限界ベイベェ!
ヒミツキチ110階
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2013/07/11 (木) ~ 2013/07/15 (月)公演終了
でんでんむしのからのなか【ご来場ありがとうございました!!】
空間交合〈アサンブラージュ〉リジッター企画
萬劇場(東京都)
2013/07/10 (水) ~ 2013/07/15 (月)公演終了
「若い世代から」の日本人論。直球です
日本の流れに対する、若い世代からのアンチテーゼである。
当初、私は 「ROCK」を貫く女と、彼女が所属した女性グループの争いを主題に描く ストーリー構成だと考えていた。
まさしく、これも「日本の流れ」である。
だが、現行権力の御用と化したメディアを批判し、「戦争」が日本人的なブーム感覚で生まれる危険性を 啓発する 舞台だった。
「おかしいと分かっているのに、なぜ、流されるんだ!?」
参院選の最中、そうした内容の舞台を発表したことに、まず「若い世代からの意志」を感じられないか。
「ROCK」を規制する「日本保護法」なる悪法は、戦争遂行レジームにおける「治安維持法」を印象付けた。
これは現代ではない、そして過去でもない、近未来の設定なのだろう。
「流される」を拒否する象徴として主人公の女がおり、第二の堤防の存在としてマネージャーがいた。いや、前者により後者は動かされたのである。
かつて、VISAのコマーシャルで変なダンスを繰り返すオジサンが出演していたと思う。あれは俳優ではなく、実際に 世界中で ダンスを“独り”繰り返すうち、それぞれの国の地域で、それぞれの民族が一緒に真似て踊り始めた というのだ。
この実話は引用され、「次に続く人」の重要性が政府の会議で議論されたこともある。
「流れに乗る」が他人任せだとすれば、「次に続く人」は自主なのかもしれない。
意外なテーマへと突っ込む境界は 見事だった。
ただし、ラストは「ROCK」が演奏された時点で オールキャスト登場するべきだった。
残念でならない。
ヴェローナの二紳士
ハイリンド
吉祥寺シアター(東京都)
2013/07/08 (月) ~ 2013/07/15 (月)公演終了
台詞ごとに“待ってました!”痛快•二紳士
シェイクスピアの幅の広さを改めて認識できた。
聴いているだけで、気持ちがいい。
観ているだけで、引き込まれる。
この世界に、ずうっと浸かっていたかった。
優しさに溢れた逆転劇。
大人も、子供も、違った目線で堪能できる。
イタリア貴族階級における恋愛悲喜劇である。
劇ならではの空気が漂うなか、「安心感」が あった。
シェイクスピアといえば、難解な、30年 間 詩の研究に没頭した者でさえ 自分の血となり、肉とすることができない言語である。
思春期の青年を惑わす魔女に囁かれた観客は、 雷に打たれた後の大木だ。
言語に折れ、焼き払われたっていい。それが、魔女の囁きから生まれた 演劇史なら、誰が 魅力的な摩擦を止めて、今朝の 大木を もう一度 眺めたいなどというだろうか。
「安心感」は どの要素から生まれたかといえば、コメディタッチで描いた点にある。
ラストのシーンは象徴だった。
友同士が、激烈に語り合い、分かち合う泪する場面なのにもかかわらず、「シェイクスピア」の言語のため、会場からは“笑い”。
基本的には「シェイクスピア」であることを否定しない反面、最も 要求される場面において、“笑い”へ変換された。
伝統の看板が立つホテルを訪れたら、中では 大相撲の最中だった。
それは、◯◯投げにも通用する台詞かもしれない。(目に入ると痛いですよ)
吉祥寺シアターがOKの二文字をこっそりと示したことこそ、柔らかな怒りさえ持たぬ コメディ劇の証拠であり、旅館の襖を開けて確認できるくらい明白な事実である。
「独白」は、男として、友として、貴族して、人として の守らなければならない鉄則と、女を奪いたい本心とが交錯する、見応えのある“対話”だった。
観客に訴えるのは、日本むかし話ではなく、登場人物の自身における対話、観客との対話だろう。
そこには、水戸黄門の論理を越えた 物事の深い面が備わっている。
迷いながらも、不断の決意により 実施してしまう男は、セクシーではないか。
セクシーという名の印籠だ。
この舞台は、姫に嫌われ、友を裏切った男が、実は 最大にモテるオトコだったといえる。
シェイクスピア×コメディの試験管であれば、さらに強烈な言語で、知的な詩人を“笑い”に変換する手もあった。
ところが、そうした明確な意図はラストシーンのみであり、全編に渡って シェイクスピアの忠実な下部だった。
結果論としてのコメディである。
(それも意図的な)
“イヌ”も登場するくらいだから、もっと“忠実”が度をすぎたコメディ化を目指すべきだったのではないか。これは批判どころか、個人的な要望である。
知的なシェイクスピア劇は、より“忠実”、より“深化”させようと思うほど、逆にコメディ化に適した部分もある。
一昨年、ロンドンインターナショナル劇団のシェイクスピア劇(本番)を埼玉•濁協大学公演にて観劇したが、人によっては「えー、昼間なのに!困るよ」と聞こえてくる内容も あった。
そして、彼らは観客の女性の髪をボサボサにして帰って行った。
そうだ。
シェイクスピアは、幅の広いジャンルである。
◯◯投げをしあう、それは 非シェイクスピアとはいえない。
むしろ、シェイクスピアの出番なのだ。
『太平洋食堂』
メメントC+『太平洋食堂』を上演する会
座・高円寺1(東京都)
2013/07/03 (水) ~ 2013/07/07 (日)公演終了
「刹那なき人物像」、今こそ知ってほしい
100年前の「大逆事件」を語る。
その初めにして代表格といってよい3時間であり、ただただ観客は ひれ伏すしかない。
「太平洋食堂」という名をタイトルに付けるが、明治の既得権益者、革新主義者といった人物が食事を囲む風景は 冒頭に眺めるだけである。
西園寺内閣 前後の革新主義者の奮闘と、それを巡る社会、既得権益との関係性、「大逆事件」に至る機運を提供してくれる。
「3時間」は、少しずつ「消化」するが、コース料理を食べている感覚ではなかった。
冒頭ではN市の“各界代表”にサラダ、パン、のコース料理がテーブルへ出される。しかし、“各界代表”を不快に感じる既得権利者(町議会議長ら)と“バンザイ!”を激怒するドリトルの衝突など があり、前者は退席してしまった。メインディナーは、客人の口に入ることはなかった。
その食堂光景と比較すれば、舞台は 和洋折衷の どんぶり で、均質に味わえる。
「味噌汁にカレーのスパイス」を隠し味に加えたような、濃厚な風味だった。
ただ、濃厚とはいっても、決して脂ぎっとりの 豚肉ではなく、お腹にも心にも染みる、そんな食事=作品ではないか。
私が 印象的だったのは、「刹那なき反骨主義者」の象だった。
始発電車は君の街へ
ロリポップチキン
新宿ゴールデン街劇場(東京都)
2013/07/02 (火) ~ 2013/07/04 (木)公演終了
断片化した90年代by「若い世代」
日本の伝統芸能の一つである「能」は、死者の視点から見た「過去」である。
演じる舞台、及び客席の間に敷き詰められた白玉は現世と 死者を隔てる役割があるとされる。
その集合体が「能」だとすれば、間違いなく今作は現代のアグレッシブな「能」だと思う。
あの世界的キャラクターや、映画「テッド」を彷彿とさせるクマのぬいぐるみ が、舞台の いたるところに散りばめられている。
おもちゃ箱をひっくり返した惨状は、アグレッシブな「能」における白玉だった。
この作品を、「狂っている」とは思わない。
断片的にストーリーが進み、過去、現在が 月島もんじゃ 並のごちゃ混ぜである。「事件」ベースであることは間違いない。
70分間という短い上演タイムではあった。
しかし、若いパワーを石炭替わりに動く暴走機関車だった。
「解りにくさ」が一種のテーマであるため、あえて「意味が解らなかった」と批判するのは的外れでしかない。むしろ、作品から感じらたのは「90年代の日本人」に対する考察である。
それは、「集団ヒステリック」と表現できる、経済的没落に起因した過度なバイブル志向だ。低迷する日本経済のなか、『清貧の思想』(中野孝次著 草思社 1992年 ) なる本がベストセラーとなった。
著者の中野孝次氏は 当時の現象について、ご自身のブログで次のような解説をされている。
「1990年代前半、それは日本経済がまだ「酔い」から冷めやらぬエア・ポケットの時代であった。実際には、ここから急速に資本の流れは冷え込んでいくのだが、それにまだ楽観的な見通しが続いた頃である。そこでは、日本人はすぐれたホモ・ファーベル(物を作る人)であったし、これからもあり続けるという幻想が抱かれていた」
作品は今日の20年前、つまり1993年6月をモチーフとする。中野氏が指摘する「資本が急速に冷え込む」のは1995年頃ではあるものの、若者の間では 時代的な兆候は既に現れていたのかもしれない。
もっとも、私は 現在こそ危機であると考えているので、歴史を見直す作業としても極めて重要な舞台だと言わざるをえない。
「差別」についても、言及のある作品であった。
耳の聴こえぬ「何も知らない子」
「アフリカには一日一ドルで暮らす人がいる」
そして、「かわいそうな人」を愛しむ自分自身に対し、優越感を誇るのである。
これは、1990年代以降のバリアフリー社会への強烈なアンチテーゼで あって、日本社会の後進性を発掘するアプローチ方法ではないか。
たとえば、ニュージーランドでは先住民族であるマオリ人選出の国会議席数が予め確保される選挙制を採用し、より少数の声が届く政治を行う。中国においても、進学で少数民族の枠を予め定め、漢族に比べても優遇されている現実がある。
90年代以降の世界の在り方は、少数者を「上から保護する」のではなく、「平等を越えた権利を与える」方向だろう。
その 在り方から考えると、日本社会の少数者=マイノリティへの対応は明らかな偽善でしかなく、そのようなことを唱える多数の言論人も自身を誇示する偽善者なのだ。
以上は私見だが、おそらく同じ考えの下、舞台を形造ったのではないか、と期待する。
いくつもの表情が読み取れる、プリズムの舞台だった。仮面を被ってもなお、表情を隠せない。
観客に説明する役者の独り言は、なぜだか安心させる懐かしさが漂う。
これから起こる事実なのか、起こってしまった事実なのか。
寺山修司に繋がる、社会から否定されるべき題材だろう。
だが、歪な関係性=兄ー妹を通し「人間の面白さ」を垣間見ることができる。妹を心の底より愛しているから、あんな結果になってしまった。
「90年代の日本人」、「差別」、「人間の愛憎」、この3つを柱とする作品。
暴走機関車は この巨大な柱を運び、70分間 走り続けた。
だが、断片を違った場所、時間で繰り返し見せるわけだから、大長編に向く。長大な時間の流れがプラスされ出現するのは、旧•宗教劇団ピャー!!が 具現化した、「価値観を変える舞台」である。
少年王マヨワ
ニットキャップシアター
座・高円寺1(東京都)
2013/06/28 (金) ~ 2013/06/30 (日)公演終了
「団地」 と「自然」の薄暗さの対比
座•高円寺という広い舞台スペースを、非常に効率よく使ったことに目を疑う。
「団地」はコンクリートの集合体であるが、人里離れた「人的な森」と表現することも 可能だろう。
例えば、多摩ニュータウン。
「多摩の森」は希少な日本のタヌキが生息する、極めて自然豊かな地域だった。
ブルドーザー等の重機で土地を切り裂き、「多摩の大地」を東京湾へ流したのは人間自身に他ならない。
多摩モノレールも、西武鉄道も開通してはいるが、しかし 東西南北の地域文化から分断されてしまっている。
森の中に突如、現れた巨大団地シティは、新しく生活を追い求める若い夫婦が集まった。
出身県、仕事を異にする数万の国民が(中流上層)、周囲で田んぼを耕す農家の近くへ引っ越してきた。
ただ、彼らは独自の「団地コミュニティ」を形成し、外の人間を排する。かくして60年代〜70年代初頭にかけて「団地コミューン」と呼べなくもない自治組織が生まれたのであり、そうした意味において 一種、団地は日本列島の「人的な森」であるといえるのではないか。
宮崎駿が映画『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年 スタジオジブリ)で伝えたかったことは一体、何だったのか。
核心に、このニット•キャップシアターなる関西の劇団が真っ向から答えたのである。
「少年王マヨ」は古事記にも登場するらしい。
おそらく、ほとんどの観客は「少年王マヨ」なる存在すら知らなかったはずである。私も、名前を 存じ上げなかった。
ニットキャップシアターの、音、光、舞台美術の相互効果作用は 独自のものを感じる。
「団地」という現実を扱っているののに、「幻想」的な雰囲気を醸し出す。
大元のテーマは具体的な事象だが、ストーリーは摩訶不思議であり、普通は「理解できない舞台」となる。
ニットキャップシアターは、「幻想」を炊き、劇場に それを充満させることで、両立する舞台を造り上げる。
冒頭の、夜の団地シーンは 圧巻だった言わざるをえない。
舞台上には、十数名の役者が立つのにもかかわらず、「存在感」が皆無なのである。
団地少年は「存在」する、しかし他は夜に漂う不気味な揺らぎであり、およそ人だとは思えない。
後半のブルーベリー農園も、やはり そうだった。
「小鳥のさえずり」である。
といっても、役者達を小鳥に間違えたわけではない。
「雰囲気」こそ背景であり、舞台セットであり、時代であり、現実だったのだ。
それは、新聞記事を読むニュースキャスターだった。
「団地で火災が発生し、その炎で虫を退治しようとする住民」
「理解できない」といえば それまでだが、役者の口調は事実関係を誤りなく 説明する用意があった。
団地のコンクリート+住民同盟と、自然界。
それは、ダーティーな「戦争」であって、団地少年だった「少年王マヨ」が自然界側に付いたのは作品の重要なポイントだった。
元々、古事記に記載された物語が そのような骨子だったのだから、当然といえば当然だろう。
つぎはぎの布であっても、1枚の白い布であっても、ダイナミックであれば、強い威力を発揮する。
単調なメロディを繰り返し流すことで、観客は病み付きになる。
この舞台は、「団地」に対しては否定的な印象を感じえないが、「昭和」の「大きいことはいいことだ」社会構造は受け入れているのではないか。
ちなみに、私にだけアンケート用紙が織り込まれなかったのは何故か、残念だ。
朝日がのぼる夜
彩才女組
シアターブラッツ(東京都)
2012/01/06 (金) ~ 2012/01/09 (月)公演終了
『ブカティーニにあうソース』について
国旗の色がセットに散りばめられ、食事にペペロンチーノが登場したからではない。
人が、会話が、たたずまいが、まさしくイタリアだった。
話の道筋は、イタリアらしい。
一人のレオナルドなる好色男子を巡る、ハードボイルドな女の恋愛狂想曲である。
北部の都市•トリノの弁護士事務所で この狂想曲が奏でられてからというものの、全く内容を理解できなかった。
事務所の弁護士、探偵、イタリア•マフィアの関係者など、様々な境遇の女性が集結するが、関係図式が 今ひとつハッキリしない。
序盤の「サッカー試合八百長事件」を緊迫し描いたシーンに繋がるのは、まず間違いないだろう。
「15年前」がテーマであることも
確かなようだ。
しかし、進めば進むほど、紐を解くどころか、絡まって複雑な関係図式となる。
パンフレットは どうか。
関係図式について、避けるように記載していない。
この物語は、ミステリーではなく、先程、示したとおり、ハードボイルドな恋愛狂想曲だ。
コンクリートの弁護士事務所に集まったのは、南欧の美女(?)だけである。南欧といっても、トリノはイタリア北部地域独立を訴える「北部同盟」という政党が一定の支持を得る都市である。
イタリア人=ジローラモ氏を思い浮かべる日本人にとって、北部の人々は外国人に映る可能性も考えられる。
コンクリートの内側で巻き起こる、誰が味方か分からぬ関係性、過去に何があったのかを軸に展開する、女の友情…。
オペラの名曲のみが流れる知的な内側 ではあるものの、ハードボイルドとしては緊迫感は伝わらなかった。手を縛るのもスカーフで、何より目に 迫るものが乏しい。
もちろん、会話劇としては知的な狂想曲だった。ただ、ハードボイルドの重要なポイントが伝わらなかったのは へし折れた電柱と同じ印象を持つ。
女とか、男とか、関係なく、そこは もっと現実性を備えた「対峙の姿勢」が あったはずだ。
手を縛られているわけだから、旧友であっても、いや、旧友だからこそ しなければならない表情が あったはずだ。その点でいえば、マスクを被らせる演出は、逆の効果を生じさせるのではないか。
「レオナルド」は、どれだけ魅力的な好色男子なのか、それは隠された舞台のテーマである。
彼女達の裏切り、脅し、…友情、全てレオナルドが原因だ。
15年前、当時、孤児院で一緒に育てられていた彼を、みんなで「守る」ことを決めた。
「傷つくけど、気付きたい幸せがある」
歴史を背負うのは、負担だ。
しかし、二宮金次郎は蒔きを背負った。
舞台の肩には、イタリア社会とマフィア、女達、レオナルドの15年間が乗っている。見えないけれど、会話劇が 見えるようにバージョンアップしてくれる。
私は、「見えない」レオナルドを、この国の青年に知ってる。
青年の名は桐島という。
『桐島、部活やめたんだって』(朝井リョウ 著 角川文庫)の、主人公にして顔を出さない桐島クンである。
地方高校バレー部のキャプテンでありながら、ある日、部活を辞めたという情報が校内中に知れ渡った。
周りの反応、対立をとおし「桐島」なる青年の人物像を掘って行く、その作業がストーリーである。
今回の舞台に関していえば、レオナルドは全てを繋げる「象徴」的な存在があり、男ー女の普遍的な物語を扱っていたとすれば、「オペラ」に他ならない。
「オペラの発祥の地」イタリア、数え切れない男ー女の物語を響かせたなか、八幡山で行われた 今回の舞台も 極めて近しい音域に属するのだろう。
イケメン劇団に対抗しえるユニットとなりえるか。
ミュージカルではなく、イタリアを持ち出してきたところに、これから の道筋を察する。
千年マチコ
アリー・エンターテイメント
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2013/06/26 (水) ~ 2013/06/30 (日)公演終了
これほど続編を切望させる作品も珍しい
続編が見たくて仕方がない。
当て書きが、見事なバランスを生む。
話さない肉体、表情にこそ、言葉がある。
突き刺さるメッセージと、ほのぼのとした銭湯ドラマ。
今日、改めて湯船に浸かりたくなった。
四の五の言わずに恋しろリーマン!
Island
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2013/06/20 (木) ~ 2013/06/23 (日)公演終了
石田剛太のスペース☆コブラ
男肉 du Soleil
シアター711(東京都)
2013/06/20 (木) ~ 2013/06/23 (日)公演終了
あの頃の若者でしか、造れないエンターテイメントがある
70年代、80年代の若者が持つ、型に収まらないエネルギーを放出していた。
オープニングに登場した上半身裸の男達、通称「男肉」は出落ちした状態だった。
開場時間中に15分、メンバーである○○○○○○○が亜流のラップを鳴らしていたからである。
三曲とも、オール“下ネタ”。ニュアンスではなく、“ことば”を連発させる そのラップは もはや過激でも何でもない。
「ダンスユニット」を自称する “男肉”だが、「ロマンティックが止まらない」を皮切りにカラオケ大会が始まった。
踊りは激しいだけで、統一された
しなやかさは皆無だ。
だが、それも含めて、一つ言えることがある。
この劇団は、近畿大学のグループが集まった、いわば大学サークル的な「勢い」を大切に残す。
もちろん、コメディという点では文句を付け難い。
観客との一体感は、並外れた吸引力を保有する為である。
これを、“ダイソン式の舞台”という。大学のサークル的な集団だからこそ、誰しもを巻き込む吸引力を保つ。
『サイ○ーグ007』、『銀河鉄道○○○』などの作品をモチーフとするキャラクター、話が登場する。
石ノ森章太郎?
ラスト語った団長によれば、メンバーの平均年齢は28歳らしい。
「ロマンティックが止まらない」から石ノ森章太郎まで、全部、リアルタイムに接した年代ではなかった。
そういえば、“男肉”のメンバーの顔は70.80年代の若者だ。
記録映像でインベーダーゲームに励む若者である。
色々な意味で不細工な男の裸は、違う意味の魅力を感じる。
飛び散る汗は、全てを正当化させる印籠だろう。
70.80年代の若者が、この時代のエンターテイメントを変えるかもしれない。
ジーパンに、汗を。
女に、金髪のカツラを。
MASTER IDOL
u-you.company
Geki地下Liberty(東京都)
2013/06/18 (火) ~ 2013/06/23 (日)公演終了
内面世界、社会との距離感…、高度な舞台
多重人格がテーマである、極めて内面的な世界を「柊透子」という社会的な偶像とリンクさせることで描いた、“不気味カワイイ”作品だった。
「柊透子」を演じるのは、14人の女優である。
みな、本物の女性グループに所属しているのではないか、と思わせる「可愛さ」だった。
しかし、それも「柊透子」の中に住み着く、多重人格の面々であるから日常会話を話していても「不気味さ」は離れない。
「多重人格」と示せば、何か重苦しい舞台であることを想起させるだろう。
たしかに 弾ける舞台ではなかったが、舞台を人の脳に仮定したら どうか。
脚本家ー演出家なる「柊透子」がいて、その頭が生んだ「多重人格」が登場人物なのだ。
もちろん、宗教劇団ピャー!!主宰の塚本氏のように、役者に合わせてキャラクターを設定する場合もありうる。
一方、ドラマトゥルクの野村政之氏が指摘したのは、「元々、 演出家の発言権 は大きい」
後者だと、脚本家ー演出家の脳内を具現化したものが舞台といえる。それも、もっぱら抽象舞台に限ったケースである。
「多重人格」をテーマにするように見えて、実は「舞台」そのものの内面性を描いたのではないか。
「柊透子」は、社会的に著名な女性グループのメンバーだ。
内面世界を描くと同時に、社会との係わりも リンクさせる形で その複雑性を提起する。
このことも、前出の野村氏が 早稲田大学の講義で次のように述べている。
「社会を劇場で再構成する。そのことで再び社会に訴え掛ける」
“社会性を持った劇場”は、劇作家の平田オリザ氏も 長年、唱える課題である。
内面世界を描きつつ、社会との距離感を、一人の女性「柊透子」を読み解くなかで具現化した。
これは、舞台、劇場の存在をダイレクトに読み解く行為でも ある。
「善人」「悪人」についての考察も 主要なテーマだったが、次回とする。
「The Door2」~Farewell~
劇団たいしゅう小説家
萬劇場(東京都)
2013/06/15 (土) ~ 2013/06/23 (日)公演終了
隣人を大切にする「世捨て人」
世界で一番 嘘にまみれ、また純粋な「お見合い」が そこにあった。
気品ある雰囲気の中で語られるセリフには重みがある。
一個一個が、宮沢賢治であり、語るひと一人一人が、世捨て人である。
バラを象徴的な存在として映す、その切り取られた舞台に観客は固唾を飲む。
緊張しているのではない。
あまりの画に対し、現代を生きる私達は戸惑ってしまう。
「劇団たいしゅう小説家」は、いつだってそうだ。
そうした気品ある雰囲気のなか、馬鹿騒ぎをする。
魚を調理するのは、板前でもない限り疲れる作業だろう。
「愛」について描く舞台は、骨が散りばめられチクッと痛む場合がある。
しかし、貪りたくない。
あくまで、丁寧に身を取り出して 「愛」を堪能したいのだ。
「劇団たいしゅう小説家」は、若手が中心のトビウオである。
劇場を訪れる観客のため、自分達の手で身をほぐしてくれている。トビウオの中身は、そのネームに似合わず脂が 濃厚だ。
ナイフやフォークを使い ほぐしたのは、一体 誰か。
教えてほしい。
さよならは言わない〜病室より愛をこめて2〜
劇団裏長屋マンションズ
シアター代官山(東京都)
2013/06/18 (火) ~ 2013/06/23 (日)公演終了
昭和の男=「赤塚真人力」
「赤塚 真人力」に溢れる、そんな舞台だった。
出ずっぱり ではなく、病室で進行するストーリーの合間に等間隔で登場する。
“相棒”の男性との 掛け合いは、『ファンジー』を謡うチラシとは雰囲気が別物だった。
『ファンジー』を謡う舞台は、極力 会話を抑えて、幻想的なライトや人物の表情に力点を置くケースが多い。しかし、「赤塚真人力」の基では、テンポのよい会話劇となりうる。
ラスト展開される『夫婦愛』からの『男同士の絆』、なんとズルい二段階ステップだったか。
大人数のため、メイン・キャスト以外は 1分、2分程度の時間しか台詞が用意されていない。
「もっと、あの人物を描いてほしい!」と感じたのも事実である。
それが残念だったが、裏を返せばサブ・キャストにおいても メイン・キャストと変わらぬ「役の重要性」があったということだろう。
大人数を、一つのチームとして 見事にまとめ上げる。
この力こそ、「赤塚真人力」である。
奮迅警護トライアロー
中央大学ミュージカルカンパニー
シアターシャイン(東京都)
2013/06/14 (金) ~ 2013/06/16 (日)公演終了
「戦隊物」に まっすぐ取り組んだことを称えたい
今日、戦隊物はパロディーとして描かれるケースが圧倒的多数である。
テレビシリーズで長く放映される「○○戦隊!○○レンジャー」を、コメディタッチに基づきパロディー化した舞台。
しかし、本作は中央大学ミュージカルカンパニーが公演する、生粋のミュージカル作品だ。
舞台は絶壁そびえ立つお決まりの荒地ではなく、町内にスケール・ダウンした。戦隊員もレッド、ブルー、イエローの3人に限られている。そして、お馴染みの“敵役”でさえ わずか2人。
全体的に まとまった、分かりやすい勧善懲悪だろう。
ミュージカルなので、歌って踊る。歌唱力はマチマチではあるが、マイクの拡声効果を使用しない“生声”としては十分なボリュームだった。
演劇+ミュージカルの、水と油が一つのお皿で区分けされた形は残念である。「ミュージカル」を提供するからには、もっと融合した形を目指すべきだろう。
役者に関して言及すると、モンドガール風の女性は極めてセクシーかつ、立ち振る舞いに威厳を感じ取ることができた。
もう片方の“敵役”も、衣装やメークは ともかく、非常に魅力あるキャラクター性だった。
“敵役”2人組に比べれば、戦隊3人は
「迷い」が あった。
どこかで客観視する自分がいたはずだ。観客から見た自分なのか、はたまた違うのか。私には分からない。
戦隊物をパロディー化しないどころか、真っ向から 描く舞台は滑稽ではある。
しかし、それは確実に観客の心に響く。
HOT
@emotion
STUDIO CREATIVE SQUARE(東京都)
2013/06/10 (月) ~ 2013/06/16 (日)公演終了
「新・モーレツ社員」に流れる汗
「新・モーレツ社員」ここに極まり。
先日、カレッタ汐留内に ある広告図書館を訪れた。
広告に限った展示スペースがあり、閲覧できる図書館は日本で ここだけだという。
入場無料、予約不要なので、新橋に用事ができれば休館日等をチェックした上で 見学されることを お勧めする。電通本社ビルに隣接したカレッタ汐留内にある施設だから、そちらの「広告」も忘れていない。
最近、リニューアルした広告図書館であるが、昭和の広告ポスターを展示するスペースは 以前と同じままだ。
その中に、「おお、モーレツ!」大文字で書かれた、美女のスカートが“ひらり”と めくれる広告ポスターを発見した。
この「モーレツ!」は、当時の流行語となり、同時代の「モーレツ社員」にも繋がる。
広告ポスターを出した企業は、どこか。
ガソリン大手の出光興業である。
「噴射」の勢いを宣伝したかったらしい。そういえば、「ウルトラマン」を製品のキャラクターに起用し、“シュワッチ!”…「噴射」の勢いを宣伝中だ。
「モーレツ社員」は、「5時から男」とは訳が違う。
会社のため、黒字のため、身を捧げる。
前置きが長くなったが、今回は 新たな時代に相応しいサラリーマンを描く、「新・モーレツ社員」の像に迫るコメディ作品だ。
ー解説ー
コメディ舞台×映像の可能性を感じる、新世代の作品だった。
配役が これ以上、考えられないくらい適役でした。
イベント会社社員・日向の大人女子ぶり、SP・鬼頭の“いかにも感”
何より、ハリウッドスター・マイケル・ホフマンの適役ぶりは尋常じゃない。甲子園球場で走り回る球児くらい、適役です。
実は 今、「適役」と述べたのは、顔について。有村崑(映画コメンテーター)が「この子、ハリウッドスターなんです!」と紹介すれば、写真 撮ります、たぶん。
そして、ダチになったら、言うことでしょう。
「レディ・ガガに会ったら、よろしくね」と。
それくらい、ハリウッドスター風のイケメンなんです。
「大袈裟な」と思う人は、マイケル・ホフマン役の平野正和 で検索を。別のロック歌手も勝手にヒットしますが、“マイケル・ホフマン”を思い浮かべて頂ければ大丈夫でしょう。
なぜ、ここまで一人の出演者をプッシュするのか。
前置きに広告図書館の話があって、しかも題材がイベント会社だから。
「顔について」と限定したのは、舞台では津軽弁を話したためです。
会場まで、京王本線・桜上水駅から徒歩15分かかりました。しまいには、シドニー五輪の高橋尚子選手みたくサングラスを捨てようかと考えました。
まあ、残念ながらサングラスは持ち合わせていなかったので、捨てるフリだけしたのですが(なんてね)。
都内の劇場といえども、徒歩15分は疲れる。下北の駅前劇場なんて、1分ですよ。
乳酸が溜まりました。(ヤクルト販売しようかな)
ただね、…役者さんは 30倍 汗ダクでした…。
「え?本番前に修行してきた?」と勘違いするほど、汗ダク。
Yシャツも 豪雨後の姿に。
でも、作品の設定がジャパンプレミアに登場するマイケル・ホフマンのダミーと、それをねらうスナイパーの対決構造だったので、汗ダクであることが「迫力」を生みました。
「滑ることを恐るな」
コメディとして技術的に爆笑を誘う舞台ではありませんでしたが、この劇団は「滑った先」を目指すのです。
「モンスターハンター」のモノマネで滑っても、やり続ければいいじゃないか。
そう、観客が笑い続けるまでネタ続行だ♡
劇場は、ジャパンプレミアの会場へ変貌。レッド・カーペットを敷き詰め、壇上にはマイケル・ホフマン、共演女優陣の舞台挨拶が開催される。
このシチュエーション、今まで ありそうでなかった。
しかも、舞台挨拶後、スクリーンに自主製作した映画も上映する。
編集の切替、つなぎ も中々で、商業映画にとって必需である多方面のフレームから撮影しています。アクションシーンに至っては、舞台以上(?)に本格派でした。
コメディ舞台×映像
その融合された形としての、ジャパンプレミア試写会というシチュエーション。
イベント会社・社長の台詞
「観客が楽しんだ上で、我々も楽しむ。それが、良い仕事というものだ」
「新・モーレツ社員」は、会社のため、黒字のため、にプラス!
“笑顔”に身を捧げる。
クライアントの、会社の、同僚の、自分の それへ。
あれっ、でも、その言葉って舞台造りにも当てはまりません?、社長さん。
フライング北海道
シネマ系スパイスコメディAchiTION!
新宿シアターモリエール(東京都)
2013/06/14 (金) ~ 2013/06/16 (日)公演終了
釣書バード
スポタニ♡
中目黒キンケロ・シアター(東京都)
2013/06/13 (木) ~ 2013/06/16 (日)公演終了
初めてチラシを見たときから、…決めてました♡
初めてチラシを見たときから、…決めてました。
ミス・ユニバース2008日本代表選考会のTOP10メンバーを中心に結成した、美女4人の劇団。
メンバーの中には2001年の段階より小劇場を渡り抜いてきた美女もおり、決して侮れない。
「あんなチラシ(夕陽の浜辺にたたずむ水着姿)を配布して、どう落とし前を付けるのか?」気になる毎日だったが、やっと安心できた。
演劇一本勝負だったからである。
現代的な、ホワイトを基調とする そのセットは、大道具、小道具というジャンルなど通用しない。むしろ、大学の劇団サークルが試す新しい舞台が そこにあった。
脚がキレイで、容姿もミスユニバースな彼女達が、“不妊”で悩む女性を演じる。
一方、多くの日本の女性は、容姿がミスユニバースなことこそ「女の幸せ」と思う。
“ズレ”。事故が多発する立体交差点ではないか。
ホワイトの長方形や正方形を散りばめたセットに、この“ズレ”は 何とも言えない融和を生む。
夜景の見える高層階のレストランでケンカする、男と女である。
いずれも、「オシャレ」だ。
しあわせの支度
ソラリネ。
上野ストアハウス(東京都)
2013/06/12 (水) ~ 2013/06/16 (日)公演終了
14日の土曜日
東京AZARASHI団
ウエストエンドスタジオ(東京都)
2013/06/04 (火) ~ 2013/06/09 (日)公演終了
「観客がいないと、舞台は成立しない」
「観客がいないと舞台は成立しない」という当たり前のことを、見事なドタバタ・コメディーで教えてくれた。
シチュエーションは、葬儀場である。それなのに、上階にはライブ会場「スタジオライフ」が営業中のため、常に激しいロック音楽が鳴り響く。
「あえてミスマッチな劇場にしたのは何故か」を考えたが、答えは その形状に見つかった。
開場30分間のうちに使われる“通路”を、茂木(キーマン)が他の来場者を退けさせなければならない、または劇的な展開を含むシーンにとって不可欠な舞台装置として利用していたのである。
葬儀場の「清め処」で、死んだはずの男(小野寺拓郎)が現れ、しかも生命保険2億円がかけられていた事実が発覚する。
前に務めていた会社の社長は“未亡人”の妻(小野寺早紀)へ「会社の金3000万円を返してくれ」と懇願し、元同僚は「1500万円を貸していた」と告白してきた。他方、舞台の要そのものである死亡した(?)拓郎妻(早紀)の実妹は、姉が保険金目当てに謀略したものだと考える。
この設定なら、普通は(集合体としての)「人間はいかに金に嫌らしい存在か」というスタンスでも、「実は人間は澄みきった存在である」というスタンスでも、どちらにおいても描くことが可能だ。
しかし、『14日の土曜日』は、そうしたメッセージ性を もたらすことなく、極めて等身大の「人間社会」を描くのである。
シチュエーション・コメディは、登場人物の入れ替えで“笑い”が起こる。
軸となるのは、事情を把握する巻き込まれA。
今回、その大役を務めたのが、死亡した(?)拓郎の元同僚にあたる茂木だった。
その慌てぶり、女だろうが容赦しない強引さは コメディ・アクションとして面白い。一挙手一投足で ここまで 笑える舞台も 他にないだろう。
やや、茂木のオーバーリアクションが過ぎた結果、先に示した“等身大の「人間社会」を描く”ことからは遠ざかってしまった。
もちろん、シチュエーション・コメディとキャラクターの関係は、自転車のペダルと同じであり、それが「面白い」と観客に感じさせた功労も併せて記す。
最も特徴的だったのは、会場から笑いが耐えなかった点だ。葬儀場に笑いが起こる、それもまた、笑えるシチュエーションではないか。
一部の観客から 大きな笑いを貰えるケースは、どんな舞台においても あり得る。
しかし、私が観劇した回は「20代」から「50代」まで、実に多様な世代の観客が 途絶えることなく笑ったのだ。
最初は、特定のキャスト=葬儀場従業員だけに笑いが生まれているのだと認識したが、しばらく経過し、むしろ作品、舞台に対しての“返し”だと気付く。
舞台は、「観客がいることで成立する」ジャンルである。
密室のパフォーマンスをYouTubeに投稿しユーザから反響が得られることがあっても、舞台 では聴かない。「テニミュ」(ミュージカル・テニスの王子様)がニコ生配信される際、観客を入れずに流すのか。いいや、違う。
そして、“通路”が舞台の一部になるのと同様に、“観客”が舞台の像なるものを形造るのである。
改めて、考えさせられた。
私が観劇した回は、元同僚の彼女が彼氏に向かい「(あなたに)他に“男”ができた時、使えるかも」とほくそ笑んだ。“女”と言うべきところを なぜか変更してしまった。間違えたのではない、あくまで変更したのである。(おそらく)
仮に台詞を間違えたとしても、このような 面白い間違え方があるか。
可愛く照れる姿の反面、むしろ即興であり、そうカウントできなくもない出来だった。
キエンノキ
おちないリンゴ
小劇場 楽園(東京都)
2013/06/06 (木) ~ 2013/06/09 (日)公演終了