
ある夜をめぐって
パンケーキの会
駅前劇場(東京都)
2026/01/29 (木) ~ 2026/02/04 (水)上演中
予約受付中実演鑑賞
満足度★★★★★
パンケーキの会初観劇がcafe音倉での「壊れたガラス」リーディング。古典に属する作家の戯曲発見の喜びと共に記憶に残っていたので、これを再度取り上げるという事で楽しみに出かけた。緊迫の時間を作ったリーディングが、今度はストレートプレイとして駅前劇場にて立体化(2演目をやるというから両作品共リーディングか?とも想像していた)。舞台化によって緩まるどころか、スケール感も大きくなり休憩無し2時間超えにして緻密に構築された舞台となっていた。
この濃密さは昨年末同じ駅前で上演された「Downstate」を思い出させたが(これは読売演劇賞優秀作品賞ほかの賞を獲るに至り、我が意を得たりだった)、何十年前の戯曲、しかも当時の世相にコミットした時代性の強い作品が、現在を仄かに示唆する力を持ち得る事に感慨を禁じ得ない(劇評家が書きそうな文言で申訳無し)。
本作はナチスドイツが台頭する時代背景があり、アメリカのとある町では遠い場所の出来事となっている。主軸はある夫婦を襲った健康上の問題(夫人の足に麻痺が起きた)であり、夫はユダヤ人。彼らを取り巻くのがその治療に当たる医師(夫の知人でもあるユダヤ人医師)、その妻、夫人の妹、夫が勤める不動産屋の上司(=社長)で、ドラマの縦軸が治療の過程、それも精神的な、という事もあって、人間の内部へと分け入って行く。その過程で登場人物らの実像も場面を重ねるごとに見えて来る面白さ、感動がある。人物全て、不明な状態からまるで人が知り合って行く過程を経験するかのようであり、彼らは決して観客を裏切る事なくストレートに真実の姿へ近づいて行く(ドラマを盛り上げる都合のための言動が皆無であり必然性がある、と思わされる)。
戯曲の力と共に、俳優の造形力にも圧倒される。全てが噛み合って舞台という仮初の場に「確かに存在した」人間の時間を精巧に具現させた事への感動は、演劇の最も上質な部類の感動である事を再認識させる。ベタ褒めである。

ミュージカル『青の砦』
演劇によるまちづくり・かわさき実行委員会
ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)
2026/01/28 (水) ~ 2026/02/01 (日)上演中
予約受付中実演鑑賞
公募による若者の舞台、学生運動、青春・・・想像しづらかった理由は色々とあったが予想を裏切る入魂の舞台。所謂市民参加ミュージカルのレベルぢゃなかつた。
休憩挟んで中々の上演時間であるが、丁寧に積み上げられた先にしか描けない場面が現れる。詳述したいがまた後刻に。

舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
ホリプロ
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2026/01/10 (土) ~ 2026/02/01 (日)上演中
実演鑑賞
既に公演も終盤。例によってキャスト陣を改める事もせず劇場へ駆け込み、真っさら頭で観劇(俳優に無頓着では今やないのだが..)、流石に藤原竜也は分かったが他は博士役の声に聞き覚えあるのみ(池田成志)。「一体誰だろう」と後の答え合わせが観てる内に楽しみになる。
自分的に出色は森田望智(みさと)、セカ終とワンダーランド両の世界の女性役が最初青い衣裳を共通点にした別の俳優かと見紛った程、キャラと顔立ちまで違って見えた。やり手とは聞いていたが成程であった。
原作を読んで30年以上経ち記憶の底に沈殿していたものが、徐々に思い出され、かくもストーリー性のある小説であったかと驚きもあり、ラブストーリーであった事や、二つの世界の関係も。。

紛争地域から生まれた演劇シリーズ13
公益社団法人 国際演劇協会 日本センター
東京芸術劇場アトリエウエスト(東京都)
2021/12/11 (土) ~ 2021/12/12 (日)公演終了
映像鑑賞
もう5年を経てのレビューだが、コロナ期の鬱屈を「演劇」という表現に昇華した一人語りを集めた作品。絶望に閉ざされた何年間かがあった、それは事実。そして経験しなかった「新しい病気」に直面するという事態におののき戸惑い理不尽さに嘆き怒り、また得難い少数者代表は冷静客観に捉え、伝える。・・このモノローグがどの程度、どのような人々の心を「癒やした」かは判らない。突然の爆撃に火の如く泣くしかない紛争地での幼児の姿が、重なる。ただし厳しい目は紛争を起こしている大人に向かう。だがコロナでは、その目を誰に向けることも出来ず、鬱屈だけが吐露される。このやるせなさ、というより消化不良は、有効な何かであり得るだろうか・・それがこれを観た時の感覚であったこと「だけ」思い出す。
自己の内に引きこもりがちな時、他者との共感ないしは他者への関心をつなぎ止めようと、恐らく上演を前提にこれを書いた作者は試みたのだろうとは思いつつ、実際にあった当人ではなく「代弁する」俳優を通してこれを観ることの意味を、あまり感じる事ができなかった。「忘れちゃいけない事だね」との教訓だけ、脳内にしまい込んだ。そんな感じであった事を思い出したので、書き留めておく。

さらば曽古野遊園地
アガリスクエンターテイメント
すみだパークシアター倉(東京都)
2026/01/22 (木) ~ 2026/01/25 (日)公演終了
実演鑑賞
アガリスク観劇2度目。(といっても一度目は「ナイゲン」初演版リーディング、という変則であったので本ちゃん舞台は初見である。)
面白みの随所にある脚本でありステージであったが、こういう考えオチを狙うタイプの芝居は、リアルを貫徹する濃密な演劇に及ばない、という考えがもたげてしまう。最後に限らず各所で「落とし」が仕込まれるが、その細工のためにリアルを僅かずつ犠牲になり・・否、私の見立てでは「落とし」の使命を果たす「だけ」に集中して人物の深まり(全行動・全存在の一貫性による)を俳優の第一義使命としておらず、それがために演劇の快楽の重要な半分をみすみす逃しているのではないか、と・・。人物の「らしさ」の表現こそ演劇の快楽であるところ、それを目指した部分が無い訳では無いのだが、ヒューチャリング度の小さな役でも「らしさ」で一瞬でも強い光を放つ事もある、そこである。
ただし舞台となる遊園地に「密命」を受けて送られた者が、どうそれを遂げて行くのか・・という構図を下敷にして、描かれる各エピソードのバリエーション、入射角度、多様な笑いと盛り上がりの仕込みは業師のそれである。自分の中では「素」になったかのような笑い(役者力を試す笑いと言える)を佐藤B作を絡ませた格好で試みた場面に好感であった(スマートさを追求する向きには冗長な時間だったかも?と思わなくないが...そういうのをどんどんやってくれとは私の願望)。
という訳で、リアル志向の自分的には「勿体ない」と感じる所は大であるが、公言している今回の試みも含めてとにかく挑んで行ってほしい。そう言えば20周年を刻んだというが、見た所まだ全然若い。しかもこの人数の劇団員が健在というのが驚きである(そこかい)。

ワンアクト・ミュージカル・フェスティバル
ワンアクト・ミュージカル・フェス実行委員会
シアター風姿花伝(東京都)
2025/10/09 (木) ~ 2025/10/20 (月)公演終了
映像鑑賞
nooの「モイ・ミリー ~ユリウス・フチーク 最後の手紙~」を映像で観た。モスクワカヌ作、赤澤ムック演出、伊藤祥子音楽。映像での舞台鑑賞は集中しづらいが何とか没入視聴し、中々の力作ミュージカルであった。ファシズムに抗った一人の新聞記者の獄中からの告白を、時折現われる所在の不確かな男(性別を超えた風情もあり、フチークの幻想のようでもあり)との対話を挿みながら、紡いで行く。前向きであり続けようとするフチークの姿が、濃い陰影の中に浮かび上がる。シニカルに突っ込みを入れる男には精一杯の反論で説き伏せ、希望が消えた訳でない事(希望とは自分が生き残る事ではなく自分らが切望した未来の実現の事だと彼は言う)を証明しようとするかと思えば、真情吐露し、己を偽らない自分である事を証明しようとする・・。元気一杯で無敵のように見える彼の印象が少しずつ、変化する。
ふと飲まれそうになる悔恨の念、同志でもあった妻の転向の疑いの片鱗が、告白の中に一瞬、通り過ぎると、彼の希望を見続ける姿の背後に暗く広がる闇をも忍び寄って来る。が、にも関わらず(死を目前にしても)未来を見据えるための言葉を紡ぎ続けるフチークの引き裂かれた内面が、歌と台詞が重ねられるに従い湧き上がり、フチークとは私自身であり時を隔てた友達と認めるに至る。
二人芝居が必然である内容。
もう一つのGroupB「檸檬SOUR」も観たかったが、この期間(~1月12日)でやっと一本観る事ができ、もう一本は難しかった。(再びの機会を期待)

口いっぱいの鳥たち
理性的な変人たち
ウエストエンドスタジオ(東京都)
2026/01/15 (木) ~ 2026/01/18 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
キャリル・チャーチルという英国女性の書き手を知ったのは、書物の中で著名劇作家の一人として紹介していた事からであったので、過去の人という認識だったのだが、実は息長く第一線の人であるらしい。昨年漸くその上演を初めて観て、その挑戦的な筆致と筆力を知るに至り、この度は注目の女性ユニットによる舞台という事で楽しみに待った一人である。
もう終わってしまうが、お勧めの舞台。
とは言え、晦渋なテキストである事、そのため、少々狭い客席が苦痛となる時間はあるかも知れない事を、お断りする(休憩はあるので大丈夫・・つってももう公演は終わるけれど)。
難解ではあるが、舞踊をバリエーション豊かに組み込んだり、演出の妙で刺激的な時間となる。以前観たシヅマの「最後の炎」が同程度に厳しいテキストながら演出の妙で最後まで観られた感じに近い。折り重なる言葉が最後には深く心に沈潜して小さく発火する。
トークによれば本作はキャリル氏が別のもう一人の脚本家と振付家、そして俳優たちとのワークショップによって作り上げた舞台で、「その時その場所その俳優たち」との作業によって成立した上演であったらしく、書籍化もされていない(恐らく上演記録だけはあった)作品を翻訳作業から立ち上げようとした企画であった模様。
ここに書いてしまえば、英語版台本の翻訳監修として松岡和子氏に相談した所、以前とある学生二人がキャリル・チャーチル研究の一環として本作を翻訳したものを送って来ていたとの事。これを底本に借用し、難解な本作の台詞の背景や文脈解釈を試み(出演もした岩﨑MARK雄大氏も当初から関わった一人という)、複数のキャリル研究者たちにも質問を投げ、舞台化を模索し、伊藤キム氏の振付の力も借りて上演に辿り着いたという苦労話が、若い研究者である金田迪子氏をゲストに展開。真摯な研究姿勢が窺えるような語り共々興味深く聞いた。
ウエストエンドスタジオも久々確か3度目の訪問で、地下の立方体に近い四角い箱のコンクリの土間へ、幅広めの階段で下り、二面、四段の客席の一角に収まる。ひしめいている。そして開演。豚に恋をするビジネスマンの話、アル中治療中の娘と母のくだり、性的異形の身体を持つ男(女)の二度と訪れない只一つの恋の告白・・また本作がモチーフとしているらしいギリシャ悲劇「バッコスの信女たち」の断片など象徴的な場面たちも織り込まれていたようである。ワークショップから立ち上げた複数の筋から成る作品でも、高度なテキスト構成及び演出手法で一演劇作品に昇華され、東京藝術大学出の変人たちの立ち姿を面白く見る事ができた。

平坦を登ってる
九蓮サイダー
OFF OFFシアター(東京都)
2026/01/14 (水) ~ 2026/01/18 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
2人ユニットの片割れ安齋女史は今回不在と思いきや、開幕したらそこに立っていた(氏名の表記が変ったのでてっきり)。気を良くして観劇。面白い。地球が終る日、であるらしい。ナンセンス系に寄ったお芝居だが、展開の妙優先で人物造形が蔑ろになりがちなパターンには陥らず、人物らの内面、背景が気持ちよく形象されつつ最後へ向かう。
人が願望を抱き、絶望し、ささやかな希望さえ踏み潰される者の視線は「世の中」へと向かい、ある者は自暴自棄、自死あるいは犯罪へと向かわざるを得なくなる構図があるとして、ある人物が破滅を志向する「正当な理由」があるなら、「地球を終わらせるか否か」の選択を穏やかに迫られた時「終了」を選ぶ事もあり得るかも知れない、と考える自分がいる。社会の存続という公的な使命と、破滅志向を持つ個人を対置した時、どう見たって後者は「そんなの個人の問題じゃん」となる。自分もその思考パターンを持つ一人である。だが、いかなる個人も社会の成員である、と考えた時に、「それは貴方の問題でしょ」という殺し文句を印籠の如く差し出してしまって良いのか、と考えたい自分もいる。ギリギリまで刀を抜かない解決法を見つけられないものか・・と。このこだわりこそ「逃げない」行き方ではないのか・・と。
そこをストレートに突いた劇(自分にとっては)であった。

home〜りんごさんのうた〜
ぽこぽこクラブ
座・高円寺1(東京都)
2026/01/13 (火) ~ 2026/01/18 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
津軽バージョンの回に当たり(観劇日が一択につき)、前情報ほぼ無しで観劇。渡辺源四郎商店の常連客演でもある三上氏を、やはり青森人であったかと改めて認識し、今回のタイトルや上演バージョンから今作はその公式カミングアウトになる作品?と思い巡らしながら劇場を訪れた。その予想通りな風景が立ち上がっている。
津軽弁はモノホンで細部の聴き取りが大変なため、役者の身体からニュアンスを汲み取ることに。
実は津軽バージョンと東京バージョンは俳優が違う(二役のみシングル)。何処かで観たなぁこの感じ、、との思いが募り、脳内をまさぐっていて思い出した。その役者の名は、かの弘前劇場の看板?俳優福士賢治氏であった。
津軽弁の語彙と、ごにょっとした口調の台詞を繰り出す「発語者」であり、「演技」と言える作為や技巧等とは無縁な佇まいで、長谷川孝治氏のテキストを伝える長身の男・・十数年は経っているが殆ど変わらぬ風貌である。
東京りんごバージョンには歌える山﨑薫に山像かおり、外波山文明らが並び、こちらも観たかったが叶わず。
田畑の風景が広がる土地に家を建てて住み始めた夫婦。妻のお腹には赤子がいる。そんな時、尋ねてきた不思議な少女。宅地造成する前はりんご畑があった。庭の土に足を付け、気持ちよがる姿に、りんごの精?と訝る。時を遡って・・夫の父母がりんごの収穫期を迎え、尋ねて来た不動産屋の男にりんごを一箱やって驚かれている。夫が先に亡くなり、続けられなくなったと妻。彼女はりんごの精と仲良しであった。りんごの木を伐採する日が来る。薪になる成木を刈った後、若い木が残った。薪にもならねえこれ、どうする? 伐るに忍びなく思った作業員が、根っこを引き抜いて自分の田んぼの脇に植え直した。時は戻って・・りんごの精の訪問を受けた夫婦。庭に出たいと言い、足で土をまさぐって気持ちよさそうにする少女を見て、夫は感づく。夫の前身は海に住む存在だった、という仄めかしが序盤にある。足に鱗のあった跡が残るのを、時折見ている。少女はそれに気付く。その土地の一つ前はりんご畑、その前は山で、そのうんと前は海だった・・。現実の時間と、生まれ変わる前を思い出す時間とがあるような、境界がないような、ぼんやりした設定だったかに思うが、終盤、男はそのりんごの精の大元の木が、宅地化作業の時に持ち去られた木かも知れないと、その場所に行ってみると、少し前に数本あった木は刈られた後だった。人間の営みを静かに見守り、翻弄されたり人間にも生まれ変わったり、互いに交わり共生する存在としての自然を、擬人化によって描いた作品、と言ってしまえばその通りであり、それ以上でも以下でもない。
演出として残念であったのは、自然に属するりんごの精(少女)と人魚の生まれ変わり(夫)が思いを通じ合わせる二人だけをラストの風景とした事。人との共生の可能性を感じさせる妻、能うなら作業員や不動産屋も、(現在を生きる人であるので)その光景に加わりたかった。

MAKE 芸劇 GREAT AGAIN
東葛スポーツ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2026/01/08 (木) ~ 2026/01/12 (月)公演終了
実演鑑賞
久々の東葛スポーツ観戦(観劇、というより観戦の趣)・・そう言えば今回の芸劇イーストの3.5面客席(一面は金山氏のDJブース、その脇に若干の座席あり)に囲まれた四角はリングであった。出口の反対側奥に伸びる道からファッションショーよろしくリングにマイクを持って登場して、ガナり、去るというスタイル。
もっと思い出せば、出演者皆が赤いジャージの上下にサングラス(髪は揃えたようなストレート)姿で一等最初に登場するのは、受付から直行してすぐ(右側)の入口。そして実はその直前までカメラがリアルタイムで彼女らの会場への移動を追い、その映像は舞台上方の受像パネル(各客席群から見える)に映される。・・まず車が到着、と、ドアが開き、登場するは川上女史、声で彼女と判ると笑いが起きる。音のリズムに乗って挑発ワードをラップ調で繰り出しながらぐんぐん歩くのをカメラがとらえ、さながら格闘技選手双方の入場直前の表情を映した実況(まあこれをパロってる訳であるが)を、自らが喋りながらやる恰好だ。
劇場入口には耳栓が自由に取れるよう置いてある。改めて観劇前、主宰自ら「爆音」注意のアナウンスがあり、「今日一の音量を試しに出します」と、鳴らした音が馬鹿デカい。耳栓を求めかけたが、折角だからと覚悟して臨む。
選曲がダイナミック。曲に合わせてラップの披露。序盤は一曲ずつのオンステージの趣きで、共通するのは挑戦的・挑発的な言語チョイス、テーマはタイトル通り「芸劇」そして「演劇」だ。金山氏が好んで取り上げるいじりネタでもあった小演劇、俳優また演劇界の現状への皮肉や批評そして自虐ネタに、演劇ファンが強く共感する言語群が踊るパフォーマンスである。その合間にラップでない地語りや、芸劇ディレクター(本物っぽい)の登場、彼へのクイズ(演目を選ぶ「目」が必要だから認定試験を行なうとして視力検査をもじった「右・左」を政治的右・左に掛けて答えさせる)くだり等、バラエティに富む。開演前の挨拶が開演時刻に始まり、終演が1時間半切るくらいの長さ。
思い出した事を順不同に書けば、金山氏は時折プライベート情報を自分いじりネタとして忍ばせる事があるが、ある常連女優の慶事が推測される映像がチラッと目に入る。そんな一コマが不思議と舞台の情趣に色を点す。
一点、先に難点を書いておけば、この金山というオッサンは(私もオッサンだが)下町の右翼じじいとでも銘打つのが居ずまいとして相応しく思える(これ自体は難点とは言えないが..)。トランプ支持まっしぐら、高市万歳という感じである(と思しいくだりがある)。米粒写経の漫才やスタンダップにも感じた「そこだけ違うんだけどな・・」という違和感を棘のように残すのが、全て引っくるめて「風刺」と寛容にまとめるのが賢明か、やはり右翼のオッサンと言ってやるのがむしろリスペクトであるのかはともかく、東葛の特徴であった事を(忘れていたが)思い出した。
いずれにせよ、小さなスペースでやってた基本ラップのパフォーマンスが、芸劇の空間で水を得た魚の如く、鳥の如く気ままに遊び尽す様を見て、金山氏の舞台構築の才能を改めて痛感する。
舞台から熱を送り続けるパフォーマーは言うまでもない、自分のペースでなくリズムに乗せ、詰め詰めに当てはめた「歌詞」を喋くりまくる女優たち。台詞量も半端ない。東葛の常連たちというのがまたユニークである。菊池明明(ナイロン100℃)、佐々木幸子(元野鳩)、川上友里(はえぎわ)、森本華(ロロ)、川﨑麻里子(ナカゴー)、長井短、名古屋愛(青年団)と出自がほぼ被らない「選りすぐり」の東葛レディが、パフォーマンス中に吐露して(台詞だが)曰く、劇評家らしいのが「ただ残念な事は、サングラスで俳優の表情の変化が隠されてしまい、さぞ女優たちももどかしく思った事だろう」なんて書いてるが、言っとくが最後までサングラスかけていいって言われてっから私らこれやれてんだよ!
言語チョイスがエグい。韻を踏むのは必須として、攻撃対象への最後の「とどめ」の言語を探り当てる才能は無二にも思える。参照事項は政治、スポーツ、芸能、時事何でもござれで得意分野は当然あるのだろうが多岐に亘り、飲みやすい参照例を混入して薬も飲みやすく脳内に入ってくる。
何より驚きは本公演に持ちネタを掛ける事をやらず、芸劇で上演をやる事になった、という所から話は始まること。演劇ネタの爆裂批評と、真摯な演劇人の叫びを漫談よろしく入れ替わり立ち替わり様々なトーンでシャウトし、歌い、溜飲を下げる(個々には異論もあり得るにせよ)ステージであった。

OIL
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2026/01/09 (金) ~ 2026/01/18 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
趣向を変えた公演をしばしば行う燐光群ではあるが今回はまた随分と色の違う舞台・・と観始め感心しきりだったが、改めて布陣を見れば、そうであった。今回はこのかん燐光群の演出助手に名を連ねていた村野女史による「演出」であった。燐光群常連の客演もいるが新顔と思しい俳優も含め数名の舞台(燐光群俳優は猪熊氏くらい)。舞台美術の趣きも同じく抽象舞台の多い燐光群とも異なる(犬猫会に通じる?)曰くあり気に見える抽象性で(使われた数台のテーブルは前回「高知パルプ」のものかも)。
昨年来しばしば遭遇する人間の本質を抉る作劇のこれも一つ。「KYOTO」のCo2を今度は石油に置き換えたドキュメンタリータッチの劇を想像していたが、人間ドラマ、親子のドラマである。ただしそのタッチは独特で、背後に人間とエネルギー(石油)の関係、文明論が静かに流れている。俳優力を要する戯曲(いやどんな芝居もそうだとは言え)を見事に俳優力で舞台に上げたと言える仕事。この企画を燐光群でやった事が面白い。

タバコの害について
劇団夢現舎
新高円寺アトラクターズ・スタヂオ(東京都)
2026/01/08 (木) ~ 2026/01/12 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
よく目にするチェーホフのこの演目の題名、一人芝居に挑戦する演目と認識していたが(で夢現舎のも配信映像で見ていたのだが)、今回改めて鑑賞し、その本質を堪能したような。もっとも今回は二人芝居の仕立て(劇中さらにもう一人登場)、現代日本の風俗も入れ込み、しかも客をいじりまくって(夢現舎新春興行公演に寄せたのか?は不明)とにかく話は逸れまくり寄り道脇道、縦横無尽。何時になったらその演題の講話が始まるのか、とクスクス笑いを起こしたくなるが、「タバコの害について」と題された講演を聴く我々は聴衆として、いつしか劇中に迷い込んでいる。ゆえに、舞台上の事象を第三者的に傍観する者になり切れない曖昧な場所に置かれる。何しろ演者は終始こちらを向いて喋っている。冒頭からソ連・ロシアの歴代皇帝や大統領の紹介に始まり、さ、前置きが長くなったが本題へ、と言った先から話は取っ散らかる様、これが延々と続くのに半ば呆れるのだが、白けた顔で見ている助手の存在が本バージョンの特色だろう。芝居の導入もこの女性が担い、途中茶々を入れたり、何かやったりするが、ネタバレはこのへんまで。
チェーホフ作品の「笑」の要素を煎じ詰めた、という意味でのこの演目の本質を手渡された気になっている。夢現舎の新春公演であった。

AとBと一人の女
演劇ユニット 平成レトロ
遊空間がざびぃ(東京都)
2025/12/26 (金) ~ 2025/12/28 (日)公演終了
実演鑑賞
別役実の初期作品。上演時間一時間少し切る程度。
別役戯曲の原型が判りやすく表れているな、と感じたのは、二人の登場人物が「何か」についてはある合意を持ちつつ、同時に理解不能な領域はそのままで立ち入らず、それでも対話を成立させている、或いは対話の体を維持することに合意している、という事。一方の突飛に見える言動も、他方は受け取り、又は打ち返すのだが、これらの対話が成立するための「ある精神状態」は、俳優が探り当てねばならぬ「戯曲からの難題」のようである事も、この作品に既に見られる。
本作所収の第二戯曲集「不思議の国のアリス」解説を開いた所、作者による執筆履歴によれば本作は第一作であった。
ベケット(のゴドー)を観た衝撃と影響を語っている別役氏は、二人の対話ともつかぬ会話を(我もと)書き始めたのではないか。だがひたすらゴドーを待つ二人のようにはならず、無為に等しい言葉のやり取りの中から人間の行動が起こり、事態が変じる・・これもまた人間の真理(その行動と事態をどう意味づけるかは解釈する者次第)。
戯曲は1961年に書かれ、上演とある。言うまでもなく第二次大戦の過去は「遠くなりにけり」とは言いじょう、未だ十数年前という時代。戦った一方の連合国軍側は国際秩序を紊乱する枢軸国側を諫めて平定する、という「合理的目的」を完遂した側であるのに対し、日本は自らの内の愚かさ、責任を取る者のいない決定に国全体が引き摺り回された「非合理」を抱えた側である(歴史的にそういう立ち位置に置かれた側)。
日本(人)の深層を探る旅(作品を書く営為)の端緒で作家はそこへ行き着いてしまった。以後その変奏を書き続けたとも言えるのが別役実という劇作家である。(と、断定するのに躊躇を感じないのもこの作家の偉大さ。)

怪力乱神ヲ語ラズ
劇団肋骨蜜柑同好会
新宿シアタートップス(東京都)
2025/12/24 (水) ~ 2025/12/28 (日)公演終了
実演鑑賞
女子高(ミッション系)生徒たち、教員たち(校長、教頭、保健教諭ほか教員男女二名)、スクールカウンセラー、チャプレン(以上学校関係者)、外部の人物に、超常現象関係のマニアックな研究家、彼の助言を求めたりもする民間の調査機関のボス(女)、彼女のために命を張れる忠実な部下、異次元回路を知る祓い屋、警官。
最終的には「超常」の次元に踏み込む事となる。それならば、超常「有り」サイド(ムー編集者?)と「無い」サイド(大槻教授的な?)の行き来の結果「やっぱあった~」となる、とか(ミルクボーイみたくあっち行ったりこっち来たり)、現実世界から話は始まるので悪魔とか超常とか「無い」テイを維持していた所、意表を突いて突如「超常」世界が揺るぎようもなく顕われる、とか・・要はシンプルに無責任に眺められる位置で成行きを見たかった、という感じはある。
犯人捜しが表立っての関心になるより先に、事実が先行して行くスピード感だが、事態が着地しつつある頃合い「実は、大元は誰?」モンダイの解消が訪れるなら訪れて欲しい所、そこは不明なままにした、という読みは合っているだろうか。
事態の連鎖の原因を一つ一つ遡及して行った最後に「辿り着いた」、という感覚を覚えなかったので、答えは曖昧にぼかしたのかな?・・と。
この話の着想を想像するに、無責任な言説が流布され虚偽が実体化してしまう昨今の世相か、と推察したが、物語の方は呪いを口にした事で不可逆な事態を招き、原状復帰困難という現実を受け入れざるを得なくなる。この顛末は「言説」をおざなりにご都合主義に、出来心や独りよがりで用いた事の「しっぺ返し」、なのだろうか?
「嘘も百篇言えば本当になる」の裏返しをやったのだとして・・「わが方に不都合な事実」を覆すべく、ある人間たちが百篇嘘をつき通した結果、日本がかつてやった他国での収奪や殺戮が、ほぼ免罪されたような空気を獲得できている。日本人ファーストという語の背後にある「外国人は日本人にとって迷惑」の命題が、「日本人はそれとは比較にならない迷惑をかつて与えた」という事実が捨象されている事で成り立っている事は疑い得ない。直近の事実ゆえにほぼ争う余地がないのは立花某氏による無根拠な誹謗中傷言説だろうが、これらの無根拠な言説が「裏取り無し」で迎え入れられる背景に、やはり20~30年来の歴史事実を巡る言説の変化が影響していると個人的には見ているがそれはともかく・・
芝居に即せば、まずSFは設定が命、という面では「あちらに連れ去られる」現象の起き方、引いては意味が曖昧だ、というのもそうだが、「連れ去られたこと」それ自体をもって不幸とは限らないという事がある。その事によって何を失うか、そしてその事とどう折り合いが付けられるか、が個々それぞれにあるだろう。従って、この時点ではまだ「不幸」認定には早いのである。いい加減な言説、無責任な言説によってどんな超常現象が起きて、それが「報い」として機能している、と観客に明確に分かるようなものではなかった。(作者はそれを特に狙っていないのかもだが。。)
そうは言うものの、独特な空気が流れている芝居。確かに肋骨蜜柑はある世界観を強力な磁場のように作り出していたな・・と朧ろな記憶からも思う所で、「それで良いじゃないか」と言ってしまうのもなんだが、得難い何かはある。

溢れる涙を空に返して
一般社団法人グランツ
ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)
2025/12/20 (土) ~ 2025/12/24 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
横浜桜座の公演を以前配信で(という事はコロナ期。大分昔な気がする)観て以来。グランツ・プロデュース名義の公演はその後見逃していて今回初観劇となった。主宰の飯田浩志氏が障害を持つ人で構成する桜座を立ち上げ、これを含む事業運営のためにグランツを立ち上げた、という理解でいたが合っているかどうか・・。この横浜桜座の舞台(配信で観た)は面白く、障害者の作業所を舞台に当事者も登場して芝居の一翼を担っていて(中で脳性麻痺か軽度知的っぽい人物がしっかり立ち回っていたので、巧い役者かな?と思ったが詳細は判らなかった)、障害者差別や家族の苦労などスタンダードで普遍的な問題を正面から描いた。それで「また観たい」と思っていたのだが、前段説明をすると、グランツ公演で併演する事のある「グレイテスト笑マン」シリーズが今回もあって、知人が出ているという事もありそちらを目当てにチケットを取ったものの、メンバーの体調で上演中止となった。それで本編を観た所、何と桜座メンバーも舞台に上っており、何となく安堵したという事があった。自分の中で勝手に「グランツ本公演は力のある役者が出演する「お金を取れる」公演、それとカップリングする事で桜座メンバーの出演機会を言わば確保しているのかな・・等と想像していたのであった。
フタを開けてみれば例の配信で観たのに近い、フラットで風通しの良い劇の空気感であった。少々ご都合なストーリーもリアルな背景状況が断片的ながら真実味を帯びて濃い色彩を舞台上に作る。桜座の登場場面は「芝居の稽古」場面として、稽古なので多少たどたどしくても成立・・とは言うものの、明らかに当事者と判る外見と口調に関わらず(というのも変だが)芝居の趣旨を体得した中から出て来る「表現」となっていて、リップサービスでも何でもなく正直「凄いな・・」と内心感服していた。
フラットな空気感と言えば、島の高齢者として登場する実際お歳を召したご老人方。発声も台詞もしっかりしているが何処となく素人感がある。否この場はこの芝居作り界隈に繋がる人たちを巻き込みながら作られている感、と言った方が空気感を表わているか。後で出演陣を見れば中々の手練俳優が名を連ねていて少々驚いた(白幡大介、小豆畑雅一、南保大樹、鯨エマ、観世葉子、吉本穂果、北澤小枝子...)。芝居の質感からか皆が同等に見えて来るというのが一つの発見であったのだが、大きくなった自閉症の息子役の「巧く立ち回ってる」人物は、上記の中の一人であった。
ただ・・(最近他の芝居についても思う事だが)障害の当事者を自分がよく知る方である事は間違いなく、彼らや肉親の苦しさ辛さ、複雑な思いが判ることから場面の「背後」に広がるものが想像されてしまうという事がある。それゆえこみ上げて来るものがある、という訳である。
他の問題にしても同様だ。深読みしてしまい、自分の良いように解釈する。作者はそこまでの思いで作っていなくても・・という事が多々ある。従って同じ芝居を観て「いやそこまで考えないっすよ」という多数意見に戸惑う自分の姿を想像したりもする。そしてそれは自分がもう少し若い時分に、年輩の方が何か芸術作品だったりテレビ番組、誰かの言葉に対して、世の中の矛盾であったり戦争の記憶であったりを呼び起こされ、通底するものを感じるのだ・・といった発言を聞いた時の違和感、「深読みしすぎでは?」とシラッとした記憶と重なるものだ。「自分もああなってるかも?」という焦りを抱かなくもない。
年と共に「感動しい」になって行く、というのは一見良い事のように思えてそうでないような気がする。
今書きながら判ったような気がするのは・・その種の感動とは、自分の考えや感性を作品に投影してしまう(投影できる対象を見出したという)現象であって、作品から新しい何かを得る、衝撃を食らう、違和感と格闘する・・といった芸術本来の機能から離れたものである・・。即ち「自分を投影する」鏡として利用している=ある種の我田引水なのでは、という背筋に冷たいものが走る考えがよぎる。だがそう考えてみて、そうかな?という気もする。だったらどうだ、と言われると次の句が出ないが・・。まァ考え続けるしかない。(今日はこれにて、という事で。)

マレビトの歌
Noism
彩の国さいたま芸術劇場 大ホール(埼玉県)
2025/12/20 (土) ~ 2025/12/21 (日)公演終了
実演鑑賞
純正のダンス公演、と書いてみる。自分が演劇的要素のある舞踊に惹かれるのだとすれば、そうでない舞踊(演劇的要素の薄い又は無い舞踊)との境界線があって、それは舞踊というカテゴリーの端っこに位置するのかも知れぬ、と想像してみる。もっとも「演劇的」と書けばその意味範疇は広く、舞踊というカテゴリーをも包み込んでしまうだろう。意味的には。
舞踊作品に限らず、絵画でも、もちろん演劇(特に抽象性の高い)にも言える事だが、作品の文脈を理解する事によって漸く鑑賞に耐えるという事があるように思う。シュルレアリズムや、ダダといった時代区分の作品を、「なぜこう描きたかったのか」という時代背景とセットで見るのとそうでないのとでは見え方も理解の深みも違ってくるといったような事。
話を舞踊に戻せば、まず音楽(音)が不可欠な要素である。逆に「音がない」舞踊舞台は、その事に意味が付される位に不可分なもの。この音楽がキャンパスの背景色に当り、舞踊はその中で位置を得る関係性だ。関係を違えると(そぐわない動きが入るか、選曲を間違えるかすると)作品としての質に関わる。
Noismの舞台は二度目であったが、前に芸劇で観た舞台は美術や趣向からして演劇的であったのに対し今回は「踊り」の技巧や群舞のアンサンブル、統一性に比重が置かれていた感がある。その分、音楽との緊密な関係性は削がれ、大括りな関係性となっていなかったか(この音楽を流していれば踊りの中身が意味深に見えるという無難な選曲・・舞踊公演には割とありがちに思っている)。目を見開き、凝視していたのだが、群舞はかなり攻めた形を作っていて、技巧的に素晴らしい・・が、訴えて来るものが無い。そのため、これを受け取る心の受信機は暇をこいてこっくり船を漕ぎ始める。耐え切れず爆睡に入ってしまった。・・とは言い訳かも知れないが。終演と同時に大きな拍手が起きた。舞踊関係者が多そうに見えた。「よくやった、すごい。あれだけの事をやれただけでも拍手に値する」そういう拍手である。一方自分は、技術を見に来たのではなく、問いを受け取りに来た。一歩を踏み出す、なぜ?どうそれを説明するのか、を見据える。その連続性の中に、舞踊という表現のドラマがあると期待して経過を見て行く。舞踊を見慣れていない目には、振りが長かったという事なのかも・・。
帰路、人が踊る姿に魅入ってしまう理由、あるいは辞めてしまう理由について、改めて思いめぐらしていた。

笑わせません、勝つまでは
アトリエ・センターフォワード
雑遊(東京都)
2025/12/17 (水) ~ 2025/12/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
この所矢内氏が傾倒する落語を題材に、舞台を戦中に置いて書かれたオリジナル劇作。小さな劇場で演るこの手の劇、要は笑いありの人情劇の範疇だが出色の出来であった。俳優たちの踏み込んだ演技に目を開かれる。
なお開演前に一席小咄をやっていた。そのだけの出番ゆえ、本番では見られない顔(チラシにも「前座」として出演陣に並んでいた)。普段使いな声量でサラッとやってたが、「ちゃんと聞きたかったな」と後悔しないには早めの来場を。

TRAIN TRAIN TRAIN
東京芸術劇場
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2025/11/26 (水) ~ 2025/11/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
多彩な出演陣と公演趣旨に惹かれて(時間も出来たので)観に行った。岡山天音を旅人に据え、銀河鉄道みたくあてどなく何かを求めて、何かに向かって歩んでいく人間と世界のありようを幻想的に描く。ロードムービー風、出会い、巻き込まれ的な道行き。抽象的なのは言葉。駄洒落レベルのテキストで何か意味ありげな匂わせをしているが、張りぼてではないのか。
言葉遊びならもっと多弁に塗りたくって点で描く絵画のようにせめて何か浮かび上がらせてほしかったが、匂わせで逃げている。ハンディキャップを持つダンサーやパフォーマーの登場が目を引く。女の子の乗った一輪車や、スポーツ用車椅子が舞台上を疾走すると自由の風が吹き、そこは躍動的であったが、全体に盛り上がりに欠けるのは「物語」としての高まりが無いから。勿体ない。

散歩する侵略者
踊場海月
中野スタジオあくとれ(東京都)
2025/12/19 (金) ~ 2025/12/21 (日)公演終了
実演鑑賞
イキウメ初期の代表作と言える日常に危機が忍び寄るSF作だが、他劇団による挑戦を楽しみに見た。(若手の面々とは承知だが出演陣に前観たポッキリくれよんズ所属俳優あり一定のレベルは約束と保険は掛けた。)
つくづく良い脚本だと改めて気づかせてもらった。小さい地下空間あくとれを狭いと感じさせず脚本の描く世界をどうにか具現していた。欲を言えば若手の演技は一本気で脚本に僅かながら仕込まれた笑いを成立させるに至らず、人物の行為のリアルな組立てという点ではやはりもう一歩であったのだが、危機の実態を凡そ把握し共有するに至った段階での、人間模様(事態の解決に邁進、とはならない。何が解決なのか糸口は皆目見えないからである)=本作の真骨頂と言える場面でそれを挽回するかのような瞬間が訪れる。脇筋であるが「所有」概念を奪われて平和を叫び始めた先輩(かつては世を斜に見たフザケたアウトロー)の変貌に失望しながらも執拗に追っていた後輩が、全てを飲み込んだ上で自分は付いて行く、と言う。そしてラスト、本筋において夫を乗っ取られた妻と「彼」の新たな愛からの決断の場面。
ギリシャ悲劇を持ち出すのも何だが、この普遍的テーマにこのような結末を与える作品、類似品は二つ生まれないだろう。SFでしか作れない仕掛けだが何故か切なくも懐かしい。
よく上演してくれた有難うと、えらく素直な気持ちが湧いてきたものであった。

『Dive』/『海ではないから』
公益社団法人日本劇団協議会
舞台芸術学院(東京都)
2025/12/17 (水) ~ 2025/12/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
何を観るか十の中から二つ厳選するべく直前まで迷った週末。一つは決め、残る一つ、既に予約不可になった芝居を外したりで残った二つからこちらを選んだ。「日本の劇」戯曲賞は大きな賞とは言いつつ大賞に至らなかった「佳作」のリーディング、どんなものか期待は抑えめに観劇した。初の舞台芸術学院。来期から「学校」ではなくなるとの事。渡辺えり子(当時)、モダンスイマーズ創立メンバーの顔が浮かぶ。全て不景気に手を打てなかった政治のせい、という気がしてくる。
さて文学座座員を中心としたキャストでの「海ではないから」の演出は五戸女史。上演時間二時間、流石リーディングである事を忘れさせ没入させた。解説にはロシア人の母と日本人の父の間に生まれた青年セルゲイ、その恋人、母の再婚相手とその娘、などとあり、今なぜ「ロシア」か、何か実在の人物のモデルがあるのかと訝ったが、正にウ露戦争でのロシアバッシングを背景として書かれた芝居である事が見えて来る。不知の作者で来歴も知らないが思いの外骨太な作品で、見応え聴き応えある台詞に胸を掴まれた。役者も配置もピッタシであった。