monzansiの観てきた!クチコミ一覧

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最高傑作 Magnum Opus “post-human dreams”

最高傑作 Magnum Opus “post-human dreams”

劇団銀石

ギャラリーLE DECO(東京都)

2013/09/17 (火) ~ 2013/09/22 (日)公演終了

「SFの緊迫感と古典性」ー次世代への詞

四部作のオムニバスである。

「人とロボット」を主軸のテーマに描いた、SFドラマである。

時間の流れを確認すれば、一話、四話、二話、三話の順だろう。

「オムニバス」を謳っても、その順番で一つの大作を発表することが まず思い付く構成である。
しかし、ロボットが人の労働をこなす社会の到来した近未来を「立ち会う」にあたり、むしろ断片的だったのは 良 かった。

一シーンごとが、30分前の「ハイライト」なの かもしれない。
それは、個人にとっても、社会にとっても、人類にとっても、文明にとっても。
歴史の分岐点の、30分前を切り取るのである。

筋道を辿ってゆく大作より、「オムニバス」の方が良かったと考えるのは、そうしたシチュエーションの為だ。
緊迫した状況下、ギャラリー公演だから「客席」という逃げ場すら存在しない。
私たちは、「観る」のではなく、「いる」人々である。

目の前に現れたSFを漂う会話劇は、どこかチェーホフの それを匂わせた。
叙情的なのだ。
役者の演説調に叫ぶ姿も、古典的なモチーフを思わせる原因なのだろうか。

ネタバレBOX


四部作ラストに響き渡った台詞は、「人類の夢は終わった。そして、最後は君たちの番だ」である。

一話、二話、緊迫を煽っておきながら、三話、そして四話でキング牧師を彷彿させる「メッセージ」が放たれる。
何という軟着陸なのか。
このような「コマネチ」級の軟着陸を やってのけるパイロットは一体、誰なのか。


たしかに、一話、二話、三話で登場人物の人物設定に差を認めることができなかったのは残念ではある。
特に、男性陣2名の演じた登場人物を考えると、混乱に陥った様のみで、「オムニバス」を効果的に使う姿勢は皆無だった。(三話は やや違うが…)


続く。
殺しのリハーサル

殺しのリハーサル

PureMarry

中目黒キンケロ・シアター(東京都)

2013/09/10 (火) ~ 2013/09/16 (月)公演終了

結末まで かかわる“座席の位置”
劇場というものは、老人の寂れた自宅の縁側にもなるし、新興財閥の主人が酒を片手にするビルディングの最上階にも なる。
しかし、誰もが首を縦へ振ってしまう決定的な場所=シチュエーションが ある。
それは、「劇場」自身だ。


「殺しのリハーサル」は、1982年 米国のテレビ放送用映画として初披露された作品。
後に、世界各国で舞台化し、これまで多くの観客を 「深いミステリーの世界」へ誘って来た、名作中の名作である。

以上、紹介させて頂いたものの、実は舞台を観た段階では そうした「知識」を把握できていなかった。
そして、「殺しのリハーサル」以外のミステリー作品も等しく、「知識」を持たず観劇した その回が最も「面白い」はずである。




私は、主人公アレックスを演じた中野誠也の“圧倒的な立ち姿”に 権威を感じざるを得なかった。
「重大な事実を知っている」、そう観客を 一定の方向へ導くことに実現した。


ーほぼバレてないネタバレへ

ネタバレBOX




劇場というものは、老人の寂れた自宅の縁側にもなるし、新興財閥の主人が酒を片手にするビルディングの最上階にも なる。
しかし、誰もが首を縦へ振ってしまう決定的な場所=シチュエーションが ある。
それは、「劇場」自身だ。


「殺しのリハーサル」は、1982年 米国のテレビ放送用映画として初披露された作品。
後に、世界各国で舞台化し、これまで多くの観客を 「深いミステリーの世界」へ誘って来た、名作中の名作である。

以上、紹介させて頂いたものの、実は舞台を観た段階では そうした「知識」を把握できていなかった。
そして、「殺しのリハーサル」以外のミステリー作品も等しく、「知識」を持たず観劇した その回が最も「面白い」はずである。




私は、主人公アレックスを演じた中野誠也の“圧倒的な立ち姿”に 権威を感じざるを得なかった。
「重大な事実を知っている」、そう観客を 一定の方向へ導くことに実現した。

なぜなら、アレックスを含めた彼等は一人を除き、観客を騙していたのだから。(正確を期すと、その1人も途中まで騙している)
「犯人役」と「私たち」は、全く同様の視点で、立場で、彼等を1時間30分 眺めた人間だ。

もし、「ミステリーの落とし所」が あるとすれば、特にアレックス(中野誠也)こそ「重大な事実を知っている」雰囲気を(わずかばかり)醸し出す必要があった。
作品の外せないポイントだろう。

この制約を、「圧倒的な立ち姿」とともに魅せた中野誠也は権威を語るに相応しい男だといえる。


セットは最小限であり、謎を膨らませる音響効果も 無かった。
では、今回、劇場を マンハッタンの稽古場へ変えなかったのか。

いや、むしろ客席の通路を数え切れないほど利用したのである。

「容疑者」の俳優、プロデューサー、舞台監督、演出家ら5人が、稽古場へ入る際、通路を下っていった。
「足取り」さえ、横柄なであったり、イスの背もたれを持ちながら…といった具合に、登場人物のキャラクター性を現す。
この5人は再び稽古場を出たわけだから、少なくとも10回は通路を利用したわけだ。

通路を利用すること自体、「斬新」ではない。


私が紹介しなければならないのは、オープニングで「ミステリーの解決」に繋がる 会話=やり取りが あった事実だ。
その場所とは 当然ながら「通路」のことだ。

米国およびヨーロッパ各国で上演された「殺しのリハーサル」が客席の通路を利用していたのか、私自身 知らない。

これが「日本オリジナル」の演出なら、的を得た演出だったと思う。
通路で演じるとすれば、照明を外れた暗闇の部分や、客席の位置によっては見えづらい観客もいる からである。
そして、ここからが大切なところだ。

わかり易く説明すれば、半分の観客は5人の登場人物を確認できたが、除く1人の「犯人」を100%確認することは困難であった。
逆の客席にいると、それは反対の構図になる。


舞台だけで進行しない。
誰も全体像を把握できない。


果たして、「日本オリジナル」なのか。
たかが「通路」がミステリーの醍醐味を与えてくれる。
「日本オリジナル」か どうかを細かく考えたのは、ストーリー•作風を左右するといっても過言ではない、重要な演出だった為だ。






































我らジャンヌ~少女聖戦歌劇~

我らジャンヌ~少女聖戦歌劇~

劇団ゲキハロ

サンシャイン劇場(東京都)

2013/09/06 (金) ~ 2013/09/13 (金)公演終了

仏教の概念で切り取った、「ジャンヌダルク」

フランスとイングランドの百年戦争に終止符を打った、偉人中の偉人•ジャンヌダルク女史。

現代でも、その慈悲の精神や 指導力、意志の強さは、地球上に住む少女達の誇りである。

当然、「ジャンヌダルク」を描いてきた舞台は数多く存在するが、『ゲキハロ』の今作は 事情が違うらしい。


ジャンヌダルク女史の、「火炙り」のシーンから物語は始まるのだ。

それは通常、ジャンヌダルク女史の歩みを確認した後、ラストで 目撃しなければならない光景の はずだ。

では、なぜ「火炙り」をオープニングに持ってきたか。

答えは、題名 にある。


『我らジャンヌ〜少女聖戦歌劇〜』という題名そのもの だ。
『我らが』ではなく、『我ら』の名詞を使っているところがミソだろう。

すなわち、ジャンヌダルク女史が魔女狩り裁判により処刑されてなお、フランス全土に出現した“ジャンヌダルク”の一連の史実に基づいた作品ーミュージカルである。


一言で現すのは難しい。

一般女性に、地球上のだれもが、当時はフランスのだれもが知っている指導者•ジャンヌダルクのフリをさせる。
イングランド軍との抗争を控える中、政治的な プラパガンダとして反イングランド勢力が利用した面は 否定できない。

だが、仏教の概念である“輪廻”を捉えると、一般女性さえも真正•ジャンヌダルクたり得るのだ。
何度でも言おう。
“ジャンヌダルク”たり得るのだ。


私が観た回は、10分間のアフタートーク付きだった。
作•演出の 末満健一氏の語った言葉を要約した上、紹介させて頂きたい。


(次回も観劇する観客が圧倒的だったことを踏まえ)「皆さんは、これから2時間のミュージカルを二回観るのではない。

トゥルースとリバースがある。

“あれ、どこかで見たことある…”
という台詞は、役が入れ替わっているから。

ジャンヌダルクの魂が廻っている。
そういう観点から観て欲しい」


血のヨーロッパ史を、仏教で切り取り再構成した作品ーミュージカルだった。
その中心は、やはり輪廻に他ならない。



『我らジャンヌ』は、『劇ハロ』最終公演を謳う…。
なぜ、最終公演の文字を記したのか。


今『ミュージカル テニスの王子様』=通称テニミュが女性層の支持を集め、社会現象になっている。

火付け役のドワンゴ常務取締役•片岡義郎氏によれば、「99パーセントが女性。リピート率も高い」という。
公演アンケートで、原作のファンのみならず、「ヅカファン」などと称される宝塚歌劇団ファンの女性も訪れていることが明らかになった。

客層は包括的である。
しかし、テニミュこそ、実は「イケメン劇団」の部類ではないか。

だとすれば、「イケメン劇団」の勢いを象徴する社会現象だろう。


私は昔、「なぜ、男性客をリピートさせるミュージカル舞台」が皆無なのか、理解不能だった。
そして、例外の一つが『ゲキハロ』だった。
女性向けの それが社会現象を巻き起こしているのに、男性向けだと成立できない説明を聴かせてほしい。


池袋「シアターサンシャイン」。

この劇場は先日、『東京セレソンデラックス』の解散公演が行われた場所である。
『我らジャンヌ』は大阪に劇場を移し、公演をつづける。これが充電公演であっても、歌を 、演技を、今後も触れ続けたい。
それは、観客の総意であり、社会の大きな潮流である。










女王の魂

女王の魂

劇団EOE

ウッディシアター中目黒(東京都)

2013/09/06 (金) ~ 2013/09/08 (日)公演終了

全編ハイライト
インタビューヴォーズ



ほぼバレてないネタバレへ!

ネタバレBOX



「全編ハイライト、とは、まさに こういうことを言うんでしょうね。
劇団EOEが女子プロレスを扱って、タイトルに『女王の魂』を持ってきたわけだから、汗も飛び散る全力の舞台だろうな とは考えていた。
ただ、実際、観劇すると、役者の熱量というか、違うんですよね。
物理学的な現象です、これ(笑)」




ー『週刊EOE』という雑誌が配付されてましたね

「『週刊EOE』は開場中、ずっと読んでました。
とにかく文字量が多い(笑)
週刊新潮の特集記事かよって。

それを踏まえて観劇すると解るのですが、2013年組の新人3人は豊漁でした。
準主役といってもいい佐々木(糸由)さん、この女性も新人の1人です。
実は、彼女の細身の体型は劇団EOEには浸透しないんじゃないか、と決め付けてたんです。
だって、週4日間の稽古ですよ?

今まで劇団EOEのメンバーは、良くも悪くも それに『耐えられそうな女性』だった(笑)
でもね、物理学の法則からは外れますけど、彼女の持つ熱量は確かでした」





ー悪役レスラーのクレーン中田は圧倒的な存在感でした


「悪役レスラー…、あれは 参ったな。
私も、たぶん観客も、 (川上)千種(平澤有彩)との対比で捉えていたわけです。
試合で武器を使っちゃう、自分自身は傷つかない『ザ•ヒール』だと。

対比だと思っていたところの、『プロ意識』、あるいは職業的背景としての『女子プロレスラーの厳しい現実』、それから『女子プロレスへのオマージュ』…。

悪役レスラーと千種は、根っこの部分で繋がっていたわけです。

語り出した悪役レスラーのことばは、舞台裏を描いたからこそ観客に響いたんだろうね。

とはいっても、プロレスの試合 観たかった。
削ったのか、…いや…どうなのか。
うん、…ラストに残しておいたのか?
個人的には、リング上で本格練習する風景や、レスリングの試合のシーンがラスト以外でも あって良かったかもしれない」





ー戦後のプロレス•ブームに比べると、今や日本人にとってマイナーな興行になっていますが…


「私は武藤(敬司)の全日(全日本プロレス)や、あまり言いたくはないんですが…、西口プロレス(長州小力ら所属)など観戦したことが あります。
逆に、女子プロレスは映像とかで観たことすらありません。

行きたくなりましたよ。ぜひ観戦したい。
自宅へ帰ってから『女子プロレス』と打ち込んで、ネット検索しましたから。いや、移動中に携帯で検索してた(笑)
そういう意味では、女子プロレスの応援歌だったと思います」






ー舞台上の必死な姿を見て、心響いた観客も多いです


「上手いよな〜。
観るコツはね、『とりあえず週刊EOE読めよ』に尽きます。

重なってるんです。

だから、女子プロの『飛び散る全力の汗』は、劇団EOEの姿そのものだったわけ。経済の話を取り入れたの、あれズルいよね」




ー距離は短いのにもかかわらず、なぜ絶叫なのでしょうか?


「いくら叫べば、彼らは休むのか。役者の声が、太い線にみえる気がする。
闇雲に叫んでるんではなく、観客の方を向いていても、叫ぶ相手に太い線で発射(?)されてるんです。

これも おそらく技術でしょうね。

付け足す感じで、一言いい?」





ーはい



「音響、なにあれ(笑)

試合へ臨む直前、(奥野)友美(佐々木 糸由)と千種が女子プロ論を語り合うシーンあったでしょ。
『何、食べに行きたいですか?』で、『焼肉〜!』と絶叫するところ。
会話の展開に音響がピッタリ合ってた。例えば真っ赤に染まったり、緊張を煽る照明いいなーと思ったら、あの一語一句を被せる音響の登場ですよ。
『焼肉〜!』の台詞は、音響の技術無しでは『ハイライト』にはなれなかった。
まあ、ラストの大切な レスリングのシーンに関して解説しちゃうと、あえて音響?効果音?を出さない方が良かったかな」


ー最後に どうぞ


「新人3人の熱量で、劇場が 暑かった。とてもオシャレな街でやる演劇じゃないですね(笑)
むしろ、そこでしか味わえない密閉感が似合ってるのかもしれませんが」





































チューボー

チューボー

KENプロデュース

コア・いけぶくろ(旧豊島区民センタ-)(東京都)

2013/09/06 (金) ~ 2013/09/08 (日)公演終了

くず野菜を煮込んだスープほど美味い!



厨房というのは、「油で炒めた牛肉や醤油ベースのソースが絡み合う」だけの場所ではない。
厨房で働く「個人と個人が絡み合う」、そんな場所でもある。

今作を観て考えたのは、現代社会の病理だった。





続きはバレてないネタバレへ

ネタバレBOX





厨房というのは、「油で炒めた牛肉や醤油ベースのソースが絡み合う」だけの場所ではない。
厨房で働く「個人と個人が絡み合う」、そんな場所でもある。

今作を観て考えたのは、現代社会の病理だった。


コンサルタント会社の社員が、レストランの経営再生のため、「あのシェフを首にしろ」「若い女性を雇い、BAR式レストランに変えろ」等、「助言」する。

繋がりはないが、全ての登場人物を語らせた、「仕事にまつわる名言」を一部、紹介したい。
言うまでもなく、コンサルタント会社社員の引用した ことば である。

「立って仕事をする人より、座って仕事をする人の方が、所得が高い」(多少、改編)


この 名言に どのような受け止め方をするかは、各々の思想だろう。

舞台の関わり でいえることがあれば、レストランのオーナーシェフは「俺の店でなくなる…」の想いで、コンサルタントの契約(座って仕事をする)を破棄した。

一種の(思想的)クーデターだった。


今作は 面白い。結局、レストランは潰れ、再起を賭けた主人公も離婚してしまった。
それを乗り越えるため、レストランの従業員が一致団結する姿は、観客への見せ方において「パッ」とするから、解りやすい。

しかし、実際のところ、多くの観客を「しみじみ」させた。
つまり、今作は「仕事にまつわる名言」のコーナーを設定したとおり、ただ観客に考えてもらう題材を提供する舞台だったのだ。

その意志に対し、私はドキュメンタリー•シアターを数多く発表してきた『ワンツー•ワークス』の影を感じる。


中国人従業員•陳さん の正体を描かなかった、描けなかった のは残念だ。
なぜ、「敬語使えや!」と、1シーンのみ関西人だったのに、それきり人物像を掘り起こさなかっのか。
あるいは、そういった関西人へ変貌するシーンが もう一回あっても順当な展開の はずだ。


観客が見たい、聴きたい、を応えないのは、浅い人物像しか描こうとしなかったからだ。
「仕事にまつわる名言」のコーナーを削ってでも、人物像に向き合うべきだった。
私は そう考える。








明日も明日も、そのまた明日も

明日も明日も、そのまた明日も

劇団かさぶた

王子小劇場(東京都)

2013/09/05 (木) ~ 2013/09/08 (日)公演終了

立場(所属)の「対比」と、「通信機」への再評価





「通信機」を一つのテーマとした。


都会を暮らす市民にとって、「携帯電話」は肌身離さず保持しなければならないツールである。
それがフューチャーフォンか、スマートフォンか、といった機種の問題ではない。
いずれにしろ、「携帯する電話機器」なのだから。



北陸山脈で登山中、彼氏へ「通じる」ことが あれば、その女は スマートフォンの機体を より強く握り締めるだろう。
そして、「通じる」のレベルを上げた先が宇宙飛行士と地球の交信である。


私は、王子小劇場は幾度となく行っている。
だから言える。『劇団かさぶた』が造り上げた王子小劇場は新鮮なカツオだった。

中央へ「花道」を築き、客席はカーブを描く。

たとえば、惑星Aの漂流者が舞台上の通信機に語り出すと、「花道」の後方で地球からの音声をキャッチ!できる。

音響装置を一部、使用すると、 おそらく 通信機のリアリズムも備わったに違いない。
しかし、『劇団かさぶた』は既存概念を拒否して、(元々そういった目的こそ あったかもしれないが)効果的に「花道」を利用したのだ。

ライトアップされた地球人=「日本のジョンレノン」(研究所所長)は、惑星Aに漂流する者の考えた像ではなかったか。

「通信機」の放つ立体感を 教えている。
3Dを超えてしまった原因は、役者のマイクを使わぬ声。


地球の 3兄弟にしろ、「男を喰いたい」惑星A漂流者の3女性にしろ、 掛け合い自体、文句のつけどころは皆無だった。


兄弟ー男と女ー上司と部下



基本的な 掛け合い、それも内容の60%は「対比」の枠で収まる。


宇宙船の中の搭乗員4名が、ペアを組んでいたところを、ミックスして作業分担したのも「対比」を生む為だろう。


「化学反応」は、コメディへのオマージュであった。
「通信機」は、科学文明へのオマージュでであった。



夏休みには屋根までとべた

夏休みには屋根までとべた

劇団晴天

調布市せんがわ劇場(東京都)

2013/08/30 (金) ~ 2013/09/01 (日)公演終了

コントではない…もはや、漫才だ

「漫才」を具現化した、あるいは演劇に導入した姿を見たのは初めてだった。

客席の構成は90%以上、20代、10代の若い世代であり、出演者と全く重なる。
同感覚の「笑い」を強く持ち合わせていたように思う。
役割が定まっているのではなく、
それぞれ展開に合わせて臨機応変に「笑い」を取る。それは ある意味、高校演劇のコメディ作品だった。
つまり、ここでいう「笑い」も、高校演劇的であったわけだ。

ネタバレBOX


女子高生5人の「内輪」と、男子高校生との「距離」がテーマ性である。


私が印象に残ったシーンは、やはり冒頭の「内輪」だった。
女子高生のグループのうち、その一人の部屋へ集まって「赤裸々」な会話を繰り広げる。
「距離」も 重要テーマではあったが、あげるとすれば漫才を具現化した姿だろう。


「デブですけど何か?デブですけど何か?」


実際ふくよかな女性が 気配を感じたらしく、ひたすら問い続けた。



別の場面ー



「肉汁じゃない!汗だから!」




この面白さ、コントでしかない。


若い世代を意識した コトバも、かなり出没した。


「ゴメン、メン、メン、メン」


例えば、 女性高校生の会話で今、このようなコトバが流行中なのだろうか。
聴いたことはないし、知りたくもない。


そこで、出没したクマ=コトバ達を巨大顕微鏡に入れた結果、分かってしまったのだ。

たぶんに脚本•演出が、劇場へ集まる若い世代を通し、流行させようという魂胆である。
たけくらべ=TK Club

たけくらべ=TK Club

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2013/08/23 (金) ~ 2013/08/29 (木)公演終了

どこまでも、どこまでも、「男目線」だった



それは、アングラの駐車場にしか咲くことのできない、可憐な踊子達だった。

太平洋戦中の、「国家」が蜘蛛の巣のように人間関係を窮屈にした時代性。
あるいは、敗戦後の、「国家」の網の目から脱した後に込み上がった「騙された」の感情。

舞台の構成からいえば、前半で後者の感情を扱い、後半で前者の関係性を扱ったということになる。

何と ややこしいのか。


普通、先に戦中の話を進めて、それが戦後へつながる方が分かりやすい。
ところが、この舞台は敗戦日本で営業中のCLUB周辺に出没する故人を掘り下げなければならないため、戦中日本(大陸中国)の話を繰り広げる構成を取った。

これは、アングラからの、戦中日本からの、反戦メッセージかもしれない。


エロティシズムを理解する舞台を、多くの観客は待望している。
現実の状況でいえば、若手劇団はエロティシズムを避け、それをもって「普遍性」だと考えたいようだ。


歌や踊りのパフォーマンスは、評判のほどエロティックでは なかった。
過激さ を述べたいわけじゃない。

私が述べたいことは、肝心の演技の部分で、身体から沸き上がったエロティックな感覚である。
戦中日本(大陸中国)、あるいは敗戦日本でしか描けない、荒廃した中の「匂い」「駆け引き」は現代の私たちからすれば、気品溢れる姿だった。

ところが、虫眼鏡で じっくり観察する舞台とも 100m離れた位置に あった。


テンポの早い、F1のサーキット並み の展開を 一部 見受けたのだ。


エロティシズムが、高速で現れる。
それこそ、鉄則のエンターテイメントなのだろう。



第24回全国高等学校総合文化祭優秀校東京公演「鼓動 国立劇場の夏」

第24回全国高等学校総合文化祭優秀校東京公演「鼓動 国立劇場の夏」

公益財団法人全国高等学校文化連盟

国立劇場 大劇場(東京都)

2013/08/24 (土) ~ 2013/08/25 (日)公演終了

誰ひとり欠けられない、超絶コメディ




沖縄県八重山高校演劇部は、日本最南端にある演劇部だという。


あまり多くの内容を語っても仕方ない。


この安定感、この親しみ、この笑いは、「域」を越えている。


クラスメイトの際立ったキャラクター設定が、アップルパイの生地のように重なり合い、全体として蒸気機関車を動かすパワーを稼働させた。

3時間であっても、教室での文化祭を巡るコメディは続けられるだろう。


「プリキュア•マニア」のクラス会長、イケメンぶっているサッカー部男子、茶髪のチャラい女子…。

以上、列記してみたものの、登場人物の抜粋など 私にはできない。

8人の生徒全員が欠かすことのできない役であり、それがアップルパイのような一体感を醸し出す。

「差」が、互いに化学反応を起こした結果、そこへ現れたのは「見事な調和」であった。


もし、「ウシ」の解体ショー(畜産家業跡取りの生徒 提案)が あったなら、観客も生き物とは何かを考える機会となった。
「領土問題」についても、また しかりである。


沖縄県にとって、在日米軍の存在は経済より 生活上のテーマだ。
私は沖縄県で最も高視聴率を取るコント番組を、代々木公園で開された「おきなわ まつり2013」で観ている。

三つのコントのうち、在日米軍と関係するネタ(含む)は二つだった。
一本目は、「キングジョー大佐」のコント。彼が沖縄県民の「あるある」を述べ、部下が「イエッサー」と応えるコントである。


なぜ、沖縄で うけるのだろうか?
(私が観た回は「内地」の人向け に構成した面もあるかもしれないが)


それは、沖縄県民の人々おいて、在日米軍の存在は生活=文化風習の段階まで入り込んでしまっているためだ。
世界中を見渡して、他国の軍隊が地元の文化風習に これほど密接、ダイレクトな影響を及ぼす国は あり得るか?

その是非を述べているのではなく、沖縄の番組や、舞台を観る度 そう感じざるをえない私がいるのだ。


八重山高校演劇部の舞台は、ネオ•コメディだった。そして、自然な形で「領土問題」を文化祭行事の提案の一つとして生徒同士 が語り合う場面…。
「領土問題」の先をみれば、「オスプレイ」がある。
在日米軍の基地問題は、沖縄県民から切り離せない。


そういった、沖縄ならではの話題も盛りつつ、笑い溢れる時間が流れた。
幕間インタビューで畜産家業の跡取り役の高校生を演じた彼は、こう語っている。


「内地から来た人に、『良い意味で変わってるね』と言われます」

私は、この舞台が高校演劇、あるいは舞台全てのメジャー=標準化になって欲しいとさえ思う。


















ニールサイモン・作 「カルフォルニア スィート」

ニールサイモン・作 「カルフォルニア スィート」

有機事務所 / 劇団有機座

萬劇場(東京都)

2013/08/20 (火) ~ 2013/08/23 (金)公演終了

会話劇とドタバタ劇の“サンドウィッチ”



米•作家ニール•サイモンの短編集を、コメディ要素は抑えつつ、「言葉のウィット」を満喫するため削ぎ落とした舞台だった。


カリフォルニア高級ホテルのスウィート•ルームへ、ニューヨークやロンドンの客人が やってくる。
4本の短編集はホテルを予約した男女4組の関係を軸としており、それぞれ巧妙な会話劇だった。

途中10分間の休憩は あったものの、作品自体は「3時間」を超える大河ドラマである。


一つ、述べておきたい。
ストーリーテラーの役にあたる従業員は、舞台そのものを 、スウィートルームのベッドシーツを整頓するように「仕分け」したのではないだろうか。

彼女らは一話目の終わり、「女にとって、仕事を選ぶのか。子供を選ぶのか」、それが宿泊した夫婦のテーマだと語り合った。
「彼女、共和党からアメリカ州知事選挙に立候補するかもしれないそうよ」なる噂は、観客にとっても初耳である。
私は、「ずっと覗き見 していた」従業員に 室内を整理する時間を与えるのではなく、もっと語らせるべきだっと思う。


ラスト映し出された、従業員を巡る温かな「シチュエーション」を強調したいのであれば、従業員の静かな演説は必要だった。

厚いビーフジャーキーを噛むには、電話の向こうの交換手の人柄を ある程度 知ることと同じくらい時間が掛かる。


セットのソファを直すのは暗転という名のサービス•マンに任せればよい。
彼女達の手は、隣の宿泊客か、フロントに立つ受付係へ声が届かぬよう、自身のマイクのボリュームを調整するためだけにある。


ニール•サイモンを鑑賞。

フロリダの海で泳ぎたいのではない。

アラスカの凍土を触りたいのではない。

観客は、まるで魚屋の青年が八百屋のオジさんを見つめる その眼差しで、憂愁の米作家を 鑑賞したいに決まっている。


一話目、三話目の来客は、背中で語る舞台を志向する ものだった。
ウェットの引き立つ その会話劇は、耳で聴くべき内容である。
では、カルフォルニアの身体が その憂愁についていったかといえば、そうでもない。

米国人の会話、英国人の 会話に苦戦したのだ。
立ち振舞いを迷ったのだ。


一方、2話目、4話目の来客は、腹で語る舞台を志向するものだった。

いつのまにか、女とホテルのベッドで一緒だった既婚者の男性。
この場所で合流するはずだったワイフが 部屋のドアを開けた際、彼は混乱していた。

その直前、汗をかきながらジーンズを履く姿は 笑える光景である。
ワイフをベッド•ルームへ近付かせようとしない、非暴力的な 試み も同様だろう。

このコメディに、ニール•サイモンの憂愁を漂わせる目的を感じられようか。
「役者を 当て書きした」のではないかとさえ疑った。


もちろん、全体を見渡して、巧みな、コーヒー3杯分の深みを味わえる会話劇だ。
気になるのは、萬劇場が広く感じた点にある。
「香り」は、拡がりを持たなかったということだろう。







おかしな二人(女性版)

おかしな二人(女性版)

劇団銅鑼

銅鑼アトリエ(東京都)

2013/08/19 (月) ~ 2013/08/25 (日)公演終了

役者を生かす、「NYレディの実態」


「おかしな二人」は高層ビルから見下ろす乗用車くらい、…というのは大袈裟であるが、数多くの劇団が上演してきた“名作•ストリートコメディ”だ。

今回、劇団民藝から枝分かれした劇団銅鑼のアトリエで行われる公演は「女性版」である。


私が 感心を持たざるをえなかったのは、オレンジーブラックーレッドの壁で形作られる「ニューヨーク•マンション」
そのスタイリッシュな大人の世界で、5人の女性がテーブルを囲み、ゲームを興じる場面から「おかしな二人」は始まった。

非常に下品である。


生温かいコークを「プシュッ」と開けて、腐ったサンドウィッチを下品な口に入れる女性たち。

大きな展開は なかったが、これこそ「ニューヨークの日常」を演出するセット•小物•動き である。
『SEX AND THE CITY』などの米国ドラマを鑑賞し目を肥やした日本人において、「ニューヨークの日常」を違和感なく観客の目に映し出させ、「おかしな二人」の関係性へ視点を移動させる努力だろう。

オープニングで観客を引き込み、本題のストーリーを 自然に解釈させる、劇団銅鑼からの「優しさ」と受け取った。


本題のストーリーについても、わずかばかり触れたい。

旦那に離婚を付けつけられ、女友達のマンションで共同生活することになったのが「おかしな二人」の片方=フローレンス(福井 夏紀)である。

その、自分の耳を思い切り引っ張るアクションや、強烈な ふくれっ面は 今作でも 最も笑いを奪った。
美人と称される女性が変顔をするから笑いは起きるのであって、必ずしも そうではない女性が 変顔をしたところで「具合悪いの?」と心配されるだけだろう。

あるフランスの著名な演出家が「若い女性がお爺さんを演じるから、演劇は 面白いのです」と語っていた ことを思い出す。

だが、ストリート•プレイは 役者の素養を演出家が捉えた上、それを舞台に生かす「非•演劇性」も また必要なのだ。

私は、生かされた側の福井夏紀 演じたフローレンスと、上階に暮らすスペイン人兄弟との噛み合わない会話を絶賛したい。



兄弟が 教師のように「船員が船酔い するから港に着くのです」というスペインの名言を紹介しても、フローレンスは首を横へ振り、「意味が解らない」の文字を顔に書く。

スペイン人兄弟は米国へ やってきて3年目で、英語は ほぼ話せぬ。

だから噛み合わない会話を繰り返すのだが、「日本語」を使っているので観客は 両者を理解できる。
スペイン語や英語の単語を織り交ぜるため、よりリアリティが増す。


「観客が優位に立つ舞台」、それも劇団銅鑼より贈られた 「優しさ」の残暑見舞い だ。


スペイン人兄弟の兄役マノロを演じたのは鈴木啓司 だった。
彼は劇団銅鑼の「センポ•スギハァラ」「絡まる法則」どで主演、準主演を務めてきた、同劇団若手俳優の代名詞といってもよい人物だ。



「スペイン人」になりきるのは さぞかし難しかっただろう。持ち前のチリ毛で乗り切った。
そうか、彼はチリ毛だからスペイン人に抜擢されたのかもしれない。

演出家の「非 演劇性」は 止まらない。
しかし、パズルをつなぎ合わせる 「面白さ」である。












イキヌクキセキ~十年目の願い~

イキヌクキセキ~十年目の願い~

NoH-Ra

東京グローブ座(東京都)

2013/04/09 (火) ~ 2013/04/14 (日)公演終了

「矢口真里 不倫騒動」は一ヶ月前に始まっていた



「不倫騒動」で連日、スポーツ紙や週刊誌の紙面を覆いつくし、ワイドショー番組のVTRに出演し続けた元モーニング娘。のリーダーは?

こう取材陣から問われたとすれば、有楽町駅前の広場にいる歩行者全員が 「矢口真里」の名前を語り出すだろう。

私が「不倫騒動」以前で彼女を目撃したのは、一ヶ月程ばかり遡らなければならない。

もちろん、「芸能リポーター」として彼女の様子を見ていたわけではなかった。

「東京グローブ座」の座席にいる一人の観客として、「矢口真里」の演技を、歌唱を見ていたのである。

『イキヌクキセキ』という3.11後の10年後を見据えた舞台。
津波により両親を亡くした少女は、あの揺れを経験して10年の歳月を経て、中学生を迎えた。

「里親」の家庭では自ら礼節を重んじるものの、“父親”“母親”と打ち解けることは できないままだった。

そんな“娘”を、未だ東日本大震災に沈む“両親”は不安そうな眼差しで見守っていた…。

「朗読」でしか築けない、そういった舞台は 存在する。

微妙なアクセントや、役者が入り込むコンテンツ性において、「朗読」には力がある。

実際、亡き旦那と指輪を無くした口論をぶり返すシーンは、非常な怒り の感情を抱えていた。

そして、終盤に掛け、矢口真里の涙がポツリ、ポツリとステージの床へ落ちていく。
“娘”への温かい感情も そうだが、
東日本大震災を被災し離れてしまった旦那への“愛情”と、その“無念”が純水を額に辿らせた原因に違いない。


私は感情移入によって流れた矢口真里の純水に対し、ある意味では視野の狭い、思いもよらぬアクションを取る一途な女性を感じ取った。

マイナス•イメージのみで こうした評価をしたのではない。
誇るべき一面だろう。

その約一ヶ月後、彼女は私が芸能リポーターの素養を備えていることを証明した。
「思いもよらぬアクション」をしでかした結果、生放送番組を事実上降板したのである。


劇中の主題歌が思い出されよう。



『恋におちて-fall in love』


女の不倫をテーマにえがいた、90年代初頭放送のTBSドラマ主題歌。


「ダイヤル回して、手を止めた」


彼女は手を止めることなく、頬を流れた純水を口に含み、思いもよらぬアクションに出た。


私は、ただただ「朗読劇」の力を知った。

















チュパカプ等2~Vampire and Unlucky man.~

チュパカプ等2~Vampire and Unlucky man.~

劇団ICHIGEKI☆必殺

シアターブラッツ(東京都)

2013/08/15 (木) ~ 2013/08/18 (日)公演終了

「本当の弱者」って、誰なの?


「本当の弱者」の正体を、ミカンの汁で記された文字を炙り出すように教えてくれた。

物語は、「人喰い小説家」の住む邸宅で、ヴァンパイアに噛まれた青年が 起き上がるシーンを起点とし進む。

特徴だったのは、舞台の奥行があり過ぎる ところ。
逆T字へ広がった その両脇に、二つの小部屋。
趣向を凝らす装飾•セットではなかったが、場面展開をせず、3つの「場」を生かしたのは『シチュエーション•コメディ』を謳うだけある。



チラシ等の記載通りにいけば、「ヴァンパイア」達とテレビクルーの騒動を描くことになる。

だが、両者に加え、「ヴァンパイア•ハンター」なる機関の人々や、テレビクルーの中にも剣術に長けた狂乱者がいたことが 判明する。

私が強調したいのは、この劇団の「殺陣の技術」に他ならない。

『某SFハリウッド映画』と同格の、殺陣アクションだけでも観る価値のある舞台だった。

チャンバラではない。

人間の感情のぶつかり合いであって、効果音すら要らない迫力だった。
実際、『チャリン』という効果音を封じ、アルミ(?)の ぶつかる音が奥行のあり過ぎる劇場に響いた。

血糊や、残虐なシーン等あり、「ヴァンパイア」の登場するグロテスクである。

しかし、「ヴァンパイア」を舞台化する者にとって、「本当の弱者とは誰なのか?」を提示するのは一種の義務ではないだろうか。



そして、今作は「本当の弱者」を見事に考察し、観客に訴え掛けた。
「殺陣だけでも観る価値がある」
と私は言ったが、それならパフォーマンス•ショー公演でいい。

「殺陣に価値がある」のは、剣を操る人物の心情表現が あってこそ、観客の心を震わす。

もちろん、心情表現において核となったのは「弱者としてのヴァンパイア」である。


輸血用の血液を利用するため、「人喰い小説家」の「ヴァンパイア」達は一人を除き人間を噛み付かない。
彼ら自身も、フロリダの仮装パーティーに出場する目的で「ヴァンパイア」に変身したのではなく、「ヴァンパイア」から噛み付かれた結果、“血を飲む怪人”に至っているのだ。

事実、中世ヨーロッパでは鼻の高い女性を狙った「魔女狩り裁判」が横行し、市民の迫害に遭った歴史がある。


「弱者としてのヴァンパイア」は こうした人類の歴史を考えても、リアリスティックなテーマだ。



改めて「本当の弱者とは誰なのか?」を私たちは確認する必要がある。
それは、「弱者」のコードから外れた名もなき人々に違いない。

「ヴァンパイア」の女性が剣術に長けた乱心者に斬り込められる姿に反応した観客は、皆無だった。
その、あまりの悲劇性に、声を出すことも出来ない。


(「シチュエーション•コメディ」は、どこにいったのか…)

そう思っていたら、テレビクルーの出演者とプロデューサーの2人がコメディの要素であった。

関西中心の劇団が、舞台上で吹かせた風は「殺陣」と「本当の弱者」の二つである。
この二対二による、邸宅の中の争いは見応え十分だ。

























東京パフォーマンスドール PLAY × LIVE 『1 × 0』(ワンバイゼロ)

東京パフォーマンスドール PLAY × LIVE 『1 × 0』(ワンバイゼロ)

キューブ

CBGKシブゲキ!!(東京都)

2013/08/15 (木) ~ 2013/08/25 (日)公演終了

サブちゃんが10人の女の子に分裂した!?



平均年齢15歳、10名のティーンズで構成された「東京 パフォーマンス ドール」(TPD)による、LIVEあり、舞台ありの90分。

本作は世界初の、HMD=拡張現実 の技術を舞台に取り入れる試みで、日本経済新聞に特集されるなど、各方面から期待の声が上がっていた。

HMD席に座った観客は、専用のメガネを装着した上、終盤の「ダンスサミット」というレビューのコーナーを鑑賞する。
メガネのディスプレイへバーチャル映像が表示され、TPDの歌や踊りとともに鑑賞する使途らしい。


残念ながら私は、一般の客席であったため、HMDを舞台へ導入した その評価について語るべきではないだろう。


舞台は東京•渋谷のスクランブル交差点から始まる。
TPDの10名がコンクリートの上を歩いていると、突如として地下へ落ちてしまった。


行き着いた先は、バーチャルな「自分の思い通りになる」世界であり、メンバーは混乱状態。

近年、「謎解き」イベントが社会的なブームとなっているが、その理由は参加者も「体感」できるからだ。東京ドームを会場とした大型イベントさえ開催された今日、「謎解き」は一つのジャンルである。


だから、演劇としてではなく、ゲームの参加者として「体感中」の女の子が立ち向かう姿を踏まえて観劇した方がよい。
それを主催者は「LIVE」とも言い換えた。

ETV『天才!ビットくん』をモチーフにした作品ではなかったか?

何となく、舞台を観劇する感覚よりかは ドラマを視聴する感覚に近いのも、同番組をモチーフとした結果 かもしれない。


音や光、映像を効果的に使い分け、極めてスタイリッシュな場を作り上げるなか、現代のティーンズはスラリと溶け込む。

洗練されたグループ=TPDの一員が半導体の無機質な部品となって、スタイリッシュな舞台を生むのだ。


(衣装に「バブルの頃」を感じたのは私だけ か…。)


舞台+レビューの代名詞は「北島三郎」である。
サブちゃんが15歳前後の女の子に分裂し、パフォーマンスを磨けば、きっと現すのはTPDだ。
そして それは、HMDを使用した拡張現実でしか あり得ない。














みんなでつくろう♪わいわいミュージカル2013

みんなでつくろう♪わいわいミュージカル2013

+ new Company

野方区民ホール(東京都)

2013/08/15 (木) ~ 2013/08/16 (金)公演終了

こども達を解き放つミュージカル



前半は『+ new compny』に所属するメンバーが、後半は こども達も参加したミュージカル•ショーを披露した。

こども達は、主に中野区内在住の5歳頃〜中学生頃の男女で、14日、15日『+new compny』開催のワークショップに参加している。
今舞台は、いわば一回限りの発表会だから、こども達の意欲も凄まじかった。


同カンパニーの宣伝をするようだが、記しておきたいことがある。

「演劇と教育の融合」を目指し、全国の学校、地域の文化施設、東日本大震災の被災地などで公演を行ったり、ワークショップを開催してきた。

そうした、「演劇と教育」をテーマとする団体を 他にも存じ上げているので、ぜひ ご紹介したい。

東京都文化発信プロジェクトと密接な、『芸術家と 子どもたち』というNPO法人である。
今年、野方区民ホールで、こども達のダンス•ワークショップ公演を行っている。

当然ながら私も観劇した。


その公演と、『+new compny』の公演を対比させることは関係者のためになると思う。


前者は 数週間といったスパンで、
資金バックも充実したなかワークショップを繰り返した。
メンバー(全員小学生)のうち、9割以上が女子、男子は 3人ほど。
全体としては30人程であろうか。

その公演を観劇して分かったのは、「ダンス好きな、演劇好きな小学生が集まったな」という事実であった。


それに比れば 、まず後者は5歳、6歳の幼児が中心であるし、男子も2割程度だった。
実際、ミュージカル•ワークショップ公演の舞台に出演したこども達については、「一般の子かな」と思った。

技術的な面ではなく、極めて曖昧な感想である。


後者は、やはり園児を卒業していないこどもが多いため、最初は『おかあさんといっしょ』の画面を浮かべてしまった。
しかし、会場を和ませる こども達の 突拍子もないアクションこそ、公演の大きな柱として堪能できたのだ。

代表の方が話している最中、舞台の端から端へ走ったり、顔だけ出して笑顔を振りまく アクションである。

それが、「幼児の為せる特権」であって、私が「一般的」と感じた理由かもしれない。


幼児ばかり目を向けてしまうのは、八百屋でミニトマトが売れる現象だろう。

ただ、中学生女子と見受けらるメンバーの手紙を読んだ その内容は今もって考えさせられる。


「小さな子も頑張っていたから、私も頑張らなきゃと思った」


お姉さんメンバーは、後方で、あるいは前方で、カンパニー•メンバーと変わらぬパフォーマンスをみせてくれた。

では、メンバー全員で「キャッツ」を踊っている時、観客の視線は どこにあったか。

可愛い、小さな 幼児へ注がれたのではないか。

小学校高学年の女子、中学生の女子がティーンズ世代としてユニットを組み、別にミュージカルを発表する構成があって よかったと思う。

それぞれの持ち味を観客が堪能できる以上に、こども達の切磋琢磨を磨く原動力たりえるからだ。


私が上演されたミュージカルで最も上げたい作品は、劇団四季「キャッツ」である。
猫に耳を付け、シッポを装着した姿は、可愛らしさに尽きた。
といっても、主体性を保ち、それでいてショーの統一性を確保したのは 「さすが」としかいいようがない。

こども達は「自分が何をやればいいのか」を、一人ひとり理解している。
バラバラではなく、一体なのだ。

『おかあさんといっしょ』の画面を浮かべた、と書いたが、5歳の少女は それを見事に覆した。

「2日間みんなと歌や踊りをやれて、楽しかった」と。


これが、「演劇と教育の融合」である。
これが、結果である。










Weekly3【PAIN(ペイン)】

Weekly3【PAIN(ペイン)】

アヴァンセ プロデュース

「劇」小劇場(東京都)

2013/08/13 (火) ~ 2013/08/18 (日)公演終了

ライトを当てない役者に「関係性」を映す



セットやシチュエーションではなく、一対一の関係性によってのみ構成された舞台といってよい。

投資ファンドや、交通事故や、愛人といった、「重々しい」テーマ性のなか、思わぬ三角形が形作られていた。

一対一に当たるスポットライト、それは関係性を映し出す道具なのだ。

暗闇の、もう一つの関係性を待つ演者は、三角形を画として体現するのかもしれない。

全体として、極めて圧縮したストーリズだと思った。

線をなぞるように、シチュエーションを設定し、それに合わせる形で展開を築く構成もアリだったはず。坂上忍氏プロデュースの濃縮された今舞台は、“あえて”同時並行で展開を進め、一人の役者を軸とした二重シチュエーションも築き上げたのだろうか。


テーマ性としては、先に上げたとおり、投資ファンド、交通事故、愛人を包み込む「重々しい」である。
ただ、それを助長する音響や照明を使わず、ひたすら一方向へ流れる時間が そこに あった。

「演劇は観客との対話である」考えは主流だろうが、私は「鑑賞」させてくれる演劇を感じた。

無駄なパフォーマンスを減らした上で、基本は椅子に座った「重々しい」人々を、細部まで見つめてしまう。決して、表情や身体の細部だけ ではない。
ライトアップされる関係性にこそ、「鑑賞」する対象として見つめるのである。


ペロペロキャンディを舐める男児と少女に、縁側で休む千代大海の風景に接したとき抱く感情はない。2人の境遇、関係性を私たちは知り過ぎたからである。

エロチシズムさえ、パフォーマンスを排した、関係性の中でしか発揮しない。


ラストの展開は、ある意味で関係性を描いた舞台の真骨頂というべきものである。
それは、ライトアップか?
いいや、やっと現れた音響というべき怪物である。



















ヒーローズ

ヒーローズ

少年社中

劇場MOMO(東京都)

2013/08/08 (木) ~ 2013/08/18 (日)公演終了

名演出法は繰り返すーロボットダンス加え


「戦隊もの」から外された、所属なきヒーロー達の密室劇である。


冒頭15分程のプロローグと、その後の展開の関係が判らなかったので、ずっと疑問を持ち続けていた。

プロローグがヒーロー達の「日常風景」だとすれば、その後の展開は「ドラマティック」に進む事件だろう。

こうした理解の下、ある程度は両者の関係性を理解したつもりだったが、疑問を持ち続けなければならない箇所も あった。

例えば、冒頭のプロローグでは「一日前に秘密基地を退出しなければならない」ヒーロー•オオバヤシショウがおり、データマンという同僚が「ルールを守れ」など非難していた。

一方、データマンは米国に出没した怪人を攻めるためのハッキ○グ工作を進行中だった。

また、秘密基地に残れるかを賭け闘う、ヒーロー同士のダーツを投げ合う場面さえ あった。


では、その後の展開において、プロローグの内容が絡んでいたのだろうか?

退出期限の切れたヒーローVSデータマンの関係性は、そこに現れたか?


全くと言っていいほど、そういったプロローグの内容は その後の展開に影響して おらず、私は 疑問を持ち続ける必要があったのだ。


氷山の雪解け水が川上へ落ちたのは、舞台上演後の挨拶によってだ。

メンバー9人が、それぞれ自分で脚本を書き上げ、プロローグを造ったというのである。
つまり、9通りのプロローグが存在することを意味する。

プロローグの目的は、あくまで秘密基地内の「日常風景」を見せることであって、その後の展開には絡ませる役割を負っていなかった。
9通りのプロローグが存在することを知らない観客にとってみれば、疑問を持ち続けてしまうのも無理はないのである。


物語は、中野サンプラザ近くの秘密基地へ「一般人」が忍び込んでいた事実を基に進む。
彼の口から出た基地の外、つまり 日本の状況を聞いた密室のヒーロー達が議論を繰り返す。

シベリア鉄道のように長く細い“謎”に囲われ、観客まで不安に浸る。


チラシには「シチュエーション•コメディ」なる舞台の紹介のされ方である。
だが、大どんでん返しはSFチックの集積体で、ロボット論へ通じる
重厚さが覗く。

科学コメディーדヒューマンドラマ”と表現してもよい。


ストロボを生かした、何度も何度も何度も繰り返す “再演”は身体性そのもの であった。


ロボット•ダンスに観客を裏切るメッセージが備わり、それが 私のいう大どんでん返し へ繋がる。







でも未来には君がいる

でも未来には君がいる

RayNet

青山円形劇場(東京都)

2013/08/14 (水) ~ 2013/08/18 (日)公演終了

歌&ダンスへの、シーンを生かした流れ






まるで、ディズニーランドの近未来アトラクションに搭乗した感覚だった。


青山円形劇場に映し出される数字のライト、スタイリッシュ極まりない音響である。


1950年東京・バー店へ、プロデューサーの父親の記した日記を読んだことにより、現代の演出家が移動してしまった物語。


「ミュージカル」を謳った作品だが、実に自然な流れの演出だったと思う。


「タップ」対決をせざるを得ない流れで、結果的に「ショー」を魅せる。


現代と1950年の時代差を問われた流れで、「AKB」を軽く踊ってしまう。



ミュージカル・ショーこそ 中心かもしれない。


ただ、演技のシチュエーションを生かしたミュージカルは、非常に新鮮であって、これは舞台上における融合なのだ。






蝶を夢む

蝶を夢む

風雷紡

シアター711(東京都)

2013/08/11 (日) ~ 2013/08/18 (日)公演終了

少女の「足音」が、「蝶」の舞いに聴こえた



戦中•戦後の大邸宅で、「蝶」が舞い飛び、食卓に採れたての「ブドウ」を味わう。
周りの隣家は焼け野原、「ブドウ」など育てる土地さえ確保できぬなか、この大邸宅では それを陶器の専用皿へ置き、瑞々しさを得る。

開場中に印象的なことがあったとすれば、薄暗い室内に 座った制服姿の少女である。
高級チェアーへ腰かけ、分厚い書物を読み、そして時折、観客の方へ眼差しを向けた。

30分間以上も邸宅の隅にいる彼女こそ、この作品の主人公か、もしくは重要な人物だろうと、誰しも思った。
だが、彼女の眼差しを接する機会は ほとんどなく、「足音」が中心だった。

私は、今作の題名『蝶を夢る』を再び紹介したい。
写真プリントされた公演チケットには、母親=主人公が娘=制服姿の少女を抱き締める姿が あった。

公演中、何度も劇場へ響かせた“音”は「ドタバタ ドタバタ」という足音だった。当然 それは、邸宅を走り回った少女が発信源である。

この足音を よく聴いたら、「蝶」の舞う 「ヒラヒラ 」と似ているかもしれない。


台所へ行くのか、部屋に行くのか、食卓に行くのか…。
まるで「蝶」が どこへ飛ぶのか判別できぬように、その「足音」は邸宅をヒラヒラ舞うのだ。

公演チケットの母娘の姿、それはか弱い「蝶」を手に囲う昆虫青年(遊郭の女性?)の姿だった。

信州の「蝶」を囲んだ、少女の その行為は、母親へ見せようとした行為は、「わたし も蝶のように、お母様へ囲われたい」という伝わらないアピールだろう。

昭和の時代性に溢れた作品だった。

事件を扱い、探偵が登場した。

一つ、違和感だったのは、ラストの段階で戦後昭和のニュース音声が流れた点にある。
他の隣家から閉ざされた大邸宅のなかで、「蝶」をテーマとする事件が 起こり、物語としても密室性は高いはずだ。
戦後昭和のニュース音声は、逆に作品の持つ密室性を より高め、新聞に描かれる社会とは違った時代性を教えてくれる。

それは、「戦後復興」を喧伝する報じ方をした当時の新聞•ラジオの虚像も また同じだ。



















火消しや

火消しや

外組

Geki地下Liberty(東京都)

2010/11/30 (火) ~ 2010/12/05 (日)公演終了

『爆華や』に ついて



「三千人 来場しなければ、解散します」

浅草の地で彼らが公言した“目標”は、東京スカイツリーの建設より非現実のように思えた。

今でこそ、水族館やプラネタリウムなどの施設が集まる東京スカイツリーは この国の新しい名所として広まっている。

だが、360m超の白い巨塔の建設着工前はというと、地元の人でさえ見上げる姿を考えることは なかった。

隅田川付近の空き地は殺伐とし、築数十年の民家や商店が建ち並ぶ場所である。
隅田川•川岸の雑草をむしり取る高齢者に、地上デジタル放送を理解させられない。その現象と同じだろう。

この劇団が「三千人 来場しなければ、解散します」を言った時、私たちは草むしりの老人だった。


彼らには、厳格なルールが 存在する。

「6人以内で、男だけで、全ての役を演じ切る」という 鉄則だ。


なるほど。汗臭く、蒸気さえ噴出する 舞台は、鉄則のためであったわけか。


花火職人の町•江戸で、「鍵屋」と「玉屋」の二大のれん組が あった。
今作は、「鍵屋」で働く職人連中の蒸気ほとばしるドラマ、そして「吉原」も 顔を出すエンターテイメント性で成り立つ舞台だ。

序盤では、狭い作業場から生まれる江戸職人の一体感。

吉原では、踊り等、エンターテイメント性が発揮された。

そうした、時代劇の持つ 暮し目線 の 「騒動記」といえなくもない日常の後、私たちは“職人”を賭けた 戦いを目撃することになる。


「鍵屋」の「暖簾分け」に際して、職人達のなかで誰が最も大きな花火を打ち上げ、巨輪を夜空に咲かせることが できるのか。
あの日本相撲協会が消し去りたい、花火版の技量会開催である。
審査を経た後、徳川将軍の眼前でカラフルな火花(ひばな)を散らせば、江戸の勲章ものだろう。

技量会は、中堅職人の一騎打ち、その一人の弟にあたる新入り職人は相手にもされなかった。


結果は 果たして。


江戸職人達の、文字通り湯気の立つ世界。そして、「人の弱さ」も、しっかり描く。


ラスト打ち上げた花火は、アサヒビールの本社さえ揺れてしまいそうな、壮大な数十発だった。本物の火薬を使い、劇場を燃やしたわけではない。
だから、オープニングで打ち上げたとしても、アサヒビール本社は微動だにしなかったはずである。


そこに至る職人達の汗へ、私たちは見惚れたのだから。


「三千人来場しなければ、解散します」

当日昼公演の段階で、まだ不明確な数字だった。


今現在、この劇団は存在している。



























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