tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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AとBと一人の女

AとBと一人の女

演劇ユニット 平成レトロ

遊空間がざびぃ(東京都)

2025/12/26 (金) ~ 2025/12/28 (日)公演終了

実演鑑賞

別役実の初期作品。上演時間一時間少し切る程度。
別役戯曲の原型が判りやすく表れているな、と感じたのは、二人の登場人物が「何か」についてはある合意を持ちつつ、同時に理解不能な領域はそのままで立ち入らず、それでも対話を成立させている、或いは対話の体を維持することに合意している、という事。一方の突飛に見える言動も、他方は受け取り、又は打ち返すのだが、これらの対話が成立するための「ある精神状態」は、俳優が探り当てねばならぬ「戯曲からの難題」のようである事も、この作品に既に見られる。
本作所収の第二戯曲集「不思議の国のアリス」解説を開いた所、作者による執筆履歴によれば本作は第一作であった。

ベケット(のゴドー)を観た衝撃と影響を語っている別役氏は、二人の対話ともつかぬ会話を(我もと)書き始めたのではないか。だがひたすらゴドーを待つ二人のようにはならず、無為に等しい言葉のやり取りの中から人間の行動が起こり、事態が変じる・・これもまた人間の真理(その行動と事態をどう意味づけるかは解釈する者次第)。
戯曲は1961年に書かれ、上演とある。言うまでもなく第二次大戦の過去は「遠くなりにけり」とは言いじょう、未だ十数年前という時代。戦った一方の連合国軍側は国際秩序を紊乱する枢軸国側を諫めて平定する、という「合理的目的」を完遂した側であるのに対し、日本は自らの内の愚かさ、責任を取る者のいない決定に国全体が引き摺り回された「非合理」を抱えた側である(歴史的にそういう立ち位置に置かれた側)。
日本(人)の深層を探る旅(作品を書く営為)の端緒で作家はそこへ行き着いてしまった。以後その変奏を書き続けたとも言えるのが別役実という劇作家である。(と、断定するのに躊躇を感じないのもこの作家の偉大さ。)

怪力乱神ヲ語ラズ

怪力乱神ヲ語ラズ

劇団肋骨蜜柑同好会

新宿シアタートップス(東京都)

2025/12/24 (水) ~ 2025/12/28 (日)公演終了

実演鑑賞

女子高(ミッション系)生徒たち、教員たち(校長、教頭、保健教諭ほか教員男女二名)、スクールカウンセラー、チャプレン(以上学校関係者)、外部の人物に、超常現象関係のマニアックな研究家、彼の助言を求めたりもする民間の調査機関のボス(女)、彼女のために命を張れる忠実な部下、異次元回路を知る祓い屋、警官。
最終的には「超常」の次元に踏み込む事となる。それならば、超常「有り」サイド(ムー編集者?)と「無い」サイド(大槻教授的な?)の行き来の結果「やっぱあった~」となる、とか(ミルクボーイみたくあっち行ったりこっち来たり)、現実世界から話は始まるので悪魔とか超常とか「無い」テイを維持していた所、意表を突いて突如「超常」世界が揺るぎようもなく顕われる、とか・・要はシンプルに無責任に眺められる位置で成行きを見たかった、という感じはある。
犯人捜しが表立っての関心になるより先に、事実が先行して行くスピード感だが、事態が着地しつつある頃合い「実は、大元は誰?」モンダイの解消が訪れるなら訪れて欲しい所、そこは不明なままにした、という読みは合っているだろうか。
事態の連鎖の原因を一つ一つ遡及して行った最後に「辿り着いた」、という感覚を覚えなかったので、答えは曖昧にぼかしたのかな?・・と。
この話の着想を想像するに、無責任な言説が流布され虚偽が実体化してしまう昨今の世相か、と推察したが、物語の方は呪いを口にした事で不可逆な事態を招き、原状復帰困難という現実を受け入れざるを得なくなる。この顛末は「言説」をおざなりにご都合主義に、出来心や独りよがりで用いた事の「しっぺ返し」、なのだろうか?
「嘘も百篇言えば本当になる」の裏返しをやったのだとして・・「わが方に不都合な事実」を覆すべく、ある人間たちが百篇嘘をつき通した結果、日本がかつてやった他国での収奪や殺戮が、ほぼ免罪されたような空気を獲得できている。日本人ファーストという語の背後にある「外国人は日本人にとって迷惑」の命題が、「日本人はそれとは比較にならない迷惑をかつて与えた」という事実が捨象されている事で成り立っている事は疑い得ない。直近の事実ゆえにほぼ争う余地がないのは立花某氏による無根拠な誹謗中傷言説だろうが、これらの無根拠な言説が「裏取り無し」で迎え入れられる背景に、やはり20~30年来の歴史事実を巡る言説の変化が影響していると個人的には見ているがそれはともかく・・ 
芝居に即せば、まずSFは設定が命、という面では「あちらに連れ去られる」現象の起き方、引いては意味が曖昧だ、というのもそうだが、「連れ去られたこと」それ自体をもって不幸とは限らないという事がある。その事によって何を失うか、そしてその事とどう折り合いが付けられるか、が個々それぞれにあるだろう。従って、この時点ではまだ「不幸」認定には早いのである。いい加減な言説、無責任な言説によってどんな超常現象が起きて、それが「報い」として機能している、と観客に明確に分かるようなものではなかった。(作者はそれを特に狙っていないのかもだが。。)

そうは言うものの、独特な空気が流れている芝居。確かに肋骨蜜柑はある世界観を強力な磁場のように作り出していたな・・と朧ろな記憶からも思う所で、「それで良いじゃないか」と言ってしまうのもなんだが、得難い何かはある。

溢れる涙を空に返して

溢れる涙を空に返して

一般社団法人グランツ

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2025/12/20 (土) ~ 2025/12/24 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

横浜桜座の公演を以前配信で(という事はコロナ期。大分昔な気がする)観て以来。グランツ・プロデュース名義の公演はその後見逃していて今回初観劇となった。主宰の飯田浩志氏が障害を持つ人で構成する桜座を立ち上げ、これを含む事業運営のためにグランツを立ち上げた、という理解でいたが合っているかどうか・・。この横浜桜座の舞台(配信で観た)は面白く、障害者の作業所を舞台に当事者も登場して芝居の一翼を担っていて(中で脳性麻痺か軽度知的っぽい人物がしっかり立ち回っていたので、巧い役者かな?と思ったが詳細は判らなかった)、障害者差別や家族の苦労などスタンダードで普遍的な問題を正面から描いた。それで「また観たい」と思っていたのだが、前段説明をすると、グランツ公演で併演する事のある「グレイテスト笑マン」シリーズが今回もあって、知人が出ているという事もありそちらを目当てにチケットを取ったものの、メンバーの体調で上演中止となった。それで本編を観た所、何と桜座メンバーも舞台に上っており、何となく安堵したという事があった。自分の中で勝手に「グランツ本公演は力のある役者が出演する「お金を取れる」公演、それとカップリングする事で桜座メンバーの出演機会を言わば確保しているのかな・・等と想像していたのであった。
フタを開けてみれば例の配信で観たのに近い、フラットで風通しの良い劇の空気感であった。少々ご都合なストーリーもリアルな背景状況が断片的ながら真実味を帯びて濃い色彩を舞台上に作る。桜座の登場場面は「芝居の稽古」場面として、稽古なので多少たどたどしくても成立・・とは言うものの、明らかに当事者と判る外見と口調に関わらず(というのも変だが)芝居の趣旨を体得した中から出て来る「表現」となっていて、リップサービスでも何でもなく正直「凄いな・・」と内心感服していた。
フラットな空気感と言えば、島の高齢者として登場する実際お歳を召したご老人方。発声も台詞もしっかりしているが何処となく素人感がある。否この場はこの芝居作り界隈に繋がる人たちを巻き込みながら作られている感、と言った方が空気感を表わているか。後で出演陣を見れば中々の手練俳優が名を連ねていて少々驚いた(白幡大介、小豆畑雅一、南保大樹、鯨エマ、観世葉子、吉本穂果、北澤小枝子...)。芝居の質感からか皆が同等に見えて来るというのが一つの発見であったのだが、大きくなった自閉症の息子役の「巧く立ち回ってる」人物は、上記の中の一人であった。

ただ・・(最近他の芝居についても思う事だが)障害の当事者を自分がよく知る方である事は間違いなく、彼らや肉親の苦しさ辛さ、複雑な思いが判ることから場面の「背後」に広がるものが想像されてしまうという事がある。それゆえこみ上げて来るものがある、という訳である。
他の問題にしても同様だ。深読みしてしまい、自分の良いように解釈する。作者はそこまでの思いで作っていなくても・・という事が多々ある。従って同じ芝居を観て「いやそこまで考えないっすよ」という多数意見に戸惑う自分の姿を想像したりもする。そしてそれは自分がもう少し若い時分に、年輩の方が何か芸術作品だったりテレビ番組、誰かの言葉に対して、世の中の矛盾であったり戦争の記憶であったりを呼び起こされ、通底するものを感じるのだ・・といった発言を聞いた時の違和感、「深読みしすぎでは?」とシラッとした記憶と重なるものだ。「自分もああなってるかも?」という焦りを抱かなくもない。
年と共に「感動しい」になって行く、というのは一見良い事のように思えてそうでないような気がする。
今書きながら判ったような気がするのは・・その種の感動とは、自分の考えや感性を作品に投影してしまう(投影できる対象を見出したという)現象であって、作品から新しい何かを得る、衝撃を食らう、違和感と格闘する・・といった芸術本来の機能から離れたものである・・。即ち「自分を投影する」鏡として利用している=ある種の我田引水なのでは、という背筋に冷たいものが走る考えがよぎる。だがそう考えてみて、そうかな?という気もする。だったらどうだ、と言われると次の句が出ないが・・。まァ考え続けるしかない。(今日はこれにて、という事で。)

マレビトの歌

マレビトの歌

Noism

彩の国さいたま芸術劇場 大ホール(埼玉県)

2025/12/20 (土) ~ 2025/12/21 (日)公演終了

実演鑑賞

純正のダンス公演、と書いてみる。自分が演劇的要素のある舞踊に惹かれるのだとすれば、そうでない舞踊(演劇的要素の薄い又は無い舞踊)との境界線があって、それは舞踊というカテゴリーの端っこに位置するのかも知れぬ、と想像してみる。もっとも「演劇的」と書けばその意味範疇は広く、舞踊というカテゴリーをも包み込んでしまうだろう。意味的には。
舞踊作品に限らず、絵画でも、もちろん演劇(特に抽象性の高い)にも言える事だが、作品の文脈を理解する事によって漸く鑑賞に耐えるという事があるように思う。シュルレアリズムや、ダダといった時代区分の作品を、「なぜこう描きたかったのか」という時代背景とセットで見るのとそうでないのとでは見え方も理解の深みも違ってくるといったような事。
話を舞踊に戻せば、まず音楽(音)が不可欠な要素である。逆に「音がない」舞踊舞台は、その事に意味が付される位に不可分なもの。この音楽がキャンパスの背景色に当り、舞踊はその中で位置を得る関係性だ。関係を違えると(そぐわない動きが入るか、選曲を間違えるかすると)作品としての質に関わる。
Noismの舞台は二度目であったが、前に芸劇で観た舞台は美術や趣向からして演劇的であったのに対し今回は「踊り」の技巧や群舞のアンサンブル、統一性に比重が置かれていた感がある。その分、音楽との緊密な関係性は削がれ、大括りな関係性となっていなかったか(この音楽を流していれば踊りの中身が意味深に見えるという無難な選曲・・舞踊公演には割とありがちに思っている)。目を見開き、凝視していたのだが、群舞はかなり攻めた形を作っていて、技巧的に素晴らしい・・が、訴えて来るものが無い。そのため、これを受け取る心の受信機は暇をこいてこっくり船を漕ぎ始める。耐え切れず爆睡に入ってしまった。・・とは言い訳かも知れないが。終演と同時に大きな拍手が起きた。舞踊関係者が多そうに見えた。「よくやった、すごい。あれだけの事をやれただけでも拍手に値する」そういう拍手である。一方自分は、技術を見に来たのではなく、問いを受け取りに来た。一歩を踏み出す、なぜ?どうそれを説明するのか、を見据える。その連続性の中に、舞踊という表現のドラマがあると期待して経過を見て行く。舞踊を見慣れていない目には、振りが長かったという事なのかも・・。
帰路、人が踊る姿に魅入ってしまう理由、あるいは辞めてしまう理由について、改めて思いめぐらしていた。

笑わせません、勝つまでは

笑わせません、勝つまでは

アトリエ・センターフォワード

雑遊(東京都)

2025/12/17 (水) ~ 2025/12/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

この所矢内氏が傾倒する落語を題材に、舞台を戦中に置いて書かれたオリジナル劇作。小さな劇場で演るこの手の劇、要は笑いありの人情劇の範疇だが出色の出来であった。俳優たちの踏み込んだ演技に目を開かれる。

なお開演前に一席小咄をやっていた。そのだけの出番ゆえ、本番では見られない顔(チラシにも「前座」として出演陣に並んでいた)。普段使いな声量でサラッとやってたが、「ちゃんと聞きたかったな」と後悔しないには早めの来場を。

TRAIN TRAIN TRAIN

TRAIN TRAIN TRAIN

東京芸術劇場

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2025/11/26 (水) ~ 2025/11/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

多彩な出演陣と公演趣旨に惹かれて(時間も出来たので)観に行った。岡山天音を旅人に据え、銀河鉄道みたくあてどなく何かを求めて、何かに向かって歩んでいく人間と世界のありようを幻想的に描く。ロードムービー風、出会い、巻き込まれ的な道行き。抽象的なのは言葉。駄洒落レベルのテキストで何か意味ありげな匂わせをしているが、張りぼてではないのか。
言葉遊びならもっと多弁に塗りたくって点で描く絵画のようにせめて何か浮かび上がらせてほしかったが、匂わせで逃げている。ハンディキャップを持つダンサーやパフォーマーの登場が目を引く。女の子の乗った一輪車や、スポーツ用車椅子が舞台上を疾走すると自由の風が吹き、そこは躍動的であったが、全体に盛り上がりに欠けるのは「物語」としての高まりが無いから。勿体ない。

散歩する侵略者

散歩する侵略者

踊場海月

中野スタジオあくとれ(東京都)

2025/12/19 (金) ~ 2025/12/21 (日)公演終了

実演鑑賞

イキウメ初期の代表作と言える日常に危機が忍び寄るSF作だが、他劇団による挑戦を楽しみに見た。(若手の面々とは承知だが出演陣に前観たポッキリくれよんズ所属俳優あり一定のレベルは約束と保険は掛けた。)
つくづく良い脚本だと改めて気づかせてもらった。小さい地下空間あくとれを狭いと感じさせず脚本の描く世界をどうにか具現していた。欲を言えば若手の演技は一本気で脚本に僅かながら仕込まれた笑いを成立させるに至らず、人物の行為のリアルな組立てという点ではやはりもう一歩であったのだが、危機の実態を凡そ把握し共有するに至った段階での、人間模様(事態の解決に邁進、とはならない。何が解決なのか糸口は皆目見えないからである)=本作の真骨頂と言える場面でそれを挽回するかのような瞬間が訪れる。脇筋であるが「所有」概念を奪われて平和を叫び始めた先輩(かつては世を斜に見たフザケたアウトロー)の変貌に失望しながらも執拗に追っていた後輩が、全てを飲み込んだ上で自分は付いて行く、と言う。そしてラスト、本筋において夫を乗っ取られた妻と「彼」の新たな愛からの決断の場面。
ギリシャ悲劇を持ち出すのも何だが、この普遍的テーマにこのような結末を与える作品、類似品は二つ生まれないだろう。SFでしか作れない仕掛けだが何故か切なくも懐かしい。
よく上演してくれた有難うと、えらく素直な気持ちが湧いてきたものであった。

『Dive』/『海ではないから』

『Dive』/『海ではないから』

公益社団法人日本劇団協議会

舞台芸術学院(東京都)

2025/12/17 (水) ~ 2025/12/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

何を観るか十の中から二つ厳選するべく直前まで迷った週末。一つは決め、残る一つ、既に予約不可になった芝居を外したりで残った二つからこちらを選んだ。「日本の劇」戯曲賞は大きな賞とは言いつつ大賞に至らなかった「佳作」のリーディング、どんなものか期待は抑えめに観劇した。初の舞台芸術学院。来期から「学校」ではなくなるとの事。渡辺えり子(当時)、モダンスイマーズ創立メンバーの顔が浮かぶ。全て不景気に手を打てなかった政治のせい、という気がしてくる。
さて文学座座員を中心としたキャストでの「海ではないから」の演出は五戸女史。上演時間二時間、流石リーディングである事を忘れさせ没入させた。解説にはロシア人の母と日本人の父の間に生まれた青年セルゲイ、その恋人、母の再婚相手とその娘、などとあり、今なぜ「ロシア」か、何か実在の人物のモデルがあるのかと訝ったが、正にウ露戦争でのロシアバッシングを背景として書かれた芝居である事が見えて来る。不知の作者で来歴も知らないが思いの外骨太な作品で、見応え聴き応えある台詞に胸を掴まれた。役者も配置もピッタシであった。

養生

養生

ゆうめい

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2025/12/19 (金) ~ 2025/12/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

ゆうめいの舞台に共通するのが、自分の感覚では、破壊と安定がある絶妙なバランスを保っている事。
実も蓋も無いような爆発場面が首の皮一枚で繋がって物語内にとどまる。ヘタをすればコケかねないその瞬間は想像するに役者にとっても大きな負荷があり、劇的の度合いがこれに掛かっている。作者の特徴がそこにあるとすれば、やはりカタストロフ志向、状況がシビアであるほど醜い横顔を晒すが、それでも尚人間讃歌を唄えるか、と問う。そう規定してしまうとまたその逆をやられそうであるが...大人しくお行儀の良い生き方を獲得して体制内化した(しがちな)大人の安定志向を揺さぶるこれは一つの角度であり、破壊衝動の発露に共鳴している自分がいる(登場人物らは出世や安定を望む者達だが隘路にハマりキレる、そのキレが降参であり敗走でありながら社会の中の何かを道連れにして結果復讐しているのだ)。
本作のスズナリでの初演を思い出してそんな考えを巡らしたが、一回り大きな空間(KAAT)での上演にも十分耐える作品であったと、まずそれを思った。記憶はあやふやだが所々台詞を書き改めた感じも受ける。以前より見え方が明確になり、その分皮肉や破壊の力も増したように思うが、作品自体は変わらず、深夜作業のエキスが迸る「あの気分」が充満し、この描写が絵画同様に模写の快楽に誘う。雑談の中で人間批評をする彼らが当事者性の土俵に立たされる滑稽さは絶えず繰り返される笑いの快楽も勿論。

芝居は語り手の橋本(本橋龍)の卒製(卒論ならぬ美大の卒業製作)紹介に始まり、脚立を組み合わせた巨大オブジェと養生テープで作られた床と壁という大きな「作品」が、そのまま深夜の装飾作業の現場となり、学生バイト時代の相棒(丙次)と共に卒業後の採用となる期間と、相変わらず同じ仕事をやっているが何らかの変化を経た十年後の二人が描かれる。+1名(黒澤多生)は学生バイト時代ではうるさい上司(先輩)、十年後はその人によく似た後輩として登場する。語り手は橋本だが、三人芝居の各人の芝居上の比重は同等、最後に絵に描いたような(奇想天外な)それぞれの破局が訪れ、撤去作業がままならず「詰んだ」ラストを迎える。
美大系とは言え作業自体は第三次産業の悲哀と、ガテン系の無味乾燥さが漂う。イベント会場の装飾は一見デザイン系のカテゴリーでもやる事は決まった図を拵える作業。このチョイスがまた良い。(というより作者の実体験かも知れない)
私の生き方これで良いのか、という自問はいつも世俗的な意味(ここで燻っていて良いのか)と、理念的意味(世俗的成功から程遠いのならせめて人に社会に歴史に貢献できているのか)を内包し、反発し合う。錆びた刃物のようにざらついて痛く、疼く。理想とは程遠い仕事に甘んじている時、仕事は無味乾燥な味で復讐するかのように神経を苛み、復讐して来る。賢く妥協するか、愚かでも勝負するかの葛藤は、強弱はあれど資本主義社会なら万人が潜る葛藤だろう。

ネタバレBOX

学生バイト時代と十年後の差は、バックレが許されない事、使用期限までに次の使用者に会場を明け渡す責務から逃れられない事。その位のもので、バイトから真面目にやってた彼らは仕事上の変化はない。もっとも丙次演じる相棒は家庭を持ち、深夜仕事続きで崩壊の危機にあるが。
この仕事の特徴は、ほぼ現場での作業だが独特なのは、カスタマーとしてサービスを享受する一般人(お客)を傍目に、こっちはそのお膳立ての作業をやっても特にリスペクトされる訳でもなく単純作業の範疇。客と「対面」するのでない、「近接」しながら立場が真逆である関係、すなわち楽しむ客(貴族)の下僕的立ち位置を思い知らされる。
元美大生なら本来目指していたであろう「クリエイティブな」仕事の要素がある程度どの程度あるのかは不明。芝居が終ってみればここには敗北者しかいないのだが、作業現場では誰も自分が負け組である事を表明する事は当然しないしできない。もちろん、階級は内在化し、自嘲は同等な相手へのディスりに他ならなくなる。
わたしの隣人

わたしの隣人

趣向

象の鼻テラス(神奈川県)

2025/12/11 (木) ~ 2025/12/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

象の鼻テラスを初訪問。てっきり堤防の突端にでもある天井の無いステージか何かだと想像していた(テラスっつうとそうなりまへんかな)。当日は急な寒さでしかも風が強くなり、野外ならとても耐えられそうもなく「行くなって事か・・」と挫けかけたが、着いてみればきっちり大きなガラスに囲われた立派な建造物であった。ぬくぬくと観劇。
その安堵感と疲労で途中また寝落ちの時間あり、比喩性の高いテキストの裏を読み取る作業が中途で断絶、不十分な観劇となった。宣伝文にもアフタートークでもこれは自分の事を書いた初めての劇、とあったが、登場する誰がオノマ女史=自分に当たるのか、作者のどういう体験がこの夢の中のようなふわっとした劇に落とし込まれていたのか、は判らなかった。
趣向は、どちらかと言えば言語過多なテキストで(油絵のように何重にも絵具を塗り)形をあぶり出すというのが通常形かも知れない。出世作「アントニン・・」や「ザ・ゲーム・オブ・ポリアモリー何とか」や先日のワンアクト・ミュージカル等。一方、以前観た一つと今作共に、「語量を抑えた小品では穴の埋まらなさ(伝わりづらさ)が否めない」という印象(勘が良いか又は同じ感覚を持ち合わせてる人には伝わるかもだが)。
作者自身にとっては言葉一つ一つに意味が籠められているのだと思うが・・。今回はそんな感想しか書けない。

玄海灘

玄海灘

劇団劇作家

上野ストアハウス(東京都)

2025/12/11 (木) ~ 2025/12/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

今年初めになるか(昨年末だったか)リーディングで有吉女史によるこの大作の脚本化の成果を堪能。圧倒された。第Q藝術の四角の箱の中に演者が揃い、オフの時にも台本を見つめ、皆がそれぞれ作品を語る一人の、一人称の人格となり物語を紡ぐ橋をともにわたる切実感も合わせて全身に浴びた。
今回、本舞台での上演に踏み切った。リーディングのレベルには到達しないだろうと予想し、事実その通りであったが善戦していた。不足感を挙げればきりがないが、例えば役人物が変化していくのが要である朝鮮両班の家系の息子のその変化や、歌姫と呼ばれる居酒屋の娘の歌(これは技量の問題か演技の問題か)、朝鮮総督府での日本にこれでもかと忠誠を尽くそうとする男とその日本人の上官の微妙な関係、その彼の地下運動組織への接近、理解、最後の裏切りのダイナミックスなどは、植民地支配の矛盾、渦巻く静かな憤激が沸騰する要素でありたく、石を積み上げるようになりたかった。場面処理の課題があったとは思うが、抽象舞台とした事で、集中が殺がれる瞬間が多々あった気がする。時に居酒屋、時に新聞社、時に総督府、あるいはどこかの野外と、多場面ではあるが、観客の目は「見立て」がうまく行かない所があった。
にしても、物語の力、台詞の力は舞台を押し上げていたのは確か。今後も挑んでほしい作品。

季節

季節

劇団普通

シアタートラム(東京都)

2025/12/05 (金) ~ 2025/12/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

幾らか多めの登場人物に、幾らか知名度の高い俳優の参入・・トラムで演るとはそういう事也や。劇団力をベースに集客の読みは劇場付の企画スタッフの力量の範疇かと推察される。
それはともかく芝居。一見「普通」以外の何物でもない主宰で作演出の石黒女史は、その日のトークに拠れば、全て茨城弁で展開する劇世界は、実体験の記憶を掘っているのであるらしい。
一番手として登場する野間口氏は、どうやら老け役らしいが、最初あまり見えなかったのだが段々と、中身は老け男と見えてくる。
一か所、ぼやっとしている間に言った誰かの台詞が客席にどっと受けていて、無念にも聞き逃した。
それにしても地方の親類同士の距離感の絶妙な具合はどうだ、と。完全にああではないがどこか身に覚えのある「親戚同士」(子どもにとっては親が兄弟同士で賑やかしく、こちらは独特の距離感のいとこ同士・・これもまた愉し)の空気感。所在ない瞬間が訪れ、これを飄々として乗り越える者達。意味的には単なる血縁であるが、現代既に機能しなくなり、町内会と同じくせいぜいが法事だとか、自分ちの話をして「心配」し合うが関の山な関係である(その心許なさを幼心にも感じた事を覚えている)。地域社会も同様にCONSUMERとSELLERのみで成立する資本主義体制において、家族単位はまだ制度として機能するとして、世帯の異なる「親戚」は最早いなくて困る存在として登場する事がない。
親が死んで遺産相続が決着すれば法的関係は終るのでありこれを最後に付き合いがゼロになるケースも実際多いんだろうと想像する。
「会いたくて来たんだよ」と親戚を訪ね歩くチャーミングな御仁が一人いればまた違うだろうし、名を上げた成功者が殊勝な人で、親戚を集めて一席設けるなどしても「益を分かつ」(裏話を聞くだけでも役得)目的で集うという事も起きるだろう。
身もふたもない話をすればそんな具合だが、舞台上では地方では今もあるだろう親戚づきあい(これに近所づきあいの側面も割り込んでくる)の健気で面白おかしいサンプルが展開している。石黒女史の中にはまだ湧き出てくるネタがありそうである。

恭しき娼婦

恭しき娼婦

新宿梁山泊

ザ・スズナリ(東京都)

2025/12/11 (木) ~ 2025/12/18 (木)公演終了

実演鑑賞

梁山泊にとっても特別な公演であるらしい。この演目は二度目になるが金守珍演出の解釈
はいつも歯切れよく大胆である。唐十郎がシチュエーションの会でやった演目である事が、どう反映されている事かとの興味・期待で観劇。サヘル・ローズはやはりこういう女優であった。詳細はまた。

Downstate

Downstate

稲葉賀恵 一川華 ポウジュ

駅前劇場(東京都)

2025/12/11 (木) ~ 2025/12/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

ポウジュ第二弾。期待を裏切らず、密度の濃い芝居。辛辣な描写が多いが人物造形の秀逸さ(の心地よさ)が観客をこのドラマ世界に巧みに誘い、かつてあって今もある厳しい問いを強烈なトーンで投げて来る。カタストロフに近い結末は、文字通り当事者にとってこの世の終わりにも等しい光景であると想像してみる。静かな夜は、終末を待つ時間のようである(地球の終わりを描いた映画、ラース・フォン・トリアーだったか?をふと..)。現代の病み=闇を見つめて行くと、このドラマにおいては悪役にも見える男の過去と現在の諸々が綯い交ぜの混沌とした憤りが漂白された現代社会と表裏の関係のものに思えて来なくもない。自分に与えられた天分と抗い、また後天的な性質、受動的(あるいは能動的)体験によっても規定される自己に抗って生きる人間が、浮かび上る。そこに単純な正邪、是非があり得るだろうか。
ある置き換えによってこのドラマは日本そのものにも見える。LGBTや精神障害者への「理解」までは出来るが、性犯罪者、精神障害からの犯罪といったものに、理解は遠い。いじめの「加害者へのケア」は今言われ始めたばかり。カテゴライズされオーソライズされた「世間で認知された概念」を許容し、それ以外を冷酷に排除する傾向は世界共通のものだろうか。明治以来概念も模倣し輸入して来た日本では、外来の概念に特に許容力を発揮するが、一方で変化への懐疑は(健全に機能すれば正統保守だが)奇妙な形で合理性を拒否し閉塞に向かう(統一協会の影が賢慮な選択的夫婦別姓拒否やLGBT非寛容など)。三島由紀夫が絶望した日本の系譜は敗戦を機に一夜で態度を変えた日本人の系譜であり、裏付けのない(自分の考えでなく風に靡いただけの)思想的態度を取る、という態度と、「認められたカテゴリー」以外の人間を排除する態度は通底している、という事を言いたかった。

ネタバレBOX

この物語では平行線である事から簡単に逃れられない現実が描かれるが、一方の不遇は「ある一つの被害が一生の傷となり得る」事実とそれが理解され難い事、そして一方の不遇は加害を与えた(とされる)側が己の性質と社会(のルールや共通理解)との折り合いが付かない事(その意味では生涯「制裁」を加えられているに等しい事)。
特に現今の日本の風潮の中では、前者へのシンパシーは作り易く、後者への理解が難しく、従って後者の「生きる権利、よすが」を考える事を余儀なくされた観劇体験であっただろう事を想像する(あくまで想像)。
一点この芝居では、一人の「かき乱し野郎」が、その執拗な「過去へのこだわり」をもってする断罪の根拠を、書面にしてそれにサインをする事で認めさせようとする場面で、加害者がやらなかった事実をも認めさせようとしたらしい事を、一つの質問で露呈する。答えられず一旦引き下がった被害者が戻り、暴力沙汰に及ぶに至り、訴えた男の純粋さは消えている。だが、彼をそうさせた原因は30年前にあった出来事であった可能性は誰にも否定できない・・。
月の入り江

月の入り江

スヌーヌー

MURASAKI PENGUIN PROJECT TOTSUKA(神奈川県)

2025/12/09 (火) ~ 2025/12/13 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

観劇できた。会場も初。戸塚にこういう空間が存在した事も発見。入っても三十人かという空間だが設えが良く、清潔感があり土足厳禁。ステージから客席がそれなりの傾斜ですぐに急峻な角度となる。
笠木泉氏の本作。ある女性の一日を描いたものだがどうやらこの女性(渡辺梓)は高齢であるらしいと次第に分かる。この女性の分身(上村聡)が時折立って観客に物語を語り、信頼のおける情報を届けてくれる。この日は買い物の日、週一回のハレの日である。その準備に掛かる。過去のエピソードもふと思い出される。今は居ない夫はずっと、ステージをゆっくりと歩いている。風景のようだ。
こういう人生晩年のある個人を他の存在たちの手を借りて描写するタイプの芝居は既視感がある(思い出せば幾つか舞台も観ていそうだ)。老いとその肯定(人生讃歌)が主題の作品も多々あるが、淡々と描かれる特筆される事象が起きる訳でもない時間は、にも関わらずじわじわと迫り、抉ってくるものがあった。「筆力ゆえ」という概念を当ててみる。
場所の記憶と共に刻印されそうな観劇体験。

森ノ宮ニーナのおかなしみ旅行記

森ノ宮ニーナのおかなしみ旅行記

岡崎藝術座

森下スタジオ(東京都)

2025/12/05 (金) ~ 2025/12/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

その都度全く異なる風景を見せる岡崎藝術座(変わらぬのは発語の大部分がモノローグの脚本)、今作は森下スタジオ。会場「ありき」と思わせるのも神里氏の製作の手法に関係していそうだ。今作は集客によってはもっとうんと椅子を並べられるスペースなので、土曜午前の部でも控え目な数では勿体ないが、観る側は(岡崎藝術座なので)特段淋しい感じはしない。内容は(毎度ながら)「それなりに面白い」パフォーマンス。のっけに登場して語り始める矢野昌幸氏は、初見(10年程経つか)からその「普通」な風貌にしては頼りになる役者と思わせたものだが、実力なりの活躍をされているよう。この舞台でもブレないキャラで賑やかしく立ち回る。他の二人の女優は出自を知らず奇妙な取り合わせだが役に合っている。「旅」に絡めて「オーバーツーリズム」~排外主義へと無理矢理な話題の展開も「これが神里氏の言語」と思えてしまうのは、観た回数(慣れ)だろうか。
海外と日本の狭間の目線で作品を打ち出して来た神里氏が昨今の「排外主義」(と呼んで全く差支えないと思う)をやり過ごす事は考えられず、何らかの昇華を試みた作品であるのには違いないが、これを「本題」と仮に考えると、迂回ぶりは激しく、文脈の繋がりと飛躍の独特さを作りこそ神里流なのだろう。これがスルメの味に感じられもする。

ネタバレBOX

バラバラに散らばってる記憶から観劇歴をまとめきれないので調べてみると・・まず思い出すのが震災後に見つけたFTフェスティバルトーキョーのサイトを覗き、何やら面白気な題名(「球体」が何とか言うやつ)に惹かれ(題名以外に何の手掛かりもない)、観劇を試みたが予約完遂せず断念したのが最初だった。
で、その後「ジミー」が何とか言う作品を赤レンガ倉庫で観て初観劇、(昨今の神里戯曲のような言語過剰とは真逆で)台詞も少なく舞台上にオブジェを配してお茶を濁してる感あり、落胆(今度○○に出る話あるけどどうする?まァ売れてる山縣氏を出して、目を引く丸っこいのを吊るして・・てな作り方を想像してしまった)。
その後若葉町ウォーフでリベンジ観劇し、過剰言語の岡崎藝術座と遭遇。STスポットで「イスラ!・・」を観て「言葉ばっかの時間」にやや落胆(二作上演の一方「サンボルハ」を観たかったが別のを已む無く観た記憶)。
そこから「バルパライソ」再演のドイツ文化会館、戯曲賞を獲った作品は、外国人による上演で客席エリアも色んな「腰かけ」が設えられた雑多な不思議な空間だったが、ステージ上の興味深い様相は、会場ありき、かつ俳優ありき。
狭小のSTスポット「ミオノウミにて」は広い台上を箱庭風に物語の舞台となる土地に見立て、この周りを囲む狭い客席に客がひしめき、これも場所ありきな演劇だがその「効果」にハマり、興味深く観た。
コロナ期に入り、沖縄、池袋と巡演の中、上演注視の日に当たり急きょ沖縄での上演映像を観ることに。不全感を残して去ったが今回はそれ以来久々のお目見えになった。
利賀演劇祭に出品したりと演出志向の人だったようで?初期(2000年代)は既存戯曲を上演し、今SPAC劇団員の春日井一平氏、リクウズ主宰の佐々木透氏、武谷武雄氏や内田慈氏、西尾友樹氏の名前もあって小劇場演劇の正統派な場所にいたのかな?と想像を膨らませる。確かに言語過多という特徴に独特な演出が加わる事で独自の世界が醸されている感がある。面白い事を考えて我々を挑発する作品を今後も打ち出して欲しい。
星降る教室

星降る教室

青☆組

アトリエ春風舎(東京都)

2025/11/22 (土) ~ 2025/12/01 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

青組らしい良品。変わらぬ風情の小夏女史のテキストと演出、特に後者に成熟が見られ、おや?と思う。そこ(舞台処理)に着目した事はあまりなかったが、洗練の度合いが高まっている感じ。
宮沢賢治作品へのオマージュ、あるいはコラージュか・・ある女性教員が「小学校の最後の卒業式」の招待状を手に故郷の森小学校を訪れる幻想的なお話が、彼女の「友達」であったアイテム(賢治ゆかりのキャラたち)と共に手作り感満載の演出とテキストで綴られる。
ただ後で台本をめくってみると物語としては無駄を省いた十全なテキストで、自分は読み取れていなかった。動的で展開の速い演出に注意を取られてしまったようで、感想としては台本を読んで感じた「主人公にとっての大切な体験」たる所以を、折角なら情感と共にゆったり味わいたかった。(欲を言えばの話だが・・ノンヒューマンな登場人物たちと超現実な現象が書き込まれてるので、舞台上の処理が難しいのは確か。脳ミソが追い付かなかっただけかも...)

クラウド・ゲイト・ダンスシアター(雲門舞集)『WAVES』

クラウド・ゲイト・ダンスシアター(雲門舞集)『WAVES』

公益財団法人横浜市芸術文化振興財団

KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)

2025/12/13 (土) ~ 2025/12/13 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

ホールを埋める観客(1200席中1000人は入っている目算・・一階最後方空き、二階席サイドは封鎖)。中央辺りの関係者席の一列には長塚KAAT芸術監督も座っている。本プログラムは各会場で一回のみ上演(他二会場ある)。台湾のダンスグループ13名(ソロ、団舞、デュオ)、音、映像の融合パフォーマンス。没入体験。
坂本龍一が構想しその死後高谷史郎が作った何作目かのインスタレーション「TIME」が質的に近く思い出されるのは映像と音の存在感だろう。ただしTIMEの音源は坂本龍一氏によるそれで、今作は音と映像、その舞台上の設えが真鍋大度氏のアートの領分である。
深淵で静謐にさえ感じるが結構鳴ってる音、絶えず動き続ける捨象のタッチさえ細密な(意図的であり同時に偶発的な)白黒を基調とする映像、勅使川原氏流の「変転の連続性」を集団ムーブにも取り入れてしかもズレを起こす(ミニマルミュージック的な)身体芸術は、見ていて目を奪われ、やがてその「自然現象」性からか睡魔にも見舞われる(小生は被害を最小に留めたが前列右の青年は中盤から完全に持って行かれ終演の拍手で覚醒。が催眠性の高いパフォーマンスにしては寝落ち組は少なく見受けた)。しかし眼前の現象は「問い」の角度を鋭くして脳に刺激を送り続けて来る。
先般拝見したピーピング・トムは美術や仕掛け、描写される日常場面などに具象の成分比が高かったが、本作では舞踊本来の性質即ちノンバーバルな抽象度の高さにより観客それぞれがどう感じこれを持ち帰ったのか興味がある。もっともその感想を聞いてもピンと来ないだろうけれども(この感想がそうであるように)。

わたしは太陽

わたしは太陽

ももちの世界

テアトルBONBON(東京都)

2025/12/10 (水) ~ 2025/12/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ピンク地底人3号の筆による舞台はこれで4作目になるか...。青年座への書下ろし、ももち東京遠征公演、名取事務所への書下ろし、そして今作。シリアスな書下ろし二作に比べ、ももち舞台は前回観たのもそうだったが人情劇寄り笑いありのソフトな劇団っぽい手作り感。今作は更にドタバタ度も増して冒頭から呆気に取られる。だが後半は原発問題環境問題をきっちり絡めて作者らしさ?を発揮。俳優陣のデコボコした取り合わせも良し。

ネタバレBOX

のっけに登場するのが艶やかな衣裳、ディナーショーの歌手に見紛うがすぐ実は人魚と知れて笑いが漏れる。内田健介扮する<人魚王>が、執事(人間の形をした亀=目印は甲羅に見立てた背中掛けのリュック=ノートPCが入る形のしっかりしたサラリーマンがよく背負ってるやつ)に婚前逃亡を図った娘を探すよう言いつけている。ここでのやり取りで舞台の背景説明。人魚界(海)でも、ここは西の海で、結婚相手は東の王子。東が西の方まで幅を利かせて来た昨今、人魚同士の対立の根を断つというのが思惑らしい(関西人の東京人への目線を何気に反映?テンプレだろうか)。政略結婚の色合いはあるものの悪人にも見えない王は、ちょっとした独りよがりキャラ。でもってこの王、かつて妻には人間と駆け落ちされた過去あり、少し前には長女が人間と為さぬ仲となり出て行かれておる。残る姫は次女しかおらぬその姫、中々我の強いキャラで、これも人間界へエスケイプしようとしている。王の去った後、隠れていた姫の登場と相成るが登場するなり「人間界に自分も行く」と言われ困惑の執事。王の司令に従い、こわ~い魔女の許可がいるんだぞお~とか、人間の男と相思相愛にならなければ人間界に行けないルールや、尾ひれが割れて両足を持つので暫く足の激痛に悩まされる(これは本当なので仰々しくなく説明)等と引き留め作戦の間抜け振り。結局次女は「時代が変わった」ため厳しくなくなったルール(昨今の風潮でバイオレンスな要素は廃止の方向的なノリ)のお陰で人間界=浜辺に辿り着く。これを助けたのが、中学で同じ部活に所属する男女の二人組(ディベート部ともう一つ。実はその二つが得意な男子が好きで女子の方は入部している・・そのバレバレ演技も笑わせる)。姉の方はとある青年と相思相愛となり結婚して人間界に居ついているのだが、地上に上がった次女は二人の世話になる。姉の夫は内田健介が役を兼ねる人間界での「町長」の息子。以上の登場人物の前に立ち現れるのが、貧しい地方の一町村の前にチラつかせられていた原発を蹴って代わりに出て来た「再生エネルギー」すなわちメガソーラー誘致の話。さて物語は無敵キャラの次女の動静に注目させながら皆が一役担いながら当然、大団円へと向かうのだが・・
こんな芝居を作者は元々書いていたのか、あるいは新機軸か・・今後も注目であるな。
「驟雨」「屋上庭園Ⅱ」

「驟雨」「屋上庭園Ⅱ」

やしゃご

アトリエ春風舎(東京都)

2025/12/07 (日) ~ 2025/12/08 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

料金が安いのでリーディングかとほぼ決めつけで観劇に参った所が、ガチ演劇。稽古もがっつりやっただろう。
岸田戯曲を現代を舞台に変えて上演。ただし照明は地明りのみ、音響は無し。(「驟雨」では最後に雨が降る印象的な場面が来るが、流石に入れたかったろう雨音も入らず。)
二演目とも、岸田作品上演でよく目にするタイトルだが内容は不知。なので優れた翻案と思えたがどの程度遊んだのか不明。後で答え合わせしてはみたい。
もう一つの驚きは、役者の演技の精密さ。大胆に遊ぶ演技・演出もあるが、岸田戯曲が要求するものでもあるか、互いの心情の微細な変化が、役者の佇まい、細やかな仕草、目線、表情等等を通して見える。現代口語には青年団系の俳優(演出?)は流石、と思わせる。台本と、役者と、頗るクオリティが高い。
同様の試みを今後も展開したい意思表明あり、カンパ要請もあった。継続に期待。

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