断片化した90年代by「若い世代」
日本の伝統芸能の一つである「能」は、死者の視点から見た「過去」である。
演じる舞台、及び客席の間に敷き詰められた白玉は現世と 死者を隔てる役割があるとされる。
その集合体が「能」だとすれば、間違いなく今作は現代のアグレッシブな「能」だと思う。
あの世界的キャラクターや、映画「テッド」を彷彿とさせるクマのぬいぐるみ が、舞台の いたるところに散りばめられている。
おもちゃ箱をひっくり返した惨状は、アグレッシブな「能」における白玉だった。
この作品を、「狂っている」とは思わない。
断片的にストーリーが進み、過去、現在が 月島もんじゃ 並のごちゃ混ぜである。「事件」ベースであることは間違いない。
70分間という短い上演タイムではあった。
しかし、若いパワーを石炭替わりに動く暴走機関車だった。
「解りにくさ」が一種のテーマであるため、あえて「意味が解らなかった」と批判するのは的外れでしかない。むしろ、作品から感じらたのは「90年代の日本人」に対する考察である。
それは、「集団ヒステリック」と表現できる、経済的没落に起因した過度なバイブル志向だ。低迷する日本経済のなか、『清貧の思想』(中野孝次著 草思社 1992年 ) なる本がベストセラーとなった。
著者の中野孝次氏は 当時の現象について、ご自身のブログで次のような解説をされている。
「1990年代前半、それは日本経済がまだ「酔い」から冷めやらぬエア・ポケットの時代であった。実際には、ここから急速に資本の流れは冷え込んでいくのだが、それにまだ楽観的な見通しが続いた頃である。そこでは、日本人はすぐれたホモ・ファーベル(物を作る人)であったし、これからもあり続けるという幻想が抱かれていた」
作品は今日の20年前、つまり1993年6月をモチーフとする。中野氏が指摘する「資本が急速に冷え込む」のは1995年頃ではあるものの、若者の間では 時代的な兆候は既に現れていたのかもしれない。
もっとも、私は 現在こそ危機であると考えているので、歴史を見直す作業としても極めて重要な舞台だと言わざるをえない。
「差別」についても、言及のある作品であった。
耳の聴こえぬ「何も知らない子」
「アフリカには一日一ドルで暮らす人がいる」
そして、「かわいそうな人」を愛しむ自分自身に対し、優越感を誇るのである。
これは、1990年代以降のバリアフリー社会への強烈なアンチテーゼで あって、日本社会の後進性を発掘するアプローチ方法ではないか。
たとえば、ニュージーランドでは先住民族であるマオリ人選出の国会議席数が予め確保される選挙制を採用し、より少数の声が届く政治を行う。中国においても、進学で少数民族の枠を予め定め、漢族に比べても優遇されている現実がある。
90年代以降の世界の在り方は、少数者を「上から保護する」のではなく、「平等を越えた権利を与える」方向だろう。
その 在り方から考えると、日本社会の少数者=マイノリティへの対応は明らかな偽善でしかなく、そのようなことを唱える多数の言論人も自身を誇示する偽善者なのだ。
以上は私見だが、おそらく同じ考えの下、舞台を形造ったのではないか、と期待する。
いくつもの表情が読み取れる、プリズムの舞台だった。仮面を被ってもなお、表情を隠せない。
観客に説明する役者の独り言は、なぜだか安心させる懐かしさが漂う。
これから起こる事実なのか、起こってしまった事実なのか。
寺山修司に繋がる、社会から否定されるべき題材だろう。
だが、歪な関係性=兄ー妹を通し「人間の面白さ」を垣間見ることができる。妹を心の底より愛しているから、あんな結果になってしまった。
「90年代の日本人」、「差別」、「人間の愛憎」、この3つを柱とする作品。
暴走機関車は この巨大な柱を運び、70分間 走り続けた。
だが、断片を違った場所、時間で繰り返し見せるわけだから、大長編に向く。長大な時間の流れがプラスされ出現するのは、旧•宗教劇団ピャー!!が 具現化した、「価値観を変える舞台」である。