ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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私は世界

私は世界

ワンツーワークス

赤坂RED/THEATER(東京都)

2018/07/20 (金) ~ 2018/07/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

 台風の中を押して出掛けても損の無い作品であるどころか、得をした気持ちになって帰ることが出来よう。(必見華5つ☆)裏バージョン追加2018.7.28

ネタバレBOX

シリア内戦を、経験する中で、其処に我々と同じように暮らし、生き、喜び、哀しむ人々が、矢張り居るという当たり前のことを当たり前のこととして評価する目を持ち、共に明日を見たいと望む隣人として武器を持たぬ弱い人々の傍らに立ち、彼らの日常とそれらを恐怖のどん底に落とした内戦の実態を世界中の同胞に伝え、悲惨を1日も早く終わらせる“夢”を少しでも現実化すべく、命を懸け現地情報を送り届けようと健闘していた日本人フリージャーナリストが反政府勢力に捕縛された。例によって自己責任バッシングが巻き起こった。現在も彼は拘束されたままだ。実は、今作のモデルは知り合いである。だから、固唾を呑んで拝見していた。多くのことが、他のフリーのジャーナリストから訊いた話と符号し、リアリティーが増々高まる中で観劇させて頂いた。モデルになった男は、実に優しい極めて使命感の強い勇気のある男である。実際、本当に報じられねばならないような現場に行くのはフリージャーナリストである。それは、大手メディアに属するジャーナリストは今作に描かれたような事情を抱えると同時に他にも組織から現地派遣を指せないような力が働くからである。
一方、今作の素晴らしい点は、それこそ、貧しさからネットカフェ難民化しかねないほど貧しい若者の実態を、現代日本の嘘と詭弁及び人間性無視の企業論理と国策を細かくはあげつらわず非力の象徴として提示、訳の分からない力によって解体され単一の細胞の総体として己の存在領域と世界との接線をトータライズして峻別し、以て外界と内を峻別する機会を失ったザインとして自己規定する若者の境界域の曖昧さから世界認識への広がりの可能性を導き出し、それを解釈の違いとしてジャーナリストが世界により深く関与する共通項に纏め上げた筆者の力と想像力である。こんな言い方が分かり難い方は、是非、作品を観て欲しい。

以下 追加(裏バージョン)
 2つの対象に対する、自己責任云々。対象の1つはフリーのジャーナリスト。もう一つは、貧しい若者だ。丁度イラク戦争という愚挙が敢行された2003年以降、アメリカの愚挙に諸手を上げて賛成、軍隊をイラクに派遣した小泉らの愚行は、それまで日本人に対して絶対的な信頼を寄せてきた中東の雰囲気を大きく変えた。その結果、イラクの子供を中心に人道支援をしていた女性、イラク戦に疑問を感じた若者、そしてフリーのカメラマンらが現地で人質に取られた。彼らを救出する為に税金を使うのか? と焚きつけられた日本人の多くが、国策によって流されたプロパガンダに乗っかって自己責任という名のバッシングを繰り返した。何とかの一つ覚えで叫び出したこの時がきっかけだったのだろう。以後、現在でもこの言葉と、日本人個々の真っ当な倫理が欠如した態度をカムフラージュする便利なアイテムとしてこの単語が重用されている。要は、食物連鎖最上位に位置する人間という概念を持たず、その責任を自覚することも無いまま、即ち人間性という概念を自分達の力では決して造り上げることもできなければ、保守もしてこなかった剽窃家日本人の本性が見苦しいまでに繰り返されたことを思い出す方も多かろう。自己責任バッシングの酷かったこと。この現象を傍目からみれば、自分の頭を使って物を考える習慣を持つ人々から如何に奇妙に見えるかは想像に難くないのだが、殆どの日本人に分からない。何故なら自分自身の置かれ育った環境を相対化して見る目を持たないからだ。このことは、思考の範囲と限界を明確に定めてしまう。即ち自分の育ってきた状況と自己存在の関わりを自然なものとして己の根拠にしてしまうという極めて幼稚な過ちを犯すのである。無論、総ての意識的存在にとって己が体験して来た“自己という存在と世界との関係”は極めて自然なものとして初期の自己形成の中心となる。然し思春期をキチンと生き、己を深く穿った者には、この段階から抜け出ていないことは極めてプリミティブであるのも事実だ。今作で自己責任を追及される側の代表として描かれるフリージャーナリストと貧しい若者が、深く自分を穿つことによって、自己という存在を成り立たせているものが、如何に幽けきものであるかを発見した後、己の境と世界の接線に於ける境界領域の曖昧さに気付き、互いの解釈は異なるものの世界と己の相互嵌入を通して通じ合っているのは、双方がこの第1次自己同一性の自然発生性を対象化している所からくる。少なくとも現代日本で大人である資格の一つが、このイニシエーションを己の力で乗り越えて来たか否かに掛かっているということこそ、真っ当な己の世界に対する責任なのである。だから、例え、このレベルに達していない人を見つけたとして、他人がとやかく言うべき事柄ではなく、やんわり諭すか、乗り越えるヒントを与え、実践の場を用意してやるくらいが関の山であってバッシングするなど、己の恥と知るべきなのである。
 が、このように考え得る暇も与えないのが日本社会の特性である。つまり自分が無いのだ。他人の眼ばかり気に掛けアリバイ作りに汲々とするあまり、肝心肝要なことをなおざりにし、恬として恥じない恥知らず。これが日本人の正体である。何と非人間的な人種であろうか? 
散ッと舌を突く凍えそうな毒夢

散ッと舌を突く凍えそうな毒夢

劇弾☆ムーチョ・モーヂョ

吉祥寺シアター(東京都)

2018/07/26 (木) ~ 2018/07/29 (日)公演終了

満足度★★★★

 かなりアイロニカルな作品だ。

ネタバレBOX

初めから最後まで最も冷静に事態の成り行きを見つめ続けているのは、檻の中で暮らすクズ子だし、クズ子がクズであるのは、無能の為ではないことは明らかである。彼女がクズとして己を認識し、且つ最底辺から世の中を見ているのは単に彼女が国家という近代以降の幻想にケツを捲り反逆しているからに過ぎない。一方、エリートとされる者らは、国家幻想に踊らされている事にも気付かぬ愚物である。先ずはこの前提から入らないとおかしな話になってしまうであろう。
 物語が展開するのは、かつて刑務所だった建物を現医院長が改装させ、今では精神病院として用いている建物の中である。この建物は現在ドドイツ軍とカルタ軍の戦闘が行われている最前線に位置しているので、年中、銃砲撃や戦闘機・爆撃機の飛翔音、爆弾の炸裂する音等が聞こえてくる。
 近代戦であるから、戦争の大義が問われる。戦争の発端にもこの論理は当然働くが、人口に膾炙しているのとは異なる事実がこの戦争にはあった模様だ。今作は、この事件を巡る因縁話でもあるが、無論総ての戦争に通じる部分も多い。各キャラクターの名は、その役割を象徴するものが多いのも今作の特徴だ。クズ子以外で冷静な視点を保っているのが、シンクである。彼女は、この戦争の真の発端となったと言われる大虐殺の唯一の生き残りとして描かれる。
 物語は、ドドイツ国の捕虜が、収容施設不足でこの精神病院に収容されたことから、急展開し、有為転変があるのだが、要は、戦争を遂行する軍人の論理と。感受性が鋭かったり精神の受忍限度を超えるような体験をして通常の精神の働きを逸してしまった者達の論理との対決である。どちらの論理が正しいとされるかは観てのお楽しみだが、精神病院から解放された後、将軍となったレッドが休戦協定を結んだにも拘わらず、1年後には、戦争遂行勢力の力が強まり、結局、レッドは、また病院に戻ってくるというラストに集約されている。このラストでどちらが正解かは、お分かりだろう。そしてヒトという生き物の愚かさも。
九月、東京の路上で

九月、東京の路上で

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2018/07/21 (土) ~ 2018/08/05 (日)公演終了

満足度★★★★★

 1923年9月1日11時58分、関東大震災が日本を襲った。

ネタバレBOX

その日は風が強く、而も昼食の準備などで火を用いていた家庭も多かった為、地震による災害のみならず、燃え広がる大火災によって被害が拡大したことは知られる通りである。この震災及び大火災のパニックの中で、デマが飛び交い、軍、警察までがこれを信じ行動を起こすと共に後ポダムの暗号名を持ちCIAエージェントとして暗躍した正力松太郎(当時は内務官僚、特高などを動かした)らが出した指令により、多くの朝鮮人、中国人らが虐殺の憂き目を見た。(後日、これが過ちだと気付いた正力は、訂正した指令を出すが、既に広まったデマの猛威を払拭することは適わず虐殺は震災後数日に亘って実行された、この混乱に乗じて労働運動に関わった者らも政治的に殺害されている)殺害に加わった者達に軍人、警察官らが居たことは無論であるが、組織された自警団のメンバーら一般市民も数多く関与していた。この事実を揉み消そうとする輩は、今も大勢存在するし、当時から、事実を矮小化し、抹消、改竄、隠蔽しようという動きはあった。
 今作は、加藤 直樹氏の原作を手に、虐殺事件があった場所を訪ない、現在と往時とを繋ぎ掘り下げ連結する試みである。日本という「国」が、近代以降歩んできた道の検証作業であると同時に、日本及び日本人が持つ傾向についての、虐殺された方々への追悼の行脚を通しての掘り起し作業でもある。今作によって明らかにされる日本及び日本人の持つ傾向は、当に現在我々が日々経験しつつあることに他ならないという事実が、ひしひしと迫ってくる作品であるが、でああるが故に、この手の作品を避ける傾向が見受けられるのも事実である。戦前を生きた方々の多くが、かつて歩いた道と現代がそっくりだとの警告を何度も発している通りなのだということを実感させてくれる必見の作品である。このような作品を、今、この国で上演するこの劇団の勇気と真摯な姿勢を改めて称賛したい。
斜陽

斜陽

犬大丈夫

新宿眼科画廊(東京都)

2018/07/20 (金) ~ 2018/07/24 (火)公演終了

満足度★★★★★

 お見事!(華5つ☆)

ネタバレBOX

 新宿眼科画廊をこういう具合に使った劇団を初めて観た。この小屋での公演は都合、20回以上観ているのだが、この使い方は新鮮。小屋出入り口部分は、スタッフがライティングや音響スペースとして用い奥半分程が劇空間だ。突き当りと左側壁に沿って天井から半分透けるような布が垂れ下がったり、天上に向けて一端を持ち上げられて緩やかなカーブを描いていたり、これらは、各登場人物の住まいや部屋を表しており、最もスタッフエリアに近い所は、小説家の家、ここには布に簾が2枚取り付けられており、床上には茣蓙が敷かれている。茣蓙の周りには、ウィスキーなどの瓶。その先は、母の部屋、季節の花の鉢植えなどがたくさん置いてある。その奥コーナー部分が直治の部屋で書物が山積みにされている。その隣客席側に直進した場所が姉の部屋、花やノートに小机が見える。
 開演前から終演までずっと木枯らしが吹きすさぶ音が流れ続けている、これは今作の描く直治の心に吹くdépaysementの嵐の音だろう。同時に小説家に恋し、彼の子を孕む姉の覚悟し、生き抜いてゆく世間の人情を表してもいよう。
 ところで、ピッタリ150分の作品の中で姉の話す科白は大変な量なのだが、如何に若いとはいえ、これだけの科白を1カ月ほどの練習で頭に入れているのには驚嘆した。基本的に皆滑舌も良く、しっかり原作を自分に身体化している。スタッフを含め今作に関わっている総ての人が、丁寧に作品を読み込み真正面から作劇していることが伝わってくる舞台である。今後にも期待したい。
 ところで、入り口で太宰を読んだことがあるか否かについてのアンケートが実施されているのだが、読んだことの無い人が2.5倍以上居たのには驚くと同時に大きなショックを受けた。若い人達の読書離れがこれほどとは!
百華妖乱

百華妖乱

ジョーカーハウス

シアターKASSAI【閉館】(東京都)

2018/07/19 (木) ~ 2018/07/22 (日)公演終了

満足度★★★★

 作中に登場する枢要な人物の多くが口減らしの為に、親に売られた(弥太郎)であったり、鬼、もしくは鬼と人の間に出来た子(仁王丸、半兵衛)だったりと被差別的キャラクターであるのが良い。(華4つ☆)

ネタバレBOX

被差別民は当に時代の大衆の鏡であるから、それも単に硝子の裏に金属(錫や銀)を張って作る底の浅い鏡ではなく、水鏡のように底に不可視の闇や、地獄を抱える鏡である点で、物語の深みを増し、ありきたりの勧善懲悪や陳腐な正義のヒーローものに落ちていない点が良い。
 新選組の描き方も、沖田がえらく残虐だったり、時代の読めないと考えられがちな新選組局長、近藤勇が、時代を秤に掛けていたりと、少しは知的な狡さを持つ大将として描かれている点も興味深い。それに引き替え、実際五稜郭で果てた土方歳三の一貫性を純情、剛毅、明快な人物として描いている点も頗る興味深い。酒呑童子の子という設定の半兵衛に美形の女優を充てその悲劇を美的に昇華しているキャスティング、演出もグー。殺陣も格好良かった。
 エンタメとして楽しめると同時に差別を巡るこちらの人と彼の地の者との対比で観ると頗る興味深い観方ができる。それは、ゴダールの「Here and There」にも通じる視点となり得よう。
デペイズモン

デペイズモン

Toshizoプロデュース

武蔵野芸能劇場 小劇場(東京都)

2018/07/20 (金) ~ 2018/07/21 (土)公演終了

満足度★★★★

 開演前、ずっとジャニスの熱唱が聞こえてくる。

ネタバレBOX

オープニングでは、ボリュームを上げたジャニスの歌声が響く中、劇場舞台よりひと回り小さい平台のセンターに座った男が身の上話を話しかける、ジャニスのラストアルバム、Pearlでは、彼女が歌い終わった後、哄笑するシーンが入ったもの(Mercedes Benz)があるが、あの笑いは、狂気に溶け込んでゆく彼女の姿そのものであったろう。開演時はTrust Meが掛かっていた。彼女の死に様、一所懸命に愛を求めた生き様を思い出す時、そう考えさせるほど、曲が作品にマッチしていた。途中、1度だけ掛かるサティーも当時異端扱いされパリの場末の酒場でピアノを弾いていたサティーの乾いた孤独とアンニュイそして絶望の淵にある自己嘲弄をも表していたのではないか? これも掛かった瞬間、背筋に震えが走った。思えばジャニスもサティーも辛い人生であったろう。
 タイトルはdépaysementから採っているようだ。この言葉は、フランス語で気分転換などの意にも用いられるが、原義としては難民などになって異なった環境・習慣などの中に身を置いた際に否応なく体験する居心地の悪さ、違和感、戸惑いなどを意味する言葉である。今作で描かれている内容を思えば、原義に近いタイトリングと解釈して良かろう。英語にもdepayseには“なじまない”、“居心地が悪い”などの意味がある。劇団サイドの説明ではウィキの説明が用いられているようだが、内容にはそぐわない。
 照明と音楽の用い方が見事である。多重人格性障害(解離性同一性障害)を患った妹を中心とした物語だが、自殺を図った妹の面倒は兄が見、精神科に入院させている。兄妹の実家は祖父から続く医者の家で九州の地元では名家と考えてよい。但し父は酒乱で酔えば母に暴力を揮っていた。兄も酒乱である。そのDVが原因で妻・娘の逃亡先すら知らない。物語の内容は、以上の情報から推理して欲しい。総じて演出の優れた舞台と言えよう。
VAMP JUMPING SUMMER/ ダンパチ16 進

VAMP JUMPING SUMMER/ ダンパチ16 進

ショーGEKI

「劇」小劇場(東京都)

2018/07/19 (木) ~ 2018/07/29 (日)公演終了

満足度★★★★

 “だ”を拝見。ダンパチ16進のダイジェスト版と言った所か。下北を歩いているとやっていたので拝見。無料公演だったので、30分程で終了したものの、肩の凝りがほぐれるような面白い公演であった。

女人嵯峨(にょにんさが)

女人嵯峨(にょにんさが)

劇団俳小特別プロジェクト公演

俳優座劇場(東京都)

2018/07/15 (日) ~ 2018/07/22 (日)公演終了

満足度★★★★

 三筆が活躍した平安初期は、橘氏と藤原氏の最終決戦の時代でもあった。

ネタバレBOX

桓武天皇は既に老い、弟の怨霊に悩まされて病の床にあり、相続問題が持ち上がっていた。どんな独裁制にも言えることだが、頂点に立つ者の資格を血に求める場合、その権力継承基盤の正当性順位は、正室の長男に負わせることが多い。貴族の出世競争に於いても、この頂点からの親疎によるものが大である。同等の近さであれば、あとは権謀術数に長けた即ち政治力に勝る者が権力者として機能する。藤原氏が摂関政治というシステムを作り、幼い頃から天皇を補佐するという形で実権を握っていた事実は、誰でも知る所だ。今作では、この権力闘争に藤原側、橘側各々の女性が関わって肉親の愛憎問題と歴史の生々流転との無常が紡がれる訳だが、為政者の徳によって治世の質が決まると考えられていた当時の世相を示す為に、仮面を被った群衆が登場する。ギリシャ劇で言えばコロスに似たような役割だろうか。だが、この部分が非常に弱い。仮面も韓国の「タルノルム」で用いられるような、泥臭く、如何にも民衆の苦悩や苦境を表したものにすれば良いのに、平板で何らインパクトの無い物を用いているし、演じられる動作などにも重みが無く、表現として浅すぎる。
 また、空海の経文もオープニングで用いられるものは、フレーズを繰り返すだけの単調なものだ。経文は数多くあるハズ。実際に有難い経を唱えているのかも知れないが、演劇的効果を考えこういう点にも注意を払いたい。
 板上は、上手、下手とも側面から各々巾の異なる緞帳を床まで下げて3層に、其の奥には板全体を横切るように赤い平台を階段状に2段重ねてある。更に奥の壁には、連なる山並みが描かれている。この舞台美術を適宜、スモークや照明で効果的に用いていて、照明が見事である。
プロポーズ難民

プロポーズ難民

ピヨピヨレボリューション

吉祥寺シアター(東京都)

2018/07/13 (金) ~ 2018/07/22 (日)公演終了

満足度★★★★

 タイトルセンスの良さに先ず惹かれた。(華4つ☆)Bチームを拝見

ネタバレBOX

日本の文化は“恥の文化”だとの指摘は随分前からあったが、最近では死んでしまった概念だとの指摘もある。だが、根底はそう易々と変わるものではない。だから、日本の女性は、欧米系の男にモテるのだろう。控え目に見られるからである。
一方女性の本質は変わらないから、実際には理想の伴侶を求めて、今作で描かれるようなバトルが日々繰り広げられている。但し上記のような文化的規制が、彼女らの表現をたおやかにみせているのだ。では、恥の文化とは何か? 監視されることを前提に、見られる自分を演じる文化である。従ってダーザインとしての自己が、己の行為・選択に対して決定的な倫理的責任を負い、担ってゆくことが根底にない。何故ならそれは社会から見えない部分であり、一神教的な神に対する人間という主体も形成されて居ないのだから担いようがないと考えるからである。観られる自分を社会の目を基準に考える以上、そこで出来上がる自分は、そう在るよう世間から期待された自分であるより他に無いのだ。登場人物各々の主張は、従って総てダーザインの深みからは出てこない。アルアル、イルイル感覚で鑑賞できるのはその所為である。
無論、エンタメとして、歌と踊りのバランスも良く、楽しめる舞台であることは事実だ。半円形を積み重ねトップに踊り場をあしらった造作が下手側に2つ、上手側に2か所、各々の位置を前後にずらして作られ、その狭間・劇場壁側を大きな平台形式で繋ぎ、天上からは白布を円筒状に巻いた柱が4本垂れ下がっている。歌詞が、この柱に映写されるなどの仕組みも作られており、黄金から赤、黄、白等々様々な衣装も映える。無論、各々の衣装は、登場する女性の性格を代弁するような色調である。更にイベントが、特別であることを示すかのように踊り場へ向かう板上にはレッドカーペットが敷かれているという念の入れ様だ。
内容は、観てのお楽しみ。楽しめることは請け合いである。
夏の夜の夢

夏の夜の夢

mild×mild

新宿スターフィールド(東京都)

2018/07/11 (水) ~ 2018/07/16 (月)公演終了

満足度★★

 舞台上はフラット。但し、劇場客席側の側壁から1.5m程の壁が下手、上手其々から迫り出していて、左右は側壁から1.2mほどの所に天井から床上30㎝辺りまでポールが延びている。正面奥はこれが床まで伸びている。他は完全にフラットだが、箱馬が置かれている程度だ。

ネタバレBOX

 デッキブラシ3本を用いて床を叩き、箱馬に腰かけた人間がこれを叩いてリズムを刻む中、ダンスが踊られるが、リズム感は悪いし、踊りは下手だし、オープニングでいきなりげんなりさせられ、ギャグもレベルが低いものばかりで、到底ウィットレベルに達していない。科白回しも間の取り方がなっていないから、ホントに滑りまくっているし、雑音にしか聞こえないレベルでデッキブラシや箱馬を打つ音が聞こえる為、総てが破壊されてゆく。こんなにつまらない「夏の夜の夢」は初めて観た。
白浪の彼方に

白浪の彼方に

山本制作所

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2018/07/13 (金) ~ 2018/07/16 (月)公演終了

満足度★★★★

 タイトルに含まれる白波は、無論、泥棒の意味での白浪である。黙阿弥の得意とした「白浪五人男」「三人吉三」などの白浪物を思い出す方も多かろう。「濡れ手に泡のこの百両・・・」と啖呵を切るお嬢吉三の名場面など、悪漢とはいえ、粋で鯔背な風情を感じさせる。

ネタバレBOX



 舞台は、台形を少し変形させた5角形、下手側カーテンの奥はベランダ、手前上手側出捌け袖が玄関に繋がる。部屋中央に座卓と球形に近い形のソファー。下手奥のコーナーには机と椅子。 上手奥の壁際には、大小の書棚が設えられており、正面奥中央にも出捌け口がある。
 冒頭、娘と父との電話の場面。娘が辞表を提出し会社を辞めて仕事探しをしているシーンから物語は始まるが、裁判官の父親は、何の相談もなくいきなり仕事を辞めた娘の行動は早計と判断、ちょっと険悪な空気が流れる。
 暫くすると、ドアホンが鳴り「宅配便配達です」との声、扉を娘が明けると配達人が土足のまま上がり込み、ナイフを取り出すと娘を脅して縛り上げた。動機の分からない娘は、泥棒だと思い、財布や机の引き出しに入っていた金をやるから「出ていってくれ」と頼むが、犯人は、そんなことに興味は無いと言いつつも通帳やキャッシュカード、暗唱番号などを聞き出そうともする。だが、通帳の在り処を教えても犯人は、そんなことに興味は無い、と言い始め彼女の個人的なデータに興味を示したり、彼女に促されて                        自分の生い立ちや人生を話したりしてゆくのだが、それで明らかになったのが彼がこんなことをしでかしたのは、実は派遣でこき使われては捨て去られる半生を通じて人生の意味を削ぎ取られてしまったことへの鬱憤ばらしからであった。その為、犯行の目的は、犯罪を働くことより、自分が働き始めて以降蒙らされてきた不条理を他者に理解して貰うことだと考えられる。娘との電話を介して話をしなければならないとやって来た父が、犯人を説得、かなり上手くこの件を収束させることができるかに見えたものの、アイデンティファイできていない犯人は、自分が少なくとも住居不法侵入をし、娘らを脅迫したことによって自らを犯罪者と規定、アイデンティファイしようとする。裁く側の人間達は回避しようとした争いに再び巻き込まれることになる。父はまたナイフを持った犯人を柔道技で投げナイフを使わせないことには成功するが、体が大きく遥かに若い犯人に首を絞められ8階角部屋のベランダにもつれ込む。大きな音がして父はベランダから落とされた、と観客に思わせるが、犯人は殺人という決定的な罪は冒さず去ってゆく。
犯人が結局、何も盗まず、ネットで予告していた殺人も行わず、初期の目的である己の抱え込まされた不条理を訴えることには何とか成功して終わる点が、今作の救いであろう。
鬼神綾話

鬼神綾話

芸術集団れんこんきすた

studio applause (スタジオアプローズ)(東京都)

2018/07/11 (水) ~ 2018/07/16 (月)公演終了

満足度★★★★★

 「かつて女神だった私へ」(追記7.16:06:40)

ネタバレBOX

 2人芝居の年と銘打って為された公演の再演である。ネパール各地に現在もクマリは存在するが、今作で描かれるのは首都カトマンズの生き神“クマリ”だ。周知のとおりネパールは、世界で唯一国教をヒンドゥーと定めているが、クマリは仏教徒から選ばれる。イスラエル建国以前のエルサレムのように、各宗教、各宗派の融和がこのような形で実践されているということなのかも知れない。
 今作で描かれるのは3歳でカトマンズのクマリに就任しその後9年クマリとして生きた少女の物語である。初演時と異なるのは椅子の背に金で塗られた装飾のものが用いられている点、クマリの化粧、肌の色がより現地の人に近くなっている点、後ろ壁に様々な形、色の布が貼り付けられ、恰も国政の動きや、人の心の移り変わりを表してでもいるかのようである点などである。衣装も少し手を加えた。
 脚本・演出レベルでは、初演よりストーリーテリングにし理解しやすくした点が挙げられる。この点で秀逸だったのが、クマリになる最終試験の最後に幼女が歌を歌うシーンである、初演では現地語の歌詞を1番のラスト迄歌い切ったのだが、今回は、3歳の幼女が両親から離され、クマリとして生きる覚悟と懼れ身悶えるような切なさに歌声は小さくなって途切れることで、見事に幼女の抱えた世界の重さと深さ、それに耐えようとする健気な不安を表象している。奥村千里さんの演出も演技した小松崎めぐみさんの歌唱も素晴らしい。
 ところで自分の知識も少し増したから、この辺りがゾミアの一地域に当たるかも知れないという発想も湧いた。このように考えると、ネパール各地にクマリが存在し、その就任後の扱いが大いに異なることの歴史的、地理的、文化史的、民俗学的等々の説明にはなるかも知れない。調べてみると人々の生活の中には、未だ呪術(黒魔術も白魔術も)が信じられているということも聴く。実際呪術師が居るとのことだ。このような文化的土壌の上にこの話が成り立っているとすると、クマリとネパール政府の調査官との論戦でクマリの用いる論理に普遍的であると同時にどこか超越的、神的要素が在るように感じるのは、不思議なことではないのではないか? 
深い思想を表現しなければならない作品なので、役者の息がぴったり合わないと難しい作品だ。その点で、2本に出演する中川朝子さんの負担は大変なものだったろうが、再々演の時には、今回のように2作交互でやるならば、2作品とも、役者同士の息がキッチリ会うまで練習を重ねるか、1本ずつ上演することが望ましく思われる。
鬼神綾話

鬼神綾話

芸術集団れんこんきすた

studio applause (スタジオアプローズ)(東京都)

2018/07/11 (水) ~ 2018/07/16 (月)公演終了

満足度★★★★★

”鬼啖”必見の舞台だ。(華5つ☆)

ネタバレBOX

 初演もこの会場であったが、洞窟のレイアウトが横になった。縄暖簾が増え、天上から床まで垂れている。上手、下手のみ幅の狭いものが、中段、手前と2段になっており、中央の物が一番奥に丁度、客席側の縄暖簾の間を埋める具合に設えられている。上手のものは、中央と手間を繋ぐ部分がある。これらの縄暖簾は、戒めの縄との因縁をも示し、また、様々な布によって編まれた色合いは、人の心の微妙な綾をも示唆しているかのようである。床にはオオサンショウウオのような敷き物、縁には小石が散らしてある。また、上手縄暖簾の下には岩塊をイメージした造作、その奥にもやや小ぶりの岩塊がある。戯曲家・奥村さんの作品は、下敷きにしている作品があることが多いようだが今作も例外ではない。「日本霊異記」中巻三十三からということである。但し、作品は、近代を経、現代を生きる当に我々の意識そのものをヴィヴィッドに描いているものであり、完全に現代の作品である。
 下手縄暖簾を押し開くように若い尼僧(木村美佐さん)が入ってくる。鬼と恐れられこの洞窟に囚われている者(中川朝子さん)を折伏に来たのだ。若いに似合わず落ち着き、有徳、而も中々に優れた頭脳の持ち主と見える。村人の頼みでやってきたのではあるが、基本的に精神の自由を保つだけの知性と判断力を併せ持った女性(にょしょう)である。彼女の賢さと鬼女の賢さとの壮絶な論戦がみものだ。この弁証法的論理対決は、尼僧の生まれ育ちの良さから無意識に抑圧していた倫理観、即ち社会生活の中で世間的価値観に縛られ、自分では封印していた魂の深い秘密とパセティックで非常識な本性を徐々に明らかにしてゆく。この論理展開の見事さを、キチンと身体化してみせた2人の女優の演技の迫真性がいやがうえにも舞台を盛り上げる。
分別盛りたいっ!

分別盛りたいっ!

ひとりぼっちのみんな

パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』(東京都)

2018/07/11 (水) ~ 2018/07/16 (月)公演終了

満足度★★

 タイトルは、カミーユ・クローデルの作品「分別盛り」から取れれているという。

ネタバレBOX

カミーユは、ロダンの弟子で、詩人ポール・クローデルの姉、ロダンの内縁の妻との三角関係に悩み終には精神を病んで後半生を精神病院で過ごした悲劇の天才彫刻家だ。“分別盛り”は彼女の悲惨な生を象徴するような作品だが、今作、残念ながらこのタイトルに遠く及ばない。オープニングの演出は抜群で期待したのだが、その後の展開は、演劇をどう捉えているのか? 疑問を呈する他ないレベルのものであった。科白は、間を考えているとは思えないし、がなり立てるばかりでは、何も伝わってこない。喧しいだけである。而も、数人以上の人間が同時に異なる科白をがなり立てるシーンも多いから、ストーリーの断片が、無意味な騒音として起こっては消えてゆくだけなのだ。無論、ストーリーが無い訳ではないのだが、構成に確たる中心も戦略・戦術もなく、唯羅列されているだけなので、センチメンタルな戯言が、個々の出演者の現実存在であるエパーヴとしてしか機能しない。結果、ドラマ生じさせ構成する必然性も、それが成立し得ない必然性を描く戦略も無いことが露呈してしまった。各々が楽器を持って演奏する場面などでは、音大出かな? と思わせるような演奏をするのだが、それらが一切有機的に関連していないものだから、演劇作品としては成立していない。先にも述べたように、そのような作品を創るに当たってのアイロニカルな背理の構築も無ければ戦略・戦術も見えないので演劇をどう捉えているのか? という疑問が出てきてしまうのだ。
イノチミジカシ、

イノチミジカシ、

法政大学Ⅰ部演劇研究会

法政大学市ヶ谷キャンパス外濠校舎地下1階多目的2番(東京都)

2018/07/13 (金) ~ 2018/07/16 (月)公演終了

満足度★★★

 蝉は、地上に出ると約1週間の命しかないことは、良く聞く。“閑さや 岩にしみ入る 蝉の声”の句は余りにも有名だが、実際、日本の蝉の鳴く音を、命を限りと聞き、芭蕉の詠んだ通りであることをしみじみ感じるのは自分だけではあるまい。

ネタバレBOX

今作も無論、この命の痛烈な燃焼を背景にしていることは言うまでもない。だが、描かれる本質は人間男女の恋である。脚本レベルでの不備は、アブラゼミではなくミンミンゼミの雌が鳴いていることである。蝉の鳴き声としてミンミンゼミのそれはアブラゼミに比べて弱い。また仮にアイロニーとして用いているのであれば、そのことも脚本中で示した方がベターだろう。生物学的に明らかに間違っていることを如何に舞台と雖も何の仕掛けも無しにそのまま居直って舞台上の虚構と言い張るとすれば、それは稚拙ということになり易い。また、翅を擦り合わせて鳴くということになっているが、コウロギやスズムシではあるまいし、これも間違いである。蝉は服弁という器官を持っている。それも牡だけの話であり、これを震わせ、空洞の腹部で増幅して鳴くのだ。それが求愛行動となるからである。牡がその美声や美しさ、強さで雌を誘惑するのは、鶯、クジャクや雉、ライオンなどを見ても明白である。
 唯、これら様々な欠点を抱えながらもこのシナリオには注目すべき点がある。それは、人間というかなり長い寿命を持つ生き物に置き換えての話であれば、産む性である雌が、牡を選ぶ条件として、牡が生涯自分を愛し続けることを求めてやまない点である。(この辺りの蝉と人間の寿命の長短を無視する発想も荒すぎる、まあ、幼虫の時代も考慮すれば、寿命については説明もつこうが、命の燃焼を1週間で切っている以上これも根拠にはならない)少なくとも人間の女性(物語の論理では雌で通ってしまう)の行動原理は愛という名の下に生涯男性(牡)を縛り続けることである。その目的は、恋の相手を務めたことのある男(牡)なら誰しも経験することだ。だが、一方、牡は何より自由を乞い求める生き物なのである。ここで、男(牡)にとっても大問題なのが、自分の子を産んでくれるのが女(雌)であるという事実である。
 今作で興味深いのが、女性(雌)が男(牡)を選ぶ試金石としてこの問題をぶつけてきていることであり、この一点で実に鋭く、現実的な人間の恋愛に昇華している点なのである。
 欠点は以上で指摘した通り、人間の恋を描いていながら蝉を用いているのに、擬人化が徹底していないというか、蝉と人間を転化する際の仕掛けが好い加減であるということだ。例えば、酔夢譚にするとか、昆虫学者カップルの話にして、その中で蝉を例えに話を展開するとか、やり方は色々あるハズだ。
THE SHOW MUST GO ON !!

THE SHOW MUST GO ON !!

劇団天動虫

ワーサルシアター(東京都)

2018/07/11 (水) ~ 2018/07/16 (月)公演終了

満足度★★★★★

 出雲の阿国は元々“ややこおどり”などを演じながら、諸国を回って居た訳だが、1603年京都は北野天満宮境内で当時流行った傾奇者の風俗を取り入れた“かぶき踊り”を披露して人気を博した。

ネタバレBOX

これが歌舞伎の発祥と謂われる阿国歌舞伎の史実ということだが、今作は、無論このようなことは換骨奪胎している。以下今作についてである。
 先ずは、板上造作から、移動可能な厨子のような函が設えてある。表・裏で若干差がある。片側は襖のように両開きにできる扉がついており、其の奥は人が隠れられるほどの空間を為して反対側に繋がる。反対側は、謂わば屏風のように折り曲げ可能になっている。この表裏を土台ごと動かして適宜使い分ける。時に、小屋の舞台として、時に何らかの建物として。この他、下手客席側と上手側壁際に板から腰の高さ辺り迄上げた小さなスペースを設けてあるが、大道具は以上である。
 作品内容についてはタイトルが示している通り。但し、各々のキャラが演じる内容が謂わば一種の演劇論となっており、その相克として観ることもできる。また瓦版が座に与える影響を書き込むことで、メディアの影響力やメディアリテラシーを考えさせる点でも興味深い脚本になっていると同時に、キャラの各々が為すべきことを最後まで追求する姿勢を示すことによって、人としてのレゾンデートルを示唆し、責任と倫理迄考えさせる作品になっている。エンターテインメントとしての展開も面白い。実際、話がどのように展開するかは観てのお楽しみだ。役者では、瓦版屋(上手い)、六(一所懸命で好感が持てる)、代書屋(味がある)、光悦(ディレッタントとしての意地)を演じた役者さんが気に入った。
ホテル・ミラクル6

ホテル・ミラクル6

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2018/07/05 (木) ~ 2018/07/10 (火)公演終了

満足度★★★★★

 シリーズ6作目となると流石に様々なことにチャレンジしていて、その点を高く評価したい。勇気のある試みだと思うからだし、このような精神が無いと発展が無いと信ずるからだ。(この点を考慮に入れて☆5つ)作品個々の内容については、楽日以降に追記する。追記2018.7.11

ネタバレBOX

 板上、基本的な舞台美術は共通で、作品により、七夕の飾りつけがプラスされる程度だ。脚本は、前説を兼ねた「ホンバンの前に6」を構成・演出と今回は出演もある池田さんが1本。以下本編、上演順に。「ビッチの品格」(劇団人間嫌い)の岩井 美菜子さん、「ホテル・リトル・ミラクル」(Straw&Berry)の小西 耕一さん、「かっこ悪いオトコ(悪)」(あんかけフラミンゴ)の島田 真吾さん、「最後の奇蹟」(劇団肋骨蜜柑同好会)のフジタタイセイさんの4人がそれぞれ執筆している。オムニバス形式の上演だが、各作品、趣味趣向が総て異なりタイプの異なる具材でつくる寄せ鍋とか、コース料理のようで、チャレンジングな精神を示してもおり面白い。各作品の詳細は、楽日以降に書く。
 取り敢えず、舞台の見取りを記しておこう。
客席は舞台を“」”で半分囲う形だ。底辺側から見て、下手壁際が出捌け口、入ってすぐ右側が上半分スモークガラス風になった小スペース。シャワールームなどとして用いられる。室内正面奥に真っ赤な革張りのソファー、下手壁際には、丸テーブルの前後に椅子が1脚ずつつけられ、壁面にハンガーが掛かっている。上手には底辺の客席寄りにWベッド(枕は客の側)その下手には2段になったサイドテーブル。上段には、真っ赤な電話器、下の段には、ランタン風の灯りとティッシュが置いてある。更に下手には、冷蔵庫。以上が舞台の設えだ。
「ビッチの品格」:ラブホで女子会という設定が面白い。まあ、「大枠がラブホだから」を言っちゃ、お終いだが。ところで、実際、男が居ない場所での女子の話というのはかなり愛の行為についての話が多いのも事実だ。未だ北欧に余り日本人の男が出掛けて居なかった時代、日本人というだけで矢鱈、北欧女性にもてた時期がある。これも、実体験のある女性の口コミが原因であった。女性は、1日2万語ほどお喋りするそうだ。対して男は7千語、男3人分を1人で賄う訳だから、噂噺は累乗倍で広まる計算になる。ネズミ算であれだけ凄いのだから推して知るべし。作品では、このような話が中心になる女子会で、では、愛は? の話になるのだが、サシの関係では力関係で負ける女子は、従属的だと認識する場合が多いから、其処に生まれる複合意識が複雑である。結果、愛の形によっては、自らの位置が社会上の通念に於けるズべ、即ちビッチであるか否かで計られることになり、その結果、深く傷ついたりもする。このレベルでは、男も女も思想的な深みを持たないが、そのことの悲喜劇は起きる。
「ホテル・リトル・ミラクル」:正統派演劇としての書き方では、今作と前説を兼ねた「ホンバンの前に6」が最も完成度の高い脚本と言えよう。現実世界と虚構との際立たせ方という点に於いて、極めて意識的であるから観客の知情意が実に微妙なバランスをとりつつ、現実と虚構の間を往還でき、大きな満足を売る事ができるからである。自分が演技で気に入ったのは、従業員、小川役の永橋さん、口寄せの際のパフォーマンスは秀逸! シナリオではラストのどんでん返しが素晴らしい。(眠っていた桃子)が憑代となって地縛霊となっていた女の本名を以て語り掛け、彼女が成仏できるラストに繋げた。伏線も直前に明かされるのだが、それは、口寄せを善意からしてくれる小川に対して偽名を使って偽情婦を伝えており(但し母の名は本名であった所が凄いのだが)世間の世知辛さを観客に納得させるような而もどんでん返しの効果を最大化させるような流れを作り出している。
「かっこ悪い男(悪)」:カオティックな全体の中に個々のカオスが愛というキーワードの下に集結しているのだが、それぞれは愛を発信しながら。総ての愛がチグハグにすれ違う。互いにどうにかしようともがくのだが、いかんせんその方法がパセティックな為に交叉することもなく目的に辿り着くことも無い。その悲喜劇を描く。何故か肉だけがあり、頭脳を欠いた存在のパトス渦巻くカオス。
「最後の奇蹟」:制御できない技術を持った人類が、地球を捨て新たな世界移住計画を立てた。今迄の総てを総浚えして新天地に出向こうと、地球をダメにした当事者、責任者達は、既に避難を終えているが、せめて全生命に対する責任を己の命に代えて果たそうとする者が庶民の中には居た。登場するのは、このプロジェクトに携わってきた下っ端技術者と買われた娼婦である。地球をご破算にする為に、月に強力な爆発物が仕掛けられ、月ごと地球にぶつかりに来ている。ぶつかる直前、死を前にした二人は無意味を十全に知りながら、熱い接吻をする。何とも切ないアイロニーではないか!? 哲学的、社会的には最もメッセージ性も高い作品。
Mの肖像

Mの肖像

劇団ヤリイカの会

パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』(東京都)

2018/07/07 (土) ~ 2018/07/08 (日)公演終了

満足度★★★

 3役を2人で演じる作品。つまり、1人2役を演じる役者が1人居る。(追記2018.7.10 04:00)

ネタバレBOX


 板設定は、マンションと思しき場所。部屋は2部屋。下手の部屋は綺麗に整頓され、机上にノートパソコンを置いた机と椅子がある以外小ざっぱりした部屋、対するに上手の部屋には、バッグとエレキギター、段ボール箱が堆く積まれ雑然としていて対比を為している。整頓された部屋の主はミズキ、だらしない方の住人はムツだ。ムツの部屋の上手は収納スペースになっており、暗幕が掛かっている。手前に脚立が置いてある。また、この部屋の客席から見て正面奥に窓があり、新たに立つマンションの模様が見える。ムツが移ってきて直ぐ、ここには、カーテンが取り付けられた。
 さて、このカーテンレール中程が少し曲がっているのは、先ごろ自殺したエムが縊死する際紐を掛けたからである。
 エムとムツが1人2役で演じられるのだが、衣装替えなどが一切ない為、何か記号が欲しい。鬘をつけてみるとか、画学生だったエムにベレーを被せるとか小道具で表現できる。
 ところで、エムもムツも売り出し中の新進アーティストであった。エムは大学院の画学生、ムツはバンドのボーカル兼リードギタリストという所か、ギターは作曲に使っているだけかもしれないが。何れにせよ、ネット上では評価の高いアーティストとして注目株である。だが、この評判に嫉妬した者が居たらしく、彼女らの実名やプライバシーが晒された上に、誹謗中傷が渦巻く。エムの自殺はこの結果だった。その顛末が書かれた日記をクローゼットの天井裏で発見したムツは、余りに詳しく晒されたエムと自分のプライバシーや日常の描写からネタ元が同居人のミズキではないか? と疑う。彼女がネタ元であるという確証は描かれないが、最後までその疑いが晴れることもない。
 小道具として用いられるエムの自画像は、顔の部分を覆い隠すように洗濯物が描かれ、四囲に目が描かれているが、顔を隠してしまったこと自体逃げだと考える。佐伯祐三が発狂直前に描いた自画像は顔が破裂した特異な作品だが、自分はこの作品が頗るつきで好きである。逃げていないからだ。この点にこそ、彼の天才性を感じる。仮に今作の構図を採るなら、周りの目は、精神のガランドウを示すような空虚を映した目や、夜行性の猫が獲物を闇の中で狙うような表情を描いてもいい。何れにせよ、ネットの匿名性を利用して妬みの対象を自分は安全圏に身を隠しながら潰しに掛かる下司共の心象を描く目であって欲しかった。
 また、2人の才能に嫉妬したのが原因と思われるネット上の誹謗中傷パターンが同質のトーンで描かれているのだが、2度目のムツの時には、更にそのような恐怖が観客に迫るような音響効果を用いることも考えたい。
 欲を言えば、尺は伸びるであろうがミズキがエムの自殺にも、ムツの暴露にも案外平然としていることの理由をもっと描き込んで欲しかった。つまり単に優等生としてのエリート意識でアーティストという不安定な道を選んだ二人を対象化して見るのではなく、人としての不自然を納得させるだけの彼女の抱える心の闇も描いて欲しかったのだ。
ミッドナイトフラワートレイン

ミッドナイトフラワートレイン

朝倉薫演劇団

中野スタジオあくとれ(東京都)

2018/07/05 (木) ~ 2018/07/08 (日)公演終了

満足度★★★★

 板上は中央に畳敷きの4畳半、(華4つ☆)

ネタバレBOX

小さな卓袱台とポット、卓上には湯飲み、上手に横長の鏡を嵌め込んだ化粧台と座布団、下手に畳んだ布団と座布団が重ねられ、手前には照明器具が置いてある。奥には舞台衣装を吊るした移動式ハンガー。その上手を斜めに切るように女のバストアップを描いた浮世絵をあしらった長い暖簾が垂れている。暖簾の奥は、袖、出捌け口を兼ねると同時にストリップ小屋の舞台という設定だ。
 物語は、別府にあるストリップ小屋の楽屋で繰り広げられる。今、この劇場の舞台でトップを張る踊り子は、弁天、花電車という芸で日本一を誇る踊り子で実年齢29歳3か月、あろうことか男に騙されるか、結婚に失敗して流れ着く女性が多いこの業界で真実ヴァージンをウリにしている美人ダンサーである。今日はこの彼女の公演の楽日だ。そこへ次の公演に出演するダンサー達が、マネージャーの手違いで1日早く到着してしまった。踊り子は4人だが、1人は未着である。というのも、公演で移動する度、車内で知り合ったおじさんとしけ込む悪い癖が出てしまったのである。可愛いのだが、ちょっとお頭が弱い子なので付け込まれてしまうのであった。時折未だにニュースなどで報じられることもあるこういった女性の被害は実際に起こり得ようし、起っているだろう。力では男性に対抗できない女性が、この魔手から逃れることは容易であるハズが無い。そんなジェンダー問題も垣間見える。
 ところで日本では、このような女性が「転落」をしてもそれを転落させた側の男に責任を取らせることは往々にしてなかった。ジェンダー意識が低いこと自体が問題なのに今でも自民党議員などには、こんなことすら分かっていないアホが多いのが実情であるから、ストリッパーと名がつけば、どこか色眼鏡を掛け、隠花植物のように見るのが多くの日本人である。然しながら、この偏見を覆してみせるように、命賭けで芸をしている弁天は、天鈿女命の故事を持ち出す。例のスサノオがアマテラスの機織りをしている所へ天斑馬の河を剥いで投げ込んだ為、アマテラスは大いに怒ってアマノイワトに隠れた、とされる古事記の記述を思い出してもらいたい。
このシーンは、弁天を慕う地元組長の二代目に追い回され、ヴァージンを護る代わりにヤッパを抜いた彼の愛が本当なら刺しても良い、と覚悟の程を見せた彼女が刺され、小屋が営業停止に追い込まれることを防ぐ為に命の危険も顧みず、最後のステージを終え、休んでいる楽屋で熱に浮かされる幻影の中で明らかになるシーンの一つなのだが、親友でライバルでもあった元ローザンヌ国際バレーコンクールを目指したマッキーとの深い関わりと共に今作のハイライトを為し、同期のダンススクールプリマ候補No,1 を競った2人の輝かしい少女時代の夢の再現でもある。この時舞われる「白鳥の湖」が実に美しい。(弁天役の役者さんが踊るのだが、感動的である、このダンスを見るだけでもこの公演を見る価値はあろう)
 序盤、作家の深い意は伝わるものの、やや平板な展開は古希を迎えた作家さんの自然かも知れないが、できれば、導入部はとてもよいので、その後、何か観客を驚かすような仕掛けを作って一気に舞台にのめり込ませるおうな工夫が欲しい。
年上の方に生意気を言って申し訳ありませんが、破急は、現在のままで繋げばよいでしょう。中盤以降入り込めた作品なので、一工夫お願いします。
 役者さんたち、楽まで突っ走って下さい!
甘い丘

甘い丘

えにし

ザ・ポケット(東京都)

2018/07/04 (水) ~ 2018/07/08 (日)公演終了

満足度★★★

 少し人里離れた所にあるサンダル工場。近隣から余り評判が良くない。

ネタバレBOX

無論、ゴムの臭気の問題もある。だが人々の非難は、そればかりではなかった。そこで働く人達が胡散臭いと考えていたのである。ムショ帰り、ズーミ上がり、低能、ヤサグレ、凶状持ち等々胡散臭い連中が集まっていると考えられていたのである。
 だが、このコンセプトの割には、各キャラの描き方に余り突出した所はなく、結果として平板である。取り立てて主人公と呼べる人物を設定してもいないので群像劇と看做すべきなのだろうが、それにしては描かれた各々のキャラが平板であるし、その極めて普通の人々にレッテル貼りをして差別する側との痛烈な対決は殆ど描かれないので、ドラマツルギーが成立し得ない。
 舞台美術はかなり作り込んであるのに遠景に見える山々の連なりはベニヤに茶色をつけただけで、舞台の幅より狭い物だから裏に何も無いのがバレバレという“みむめも”状態。画竜点睛を欠くとはこの事だ。
 脚本をもっとしっかり練り、舞台美術に凝るなら凝るで肝心な所を締めなければいけない。演出家はこういった点にも目を配るべきであろう。因みに群像劇を作るならゾミア*などについても調べてみると良いかも知れない。人間集団の各々の境界、領域などの問題を含め、所謂「蛮族」と呼称されてきた人々の生活形態、生き方そのものの持つ差異を根本的な所から気付かせてくれるであろう。その視座は我ら自身を見直す便にもなり得る。
*ゾミアについて、簡単な説明は以下を参照のことhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%9F%E3%82%A2

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