
ラブイデオロギーは突然に〈劇場版〉
劇団だるめしあん
座・高円寺1(東京都)
2026/08/07 (金) ~ 2026/08/11 (火)公演終了
実演鑑賞
ガチ劇!で初お目見えだったか、よく出来た脚本だと思った。今回単独公演版に加筆したのだろうが、どこがどうなったかは分からない。ファンタジーな物語世界の中にちゃっかり?女性発信のテーマが書き込まれている。性的には対となる男性にとっても当然身につまされる話になって来る。が、男が女性不在の領域でもやってける価値創造が、女性を追い込む足場と化す様相を思い描くと、この物語に対して安易に「僕らも同じだよ」とは言い難いものがある。男の原罪性を思いつつ、女性が語る自立の物語を愛でるのみである。

カラフル・ラプソディ
“STRAYDOG”
サンモールスタジオ(東京都)
2026/08/26 (水) ~ 2026/08/30 (日)公演終了
実演鑑賞
STRAYDOGは上演作品も演出者も演者も固定でない(と拝見)。過去「映像都市」(一番最近やったやつ)「幸せになるために」はどちらも「当たり」と思わせてくれた舞台だったが共通点はとなると難しい。劇団は年季のある分、運営はしっかりしているがあくまで出演者は若者たち。という事くらい。学校でも教員は若手から年輩者まで居て、主役である生徒のために立ち働く。そんな組織が想像される。
今回食指が動いたのは内容を推してではなく、久々にSTRAY DOGが何をやってくれるか観てみたい、という程度の事で前知識はゼロ。それだけに開幕時は度肝を抜いた。賑々しく物が溢れた舞台上、開幕を待っているとスタッフがインカムで統括と話し、キャスト一人が居ない事態を伝え、あたふた感の導火線にチリッと火がつく。と、間口は狭いながらズラッと一列に「子ども」がひしめき並び、定型の前説を叫び始める。そのリズム、声量、言葉のニュアンスまで小学低学年だろ、というお嬢までがこましゃくれた顔でいっぱしに台詞を発しておる。
この後ほとんどテンションを落とす事なく走り切る1時間20分の舞台は笑いあり怒りあり涙あり、呆気に取られて観るのみであった。

東京ブギウギと鈴木大拙
名取事務所
本多劇場(東京都)
2026/08/26 (水) ~ 2026/08/30 (日)公演終了
実演鑑賞
名取事務所が下北沢のB1や「劇」小を出て、芸劇Wのステージに歴史劇にそぐわしい大型の装置を組んだ「鹿鳴館異聞」、今回も本多劇場にて、やはり歴史の時間の重みを体現する装置が組まれ、一つの家族の物語を堪能した。
戦中戦後に掛けて禅宗を広めた大家である鈴木大拙の血の繋がらない息子アラン(通称)が「東京ブギウギ」の作詞者であった事実、大拙を崇める者にとってこの息子は無き存在としたい不肖の息子である事、登場人物は大拙とアナンの他は長年当家に仕えた女中、アナンの従姉妹にあたる女性、大拙の友で著者の翻訳版などで尽力した斎藤某と、実在の人物5名という最少の構成。スポットは息子アナン。遊戯空間が今年上演した三遊亭圓朝の歴史に埋もれた不肖の息子の話が、重なった。混血児アナンはその熱情で自由を愛し、欲した人物として造形されるが、望んで得られないものを追い求めて行く人生の切なさがどこか滲んでいる。三度の結婚と離婚を経て、世間や縁者からも姿を消した彼と、作者は接点がありつつ結ばれる事のなかったかの従姉妹と、大拙が亡くなった後のある命日に墓前で出逢わせる。純粋さを失わず行動的な彼女の人物像は観客にこの劇にいつしか安心の軸を与えているが、その彼女を見てアナンはつくづく実感したように言う。こんな自分だが一つだけ良いことをした。それは、君を不幸にしなかった事だ、と。ネガティブそのものの言葉が、彼の本心からの喜びの言葉として心に残る。そこには仏教的な、あるいは宗教的な達観、世界に対して価値あるものでありたい根源的な願望(永遠への憧憬)がひっそりと織り込まれている。

GOOD NEIGHBORS
ハイワイヤ
OFF・OFFシアター(東京都)
2026/08/19 (水) ~ 2026/08/25 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
再開したOFFOFFシアターを訪問。久々に覗いた舞台上は特徴的なステージの原形を覆い隠す具象のひしめきで、もしや閉鎖中に劇場を改装?と想像した程。集合住宅っぽい住居の近隣関係を想像させる一角が、抽象舞台のように多場面に機能する(実際は戸建の住人同士らしい)。主人公(高畑)の自宅では病気療養中の妻(鄭)がおり、他の人物らが遭遇するゴミ捨て場や近所のどこかにも(自宅以外は)転換無く移行している。他の人物即ち、主人公が今会長を務める町会役員の主婦(菅野)や、今転居して来ている後輩の学生(大河)、主人公の隣家に住む(騒音問題を引き起こしている)問題の女性(茂木)とその家屋の二階に家主不在を良い事に勝手に住んでいる(と主人公には説明する)鈴木や佐藤や高橋(佛淵、同じ衣裳で)、彼らが順次現われて、町内という狭い世間での「世論」を主人公及び観客が知る手掛かりとなる。彼らは主人公に現実感覚をもたらす頼れる「個人」でもあり、同時に「不特定多数」の一部でもある。浮薄なまでに移りゆく「世論」事実認定を、告発する視点が根底に横たわる。本作ではサスペンスの要素が「事実認定」における揺らぎを物語にもたらすが、世論への問いから作者は不遇を飲み込んでの生き方を探る地点を(妻とのやり取りの中に)描く。鄭亜美の出演も「観たい」理由の一つだったが、彼女が重宝がられるシュールや際どい役柄とは異なる人物造形を興味深く眺めた。苛立たしい現実のトーンが一貫しているのだが、舞踊的な動作がパターンとして加わっていたりがどこか作り手の感情と深く結びついた身体感覚から滲み出て来たものにも見える。その言い尽くせない何かを観客は汲み取る以外ないが、時に詩の領域に至る語りに、つい耳を傾けている。

「TOKYO SLUM」
TRASHMASTERS
上野ストアハウス(東京都)
2026/07/30 (木) ~ 2026/08/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
久々の生トラッシュ。この所(約3年)配信映像を観る限りであるが、中津留氏の作劇がセンセーショナル優位からリアリティを土台にしたドラマへ、自然な場面の連なりと問題抽出の秀逸さに感心しきりであったが、あるいは映像鑑賞によるものかと思いきや実演鑑賞でも同じ印象であった。東京スラムとは東京というスラムの意と推察した通り、場所こそある特定の(現実に存在する場所を想起させるが)場所で話が展開するが(しっかり接点のある人間の逸話が並行してでなく一つ一つ積み上がる不可逆な展開をさせながら同じ場所で進んで行くのが見事である)、日本の「今」をガッシと掴んで人物たちなりにコミットさせている。就職難、薄給と過重労働、表面上幾ら取り繕おうと左前の日本経済が、劇では言及されないのに「戦争」というものが近く感じられる。
一方弱さを秘めつつも自分の脚で立ち力強く生きる姿を、現実の洗礼を浴びせながらも敗北に埋もれる滅びの美学に頼らず、盛り過ぎにもならず描かれた。何を大切に生きたいか、心奥で共有し合い、信頼をもって手を携えて行く輪の形成が出来過ぎに見えないのは、人がそのようになり得る理由を踏まえているからなのだろう。
新自由主義の申し子のような「目的無き利潤追求の機械」と化した男が、この芝居ではラスボス的存在だが、彼が数年前立ち上げた人材派遣会社の経営が根本的破綻と背中合わせである事が、辞めて行った主人公の社員との対面により露になる。経営の本質がカネ以前に「人」である、という哲学の後押しあってラスボスは懐柔されるが、現実はそう簡単には運ぶまい。巨大資本と結託した政治が見えない中に構築する「巨悪」は、吹けば飛ぶ派遣会社が人道的経営をしようが、丸腰の我々から搾り取る仕組は維持再生産される。が、スラムのあるこの町で、人が生きる圏内で、仲間が形成され相互扶助がその大層な四文字熟語を持ち出さずとも日常の呼吸の中に息づく風景は、何故か確かなものに見えた。絵空事と一蹴し難い実在感を残した。例外的に飄々とした人物が揃った感はあるが、よくよく思い出してみれば、何十年か前はこういう人間が粋さを競うていたような気もする(バブル期特有の世の風潮であったかも知れぬが。。)
とすれば、物理的豊かさが精神も豊かにしたという事になるか。成長は止まり、貧すれば貪する・・真っ先に貪したのは経済界であろうかな。

巨匠とマルガリータ
地点
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2026/07/23 (木) ~ 2026/07/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
何年振りかの地点(今調べたら2023年2月以来)はお馴染みKAAT神奈川芸術劇場で。三浦氏の演出舞台としては、一昨年末に新宿FACEで異色の俳優陣による「三文オペラ」があったが(ぶっとんだ演出ではあったが地点とは異なった・・地点的アプローチを体現する俳優としては安部聡子が配されて実際そういった立ち位置を担っていたが、私としては音楽が跳び過ぎで今一つであった)。
さて、KAATの奥行きあるステージには、演技エリアが舞台手前際から縦に長い長方形に設えられている。台状のものが置かれてあったか記憶にないが、そう認識している理由は、可動式の幕が最初は抽象的映像を映して手前に張られているのが、幕幅の端に二本張られたワイヤーに沿って奥へ、また手前へと動かされるそのエリアに当たる事による。幕を吊るワイヤーを這うロープが舞台手前で床に伸びており、俳優がそのロープを動かして幕の位置を変える。両側に二人立つ事もあれば、一人が左右交互に一定幅ずつずらして行く(その間彼は喋り続けている)場合もある。俳優は幕をサイドから回り込んで移動する事もたまにあるが、基本エリアに収まっている格好。
奥行き三分の二あたりの床に照明が置かれ、役者の影を幕に映し出す。幕の切れ目からは人が出入り出来る。幕は一人で両サイドを交互に引っ張る(その間台詞を出し続ける)事もあれば二人で引いていく事もある。幕は映写幕にもなり文字やら何か映像が絶えず流れている。後半幕裏のカメラが捉え加工された役者の姿が映され、顔の表情が抽出された不思議な表現となる。勿論、生ではないが地点に欠かせない音楽家の音も絶えず流れている。
かように刺激的な演出ではあるが、ブルガーコフの本作の内容は(元々不知ゆえ)分からなかった。地点の舞台は作品の梗概を押さえて鑑賞すべし、だ。
これが舞台として成立する理由についても(毎度の事だが)考える。登場人物のキャラクター、性質、職業、属性などは少しずつ解っていくが、人と人の絡み、ストーリーは不明のまま。分からない物を知っていく(知ろうと見ていく)面白さは、「分かる」に至るまでは(上手く導かねばならないが)持続する。分かってしまう瞬間を遠のかせ、謎のままに置くのは、一つの正解なのかも?
しかし人の脳に刻まれるのは人の感情だとすれば、何がしか感情の発露、その欠片が飛散してもいたという事なのだろうとも思う。それは通常登場人物の感情、と思われるが、観客が見ているのは役者自身でもあり、作り手の意図でもあり、創作の意思であり、それらを通じて、つまりそこで起きている現象を通して、ブルガーコフの本作にまつわる何かを受け取っている、と信じたい(ここは信じるしかなく、検証したければ原作に当たるしかない)。

人足寄場
排気口
荻窪小劇場(東京都)
2026/08/05 (水) ~ 2026/08/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
初のユニットだったが「怪談」と聞いてこいつは持って来いと初観劇に及んだ。怪談を「論ずる」のか事実怪談(怖い話)なのか・・。結果は、「怖い話」であった。笑いを作る難しさという事を言われるが、本心から怖がらせるというのは中々技量を試されるのでは、と。
今公演では積極的にアフタートークを設定していると言う。自分の観劇回にも怪談作家との対談があった。
「怖い」と言えば、夜カーテンの影におびえる小心者ではあるが、霊感が無いのは凡庸の証であるゆえ超常体験を欲していた凡人の一人でもある。ある時映画「リング」を観た。小気味良い程に怖く、何度となく観たのだが、ついに古書店で当時はVHS版が出ていて購入、時間を置いて、観た。なぜ観るのか、自分への説明は「如何に怖いか、なぜ怖いが発動するのかを突き詰める」ため。陽の光のまだ明るい時刻にも見たが、怖さは変わらなかった。映画中怖いポイント(場面)は幾つかある。音響に気づいた。なるほど「良く見えないものが見える」その予兆も画面にある、それが「見えた」瞬間、不気味な音が最高潮に達している。気づかなかったぜ・・こんな細工が、と「判った」気になっても、やはり怖い。見慣れるために黒髪で現われる異形の者の姿を何度も見たが、見慣れなかった。何かを怖れる理由が、見る者の側に、ある。潜んでいる。それは疚しさなのか、根源的感情なのか、胸を張って表明出来ない何か、暴かれるのを怖れている何かを守ろうとするがゆえに、無作為無遠慮に暴く存在を怖れる。殺害への怖れも、「そうされて当然」とばかりに殺られる事への恐怖なのかも知れぬ。
映画も演劇も、人間の秘密を覗く楽しさがあるが、そこには当然自分も含まれる。芝居で笑う時は自分を笑ってもいる。今回の「怖い」芝居では、巻き込まれて行く人間共を高みの見物する愉楽を味わい、そしてちょっとだけ自分を同化させ、楽しむ時間。怪談を聞く場に居合わせる事は、ある種の霊的な時間に身を置く事であり、「宗教」と名の付くものを忌避する日本人も無自覚にその領域に身を浸しているのだと思う。怖い、という感覚への憧憬も、禁忌であったり抵抗の敵わぬ存在に触れる霊体験を欲しているという事なのだ・・と、仮説を立ててみた。

卓
風雷紡
小劇場B1(東京都)
2026/08/12 (水) ~ 2026/08/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
吉水女史の処女作をリクリエイトとの事。地方の旧家を舞台にした金田一耕助が登場しそうなサスペンス色濃い物語に魅入らされ、風雷紡を貫く「事件の背後に時代あり」の原型を認めた。
敗戦を知らせる玉音放送。家督を継ぐのは誰か、出征中の次男の名が当主の口にも上るも、聡明だが病弱の長男の娘にスポットが。家に出入りする武道の指南役(今で言う家庭教師のような?)の子息が軍服姿で現われ、婚約者にと紹介される。これを見て苛立ちを見せる長男の妻は、家内を賢く切り盛りする姿にも旧弊さが滲む。前掛けをした使用人の女性ら、故あって住んでいるらしい謎の男女(白シャツに黒のスラックス、スカート)、舞台上に幾つもある柱時計。敗戦直後の世相を背景色にした「家」という異空間が導入から際立つ。この空気感、照明の届かない暗部がミステリー性を静かに煽る。謎の存在を謎のまま、台詞に多くを語らせず、その心地良さに酔わせて飲み込ませる。B1を巧く使った劇空間、美術照明(特に照明)は殆ど完璧に思えた。

20の物語 -週末を、劇場で-
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2026/07/16 (木) ~ 2026/08/02 (日)公演終了

魔法老女ポストキュア
東京演劇アンサンブル
吉祥寺シアター(東京都)
2026/07/24 (金) ~ 2026/07/27 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
アンサンブル舞台の初見からかれこれ20年近くなるが、その時とて劇団主宰で精神的な支柱であった(事は外部の者にさえ明白であった)広渡氏晩年の、そして所謂新劇の良質な部分・・集団の社会的な位置と理想の希求、精神性の追求といった・・に殉ずる集団の空気を(元劇団員の解説もあり)受け取ったのが自分のベースである。従って近年の大胆な演劇的試行も全てそのベースの上に積み上げられている、という目で見ている。今回は西尾佳織作、との事で意表を突かれたが、アンサンブル的には小森氏演出の回は実験的かつ女性に比重を置く作品、そう見れば成程そのカテゴリーではあった。お芝居的には劇団の重鎮?女優らがある種跳躍した演技で(吉本新喜劇なら全員倒れる的な)含み笑いを湛えたニュアンスは(いやそう狙ったのかは定かでないが)「白い輪」によって発芽したものだろうか。。演出的には鄭義信氏に手合せ願いたい所があった。
私的には残念な事ながらポップな舞台にも関わらず不眠状態のため途中一度寝落ち。作劇全体について評価出来ないが、いつしか舞台は現代のシビアな家庭問題の渦中に入り、そこに立ち会わされる。ファンタジーの世界内法則を厳格に踏まえたものであったか否か、自分はそこを問題にする人であるがこの点をしっかり見極めるには至らず。
今少し後刻追記予定。

20の物語 -週末を、劇場で-
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2026/07/16 (木) ~ 2026/08/02 (日)公演終了
実演鑑賞
本企画には結局二演目のみ観劇が叶った。どちらも人気だったのか、客席も埋まり(3週間の週末限定20演目という催しにも関わらず)、新国立の動員力も中々と恐れ入った次第。
観る事の出来たのは「不毛ドライブ」「煙草のハイ(high)について」。
個別の感想はネタバレ欄にて。

リチャード三世
半畳の宇宙
BaBaBa(東京都)
2026/07/23 (木) ~ 2026/07/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
下落合のとある工場跡らしい会場、というのが山の手事情社(発、半畳の宇宙)に似つかわしい。シェイクスピアの本作は(何たら何世だのの題名では区別が付かないが)以前新国立で観たあれだな、と当たりがついたのは、題名に色が付いて見えるようになったか、あるいは半畳が選びそうな話だったからか。
舞台は毎回予想はしていないが見て「そうか」と思う山の手特有の様式表現。女性五人。リチャードを演じた女優の怪演がツボに届いて小気味良い。一人芝居で拝んだ半畳の女優陣、他のはやはり山の手所属の方々か、初対面で世界観の共有が短期間の稽古でここまでなら「スゲエ」の域だが、恐らくそうだろう。シェイクスピア作品の破滅のカタルシス(マクベス、ハムレット、オセロ、、)を味わった。本作のリチャードは己の宿痾、醜き姿に慄き、卑下に走る精神とその真逆に振れて残酷なまでの傲慢さに走る両極が不思議な魅力で、哀れみを誘う面を備える。自分を投影する時間となる。

cogito
O企画
小劇場 楽園(東京都)
2026/07/23 (木) ~ 2026/07/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
あの荻野貴継氏主宰の企画体が、哲学対話とか言う面白気な物をやっているな、と見ていたが二度見逃し、今回は舞台作品を上演との事で漸く観劇に至った。哲学何がしは今回もやるとの事でそちらも期待。
芝居は1時間程。夜の森らしき場所で(さわさわと微かな音)、二人(男と女)が行き交う。女性は通勤路として用い、男性は秘めたる遊戯(泥遊び的な)のためやって来る。交錯する二人の始まるともなく始まる対話、関係(のやうやもの)が、世の常で男からのアプローチで始まるのだが。。暗がりで出くわしたりニアミスしたりする様子も観客は見て、どことなく森を取り囲んでいるだろう社会を意識するとも無く意識する。そこから「ここへ来た」二人が、何かを確認し合うのか、し合えるのか・・そんな事を自分を振り返りながら夢想する。舞台が想念に誘う優れた仕掛けであるのは、光と音、俳優により夜のしじまの森が現前するからである。その心地良さのせいで舞台上の現象をうっかり見逃す事も。芝居の結語が何であったかは覚えていない。
この芝居は例の哲学対話から生まれたとの説明であったが、芝居が終わると簡単な説明があり徐ろにそれが始まった。一つのテーマで対話をする。発言は自由。沈黙も一つのあり方だ。主宰がテーマを決め、一人三十秒、スタートして15分後に終了。二人の俳優もマイク係で加わり、自ら発言しても良い。
この内容は割愛するが、興味深かった。主宰がこれに執心である理由も考えも知らない。かつてワークショップが重宝された時期があったが、他人と知り合う手法であるWSに対し、こちらは一期一会である。学校教育でこうした実践が欠けているとの指摘を思い出した。
以前行っていた「対話」は俳優のパフォーマンスを前置してこれを肴に喋る、というものと想像していたが、今回はそれはなかった。二つを接続する何かがあれば一つ体験として刻まれたのでは、と思わなくなかったが、対話の主役は観客なので予測不能、細工は不要と判断したのかも知れぬ。
この試みがこの後どう発展するのか密かな楽しみに。

15 Minutes Made 東京/福岡 東京公演
Mrs.fictions
テアトルBONBON(東京都)
2026/07/29 (水) ~ 2026/08/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
Mrs.fictionsのこのシリーズは何度目になるか(以前随分見逃していた記憶だが、4本目位か)。前回の本多劇場での短期開催は祝祭性高くレベルも高く「これは」という収穫もあった。今回は中野BONBONで数日間。演劇の持つ表現の可能性・・とはこうした企画で良く謳われるが、15分という制約の中でもそれを実感できて「余は満足である」という台詞が口から出る。最後をMrs.fictionsがきっちりと締めるのも毎度感心であるが、各団体の魅力が十分に客席に届いた感。
今回は知った名の団体は少なくコンプソンズくらい(これも中々)、他は出くわしたインパクトを咀嚼するのにやや時間が。詳細はまた。

血の婚礼 【劇団うつり座】
劇団うつり座
上野ストアハウス(東京都)
2026/07/22 (水) ~ 2026/07/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
初回の「糸地獄」以来、シニア・ワークショップから生れた劇団として基本観ているのだが(糸地獄はその特徴が横溢)、前作今作とそれを忘れて観ている時間がある。前作は篠本氏のリアが劇をリードしていたが、今回は全体として。もっとも今作は能の要素を用い、様式的表現が強かった(型の表現は年齢を必ずしも制約としない)。人物名を日本人名に換えても様式ごと飲み込める。
「血の婚礼」。このスペイン産の作品は血に導かれた愛憎と破滅の物語は、遠いかの地を夢想させかつ人類学的興味をもくすぐるガルシア・ロルカの代表作で、「ベルナルダ・アルバの家」と共に日本の風土からは彼岸、極北の「あの世界」だ。
篠本氏がこれを演出するとどうなるか、胸を高鳴らせて劇場に入ると、白い幕に囲まれた真四角な舞台平面の四隅に柱が立つ。能舞台が模されている事が知れる。人物らは摺り足で登場。歩く方向、会話で語る方向もリアルを避け、対面せずに対話を成立させる。様式に収まったこの表現の効果たるや多大で、婉曲表現が想像力を掻き立てる。人が交われば生じる場の空気よりも人物それぞれを焦点化して個体への観察が生じる。
凡その筋は押さえていたつもりだが、決闘そして帰還に至るオーラスを失念していた。その後母の嘆きで劇は閉じられるが、改めてじっくり咀嚼するように台詞を味わってみると、最後の母の台詞による高揚がそこに至る言葉の積み上げによってもたらされている事や、話者それぞれが謳い上げる台詞が詩である事などに思いが至る。小さな金属の塊(ナイフ)が全てを奪う不条理を、渾身の力で静かに吐きつける言葉は、小さな顧慮だにされぬ者にも代わり世界に放たれる。

プライマ・フェイシィ
シス・カンパニー
ザ・スズナリ(東京都)
2026/07/01 (水) ~ 2026/07/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
映画「ドライブ・マイ・カー」以来、舞台では初めて目撃する「演じる三浦透子」を楽しみにしていたのだが、たまたま直前に舞台版「チ。」配信を観て、「あ、出てる」と。正統派な演技者(歌も歌える)との印象だ。それはスズナリでの芝居でも確認され、栗山演出のミザンス指定をこなしつつのリアリズム演技には胆力を感じさせる。地の文の発語で自身の思考、感覚、行動を描写し、身体は「描写されてる」場面に身を置いている。
時間を積み重ねても前の人物像を裏切らず、深まり、物語上の決定的場面では脚本が紡ぐ的確な言葉で性交を強要される側の瞬間瞬間の反応を描写し、「何が起こったか」を如実に伝える。そして法廷というリングに上がった彼女の「闘い」を描く。試合では敗北を喫する。尊厳を踏みつける暴言、思いもしなかった嫌疑、まことしやかに持ち込み、仄めかす弁護側を陪審員は信じた。
が・・タダでは起きない意志をボロボロの彼女は高らかに宣し、彼女(のような者たち)に我々がどう対するのかを問いかける。彼女の姿に、正義が踏みにじられ汚辱の中に放逐された、歴史上の闘士たちの姿が重なる。
栗山が演出するスズナリ舞台は想像通り「初」だという。一人芝居では栗山演出的にスズナリが通常感覚なのかも。

パール食堂のマリア
青☆組
吉祥寺シアター(東京都)
2026/07/17 (金) ~ 2026/07/20 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
青⭐︎組/吉田小夏が貫いて来た世界観、感性が(恐らく私が観た10年前以上に)作品として結実した舞台であった。それは言ってしまえば、私めの目に「甘い」と映りがちであった青組の人間観、社会観の決して甘くない背景が舞台の細部に息付かせていた、という事である。配役、俳優力と演出の力量の深化は当然、時を重ねた事による人間洞察力も反映されている事であろうし正に寿ぐに相応しい劇団化15周年、と思わせる。
印象的なディテールをまた時間を見つけて書いてみたい。

ハムレット
風姿花伝プロデュース
シアター風姿花伝(東京都)
2026/06/22 (月) ~ 2026/07/12 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
序破急(公演の序盤中盤終盤)のシステムには見覚えがあるな...と思えば風姿花伝プロデュースであった。鬼才ニシサトシ演出なる「ハムレット」は三年前の滋企画「オセロ」以来で楽しみでしかなかったが、ふと気づけば完売。いや、辛うじて一箇所残っておる。速攻で予約したが後で聞けば追加公演の回であった。
約三時間のハムレットは、端折る箇所は端折りつつ西氏こだわりの演出部分は台詞・ムーブの繰り返しであったりちょっとした喋くりコーナーであったりが追加されているため恐らくストレートにやるより若干長めか。手を変え品を変え、戯曲論演劇論に接続するアプローチをあれこれとぶち込んでいる。私などにとっては美味なる皿が並んだ食卓であったが、一食分のメニューとしては太鼓腹になる量。腹八分目と行きたかったがどの場面も削り難かっただろう。
成河(主にハムレット)、永井茉里奈(主にガートルード)、矢野昌幸と林田航平(ローゼンクランツとギルデンスターのコンビから他の友人、ハムレットの分身からポローニアスにレアティーズ、クローディアス等々八面六臂)ら精鋭が、演出の要求通りの身体処理をこなし切り、客と対面しての前説ならぬ中説をテキパキこなしたり、一瞬よぎるニュアンスをきっちり表現したり、とにかく場面の意図が明確でその都度その場面のルールが明確に示され、感心しきりであった。俳優では初の若手古川路(主にオフィーリア)が不思議チャン的存在感、終盤のみ登場する墓掘り人の佐藤友も秀逸。
場面の処理が合目的的である事に舌を巻くが、最終的にこのハムレットに込めたかったもの、コンセプトは終幕に集約して一つ手渡される形では提示されず、既に忘れてしまった中盤のあれこれまで自らの記憶で遡り、総括する事を求められる。いや単純に楽しめた、で良いのかも知れぬが西氏だけに形而上的な何かに達せんとしただろうと想定してしまう。という前提で言えば、やはり「沢山ありすぎ」なハムレットであった。
が、疲労度を差し引いても面白い。

ロミオとジュリエット
劇団昴
Pit昴/サイスタジオ大山第1(東京都)
2026/07/03 (金) ~ 2026/07/18 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
当日パンフに劇団昴の過去の沙翁作品上演歴が載っているのを見れば、1980年代90年代ほぼ毎年のようにやっている。現在自分が目にしている劇団昴は、海外現代戯曲(時に近作も)の良質な舞台を世に出す劇団、であり、今回のロミ・ジュリも間違いなく「一味違った」アプローチなればこその上演決定だろうと勝手に確信。田中壮太郞氏はコロナ期間に俳優座「セチュアンの善人」を演出し、かなり気張った演出、翻案で魅せていたので当然その期待もあり、まんまとその通りの舞台であった。
「現代」がそこここに散りばめられ、物言い、音楽、衣裳もくだけていて小気味良い。最初に登場する対立する両家の血気盛んな青年らが手にしている「武器」てえのがまず拳銃、日本刀、野球のバット、角材(内ゲバか)。ロミ・ジュリ役に配された俳優の若さも、劇の空気に絶妙な「現代」要素を与え、清新さというか斬新さの域。
対立する両家のいさかいを諫め、度々警告を発する当地の総統の登場のたび、SPの如く迅速に登場する部下たちはサッと一列に並び肩の高さで拳銃を構える。黒の上下に黒のキャップ。女性。この舞台では彼女らの存在感が現代的で生々しく、一瞬目が泳ぐ。現代の戦争、紛争、諍いごとへと連想が広がる。
悲恋の物語の付け足しのように、総統が末尾を飾るのが従来のロミジュリの印象であったが、これと一線を画し、社会がこの未来ある若者(しかも大きな役割を担っただろう両家の子息令嬢)を失った事の重み、対立心に発する互いの愚かな判断の結果として振り返させる総統の言葉が、この物語の総括となるのである。照明が落ちて行く舞台に、戦闘機の飛行音、爆撃音が織り重なって行く。
現代劇的翻案・演出の要素は多々あって、観客はそれらを美味しく頂いた。
ロミオの悪友の一人がラップを奏でればロミオも負けじと何とか返す。二人が本能レベルで好き合い惹かれ合う造形が現代的だが「詩的な台詞による説明」を、台詞ごと身体的反応に昇華させた表現が秀逸。ジュリエットの乳母役の喋り倒すキャラも、己の思うままに生きる(可愛いジュリエットの世話を焼く事そのものが彼女の愛すべき日常であり人生)自愛の姿が、他愛(ジュリエットとその家族を思う心)が本物である事を証す、必然性の演技。双方の親の子を巡る態度(特にジュリエット=キャピュレット側)はさもありなんと身に詰まされる。三日後の婚礼を宣告され追い詰められたジュリエットから相談を受け、神父が捻り出した窮余の策が、他に方法は無いと思わせるだけエライが例の「薬」(一度死んで42時間後に目覚める)。ロミオの元へ送った使者よりも早く「ジュリエットの死」を伝えた彼の友人、毒を売る薬屋、「掛け違い」が交錯する終盤に残る疑問のピース「神父が送った使者」が手紙を届けられなかった理由に「伝染病」が登場する・・。運命を左右する物語におけるツールとして作者が用いた伝染病だが、古来、忘れた頃に襲って来る象徴的な災厄が、この物語においても忘れた頃に登場する憎さを思う。震撼とさせられ、手筈がロミオに達しなかった弁明としては強烈にして余りある。婚礼の朝、娘の「死」を知った家族の狂乱振りも物語のボルテージを否が応に高め、その後に訪れる「死」の静謐な演出が引き立つ。
こうした明瞭な段落分けにより、観客はこれを美味しく飲み込むしかない。
最後に両者ともが打ちひしがれた「敗北」の中にあって、総統の裁定により両家の長が手を差し出し、握る。笑み一つない。再起が約束された未来の光も見えない。
時すでに遅い、だが、そうするしかない暗澹たる悲劇が、再確認されるのみである。
悲嘆の美(裏返せば永遠に結ばれる二人の美)ではなく、「失った」側に主語が移っており、彼らこそ、私たちである、と思わされる。物語の添え物としか思っていなかった彼らこそが、私達だと改めて気付く。(そう感じるのは己が齢がそっちに近いからかもだけれども...。)

煙の汽水域
ムシラセ
小劇場B1(東京都)
2026/07/11 (土) ~ 2026/07/19 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
三人芝居は鈴木(阿岐之将一)を中心に唯一の親友・宍道(池岡亮介)と女性(異儀田夏葉)の年代記(女性は一役ではない)。ある男の人生がその特徴的な断面を通して本質が焙り出される、といった趣向で書かれた脚本に見える。三名の人物特に鈴木の存在のリアル度(本質を射たと感じられるか)が評価に直結しそうだ。
手練れの役者、己の見聞の範疇になかった人生模様の提起、面白く観た。吟味は後刻記してみる。