tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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コーカサスの白墨の輪

コーカサスの白墨の輪

世田谷パブリックシアター

世田谷パブリックシアター(東京都)

2026/03/12 (木) ~ 2026/03/30 (月)公演終了

実演鑑賞

瀬戸山美咲による古典作品の翻案の大きな舞台、と言うとKAATホールでの「オレステスとピュラテス」(2020年/演出=杉原邦生)、以後の瀬戸山氏の活躍は世田谷パブリック「現代戯曲集」や「ペーター・ストックマン」等が記憶にあるが、それ以外では劇作家協会会長に就任したくらいで舞台情報はあまり入ってこなかった。が、海外作品の日本輸入版の演出を結構やっている(商業演劇のチラシは小劇場の公演にはあまり入って来ない)。何時からこういう大御所な立ち位置となったのか、と調べると・・、コットーネ「埒もなく汚れなく」(2016)、ミナモザ「彼らの敵」(2016)、青年劇場「オールライト」(2017)、流山児「わたし、と戦争」(2018)、コットーネ「埒もなく汚れなく(改)」(2019)など作・演出をやる小劇場演劇人の仕事を見ていた所、2017年グローブ座系で「グリーンマイル」をやっていた。以後海外物などの大型舞台を手がけている。その合間に利賀演劇人コンクールにも実力派俳優を引き連れて上演。演出のみの仕事も多く、よく書いている。
そんなこんなで暫く見なかった女史の仕事を久々に観に出かけた、というのもあった。
中々無理がある設定や翻案、そして生演奏の音楽の使い方に、大変難ありを感じてしまったのであった。俳優に関しては小劇場でお馴染みの実力は西尾氏、森尾氏らが脇でよく演じていたので嬉しくはあったが・・いずれ書いてみたい。

天照と倭姫命

天照と倭姫命

人間の条件

高田馬場ラビネスト(東京都)

2026/04/01 (水) ~ 2026/04/07 (火)上演中

実演鑑賞

満足度★★★★

ラビネットは過去一度だけの記憶(肋骨蜜柑を観に・・渋い)。さて初観劇の劇団。
私の先入観は、社会的視点〜コンセプトから上演を立ち上げる劇団、というもの(学んだ手法に依拠して、ではなく方法そのものを探るといった創造への関心を・・コロナ期の頃読んだHPの文章か何かで勝手に想像)。
ゆえに、天照(アマテラス)と倭姫命(ヤマトヒメノミコト)と題して何を見せてくれるか、謎掛けがどう解かれるかを見届けるべく、凝視した。

古事記物語だろうか、両脇に三名ずつが座して楽器を鳴らせるエリアを据え(開演時には種々の楽器がおかれている)、幾種類もの打楽器や音階楽器の合奏。そして衣裳、美術、台詞も相まって神話世界を具現していた。
天照を祀るのに相応しい土地を探すよう大君に命じられ、旅に出た倭姫命。奈良、京都、滋賀といった土地土地を訪れ、民と彼らの祀る神に遭遇していく。「相応しい土地」とは何かも分からぬままの放浪。天照は神がかった存在。ナレーションは折節に「20年が経っていた」「30年が・・」と語る。倭姫の顔に年輪が刻まれて行く。
やがて伊勢の地に辿り着くと、実に40年が経っているが、その土地の者と神に歓迎を受け、そこで二人に同道してきた家臣の男とは離れる運命となる。祀られる場所には入れぬからと言う。
冒頭よりそれなりに興味深い物語叙述がしばらく(と言うか最後まで)続くのだが中盤、作り手の視点が如実に(私の感覚としては)海底生物が巨体を海面に現わす如く現れ、愛おしき物語として立ち上がった。
本作では出演者に外国の人が2名(英語と片言日本語を話す女性、クルド語?と片言日本語を話す男性)の参加があるのが特徴的。
神代における「約束の地」への放浪は旧約の民の放浪にどこか似ているが、島国日本=単一民族を定義する以前に、多様なアイデンティティを持つ民、土地を巡り、ある意味「平定した」天照による倭国成立の物語は、多民族の習合の末に為し得たワザと叙述される。天照は土地の神を排除する事なく、寛容を旨とした事など。そこへ来て現代性を帯びる演劇として立ち上がるのを見届け、自分なりの納得を胸に劇場を後にした。ここでしか観られなかった演劇。

アンサンブルデイズ

アンサンブルデイズ

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2026/03/19 (木) ~ 2026/03/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

昨年の一期生公演では、松尾氏の本気度に少々当てられた所であった。
今回は演出がノゾエ氏。これで若干、否随分テイストが異なった気がするが、観進める内にストーリーを思い出し、見入った。昨年は上手側、今回は下手側からの観劇という事もあるのか、装置はだいぶ異なって見えた。力点や濃淡、緩急の施し方も異なり、ストーリーが同じでも違う物を観た感覚が残る。同じ山を別コースで登ればそれはもう全く別の体験、というのと同じか。自身のイメージを貫徹し、完結させるのが演出の仕事。批評が好きでその最大の武器であり楽しみが比較。今後アクターズスタジオではこの演目を当面卒業公演で打って行くそうである。

俳優で生きて行く夢を描く若者たち。あぶれた結果はやはりと言おうか、劇団を作る。そこからの悲喜交々、それぞれの敗北と分裂、逸脱が辛辣にリアルに描かれる。予算管理する担当がマルチ商法に取り込まれ、劇団の金を持ってトンズラする一幕ののち、ラスト、それぞれの「その後」がエンディングらしく紹介されるのだが、マルチ女子はその道を捨てるどころか邁進していて、彼女の背中を追って私も自己実現したい、と後輩に願望を語らせている。それも一つの道だと、君は送り出す方ができるか、と問われた気がしてハッとなる。
ルール違反や倫理違反を「裁きたがってる」ネット住民はこの芝居をどう思うだろう。とふと考えた。

誰かひとり/回復する人間

誰かひとり/回復する人間

conSept

ザ・ポケット(東京都)

2026/03/05 (木) ~ 2026/03/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

conSept主催公演を以前観ようとして断念したがこの度の企画に関心あり観に行く事となった。同劇場で他の公演も予定されているが、料金設定が中々高く、感想の中に「その割にどうだった?」の要素が忍び入り、己の中の資本主義的人間のさもしさに忸怩とする。
二作品とも文学性の濃い作品で、舞台もその世界に即したものであった。演劇的工夫は装置などに窺えたがその部分は動的でもベースは静的といった印象。第一部のヨン・フォッセは劇作家だから演劇であるが、メタファーか強い。同じ衣裳を来た二人組が三組、どうやら「あちらの世界」の住人のよう。死に別れた相手が一方からは見え、他方からは見えないのか、無視してるのか・・「感じるが見えてない」らしいと後に判明するが、三番目に登場する組はどう関わるのだったか。。対の二人の関係もそれぞれ謎。対話する場面もある(あったと思う)。メタファーであるが台詞は生々しく、観た感じ一つずつ順序立てて進んでいく秩序のようなものがある。深読みを許容する作品でもある、その風格がある。だが抽象を抽象のまま受け止めて持ち帰らざるを得ない作品。休日の早い時刻でコンディション万全でなく読解に難ありだったか。戯曲を予習して観劇に臨むのが理想かもである。
もう一作がハン・ガン作短編小説の舞台化。ここは西本演出の動的な演出が駆使されていて(戯曲の制約がない..変な言い方だが)、抽象度はやはり高いが、人生に背を向けた「回復したくない」女性のアンビバレントな生への欲求を、最後まで「回復したくない」と本人が言い続けるという中にじんわりと立ち上がらせていた。その女性を豊田エリーが好演。
公演のコンセプトとしての「ノーベル賞作家作品」だが、そこに何らかの必然性(共通の時代性を表してる、といった)が明確という訳でもなく、私がそうであったように「知りたい(どちらも知らないので)」要求に応える「作品紹介」公演の域を、予想外に超えてくるものが無かったのはちょっと淋しかった。作品紹介公演にしては、これを言ってしまうがやはりお値段が高い。

ROOM

ROOM

劇団黒テント

ザ・スズナリ(東京都)

2026/03/18 (水) ~ 2026/03/22 (日)公演終了

実演鑑賞

黒テント、というだけで出向いてく客も結構居るだろうが、自分もその客層の一人になってしまっておる。芝居を習い性で観に行く事じゃ既に焼きが回ってるのかもだが、せめて評は厳しくである。
団員総出の舞台は感慨深いものがあるが(今回はプラス龍昇氏)、齢八十になんなんとす佐藤信氏の新作てのも然りで。全てを可能にする演劇という世界に無防備なまでに身を委ね、遊ぶ姿がある。文脈や繋がりが読めない箇所も多々。後々回収される伏線を見過ごすまじとの緊張はやがて手放し、さてこの奇妙な舞台をどう楽しもうか、楽しめるか、に関心が移っている。
既視感がある。昨年亡くなった福田善之氏が老境にしてサルメカンパニーに書下ろした作(上演は一昨年だったか)。中々厳しいシナリオだったが書き手一流の一筆入魂の勢いと詩的台詞で乗り切る技を駆使し、空中分解しかねない作品を繋ぎ止める。思うに、演劇人にとって演劇の価値即ち人生の価値と想定するなら、彼らには最早ストーリーの完結に心血を注ぐだけの意義を感じられず、人生といふものの何たるかを言い残したい欲求が勝るなんて事があるのかしらん、と勝手な想像を膨らませたりする。
ストーリー性の薄味と老境、で思い出すのは黒沢明監督の「夢」とか。我が人生を振り返って見え来る場面は夢の如し。
芝居に戻れば、こちらは演出も秀逸で楽しめたが別役氏が病床で書いたというエッセイのコラージュのような「背骨パキパキ」(名取事務所)もその部類のようにも。が別役氏はその後亡くなる前にガッツリな戯曲を書いている。
さて黒テントatスズナリは、舞台と客席をつないで「所詮作り物」の演劇だと吹聴する狂言回し(内沢氏)を配して、新聞の求人欄を見て応募し、面接に来た男(龍氏)を翻弄する不条理劇。求人欄には「潜水夫募集」とあった。町(村)に到着するなり、ままならないコミュニケーション困難に見舞われ、面接にこぎつけるも役所の発行する証明書が必要、それが届くまで待ちぼうけとなる。住み込みと聞いて身一つでやって来たのに...。カフカの審判みたい。海岸のある村で、、というとつげ義治の短編の一つにあったな。
しかし本作には他の軸もあって、どう絡むのか分からない。複数の着想を無理くりに織り物にしたと思しい。歌まである。意味深である。が断片的。かくして混迷の舞台は終幕を迎える。
黒テントというよりは佐藤信的世界。「メザスヒカリノ・・」が黒テント始めの自分には難渋であるが、何にせよこの集団が元気に何かやってるのは嬉しい。滝本女史も久々に目にした。平岡氏も。服部氏がやはり最後を締め、澱みないソプラノサックスを披露したが、健在振りを何時まで見せてくれるだろう。老獪な立ち姿をもっと観たい人は多いに違いないのだが。。

片鼻

片鼻

プレオム劇

ザ・スズナリ(東京都)

2026/03/25 (水) ~ 2026/03/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

故・中島淳彦作品の上質な鑑賞機会を提供してくれるプレオム劇、今回3回目。重宝である。
女性オンリーが特徴。立ち上げた2016年に打った演目を10年目に再演。固定メンバー&常連メンバーに、ゲストメンバーを迎えて。劇団に近い空気感も親しみが湧く。演出に嶽本あゆ美女史を迎え、毛色の違う芝居をどう演出するかも気になっていたが、中島淳彦芝居の世界が違和感なく立ち上がっている。
本作は四十過ぎの独身女性を見舞った、痛いお話。彼女の負傷や損失の分だけ、周囲は少しばかり幸せになっている構図で、一人だけのアンハッピーエンド。そして失敗はこの主人公の心根がもたらした報いにも見え、不遇の者が獲得する観客の同情・共感からさえも見放された姿、所謂痛い女性のモデルケース。
ただ、「苦労なく」過ごして来た様子の彼女に、抱きしめるべき不幸が与えられた事の方が僥倖なのかも...と。四十過ぎた身に癒えがたい傷を刻まれた事は確かで何だかリアルで、しかし作者は彼女をそのように遇する事で、結果的に希望を投げかけている。主人公役の小林美江が、目が離せない立ち姿。近所のお節介おばさん役の矢野陽子も引きつける。他特徴的キャラが美味しい役者たちが噛んで味がするスルメ。ディテールにこだわった具象の装置も美味しい。スズナリでの上演資格十分あり。

「ミカンの花が咲く頃に」2026

「ミカンの花が咲く頃に」2026

HOTSKY

座・高円寺1(東京都)

2026/03/18 (水) ~ 2026/03/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

同作二度目の鑑賞であったが、見事。かなり序盤から客の心を掴んでいた(前半から客席の間ですすり泣きも)。初演を小さな劇場で観ていた。役者が入り切れず、袖がないので上手は演技エリアから一歩出て「ハケた」事にしていた。良い舞台だったがこれを更に改稿してキャストも改め上演の予定がコロナでわやになり、販売予定だったらしい台本のみ入手。良い作品との実感だけは残っており今回漸く目にする事が出来た。後刻詳述。

ネタバレBOX

今配信期間のTRASHMASTERS「わたしの町」を観たばかり。寂れ行く地方と農業衰退、有力企業や大規模工事の誘致といった地方“あるある”が重なる。
本作では山林開発の結果としての土砂災害まで挟まって悲劇性が高まるが、テーマを浮き彫りにする「都合」による恣意的展開とも捉えられかねない所、むしろ実際の事例を踏まえているかのようなリアルさがある。
ミカン農業で栄えた地元の蜜柑にまつわる伝説、年一度の神楽といった伝統的な祭礼が、冒頭に提示されていて、これが観客を包むように飲み込む。死者とともにある感覚が、後日談として最後に語られた抵抗運動の敗北(高速道路の予定他として更地化した)にも関わらず、怨念を残さない。
若者たちの存在が、上記TRASH舞台、本作共に鍵となっている。
牡丹の花は匂えども

牡丹の花は匂えども

遊戯空間

上野ストアハウス(東京都)

2026/03/18 (水) ~ 2026/03/22 (日)公演終了

実演鑑賞

前回小気味良く鑑賞した噺家を主人公にした戦前の作(吉井勇)からの、今度は実在したしかも近代落語(という語があるのか分らないが)の宗祖と言える三遊亭圓朝を取り上げた作というので期待を燻ぶらせながら赴いた。よく見れば篠本氏自身の作の再演とあり、しかも日本の劇戯曲賞最終候補作との事で関心の置き所がやや変ったのだが、解説によれば今回はタイトルを変え、圓朝一代記よりも家族とりわけ不肖の息子朝太郎の存在に比重を置いた、とあった。喜ばしきは芝居の設え、描写のタッチは前回を踏襲、というより篠本流の硬質で竹を割った感じ。休憩を挟んで2時間半、中々の尺であったが噛み締め楽しんだ。

鹿鳴館異聞

鹿鳴館異聞

名取事務所

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2026/03/11 (水) ~ 2026/03/15 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

今や追っかけに等しい名取事務所であるが、今作は直前まで未定(観ないだろうと思ってた)。が結局足を運んだ。
初の堤春恵作品。当初は確か新作との触れ込みだったのが、サイトを見れば作者の体調により新作執筆を断念し、処女作品の上演となった由。
名取事務所でしか名を見なかった堤春恵(「奈落のシャイロック」「東京ブギウギと鈴木大拙」)は実は脚本執筆を80年代末頃より始め、経歴は長かった。歴史物、翻案物が多いようで上記シャイロック(ベニスの商人)や海外上演も広くされた「仮名手本ハムレット」、オセロ、川上音二郎等の名が過去作のタイトルに見出せる。本来は日本の古典芸能の研究者であり、夫に随伴して渡米した後、戯曲執筆を始めた。もっと調べると実父は著名人。酒造会社のサントリー社長、会長で同社を躍進させた人物であると共に、文化芸術分野にも広く手を伸ばした人(当時はメセナなるコトバもあったな)。作者はその資質が受け継がれたものと勝手に想像。・・等々は観劇後の後付け知識であるが、舞台は硬質なトーンとエンタメ要素が共存した優れた書き手との印象で(私の中ではほぼ無名作家の範疇であったため)少々驚いたのであった。作家のデビュー作の持つ創意と熱度、大胆さがあった。
俳優陣では平体まひろ、松本紀保、名取事務所の西山聖了(きよあき)が目に留まる。ここを見逃したくなく観劇に至ったというのもある。奇しくも劇中ではこの三者の関係が胸を掴まれる部分でもある。
歴史上の人物森有礼(ありのり)が劇中で半ば悪役を担うが、主人公となるのがその元妻・常(つね)。彼女が「最後に産んだ」娘が、物語の鍵となる。
舞台は夫人が隠棲生活を送る当時外国人居留地区であった築地にある屋敷の客間。夫人が欧州からの単身帰路の船上で出会い、帰国後お付きの看護婦となった千代が、凛とした姿で物静かに主人をサポートする。二人暮らしのその屋敷を、明治憲法発布の前夜、文部相である元夫の森が、その後とある男爵夫妻が、訪れる。夫人・常に松本、看護婦・千代に平体、男爵夫妻の妻、その実女形の役者に、西山が扮する。
これも後付けの知識だが森有礼は明治の人で維新前夜の1865年渡英し、帝政ロシアと米国にも渡り、維新政府では特に教育制度の整備に携わった人との事で、知識のある人なら物語の舞台が明治憲法発布式典の前夜である事から、翌日1889年2月11日式典に向かう森が国粋主義者に暗殺される結末が読めていただろう。
ただし物語は欧化に邁進する日本、その急進的な一人であった森を通して日本の今に続く歴史の俯瞰へと導く要素は仄かにあるものの(作者も森の人物像と時代とを踏まえて作劇を行っただろう)、物語は夫人・常の三人目の子供(初の女児)安にまつわる謎を巡って進んでいく。
冒頭夫人が客間の一隅にあるゆりかごから取り上げて抱きあやす「安」は実は人形であり、それを指摘された夫人が「安はどこへ!」と狂乱するあたりから謎解きが始まる。森との結婚生活が解消されて何年かが経ち、二人の男児は再婚相手との家庭に引き取られている。森は「安など居なかったのだ」と常に宣告する。平静を取り戻すべく千代が夫人に寄り添い、ケアをする。
そこへ男爵夫妻が訪れ、妻=実は女形役者が、世間体の縛りのない感性で、「安」に興味を持ち、彼女の問わず語りの証言を引き出す。常は安を孕んで一人欧州から日本への帰路で、三等船室の千代と偶然出会い、頼るべき日本人との船旅を送る。彼女は自らの手妻師としての欧州での興行の日々を語り、ある挫折から帰国する途上であった。舞台上では千代がちょっとした手妻の術を披露して周囲に信憑性を持たせ、帰国した折に千代が彼女を絶望させないため人形に細工をした事を証言する。森も安が実在することをこの時点では認めざるを得なくなっている。このあたりの前後関係はやや無理筋、不明な所だが、やがて明らかになる安の誕生の秘密がそれらを飲み込む。安は緑色の目をしていた赤子であった。
一夜が明けた翌朝、物語はかの地での「恋」を常に語らせることで謎解きを終える事になる。その直前、式典へと出発する森は常に正対し、大団円の予兆のように、今この時だけ以前のような二人の関係を、夫を送り出す妻を、演じてほしいと頼む。常は謹んでこれを受け、深々と礼で森を送り出す。
特に出かける用もない女形は常の様子を見ている、と千代が彼に「認知に不省あり、正常な時もあるが不安定なことが多い」と告げる。それに展開が導かれるように、常が彼をある人物と錯視している事が明らかになる。最初戸惑う女形だが、やがて常に話を合わせ、信じ切った常が欧州での「彼」との出会いと、逢瀬の日を再現していく。ときめき高鳴る心。最後に抱擁、接吻に至った時、すなわち「安」の誕生が祝福されるべき理由が皆の知るところとなった時、玄関のリンが鳴り、長年世話をしてくれた老境の執事が訪れ、懐かしい再会を喜ぶ間もなく森の死を告げ、崩れ落ちる。
ラスト、コールは荘厳な音楽で満たされるが、それが不自然でない仕上がりとなっていた。
自分的には過去いまいちな評価であった松本女史の役者的長所を此度ようやく認識するに至った。頼りになる平体が劇中でもその役割を十全に見せていたのも満足。アウトローなればこそ洞察眼で「見る者」として夫人の人生に光を当てた女形役の西山氏は、過去作の中でも今回は大きな役割であった。
感動と共に発見をさせてくれる幸福。

ガラパゴス

ガラパゴス

キルハトッテ

水性(東京都)

2026/03/10 (火) ~ 2026/03/15 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

水性を初訪問。少し前に同じ新井薬師のウエストエンド・スタジオへ向かう途中、外から丸見えのガラス張りのスペースがあるな、と。何か集会だかイベントをやっていて、つい覗いちゃう妙な空間だな、と。思っていたそこだった。
夕刻、全面ガラス張りの三分の一(客席側)だけシャッターを下ろせば、幾分落ち着き、観劇態勢となる。
ステージをしっかり確保すると置ける客席は20名程。SCOOLよりやや広い。下手側(道路側)にベッド、上手側の壁のラインの手前に、カウンター風の1.5m幅の設置物、両側から裏が通れる。その舞台奥側から上手袖の奥へと通路が伸び、出ハケはそこから。ベッドと上手壁の間、つまりステージの上手半分が広く空いていて奥にハンガーラックがあるのみ。空間使いの塩梅が中々良い。

前に下北沢楽園で時空を飛ぶ恋愛ストーリーを観た者としては、台詞劇としてのこの程よさ具合、洗練度(無駄を削いだ感)は何だろうと。無対称と具象のバランスも良く、ベッドが車にもなる自由度の高い場面運び。
爬虫類化する不条理現象から始まる飛んだストーリーは、幽霊が三角布を付けて登場する以外は一応リアルの範疇(その幽霊も恋人=主人公にのみ見え、展開に大きく噛まない程よい居方)。
巻き込まれ型の不条理劇的展開だが所々、患者である主人公が徒手空拳でも主張を通そうとする。選択権を行使しようとする彼女を配慮の仮面をつけた強制がのしかかり、平穏と不穏が波状で寄せる。
台詞はリアルを帯び、取り巻く人物の造形もリアルベースであるのが好もしかった。
不条理劇(とりわけ別役作品)がどう演劇的リアルを成立させるのかに非常に興味を持ったことがあるが(今もあるが)、この劇も会場と相まってあるトーンがキープされ、無理なく成立している事(受けを担う主人公が要であったか)を、噛み締めていた。
リアルの裏打ちが終幕を胸に落ちるものにできている。。

演劇の台本を上演するワンダーダンス 原作:安藤奎「それどころじゃない」

演劇の台本を上演するワンダーダンス 原作:安藤奎「それどころじゃない」

Von・noズ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2026/03/06 (金) ~ 2026/03/08 (日)公演終了

実演鑑賞

この日は朝から外出して立て続けの観劇。明らかにコンディションの問題で本舞台も中盤を見逃した。芸劇イーストの平面舞台に可動式の長テーブルと事務用イス二台。冒頭は静止からの舞踏的スローな動き出し。その象徴する所は不明。安藤奎のテキストを「踊る」趣向という事でこれを手掛かりに観始めてしまっている。例えば勅使川原三郎による文学作品を題にした舞踊作品は音と照明の演出に依拠した作りであるが、戯曲テキストありき、と敢えて銘打つとなるとそれとも少し異なるだろう・・(テキストそのものを織り込んだ物になるだろう、というのも通常の舞踊なら特定の「戯曲」を指定する意味はあまり無くなるので)と踏んでいた。が、戯曲の片鱗を掴む段に至るまで待てず、緩慢な動きを見るうちに寝落ちした。
と、気付いた時は台詞の発語が展開しており、結構なテンションに上がっている事から、物語の終盤である事が知れた。アチャー、肝心な所を見逃した、と悔いる。通常の芝居であれば台詞を言ってくれるから終盤であっても戯曲の一部分は把握できるが、動きの中で言葉がリフレインしたり役者の演技のような明快な発語でなかったりで「お話」自体が分からない。(全編観たら分かったのかどうかは、分からないが。)
安藤奎作品の多くが「事務所」を舞台にしており、今作の道具立てからしてその例に漏れずのようであり、終盤に向けて破滅的展開となる様相はこの舞台にも見られた。が、それのみで終った。なお終盤の二人の踊りは切れもよくユニークな動きで「やはり舞踊家であるな」と認識できた。が、そこまでであった。
今回の「テキストを踊る」試みは第一弾。ぜひとも第二弾、第三弾と継続し、このユニットのオリジナルを発掘してほしい。

『ガチゲキ!! Part3』

『ガチゲキ!! Part3』

『ガチゲキ!!』実行委員会

座・高円寺1(東京都)

2026/03/06 (金) ~ 2026/03/14 (土)公演終了

実演鑑賞

最終日の14日は19時より審査会。結果がその日の内にサイトに挙げられていた。
ふむふむ。そうかそうか。
当初の印象では一位だるめしあん、二位鋼鉄村松という所であったが、その二団体が逆の順位で優勝と観客賞を獲得。だるめは劇作賞(これは当然に思える)、他に演出賞はほしぷろ、審査員賞がエンニュイ、俳優賞は審査員4名が俳優4名を選び、獲得数で3名が同立受賞(ほしぷろ出演の二人、鋼鉄のシャイロック役)。
本企画のプロデュースがだるめ・坂本氏でもあるので、賞金のある賞が他団体に決まった事には安堵した。

さて芝居については、ネタバレにて。

ネタバレBOX

順不同で書いてみる。

露と枕・・俳優陣の中に滝沢花野女史を見出し、全体に俳優力を見せた布陣であったが、リアリティ消失スレスレな所で40分を駆け抜けた印象。終演後に「お気に召すまま」の後日譚として書いたと知り、原作については不知(どこかで一度は観たかもだが思い出せない)なので、知って観たとてである。あるカップルが離婚すべきか否かで右往左往させられる旧友たちの様を、さほど違和感もなく見た。離婚式?え?・・との最初の疑問も、仲良く別れるので皆に立ち会ってほしかった、の一言で解消。その後、妻の方が離婚を撤回すると発言した時点から、夫婦の元々の関係性や他の友人たちの過去と現在も一つずつ見えて来る。一点、展開の緩急のためだろうけれど、「男全員とヤッていた」女がその場に友人として居合わせる不自然は厳しいものが。人物らのモデルが原作にあるとすると、読んでいないと翻案の味として咀嚼できない。何かに怒っていて、にも関わらず斜に構えた物言いもする別の女性は、他との関係性が見えづらかった。暴力に訴えるタイプだと言われる男性は現在は大人しいキャラ、だが何かのきっかけでプッツン切れて、煮え切らない夫(離婚する)に詰め寄るのが唐突だったり、細部でリアルが萎えそうになるが、別の人物の台詞で持ち直し、離婚を「する」という結論を「好ましく」迎え入れるラストを作り出せていた。
ほしぷろ・・ある劇作りの現場、という事になっている。演出者(主催者)がおり、キャストに招いた二人に指示を出している。二人は青系の体操着という衣裳で、簡素な舞台上では視覚的に(色彩的にも)淋しく感じてしまったが、二人で「トロイラスとクレシダ」を演じる=演じさせられる、演出=演じさせる、という非対称な関係が視覚的に一目瞭然ではある。原作が描く「戦争」が、効果音とも相まって作品に影を落としており、沙翁作品のイメージなのか、それを上演しようとしてる現場・背景である現代を装飾しているのかが不明、というより、両方に掛けている意図がそこはかとするため、舞台を一つの目的へ収斂させる「意図が強い」と感じた。演者はうまく演じており、逃げ出した二人の後を仕方なく埋めるため演出が一人で芝居を続けて最後に至る。憾みは、やはり原作を知らないと語られるストーリーがうっすらとしか見えない。が、演劇の批評性を信じた製作には観る者を「襟を正さねば」と言う気にはさせた。
(一応全団体書くつもり。つづく)
ミッキーアイランド

ミッキーアイランド

滋企画

アトリエ春風舎(東京都)

2026/03/09 (月) ~ 2026/03/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

毎年この時期の恒例となった滋企画の今回は初のオリジナル、糸井幸之介氏脚本・音楽を佐藤氏主役にて。脇を固める四名と醸すグルーブ感、ある意味滋企画が持てる<躍動力>を試したら凄かった的な。糸井氏が紡ぐ例のアノ世界観が、役者陣との邂逅を果たした幸運に興奮といった所であった(何のこっちゃ)。
昨年「ガラスの動物園」が賞も獲り、知名度も上っただろうが会場はアトリエ春風舎。満席ではあったが集客具合は不明。ただ今回は期間が長い。労働量的には役者も大変だが本人達的には悦びが大きいかも(運動量は半端ないが)。
毎回色んなベクトルでの演劇の可能性の追求が為されているのが好ましく、今回も満足させられた。喩えは陳腐だが美味い料理を味わった感じ。観てのお楽しみである。

『ガチゲキ!! Part3』

『ガチゲキ!! Part3』

『ガチゲキ!!』実行委員会

座・高円寺1(東京都)

2026/03/06 (金) ~ 2026/03/14 (土)公演終了

実演鑑賞

露と枕、ZURULABO、エンニュイ、ほしぷろ、でコンプリート。結局全て見た。
各団体の趣向と見せ所があり、楽しめた。
ただ出し物のレベルとしては、本企画の趣旨がコンペ、即ち優劣を競う建て付けな訳でもあって最終的に下位となるチーム対決の回は「外れ」となっちゃうのでは...との懸念がよぎるが、、組み合わせ(順番も)次第で劇の印象が変わる事もあるのかも。
またガチゲキを観に来る客と、贔屓劇団を観に来る客の比率も知りたい所。(自分はガチゲキを、それにかこつけて未見の劇団を、観てやろうという魂胆。)
シェイクスピア作品のごく一部から着想したもの、作品そのものを捕らえたもの、大胆な翻案、借景的に利用したものと様々。最初に観た鋼鉄村松とだるめしあんが、作品ないしシェイクスピアをガッツリ使ったものだった。
4作品それぞれについてはまた改めて記す事に。

『ガチゲキ!! Part3』

『ガチゲキ!! Part3』

『ガチゲキ!!』実行委員会

座・高円寺1(東京都)

2026/03/06 (金) ~ 2026/03/14 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

開幕試合の日。シェイクスピアで遊ぶ6劇団約40分の出し物、これを総当たりの試合形式で最終的に勝者を決める、という「おまけ」付。おまけとは言え、終演後の投票も中々面白い。初日は鋼鉄村松 vsだるめしあん、いずれもコメディ色な団体なので良い勝負となり投票も結果発表も気持ちよくやれた。全く傾向が異なる他の4団体も観てみたい(シェイクスピアとは凡そ無縁そうな劇団から、一体何が出てくるやら。不安でもあり楽しみでもあり)。

ネタバレBOX

鋼鉄村松/だるめしあんの作品について。
(※6団体6作品の対決がもう数日続くのでネタバレにご注意。)

前半戦は未見の鋼鉄村松。団員が同じ「ムラマツ」名乗ってたりするので、間違いなくおフザケな劇団であろうと推察し、熟年でもあり骨のある男集団のおふざけ振りを期待したが、十二分の応えが返って来て頗る満足であった。
ベニスの商人のシャイロック役が恨み骨髄で法廷に訴え出たあの有名な裁判場面を切り取り、現代に翻案。いじましく小さく小市民でオタクで小狡くて独りよがりで悪人で惨めで間抜けでざまあみろな人物たち(即ちヒーローとはほど遠い人物たち)が人間としての最後の矜持(俺はこうして生きて来た。今も生きている)を観客の前で示す溜飲の下げ方に、正攻法を見ると同時に役者の演じっぷりに感じ入った。
後半戦がだるめしあん。「この後では不利かも?」という感じを持った人もいたかも、であるが、声量が前団体を下回ってる事もあって「集中が続くかな」と一瞬不安が過るも杞憂で、登場以降台詞に聞き耳を立てさせ、劇世界へ観客を最速で誘ったかと思えば、複数のシェイクスピア作品のアイテムを換骨奪胎した架空世界が展開、手応えある台詞の不意打ちもあり、きっちりオチが付く。脚本力を見せつけた一編だった。
(どちらに投票したかはご想像にお任せ。)
別日のはまた改めて。
葵上

葵上

劇団山の手事情社

小劇場B1(東京都)

2026/03/03 (火) ~ 2026/03/08 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

山の手事情社のピリオド公演となった下北沢B1は初の小屋なのだそう。素舞台に腰掛の台三つ程あるのみ。身体表現、衣裳、音、劇団力で構築する耽美と悲痛のドラマ。

土曜日の過ごしかた

土曜日の過ごしかた

ニットキャップシアター

座・高円寺1(東京都)

2026/02/27 (金) ~ 2026/03/01 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「カレーと村民」からの、本作でニットキャップ3度目となる。一度目は10年前、座高円寺で、パステル色な衣裳で玩具っぽい装置、道具、確か楽器も使っていた。舞台も遊戯的で表現主義(主張より伝え方、風情が主眼)に寄ってて、面白いが「前のめりに観に行く」部類でないな、と。活動歴は1990年代末からと長いが、活動十数年を経た当時のニットキャップは演出が勝っており、芸達者なメンバーも印象的であった。
が・・何年か前にアゴラで観た「カレーと村民」ではがっつり戯曲芝居になっていた。しかも題材は日露戦争後の世相、戦後賠償交渉で「戦利金無し」に国民のブーイング(これを既に発達していた新聞メディアが伝えて「世論」なるものが形成されたあの頃だ)が起きたのは有名だが、その背後に家族(若い男)を戦争に取られた多くの遺族の存在があった事に気付かされるといった真正面な社会派。
同じ現代日本史に題材を採った今作の舞台は戦争体制への移行期、京都で短期間民間人の手で発行された「土曜日」を軸に、次第に息苦しくなって行く世相の変遷を描き出す。1930年代後半。
座高円寺では若干声量が届かず、追いにくい部分はあったが、スタッフ、俳優のレベルは高く、更に今回は演出力を感じさせた。(後で気付いたが今回は作:ごまのはえ、演出は橋本匡史という新進演出家であったようである。)
国民が軍拡路線を望み、やがて彼ら自身が真綿で締め付けられる時代、「押し黙らせられる」時代の空気感をうまく描き出していた。
今の世相は、当時の世相の最良の参照事項である。お上が実力行使に出ずとも民が進んで「お上の手先」となり監視者となり、異質を排除しつつ己は多数派、というか「国そのもの」に同化して安心する「究極のヘタレ」(と私は名付けてしまうが)まで、あと一歩である。

果てしない部屋

果てしない部屋

神奈川県立青少年センター

スタジオ「HIKARI」(神奈川県)

2026/02/20 (金) ~ 2026/02/23 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

笠木氏の作、稲葉賀恵とのタッグ、という事で未知なるものへの不安と期待をもって久々にHIKARIを訪れた。演出・趣向に重きが置かれた企画と思しく笠木氏はこれにテキストを提供した恰好。
取り囲まれた舞台と客席のフラットな関係を錯視させる開演前の様相、役者がステージを出入りする関係者(最初は一般客かと)に話しかけたり、芝居の開始前と後もどことなくフラットで何時の間にか開演後の時間になっている。演奏者二名の演奏エリアの境界も無いが如くでそのエリアで言葉を発したり、エリアを離れたり芝居に噛んだりする。
言葉が歌になり、憂いを帯びる。詩的な造形のせいか抽象画のギャラリーを巡る茫洋とした感覚の中、喪失への疼きが場の通奏低音であるらしいと仄かに見えて来る。抽象の中に劇的瞬間はあったが、ただ死や離別も広くは日々の中に含み得る、要は「普通の」時間としての今であるならば、心情説明(哀しみとか深刻さとか)の表現の混入を一部たりとも許さなくても良かった気がした。普通の時間を刻む事で、観客はその背後に横たわるものを想像する・・芝居を見慣れた者の欲求かも知れないが、そんな願望を観劇中催していた記憶。
久々のスタジオHIKARIで舞台の時間を生み出す熱い場を体感した喜びに浸りつつ、帰路についた。稲葉賀恵の狙おうとした何か、は不明であったが「次」の答え合せの機会をぜひ。

心を歩ませて。

心を歩ませて。

劇団 東京芸術座

シアターX(東京都)

2026/01/28 (水) ~ 2026/02/01 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

著書になった実話をベースに書かれた芝居で、原作「さばの缶づめ、宇宙へいく」の「さば缶」とは宇宙食のこと。実際に福井県の小浜水産高校で「宇宙食」として認定されるための開発を課題として一年という単位でなくまた三年でもなく年々受け継いで来た訳でもなく、この課題に関心のある生徒が在校した年に、先代が探求した成果を記したノートを開きながら、断続的に開発が受け継がれて行った結果、ある年さば缶は宇宙食として認定されるに至った・・その断続的歩みを、この芝居では「市民劇」という枠組を用いて叙述していた。
ネタが実話である事と、地域の市民参加劇の「あるある」という実際に存在するものとの取り合わせで、両者に等しく比重が置かれた描き方がなされていた。場としての市民劇要素が、さば缶宇宙というネタの強さに感化されるという展開はなく、淡々と描いていたのが巧い距離感と思えた。ただ、市民劇参加者の群像を描く余地はやはり「さば缶」にも場面を割かねばならぬ関係でさらっと触れるに止まり、観る側としてはもう一歩人物の深みを味わいたく思った。この劇の構造では、しかと描き取りたいのは市民劇参加者。そして彼らはさば缶のエピソードに敬意を払う事となる者たちであり、彼らが照射する事で、さば缶エピソードが輝く。
従って市民たちのリアルで切実な生き様が造形される程に、両者が高まって行く関係にある、と自分は見立てているが、芝居にも尺というものがある..と思えば「あとは己が想像を羽ばたかせよ」、という事かな..とも。
いずれにせよ今作は東京芸術座の新断面と見え、今後劇団がどう歩みを模索していくか、漠然とながら楽しみである。

奇跡かな

奇跡かな

劇団かもめんたる

本多劇場(東京都)

2025/12/25 (木) ~ 2025/12/29 (月)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

配信で初劇団かもめんたる観劇の機会にありついた。コンビのかもめんたるのネタも未見だが岩﨑う大氏の露出場面の断片にそのセンスの片鱗を垣間見ており、本作はそれを裏付けていた事と、ストーリーがきっちり書けているが展開の橋渡し的位置に微妙、辛辣、非情なる笑いを置いていたりしてそこが際物的でハマる。腹の中でヒクヒクと笑っている自分がいた。

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