少女の「足音」が、「蝶」の舞いに聴こえた
戦中•戦後の大邸宅で、「蝶」が舞い飛び、食卓に採れたての「ブドウ」を味わう。
周りの隣家は焼け野原、「ブドウ」など育てる土地さえ確保できぬなか、この大邸宅では それを陶器の専用皿へ置き、瑞々しさを得る。
開場中に印象的なことがあったとすれば、薄暗い室内に 座った制服姿の少女である。
高級チェアーへ腰かけ、分厚い書物を読み、そして時折、観客の方へ眼差しを向けた。
30分間以上も邸宅の隅にいる彼女こそ、この作品の主人公か、もしくは重要な人物だろうと、誰しも思った。
だが、彼女の眼差しを接する機会は ほとんどなく、「足音」が中心だった。
私は、今作の題名『蝶を夢る』を再び紹介したい。
写真プリントされた公演チケットには、母親=主人公が娘=制服姿の少女を抱き締める姿が あった。
公演中、何度も劇場へ響かせた“音”は「ドタバタ ドタバタ」という足音だった。当然 それは、邸宅を走り回った少女が発信源である。
この足音を よく聴いたら、「蝶」の舞う 「ヒラヒラ 」と似ているかもしれない。
台所へ行くのか、部屋に行くのか、食卓に行くのか…。
まるで「蝶」が どこへ飛ぶのか判別できぬように、その「足音」は邸宅をヒラヒラ舞うのだ。
公演チケットの母娘の姿、それはか弱い「蝶」を手に囲う昆虫青年(遊郭の女性?)の姿だった。
信州の「蝶」を囲んだ、少女の その行為は、母親へ見せようとした行為は、「わたし も蝶のように、お母様へ囲われたい」という伝わらないアピールだろう。
昭和の時代性に溢れた作品だった。
事件を扱い、探偵が登場した。
一つ、違和感だったのは、ラストの段階で戦後昭和のニュース音声が流れた点にある。
他の隣家から閉ざされた大邸宅のなかで、「蝶」をテーマとする事件が 起こり、物語としても密室性は高いはずだ。
戦後昭和のニュース音声は、逆に作品の持つ密室性を より高め、新聞に描かれる社会とは違った時代性を教えてくれる。
それは、「戦後復興」を喧伝する報じ方をした当時の新聞•ラジオの虚像も また同じだ。