骨と肉
JACROW
シアタートラム(東京都)
2025/06/19 (木) ~ 2025/06/22 (日)公演終了
実演鑑賞
座高円寺公演に続いての観劇。前作は政治(家)物、今作は企業物で再演とは言え8年を経て随分中身も変わったそう。
リングが出現している。舞台奥行の半ばあたりにロープ2本を渡したリングの2辺から、こちら側が格闘(議論や権力闘争)の場、あちら側には椅子が並べられ、登場しない俳優の控えとなっている(照明は低く落している)。
日替りゲスト出演者による選手入場のアナウンス(「あーーーおーーーコーナー、××××」と矢鱈盛り上げるやつネ)で登場人物の入場。紹介されるのは同社内役職の者たち。それでバトルなら企業の内紛が題材と知れる。で、どこかで聞いたような・・と、ふと大塚家具という単語が頭をよぎる。ほぼ関心は無かったがそれでも聞こえて来てた程であるから世間的に随分話題になったのだろう。
結論的に言えば、ドキュメントではないフィクションとして見るにしても、長年社長を務め大企業に発展させた二代目(現会長)と彼の長女だえる新社長のどちらに理があるか、具体的な話に立ち入らねば何とも言えない。そこを伏せた形であるので、評価がしづらい、という事がある。勿論ストーリー展開の面白さはあるのだが、人の行動への評価はどんな状況に対しどう対応したか、であり、具体的言及を回避しながらでは「そんな会長に従うとはどれだけ日和見か」「従う者がいてもおかしくない拮抗した状況か(会長側にも正当性があるかも)・・といった人物評価もしづらい。
割切って見れば面白い、かも知れないが(実際面白いには面白いが)・・といったあたりを書こうとしたが言葉が探せないので後日また加筆することにする。
ザ・ヒューマンズ ─人間たち
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2025/06/12 (木) ~ 2025/06/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「母」に続いて観劇。今季はこの調子で三作とも観劇できそうである(三作観られる期は中々ない(一昨年は「レオポルト・シュタット」を見逃し残念な思いをした)。
と言っても今回は急遽時間枠が出来たお陰で観られたのだが..。つまり空席有り。公演はまだ序盤とは言え、集客に手こずる陣容だったか?と訝く思いながら後方席に座った。芝居は十分鑑賞に堪えた。毎度ながらキャストスタッフの事前チェックを忘れ、キャスト紹介のペラ1枚を一瞥して目に入った山崎静代(南海キャンディーズ)。変わり種の登場でどんな空気感が生まれるかも楽しみに開演を待った。
蝉追い
劇団桟敷童子
すみだパークシアター倉(東京都)
2025/05/27 (火) ~ 2025/06/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
似通った設定や劇世界との指摘は承知の助、「大体3つ位のパターンを順繰りにやってる感じ」と東憲司氏本人が言うように、今回は炭鉱の話だが、毎回の作劇の着想や強調点の微妙な(そして決定的な)違いは今作にもあった。「形やテンポで見せるノリの芝居」と「リアリズム演技」の浸食のし合いという視点が自分にはあって、リアリズムとの劇的な邂逅の舞台として音無美紀子との二度の共演が記憶に刻まれている。
今回は作劇上の特徴にハッとしたのだったが、時間が経ってしまって今思い出せない(よーく細部を反芻しないと)。
役者としては前々作が増田薫であった実力を問われる脇の役どころの位置に、今作では三村晃弘氏。
炭鉱と言えば、落盤事故の際、被害が広がらないよう水を流し込むというのがある。救出は絶望的と判断され、救出の可能性を断つ無慈悲な措置。先日観た「三たびの海峡」にもこのモチーフがあった。桟敷童子の今作では「そろそろ呆けの始まった一人暮らしの男」(山本宣)の奇行の源を探って行く過程でその事実に行き当る。
冒頭、男が暮らす実家に三人の女がやって来る。男と疎遠になった三姉妹だが、近頃見知らぬ女が出入りしているとの噂を聞いて真偽を確かめに来た。この三姉妹が長女板垣、次女もり、三女大手このコンビが何とも良い(美味しい)。
群像劇としては一人一人の役の担う重量が今回やや軽く、その分人物同士の繋がりの線が薄く、もう一掘り描写が欲しい実感はあったが、こういう回もあるのかと逆に新鮮であった。
LAZARUS
イープラス/キョードー東京/KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2025/05/31 (土) ~ 2025/06/14 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
我が青春の時にそれなりに食い込んだと言えるアーティストDavid Bowie所縁の舞台という事で、迷った。音楽要素の濃い舞台とあれば懐かしの曲目も奏してくれようし。・・と急遽勤務シフトが変わり、これは観に行けという事かと合点して観る事にした。
正直言えば今一つ。お値段を加味した採点なら☆一つ減、と断り書きしておきたくなる程には。劇的高揚が訪れない。なお二の足を踏んだ理由は演出家の名(申し訳ない)であったが、題材は難しかったかも知れない。
が、それでも演るというなら、エンダ・ウォルシュ戯曲と言えば白井氏、の前例にこだわらず、デヴィッド・ボウイーに心酔し、必ずや観客(ボウイ―ファンも含め)を満足させると執念の炎を燃やせる人材にオファーすべきだった。
最初の違和感は、ボウイ―に重なるだろう主役(地球に落ちた男とボウイ―自身との関係に同じ)の身体が「らしくない」事、歌唱においてボウイ―に寄せた歌声が「らしくなってない」事。歌の音量とバックとのバランスも。もう一つは、シンプルな感情露出の出来る脇役たちの演技がテンプレ、典型をなぞるようなもので、思わず「歌えるからって演技は<それなり>程度でも甘い顔してもらえると思ったら大間違いだからな」と心で呟いていた。忍耐の末に「ここは成立したな」と思えたシーンもあったが、興醒めを塗り替える展開があるわけでもなく、残念ながらラストでの挽回もなかった(ファイナル曲は“Heroes”。“Just for one day”のリフレインが胸熱だが残念ながら「曲の感動」を超えるの劇としての感動は無かった)。
冒頭から演技を丹念に組み立て、楽曲の構築も「大切に届ける」スピリッツがほしかった。ヴォーカルの音量をどこかのライブハウスっぽく上げてるのも違う気がした。ボウイ―のコンサートの場面、でもなく、劇中に位置づけられた「楽曲」なのだから。
悪口を並べた所で少し冷静に書けば・・この物語の世界観が、形成されそうになると邪魔が入り、最後まで構築されない感じである。それは戯曲なのか楽曲なのか、歌唱なのか演技なのか演出なのか特定できないが、「地球に落ちた男」=「人間となりたまいし神」のモチーフの変奏として、俗人化と神聖さの混在する物語の空気感が描き切れなかった。「俗・聖」が並立して共存する緊張感が、ポイントだったか。
少女仮面
オフィス3〇〇
ザ・スズナリ(東京都)
2025/06/11 (水) ~ 2025/06/22 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
唐十郎戯曲、殊に「少女仮面」は作り手により大きく変容する作品と再認識。スズナリはつくづく良い劇場だと思う。先日たまたま渡辺女史の出演したラジオ番組を聴いたらワイワイと賑やかしく音だけ聴いても密度が凄い。毎度の台詞「今回ももちろん赤字なんだけど」その最大要因は俳優の出演料だろうと踏んでいた所、今回のスズナリ公演、これでもかと趣向を詰め込んでいる。全部に金が掛かってる(掛けちゃう)んだろうこの人は..。今回も生演奏を入れ、演者と演奏者の区別もほぼ無しの混成(混沌?)舞台で(唯一演奏のみに専念したチェリストの女性も登場から終始歪んだ表情で物語世界にコミットしていた)。
過去観た少女仮面で思い出せるのは梁山泊(最晩年の李麗仙が登場)、人形劇、唐ゼミとそれぞれ優れた舞台化だったものの、今回こんなクライマックスあったか?と訝るやり取りに驚いた。改稿?それとも別バージョンがあったとか?等と。。
宝塚俳優春日野(同戯曲に登場させている実在した2名の人物の一人)は、後半唐作品にしばしば登場する突然詩情に煽られ語り出す人の一人として自分語りを語るのだが、それを聞く少女役が毅然と立ち立場逆転の様相を見せる時、芝居に限らず私たちがある種の義侠心や使命感に駆られてそうするあの透明な精神が、少女の中に立ち上がり、人生の孤独を激白する春日野との絶妙な関係の糸がすうっと浮かび上がって見える。このくだりは見事な普遍性を獲得しており、渡辺えりがこの演目を上演したかった所以であるかな、、判らないが、圧倒され通しの1時間45分であった。老若男女、若干女性多めの観客層であったが、退出渋滞に並ぶ高揚した顔顔の中にとめどなく涙を流す女性の姿が一人ならず。
代わって広報すれば...プレイガイドでは指定席完売だが、仕込み後二十席余裕が出たので今からチケットお求めの向きは劇団に連絡を、との事である。
愛一輪 バカの花
動物電気
駅前劇場(東京都)
2025/06/07 (土) ~ 2025/06/15 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
久々の動物電気、調べると2017年あたりに一度だけ観ていた。2020年に手が届く年、割と最近?と思いきや年は一つずつ経て行くもの也、8年と言や10年である。手練の演じ手の元気芝居を面白く観た記憶の残りがあるのみ。
が、観ていて思い出す。無茶振りで役者に勝負させる系(芸人系)ノリを挟みつつ小ネタ挟みつつの最後は人情喜劇?という。演者にも既視感あり。
コロナを忘れなきゃ(忘れさせなきゃ)演れない(楽しめない)芝居であり、劇場は復活した感あり(テント芝居然り)。
セザンヌによろしく!
バストリオ
調布市せんがわ劇場(東京都)
2025/06/01 (日) ~ 2025/06/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
なるほど!
全く何も知らなかった事が観て判った(というのも変だが)ユニット。多分野融合の舞台というもの自体は初めてではないが、棘がなく、深さはあり、技量は高く、恐らく細部が効いてるのだろう心地よいながらも感覚を刺激し揺さぶるものがある。新鮮。
燃える花嫁
名取事務所
吉祥寺シアター(東京都)
2025/06/11 (水) ~ 2025/06/15 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
秀作。
名取事務所の新たな試み、中規模劇場で普段より規模拡大したキャスティングと期待の劇作家ピンク地底人3号の新作は2時間超えの濃密な時間。人物たちが胸に刻まれる観劇の時間だった。拍手。
メイクコンタクト
劇団ZERO-ICH
雑遊(東京都)
2025/06/04 (水) ~ 2025/06/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
昨年末に戦後の沖縄を題材に大人数が出演の公演(特別公演?)を打ったあの劇団であった。重いテーマにもかかわらずタイムリープ、粘着性のあるギャグ(小劇場やアングラ演劇へのオマージュもあり?)と趣向をこれでもかと詰め込んだエネルギッシュな舞台・・。
開演時刻が19時30分という事で欣喜雀躍観劇に及んだ。前作の印象を劇場サイズに収めた舞台。出演者5名の今作、ファンタジーを媒介してのハートフルエンディング、エネルギッシュにエンジン噴かす躍動舞台、という特徴が前作と共通であった。
作劇に既視感あり、自分はそちらに些か気を殺がれたが、終わってみれば上記特徴を存分に発揮して力技で終幕へ畳み込んでいた。
前回の特別公演(?)に参じた役者の中に文学座の若手(顔に覚えがあった)も居り、改めてZERO-ICHサイトを見ると俳優メンバーの男女2名が文学座所属の俳優。道理でやれる訳である(今回女性の方は声のみの出演だったが「宇宙人」の喋り声が効いていた)。ユニークな成立ちの劇団、どうか続いて行ってほしい。
秘密
劇団普通
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2025/05/30 (金) ~ 2025/06/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
娘の安川まりが久々に帰省している実家には・・いたいた。また戻って来たよこの場所に。父・用松亮、母・坂倉なつこはその「らしい」風情を見るだけで美味しい。目の保養。今作はとりわけ「大きな事件」の無い(事件により事態や関係性に変化をもたらす事のない)日常を写実したに近い作品。自分の故郷も茨城とは逆だが立派に方言のある地方で、しかしあの母と誰かとの同じような会話は間違いなくあったし、父の方はデフォルメがきついが同種の光景を小さい頃訪れた親戚宅で夫婦の言い争いとして見たし、恐らくそれは地方人に共通するある生態がなさしめるものであり、石黒女史はよく観察し、再現させている事に驚く。
「大きな事件のない」と書いたが、日常においてしばしば起きる(起こり得る)小さな事件が人生においては小さくないのであり、自分をイラつかせる現実(物の判らない人を相手にするストレス)が「変わらない」という事は、大変な事であり、これが解決に向かうか、又は破滅に向かうか、いずれにせよ「変化」のストーリーででなければ描く価値はないのかと言えば、そうではないのではないか? と劇団普通の芝居を観る度に考える。とはいえ芝居には「終わり」があり、終わらせる必要がある。本作では父母の生活を助けに来ていた娘が、東京へ戻る日が訪れ、タクシーを呼んだ娘が家から出て行って袖に姿を消す。その現実が、父母の状態の回復を意味するハッピーエンドという訳でもなく、取り敢えずは大きな不安要因はないというだけに過ぎない所を、去って行くしか術なく、父母の側も送り出すしか方法がない、暫定的今日の安定があるのみ。姨捨ではないが思い切るしかない現実がある。そうした水面下で渦巻いてるかもしれない深刻さは、表には見えない。観客にも割り切りを要求し、自分も同罪となる。
ガマ
劇団チョコレートケーキ
吉祥寺シアター(東京都)
2025/05/31 (土) ~ 2025/06/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
実演の劇団チョコレートケーキ、久々に拝んだ気がする(二つ前の「白き山」が久々であったが「戻って来た」感はやはり今作のような骨太社会派劇である)。戦争六篇の内「ガマ」は沖縄を扱った新作という事で、これだけでも観たかったが叶わなかったのでこの度の再演は朗報。一も二も無く観に行った。
脚本、演出とも優れた舞台であった事は(幸なことに)言うまでもなかった。沖縄の戦争や戦後史を扱った舞台は数あれど、実際の「ガマ」(洞窟)を舞台にした芝居は寡聞にして知らず、新鮮であった。
沖縄本島中部辺にあると思しい洞窟に、熾烈な戦場となった南部から逃げ延びた者たちが入って来る。ひめゆり女子挺身隊の生き残り(清水緑)、負傷した大尉クラスの軍人(岡本篤)、後に脱走兵と判る二人(浅井伸治・青木柳葉魚)、沖縄人の教員(西尾友樹)、その土地に明るい老人(大和田獏)。時系列的には覚えていないが、時折爆撃音が聞えるが基本皆はずっと洞窟の中で、会話を繋いで行く。それぞれがこの場所を係留地と考え、それぞれの目的とする所へ向おうとしているが、閉塞した場所での対話はその切迫した状況の中で一つに収斂していく。彼らの中で「投降」という選択肢が浮上し、幾つものやり取りを経てどうやら白旗を揚げても米兵は恐らく自分らをなぶり殺しにしたりも陵辱したりもしない、という説が現実味を帯びる。そして彼らの中の最も若い女子挺身隊員の「死」への執着を取り払い、「生きてもらう事」が他の男らの言動の目的となる。「沖縄人が立派な日本人である事を証明した」挺身隊員たちの死に自分も倣いたいと言い、「でなければ何のために彼女らは死んで行ったのか」と、泣き崩れる女性に現地の老人が、「その答えを見つけるために生きるのだ」と繰り返す。
その前段、部隊を破滅へ追いやった責任を一人自決という形で取ろうと考えている(事が明白である)負傷大尉に対し、誰かが釘を刺す。お前一人死んだ所で何もならない、責任をとるとはそういう事ではない・・。
またその前段、教員もまた己が軍国教育を施し、生徒らを戦争に送った事の責任をひめゆりの子を見るたびに感じ、せめて彼女を生かそうと考えている。大尉が治癒し、絶望的な南部戦線の部隊へ戻るのに対し、彼女はそれに同行しようとしていた。
あるいは脱走兵の片割れは、爆撃音が轟いて来た今、部隊とは逆の北部へと一日も早く逃れようとしており、もう一人はそこまでの度胸はなく、相方を止めようとしている。
それが終盤では一つの選択肢のみが彼らの希望となる。
大尉の杖に、ボロ布を広げて結わえ付ける。ひめゆるの子が「自分が先頭に立つのが最も安全だ」と、旗持ちを買って出る。肩を寄せ合う一群が、ガマの入口へと向かい、カットアウト。終幕である。
日本兵によって「死」に追いやられた沖縄人が居る、という史実は疑いを挟む余地はない、と思っていたが、未だ沖縄は矛盾の極みを体現している。
関東大震災での朝鮮人虐殺は豊富な資料の存在から否定し得ない史実(公式にも認定)であるにも関わらず、それを否定したい市民を「支持者」と認ずる現都知事はその存在を認めない、という選択をしている。
「認めたら不都合」な事実を認めず、やがては事実を別の事実へと改変して行くのが「国のため」「市民のため」と公言しているのに等しい。そういう公人を戴く私ら現代日本人にとって、こういう芝居の需要は当面無くならないだろう。
つきかげ
劇団チョコレートケーキ
駅前劇場(東京都)
2024/11/07 (木) ~ 2024/11/17 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
これは映像配信の情報を運良く耳にしたので観る事ができた。同じく斎藤茂吉を描いた前作「白き山」に続き、緒方晋が老い行く茂吉を好演した。とにかく緒方氏の風情を愉しむのが私としては(氏の出演舞台では)娯楽である。一家の中心であり大きな人であった父が衰え、元気な父との時間の乏しかった淋しさを末娘が吐露する場面もある。家族の物語であり、またやがて著名な小説家となる息子の片方が、師として父を仰ぐ様子などは史実にあやかった作劇。優しく丸くまとまった芝居であった。
朝、私は寝るよ
グッドディスタンス
小劇場 楽園(東京都)
2025/05/28 (水) ~ 2025/06/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
芝居を観ながら眼前の展開に泡を食っていようと涙腺を弾かれようと頭の片隅で「視ている」のは、その舞台をやる必然性(あるいは止むに止まれなさ)だったりする。
グッドディスタンス主催という事もきっと影響してるが、二人芝居そしてアクティブというより受動的インドアな背徳関係(主人公は女性で舞台も女性の部屋)が、コロナ期の風景として見えて来てしまう。他人を「公然と忌避する」事を許されたあの状況は、罪意識の無い不倫行為とどこか通じていそうである。夕方の陽光がレースのカーテンを染める時刻、ベッドから起き上がった女がカーテンを開けて「夕焼け小焼け」の鳴る外界を見下す後ろ姿から、女の内面の風景を勝手に想像している。
本作、後で調べた所2021年同じ団体主催の「風吹く街の短編集」の三編の一編として上演、その後一昨年ゴツプロ!が舞台化そして今回の再演と、人気の戯曲のようで、観れば納得である。終演時、時計はまだ1時間の手前を指しており、思わず二度見した。緊張感ある二人芝居。コメディ要素は自然流れてはいるが、真実味のある芝居はリアルを探る目で見ようとする。真実に迫った瞬間が笑い処である。実は配役も、初演と同じであった。本戯曲は多様な成立のさせ方がありそうで、作り手の想像の余白が結構ある。手頃な感じで、また観たい戯曲である。
ずれる
イキウメ
シアタートラム(東京都)
2025/05/11 (日) ~ 2025/06/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
序盤に観て、もう一度観られたらなーと機会を窺っていたがマァ叶わず、記憶を手繰りつつ感想を。「外の道」以降のイキウメが、深い思索へ誘いながらも「謎解き」を頂点に据える娯楽作を封印し(演劇である以上娯楽には違いないが)、抜き差しならない現実に拮抗し得る「演劇」を具現する力に驚嘆しきりであった。という前段から「奇ッ怪」にて(題材の縛りからの必然としても)謎解きの快楽復活を見、さて今作はどう来るのか楽しみに会場へいそいそと向かった。
大いに納得させられる舞台。詳細はまたいずれ。
三たびの海峡
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2025/05/24 (土) ~ 2025/06/01 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
日韓日朝関係にまつわる演劇を何故か担う事となっているシライケイタ氏が尹東柱を題材にした前作に続き青年劇場に書き下ろした(原作あり)作品との事で、ここは観ておこうと足を運んだ。シライケイタ氏が必ずしも日韓関係史や在日の生活史に精通している訳でも体験的に在日との濃い接点を持つ訳でも(恐らく)ないことは過去作を眺めて窺えた事だったが(私もそれほど詳しい訳ではないが日本人の平均に比べればかなり濃い方だろうとは思う)、氏がこの領域にこだわり製作を続ける姿勢に敬意を払う所あり。そして今作にて、原作があるとは言え、シライ氏の手になる日韓現代史界隈の作品として大いに納得できる舞台と相まみえた事を感慨深く思っている。(何だか上からに聞こえそうだが実際そう感じてきたので...)
内容についてはまた。
母
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2025/05/28 (水) ~ 2025/06/01 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
以前手にしたチャペック戯曲集の中に存在感ある作品として収められているのを見(読もうとはしたが読了したか不明)、その後オフィス・コットーネが増子倭文江を母役に配して上演。抉られた。
今回異文化に触れたい衝動で(A席のお値段に腹を括り)直前に劇場に赴きキャンセル席をゲット。最後列に収まった。記憶を手掛かりに字幕上演を辛うじて乗り切り(字幕を見ながらの観劇には後方席は悪くなかった)、終演時は痛くなる程拍手をしていた。
不眠のため一幕後半は秒単位での寝落ちに幾度も見舞われたが、俳優の声と身体はしっかり感知でき、文字読解の脳を駆使できた事(速くて読めない行もあったが広田篤郎の翻訳が恐らく良かった)、記憶の補助により付いて行けたのは幸いだった。
(予習は必須だったかも知れない。)
脚本をかなり刈り込んだ印象。コットーネ版は凡そ2時間との事だが今舞台は休憩20分含め1時間55分。
開幕時、母は軍人だった夫トマーシュを十数年前に失っており、5人の息子の長男オンドラも、医師として外地で亡くなっている。次男のイジーはセスナ乗りに明け暮れ、双子のコルネルとペトルは絶えず戦争もどきの喧嘩で張り合い、部屋を荒らして母の癇癪が飛ぶ。末っ子のトニだけは母の意に適い、他の兄弟が争うのを見て泣き、本に親しみ詩を書く文学青年。やがてイジーが飛行機事故で爆死。双子の兄弟も内戦の対立する陣営に加わり、いずれも死を遂げる。次男と三男四男の死までが一気呵成に進み、一幕が終る。
この作品では父の遺品が飾られる部屋が、ある特徴を担わされている。英雄然とした父の遺影、銃や剣といった「男心をくすぐる」アイテムもあり、息子らはこの部屋に入って遊びたがるのだが、母はそれを忌み嫌い、父が死後もなお息子らを悪しき道に導いていると恨みをこぼしている。母はこの部屋で夫と会話し、長男とも話す。原作では母がこの部屋に入る時間と他の空間の時間は当然区別されているが、この舞台では両者が地続きのような演出で、時短で目まぐるしく進めていたようであった。
二幕、外国の侵攻を受けたとの衝撃的ニュースがテレビから流れている。若く色の白い美しい女性が悲壮な表情でそれを伝え、トニがそれを見ている。母はトニの心境を問い質し、懸念を口にする。男たちよ立ち上がろうと呼びかけるアナウンサーに「母親じゃないから分からないのだ」と毒づく。だがトニは学校で友人たちが兵隊に志願すると言ってる、自分も志願したい、と言う。母はトニが如何に「そういう人間ではなかったか」過去の断片を一つ一つ挙げて思いとどまらせようとし、地下室に入るよう強く勧めるが、トニは「それとこれは違う」と答える。しかし母のあまりの剣幕に思い直し、母の「愛」を失うことを畏れ一旦は地下へと降りる。
そこから、死んだ息子らと父による「作戦会議」が始まる。「困ったことになった」「可哀そうなトニ」「可哀そうな母さん」・・ここはチェコの国民的作家チャペックの面目躍如、死んだ身空で国家の危機に「立ち上がろう」と気炎を上げるというコミカルなシーンなのだが、その彼らの動機の中に一抹の真実がかすめる。ここで敵国に負ければ(国を失えば)国に殉じた自分たちの犠牲が無に帰してしまう・・その一心から何かしないではいられない哀しい性を吐露しているのである。
彼らの姿が見える母は彼らに反論し、自分は報国の義にでなく家族のために命を賭ける、トニに居なくなってほしくない理由は「自分が淋しいから」と高らかに言う。永久に理解し合えない事だ、とも。母の剣幕の間に、男らはいつしか居なくなっているが、そこへトニが出て来る。「何を喋っていたのか」と。そしてその時、テレビからさらなる苦境が伝えられる。若い兵士ら何百人が乗った潜水艦が爆破された。そして母が毛嫌いしていた女性アナウンサーの顔色が変わり、自分の息子がそれに乗っているとこぼし、カメラに背を向けて動かなくなる。右に映された男性メインキャスターが冷静に状況を伝える。艦から「沈没中」との連絡が入った。「私たちのために国歌の演奏を望む」・・そして、連絡が途絶えた事を伝えると、女性アナウンサーが崩れ落ち、(母としての)嗚咽がTV画面から漏れ出て来る。
テレビが消され、母は置かれた銃を手にし、絶望にひしがれてトニに「行ってきなさい」と言う。何を思うのか読み取れない銃を捧げた息子の後ろ姿が、強烈な光の中へと消え、終幕。
母が決意を固めるまでの暫くの間、テレビ画面はテロップに流れて行く悲報の文字を映し出す。つぶさに読み取れなかったが、いずれも子供の死亡数を伝え、イスラエルのガザ攻撃による死者カウントに見合う数である事から、私はそれを想起する。「何故子供たちを?」・・・母の中で、現状を黙って見過ごす訳には行かない思いが起きたのか、大義名分に抗う事は出来ないと観念したのか、いずれにせよ母の絶望がこの作品の結語である。本作は母役が要だが、チェコ人の生活文化を知らないながらも家族の中の母の息遣いが伝わっていた。
リア
劇団うつり座
上野ストアハウス(東京都)
2025/05/28 (水) ~ 2025/06/01 (日)公演終了
実演鑑賞
こちら自分的には「篠本演出」舞台という括り、そのアングラ作品部門、という具合であるが、そう言えば第一回公演は知人の出演もあり、縁故観劇であった。ワークショップから立ち上がったと言い(中核メンバーは居る)さもあらんとの印象と同時に(岸田理生作品のムツカシさにも関わらず)巧く仕上げており俳優の動きがしっかりしている。見れば篠本演出、しっかり仕事をされてるな、と敬服の度を高めた次第であった。
以来二度目の観劇。やはり岸田作品だが「リア」は未見かつ概要も知らない作品で、リア王をどう岸田理生世界に生きさせるのか純粋に興味、と共に勿論篠本氏がどう料理しているのか楽しみに劇場へ着いた。
全体がアンサンブルでの構成で俳優の比喩的活用が顕著。形を面白く眺めながら比喩の解釈に意識が持って行かれていたが、中盤以降、徐々に突出する俳優力を注視していたら、リア役が篠本氏であった(ポマードでテカった分け髪の印象と乖離して気づかなかった)。
岸田理生のリアは、リア王が辿る帰趨に違いは無いが娘は二人、権力を貪る性質の姉と、王に耳心地よい言葉を与えなかった科で追放される妹(原作では三女)、姉は三つの化身を持つ、としている。リアには二人の道化と一人の護身兵を伴わせて旅をさせるが、王の座についた姉(長女)による執拗な干渉に見舞われ、流浪者の最後のよすがである「自由」さえも許されず非業の死を遂げる。長女が完全な「己自身のための己」を手にするや彼女は死者たちの影に怯え始める。ラスト、冥府にて父が悠然と現れ、彼女と対峙する。
平成を跳んだ男
劇団世人
WAKABACHO WHARF 若葉町ウォーフ(神奈川県)
2025/05/22 (木) ~ 2025/05/25 (日)公演終了
実演鑑賞
若葉町WHARFの一文化発信拠点たろうとする志に地縁者として共鳴する者だが、今公演もよく見ると(純粋貸し館公演でなく)劇場も絡んだ公演のようである。監修として館長佐藤信の名があるが、どの程度舞台の中身にタッチしたのか、と言うのはある部分で佐藤氏作演の近作(黒テント)を彷彿する「唐突さ」を発揮していたので。
(私の印象では1970年代アングラ演劇の一翼を担ったと言われる佐藤信の本質は舞台詩人(「詩人」の要素が強い)であり詩の自由さをそのまま舞台に投げ込むので、私の思う劇作家・演出家=舞台設計者という認識と違う。瓢箪から駒が出る事もあったろうがそう毎回は出ないんでは..と冷淡なようだが思ってしまう所がある。しかも意図的にどこかを壊しに掛からずに居れない性格?との疑惑も持っている。創作は自由であるべき!だけれども。)
閑話休題。映像をまじえた舞台構成は良かった。実際こんな事忘れていたな、という社会事象が男の語る過去の背景として紹介され、新鮮である。
が、テキストの部分で伏線不足の跳躍がラストにあり、些か置いてけぼり感は否めない。そこへ至る過去語りの時間は頗る面白かっただけに惜しいとの感想が残った。
「跳ぶ」ための力が、今この時点の「彼」に充填されていたのか、それはどこからもらったのかが不明で、もっと言えば彼は自死を選んだのか(事故に等しかったとしても深層ではその念慮があったのでは、とも)、走馬燈に見る自身の半生がどのように跳躍される事を我々は望む(事を促されている)のか、跳躍せずここに留まる事だ、と台詞を変えても成り立つ抽象性が、行き場なく漂った。タイトルありきで縛りを解かなかった?と想像したり。私としてはまた磨きを掛けての再演を是非観たい。
銘々のテーブル
制作集団・真夏座
シアターX(東京都)
2025/05/22 (木) ~ 2025/05/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
以前耳にして刻まれていた脚本家の名(作品は不知)に惹かれ、前世紀前半に書かれた作品を吟味しに出掛けた。矢内文章が演出というのも後押し。
真夏座の事は知らねど、縁ある俳優何名かが立ち上げたプロデュースユニットか。新劇や小劇場の人脈から組まれた座組も中々で、作品の普遍的な魅力を発見する喜びに浸れた。
本編は二部構成。タイトルも窓際のテーブル、四番目のテーブルとあり、場面変わらずそれぞれ別個のエピソードとなっている。長期滞在用ホテルの食堂に、各自決まったテーブルにやって来て食事やお茶をする。各エピソードの主要人物以外は両方に登場する常連たち。支配人とメイド二人も共通。一幕の時点では結婚前のカップルだった二人が、二幕では赤ん坊を抱えた夫婦になっていたりする。一幕は紆余曲折を経た男女の愛の再生の物語、二幕は虚飾が剥がれた自称「元少佐」の人生の再生の物語。それぞれに味わいがあり、かつこの二つで一つの作品となっている事で「二度美味しい」だけでなく人間観察が深められて行く所があって、不思議な作品であった。
チョコレイト
キルハトッテ
小劇場 楽園(東京都)
2025/05/21 (水) ~ 2025/05/25 (日)公演終了
実演鑑賞
今年に入って「初」の団体を中々の頻度で観ている(特に名のみ知る劇団の初観劇は感慨深い)が、こちらは中でも未知数度の高い一つで、「端正な作りをしていそう」なサイトの印象だけを頼りに(不安の面持ちで)観劇せり。
思っていた以上に作劇の工夫と饒舌さがあり、「書く人」なのだな、との印象。