始発電車は君の街へ 公演情報 始発電車は君の街へ」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.6
1-10件 / 10件中
  • 満足度

    始発電車
    内容も苦手でしたし、何を伝えたいのか理解に苦しみました,,

  • 満足度★★★★★

    愚直な純粋さ
    カーテンコールを終え、客電が点くと隣の席の人が言った。
    「観に来てよかった」。
    私も素直にそう思った。
    舞台の幕開けから登場人物たちは狂いに狂っていて、それでいて愛に満ちている。
    これが長谷川くんが表現したかった「純愛」というものなのだろうか。
    終演後、何も言葉が出てこなかった。
    それだけ今回のこのお芝居の持っていたパワーは並大抵のものではなかったし、それに圧倒されて言葉を失ったのは客席に私だけではなかったはずだ。
    物語のテーマは大きく三つ。
    「障碍を持った妹への歪んだ愛情」。
    「日本の社会へのアイロニー」。
    「日本人の脆弱な集団ヒステリック」。
    この三つを中心に登場人物たちは右往左往する。
    学生が行うお芝居で、愛だとか死だとかをテーマにすると往々にしてクサかったり、言いすぎたりするが今回はそうではなかった。
    むしろ通俗的な観念をすべて無視して、長谷川くんの持っている現代社会に対する怒りを舞台の上で振りまわした、という感覚が非常に強い。
    長谷川くんはこの作品で「キレて」いた。
    確実にブチギレていた。
    彼のこの不器用な感情のパトスが舞台に散らかるぬいぐるみとおしゃれな衣装、後半登場人物が狂いはじめるとかわる背景でコーティングされたカオスがアンバランスなはずなのに不思議な調和をなしていて可愛いのだか怖いのだかわからない不気味な世界を作り上げていた。
    しかし彼は深い部分で自分を隠そうとしているのが見えた。それが照れなのか、恐怖なのか。もっと自分を出して、より破壊的により鋭い感性を爆発させて欲しい。

    長谷川くん!君ははやく自分の世界観を何も言わずに共有してくれる素敵な仲間を見つけなよ。その人ともっともっともがいて自分の作品を鋭利にするんだ。

    それから彼女はパンフレットに募集をかけても見つからないよ。自分で口説くんだ。


    今後も楽しみなロリポップチキンだ!

  • 満足度★★★★

    若さあふれる
    終始圧倒されました。
    “これが僕の純愛です!”。
    ゾクッとしました。
    70分楽しめました。

  • 満足度★★★

    パワー!
    失礼ながら何も知識なく拝見しました。
    今まで出演者の年齢層が高めのお芝居を見ておりましたが、皆さんお若くて驚きました。

    若さゆえのパワーが凄かったです!

    多少雑な部分はあったかもしれませんが、これから人生経験やテクニックを積み重ねてどんどん成長してゆくのだと思います!

    これからも応援しています!

    個人的には大川颯太さんが印象に残りました。

  • 満足度★★★★★

    もっと俗悪に、もっと過剰に
    ドン・キホーテの店内を連想した。いろいろなアイディアが過剰に、いささか無秩序に詰め込まれている。その過剰さを通して、「愛」「死」「生」という根源的で古典的なテーマに到達しようともがき続けているような舞台だった。

    熱くて、切ない。主人公は聾唖の少女。彼女は兄に監禁され、外界に触れることなく、無垢の状態で、成長してきた。兄だけが彼女の世界だった。兄は監禁によって独占的で完全な愛を手にしていた。しかし彼女は外の世界の人間と出会い、彼に恋される。それは兄の同級生だった。彼は彼女の美しさ、何もしらないという無垢さ、そして障碍者であるという欠落ゆえに、彼女に惹かれる。

    極端で陳腐な道具立てのなかで、「愛」と「死」の定型的な物語が展開する。問題はこの古典的な枠組みをいかに提示するかである。仮面の使用およびそれを使った場面での様式的な動き、クラシック音楽を効果的につかった選曲のセンスのよさ、激しいダンス、時系列の断片化と組み替え、作者は思いつくあらゆる手段を使ってこの定型的な主題に近づこうとしてもがいているように思えた。しかし過剰な演出手段が作り出す混沌のなかで、この主題は真夏の逃げ水のように、到達できない。そのもどかしさ、切なさがとてもいい。中二病的なせりふが示す登場人物たちの世界のとらえ方の狭さが、ときおりその狭さと陳腐さゆえに、美しい詩情を生み出していた。

    俳優たちの演技・演出はみなすばらしい。女優二人はとてもかわいらしかったし。緑の髪の毛の俳優のマリオネットぽい動きが特に印象に残っている。

    作・演出家は自分の分身のような役柄を自ら演じ、そのモノローグが作品にメタ構造を作り出していた。当日パンフで「一緒に愛を育んで、長生きして、笑顔で死のうねっ☆」と言ってくれるような彼女が欲しいと作・演出家は書いている。しかし彼に今、切実に必要なのは、ぼんやりと生きているけれど、頼まれたら嫌といえない気の弱さと人のよさを持つ、あまり幸せそうには見えない女性を口説いて彼女にして、その彼女とぐだぐだの少々退廃した恋愛生活を送ることだろう。こうした「愛」と「死」と「生」という陳腐な物語に説得力を与えるには、やはり己というものをもっと思い切って、大胆につきつめ、作品のなかで暴露させる必要があるかもしれない。

    つまらない洗練を目指さないで欲しい。ごつごつとしたリアリティのある作品を今後も不器用に作り続けて欲しい。べたべたの使い古された主題や表現の通俗性も突き詰めていけば、新鮮な驚きと気付きを観客に提示できるはずだ。

  • 満足度★★★★

    耽美派
    独特の兄妹愛なんすかね。

    ネタバレBOX

    耳の聞こえない妹を溺愛するアキラ、生まれてすぐに障害が分かったのか親も出生届を出さなかったようで、名前もその存在すら秘匿されていたような感じ。妹が20歳になったとき、綺麗な音色のオルゴールを贈り、次は完璧な子として生まれようと兄妹は列車に轢かれて心中。

    今度は目の見えない琴美を溺愛する兄、二人は心中した兄妹の生まれ変わりか、妹が20歳になったとき、綺麗な絵画を贈り、次は完璧な子として生まれようと兄妹は心中。

    先の心中ではアキラの同級生の一人が駅のホームで目撃、ニ番目では同級生たちが列車の窓から目撃するような形でしょうか、同級生を絡ませて膨らみを持たせた印象でした。

    ところで、開場時から役者さんたちは舞台上に座って瞑想するような雰囲気でスタンバイしていました。私はいつも開演までの30分が退屈なのですが、若い役者さんにとっては私の50分ほどにも感じる時間を何もせずにじっとさせる苦行を強いているようにしか思えませんでした。

    可哀想だから止めたらと思いました。
  • 満足度★★★★

    メルヘンと狂気
    メルヘンと狂気が絶妙な割合でミックスされて不思議な雰囲気を醸し出していました。シーンを過激にしようと思えばそうすることも出来たと思うが、狂気をメルヘンやオシャレな衣装でコーティングしていたところが、この劇団の美学なのかも。

  • 満足度★★★

    意欲作。。。
    作り手の意気込みを感じる作品でした。70分という時間の中に表現したい事(主にテクニカルな意味で)を詰め込めるだけ詰め込んだ感じ。

    ネタバレBOX

    詩的&情緒的なセンスは良いのではないかと思います(タイトルの付け方なんかもそうだし)。ただ依って立つ”芯”が希薄な印象を受けました。やっぱり自分の経験に基づいたものには真実味や説得力を感じるけど、そうじゃない場合はどうしても薄く感じてしまう(メッセージ性があるような無いようなフワフワした印象なのもその辺にあるのかなぁ)。

    演出的にはどこかで観たような表現も多く、新鮮味があまり感じられなかった。

    役者陣はそれぞれ個性があって良かったと思います。

    もっと”経験に基づいたオリジナリティ”が加味されてくれば今後面白くなって行くんじゃないかと感じました。
  • 断片化した90年代by「若い世代」
    日本の伝統芸能の一つである「能」は、死者の視点から見た「過去」である。
    演じる舞台、及び客席の間に敷き詰められた白玉は現世と 死者を隔てる役割があるとされる。

    その集合体が「能」だとすれば、間違いなく今作は現代のアグレッシブな「能」だと思う。
    あの世界的キャラクターや、映画「テッド」を彷彿とさせるクマのぬいぐるみ が、舞台の いたるところに散りばめられている。
    おもちゃ箱をひっくり返した惨状は、アグレッシブな「能」における白玉だった。




    この作品を、「狂っている」とは思わない。



    断片的にストーリーが進み、過去、現在が 月島もんじゃ 並のごちゃ混ぜである。「事件」ベースであることは間違いない。






    70分間という短い上演タイムではあった。
    しかし、若いパワーを石炭替わりに動く暴走機関車だった。


    「解りにくさ」が一種のテーマであるため、あえて「意味が解らなかった」と批判するのは的外れでしかない。むしろ、作品から感じらたのは「90年代の日本人」に対する考察である。

    それは、「集団ヒステリック」と表現できる、経済的没落に起因した過度なバイブル志向だ。低迷する日本経済のなか、『清貧の思想』(中野孝次著 草思社 1992年 ) なる本がベストセラーとなった。


    著者の中野孝次氏は 当時の現象について、ご自身のブログで次のような解説をされている。


     「1990年代前半、それは日本経済がまだ「酔い」から冷めやらぬエア・ポケットの時代であった。実際には、ここから急速に資本の流れは冷え込んでいくのだが、それにまだ楽観的な見通しが続いた頃である。そこでは、日本人はすぐれたホモ・ファーベル(物を作る人)であったし、これからもあり続けるという幻想が抱かれていた」

    作品は今日の20年前、つまり1993年6月をモチーフとする。中野氏が指摘する「資本が急速に冷え込む」のは1995年頃ではあるものの、若者の間では 時代的な兆候は既に現れていたのかもしれない。

    もっとも、私は 現在こそ危機であると考えているので、歴史を見直す作業としても極めて重要な舞台だと言わざるをえない。

    「差別」についても、言及のある作品であった。


    耳の聴こえぬ「何も知らない子」

    「アフリカには一日一ドルで暮らす人がいる」

    そして、「かわいそうな人」を愛しむ自分自身に対し、優越感を誇るのである。
    これは、1990年代以降のバリアフリー社会への強烈なアンチテーゼで あって、日本社会の後進性を発掘するアプローチ方法ではないか。
    たとえば、ニュージーランドでは先住民族であるマオリ人選出の国会議席数が予め確保される選挙制を採用し、より少数の声が届く政治を行う。中国においても、進学で少数民族の枠を予め定め、漢族に比べても優遇されている現実がある。

    90年代以降の世界の在り方は、少数者を「上から保護する」のではなく、「平等を越えた権利を与える」方向だろう。
    その 在り方から考えると、日本社会の少数者=マイノリティへの対応は明らかな偽善でしかなく、そのようなことを唱える多数の言論人も自身を誇示する偽善者なのだ。


    以上は私見だが、おそらく同じ考えの下、舞台を形造ったのではないか、と期待する。


    いくつもの表情が読み取れる、プリズムの舞台だった。仮面を被ってもなお、表情を隠せない。

    観客に説明する役者の独り言は、なぜだか安心させる懐かしさが漂う。
    これから起こる事実なのか、起こってしまった事実なのか。

    寺山修司に繋がる、社会から否定されるべき題材だろう。
    だが、歪な関係性=兄ー妹を通し「人間の面白さ」を垣間見ることができる。妹を心の底より愛しているから、あんな結果になってしまった。

    「90年代の日本人」、「差別」、「人間の愛憎」、この3つを柱とする作品。
    暴走機関車は この巨大な柱を運び、70分間 走り続けた。
    だが、断片を違った場所、時間で繰り返し見せるわけだから、大長編に向く。長大な時間の流れがプラスされ出現するのは、旧•宗教劇団ピャー!!が 具現化した、「価値観を変える舞台」である。


    ネタバレBOX


    日本の伝統芸能の一つである「能」は、死者の視点から見た「過去」である。
    演じる舞台、及び客席の間に敷き詰められた白玉は現世と 死者を隔てる役割があるとされる。

    その集合体が「能」だとすれば、間違いなく今作は現代のアグレッシブな「能」だと思う。
    あの世界的キャラクターや、映画「テッド」を彷彿とさせるクマのぬいぐるみ が、舞台の いたるところに散りばめられている。
    おもちゃ箱をひっくり返した惨状は、アグレッシブな「能」における白玉だった。




    この作品を、「狂っている」とは思わない。



    断片的にストーリーが進み、過去、現在が 月島もんじゃ 並のごちゃ混ぜである。
    回想なのか、現実なのか、私は知らない。


    ある線路の踏切で、男子学生が耳の聴こえぬ少女に話し掛けており、少女もそれに応えている。彼は、「何も知らない子」と名付けた。


    男子学生と「何も知らない子」の間を よく凝らして観察すると、双方が“コンセントコード”を握りしめていた。

    そして、数分後、同じ踏切、初めて2人が出逢ったシーンである。

    文庫本を切り裂き、10ページごとに製本し直した、そのような感じだろうか。

    学友であり、「何も知らない子」の兄が死亡したところで、仲間が狂いながら号泣するシーンがあった。その後、「何も知らない子」がピアノの腕で進学する話題から長い暗転があり、誰しも終演を覚悟したはずだ。
    ところが、“キャスト”は登場せず、新しい断片が また繰り返されるだけだった。

    「紙吹雪」が吹いてさえも、断片は 続行された。


    70分間という短い上演タイムではあった。
    しかし、若いパワーを石炭替わりに動く暴走機関車だった。


    「解りにくさ」が一種のテーマであるため、あえて「意味が解らなかった」と批判するのは的外れでしかない。むしろ、作品から感じらたのは「90年代の日本人」に対する考察である。

    それは、「集団ヒステリック」と表現できる、経済的没落に起因した過度なバイブル志向だ。低迷する日本経済のなか、『清貧の思想』(中野孝次著 草思社 1992年 ) なる本がベストセラーとなった。


    著者の中野孝次氏は 当時の現象について、ご自身のブログで次のような解説をされている。


     「1990年代前半、それは日本経済がまだ「酔い」から冷めやらぬエア・ポケットの時代であった。実際には、ここから急速に資本の流れは冷え込んでいくのだが、それにまだ楽観的な見通しが続いた頃である。そこでは、日本人はすぐれたホモ・ファーベル(物を作る人)であったし、これからもあり続けるという幻想が抱かれていた」

    作品は今日の20年前、つまり1993年6月をモチーフとする。中野氏が指摘する「資本が急速に冷え込む」のは1995年頃ではあるものの、若者の間では 時代的な兆候は既に現れていたのかもしれない。

    もっとも、私は 現在こそ危機であると考えているので、歴史を見直す作業としても極めて重要な舞台だと言わざるをえない。

    「差別」についても、言及のある作品であった。


    耳の聴こえぬ「何も知らない子」

    「アフリカには一日一ドルで暮らす人がいる」

    そして、「かわいそうな人」を愛しむ自分自身に対し、優越感を誇るのである。
    これは、1990年代以降のバリアフリー社会への強烈なアンチテーゼで あって、日本社会の後進性を発掘するアプローチ方法ではないか。
    たとえば、ニュージーランドでは先住民族であるマオリ人選出の国会議席数が予め確保される選挙制を採用し、より少数の声が届く政治を行う。中国においても、進学で少数民族の枠を予め定め、漢族に比べても優遇されている現実がある。

    90年代以降の世界の在り方は、少数者を「上から保護する」のではなく、「平等を越えた権利を与える」方向だろう。
    その 在り方から考えると、日本社会の少数者=マイノリティへの対応は明らかな偽善でしかなく、そのようなことを唱える多数の言論人も自身を誇示する偽善者なのだ。


    以上は私見だが、おそらく同じ考えの下、舞台を形造ったのではないか、と期待する。


    いくつもの表情が読み取れる、プリズムの舞台だった。仮面を被ってもなお、表情を隠せない。

    観客に説明する役者の独り言は、なぜだか安心させる懐かしさが漂う。
    これから起こる事実なのか、起こってしまった事実なのか。

    寺山修司に繋がる、社会から否定されるべき題材だろう。
    だが、歪な関係性=兄ー妹を通し「人間の面白さ」を垣間見ることができる。妹を心の底より愛しているから、あんな結果になってしまった。

    「90年代の日本人」、「差別」、「人間の愛憎」、この3つを柱とする作品。
    暴走機関車は この巨大な柱を運び、70分間 走り続けた。
    だが、断片を違った場所、時間で繰り返し見せるわけだから、大長編に向く。長大な時間の流れがプラスされ出現するのは、旧•宗教劇団ピャー!!が 具現化した、「価値観を変える舞台」である。





























  • 愛と苛立ちの劇場アバンチュール
    ラノベ湾から現れた海坊主・センチメンタルと苛立ちが交互に押し寄せる・じっとしてられなさ・うかうかしてられなさ・という現代!・起承転結でいう起結がひたすら降り注ぐ・演劇を行うことへの切実さについて考えさせられる・舞台上で暴れたい欲求は何処から来るのであろうか・ヤンキーにはなれない、ヤンキーの消えた世界に住む僕たち・その焦燥感・ロックバンドを始められない僕たち・ロックバンドのカッコよさによって打ち消されるロック精神・が漂う・と同時に可愛い・その可愛さは、なんつーか、無力感(?)・いじけっぷりに秘めたエネルギー・みんな怒っているのだろうか・同じくらいの年齢の人々でみんなで怒って無力を感じて今度こそ本気で怒れるようになりたい・時折出て来る中二的ロマンチック繊細台詞が凄く好きで気持ちいい・それはなんつーか、現実を裏返す方法(?)・あるいは心の秘密基地に集まる的な・自分ももっと作らなきゃっておもった

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