
一九一四大非常
劇団桟敷童子
すみだパークシアター倉(東京都)
2025/11/25 (火) ~ 2025/12/07 (日)上演中
実演鑑賞
満足度★★★★★
何本か前、やはり炭鉱を題材にした「史実」を再現した舞台があったが、今作もドキュメント寄りの舞台。もっともいつもの桟敷童子色は(いつも以上に?)炸裂。客演を合せた陣営も素晴らしい。

劇団鹿殺し Shoulderpads 凱旋公演+abnormals 3作同時上演
劇団鹿殺し
駅前劇場(東京都)
2025/11/30 (日) ~ 2025/12/07 (日)上演中
実演鑑賞
開演時間からして上演時間短く、エジンバラでやったというので身体系パフォーマンスかな、程度の予測で、濃い味のキツい鹿殺し(実際観劇途中に貧血気味になった事がある)とは一味違うのが観られるかも?と静かに期待を抱きつ駅前劇場へ。
英語バージョンで現地でやった臨場感も味わいながら、完成度の高いパッケージを楽しんだ。知る人にはこのShoulderPadsと聞いてアレか?と分かるのかもだが、この命名の理由が開演後ほどなくして分かる。
「目のやり場に困る」系のパフォーマンスは大川興業や東京ミルクホール(のJJGoodman)でこそばゆく目にした記憶が蘇るが、こちらは五人の男が「銀河鉄道の夜」の鹿殺しバージョンの描出というミッションに過酷に動員されるのが見物、飽くまで演劇作品としてドラマ叙述に着地する。主役ジョバンニをやる菜月チョビを懐かしく拝む。彼女の澄んだ歌声に男らのコーラスが重なり、ミュージカルの高揚が身を包む。
一時間という長さも丁度良い。

あたらしいエクスプロージョン
CoRich舞台芸術!プロデュース
新宿シアタートップス(東京都)
2025/11/28 (金) ~ 2025/12/02 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
岸田戯曲賞受賞作との記憶あるのみ、中身は未知数(知らない俳優も多いし)ながら、Corich舞台芸術主催、第二弾という事で観劇す。直前に「映画物」とだけ目に入る。堀越涼演出であった。て事は音楽の比重も高そう。実際そうであった。感想はまた。

THIS HOUSE
JACROW
新宿シアタートップス(東京都)
2025/11/19 (水) ~ 2025/11/25 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
終わってみればじんわり沸々湧き出ずるものあり。
近代民主主義発祥の英国で、二大政党である労働党と保守党(その他の少数政党もある)の法案審議の都度熾烈な駆け引きが繰り広げられる様を通して「民主主義」という錦の御旗(これを裏付ける権威として王室も機能している)をギリギリの所で守り抜いている国家の矜持がじんわりうっすらと浮かび上がる。
どちらかと言えば労働党側に視点を置いて描写され、やがて不信任案の動議で政権が解体、サッチャー時代を迎える直前で芝居は終わる。そして短いテロップが流れる。経済重視の政策を推し進めたが格差は広がり人々は苦しむ事となった・・。作者の結論。明快だ。

勝手に唾が出てくる甘さ
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)
2025/11/14 (金) ~ 2025/11/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
今作も楽しい1時間50分。
本公演早くに完売であったが、当日券をゲットしに開演40分前の抽選に足を運ぶ。前回公演ではB1で長蛇の列であったがKAATでこの日は十余名、結果は当日券数名、キャンセル待ちも4名が入れた(自分もキャンセル待ち組)。
この日はトークがあり、芸術監督長塚氏が城山羊の会への思いを語り、作演出山内ケンジ氏に色々と聞き出す。脚本執筆のくだりは興味深く会場から笑いが出ていた。初めに決まっていたのは「最初に歌を歌う」だけ、あとは成行きで。稽古始めに出来上がっていたのは半分弱。そうか。ゼロから生み出す営為は面白い。
お芝居は例に漏れず、男女の「いけない関係」を軸に諸々。岩谷氏、岡部氏が変わらずとぼけた役どころで支え、全登場人物のお間抜けな人間っぷりが充満する。人間は欲望の存在であり、それは充足されたりされなかったりは当然であり、人生その視点で眺めれば様々な「追い求めとその結果」の連続という事になろう。これを笑える時間の贅沢。

真夜中に挽歌
Y.T.connection
上野ストアハウス(東京都)
2025/11/20 (木) ~ 2025/11/24 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ぶっちゃけ松田優作、という孤高の存在の秘密というか、片鱗を覗き視たくて訪れる。特段フリークでもないがた。恐らくそういう人達(あるいは何らかの繋がりのある人達?)が大部分だろうと想像しつつ上野ストアハウスへ足を運ぶ。地下へ下り、賑わう客席を眺めると、どことなくそんな空気が。
ある意味で予想したような内容であったのは、脚本は短編であっさりと終える。鮮烈な短編映像作品が撮れそうなハードボイルド作品で、ATGが持て囃された時代の空気を感じなくもなく・・。そして上演前にお連れ合いの語りの映像、上演後に松田優作と音楽で関係した二人によるライブ、トークで一つの出し物であった。
一俳優を偲ぶイベントであり、具体的なエピソードにも故人の存在が三十年を経た今に伝えて来る何かを、観客は持ち帰った事だろう・・等とうまく纏めるつもりはないが何かを求めて訪れ、何かを持ち帰った事だろうと想像されるやはり存在だな、と。
夫人曰く「不器用だったが・・」それを凌駕するエネルギーが彼の真骨頂という言葉を、自分の中にも幾らかある故人の残像と重ね合わせ、何かを読み取ろうとするその欠片をもらった時間。短時間ながら個人と接触した場面を生々しく語るトークは面白かったが、芝居の方はやはり映像向き、人物の行為と発語にある何かを色付けする事で人間と社会を抉るものになる・・その印象。

存在証明
劇団俳優座
シアタートラム(東京都)
2025/11/08 (土) ~ 2025/11/15 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
“数学物”には惹かれるものがある。先般ラビット番長が将棋物でAI(書いた当時は人工頭脳あるいはコンピュータと呼称していたか)との対決を織り込んで人情劇にしていたが、将棋やチェスはまだ「勝負」がある。数学は(純粋数学、という言葉があるらしい・・本作ではこの語句が重要ワードに)純粋に「数に関する法則」をただ見出そうとする営みで、結果その理論が実用に資するとしてもそれは二の次、法則性という「美」を彼らは追い求めて行く。前世紀前半(戦前)と1970年代現在を舞台に長田育恵女史は数理に一定程度踏み込んで作劇をした。
素数が現れる現れ方に法則性がある、との予想(数学の世界ではある定理の存在を一定の根拠を示して提示し=「予想」、それを何世紀にもわたって「証明」しようとする数学者のドラマがある)を証明しようとした数学者の生きた時代と、その子の世代のドラマは前者が主に男性が、後者は主に女性が担うが、その対照にも含意がある。
ドイツの暗号を解読したチューリングも登場するに及び、総花的な感もあって(他の方が述べていたように)「詰め込み過ぎ」と言われれば確かに。ではあるが、数理に踏み込んでドラマを描いた意味で長田女史の記念すべき仕事と言えるのではないか。(過去フェルマーの定理を題材にしたちょっとしたお話をユニークポイントが上演し、近年ではチューリングを扱った海外作品もあったが「人間・チューリング」を「暴く」といった趣き。「数」に捕われた者たちの棲む、ある種異界に踏み込んでの作劇は私は超難関に思えていたので感服しきりである。)

山吹
遊戯空間
六本木ストライプスペース(東京都)
2025/10/18 (土) ~ 2025/11/23 (日)公演終了
実演鑑賞
遊戯空間の「妖話会」は二度目。リーディングを彩る「場」の選定(前は確かプロトシアター)、ストライプスペースは以前オフィス再生「正義の人々」で訪れ(その時出演の加藤翠が勧めたもの哉)、三年振りに六本木駅から坂を下った。
さて「山吹」、一年以内に読んでいるのだが、鏡花流の耽美な小品で「舞台化」を思い描きながら(ある人が本作の上演を目論んでいると耳にしたので)読んで興味深かった。が「興味深かった」記憶のみで他の収録作品と判別つかず、会場で確かめる事に。
リーディングであった事を開演して合点し、脳のスイッチを慌てて切り替えるも疲労の身がこれに堪え得るか一抹の不安。予感通り、開幕後暫く状況が把握されず時々意識が飛んだ。
だが和楽器の設楽瞬山、篠本氏(人形使い)、加藤翠(小糸川子爵夫人)の妖気立上る演技、中村ひろみ(その他の役、ト書)の語りが濃密空間を作り、話の抜き差しならなさとこれを包む心地良さの角突き合わせに身を任せる。そして朧げな記憶がぼんやり蘇り、終幕を前に一気に鮮明になった。
元料亭の娘で華族に嫁いだ縫子が、身分を隠しつつ修善寺を訪れている事実、その理由が詳らかにされるよりは、ただ夫人の宙吊りにされた心の「昇華」を切望する心身状態が、たまたま遭遇した裏通りの店に飲んだくれていた辺栗という人形遣いに受け止められ、当てのない旅へ出る、という事の中から浮かび上がらせている。一方の自棄飲みの辺栗も、かつえた魂の昇華を淫靡な方法で遂げるのに夫人の手を借り(という場面があったが原作にあったかは思い出せず)、殆どあり得ないカップルの道行きが、夫人の強い意志に引き摺られるようにして始まる、というものであった、と思う。強風の吹き荒ぶ荒野へ何も持たず拠り所もなくただ二人が互いを支え合う信頼のみを頼みに、歩を踏み出す姿が、鮮烈であった事を最後に思い出したものであった。
世のままならなさ、個人の夢も国家の理想も、私利私欲と小賢しい計略、右へ倣えの非主体と裏切りによって穢され、魂の擁護のためには死か飢えか苦痛の道を行くしかない選択の局面が誰がしも、遠くない場所に潜んでいるのではないか。
この物語は修善寺を訪れた画家の目によって捉えられ、描写されている。画家が目撃した奇異な光景を、追体験する。画家という人物の感覚というフィルターを通す事により、より幻想的な趣きが加わる。画家はただ見たものを紹介しているが、この事件の本質は観客の想像に委ねられている。

トミイのスカートからミシンがとびだした話
新国立劇場演劇研修所
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2025/11/11 (火) ~ 2025/11/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
開幕と同時に若者たちの喧しい会話。祝いの場であるらしい。いつもの事だが職場を出てからの移動一時間は波乱の連続で(何しろ都内中心部の電車は遅延が多すぎ)、最後は初台駅からダッシュしたが受付預けのチケット発行の手間で間に合わず落胆。ロビーで場内の喧噪を耳にした。
程なく入場するも、基本情報が提示されるのであろうこの場面の言葉が入って来ず、目と耳が段々と開けて来たのが5分後あたり。ストーリー理解のための情報を類推で獲得したのが中盤(普通に見始めてもそういうものかも知れぬが)。
戦後の不良界隈で風俗商売から「抜ける」ためにミシンを購入したトミー(富子の源氏名?か渾名)を祝福する冒頭が、生きるために裏社会に身を置きながらも健気さののぞく初々しい場面だったのか、中には冷笑屋・茶化し屋が居たりもしたのか、起点が不明のため戯曲(作者の構成的狙い)の把握は不完全になったが、個々の場面自体は(特に後半は)引き込ませ、面白く味わい深かった。登場する若くも底辺に生きる者たちが、中には破滅志向であってもどこか深刻さが無く、後ろ向きな生き方を表明するそばから何故か前向きにも見えている。富子の独自な姿勢と目線が、救いを与えている。タイトルに滲むコミカルさが恐らく三好十郎の狙う所であった事は間違いなさそうである。

華岡青洲の妻
文学座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2025/10/26 (日) ~ 2025/11/03 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
サザンシアターでの文学座(過去2回は体験)はアトリエ公演の濃密さ的確さに比してかなり「落ちて」しまう。その理由は恐らく商業演劇っぽい年輩俳優の演技のせいであった。が、本作はそれが似つかわしい時代物の脚本であり、嫁姑の対立の一方を演じる女優も、息子の溺愛振りを「笑わせ」てよい役柄。
有吉佐和子の原作は、嫁姑の悶着問題を薬の開発に勤しむ青洲への「協力」を巡って剣呑な領域に踏み込ませる。時を経た後半、青洲の母は仏壇に祀られ、青洲の妻の目は光を失っている。平体演じた次女は、思い合う相手がいながら嫁姑のグロテスクな対立を目の当たりにして婚姻を遠ざけた人生を歩むが、早死にした姉と同じ病に犯された時、想い人であった青洲の弟子と歩んで行く覚悟を漸くにして持つ。青洲の妻と次女のささやかながらの紐帯が、最後に見えるのが印象深い。

わかろうとはおもっているけど
劇団 贅沢貧乏
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2025/11/07 (金) ~ 2025/11/16 (日)公演終了
実演鑑賞
気持ち良くなって眠ってしまった。抽象的とまでは言わないが比喩性の高い芝居なので、観方を見出す前に落ちた。苦言を言えば声が落ちて台詞が聞き取れない箇所があり、説明を省いた隠喩の効いた芝居は、ナチュラル演技で「声が落ちる」箇所が出てしまうならナチュラルを犠牲にしてでも明確に台詞を発語して届けてほしかった、というパターン。ただしリアル演技で伝えたいのは男の特性がどう日常的な男女の会話の中に紛れ込んでいるか、であろうから譲れない部分であったかもだが。
9年前に初めて観て以来の贅沢貧乏。断片的な観劇になったがその断片は面白かった。

虚構喜劇『野外劇 観客席』
吉野翼企画
戸山公園野外演奏場跡(東京都)
2025/11/10 (月) ~ 2025/11/13 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
観に行けた。幸なり。四日間4ステージいずれも16:30開演、日照の変化を測っての設定は野外劇ならではで希少感をくすぐる。制作担当に梁山泊ステージで圧倒した女優の名があり、オヤと思う。年齢と共に裏方に回る実力派を散見する劇界の現実を思ったが、ちょっと調べたら引退の齢にあらず杞憂であった(多分だが)。
余談はともかく・・寺山「観客席」だ。
成る程。70年代にこれをやっていたのか・・と驚き。無論「今」が盛り込まれたステージであったが。市街劇など様々な演劇的試行を残した寺山修司が「観客」にスポットを当てるなら当然、安全圏にいる観客と身をさらす俳優との関係の主客逆転を発想するだろう。大枠その通りであったが、これを挑発的に、また面白く視覚化する趣向、アイデアには舌を巻く。
「観客参加」場面がある。これを仕切っていた寺田結美が流石であったが、これを「この試みは失敗であった」の台詞で締める。奇しくも観客参加型というのは巧くいかない事が多い、というより、観客個々人が己を表現するというポテンシャルを持つには、そもそも一つの舞台のために役者も身体を酷使して繰り返し稽古をするのであり、同じ立場にイチゲンの観客を立たせるのは「無理」なのである。
一方で演劇なり「上演主体」が持ち得る影響力は侮れない故に、「観客よ、簡単に騙されるな」という警告は有効と言える。
一時間半の上演の中身は多様で密度が高い。終盤「プロの観客」なる概念が頻出する。心許ない俳優の演技も観客の拍手、笑い一つで生かされる。かつてのTV番組では拍手屋、笑い屋が居て拍手一回に200円、笑いに300円がもらえた。稼ぎになるから私は喜劇が好きだった、等の駄弁がまことしやかに。そして耳が痛くもあるが「観客」の本質を言い当てているのが彼らの「批判」(劇評)であり、「何が上演されようが、たとえ観なくとも、こんな劇評は書けてしまう」と紹介される「いかにも」な芝居を観ての劇評が穿っている。「総じて演出が時代がかっており、身体表現も一時代前を思わせる」「だが役者に光るものあり」「今後に期待したい」・・褒める所がなければ役者は褒める、役者もダメなら美術を褒める、等の身も蓋もない(作り手の寺山氏の皮肉全開の)真実。落としつつ褒め、褒めつつ落とす、すなわち観客という特権のありようは、劇評を書き・公表する行為で体現されているという事のようである。(例えば扇田昭彦の文章を読んだ者は「愛と知性の詰まった劇評」があり得る事を知っていると思うが。)
演劇批評としての「観客席」なる演目は、芝居とは詰まる所「批評」である事を大胆に直裁に言い切った点で特異だが、見終えた今、これは「演劇」であり、本質において何か決定的な差が他との比較であったようにも思えない、と感じている。
戸山公園「演奏場跡」に当るのだろうステージとなる丸いエリアを、一方の傾斜から見下ろす。
客席側にふとどこかで見た姿が、と思い出せばDoga2女優。団員が出演してでもいるのか、と気にしながら観ていると、それでなのか、よく喋る痩せ型の女優が(声や喋りからして)あの女優かな、またこちらはやや三枚目を演じるあの男優か、と。だが後で見れば当ては外れていた(Doga2俳優は出演しておらず)。麗羅なる一見怪優が十全な喋りを繰り出していたりだとか、観客を取り囲むように各所から台詞を出したり、音を鳴らしたり、「外部」に開かれた空間ゆえの自由が(そうやって物理的に広がる事で)具現する感覚。
客から募って男女一人ずつ台本を渡して読ませる時間がある。収容一人だけの劇場=段ボール箱に入る人を募り、終演まで箱の中からのぞき穴で覗かせられた客もある。出席を取ると言って観客の名前を読み上げ、質問を投げて答えさせる時間も。最初に渡された紙に書かれた文字を皆で(何かしながら)発語するという場面も。オーラスで吉野氏が前に立ち、客に一本締めを願ってやった後、俳優らが周囲から「こんな物作りやがって」「時間を返せ」等の抗議を始めるが、観客にも「この際言っちゃって下さい」と促した時は、非難ごうごうが起きた(笑、う所だ)。「観客参加」が成功したのか否かはともかく・・ここまで趣向が詰め込まれた演目だとは知らなかった。確かに、役者に力量が無ければまず成立し得ない演目。鳴り物入りで上演される訳である。

高知パルプ生コン事件
燐光群
「劇」小劇場(東京都)
2025/10/31 (金) ~ 2025/11/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「劇」小劇場での燐光群は初だったが、ちょうど良い空間だったのではないか。スズナリは観客とステージとのベストな距離を与えてくれる劇場だが、横長で客席との距離がより近い方が「台詞を追うのが大変」で脳味噌フル稼働を要求する作品にはきっと良かった。
社会の重要案件を如何に咀嚼しやすい劇に昇華できるかに、恐らく坂手氏の舞台製作のベクトルは向いているが、坂手流フィクションを成立させるお膳立てのための?情報量は多大なため、二時間に収めた劇の密度は濃く、観劇側も大変だ。
過去の出来事の解説や土地の名産の紹介といった台詞は、何名かの登場人物に割り振られ、情報を与えるためだけの台詞に「日常会話」という心情の流れを付与しつつの発話の綱渡りがいつも大変そうだな、と思う。
それはともかく。大量の台詞と格闘する役者を通じて(「台詞に追われてる」感を一瞬も見せずに立ち通せたのは森尾舞、樋尾麻衣子くらい)、絶妙な構成でドラマの感動が生まれる坂手氏の面目躍如と言える作品であった。
高知の浦戸湾に排水汚染をもたらす公害企業と闘う住民運動がかつてあった。戦後間もないその当時へ、2022年の岡山の台風の最中「ある物」を目撃した父娘を作者はタイムリープさせる。二人の目に映る住民運動の顛末が、現代の環境問題(PFAS)と対峙する覚悟を促す展開が用意されているが、各場面の趣向が中々美味しい。住民運動の中心人物である山崎氏(猪熊恒和)の飄々とした佇まいと含蓄ある発言や行動が、史実をなぞって(恐らく)描かれている。悪臭と健康被害の実態の証言があり、労働運動の現場からの取り組みがあり、その延長で従業員の一人に「風船爆弾」(彼女が戦中体験した)の話も一くさり入る。現代から来た父は暫くの間記憶喪失状態となり、現地住民らと不思議な交流があるが、タイムリープを引き起こした「原因」であろう現代の岡山県のPFAS汚染へもやがて視線が向かう。2022年の大型台風時に櫓に上った二人はダムの上流に放棄された大量のフレコンバックを目撃したが、後日それは完全撤去されていた。父も娘も米国基準の百倍単位のPFAS蓄積が検出される。これらは今現在の当地の現実。殆どメディアに取り上げられないが。太鼓の伴奏で歌を歌い、おもちゃのピアノの伴奏でふるさとを歌う。概して躍動的な場面がちりばめられ暗く沈む事がない。運動を担った人々へのリクエストがそうさせているようでもある。ただ時間の複雑な構成、「仮想の過去」を入れ込む辺りは脳が追いつかず置いてかれそうになる。エンパワーのための演劇。各々の事情で動いていた人物らが最後は皆仲間に見えている。そして現代へと声援を送る姿が焼き付く。

『眼球綺譚/再生』
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パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』(東京都)
2025/10/29 (水) ~ 2025/11/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
リーディング「眼球綺譚」を以前新宿眼科画廊へ観に行っていた(7年前)。この時はスケジュールの合間を埋めるように思い立って出かけた記憶だが、不運な事に(不運率は高いが)ほぼ全編睡魔に見舞われ至極残念な思いをした。
今回は同じ題名で宣材の雰囲気も似ていて「もしや?」と調べたら同じ製作主体。会場が絵空箱という事で前より幾分余計に趣向が盛れる空間でもあり、期待しつつ観に出かけた。「再生」を観劇。
リーディングは面白い。奥深い。リーディング用に編んだだろう台本とは言え、ほぼ小説を「読む」時間。従って作品の面白さも必須だが、それを含め主宰高橋氏が綾辻行人氏のこの短編小説に執心というのも分かる甘味な(内容的には苦みもあるが)時間であった。
読む人が「読み」に徹するというのか、登場時から「読む人」でありながら「あちらの人」になっている。役者本人(素の本人)として客と相まみえる時間はない(終演後に照明が明るくなって笑顔・・は無しである)。
小説の地の文は男が主格であるので男の目に映る情景と心情が語られ、女は男が見る対象として印象深く出現する。
後で作品をネット検察すると「ホラー」書籍のカテゴリーで紹介されたりしている。作品は面白いに違いない(というか面白い)が、通常の読書では無論この感覚は得られない。
青白く染まった舞台を思い出しながら、どことなく声を殺して語ってしまうが、もう一作も観たい(時間が許せば)と思っている本心を吐露しておく。
(江戸川乱歩の「赤い部屋」に集った面々を思い出すちょっとした背徳感。)

舞踏/音楽 即興劇 「起源論」
東京戯園館
座・高円寺1(東京都)
2025/10/29 (水) ~ 2025/11/02 (日)公演終了
実演鑑賞
この名義の公演は座・高円寺でここ数年毎年やられていたようで(座高円寺公演情報は押えていたはずであるが..)今回が初めてであった(舞踏であった事は当日劇場で知った)。
初耳の名前を観に出かけたのは競演者の名が目を引いたから。日替わりの競演者は皆音楽家でとりわけ初日の二名は少々特別感あり。一人が林栄一(sax)、一人が石渡明廣(g)。前者は40年スパンで日本のジャズ界の第一線で活動する人。ライブハウスのラインナップを見ていた大昔はこの名前が頭一つ出た所(バンド)で演奏。後者は言わずと知れた祝祭的(法外)バンド渋さ知らズのリーダー。恐らくはジャズ畑の人だろうと踏んではいたのだが、今回その無尽の音世界を堪能した。80分の上演時間ほぼ全編音を出す。林氏もサックスの持つ音の迫力、美しさ、繊細さを体現するが、既に老境にある風貌に驚きつつ「現役の音」にも驚いた。
これはほぼ音楽ライブである、と思いつつ、初の工藤氏の動きも目に入れていたが、音が彩る「相」のダイナミックな変遷に導かれて、という所が大きいのであるが、音に乗っかりつつ蠢いているだけの相関と見ていたら、最後には音に拮抗する存在として俄然姿を現わして来た。舞踊には踊り手の数だけ「言語」があると思っているが、工藤氏の中では一貫した何か(言語体系?)が、最終的には観客に見えて来たという事だろうか。危機と逼迫の時間、事態を俯瞰する時間、世界を愛おしむ時間・・それらとシンクロする身体があり、緊張の持続する時間が一つの作品と思える最後を迎えるという感じ。こちらの深読みもあったか知れないが、胸が熱くなる瞬間もある。
林氏とは以前一度競演歴あり、石渡氏は前回に続いて二度目という関係。過去作品でも競演する「音楽」を重視している事が分かる。しかし全く異なるだろう別日の「音」とのコラボはどんな空間を作るのか、と興味は募る。(観には行けないが・・)

デンジャラス・ドア
劇団アンパサンド
ザ・スズナリ(東京都)
2025/10/23 (木) ~ 2025/10/29 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
前のアンパサンド公演の受付に置いてあった未見の戯曲「デンジャラス・ドア」は読みかけて中途で終っていた。「ドアが勝手に閉まる」のに気づいた新人社員の女性主人公と先輩女子社員のその先の顛末を、劇場で見る事となった。
アトリエヘリコプターで観た第二作「サイは投げられた」、「地上の骨」、最近の「歩かなくても棒に当たる」と続くスプラッターな阿鼻叫喚系で、「地上の骨」までは普通舞台では見せない(見せられない)設定を手作り感満載のギミックで強引に見せてしまうのだが、他ユニット、爍焯とに書き下ろした本作(「地上の骨」の前)も、この時期らしく工作物が大活躍する絶叫舞台。(ちなみに爍綽とによる初演は浅草九劇で。主宰佐久間氏の役を今回安藤奎が演じ、他は同じ配役であった。なお爍綽と版の演出も安藤氏。)
西出結が前作に続いて出演。先般の東京にこにこちゃんにも同じく主役で。故・鎌田氏のナカゴー/ほりぶんの後継を競う(とは小生の勝手な見立て)両ユニットは「笑い」が要だけに役者を選ぶようである。別役実の世界の具現は「難しい」と以前しきりに書いていたが、要は「役者を選ぶ」という事なのかな。「笑い」系であるので。
劇の感想が全くであった。また後日。

カメレオン探偵
人となり
アトリエファンファーレ東新宿(東京都)
2025/10/24 (金) ~ 2025/10/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
未知のユニットであり、しかも今回は前2回とは趣を異にする公演らしく、中心を担った出演者の説明によれば「人となり」さんの屋根を借りての公演、という事らしい。以前見たホームページに関心のフックに引っ掛かる何か(約めれば多様な要素から成るパフォーマンスとの方向性)が、今回の舞台に見出せず。と言っても元々不知の製作主体であるから、通常モードとの違いは判らず、推測を諦めた。
お話自体には昔~し大学演劇を付合いで観に行った時のボヤッとした「物語を語り切れてない」薄い感触が残り、加えて自分が疲労ゆえ意識が斑な観劇にもなり、行間に埋めこまれたかも知れないものは読み取れなかった。
舞台の中心は吉本の若手(一年目)の漫才コンビ。二人がまず「前説」的に登場し、「拍手」ネタで引っ張るが、漫才の一節でもやって笑いを取る、はなし(やる必要はないのだが・・芸人でーす、と登場するなら多少の「売り込み」があっても・・と)。入りの「いじり」(観客依存度)を凌駕するストーリーの引きを当然期待してしまうが、こちらの語り口、独特だけれども中々本題に移らずの感。ネタ的な枝葉に逸れて行く。それでも肝心の「物語」のとば口が開かれていれば、長すぎるペンディングも耐え得るのかもだが、「カメレオン探偵」というタイトルの振り=「事件(これは最初に殺人として提示されるが漫才コンビの一人が突然倒れるだけで背景は全く不明)」~「探索」~「意外な真実に辿り着く」といった定型を想像しつつ併走するも、斑な意識ゆえ言い切れる訳ではないが「何が謎」「何がその正体」まで語り切れていなかったのでは・・と思った。
参照事項として思い浮かぶのは、このユニットの出自が多摩美である事。
一度だけ観た多摩美での(文化祭か何かで)本域で作られた芝居というのが、内容殆ど覚えていないが(観た直後の印象だけは残っている)、イメージが飛躍するままにセオリー無視で突き進む、逆に恐れ入ったような体験だった。「意味」の担保を何重にも与えられた確立された舞台とは対極の、無意味という言葉が浮かぶようなパフォーマンスが、学生たちの「熱」(だけ)によって成立しているのは、「天晴れ」これである。
多摩美の伝統が何であるか等は知らぬが、同じく多摩美から出た妖精大図鑑、舞踊という土台はあるがイメージの奔放さの点においては共通すると言えるか。
いずれにせよ、今回「人となり」を知った実感を得られなかったので、別の機会を楽しみにしたい。

三文オペラ
シアターX(カイ)
シアターX(東京都)
2025/10/04 (土) ~ 2025/10/07 (火)公演終了
実演鑑賞
このプログラムもシアターX主催、例の井田邦明氏演出の音楽系舞台。
三文オペラをオペラで観たのは初めて。女性も男性も高音の野太い声を音程差極大のビブラートで出すと、この作品の興趣が殺がれるような・・恐らく中盤以降、太い声で歌う場面が増えたのか、繰り返し耳にしていて許容量を超えたので耳について聞えて来たのか・・こう申すとオペラ歌手(の声で歌える方)の方には申しわけないが、先に知っていた演目であった事もあり、声質と作品のマッチングに若干ではあるが違和を感じた所である。
だがクルト・ヴァイルの曲は名曲揃いで、既にガーシュインが居たが前世紀前半のドイツでも先進的な楽曲として聴かれたのでは、と思ったりした。現代はもっと複雑な和声と旋律の絡み方のある楽曲があり、ふと林光を思い出したりした(その先駆としてあったのでは、と)。
そうか音楽畑の人々にとっても「三文オペラ」は取り組むべき範疇の作品なのだな。
しかしブレヒトという人は人間の一筋縄で行かなさを軽妙な台詞と意外な展開(人物の行動)で描いてみせる。主人公である女垂らしのメッキー、彼と対峙することとなる物乞いを牛耳って金儲けしているピーチャム、メッキーに借りがあり敬愛している警視総監のブラウン、メッキーの新妻ポーリー(ピーチャムの娘)、結婚の約束をしていた別の女、彼が出入りする娼館に居るかつてのメッキーの恋人ジェニー。それぞれの独特な行動により、メッキーは追い詰められて行く。
娼婦ジェニーはメッキーを警察に二度も「売る」のだが、その感情は明かさず、行動だけを観客は見せられる。しかし人生を最大限「遊んでいる」(勝負している)感のあるジェニーの女としての振り切れ方は、メッキーに極上のカタストロフ(破滅)を与えているようにも見えるし、それぞれ流の法外(法は二の次)に生きる人物たちの躍動が、世相を皮肉り笑っている。そこにこの作品の底知れない魅力がある事を再認識。

朧な処で、徐に。
TOKYOハンバーグ
ザ・ポケット(東京都)
2025/10/15 (水) ~ 2025/10/20 (月)公演終了
実演鑑賞
初演の微かな記憶が、少しずつ蘇って来た。こういう作品だったか・・と。女性劇作家の苦労を描いた秀作、という記憶であったが、劇中の各フェーズに通底するテーマ「人(存在)との別れ」の最もコアな(メインの)フェーズを忘れていた。
劇作家のいる現実の場面以外の場面は、彼女の書く作品の世界であったり、回想される過去だったり、また別の現実の場面だったりするが、後から謎解きされるのが面白い。時に作中人物と作者が対話したり、案が没にされかけた方の人物らがリストラするなと騒いだり、作者の脳内の葛藤・格闘が垣間見えてこれも面白い。ただし先述のコアなフェーズは現実のそれ(彼女の取材先)でありながら、書かれた作品のそれにも見え、実と虚の混濁の具合が、劇全体を劇作家の執筆現場であるかに印象付けている。
その意味で自分の記憶は正しかったと思うが、劇作家自身がその本質的なテーマを問い、問われ、作品を書いている、その図式にもう一つ感動の種があったよう。

ロンリー・アイランド
ティーファクトリー
ザ・スズナリ(東京都)
2025/10/10 (金) ~ 2025/10/19 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
電車遅延で冒頭を逃し、約10分経過した時点から観劇。冒頭に伏線が凝縮しているのかそうでないのか判別つかず。「戦争」の時代である近未来の風景が、斜に構えた目線の中に真顔がよぎるような調味の塩梅で描かれている。加藤虎之介(空気が似てるなァとは思ったが風貌からは本人との認識に至らず)が担った役が戯曲のその目線を体現しており、舞台をある意味で織り上げていたとも言える。
21世紀は人類から戦争を召し上げられぬ事を我々に知らしめたばかり。80年間自国だけの平和を享受した日本が、「戦争抑止の装置を手にしてはいなかった」事実も早晩目の当たりにしそうである。
今の世相、「戦争」の概念が記号として、「感情」を遠因とする主張や感情表出に用いられている中、戦争に接する事を余儀なくされる時代の手触りを伝える舞台。