捻る所だろう。初演が2021年とあり、演者12名も同じ面子である。
前半35分と、15分の休憩後30分の構成。前半は夢の導入から色んな「お化け」(非現実世界の住人的な存在)の登場、皆を動員しての大きな龍の登場といった、幼児の感性にもアピールしそうな視覚的アトラクション重視のパフォーマンス。後半は踊りの中に微細な人間味のニュアンスが籠り、音楽も深い領域へ誘う楽曲が入って来る。ずっと音楽は鳴っているが、特に後半のディープな段階で聴かせる人生を切なくも愛おしく俯瞰させる楽曲がひたひたと寄せて来て胸がざわつく。「オバケッタ」のテーマソングへと展開し、最後は主人公の女の子のソロの背後で可愛い系の女子の声で「あれは夢だったのかな、それとも絵本だったのかな・・」と閉じられ、覚醒前のノンレム睡眠(で合ってるかな)のような闇が一気に落ちる。という按配式である。楽曲の比重の大きい作品。
客席には低学年らしい子ども連れ客も散見されたが、集中の切れる時間は殆どなく見入っていたようであった。
(自分はステージに近い二階席から下を覗く格好で観、客席全体も見渡せたので。)

人形劇 華氏451度

人形劇 華氏451度

人形劇団ひとみ座

川崎市アートセンター アルテリオ小劇場(神奈川県)

2025/03/27 (木) ~ 2025/03/31 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

すこぶる満足である。70周年企画での「どろろ」が実質私の初ひとみ座観劇であったが、あの感触に近い舞台の空気感があったのだ。同じひとみ座でも幾つか観ると風合いも多様で、本領を発揮するのは壮大な叙事詩と深い人間ドラマ、マクロとミクロが錯綜する「どろろ」や本作のような舞台。秀作であった「モモ」と同じ佃典彦脚本、舞台処理の目の醒めるような工夫といい、演者の演技、人形操作といい、申し分なかった。
ディストピアを描いた作品だと知りながら、結末がどこへ着地するのかと私とした事が不安に揺さぶられる思いであったが、最後に迫害を逃れた僅かな者たちが遠い空へと送る希望の眼差しに、同期したものである。(それだけ危機が現実味を帯びて来たと感じているのかも・・)
ちなみに本作のあらすじを知ったのは「100分de名著」で。

糸あやつりでない人形劇団であるひとみ座では人形のサイズがせいぜい実寸の三分の一といった所であるので、糸操りのように遠くからは見づらくなく、人間と共演した場合の落差も少ない。本作では主人公の男は人形と、時にその声を担当する客演者・高橋氏自身が形代を抜け出た人格として演じる。
私にとってひとみ座舞台の最大の特徴は、人形操作の都合上、台詞と台詞、また場面と場面の間に少し間があくことがあるのだが、演技が切れていないという事なのか、間合いも含めて味わいが感じられる事。「どろろ」の時はこの「間」が実に堪えられない味を出すので、不思議な気分になったものである。
本作でもそんなこんな全てが「美味しい」のでその一部でも紹介もしたい思いが走るが、説明が難しいので早々に諦めている。

悲円 -pi-yen-

悲円 -pi-yen-

ぺぺぺの会

ギャラリー南製作所(東京都)

2025/03/26 (水) ~ 2025/03/31 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

初の団体だが、他の特徴的な公演に何がしか絡んでいた記憶と、「新NISAの劇をやる」で観劇を決めた。
風俗としてのそれ(投資流行り)の悲喜こもごもを描くにせよ、思考実験的にやるにせよ、「投資」というテーマを巡っては重要な論点があり、自分的にはそこへ迫ってほしい願望はどこかにあったが、町工場の町大田区の一角の車庫で芝居の時間を味わう趣向も一方の目玉で、その点では中々面白い体験であった。

ネタバレBOX

あ、「ワーニャおじさん」・・と気づいたのはラストに地味目の小柄な女性が「ねえ、おじさん」と語り始める場面で。
最後に繋げたのね、くらいに思っていたが、後でよく思い出せばこの芝居で何らかの事業を立ち上げる「尊い目標」に開眼したらしい男が、突然前妻の実家を訪れ「土地家屋を売り払う」との決定事項を伝えた所がチェーホフの原作、ワーニャとその姪がやりくりしてきた実家へ引退した大学教授=姪の父でありワーニャの亡き妹の元夫=が「ここは売っぱらっちまおう」と軽口を叩いたのに重なるわけであった。
確かに功成り名を遂げるに至らなかった大学教授の、興味の矛先を変えて持ち物を売り払って「次の夢」に向かおうという軽薄さは、この劇で事業に失敗して実家に戻ってきた男の「夢」という名の体の良い「軽薄な宗旨替え」と重なり、秀逸。
ただ、ワーニャが自分の「人生」と秤にかけて絶望的な虚しさを実感するにこれ以上ない対象としての教授の軽薄さは、トリガーに過ぎず、ワーニャは人生そのものに(その気質と来歴により)激情をもって絶望している、その滑稽で無様なありよう即ち人間の実像なのであり、他は最終的に遠景となり、ただ姪のソーニャが近景に現れてワーニャの混乱を整理してやるという按配。一方この劇は「金」の方に比重があり(あったはず)、ラストで照準がおじさん側に寄った事で「ワーニャ」に重なったという訳であった。
そしてこれはこれで成立したように思う。序盤から劇の様態としても自由極まる揺さぶり方で、主語も多数に上り、ソーニャが初めて主語となるラストは劇の一部として不自然さなく収まる。
この日はポストトークがあり、何と岡田利規であった(そうだったっけ)。冒頭は岡田氏が主宰・宮澤氏にNISAを題材にしようと思ったのは?という質問に端を発して氏の投資経験とそれが執筆動機にどう繋がったかの流れを掘り出してくれたので、鑑賞者としては有難かった。
同時に、恐らくは総じての括りとして本作は直前に企画としてポシャったチェーホフが(意識したかは別にして)主になっており、「投資」はエピソードを飾るエッセンス、スパイス的な位置づけであったものだろう。とは言え「風俗としての」投資を考える契機を提示したい目論見のようなものは感じ取れた。

ただ、資本主義における「投資」とは何か、またそれが肯定的に語られるとすればその条件は何か、という部分を考えると、劇では結果的に投資話のいかがわしさの側面と、不可避な流れという側面とでどちらかと言えばネガティブな位置づけになったが、お金を注ぎ込むという行為は「子どもに対して」と考えれば愛の実践であり、企業におけるそれは企業の成長への夢を手繰り寄せる具体的なアプローチ。国にとっても同様。では何に対して、誰に対して、誰が投資を行なうのか。ここが考えどころなのであるが、機会があればまた。
CARNAGE

CARNAGE

summer house

アトリエ第Q藝術(東京都)

2025/03/26 (水) ~ 2025/03/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

初日を拝見。面白い。見応えあり。ナイロン100℃水野小論が思い立っての初プロデュース、海外戯曲をアトリエ第Q劇場で、とだけで未知数だが(否未知数だけに)興味津々であった。
この劇場ではしばしば「劇場」という場(ロケーションを含めて)を意識する観劇体験になる事が多いのだが、本作では開始から劇世界に引きずり込まれる。ソファ、椅子、花を活けた器、電話台といった室内の具象アイテムが飾られてはいるが、(人を超えない存在感で)芝居の進行を支える。これらがタイトな盛りに見えるのはタイトな台詞劇が出来ている事の投射だろう(途中「消え物」を用いるが得てして散漫になりかねない所それさえも計算の内に処理されている風に見えるのを感心しながら見ていた)。
今思い出すに・・2組の夫婦、フランスで、と言えば、ゼレール作品「嘘」があった。ワン・シチュエーション(コメディ)の範疇と言って差支えないが、警句が辛辣で安易な笑いを許さないものがある。攻めた会話が役者個々によって十分に咀嚼され吐き出されているように見える快感。

初日ゆえネタバレは控え、我が注目の一人伊東沙保はやはり秀逸だった、と申すに留める。
後日追加したし。

青少年のための純恋愛入門

青少年のための純恋愛入門

バザール44℃

STスポット(神奈川県)

2025/03/18 (火) ~ 2025/03/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

深谷氏の新ユニットへの興味で観に行ったのだが、タイトルからもっと頭でっかち系な抽象度の高い内容かとの予想は裏切られ、がっつりドラマであった。もっともタイトルに「入門」とある通りの(解説者ありの)講座形式を取り、進行するが、3組のカップルの恋愛模様が「恋愛入門」のサンプルのレベルを遙かに超えてディープな人間模様が描かれる。笑える場面は芯を穿った場面。一方台詞が輝く(美しい)場面もあった。

アンサンブルデイズ

アンサンブルデイズ

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2025/03/20 (木) ~ 2025/03/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

東急デパート本体が早々に解体された風景は見ていたが、COCOONが残っていたとは知らなかった。懐かしさも手伝って、また新しく始動した本格的俳優教育プログラムの成果と松尾スズキ作品を観たさに、出かけた。
朱雀組しか観られなかったが、シングルキャストも何名か居り、玄武組と大きな差が生じる余地は認めず。というより松尾スズキのこの新作が3時間弱に及ぶ大人計画本公演並みの本域作品であり、時宜に適った笑える台詞やキレイに通じる荒唐無稽さと、役者志望の若者(彼ら自身でもある)を登場人物としながら痛い人間像、爛れた人間像を手心加えずに描き出す。要は、芝居の中身の方に引き寄せられていた。
約一名、遠目にも既視感のあった俳優はムシラセ等で何度か目にした女優。初見での印象(せいぜい二年前)に比してもスケール感が増し(芝居と役のタイプもあるのだろうが)、他の若い役者たちも松尾作品を奏でる要員として存分に振り切れた演技を繰り出している。
片チームだけでそれなりの人数がいるが、開始して三、四場面で既に俳優個々の役のキャラ付けが出来上がっており、脳内で腑分けされている。これまで松尾氏を劇作家としては我流、独特で舞台化ありきでどうにか成立しているタイプだと、何とはなしに思っていたのだが、彼らのために書き下ろした本作を観て改めて劇作家としての力量を流石と唸った。
多用される歌、群舞(ムーブ)もよく、アンサンブルもグレード高く、胸熱で終演の拍手を送ったのであった。

舞姫 〜盟星座の住人達〜

舞姫 〜盟星座の住人達〜

玄狐

サンモールスタジオ(東京都)

2025/03/15 (土) ~ 2025/03/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

チラシとユニット名に惹かれ、あらすじ、再演との情報、新派俳優が複数出演と見てつい(普段観ないテイストを味わえるかも、と)足を運んだ。
目指す物語世界はよく判り、期待しつつ観る。演技やミザンス面、あるいは脚本の人物描写なのか引っ掛かって追いづらく、睡魔が襲う(こっちのコンディションもあるが)。中々の時間をうつらうつらしてしまったと思っていたが、伏線が回収される終盤には物語の全容は見えており、像が脳裏に刻印され、眠った事実も忘れていた。
舞台となる(やがて取り壊される)劇場とそこに住む人々が作者の中に息づき、愛おしさをもって綴った痕跡が横溢し、取りこぼした伏線もありながら念一つで立っているとも見える舞台だった。

白い輪、あるいは祈り

白い輪、あるいは祈り

東京演劇アンサンブル

俳優座劇場(東京都)

2025/03/19 (水) ~ 2025/03/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

正しく鄭ワールド。冒頭のいじりから一歩「物語」叙述に入ると一気に引き込んだ。
ブレヒトの「白墨の輪」を鄭義信流に噛み砕き、一々ツボを突く歌、心底を揺さぶる音楽と、秒単位で仕込んだ笑いで描く。
アンサンブル俳優それぞれの持ち味で「笑わし」が成立していたのも良かった。俳優座劇場閉場を飾るに相応しい芝居魂溢るる舞台。

狂人よ、何処へ ~俳諧亭句楽ノ生ト死~

狂人よ、何処へ ~俳諧亭句楽ノ生ト死~

遊戯空間

上野ストアハウス(東京都)

2025/03/19 (水) ~ 2025/03/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

久々に遊戯空間の芝居空間をがっつり食らった。テキストの文体が何とも味わいがあって大変好み。言葉の文体は「芝居の文体」にも正しく変換され、昭和初期だろうか噺家・句楽を取り巻く者たちの会話や、再現される逸話が洒脱で泥臭くて、演者の佇まいも昭和の調度、着物、江戸口調とも相俟って只々小気味良い。
文学としての戯曲の魅力を放つ近代古典に通じるものがある(小山内薫の「息子」とか、真船豊作品、三好十郎の台詞にも)。
パンフによれば原典は吉井勇の<戯曲>との事。件の落語家を主人公とした一連の作品を篠本氏が構成したものらしい。
こんな作品があったとは、少なからず新鮮な風に思わずむせた。

XXXX(王国を脅かした悪霊の名前)

XXXX(王国を脅かした悪霊の名前)

お布団

シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)

2025/03/08 (土) ~ 2025/03/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

面白い。この劇団?の一見思想理念先行・ハイアートな構えに比してのこの「物語性」は・・何だなんだ?? 実に饒舌に物語るではないか・・と少々驚いた。もっとも最初にアゴラ劇場で観たお布団も「物語っ」てはいたが、「仮説の実践」的雰囲気があった。
「マクベス」とあるからその翻案ないしは新解釈的な、スピンオフ的な芝居であろうとは予想したが、ここまで話を作り上げますか・・という。
今回は観ておこうと思っていたが、どうにか観られて良かった。青年団俳優にも久々にお目に掛かれて良かった。

後でパンフを見ると、今回は娯楽性高い物語叙述を試みた、という趣旨の主宰のコメントがあった。作者の意図どおりの結果だったという訳だが、普通にストーリーテリングで勝負する土俵での演劇を、暫くは続けてみてよろしいのでは、と思った次第。

ネタバレBOX

森の奥に棲むマクベスの末裔(男)を女優が演じるが、少し前に父を失い、長らく仕えた婆やも役目を解いて一人暮らし。そこへ、良家の嫁に収まる事を望まれる事に反発ばかりしている名家の娘マーゴが、母が冗談で言った皮肉を言質に「精神病み」と噂の男の元に「嫁いで来る」と家を出てこの地を訪ねて来る。マクベスは広い屋敷だ好きな部屋を使いなさいと言い、自分は夜寝るのが遅いから本を読んでいる、先に寝てくれ寛大な対応。マーゴは中性性の漂う自分に型を押し付ける事のないマクベスと、性愛を入口としない自然な関心から情愛を芽生えさせ、紐帯を育む様が短いシーンの中で明快に描かれる。ここへやって来る「外部」が王宮の者たち。明らかに異質な価値観の侵入である。革命分子が地方でのろしを上げ弱体化する専制体制が窮余の策として「魔術」に着目し、つてを辿ってマクベス宅のある森に王と臣下らが(お忍びで)やって来るのだが、ここで「マクベス」の顛末をなぞるような展開が待っている。
(またいずれ物語を思い出しつつ書いてみる。)

このページのQRコードです。

拡大