どこまでも、どこまでも、「男目線」だった
それは、アングラの駐車場にしか咲くことのできない、可憐な踊子達だった。
太平洋戦中の、「国家」が蜘蛛の巣のように人間関係を窮屈にした時代性。
あるいは、敗戦後の、「国家」の網の目から脱した後に込み上がった「騙された」の感情。
舞台の構成からいえば、前半で後者の感情を扱い、後半で前者の関係性を扱ったということになる。
何と ややこしいのか。
普通、先に戦中の話を進めて、それが戦後へつながる方が分かりやすい。
ところが、この舞台は敗戦日本で営業中のCLUB周辺に出没する故人を掘り下げなければならないため、戦中日本(大陸中国)の話を繰り広げる構成を取った。
これは、アングラからの、戦中日本からの、反戦メッセージかもしれない。
エロティシズムを理解する舞台を、多くの観客は待望している。
現実の状況でいえば、若手劇団はエロティシズムを避け、それをもって「普遍性」だと考えたいようだ。
歌や踊りのパフォーマンスは、評判のほどエロティックでは なかった。
過激さ を述べたいわけじゃない。
私が述べたいことは、肝心の演技の部分で、身体から沸き上がったエロティックな感覚である。
戦中日本(大陸中国)、あるいは敗戦日本でしか描けない、荒廃した中の「匂い」「駆け引き」は現代の私たちからすれば、気品溢れる姿だった。
ところが、虫眼鏡で じっくり観察する舞台とも 100m離れた位置に あった。
テンポの早い、F1のサーキット並み の展開を 一部 見受けたのだ。
エロティシズムが、高速で現れる。
それこそ、鉄則のエンターテイメントなのだろう。