台詞ごとに“待ってました!”痛快•二紳士
シェイクスピアの幅の広さを改めて認識できた。
聴いているだけで、気持ちがいい。
観ているだけで、引き込まれる。
この世界に、ずうっと浸かっていたかった。
優しさに溢れた逆転劇。
大人も、子供も、違った目線で堪能できる。
イタリア貴族階級における恋愛悲喜劇である。
劇ならではの空気が漂うなか、「安心感」が あった。
シェイクスピアといえば、難解な、30年 間 詩の研究に没頭した者でさえ 自分の血となり、肉とすることができない言語である。
思春期の青年を惑わす魔女に囁かれた観客は、 雷に打たれた後の大木だ。
言語に折れ、焼き払われたっていい。それが、魔女の囁きから生まれた 演劇史なら、誰が 魅力的な摩擦を止めて、今朝の 大木を もう一度 眺めたいなどというだろうか。
「安心感」は どの要素から生まれたかといえば、コメディタッチで描いた点にある。
ラストのシーンは象徴だった。
友同士が、激烈に語り合い、分かち合う泪する場面なのにもかかわらず、「シェイクスピア」の言語のため、会場からは“笑い”。
基本的には「シェイクスピア」であることを否定しない反面、最も 要求される場面において、“笑い”へ変換された。
伝統の看板が立つホテルを訪れたら、中では 大相撲の最中だった。
それは、◯◯投げにも通用する台詞かもしれない。(目に入ると痛いですよ)
吉祥寺シアターがOKの二文字をこっそりと示したことこそ、柔らかな怒りさえ持たぬ コメディ劇の証拠であり、旅館の襖を開けて確認できるくらい明白な事実である。
「独白」は、男として、友として、貴族して、人として の守らなければならない鉄則と、女を奪いたい本心とが交錯する、見応えのある“対話”だった。
観客に訴えるのは、日本むかし話ではなく、登場人物の自身における対話、観客との対話だろう。
そこには、水戸黄門の論理を越えた 物事の深い面が備わっている。
迷いながらも、不断の決意により 実施してしまう男は、セクシーではないか。
セクシーという名の印籠だ。
この舞台は、姫に嫌われ、友を裏切った男が、実は 最大にモテるオトコだったといえる。
シェイクスピア×コメディの試験管であれば、さらに強烈な言語で、知的な詩人を“笑い”に変換する手もあった。
ところが、そうした明確な意図はラストシーンのみであり、全編に渡って シェイクスピアの忠実な下部だった。
結果論としてのコメディである。
(それも意図的な)
“イヌ”も登場するくらいだから、もっと“忠実”が度をすぎたコメディ化を目指すべきだったのではないか。これは批判どころか、個人的な要望である。
知的なシェイクスピア劇は、より“忠実”、より“深化”させようと思うほど、逆にコメディ化に適した部分もある。
一昨年、ロンドンインターナショナル劇団のシェイクスピア劇(本番)を埼玉•濁協大学公演にて観劇したが、人によっては「えー、昼間なのに!困るよ」と聞こえてくる内容も あった。
そして、彼らは観客の女性の髪をボサボサにして帰って行った。
そうだ。
シェイクスピアは、幅の広いジャンルである。
◯◯投げをしあう、それは 非シェイクスピアとはいえない。
むしろ、シェイクスピアの出番なのだ。