
「TOKYO SLUM」
TRASHMASTERS
上野ストアハウス(東京都)
2026/07/30 (木) ~ 2026/08/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
久々の生トラッシュ。この所(約3年)配信映像を観る限りであるが、中津留氏の作劇がセンセーショナル優位からリアリティを土台にしたドラマへ、自然な場面の連なりと問題抽出の秀逸さに感心しきりであったが、あるいは映像鑑賞によるものかと思いきや実演鑑賞でも同じ印象であった。東京スラムとは東京というスラムの意と推察した通り、場所こそある特定の(現実に存在する場所を想起させるが)場所で話が展開するが(しっかり接点のある人間の逸話が並行してでなく一つ一つ積み上がる不可逆な展開をさせながら同じ場所で進んで行くのが見事である)、日本の「今」をガッシと掴んで人物たちなりにコミットさせている。就職難、薄給と過重労働、表面上幾ら取り繕おうと左前の日本経済が、劇では言及されないのに「戦争」というものが近く感じられる。
一方弱さを秘めつつも自分の脚で立ち力強く生きる姿を、現実の洗礼を浴びせながらも敗北に埋もれる滅びの美学に頼らず、盛り過ぎにもならず描かれた。何を大切に生きたいか、心奥で共有し合い、信頼をもって手を携えて行く輪の形成が出来過ぎに見えないのは、人がそのようになり得る理由を踏まえているからなのだろう。
新自由主義の申し子のような「目的無き利潤追求の機械」と化した男が、この芝居ではラスボス的存在だが、彼が数年前立ち上げた人材派遣会社の経営が根本的破綻と背中合わせである事が、辞めて行った主人公の社員との対面により露になる。経営の本質がカネ以前に「人」である、という哲学の後押しあってラスボスは懐柔されるが、現実はそう簡単には運ぶまい。巨大資本と結託した政治が見えない中に構築する「巨悪」は、吹けば飛ぶ派遣会社が人道的経営をしようが、丸腰の我々から搾り取る仕組は維持再生産される。が、スラムのあるこの町で、人が生きる圏内で、仲間が形成され相互扶助がその大層な四文字熟語を持ち出さずとも日常の呼吸の中に息づく風景は、何故か確かなものに見えた。絵空事と一蹴し難い実在感を残した。例外的に飄々とした人物が揃った感はあるが、よくよく思い出してみれば、何十年か前はこういう人間が粋さを競うていたような気もする(バブル期特有の世の風潮であったかも知れぬが。。)
とすれば、物理的豊かさが精神も豊かにしたという事になるか。成長は止まり、貧すれば貪する・・真っ先に貪したのは経済界であろうかな。

巨匠とマルガリータ
地点
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2026/07/23 (木) ~ 2026/07/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
何年振りかの地点(今調べたら2023年2月以来)はお馴染みKAAT神奈川芸術劇場で。奥行きある演技エリアが舞台手前際から縦に長い長方形となるが、台状のものが置かれてあたかは不明(多分なかった)、奥のどん付きがあったかの記憶も曖昧。が、そう認識しているのは今回の装置のせいで、可動式の幕が最初は手前ギリ、両側に引かれているロープでこの幕が奥へ引っ込んだり手前に戻ったりする。この幕の幅が、長方形の幅に当たり、役者は時折サイドから前へ回り込む事もあるが、基本エリアに収まっている。奥行き三分の二あたりの床に照明が置かれ、役者の影を幕に映し出す。幕の切れ目からは人が出入り出来る。幕は一人で両サイドを交互に引っ張る(その間台詞を出し続ける)事もあれば二人で引いていく事もある。幕は映写幕にもなり文字やら何か映像が絶えず流れている。後半幕裏のカメラが捉え加工された役者の姿が映され、顔の表情が抽出された不思議な表現となる。勿論、生ではないが地点に欠かせない音楽家の音も絶えず流れている。
かように刺激的な演出ではあるが、ブルガーコフの本作の内容は(元々不知ゆえ)分からなかった。地点の舞台は作品の梗概を押さえて鑑賞すべし、だ。
これが舞台として成立する理由についても(毎度の事だが)考える。登場人物のキャラクター、性質、職業、属性などは少しずつ解っていくが、人と人の絡み、ストーリーは不明のまま。分からない物を知っていく(知ろうと見ていく)面白さは、「分かる」に至るまでは(上手く導かねばならないが)持続する。分かってしまう瞬間を遠のかせ、謎のままに置くのは、一つの正解なのかも?
しかし人の脳に刻まれるのは人の感情だとすれば、何がしか感情の発露、その欠片が飛散してもいたという事なのだろうとも思う。それは通常登場人物の感情、と思われるが、観客が見ているのは役者自身でもあり、作り手の意図でもあり、創作の意思であり、それらを通じて、つまりそこで起きている現象を通して、ブルガーコフの本作にまつわる何かを受け取っている、と信じたい(ここは信じるしかなく、検証したければ原作に当たるしかない)。

人足寄場
排気口
荻窪小劇場(東京都)
2026/08/05 (水) ~ 2026/08/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
初のユニットだったが「怪談」と聞いてこいつは持って来いと初観劇に及んだ。怪談を「論ずる」のか事実怪談(怖い話)なのか・・。結果は、「怖い話」であった。笑いを作る難しさという事を言われるが、本心から怖がらせるというのは中々技量を試されるのでは、と。
今公演では積極的にアフタートークを設定していると言う。自分の観劇回にも怪談作家との対談があった。
「怖い」と言えば、夜カーテンの影におびえる小心者ではあるが、霊感が無いのは凡庸の証であるゆえ超常体験を欲していた凡人の一人でもある。ある時映画「リング」を観た。小気味良い程に怖く、何度となく観たのだが、ついに古書店で当時はVHS版が出ていて購入、時間を置いて、観た。なぜ観るのか、自分への説明は「如何に怖いか、なぜ怖いが発動するのかを突き詰める」ため。陽の光のまだ明るい時刻にも見たが、怖さは変わらなかった。映画中怖いポイント(場面)は幾つかある。音響に気づいた。なるほど「良く見えないものが見える」その予兆も画面にある、それが「見えた」瞬間、不気味な音が最高潮に達している。気づかなかったぜ・・こんな細工が、と「判った」気になっても、やはり怖い。見慣れるために黒髪で現われる異形の者の姿を何度も見たが、見慣れなかった。何かを怖れる理由が、見る者の側に、ある。潜んでいる。それは疚しさなのか、根源的感情なのか、胸を張って表明出来ない何か、暴かれるのを怖れている何かを守ろうとするがゆえに、無作為無遠慮に暴く存在を怖れる。殺害への怖れも、「そうされて当然」とばかりに殺られる事への恐怖なのかも知れぬ。
映画も演劇も、人間の秘密を覗く楽しさがあるが、そこには当然自分も含まれる。芝居で笑う時は自分を笑ってもいる。今回の「怖い」芝居では、巻き込まれて行く人間共を高みの見物する愉楽を味わい、そしてちょっとだけ自分を同化させ、楽しむ時間。怪談を聞く場に居合わせる事は、ある種の霊的な時間に身を置く事であり、「宗教」と名の付くものを忌避する日本人も無自覚にその領域に身を浸しているのだと思う。怖い、という感覚への憧憬も、禁忌であったり抵抗の敵わぬ存在に触れる霊体験を欲しているという事なのだ・・と、仮説を立ててみた。

卓
風雷紡
小劇場B1(東京都)
2026/08/12 (水) ~ 2026/08/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
吉水女史の処女作をリクリエイトとの事。地方の旧家を舞台にした金田一耕助が登場しそうなサスペンス色濃い物語に魅入らされ、風雷紡を貫く「事件の背後に時代あり」の原型を認めた。
敗戦を知らせる玉音放送。家督を継ぐのは誰か、出征中の次男の名が当主の口にも上るも、聡明だが病弱の長男の娘にスポットが。家に出入りする武道の指南役(今で言う家庭教師のような?)の子息が軍服姿で現われ、婚約者にと紹介される。これを見て苛立ちを見せる長男の妻は、家内を賢く切り盛りする姿にも旧弊さが滲む。前掛けをした使用人の女性ら、故あって住んでいるらしい謎の男女(白シャツに黒のスラックス、スカート)、舞台上に幾つもある柱時計。敗戦直後の世相を背景色にした「家」という異空間が導入から際立つ。この空気感、照明の届かない暗部がミステリー性を静かに煽る。謎の存在を謎のまま、台詞に多くを語らせず、その心地良さに酔わせて飲み込ませる。B1を巧く使った劇空間、美術照明(特に照明)は殆ど完璧に思えた。

20の物語 -週末を、劇場で-
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2026/07/16 (木) ~ 2026/08/02 (日)公演終了

魔法老女ポストキュア
東京演劇アンサンブル
吉祥寺シアター(東京都)
2026/07/24 (金) ~ 2026/07/27 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
アンサンブル舞台の初見からかれこれ20年近くなるが、その時とて劇団主宰で精神的な支柱であった(事は外部の者にさえ明白であった)広渡氏晩年の、そして所謂新劇の良質な部分・・集団の社会的な位置と理想の希求、精神性の追求といった・・に殉ずる集団の空気を(元劇団員の解説もあり)受け取ったのが自分のベースである。従って近年の大胆な演劇的試行も全てそのベースの上に積み上げられている、という目で見ている。今回は西尾佳織作、との事で意表を突かれたが、アンサンブル的には小森氏演出の回は実験的かつ女性に比重を置く作品、そう見れば成程そのカテゴリーではあった。お芝居的には劇団の重鎮?女優らがある種跳躍した演技で(吉本新喜劇なら全員倒れる的な)含み笑いを湛えたニュアンスは(いやそう狙ったのかは定かでないが)「白い輪」によって発芽したものだろうか。。演出的には鄭義信氏に手合せ願いたい所があった。
私的には残念な事ながらポップな舞台にも関わらず不眠状態のため途中一度寝落ち。作劇全体について評価出来ないが、いつしか舞台は現代のシビアな家庭問題の渦中に入り、そこに立ち会わされる。ファンタジーの世界内法則を厳格に踏まえたものであったか否か、自分はそこを問題にする人であるがこの点をしっかり見極めるには至らず。
今少し後刻追記予定。

20の物語 -週末を、劇場で-
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2026/07/16 (木) ~ 2026/08/02 (日)公演終了
実演鑑賞
本企画には結局二演目のみ観劇が叶った。どちらも人気だったのか、客席も埋まり(3週間の週末限定20演目という催しにも関わらず)、新国立の動員力も中々と恐れ入った次第。
観る事の出来たのは「不毛ドライブ」「煙草のハイ(high)について」。
個別の感想はネタバレ欄にて。

リチャード三世
半畳の宇宙
BaBaBa(東京都)
2026/07/23 (木) ~ 2026/07/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
下落合のとある工場跡らしい会場、というのが山の手事情社(発、半畳の宇宙)に似つかわしい。シェイクスピアの本作は(何たら何世だのの題名では区別が付かないが)以前新国立で観たあれだな、と当たりがついたのは、題名に色が付いて見えるようになったか、あるいは半畳が選びそうな話だったからか。
舞台は毎回予想はしていないが見て「そうか」と思う山の手特有の様式表現。女性五人。リチャードを演じた女優の怪演がツボに届いて小気味良い。一人芝居で拝んだ半畳の女優陣、他のはやはり山の手所属の方々か、初対面で世界観の共有が短期間の稽古でここまでなら「スゲエ」の域だが、恐らくそうだろう。シェイクスピア作品の破滅のカタルシス(マクベス、ハムレット、オセロ、、)を味わった。本作のリチャードは己の宿痾、醜き姿に慄き、卑下に走る精神とその真逆に振れて残酷なまでの傲慢さに走る両極が不思議な魅力で、哀れみを誘う面を備える。自分を投影する時間となる。

cogito
O企画
小劇場 楽園(東京都)
2026/07/23 (木) ~ 2026/07/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
あの荻野貴継氏主宰の企画体が、哲学対話とか言う面白気な物をやっているな、と見ていたが二度見逃し、今回は舞台作品を上演との事で漸く観劇に至った。哲学何がしは今回もやるとの事でそちらも期待。
芝居は1時間程。夜の森らしき場所で(さわさわと微かな音)、二人(男と女)が行き交う。女性は通勤路として用い、男性は秘めたる遊戯(泥遊び的な)のためやって来る。交錯する二人の始まるともなく始まる対話、関係(のやうやもの)が、世の常で男からのアプローチで始まるのだが。。暗がりで出くわしたりニアミスしたりする様子も観客は見て、どことなく森を取り囲んでいるだろう社会を意識するとも無く意識する。そこから「ここへ来た」二人が、何かを確認し合うのか、し合えるのか・・そんな事を自分を振り返りながら夢想する。舞台が想念に誘う優れた仕掛けであるのは、光と音、俳優により夜のしじまの森が現前するからである。その心地良さのせいで舞台上の現象をうっかり見逃す事も。芝居の結語が何であったかは覚えていない。
この芝居は例の哲学対話から生まれたとの説明であったが、芝居が終わると簡単な説明があり徐ろにそれが始まった。一つのテーマで対話をする。発言は自由。沈黙も一つのあり方だ。主宰がテーマを決め、一人三十秒、スタートして15分後に終了。二人の俳優もマイク係で加わり、自ら発言しても良い。
この内容は割愛するが、興味深かった。主宰がこれに執心である理由も考えも知らない。かつてワークショップが重宝された時期があったが、他人と知り合う手法であるWSに対し、こちらは一期一会である。学校教育でこうした実践が欠けているとの指摘を思い出した。
以前行っていた「対話」は俳優のパフォーマンスを前置してこれを肴に喋る、というものと想像していたが、今回はそれはなかった。二つを接続する何かがあれば一つ体験として刻まれたのでは、と思わなくなかったが、対話の主役は観客なので予測不能、細工は不要と判断したのかも知れぬ。
この試みがこの後どう発展するのか密かな楽しみに。

15 Minutes Made 東京/福岡 東京公演
Mrs.fictions
テアトルBONBON(東京都)
2026/07/29 (水) ~ 2026/08/02 (日)公演終了
実演鑑賞
Mrs.fictionsのこのシリーズは何度目になるか(以前随分見逃していた記憶だが、4本目位か)。前回の本多劇場での短期開催は祝祭性高くレベルも高く「これは」という収穫もあった。今回は中野BONBONで数日間。演劇の持つ表現の可能性・・とはこうした企画で良く謳われるが、15分という制約の中でもそれを実感できて「余は満足である」という台詞が口から出る。最後をMrs.fictionsがきっちりと締めるのも毎度感心であるが、各団体の魅力が十分に客席に届いた感。
今回は知った名の団体は少なくコンプソンズくらい(これも中々)、他は出くわしたインパクトを咀嚼するのにやや時間が。詳細はまた。

血の婚礼 【劇団うつり座】
劇団うつり座
上野ストアハウス(東京都)
2026/07/22 (水) ~ 2026/07/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
初回の「糸地獄」以来、シニア・ワークショップから生れた劇団として基本観ているのだが(糸地獄はその特徴が横溢)、前作今作とそれを忘れて観ている時間がある。前作は篠本氏のリアが劇をリードしていたが、今回は全体として。もっとも今作は能の要素を用い、様式的表現が強かった(型の表現は年齢を必ずしも制約としない)。人物名を日本人名に換えても様式ごと飲み込める。
「血の婚礼」。このスペイン産の作品は血に導かれた愛憎と破滅の物語は、遠いかの地を夢想させかつ人類学的興味をもくすぐるガルシア・ロルカの代表作で、「ベルナルダ・アルバの家」と共に日本の風土からは彼岸、極北の「あの世界」だ。
篠本氏がこれを演出するとどうなるか、胸を高鳴らせて劇場に入ると、白い幕に囲まれた真四角な舞台平面の四隅に柱が立つ。能舞台が模されている事が知れる。人物らは摺り足で登場。歩く方向、会話で語る方向もリアルを避け、対面せずに対話を成立させる。様式に収まったこの表現の効果たるや多大で、婉曲表現が想像力を掻き立てる。人が交われば生じる場の空気よりも人物それぞれを焦点化して個体への観察が生じる。
凡その筋は押さえていたつもりだが、決闘そして帰還に至るオーラスを失念していた。その後母の嘆きで劇は閉じられるが、改めてじっくり咀嚼するように台詞を味わってみると、最後の母の台詞による高揚がそこに至る言葉の積み上げによってもたらされている事や、話者それぞれが謳い上げる台詞が詩である事などに思いが至る。小さな金属の塊(ナイフ)が全てを奪う不条理を、渾身の力で静かに吐きつける言葉は、小さな顧慮だにされぬ者にも代わり世界に放たれる。

プライマ・フェイシィ
シス・カンパニー
ザ・スズナリ(東京都)
2026/07/01 (水) ~ 2026/07/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
映画「ドライブ・マイ・カー」以来、舞台では初めて目撃する「演じる三浦透子」を楽しみにしていたのだが、たまたま直前に舞台版「チ。」配信を観て、「あ、出てる」と。正統派な演技者(歌も歌える)との印象だ。それはスズナリでの芝居でも確認され、栗山演出のミザンス指定をこなしつつのリアリズム演技には胆力を感じさせる。地の文の発語で自身の思考、感覚、行動を描写し、身体は「描写されてる」場面に身を置いている。
時間を積み重ねても前の人物像を裏切らず、深まり、物語上の決定的場面では脚本が紡ぐ的確な言葉で性交を強要される側の瞬間瞬間の反応を描写し、「何が起こったか」を如実に伝える。そして法廷というリングに上がった彼女の「闘い」を描く。試合では敗北を喫する。尊厳を踏みつける暴言、思いもしなかった嫌疑、まことしやかに持ち込み、仄めかす弁護側を陪審員は信じた。
が・・タダでは起きない意志をボロボロの彼女は高らかに宣し、彼女(のような者たち)に我々がどう対するのかを問いかける。彼女の姿に、正義が踏みにじられ汚辱の中に放逐された、歴史上の闘士たちの姿が重なる。
栗山が演出するスズナリ舞台は想像通り「初」だという。一人芝居では栗山演出的にスズナリが通常感覚なのかも。

パール食堂のマリア
青☆組
吉祥寺シアター(東京都)
2026/07/17 (金) ~ 2026/07/20 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
青⭐︎組/吉田小夏が貫いて来た世界観、感性が(恐らく私が観た10年前以上に)作品として結実した舞台であった。それは言ってしまえば、私めの目に「甘い」と映りがちであった青組の人間観、社会観の決して甘くない背景が舞台の細部に息付かせていた、という事である。配役、俳優力と演出の力量の深化は当然、時を重ねた事による人間洞察力も反映されている事であろうし正に寿ぐに相応しい劇団化15周年、と思わせる。
印象的なディテールをまた時間を見つけて書いてみたい。

ハムレット
風姿花伝プロデュース
シアター風姿花伝(東京都)
2026/06/22 (月) ~ 2026/07/12 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
序破急(公演の序盤中盤終盤)のシステムには見覚えがあるな...と思えば風姿花伝プロデュースであった。鬼才ニシサトシ演出なる「ハムレット」は三年前の滋企画「オセロ」以来で楽しみでしかなかったが、ふと気づけば完売。いや、辛うじて一箇所残っておる。速攻で予約したが後で聞けば追加公演の回であった。
約三時間のハムレットは、端折る箇所は端折りつつ西氏こだわりの演出部分は台詞・ムーブの繰り返しであったりちょっとした喋くりコーナーであったりが追加されているため恐らくストレートにやるより若干長めか。手を変え品を変え、戯曲論演劇論に接続するアプローチをあれこれとぶち込んでいる。私などにとっては美味なる皿が並んだ食卓であったが、一食分のメニューとしては太鼓腹になる量。腹八分目と行きたかったがどの場面も削り難かっただろう。
成河(主にハムレット)、永井茉里奈(主にガートルード)、矢野昌幸と林田航平(ローゼンクランツとギルデンスターのコンビから他の友人、ハムレットの分身からポローニアスにレアティーズ、クローディアス等々八面六臂)ら精鋭が、演出の要求通りの身体処理をこなし切り、客と対面しての前説ならぬ中説をテキパキこなしたり、一瞬よぎるニュアンスをきっちり表現したり、とにかく場面の意図が明確でその都度その場面のルールが明確に示され、感心しきりであった。俳優では初の若手古川路(主にオフィーリア)が不思議チャン的存在感、終盤のみ登場する墓掘り人の佐藤友も秀逸。
場面の処理が合目的的である事に舌を巻くが、最終的にこのハムレットに込めたかったもの、コンセプトは終幕に集約して一つ手渡される形では提示されず、既に忘れてしまった中盤のあれこれまで自らの記憶で遡り、総括する事を求められる。いや単純に楽しめた、で良いのかも知れぬが西氏だけに形而上的な何かに達せんとしただろうと想定してしまう。という前提で言えば、やはり「沢山ありすぎ」なハムレットであった。
が、疲労度を差し引いても面白い。

ロミオとジュリエット
劇団昴
Pit昴/サイスタジオ大山第1(東京都)
2026/07/03 (金) ~ 2026/07/18 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
当日パンフに劇団昴の過去の沙翁作品上演歴が載っているのを見れば、1980年代90年代ほぼ毎年のようにやっている。現在自分が目にしている劇団昴は、海外現代戯曲(時に近作も)の良質な舞台を世に出す劇団、であり、今回のロミ・ジュリも間違いなく「一味違った」アプローチなればこその上演決定だろうと勝手に確信。田中壮太郞氏はコロナ期間に俳優座「セチュアンの善人」を演出し、かなり気張った演出、翻案で魅せていたので当然その期待もあり、まんまとその通りの舞台であった。
「現代」がそこここに散りばめられ、物言い、音楽、衣裳もくだけていて小気味良い。最初に登場する対立する両家の血気盛んな青年らが手にしている「武器」てえのがまず拳銃、日本刀、野球のバット、角材(内ゲバか)。ロミ・ジュリ役に配された俳優の若さも、劇の空気に絶妙な「現代」要素を与え、清新さというか斬新さの域。
対立する両家のいさかいを諫め、度々警告を発する当地の総統の登場のたび、SPの如く迅速に登場する部下たちはサッと一列に並び肩の高さで拳銃を構える。黒の上下に黒のキャップ。女性。この舞台では彼女らの存在感が現代的で生々しく、一瞬目が泳ぐ。現代の戦争、紛争、諍いごとへと連想が広がる。
悲恋の物語の付け足しのように、総統が末尾を飾るのが従来のロミジュリの印象であったが、これと一線を画し、社会がこの未来ある若者(しかも大きな役割を担っただろう両家の子息令嬢)を失った事の重み、対立心に発する互いの愚かな判断の結果として振り返させる総統の言葉が、この物語の総括となるのである。照明が落ちて行く舞台に、戦闘機の飛行音、爆撃音が織り重なって行く。
現代劇的翻案・演出の要素は多々あって、観客はそれらを美味しく頂いた。
ロミオの悪友の一人がラップを奏でればロミオも負けじと何とか返す。二人が本能レベルで好き合い惹かれ合う造形が現代的だが「詩的な台詞による説明」を、台詞ごと身体的反応に昇華させた表現が秀逸。ジュリエットの乳母役の喋り倒すキャラも、己の思うままに生きる(可愛いジュリエットの世話を焼く事そのものが彼女の愛すべき日常であり人生)自愛の姿が、他愛(ジュリエットとその家族を思う心)が本物である事を証す、必然性の演技。双方の親の子を巡る態度(特にジュリエット=キャピュレット側)はさもありなんと身に詰まされる。三日後の婚礼を宣告され追い詰められたジュリエットから相談を受け、神父が捻り出した窮余の策が、他に方法は無いと思わせるだけエライが例の「薬」(一度死んで42時間後に目覚める)。ロミオの元へ送った使者よりも早く「ジュリエットの死」を伝えた彼の友人、毒を売る薬屋、「掛け違い」が交錯する終盤に残る疑問のピース「神父が送った使者」が手紙を届けられなかった理由に「伝染病」が登場する・・。運命を左右する物語におけるツールとして作者が用いた伝染病だが、古来、忘れた頃に襲って来る象徴的な災厄が、この物語においても忘れた頃に登場する憎さを思う。震撼とさせられ、手筈がロミオに達しなかった弁明としては強烈にして余りある。婚礼の朝、娘の「死」を知った家族の狂乱振りも物語のボルテージを否が応に高め、その後に訪れる「死」の静謐な演出が引き立つ。
こうした明瞭な段落分けにより、観客はこれを美味しく飲み込むしかない。
最後に両者ともが打ちひしがれた「敗北」の中にあって、総統の裁定により両家の長が手を差し出し、握る。笑み一つない。再起が約束された未来の光も見えない。
時すでに遅い、だが、そうするしかない暗澹たる悲劇が、再確認されるのみである。
悲嘆の美(裏返せば永遠に結ばれる二人の美)ではなく、「失った」側に主語が移っており、彼らこそ、私たちである、と思わされる。物語の添え物としか思っていなかった彼らこそが、私達だと改めて気付く。(そう感じるのは己が齢がそっちに近いからかもだけれども...。)

煙の汽水域
ムシラセ
小劇場B1(東京都)
2026/07/11 (土) ~ 2026/07/19 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
三人芝居は鈴木(阿岐之将一)を中心に唯一の親友・宍道(池岡亮介)と女性(異儀田夏葉)の年代記(女性は一役ではない)。ある男の人生がその特徴的な断面を通して本質が焙り出される、といった趣向で書かれた脚本に見える。三名の人物特に鈴木の存在のリアル度(本質を射たと感じられるか)が評価に直結しそうだ。
手練れの役者、己の見聞の範疇になかった人生模様の提起、面白く観た。吟味は後刻記してみる。

チ。 ―地球の運動について―
ホリプロ
新国立劇場 中劇場(東京都)
2025/10/08 (水) ~ 2025/10/26 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★★
THEATRE fot ALL 製作でアクセシビリティ版が配信中につき、鑑賞が叶った。
本公演で「チ。」の作者魚豊氏を知り、コミック版までを読んだが観劇に至らず。だが「FACT」を読み、映画の日にたまたま映画館に掛っていた「ひゃくえむ」を観てまだ20代が書いたと思えない台詞、作劇に衝撃。NHKアニメ版「チ。」も再現度は高く、主題歌を何度も聴いた。舞台版の情報が無ければ出会えなかった才能。やはり観ておこうと配信を見る。
コミック→アニメの「翻訳」もそれなりにありそうだが、舞台となると構成の技が問われる。長塚氏の脚本は中々。美術と照明、演出家が振付師でもある舞台のダンサーらの身体表現との嚙み合わせも呼吸の如くで・・。
異端審問官ノヴァク、その娘ヨレンタ、オクジー、バサーニ司祭、アントニ司教・・それぞれ森山未來、三浦透子、窪田正孝、成河、吹越満が巧みに演じ、他の役者も勿論申し分なく、人が命を賭してまで既存秩序に抗し、自ら「感動」の源=真実・真理を引き継ぐ媒介となり「歴史」を形成していくその一つのモデル(人類の歴史で実は繰り返されて来た)のような物語を、陰影深く美しく描き出していた。
動画レンタル期間7日間。

たとえばあの日のこと
演劇プロデュース『螺旋階段』
スタジオ「HIKARI」(神奈川県)
2026/07/02 (木) ~ 2026/07/05 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
最近足を運ぶようになった緑氏作舞台、HIKARIでは三度目だったか。最も心を開かれた舞台であった。
少し捻りを効かせた家族の物語が今回も展開。実家の母の様子を見に娘が通っている現在、認知症の母との交わりそうで交わらない会話が簡素で静かな台所に響く。ガヤガヤと賑やかに展開するのがその15年前、母には姉がおり、危うい橋を渡っての商売に妹を利用しもするが、妹は独自な性格、人を放っておけない、頼まれれば断れない。一方の主人公である漫画家の青年(家賃を貯め借金で後がないが辛うじて連載の話が出ている)が、粗野だが人情に厚い(とは最初は判らないが)大家を通じて「姉」からの漫画のオファーを受ける、という形でこのファミリーと接点を持つ。一話完結のヒーロー物風な漫画の場面がいきなり挿入、度肝を抜くが、これに青年の高校の同級生や編集担当らもキャラを担って登場し、同じパターンで毎回終結。ここでの「妹」のキャラが実際のデフォルメである筋が徐々に見えて来る。過去を意表を突く形で再現し、苦労を舐めた娘と、認知症の母との和解の予感へと繋がる。
神奈川界隈の個性的役者も目に馴染んで、役を体現する様相を見て取る事もできた。

豪華客船タイクツニック号沈没
フライングシアター自由劇場
吉祥寺シアター(東京都)
2026/06/14 (日) ~ 2026/06/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
串田一美の芝居の最初は20年以上前、NHK劇場への招待で放映された「幽霊はここにいる」(新国立劇場)の演出・出演としてで、何度も見返した一つだ。初見だった小日向文世の記者役が味を出してて何て良い役者だと思った。音楽の時々自動、無機的な音に合わせたアルゴリズムっぽいムーブ、正面奥一杯の壁の手前を廊下として建てた二階高の骨組、中央を出入りにし、手前のだだっ広い空間を自由気ままに場面転換する様が、記憶にある。
観劇御宅となって一度は生で観ようと串田演出(作もだったか?)舞台を観たが、期待外れ。以来なかなか手が出なかった。
今回はノゾエ氏との共作、また駄洒落っぽいタイトルに惹かれて観に出かけた(直前までタイタニックと読んでいた。そういう人が多いらしく、前説でネタにしていた。気づいたのが遅かったので、観劇を決めたのも直前だった)。
(続きはまた後程)

シャープさんフラットさん
キューブ
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2026/06/19 (金) ~ 2026/07/05 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
とある知人から昔、ケラリーノサンドロヴィチなる御仁(ケラって言ってるけどね)がいると教わって「何それ」と突っ込みながら頭にメモし、帰宅してwebを開いたらこの題名があった、# &♭と音楽の記号を擬人化して親近感を持つも公演終了間際、観に行けず。
その知人からは大人計画(二大人気演劇人と)やらポツドールやら五反田団、青年団と一気に視界を広げてもらったが、あれから18年。そんな感慨に押され、二度目になるKERA CROSS(Nylon作品を別の演出キャストで)へ。
さて感想。ケラ作品にある幾つかの特色の中で、ナンセンス・ギャグを盛り込む、辛辣な人間描写も最後は抒情性の中にくるみ込む、という所。今作で目に止まったのはカラフルメリーの続きか、亡き父(主人公の琴線に届く事が許される存在)との対話、グランドホテル形式というのか、(ホテルでないが)豪奢なサナトリウムを舞台にバブルが弾ける頃合に三々五々の別れが訪れるまでの入所者らそれぞれの物語。無論主人公(柄本時生)を中心軸にだが(前に観たやつもそんなだった。山の上ホテルか何かが舞台で山崎一主役の)。
で、何が言いたいかと言えば、最後は丸く収めるのがケラであり、ここまで落としといてハッピー顔をさせるんかい、と思われてもあくまでハッピーエンド。私的には、如何に辛辣描写の対象を安易な救済に流さず「終劇=大団円」に辿り着けるか、という点を多分凝視している。世の中甘くないぞ、と言わせたい訳である。これでいい、という結論を持つ資格(パス)を持って正しくゴールを切ってもらいたい。そういう事なんだろう。
この作品については、辛辣の土俵で最後まで相撲をとっていたと見えた事で、納得点の作品とした。満腔の合格判子を捺せない何かを残しているが、自分でもよく分からない。
趣向やギャグやどんでん返しや伏線回収を「盛り込めるか」という点では、本作も豊穣と言えるのだろうと思う。
3時間の行程を飽きずに観る事ができたのは確か。