tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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わたしの隣人

わたしの隣人

趣向

象の鼻テラス(神奈川県)

2025/12/11 (木) ~ 2025/12/14 (日)公演終了

実演鑑賞

象の鼻テラスを初訪問。てっきり堤防の突端にでもある天井の無いステージか何かだと想像していた。当日は急な寒さでしかも風が強くなり、野外ならとても耐えられそうもなく「行くなって事か・・」と挫けかけたが、着いてみればきっちり大きなガラスに囲われた立派な建造物であった。ぬくぬくと観劇。
その安堵感と疲労で途中また寝落ちの時間あり、比喩性の高いテキストの裏を読み取る作業が途中で断絶、不十分な観劇となった。宣伝文でも、アフタートークでもこれは自分の事を書いた初めての劇、とあったが、誰がオノマ女史=自分に当たるのか、どういう体験がこの夢の中のようなふわっとした劇に落とし込まれていたのか、は判らなかった。
趣向は、言語過多な台詞量で(油絵のように何重にも塗りたくって)形をあぶり出すテキストが通常形かも知れない。前に見た一つと今作に共通する事は「語量を抑えた」小品では穴の埋まらなさ即ち伝わりづらさが否めない(勘が良いか同じ感覚を持ち合わせてる人には伝わるかもだが)、という気がする。作者自身にとっては言葉一つ一つに意味が籠められているのだと思うが・・。今回はそんな感想しか書けない。

玄海灘

玄海灘

劇団劇作家

上野ストアハウス(東京都)

2025/12/11 (木) ~ 2025/12/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

今年初めになるか(昨年末だったか)リーディングで有吉女史によるこの大作の脚本化の成果を堪能。圧倒された。第Q藝術の四角の箱の中に演者が揃い、オフの時にも台本を見つめ、皆がそれぞれ作品を語る一人の、一人称の人格となり物語を紡ぐ橋をともにわたる切実感も合わせて全身に浴びた。今回、本舞台での上演に踏み切った。リーディングのレベルには到達しないだろうと予想し、事実その通りであったが善戦していた。不足感を挙げればきりがないが、例えば役人物が変化していくのが要である朝鮮両班の家系の息子のその変化や、歌姫と呼ばれる居酒屋の娘の歌(これは技量の問題か演技の問題か)、朝鮮総督府での日本にこれでもかと忠誠を尽くそうとする男とその日本人の上官の微妙な関係、その彼の地下運動組織への接近、理解、最後の裏切りのダイナミックスなどは、植民地支配の矛盾、渦巻く静かな憤激が沸騰する要素でありたく、石を積み上げるようになりたかった。場面処理の課題があったとは思うが、抽象舞台とした事で、集中が殺がれる瞬間が多々あった気がする。時に居酒屋、時に新聞社、時に総督府、あるいはどこかの野外と、多場面ではあるが、観客の目は「見立て」がうまく行かない所があった。
にしても、物語の力、台詞の力は舞台を押し上げていたのは確か。今後も挑んでほしい作品。

季節

季節

劇団普通

シアタートラム(東京都)

2025/12/05 (金) ~ 2025/12/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

幾らか多めの登場人物に、幾らか知名度の高い俳優の参入・・がトラムで演るという事。確かに客席を埋めるにはだ。SPTの企画スタッフに手練れが居るのやも。ともかく芝居。一見「普通」以外の何物でもない主宰で作演出の石黒女史はその日のトークに拠れば、全て茨城弁で展開する劇世界は、実体験の記憶を掘っているのであるらしい。一番手で登場する野間口氏は、どうやら老け役らしいが、最初あまり見えなかったのだが段々と、中身は老け男と見えてくる。一か所、ぼやっとしている間に言った誰かの台詞が客席にどっと受けていて、聞き逃した。無念。それにしても地方の親類同士の距離感の絶妙な具合はどうだ、と。完全にああではないがどこか身に覚えのある「親戚同士」(子どもにとっては親が兄弟同士で賑やかしく、こちらは独特の距離感のいとこ同士・・これもまた愉し)の空気感。所在ない瞬間が訪れ、これを飄々として乗り越える者達。意味的には単なる血縁であり、既に機能しなくなり、町内会と同じくせいぜいが法事だとか、自分ちの話をして「心配」し合うが関の山な関係である。地域社会も同様にCONSUMERとSELLERのみで成立する資本主義体制において家族単位はまだ制度的に機能するとしても世帯の異なる「親戚」はある場合にはいなくては困る存在として登場する、という事がない。親が死んだら遺産相続の話、家の処分の話が出るのみ。これとて法に基づき合理的に処理できたなら、これを最後に付き合いがゼロになるケースも結構多いだろう。
「会いたくて来たんだよ」と親戚を訪ね歩くチャーミングな御仁が一人いればまた違うだろうし、名を上げた成功者が殊勝な人で、親戚を集めて一席設けるなどしても「益を分かつ」(裏話を聞くだけでも役得)目的で集うという事も起きるだろう。
身もふたもない話をすればそんな具合だが、舞台上では地方では今もあるだろう親戚づきあい(これに近所づきあいの側面も割り込んでくる)の健気で面白おかしいサンプルが展開している。石黒女史の中にはまだ湧き出てくるネタがありそうである。

恭しき娼婦

恭しき娼婦

新宿梁山泊

ザ・スズナリ(東京都)

2025/12/11 (木) ~ 2025/12/18 (木)公演終了

実演鑑賞

梁山泊にとっても特別な公演であるらしい。この演目は二度目になるが金守珍演出の解釈
はいつも歯切れよく大胆である。唐十郎がシチュエーションの会でやった演目である事が、どう反映されている事かとの興味・期待で観劇。サヘル・ローズはやはりこういう女優であった。詳細はまた。

Downstate

Downstate

稲葉賀恵 一川華 ポウジュ

駅前劇場(東京都)

2025/12/11 (木) ~ 2025/12/21 (日)上演中

実演鑑賞

満足度★★★★★

ポウジュ第二弾。期待を裏切らず、密度の濃い芝居。辛辣な描写が多いが人物造形の秀逸さ(の心地よさ)が観客をこのドラマ世界に巧みに誘い、かつてあって今もある厳しい問いを強烈なトーンで投げて来る。カタストロフに近い結末は、文字通り当事者にとってこの世の終わりにも等しい光景であると想像してみる。静かな夜は、終末を待つ時間のようである(地球の終わりを描いた映画、ラース・フォン・トリアーだったか?をふと..)。現代の病み=闇を見つめて行くと、このドラマにおいては悪役にも見える男の過去と現在の諸々が綯い交ぜの混沌とした憤りが漂白された現代社会と表裏の関係のものに思えて来なくもない。自分に与えられた天分と抗い、また後天的な性質、受動的(あるいは能動的)体験によっても規定される自己に抗って生きる人間が、浮かび上る。そこに単純な正邪、是非があり得るだろうか。
ある置き換えによってこのドラマは日本そのものにも見える。LGBTや精神障害者への「理解」までは出来るが、性犯罪者、精神障害からの犯罪といったものに、理解は遠い。いじめの「加害者へのケア」は今言われ始めたばかり。カテゴライズされオーソライズされた「世間で認知された概念」を許容し、それ以外を冷酷に排除する傾向は世界共通のものだろうか。明治以来概念も模倣し輸入して来た日本では、外来の概念に特に許容力を発揮するが、一方で変化への懐疑は(健全に機能すれば正統保守だが)奇妙な形で合理性を拒否し閉塞に向かう(統一協会の影が賢慮な選択的夫婦別姓拒否やLGBT非寛容など)。三島由紀夫が絶望した日本の系譜は敗戦を機に一夜で態度を変えた日本人の系譜であり、裏付けのない(自分の考えでなく風に靡いただけの)思想的態度を取る、という態度と、「認められたカテゴリー」以外の人間を排除する態度は通底している、という事を言いたかった。

ネタバレBOX

この物語では平行線である事から簡単に逃れられない現実が描かれるが、一方の不遇は「ある一つの被害が一生の傷となり得る」事実とそれが理解され難い事、そして一方の不遇は加害を与えた(とされる)側が己の性質と社会(のルールや共通理解)との折り合いが付かない事(その意味では生涯「制裁」を加えられているに等しい事)。
特に現今の日本の風潮の中では、前者へのシンパシーは作り易く、後者への理解が難しく、従って後者の「生きる権利、よすが」を考える事を余儀なくされた観劇体験であっただろう事を想像する(あくまで想像)。
一点この芝居では、一人の「かき乱し野郎」が、その執拗な「過去へのこだわり」をもってする断罪の根拠を、書面にしてそれにサインをする事で認めさせようとする場面で、加害者がやらなかった事実をも認めさせようとしたらしい事を、一つの質問で露呈する。答えられず一旦引き下がった被害者が戻り、暴力沙汰に及ぶに至り、訴えた男の純粋さは消えている。だが、彼をそうさせた原因は30年前にあった出来事であった可能性は誰にも否定できない・・。
月の入り江

月の入り江

スヌーヌー

MURASAKI PENGUIN PROJECT TOTSUKA(神奈川県)

2025/12/09 (火) ~ 2025/12/13 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

観劇できた。会場も初。戸塚にこういう空間が存在した事も発見。入っても三十人かという空間だが設えが良く、清潔感があり土足厳禁。ステージから客席がそれなりの傾斜ですぐに急峻な角度となる。
笠木泉氏の本作。ある女性の一日を描いたものだがどうやらこの女性(渡辺梓)は高齢であるらしいと次第に分かる。この女性の分身(上村聡)が時折立って観客に物語を語り、信頼のおける情報を届けてくれる。この日は買い物の日、週一回のハレの日である。その準備に掛かる。過去のエピソードもふと思い出される。今は居ない夫はずっと、ステージをゆっくりと歩いている。風景のようだ。
こういう人生晩年のある個人を他の存在たちの手を借りて描写するタイプの芝居は既視感がある(思い出せば幾つか舞台も観ていそうだ)。老いとその肯定(人生讃歌)が主題の作品も多々あるが、淡々と描かれる特筆される事象が起きる訳でもない時間は、にも関わらずじわじわと迫り、抉ってくるものがあった。「筆力ゆえ」という概念を当ててみる。
場所の記憶と共に刻印されそうな観劇体験。

森ノ宮ニーナのおかなしみ旅行記

森ノ宮ニーナのおかなしみ旅行記

岡崎藝術座

森下スタジオ(東京都)

2025/12/05 (金) ~ 2025/12/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

その都度全く異なる風景を見せる岡崎藝術座(変わらぬのは発語の大部分がモノローグの脚本)、今作は森下スタジオ。会場「ありき」と思わせるのも神里氏の製作の手法に関係していそうだ。今作は集客によってはもっとうんと椅子を並べられるスペースなので、土曜午前の部でも控え目な数では勿体ないが、観る側は(岡崎藝術座なので)特段淋しい感じはしない。内容は(毎度ながら)「それなりに面白い」パフォーマンス。のっけに登場して語り始める矢野昌幸氏は、初見(10年程経つか)からその「普通」な風貌にしては頼りになる役者と思わせたものだが、実力なりの活躍をされているよう。この舞台でもブレないキャラで賑やかしく立ち回る。他の二人の女優は出自を知らず奇妙な取り合わせだが役に合っている。「旅」に絡めて「オーバーツーリズム」~排外主義へと無理矢理な話題の展開も「これが神里氏の言語」と思えてしまうのは、観た回数(慣れ)だろうか。
海外と日本の狭間の目線で作品を打ち出して来た神里氏が昨今の「排外主義」(と呼んで全く差支えないと思う)をやり過ごす事は考えられず、何らかの昇華を試みた作品であるのには違いないが、これを「本題」と仮に考えると、迂回ぶりは激しく、文脈の繋がりと飛躍の独特さを作りこそ神里流なのだろう。これがスルメの味に感じられもする。

ネタバレBOX

バラバラに散らばってる記憶から観劇歴をまとめきれないので調べてみると・・まず思い出すのが震災後に見つけたFTフェスティバルトーキョーのサイトを覗き、何やら面白気な題名(「球体」が何とか言うやつ)に惹かれ(題名以外に何の手掛かりもない)、観劇を試みたが予約完遂せず断念したのが最初だった。
で、その後「ジミー」が何とか言う作品を赤レンガ倉庫で観て初観劇、(昨今の神里戯曲のような言語過剰とは真逆で)台詞も少なく舞台上にオブジェを配してお茶を濁してる感あり、落胆(今度○○に出る話あるけどどうする?まァ売れてる山縣氏を出して、目を引く丸っこいのを吊るして・・てな作り方を想像してしまった)。
その後若葉町ウォーフでリベンジ観劇し、過剰言語の岡崎藝術座と遭遇。STスポットで「イスラ!・・」を観て「言葉ばっかの時間」にやや落胆(二作上演の一方「サンボルハ」を観たかったが別のを已む無く観た記憶)。
そこから「バルパライソ」再演のドイツ文化会館、戯曲賞を獲った作品は、外国人による上演で客席エリアも色んな「腰かけ」が設えられた雑多な不思議な空間だったが、ステージ上の興味深い様相は、会場ありき、かつ俳優ありき。
狭小のSTスポット「ミオノウミにて」は広い台上を箱庭風に物語の舞台となる土地に見立て、この周りを囲む狭い客席に客がひしめき、これも場所ありきな演劇だがその「効果」にハマり、興味深く観た。
コロナ期に入り、沖縄、池袋と巡演の中、上演注視の日に当たり急きょ沖縄での上演映像を観ることに。不全感を残して去ったが今回はそれ以来久々のお目見えになった。
利賀演劇祭に出品したりと演出志向の人だったようで?初期(2000年代)は既存戯曲を上演し、今SPAC劇団員の春日井一平氏、リクウズ主宰の佐々木透氏、武谷武雄氏や内田慈氏、西尾友樹氏の名前もあって小劇場演劇の正統派な場所にいたのかな?と想像を膨らませる。確かに言語過多という特徴に独特な演出が加わる事で独自の世界が醸されている感がある。面白い事を考えて我々を挑発する作品を今後も打ち出して欲しい。
星降る教室

星降る教室

青☆組

アトリエ春風舎(東京都)

2025/11/22 (土) ~ 2025/12/01 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

青組らしい良品。変わらぬ風情の小夏女史のテキストと演出、特に後者に成熟が見られ、おや?と思う。そこ(舞台処理)に着目した事はあまりなかったが、洗練の度合いが高まっている感じ。
宮沢賢治作品へのオマージュ、あるいはコラージュか・・ある女性教員が「小学校の最後の卒業式」の招待状を手に故郷の森小学校を訪れる幻想的なお話が、彼女の「友達」であったアイテム(賢治ゆかりのキャラたち)と共に手作り感満載の演出とテキストで綴られる。
ただ後で台本をめくってみると物語としては無駄を省いた十全なテキストで、自分は読み取れていなかった。動的で展開の速い演出に注意を取られてしまったようで、感想としては台本を読んで感じた「主人公にとっての大切な体験」たる所以を、折角なら情感と共にゆったり味わいたかった。(欲を言えばの話だが・・ノンヒューマンな登場人物たちと超現実な現象が書き込まれてるので、舞台上の処理が難しいのは確か。脳ミソが追い付かなかっただけかも...)

クラウド・ゲイト・ダンスシアター(雲門舞集)『WAVES』

クラウド・ゲイト・ダンスシアター(雲門舞集)『WAVES』

公益財団法人横浜市芸術文化振興財団

KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)

2025/12/13 (土) ~ 2025/12/13 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

ホールを埋める観客(1200席中1000人は入っている目算・・一階最後方空き、二階席サイドは封鎖)。中央辺りの関係者席の一列には長塚KAAT芸術監督も座っている。本プログラムは各会場で一回のみ上演(他二会場ある)。台湾のダンスグループ13名(ソロ、団舞、デュオ)、音、映像の融合パフォーマンス。没入体験。
坂本龍一が構想しその死後高谷史郎が作った何作目かのインスタレーション「TIME」が質的に近く思い出されるのは映像と音の存在感だろう。ただしTIMEの音源は坂本龍一氏によるそれで、今作は音と映像、その舞台上の設えが真鍋大度氏のアートの領分である。
深淵で静謐にさえ感じるが結構鳴ってる音、絶えず動き続ける捨象のタッチさえ細密な(意図的であり同時に偶発的な)白黒を基調とする映像、勅使川原氏流の「変転の連続性」を集団ムーブにも取り入れてしかもズレを起こす(ミニマルミュージック的な)身体芸術は、見ていて目を奪われ、やがてその「自然現象」性からか睡魔にも見舞われる(小生は被害を最小に留めたが前列右の青年は中盤から完全に持って行かれ終演の拍手で覚醒。が催眠性の高いパフォーマンスにしては寝落ち組は少なく見受けた)。しかし眼前の現象は「問い」の角度を鋭くして脳に刺激を送り続けて来る。
先般拝見したピーピング・トムは美術や仕掛け、描写される日常場面などに具象の成分比が高かったが、本作では舞踊本来の性質即ちノンバーバルな抽象度の高さにより観客それぞれがどう感じこれを持ち帰ったのか興味がある。もっともその感想を聞いてもピンと来ないだろうけれども(この感想がそうであるように)。

わたしは太陽

わたしは太陽

ももちの世界

テアトルBONBON(東京都)

2025/12/10 (水) ~ 2025/12/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ピンク地底人3号の筆による舞台はこれで4作目になるか...。青年座への書下ろし、ももち東京遠征公演、名取事務所への書下ろし、そして今作。シリアスな書下ろし二作に比べ、ももち舞台は前回観たのもそうだったが人情劇寄り笑いありのソフトな劇団っぽい手作り感。今作は更にドタバタ度も増して冒頭から呆気に取られる。だが後半は原発問題環境問題をきっちり絡めて作者らしさ?を発揮。俳優陣のデコボコした取り合わせも良し。

ネタバレBOX

のっけに登場するのが艶やかな衣裳、ディナーショーの歌手に見紛うがすぐ実は人魚と知れて笑いが漏れる。内田健介扮する<人魚王>が、執事(人間の形をした亀=目印は甲羅に見立てた背中掛けのリュック=ノートPCが入る形のしっかりしたサラリーマンがよく背負ってるやつ)に婚前逃亡を図った娘を探すよう言いつけている。ここでのやり取りで舞台の背景説明。人魚界(海)でも、ここは西の海で、結婚相手は東の王子。東が西の方まで幅を利かせて来た昨今、人魚同士の対立の根を断つというのが思惑らしい(関西人の東京人への目線を何気に反映?テンプレだろうか)。政略結婚の色合いはあるものの悪人にも見えない王は、ちょっとした独りよがりキャラ。でもってこの王、かつて妻には人間と駆け落ちされた過去あり、少し前には長女が人間と為さぬ仲となり出て行かれておる。残る姫は次女しかおらぬその姫、中々我の強いキャラで、これも人間界へエスケイプしようとしている。王の去った後、隠れていた姫の登場と相成るが登場するなり「人間界に自分も行く」と言われ困惑の執事。王の司令に従い、こわ~い魔女の許可がいるんだぞお~とか、人間の男と相思相愛にならなければ人間界に行けないルールや、尾ひれが割れて両足を持つので暫く足の激痛に悩まされる(これは本当なので仰々しくなく説明)等と引き留め作戦の間抜け振り。結局次女は「時代が変わった」ため厳しくなくなったルール(昨今の風潮でバイオレンスな要素は廃止の方向的なノリ)のお陰で人間界=浜辺に辿り着く。これを助けたのが、中学で同じ部活に所属する男女の二人組(ディベート部ともう一つ。実はその二つが得意な男子が好きで女子の方は入部している・・そのバレバレ演技も笑わせる)。姉の方はとある青年と相思相愛となり結婚して人間界に居ついているのだが、地上に上がった次女は二人の世話になる。姉の夫は内田健介が役を兼ねる人間界での「町長」の息子。以上の登場人物の前に立ち現れるのが、貧しい地方の一町村の前にチラつかせられていた原発を蹴って代わりに出て来た「再生エネルギー」すなわちメガソーラー誘致の話。さて物語は無敵キャラの次女の動静に注目させながら皆が一役担いながら当然、大団円へと向かうのだが・・
こんな芝居を作者は元々書いていたのか、あるいは新機軸か・・今後も注目であるな。
「驟雨」「屋上庭園Ⅱ」

「驟雨」「屋上庭園Ⅱ」

やしゃご

アトリエ春風舎(東京都)

2025/12/07 (日) ~ 2025/12/08 (月)公演終了

実演鑑賞

料金が安いのでリーディングかとほぼ決めつけで観劇に参った所が、ガチ演劇。稽古もがっつりやっただろう。
岸田戯曲を現代を舞台に変えて上演。ただし照明は地明りのみ、音響は無し。(「驟雨」では最後に雨が降る印象的な場面が来るが、流石に入れたかったろう雨音も入らず。)
二演目とも、岸田作品上演でよく目にするタイトルだが内容は不知。なので優れた翻案と思えたがどの程度遊んだのか不明。後で答え合わせしてはみたい。
もう一つの驚きは、役者の演技の精密さ。大胆に遊ぶ演技・演出もあるが、岸田戯曲が要求するものでもあるか、互いの心情の微細な変化が、役者の佇まい、細やかな仕草、目線、表情等等を通して見える。現代口語には青年団系の俳優(演出?)は流石、と思わせる。台本と、役者と、頗るクオリティが高い。
同様の試みを今後も展開したい意思表明あり、カンパ要請もあった。継続に期待。

カタブイ、2025

カタブイ、2025

名取事務所

紀伊國屋ホール(東京都)

2025/11/28 (金) ~ 2025/12/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

三部作となった「カタブイ」、初回は沖縄本土復帰50年に因んで各所で組まれた幾つかの公演の一つだったが、第二弾を経て第三弾と来た。三作の共通点は、「沖縄」を叙述する舞台として、沖縄本島のとあるサトウキビ農家の家族とその(確か二作目以降は収穫時期にのみ使われる)家屋。娘が東京での大学生活を終えて里帰りしたのを追って来た青年を「沖縄にとっての他者」として迎える交流を軸とする。二作目、即ち沖縄県民二十万人を抗議集会に集めた米兵少女暴行事件の1995年でも、23年振りに男が彼女を訪ねて来た日々に起きるあれこれを通して沖縄の問題を炙り出す。そして三作目、再び老体を抱えてこの地を訪ねたかつての青年の滞在期間を通して、2025年現在の沖縄を切り取ろうとするものだ。
もう一つの共通点は、キャストに沖縄人の演者を配し、ウチナーの本格的な音曲が披露される事。
本作。2025年とは、2000年以降顕著になっている沖縄・南西諸島の不気味な程積極的な軍備拡大と、それを後追いする(必然化する)かのような対近隣への世論(私には全てが盧溝橋のよう自作自演に見えるが)の喧しい今であり、何らかの目標に向かうプロセスである。
従って、物語の終わりはない。演劇作品としては完結しても。私の予想では、作者は(私が想像する人であるならば)早晩の内に続編を書きたい衝動に苛まれるだろう。その理由は沖縄を含めた日本の状況つまりは「悪い状況」が、今後改善される兆しが皆目見えないから。
勿論そうならない事(作家内藤裕子に執筆への負の衝動をもたらさない事)を望んで止まないが。

ハムレット

ハムレット

SPAC・静岡県舞台芸術センター

静岡芸術劇場(静岡県)

2025/11/09 (日) ~ 2025/12/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

自分の中では最初に知った戯曲(中学の頃..勿論題名だけ)であり、最も有名であろう戯曲。ネタにしようがいじろうが揺るがない、ただし賢くアソバなきゃ弾かれる。話を知る者も「次」をドキドキで見守る事に。
上田久美子演出舞台は(常にメジャーで高いので)未見だったが漸く目にする事ができた。昨年蒲田温泉で大衆演劇とのコラボ?だか何かの謎のプロジェクトはニアミスで惜しくも観られなかったが、ボーダレスな試みを大上段に構えずやれるアングラ精神を具備しておる御仁と近く感じてもおり、どうにか最終ステージ観劇が叶った。二年近くご無沙汰した静岡芸術劇場へ。SPAC俳優が演出のリクエストに存分の遊び心で応え、改めて舌を巻くばかり。

ロボット、私の永遠の愛

ロボット、私の永遠の愛

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2025/12/05 (金) ~ 2025/12/07 (日)公演終了

実演鑑賞

伊藤郁女(かおり)という名は舞踊に興味を持ち始めた頃目にして、思い出せば初めて観たのがスパイラルホールで(「ASOBI」というタイトルだったようだ)。その時は大勢の女性ダンサーを使ってあれこれ混み入った事をやっていた印象。
その後割と最近「綾の鼓」をKAATで観た時は仏在住のアーティストになって居り。幾分観客に目線を配っているのが好感であったが、客席へのアクセスを試みる演者の要素が今作ではダダ漏れに露呈して、客席と会話をなんぞ始めるに至っていた。
ロボット、というモチーフから何を汲み取り、表現したかったのか、ぼんやり観る目に明確には届いて来ず、本人的にももしや言葉、対話で埋めるしか無かったのかもであるが、装置と道具立てを使ったパフォーマンスは難易度的には高いものかも知れない。
続きはまた後日。

一九一四大非常

一九一四大非常

劇団桟敷童子

すみだパークシアター倉(東京都)

2025/11/25 (火) ~ 2025/12/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

何本か前、やはり炭鉱を題材にした「史実」を再現した舞台があったが、今作もドキュメント寄りの舞台。もっともいつもの桟敷童子色は(いつも以上に?)炸裂。客演を合せた陣営も素晴らしい。

ネタバレBOX

事実(史実)の重さ、とは言葉ではよく言われるが、そこには事象に対する解釈がある。人の命の「重さ」に無感覚である人は、人死にのある物語に「ドラマティック」を感じはしないかも知れない。体験を重ね想像力を鍛え、痛みを経た人間が(基本的に痛みを描く)ドラマを感覚し、価値を見出すのかも知れぬ。が・・・未体験の世界へ誘い「感じる」事を余儀なくさせる演劇の力を信じたくもある。血反吐を吐く人生から「何か」を見出した人物の残像が、いつかその人を救うかも知れない。
ラストに繋がるシーン、自らが生きようともがいた二人が(結果的に)一つの小さな命のために生きた事となる。その苦闘を知る由も無い「後の者」が、その小さな命を育んで行く。大きな摂理。
かと思えば、広大無辺の宙から見れば人類はいずれ消え去る小さく無意味なもの・・との世界観も人間は手にしている。虚無の地平から「何か」を見出そうとする人間のドラマもドラマたり得るのであり、死を相対化しても尚人間に残された「価値」を見出そうとする営為も、ある。無い頭で考え過ぎた。
劇団鹿殺し Shoulderpads 凱旋公演+abnormals 3作同時上演

劇団鹿殺し Shoulderpads 凱旋公演+abnormals 3作同時上演

劇団鹿殺し

駅前劇場(東京都)

2025/11/30 (日) ~ 2025/12/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

開演時間からして上演時間短く、エジンバラでやったというので身体系パフォーマンスかな、程度の予測で、濃い味のキツい鹿殺し(実際観劇途中に貧血気味になった事がある)とは一味違うのが観られるかも?と静かに期待を抱きつ駅前劇場へ。
英語バージョンで現地でやった臨場感も味わいながら、完成度の高いパッケージを楽しんだ。知る人にはこのShoulderPadsと聞いてアレか?と分かるのかもだが、この命名の理由が開演後ほどなくして分かる。
「目のやり場に困る」系のパフォーマンスは大川興業や東京ミルクホール(のJJGoodman)でこそばゆく目にした記憶が蘇るが、こちらは五人の男が「銀河鉄道の夜」の鹿殺しバージョンの描出というミッションに過酷に動員されるのが見物、飽くまで演劇作品としてドラマ叙述に着地する。主役ジョバンニをやる菜月チョビを懐かしく拝む。彼女の澄んだ歌声に男らのコーラスが重なり、ミュージカルの高揚が身を包む。
一時間という長さも丁度良い。

ネタバレBOX

本作では、カムパネルラを唯一無二の友人と思っているジョバンニが、祭の日の学校帰り、カムパネルラをザネリに「取られた」と吐露するのだが、この台詞が三度程出て来て、脚本的には「言わなくて良い」過剰が、深層の所で(今思えば)示唆していたのが、ある種の同性愛の感情。いや菜月以外の男五人がフレディ・マーキュリーの如くサスペンダー風ゴム紐で「肩パッド」を局部に固定した姿自体が、男性社会(軍隊然り、男色が起こりがち)も仄めかしているが、カンパネルラ(丸尾)のキャラ(最も原作イメージと乖離して見える)を弱々しく「男色」に寄せて造形したのも「今になって」納得な所。
あたらしいエクスプロージョン

あたらしいエクスプロージョン

CoRich舞台芸術!プロデュース

新宿シアタートップス(東京都)

2025/11/28 (金) ~ 2025/12/02 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

岸田戯曲賞受賞作との記憶あるのみ、中身は未知数(知らない俳優も多いし)ながら、Corich舞台芸術主催、第二弾という事で観劇す。直前に「映画物」とだけ目に入る。堀越涼演出であった。て事は音楽の比重も高そう。実際そうであった。

良席と言える前方席で観る。と、堀越流の演出を施された俳優たちの挙動(作為)が作業工程のように見えて来る感覚に見舞われる。これは少し遠目に、俯瞰で眺めたかったかと中盤で思い始めたのだが、流石、終盤には折り重なり積み重ねて構築した「作品」が見えて来た。敗戦直後、映画を撮り始める者たち二組の話を交互に(俳優は両組の誰かを兼ねる・・戯曲の指定かどうかは不明)描き、やがて接点を持つが、一方は器材も何もなく「夢」が肥大化した半ば狂気の映画作家志望、一方は往年のチャンバラ映画の座長が「時代に合わないネタ」を当局(GHQ)に拒否され、(ちょうど「笑の大学」風に)あの手この手で今様の映画を捻り出そうと悪戦苦闘するという筋であるがこの転身振りにも狂気が滲む。終戦後の大転換とは言え昨夜まで空襲原爆、玉砕特攻という異常を帯びていた身体が、自由の中に暴発した彼らの狂気を情熱として見せる。
こんにゃく座の島田大翼が全ての「音」を担い、これも一つの見物になっていて、嬉しくはあるが、演出全体としてリアリズムの演技を想定して書かれた台詞を、あやめ十八番流の「演出の勝った」(作為性の大きい)作りに合っていたかどうか・・受け手として若干の齟齬が脳の片隅に観劇中燻ぶっていた感覚。が、戯曲そのものに起因するものでもあるかな、と思う所もあり。もう少し思い返してみる。(時間があれば追記するつもり。)

ネタバレBOX

作品とは全っ然関係ないが...投稿1999件目、マジか?と改めて。
随分観てしまった。2000件台には当然上がるとして、今後はスローテンポで観劇、引退?までに2500程度まで行けば良いほうかな。
と取り敢えず予想を書いておく。
THIS HOUSE

THIS HOUSE

JACROW

新宿シアタートップス(東京都)

2025/11/19 (水) ~ 2025/11/25 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

終わってみればじんわり沸々湧き出ずるものあり。
近代民主主義発祥の英国で、二大政党である労働党と保守党(その他の少数政党もある)の法案審議の都度熾烈な駆け引きが繰り広げられる様を通して「民主主義」という錦の御旗(これを裏付ける権威として王室も機能している)をギリギリの所で守り抜いている国家の矜持がじんわりうっすらと浮かび上がる。
どちらかと言えば労働党側に視点を置いて描写され、やがて不信任案の動議で政権が解体、サッチャー時代を迎える直前で芝居は終わる。そして短いテロップが流れる。経済重視の政策を推し進めたが格差は広がり人々は苦しむ事となった・・。作者の結論。明快だ。

勝手に唾が出てくる甘さ

勝手に唾が出てくる甘さ

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2025/11/14 (金) ~ 2025/11/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

今作も楽しい1時間50分。
本公演早くに完売であったが、当日券をゲットしに開演40分前の抽選に足を運ぶ。前回公演ではB1で長蛇の列であったがKAATでこの日は十余名、結果は当日券数名、キャンセル待ちも4名が入れた(自分もキャンセル待ち組)。
この日はトークがあり、芸術監督長塚氏が城山羊の会への思いを語り、作演出山内ケンジ氏に色々と聞き出す。脚本執筆のくだりは興味深く会場から笑いが出ていた。初めに決まっていたのは「最初に歌を歌う」だけ、あとは成行きで。稽古始めに出来上がっていたのは半分弱。そうか。ゼロから生み出す営為は面白い。
お芝居は例に漏れず、男女の「いけない関係」を軸に諸々。岩谷氏、岡部氏が変わらずとぼけた役どころで支え、全登場人物のお間抜けな人間っぷりが充満する。人間は欲望の存在であり、それは充足されたりされなかったりは当然であり、人生その視点で眺めれば様々な「追い求めとその結果」の連続という事になろう。これを笑える時間の贅沢。

真夜中に挽歌

真夜中に挽歌

Y.T.connection

上野ストアハウス(東京都)

2025/11/20 (木) ~ 2025/11/24 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ぶっちゃけ松田優作、という孤高の存在の秘密というか、片鱗を覗き視たくて訪れる。特段フリークでもないがた。恐らくそういう人達(あるいは何らかの繋がりのある人達?)が大部分だろうと想像しつつ上野ストアハウスへ足を運ぶ。地下へ下り、賑わう客席を眺めると、どことなくそんな空気が。
ある意味で予想したような内容であったのは、脚本は短編であっさりと終える。鮮烈な短編映像作品が撮れそうなハードボイルド作品で、ATGが持て囃された時代の空気を感じなくもなく・・。そして上演前にお連れ合いの語りの映像、上演後に松田優作と音楽で関係した二人によるライブ、トークで一つの出し物であった。
一俳優を偲ぶイベントであり、具体的なエピソードにも故人の存在が三十年を経た今に伝えて来る何かを、観客は持ち帰った事だろう・・等とうまく纏めるつもりはないが何かを求めて訪れ、何かを持ち帰った事だろうと想像されるやはり存在だな、と。
夫人曰く「不器用だったが・・」それを凌駕するエネルギーが彼の真骨頂という言葉を、自分の中にも幾らかある故人の残像と重ね合わせ、何かを読み取ろうとするその欠片をもらった時間。短時間ながら個人と接触した場面を生々しく語るトークは面白かったが、芝居の方はやはり映像向き、人物の行為と発語にある何かを色付けする事で人間と社会を抉るものになる・・その印象。

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