ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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アポリア

アポリア

劇団新和座

要町アトリエ第七秘密基地(東京都)

2013/09/28 (土) ~ 2013/09/29 (日)公演終了

満足度★★★

シナリオをしっかり
 毎回決めたテーマに沿った作品作りをしている劇団のようだが、今作は内容的に推理物に入るだろう。だとすると、場面と状況の設定が甘い。

ネタバレBOX

 常識的に考えて人が死ぬような事故、事件が起きた場合、直ぐ警察に連絡するだろう。それが、叶わない状況である場合は別だが。警察に連絡しないなら、密室的状況を設定すべきである。プロデューサーのメンタルな問題やその場の雰囲気だけですべきことをしないのは、劇作の原点、論理的に組み立てる、に反する。推理物であれば尚更だ。また、劇中何件もの殺人事件が起こるが、照明の落下にせよ、鋏で刺すシーンにせよ、カッターで刺すシーンにせよ、あの程度では、人は死なない。その辺りのリアリティーを考えない演出は安易と言われても仕方あるまい。百歩譲って照明器具の場合、当たり所が悪かった、ということは可能かも知れないが、小劇場の小さな照明が落ちた位なら怪我はしても大抵助かる。
 また、事件・殺人現場の証拠などをキチンと保存しない演出になっているのは犯人が証拠を消す為であるのは分かるが、推理劇としては、これだけで安っぽくなってしまう。何故なら、劇中、犯人以外の誰かが、その挙動に不信感を持つのが、自然だろうから。兎に角、シナリオが荒い。
 キャスティングにもミスを感じた。役作りである程度のレベルに達していたのが、薮崎 あずみ、ラストシーンでの梨沢 千晴。キャスティングミスもあって、他の役者は、存在感が薄い。シナリオの書き方についても、理想を言えば、劇作家は登場人物の各々がキチンと役柄によって立ち上がってくるように書くべきである。テーマのコンセプトに強引に合わせるのではなく。科白が生きていれば自ずとテーマは浮き上がってくるものだ。
悪夢六号室【東京大阪2都市開催】

悪夢六号室【東京大阪2都市開催】

ニコルソンズ

駅前劇場(東京都)

2013/09/27 (金) ~ 2013/09/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

上手い
 銀座の老舗和菓子屋の御曹司、敬助は、誘拐され海辺の寂れたモーテルに監禁された。犯人は、殺し屋。依頼人は何と彼の妻、鮎子であった。(追記2013.10.1 )

ネタバレBOX

 舅にいびられ、夫に浮気をされ、男運も無いと感じた彼女の復讐というわけだ。而も、殺し屋は二人。一平は、男性器を切ることを依頼され、三郎は、尻を銃で撃つことを依頼されている。おまけに殺し屋たちは、ホモセクシュアルのタチとネコ。銃弾は、特殊な細工のされた強力なもの。撃たれれば命は、無い。殺してしまっては、敬介の人生を台無しにする依頼が果たせないと一平、殺し屋たちも敬助の話を聞き、何故、鮎子は、二人も雇ったのか? 何故、別々の依頼をしたのか? を探ろうとする。敬助の話から浮かび上がるのは。
 自分は、よんどころない事情があって開演から30分ほど遅れたので不備な点があるかも知れない。悪しからず。
 そもそも、寂れたモーテルの6号室は、誰が取ったのか? 鮎子か? それとも誘拐犯が偶々ということか? 何れにせよ6という数字はキリスト教神学の神秘主義では、特殊な意味を持つ。神が世界を作った日数は6日、その約数は総て素数であり、それを総て足せば6、乗じても6、逆もまた成立する。以上のような理由から完璧を表す。そして、時にサタンを意味するのだ。映画オーメンでダミアンの生まれが6月6日6時であることを思い出して欲しい。これはキリスト教の古い形で三倍のサタンを表す。宗教原理に則った中世キリスト教世界では、星は、人の性格決定の要因とされ、占星術が大きな意味を持っていたことも同時に考えるべきなのである。
 まあ、こんな深読みも可能な部屋に監禁されていたのだが、ここには、様々な人物が訪ねてくる。先ず、被害者の母、ピン子である。ピン子がどう監禁場所を知ったかと言えば、生まれたての敬助の背中にGPS発信装置を埋め込んだからである。セレブの当然の用意、と澄ましている。おまけに彼女は監禁された息子に「お腹がすいたら食べなさい」と新製品の和菓子を渡した。これは後ほど分かるのだが、肝心な所で母親の科白が重大な意味を持つ為の伏線になる。というのも、この中に盗聴器を仕込んであって、母親が部屋から返された後も彼らの一挙手一投足は、総て知られていたのである。
敬助の浮気相手は、鮎子の幼馴染で親友のミカ、彼女は玉の輿に乗ろうと敬助を狙い、つわりの素振りを見せ妊娠していると脅迫。そこへ敬助の母ピン子が「それはあり得ない」と戻って来る。鮎子との結婚に反対であった彼女は、息子の知らない間に全身麻酔を掛けパイプカット手術を施したことを告げる。では、ミカのお腹に居るのは? 何と高校時代の恩師、山下先生の子であった。
 一方、鮎子もまた「浮気」をしている。相手は、ヤクザの幹部、城島という男で他の組の組員からは鬼と恐れられる大物である。偶々、組長の息子が襲撃された時に彼を庇って尻に銃弾を受け、それがもとでインポテンツになっていたが、鮎子に遭ってそれが、治る。城島と鮎子が知り合うきっかけを作ったのは、城島の愛人、琴音。テニスをやった後、鮎子を気に入った琴音は城島ともども、レストランやカラオケに連れて行くが、ちょっと席を外した隙に、ハグする二人を発見。城島と鮎子に問い詰めた際、城島は、その局部を無言で触らせた。琴音は、女のプライドをズタズタにされる。
 而も、城島と鮎子との間に性的な関係は無い。もっと深い精神の繋がりがあるばかりである。鮎子は、城島に存在意義を認められてアイデンティファイすることができ、城島は、普段の強面を解いて素の自分を晒せる相手として鮎子を評したのである。
 母と子に関しても、未だ語るべきことがある。息子の知らない内に子供を作る術を奪われ、敬助は激怒、母親の首を締めて殺そうとする。回りに居た総ての人間が止めに入るが、さしもの城島でさえ、止めることができない。そこへ入って来た鮎子。敬助を抱きしめると、敬助の腕に込められていた力は緩み、母は、すんでの所で死を免れた。彼女は決めたのだ。どんあことがあっても世界を抱きしめる、と。それに、彼女には今日良いことがあった。妹に娘が生まれたのである。妹夫婦もやって来た。出生届けは出したものの、鮎子に名付け親になって貰おうと、未だ、名前をつけていなかったからだ。鮎子は、一応、マドンナという候補名を挙げるが、その正式な権利をピン子に譲る。ピン子は相変わらず、表面上は醒めた態度をとっているが、マドンナの英語名、マリアを提案。これが、娘の名になった。
 一時、其々の誤解や思い込みの為に、各々が自らの地獄を覘き見ることになるが、最後には、総てが丸く収まった。更に登場人物其々の後日譚を加えて大団円を迎える。
棒になった男

棒になった男

笛井事務所

明石スタジオ(東京都)

2013/09/26 (木) ~ 2013/09/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

味わい
 それぞれの作品毎にテーマが異なり、表現の手法も異なる所が、いかにも公房らしい。これらの作品をソフィスティケイトされた演出と、俳優術で観せてくれる。若手とはいえ、役者陣のレベルも納得のゆくものである。自分は、鞄に出演した埜本 幸良の演技が特に気に入った。(追記後送)

「伽羅倶璃」-カラクリ-

「伽羅倶璃」-カラクリ-

護送撃団方式

王子小劇場(東京都)

2013/09/26 (木) ~ 2013/09/30 (月)公演終了

満足度★★★★

あやかし
 舞台美術のセンスもよく大道具の仕掛けもしっかりしている。メインストリームは「曽根崎心中」の悲恋を、詐欺師のくぐつ、旅芸人の系列だが特異な力を持つ捨て子のうつつに負わせる物語。うつつの力とは、その家系の者に備わった“あやかし”の力だ。(追記2013.9.27)

ネタバレBOX

 さて、江戸で一旗揚げようと乗り込んできた二人は、その目を見ると夢幻の世界を体験できると、くぐつ得意の啖呵でひと儲けしたが、ひょんなことから“いんつけ座”のチンピラと揉め事になっていた所へ、兄貴分達がやって来て、オトシマエを要求され、とどのつまりは、いんつけ座の下働きをさせられることになる。が、この時のいざこざが命のやり取りにならなかったのは、誰かが妖術を使ったからであった。
 その後美形のうつつは、筋も良く、段々、いんつけ座の面々に溶け込んで行くが、くぐつは、飽くまでうつつを操っているのは、自分だと嘯いている。何故それほどの自信があるかと言えば、彼には、実際に起こった心中事件を題材にした傑作、「曽根崎心中」があるからである。然し、自信満々、くぐつのオリジナルであるはずの「曽根崎心中」は既に何年も前に細川座で「伽羅倶璃」の演目として上演され、大当たりをとった作品であった。以来、江戸では伽羅倶璃がもてはやされ、細川座が江戸一番の賑わいを見せていると言う。作者は、戯作。その後新作が待たれるが、現在執筆中らしい。
 ところで、江戸時代に、幕府がお墨付きを与えた江戸の歌舞伎小屋は三か所。それ以外は、公式の芝居小屋では無い為、風俗紊乱などを理由に何時取り締まられるか分からない状態であった。無論、幕府が認めたということは一流の証とされ、格式も高く、其処で演ずることのできる役者は一流とされたわけである。その為、人気は江戸一番とはいえ、お墨付きが欲しい、細川座座長の半蔵、戯作らは、一計を案じる。
 偶々、奉行の堀田は、中々の趣味人で、現在は、生身の人間の芸を売りにする市谷座の看板“太舞楽”を贔屓にしている。この太舞楽に挑む細川座は、お膳立てを整え競技会が開催されることになった。結果は、細川座の伽羅倶璃、張璃子、いんけつ座で踊りを披露するようになっていたうつつが、共に引き分けて幕府からのお墨付きを享受することになった。
 この2人のお陰で、細川座、いんけつ座は賑わうが、伽羅倶璃の見せる夢幻には、阿片が使われていたのではないか、との疑いで動いていた捕り物には、罠に嵌められた市谷座の若座長、秀彦が掛かってしまう。この辺り、無論、曽根崎心中のストーリーが絡んでくるのは、芝居好きなら誰でも分かることだろう。
 これらの筋書きを書いたのは、戯作。自らが心血を注いで作り上げた伽羅倶璃を更に完全な物にする為、うつつの能力を張璃子に移植しようと目論んでうつつを誘拐するが、張璃子は、実は、奉行所の同心、律香の死んだ妹である。戯作は、美しい妹を今で言うサイボーグに作り替え、蘇らせたのであった。だが、律香は、これを許せない。うつつの囚われていた所へ乗り込んだ際、戯作は、張璃子を操って邪魔者を消そうとするが、サイボーグと化した張璃子の中に未だ残っていた人間としての意思が、これを遮り、阿片を用いて大儲けをしていた半蔵、戯作を殺す。そのドサクサに紛れてうつつも救われるのだが、うつつがかどわかされる前、あやかしの力を持つ者は、なぶり殺しに遭わされて死ぬ、という旅芸人達に伝わる話から、うつつの将来を案じたいんつけ座の面々は、当座の生活費をくぐつに渡し、別れるように迫っていたのだった。一時、こんな経緯で江戸を離れたくぐつであったが。宿命は再び、彼らを逢わせる。
 而も、彼らの恋の宿命は、互いに心ひかれ乍ら、詐欺師であるくぐつは、その生業から人の真を信じることができず、あやかしの血を受け継ぐうつつは、愛すれば、愛する程、惚れた相手を惑わしてしまう。うつつは、この宿命から脱出する為、愛するくぐつに自らを殺して貰おうとする。
 当に彼女を殺害しようとした刹那、うつつの血の中から伝説のあやかし、半身は人、半身はカラクリ、そして血はあやかしの伽羅倶璃が現れ、くぐつを殺そうと迫る。操りの束縛を何とか振り切ったうつつは、くぐつを庇って凶刃に倒れるが。
 それも詐欺師、くぐつの書いたシナリオ。総てが仕組まれた仕掛けであった、というオチがつく。
 観客としては、楽しめる作品だが、知的策略が張り巡らされている為、作品に酔うことはできない。だが、作者は何故、このような作品を作ったのか? 自分はそれを以下のように解した。即ち、この作品自体が、演劇に対するメタ演劇なのだと。丁度、ドン・キホーテが、中世の物語に対するメタ物語であったように。つまり、この物語を演劇そのものの、方法論として読み替えてみるのである。劇作家が物語を紡ぎ、役者、演出家など舞台を創る側が、歌舞くという行為によって、観客を幻術にかけ、幻影を見せることで、現実の見方に何らかの変容を齎したり、カタルシスを体験させる。
 幕が下りれば、死んだハズの人間達は、談笑し、酒を酌むという次第だ。
 一点、残念だったのが、三味線の腕である。もう少し、練習して欲しい。
歌いタイツ!

歌いタイツ!

劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)

あうるすぽっと(東京都)

2013/09/25 (水) ~ 2013/09/29 (日)公演終了

満足度★★

TV級
 芸質、ギャグの質、踊りどれをとっても舞台俳優のそれではなく、お茶の間のTVタレントレベルで、志も無ければ、ソフィスティケイションも無い。ギャグの元ネタがTV的で風が吹けば一発で消えうせる代物。偶々、決まったように見える桁外しは、偶然の産物。舞台に立つだけの芸を磨いてほしいものだ。

30才になった少年A

30才になった少年A

アフリカン寺越企画

新宿ゴールデン街劇場(東京都)

2013/09/24 (火) ~ 2013/09/26 (木)公演終了

満足度★★★★★

考えさせられた
 普段、殺人を犯した人間に対するバッシングなどは考えないが、どんな目に遭わされるかが具体的に描かれ考えさせられる。また、年少時に収監されて、陸な教育も受けていないことが貧弱なボキャブラリーで表現されており、悲痛である。その他、幼くして収監された者が、獄内でどのように矯正されて行くかが、整頓癖と他人が散らかすことに対する潔癖な迄の嫌悪感で示すなど、細部のリアリティーを示すことで伝えるべきことをキチンと伝える手法はとても良い。シナリオがしっかりしており、演出も物語の訴えるものに集中させてくれるような演出だ。役者陣の演技、照明・音響なども考えられた、内容にフィットしたものだった。

ネタバレBOX

 一点だけ、最後に、荷物を片付けるシーンに全部の荷物が入るだけの段ボール箱が用意できれば、更にリアリティが増すだろう。
 精神の矯正については、S.キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」での矯正やM.フォアマンの「カッコーの巣の上で」のロボトミー手術の罪を彷彿とさせた。
 また、教育程度の低いこともあって、漫画を書く為に漫画しか持っていない、という過ちや、情報の重要性に気付かない知的退廃、表現することは、思い込みではなくて関係であることに気付かない幼稚さなどと相俟って情報処理能力の低さが、漫画家としての「才能」欠如に繋がっている、と因果関係を明らかにし、突き放して自分を観ることのできない孤立などが、収監時の教育の如何に前近代的なものであるかを類推させ、哀れを誘う。本人が、懸命であるだけに尚更である。日本の監獄教育にルドルフ・シュタイナーのような発想がありさえすれば救われたかも知れないのに。
 保護司についても、キャラを立たせる為に、オーバーに演出していると考えられる点もあるが、肝心な所では、キチンと勘所を押さえ、本質を理解するしっかりして温かい人間性が描かれ、保護司としての人間性、苦労も伝わってくる内容である。
 Aが、隣の部屋の住人と彼女が、喧嘩をした時に、たしなめる科白や、保護司が“遣る瀬無い”ということばの原義を説明する時の科白も素晴らしい。
 実に多くの問題を考えさせる作品だったが、その蛇足的内実は、以下で。
 人を殺すということはどんなことか。我らヒトの罪の中では最も重いとされる罪であるが、戦争でいくら人殺しをして称賛されることはあっても、非難されることは無い。一般的には、無論、殺す対象は敵である。然し、味方であっても、殺害後に敵の間者だったと言えば、矢張り称賛されるだろう(最も単純な形では)。更に言い募るならば、個人の殺人は罪で、国家権力の発動による死刑という殺人は、罪ではない。何れもヒトを殺すと言う意味では同じである。であるのに、何故、評価は正反対になるのか? 後者の場合、国家が、即ち現勢力者が、死刑執行を命じたならば、ヒトの命を奪い取ることは罪にならないとすれば、その根拠とは何か? 疑うべくもなく力の独占と責任の無化である。であるならば、民衆が、国家に対して、或いは、国家の実質を為す時代の要人に対して革命的死を与えることもまた同時に正当化されるべきであろう。革命とは、即ち、命を革めることであり、権力を奪取した暁には、この殺人は当然正当化されるからである。然し、この期に及んで恐れなければならぬ罪があるとすれば、それは、純粋に殺人そのものの罪であろう。
 F1事故では多くの罹災者が自殺を遂げた。“原発さえなかったら”との殴り書きも見付かっている。だが、彼らを自殺に追いやった国、東電の責任ある立場の誰一人として、罪を問われない。一切の罪から免れているのである。彼らは、直接手を下したわけではないが、死に追いやった責任はあるだろう。何故なら、自殺の原因がF1事故とその後の対応のまずさに在るのだから。
 一方、最初から殺人を罪として捉える立場では、上記の矛盾は生じない。論理的帰結から言って、この立場では死刑もあり得ない。
 大分前にTVで「どうして、殺しちゃいけねえんだ?」というような意味の発言が為されたとして、作家、知識人の多くが即答できず話題になったことがあった。自分は、番組を見ておらず、追っ掛けてもいなかったので、詳細は異なる点があろうが、大体、以上のような内容を伝え聞いた記憶がある。即答できなかったのは、無論、誰も自分自身できちんと問題化していなかったからに過ぎない。かく言う自分も、普段、他人を殺すという行為を実践しようとは考えていない。だが、その一線を超えてしまったら。その危険が皆無だなどと、誰に言えよう? この物語は其処から先の話なのである。
 江戸時代、鉄門海上人という偉い坊さんがいた。元々、彼は荒くれ者で有名だったのだが、或る娘と恋仲になってからというもの、一所懸命に仕事をし模範的な生活を送るようになっていた。然し、恋する女が、管轄の武士に目をつけられ危うくなったのを救って、武士を殺してしまった。元々百姓の出であるから、いくら相手に非があるとはいえ打首は、当然という時代であったが、逃げ込んだ寺で得度し、数々の偉業を成し遂げた後、最後は五穀断ち、十穀断ち、木食後、即身成仏した。現在でも、彼のミイラ化した遺体はそのまま残っている。彼が、其処までしたのは、無論、心底、殺人を悔いたからである。親鸞の悪人正機説もこの辺りの事を説いているから深いのだと思われる。
 だが、現在の日本の刑法では悪しき矯正だけが、目的であるように思われる。所謂、刑務所五訓一はいという素直な心二すみませんという反省の心三おかげさまという謙虚な心四させていただきますという奉仕の心五ありがとうという感謝の心。などと言う押しつけがましい「道徳」には、反吐が出る。こんなことは、押しつけるものではなく、己の精神を鍛えることによって辿りつく倫理であろう。押しつけられれば、力の無い人は、装う。つまり、振りをするだけだ。何でこんなに簡単なことが分からないのか? ホントに役人というものは、アリバイを作るだけの卑劣な連中である。
 少年Aは、“精神的ケア”もする特殊な収監をされていたから、また、事件を起こした当時14歳の少年であったから、まるっきり同じではないだろうが、似た発想の下で管理下に置かれていたと思われる。犠牲者に対する反省の方向性は、収監中に植えつけられたものだろう。それ故にこそ、未だ、感情の暴発が起こるのである。つまり、間違った方向づけが為され、訓致された結果、内面的深化・進化は未発達だということである。鉄門海上人が、殺人者から聖人に成り得たような精神の進歩を遂げさせる指導になっていないのが、現在の刑法下での矯正であろう。まあ、ハッキリ言って茶番だ。他の総てのこの「国」の施策と同じように。まあ、この「国」を動かそうと思うなら、まだ、アメリカを動かすことから始めた方が効率的であろう。何せ、植民地なのだし。
SHUJI TERAYAMA#13

SHUJI TERAYAMA#13

舞台芸術創造機関SAI

pit北/区域(東京都)

2013/09/21 (土) ~ 2013/09/23 (月)公演終了

満足度★★★

疾走感、焦燥感の欠如
 今作のタイトル“似非地球空洞化説”が示すように地球空洞説からもそのコンセプトが援用され、其処に「不思議の国のアリス」が綯い混ぜにされて大枠を形作っている。更に、同時に異なる主題を追求することで認識の総体化を解体する寺山がよく用いた手法も採られる。その上、狭いpit北/区域を総て使って、迷宮化するなど、寺山的世界を創出する為の様々な工夫が為されている。だが、天井桟敷の面々が持っていた特異性、時代を切り裂く者のみが持つ迫真性は出せていなかった。(追記2013.9.28)

ネタバレBOX

 没後30年を迎えて、寺山 修司の評価は定まったのだろうか? 寺山に対しては、巨人と言う者、虚人と言う者、天才と言う者、奇人と言う者、様々であるが、自分が敢えて呼ぶならば、“魔術師”という称号を付与したい。この単語が十全だとは思わないが、人々はまだ寺山の創った実人生の虚構化からは抜け切っていないように思うのだ。
 無論、寺山は、ここで表象されたような解体の方向を持っていた。然し、同時に恐山の“いたこ”のようなおどろおどろしい風習や、フリークスなどの見世物的復権といかがわしさを、恐らくはその乾いた怒りや言語化されたアイデンティティーの根拠として、またロートレアモンの有名な一節「手術台の上のこうもり傘とミシンの出会い」の寺山流変奏術として、既に喪われたアイデンティティーへの滑稽な鎮魂歌として歌うと同時に、決して辿りつくことのないもの・ことへの限りない渇きによって、時々刻々、寺山修司は、寺山修司になりなりてなっていたのである。
 自分が、敢えて、日本の古典に用いられている表現を援用しているのも、無論、この意味に於いてである。最先端と最も伝統的なもの・ことの想像力の中での邂逅以外に、何が、我々のアイデンティーを育み、保障するのか、との問いでもある。
田中幸子の秘密

田中幸子の秘密

劇団いい加減にしろ

ワーサルシアター(東京都)

2013/09/21 (土) ~ 2013/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★

孤独のグラデーション
 男運の悪い女の子というものは、居るものだ。かなり愛らしく性格も良く、頭も悪くないのに付き合う男が屑ばかりという女の子が知り合いに居た。不良っぽい感じがしないと駄目だということだったが。

ネタバレBOX

 今作の主人公も、付き合う男が総て、駄目男君なのである。それでも、こんな世知辛い世の中を女一人で渡ってゆくのは、余りに寂しい。それで、誘いを掛けられると、今度こそ、と期待が頭を擡げてくるのだ。唯、その時の孤独の深さは、その時々の状況、相手でそれぞれ異なるし、不幸の度合いも異なるのに、幸せを求める心だけが、変わらないのだ。だが、結果は、何時も同じ。失望である。 
 ところで、三つ児の魂百まで、とか。自分も小さい頃からの習慣や性格の変更が如何に大変なことであるかを実感することがある。それが、こんなに大変なのは、個々の生きる状況への判断は、単に優生学的な優劣のみならず、今西 錦司の棲み分け理論が指摘するように、その個体が生息する環境そのものの影響をも受けるからだと考えられよう。つまり、個体の身体的諸条件と環境とのベストマッチングを果たそうとすることによって、環境負荷と個々の個体の能力・適応性などの度合いは、似た個体同士が種を形成し、以て己をアイデンティファイする。従って、これを変えるとなれば、己をアイデンティファイしている諸関係と己自身のダーザイン迄下降し、底なしの更に先の地点で己及び諸関係そのものを対象化し再構成した上で、再選択せねばならぬ。この時の主体は、無論、これら総てを認識する知的主体たらざるを得ない。但し、これは必要条件に過ぎまい。
 この程度の自己探求と意識化なしには、何も変わらないというのが、現実であろう。そして、これを為せる者はごく少数だ。こんなわけで、多くの人々は、自分の人生にウンザリしていても、又、同じパターンを生きざるを得ないのである。
 丁度、屋上から飛び降り自殺を図った田中 幸子を止めた連中が、「もう、これくらいで」と三々五々散りつつ「カラオケでも行きましょう」と談笑しながら去って行ったように、世間には、からっ風しか吹いていない。
 幸子の総てから見放された孤独は、彼女を笑いの発作で襲う。その後、泣き崩れた田中 幸子は、幸子と言う名の不幸であり、田中と言う名のあなたに似た誰かである。泣き崩れた幸子に、ハンカチを差し出す男がある。どうせロクデナシなのだが、再び、彼女は、彼に夢を託すのであろう。
 人間とは、何とペーソスに富んだ生き物であることか。
ケロイド THE FINAL

ケロイド THE FINAL

舞台芸術創造機関SAI

pit北/区域(東京都)

2013/09/21 (土) ~ 2013/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★

迫力あり
 学園物なのだが、ちょっと特異である。それが、一種のサスペンスに迄発展しているからだ。格闘シーンや取り調べシーン、犯罪現場再現などが絡んでくると言えば、その特殊性がイメージできようか?(追記2013.9.30)

ネタバレBOX

ケン、コーシー、ユキは幼馴染。小、中、高と同じ学校で大の仲良しだが、ケン、コーシーはロックバンド、“ジェット・ストリーム”で活躍。プロからオファーが掛かる人気バンドでライブハウスのスターであった。そんな折の文化祭、兄弟のように思っていたはずのユキに恋している自分を発見したコーシーは、ラブレターを書くが、ケンに盗られるハメに。コーシーの落ち込みは酷く、この時から蝿が飛び回る幻聴を聴くようになる。
 而も、プロからオファーのあった直後、ジェット・ストリームのリーダーだったケンが脱けた。バンドは瓦解。以降、コーシーは引き籠り、軽音楽部で一緒で現在はバーを経営するミッキーのヒモ同様の生活をしている。
 卒業後、何年か経ち、ミッキーのバーで同窓会を催すことになったが,、集まった者の中にユキは居なかった。
 一方、三人組の後輩の中に、漫画家デビューを果たしたキョーが居たが、彼は、先輩たちのバンドの話をドキュメンタリータッチの作品にしたいと考えており、実名で作品化する許可を求めて来た。皆、快く応じたが。
 只でさえ抑えの効かなくなっていたコーシーが、過去の事をきっかけに精神的決壊を起こし、ユキの自殺を告げたケンの足を刺す。その後も隙を見て逃れたキョーを除いて総ての面々が刺されてゆくが。未だ、生きていたケンが揉み合ううちにコーシーを刺し、結局、殺してしまった。それ故の、取り調べであった。
「リセット」

「リセット」

Ar-Style

シアターシャイン(東京都)

2013/09/20 (金) ~ 2013/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★

ガイア
 チームペガサスを拝見。朗読劇とされているが、シナリオの構造をしっかり掴んだ演出で演劇的に楽しめた。

ネタバレBOX

 創世記に登場するソドムとゴモラの話がナレーターによって説明され、神或いは超自然的な存在が暗示される所から始まる。語り手は2060年を生きている男、この物語で語られる2013年に生まれた。
 2013年のある日、ある時を境に、人々は記憶を失った。といっても総ての記憶を失くした訳ではない。自分自身の名前だとか、住所、関わりのある人々など、アイデンティファイに必要な記憶を失ったのである。或る者は、買い物の途中で、或る者は、道路の横断中に、又或る者は、会社の所用で出掛けた先で、また勤務中の交番で等々、その状態は様々であったが、総ての人が、その時以来、ある分野の記憶を失くした。携帯端末を持っていた人々は、取り敢えず登録してある人の電話番号に掛けて見る。ところが、自分の名を名乗ることもできなければ、電話を受けた側も自分が誰であるか分からない人もいる。何とか名刺や写真付きのIDカードなどから、自己確認をした人もいるが、混乱は、甚だしく公共交通機関は総てストップ。タクシーなどを除いて足が無い。仮にタクシーを拾えて、運転手が道を覚えていても、肝心の行く先を言えない乗客が、自分の家では無く、名刺に書いてあった会社に車を走らせるなどという状態である。
 そんな状況の中、町交番の警察官が、警察手帳と自分の服装から自らが警察官であると考え、地域の人々に援助の手を差し伸べようと、掛かってくる電話で相手の不安や、困惑を聞き、相談にのったり、苗字と名前が分かる人には住所を突き止めたり、とできるだけのことをしている。
 更に、地元のFMラジオ局のメンバーたちは、兎に角、自分達でできることを、できる所迄やろうというパーソナリティーの提案に従い、刻々の状況を集められるだけ集め、発信してゆくと共に、リスナーの心を平静に保つ為に、音楽を流しながら番組を進行してゆく。電話などによるリスナーからの問い合わせにもリアルタイムで答え、オルタナティブに番組を編成している。個々の情報は、町中の混乱状況や、この混乱の起こっている地域が世界中であること、海外の状況、例えば殆どのエリアで暴動が起き、略奪などが横行していること、アメリカでは、銃の乱射が多発、死傷者が多く大事になっているが、それに比べると日本は、まだマシと思われることなどである。無論、日本でも多くの店舗がシャッターを下ろしているが、食料品店は開いている所が多い。但し、値段は異常な高値で蜜柑1個千円などというレベルだ、云々。また、一人暮らしの女性宅を襲うオレオレレイプなども多発しているので注意が必要というニュースが流されたり、リスナーからの夫を探して欲しいとの要求に応えて、オンエアしたり。また、これもリスナーからの情報で桜が満開になって大変な人出で、ヌーディストグループ迄現れ、大変な賑わいを見せているとの情報に現場からの実況放送をしたりと大活躍。この其々の挿話に対して、様々な曲が選ばれ流されるのだが、話の内容と選曲のマッチングが素晴らしい。
 こんな具合に人々は、自分のできることを精一杯やっているが、記憶を失ったのは、意識の固まった年代の人々だけで、新生児に関しては、記憶は元のままだ、ということも発見される。また、記憶を失いながらも何とか人間らしく生きたいと望む人々は、記憶を回復させる為に図書館へ行って、今ではロールシャッハテストの文様のように、何だか意味の分からなくなった図面や文章を、頭痛や吐き気を堪えながら見ていた。
 記憶を失った原因については、赤い光が自分達を覆ったことが原因と考えられた。然し、誰が、何の為に、人々の記憶を奪ったのかいついては、謎のままである。
 暫くの間、こんな状態が続いたが、或る時点を境に、人々の中に記憶を取り戻す人が出て来た。彼らが思い出したこと。それは、小惑星群が地球に衝突し、地球が消滅するという危機であった。その恐怖から逃れる為に、人々は、記憶を喪くすことを選んだのだと。そして、それは、恐らくガイアなど超自然の意思なのだと示唆される。
 この事に気付く人が出始めた頃、小惑星の衝突が始まる。人々は、再確認できた自分の周りの人々と共に最後を覚悟する。その心の奥底にあるものと共に。そして、地球は、小惑星群の衝突の最中、消滅ギリギリの所でリセットされ、人々と生きとし生ける総てのものが、リセットされて明日への道に立った。
Clash

Clash

東京パノラマシアター

座・高円寺2(東京都)

2013/09/19 (木) ~ 2013/09/21 (土)公演終了

満足度★★★★

コンテンポラリーダンスが素晴らしい
 ダンスと映像に演劇的コントを嵌め込むというような形式で表現されるエンターテイメント。キャストは、ダンサー、元宝塚男役、キャラメルボックスの女優など様々なジャンルから構成される。自分は今公演が初見だが、ダンスをメインにした作品との印象を持った。それだけにダンサー達の切れの良い動き、身体表現のレベルの高さのみならず、前後左右及び後ろへ倒れ込むような危険な表現を含む緊張感のある振付にも感心した。ダンサーの鍛錬も無論のことだが、振付・演出は舞台監督が担っているのだろうか? コンテンポラリーダンスの要領を良く心得、バランス感覚に富んだ作品に仕上げている。

ネタバレBOX

 ダンス、映像、演劇コントは絡み合って全体を構成しているが、主軸はダンスと観た。演劇的コントに関しては、約90分にE=mc2(e=x)と相対性理論(mc二乗と読む場合)の物理に対して化学とされる今作リーフレットに書かれた概念を導入して、恰も数式化したとでもいうブラフを用いているのではないか? つまり、ここで相対性理論を持ちだしていると解釈するならば、エネルギー=xとなるので、何の意味も無い。或いは、mc二乗ではなくmc2ということか? いくら何でもあざとい。だからクラッシュなのだ、という論理を準備しているのだろうか? だとすれば、詭弁である。
 エンターテイメントとして、現代日本で最も受けるというデータから導き出したのでもあろう。そのような論理で藤沢 周平を持ってくるあざとさにも閉口する。
 演劇的な部分に関してこのようなことを言うのは、物理学と化学を持ちだし無理に等号で結んだ上で、物語性のあるエンターテインメントの代表として藤沢 周平作品の「山桜」を嵌め込む点である。このあざとさは、コマーシャリズムの論理として分からなくはないが、アートではない。少なくとも、この部分の責任者は、知的に全力を出していない。観客のレベルを己の詭弁を見抜けないと措定して、それに合わせるような姿勢を採っているのだ。こんな詭弁抜きに、資金が在る時には、全力で冒険にチャレンジして欲しい。これだけのものが作れるのだ。その力は充分にあるだろう。
ジャンキー・ジャンク・ヌードット

ジャンキー・ジャンク・ヌードット

good morning N°5

駅前劇場(東京都)

2013/09/20 (金) ~ 2013/09/25 (水)公演終了

満足度★★★★

この覚悟、見事
 一緒に飲んで騒いだなら、様々な技を盗めそうな面々によるオムニバス形式のコント集とでも言ったらよいのだろうか? ジャンキーだとかジャンクなどという言葉が入っていることからも類推できるように、決して行儀等良くない。寧ろ、そんなものは糞喰らえ! とのメッセージが伝わって来るほど、自分達演者を貶めて河原者と位置付け、一段、引き下がることによって諸法度を御免蒙ると共に、本能的な部分で勝負を掛けてくる。かなりアナーキーな公演である。
 その彼らが、日本の古典芸能の素養をチラッと観せる辺り、他の部分で、かなりハチャメチャ方式を採っている分効果的だ。

ブサイクな彼女

ブサイクな彼女

1月11日

新宿ゴールデン街劇場(東京都)

2013/09/19 (木) ~ 2013/09/20 (金)公演終了

満足度★★★★

深読みできれば傑作
 彼女、エミ役の強烈な個性を演じたデス電所の山村 涼子の熱演が光り、煮え切らない、グズグズのフリーター、タイゾウを演じた同じくデス電所の豊田 真吾のきめの細かい演技が光る。

ネタバレBOX

 サブストーリーに、死んだ彼から伝染性の病をうつされ、自らも死を迎えようとするマユが、その不条理を晴らす為体を売るという絶望譚が、並行的に演じられることで、物語を深い物にしている。
 片や、絶望の中に光を見、他方、絶望に闇を見るという対比の奥に、支え合う人間の深い愛を描いていると読みこめば、これは実に深い作品である。
SEA HORSE ADVENTURE(シーホースアドベンチャー)

SEA HORSE ADVENTURE(シーホースアドベンチャー)

マグズサムズ

南大塚ホール(東京都)

2013/09/20 (金) ~ 2013/09/22 (日)公演終了

満足度★★★★

海馬を巡る冒険
 舞台は、我々の脳で記憶を司る海馬と同じ機能を持つスーパーコンピューターが開発され、人の記憶を自由に外部にアウトプット、インプットできるようになった未来の在る時代。主人公は、どこにでも転がっている無特性のサラリーマン、梶原 辰夫。彼は、要領の良い妹とは対照的に何をやっても冴えない。かといって完全な落ちこぼれでもない波風の立たない人生を送っている。妹の結婚も決まり、定年を迎えて暇を持て余すようになった父からは、「お前も早く結婚しろ」とヤイノ、ヤイノの催促。唯一の自慢は、朝7時半にセットしている目覚まし時計の音で目覚めたことが一度も無いことである。つまり、その前に目覚めて目覚まし機能をストップさせているのだ。目覚ましを買って10年ずっとである。(追記2013.9.28)

ネタバレBOX

 そんな辰夫が、IT関係の社長連中の道楽に己の凡庸さを、凡庸の記憶データを提供する為に,ラボに出入りし、1週間の記憶を取り出しては渡していたが、このラボの研究員の一人が、開発しているスパコンでゲームに興じていた。だが様々な悪条件が重なって、さしものスパコンがクラッシュ、記憶のやり取りをしていた辰夫は、ゲームの世界に閉じ込められてしまう。ゲームの世界には、四天皇がいるが、辰夫は、四天皇と戦い、記憶回復に必要なメモリーストーンを入手する必要がある。3個目を入手しようとした矢先、魔王が介入、ソフトを初期化する作業を開始した。初期化されれば、辰夫は無論のこと、責任を感じてゲームに入って来た研究者、登場するキャラクター総ては灰燼に帰す。
 辰夫とは、自らの特性の無さにうんざりしていたサラリーマンであったが、例え地味でありきたりの人生であっても逃げださずに、それを背負ってゆくことに意味があることを見出し魔王と対決する道を選ぶ。結果、消滅することになろうとも。まあ、最後の部分は蛇足。感覚の鈍い人々向けの駄目押しだ。肝心なことは、ありきたりの人生であっても彼が、それを担ってゆこうとしたこと。そのことに意味・意義を見出したことに在るのであって、それが、絶対的力を持った魔王と戦う根拠になることである。民衆の英雄はここにしかないのだ。意図的・自覚的凡庸、これこそが、民衆的英雄である。
 この点を出したうえで、物語は、これらのストーリーが、ラボ所長と経営サイドの計略だったことを明かす。
 だが、既に民意は示されて在る。例え必敗の歴史になろうとも民衆は支配する者と戦い続けるという民意を。
透明

透明

TEAM☆イットクルゼ!

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2013/09/19 (木) ~ 2013/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★★

大人も子供も楽しめる
 骨太でしっかりしたシナリオと論理的だが、錯綜した内容でホントに楽しめる。無論、ファンタジーの楽しさ、幻想性は、きちんと活かされているので、子供連れでも楽しめよう。

ネタバレBOX

 かつて強大な王国、ヤロウで威勢を揮った王があった。然し、彼は強大な王国の王であることに飽き足らず、人であることを止め魔王となるが、ハーブ王国の王は七人の勇士に魔王討伐を命じ、この目的を果たした。時は流れ、魔王が居たことは既に伝説となり、人々の口の端に上ることもなくなっていた。
 そんな折り、ハーブ国のお転婆姫、ミントが森の魔女に攫われる。王女の運命や如何に? というほど単純な物語ではない。実は、今作は、徹頭徹尾、作品がメタ化されている。ファーストシーンで売れないファンタジー作家の原案が上演されるが、これを観た担当編集者が、ダメダシをし、書き直すように要請する。それも明日までにだ。作家、結城は、原稿のことを考えながら寝転ぶが、どういうわけか物語のシチュウエイションの中に入り込んでしまった。夢だ、と納得するものの、編集者の大和田が訪ねてくると、書いた記憶も無いのに、原稿は、「夢」で見た通りの内容に改まっている。こうして、現実であるはずの作家としての生活と書かれているハズの内容とが、照応し合い、変質し合って、できる編集者、大和田の示唆よりずっと良い作品が出来上がってゆく。詳しい内容は観てのお楽しみだが、誰もが、何も信じることのできない暗い現代生活の中で、駄目な作品を登場人物達と共に作り直して行く、という嫌みのない展開が頗る上手い。また、不信感しか無い現代日本で創作の裏側を見せる、という構成になっている点も評価できる。作品の根底を形作る論理性に関してもブレが無い点は見事である。
 また、魔術を使う場面で電飾を上手く使って効果を挙げている点も評価できる。シナリオ、演出の良さに加えて、役者陣のキャスティング、演技、照明や音響効果などのマッチングも中々のものだ。楽しめるだけでなく感動もできる。
『泡』(再演)

『泡』(再演)

劇団 東京フェスティバル

恵比寿・エコー劇場(東京都)

2013/09/18 (水) ~ 2013/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★

もう少しエッジを立てても?
 小名浜は、嘗て遊郭のあった地域である。風営法改正で、他の遊郭地域同様、ソープが多く建った。所謂浜通りにあるが、漁港でもある。今作では、3.11、3.12以降にここで働くソープ嬢、経営者、従業員と客の日常を描くことでドラマとしているが、やや、地元の人々のメンタリティーに配慮し過ぎた感もある。(追記2013.9.19)

ネタバレBOX

 3.11、3.12によって福島県をはじめとする被災地は大きく変わった。殊に、事故のあった原発を抱えた福島県には、事故後の原発労働者、仮設住宅建設で雇われた工事関係者などが集まり事故バブルとでも言うべきミニバブルが起こっていたのも事実である。無論、地震・津波とそれに続くF1事故の影響で沿岸漁業及びそれに携わる漁民の受けた影響は大変なものである。垂れ流された汚染水の悪影響と、国、東電、推進派御用学者らの嘘、情報隠蔽とマスメディアの情報操作。アメリカの思惑などが絡まって、事態は悪化の一途を辿った。事故直後は情報インフラそのものが大きな被害を受けた結果、一番、正確な情報を必要としている人々が、最も情報を持っていない、などという事態も起こっている。このことが、事態を益々悪いものしたことは否めまい。
 情報が回復するにつれて、大学関係者などは、いち早く独自のネットワークを用いて情報収集に努め、或る程度の成功を見ているが、一般の人々は、TV、ラジオ、地域の新聞などが、主な情報源であった。ラジオ、新聞を除けば、まともな情報は余り入って居なかったと考えた方が良かろう。メディアリテラシーそのものが、この「国」で浸透していない。従って、肝心な情報は遮断される一方、政府、東電に都合の良い情報だけが、イエロージャーナリズムと同様の手法で撒き散らされた。正確な情報を得ていた、知識人の多くは、早い段階で土地を離れている。無論、知識人のこのような態度に倫理的な問題は残るものの、一般の人々の為に自身のできる最大の事をした人々も居た。
 然し乍ら、メルトダウン、メルトスルーをしたことが素人の目にも察せられる時期になって尚、政府、東電、御用学者、NHKなどは、事故の真相を隠し続け、嘘を垂れ流していたのであり、現在に迄、それは続いている。
 3.12の爆発以降、数百種類の放射性核種が放出され、約1週間後には、福島由来のプルトニウムがアメリカで発見されているにも拘わらず、政府、東電、NHK、御用学者は、シラを切り、嘘をつき続けていたのだ。ヨウソ剤も有効な使い方をされなかったケースが多いと聞く。それもこれも、嘘ばかりが罷り通り、反対に必要で重要な情報が隠蔽されたからである。この「国」は、国民の事等一切考えていない。それに気付き乍ら、革命を起こせない民衆にも未来は無いが。
 まあ、この作品は、ここ迄、突っ込んで考えても居なければ、これらの事実関係の重大性について問題化しようという姿勢も無い。逆に、それだけ、残った人々に近いと言えるのかも知れない。それだけに、ここで言われる何気ない表現や表象は重いものがあるいう点に注意を喚起しておくことは無駄では無かろう。
 一方、これら深刻な事実を充分知りながら、敢えて残った人々もいる。多くの場合、彼らが、それを必要だと考えたからだが、地元に残って、人々の心のケアに努めたり、問題の核心を地道に訴え続ける人々、果ての見えない収束へ向けて被曝・被爆の危険に身を晒しつつ働く下請け労働者、良心的医師等々の人々についても、次は描いて欲しい。
 欲を言えば、我々、都会に居て、電力の益を受ける側に、必要な情報が集まり、危険に身を晒し、電力を送り続けている人々には、有益な情報が集まり難いという現状をも描いて欲しいものだ。現代に於いては、情報こそ、命である。この故にこそ、安倍は、通常30日は、意見を公募するパブリックコメントを、特定秘密保護法案に関しては僅か15日間で打ち切った。また、以前にも書いた通り、IOC総会で安倍がF1事故汚染水に対する記者質問に応えて「状況はコントロールされている」と述べたとされることについても、「情報はコントロールされている」というのが、正しかろう。
SUMMER PARADE

SUMMER PARADE

AnK

サブテレニアン(東京都)

2013/09/18 (水) ~ 2013/09/22 (日)公演終了

満足度★★★★

淡いもの・こと
 作・演出の山内 晶は、少女漫画好きとか。で“カベドン”などという初めて聞く単語も登場する。話としては、男性型バイオノイド(劇中、アンドロイド或いはR2D2と呼称)とアラビア語で星という意味の那樹夢(ヒト科女性)との恋への道行きである。

ネタバレBOX

 作・演出家の言うテーマは、「情報のすり替え」と「設定は選べない」ということだが、前者は、会話の曖昧さによる錯誤が齎す諸結果についての感覚的反応を、後者は、無自覚に為してきた結果が習慣、否、寧ろトラウマになり、それが意識化された途端、悪夢のように纏わりつく状態を表象する。
 上記の内容を、柔らかな感性を損なわぬ科白と所作、小道具、照明、効果音で作っている点に好感を持った。
 Boy meets girl.の内容は、互いの顳顬に当てた送受信機に念を送ることでホログラムを作成(単体でも複数でも可能)、自己の内面にあるイメージを視覚化するという方法を採っている。こうすることで、其々が、落ちこぼれとして抱えてきた有象無象を誤解なく伝達することが可能となると同時に、観客に人間及び、人間の鏡としてのバイオノイドの心象風景を実体化して見せている。従って、ここには、苛めと差別、負わされた傷、コンプレックス等々の現代的問題が隠れたテーマとして浮かび上がる。トラウマを抱え、キモイと言われて傷つき、死ねと言われ続けて自己のアイデンティティーの崩壊を目前にしながら、夢を夢見る姿が描かれていると言って過言ではない。
 R2D2が、史上初めて、人間の学校へ入校することになった原因、記憶の消去が不完全で、思い悩むというバイオノイドとしては失格の特性が逆に人間の持つ曖昧さにアダプトし易いと判断された時に、己の心象を訊かれ、楽しかったことを思い出して応える科白の何と美しく詩的であることか。「空を見ていました、宙を。それは、花に名をつけるようには(短い間)その雰囲気を言葉にできません」
 作者は照れ屋さんなのだろう。科白として詩的なのは、このフレーズだけだが、作品全体に、感受性の柔らかさを感じる。
hedge

hedge

風琴工房

ザ・スズナリ(東京都)

2013/09/11 (水) ~ 2013/09/18 (水)公演終了

満足度★★★★★

経済もので感動させられるとは!!
経済を描いた作品で感動させられるとは思ってもみなかった。こんな貴重な体験をさせて貰ったことに感謝しよう。シナリオ、演出、演技の素晴らしいことは無論だが、舞台美術、エッジの効いた音響、市場の緊迫感すら感じさせる照明も見事である。
 専門的な用語も多く、門外漢には分かりにくいジャンルをユーモアを交えた巧みな演出と、シナリオでフォローしている点でも好感を持った。
 扱われているのは、数あるファンドの一つ、バイアウトファンド(投資先の株式を取得後、経営にも関与する形で業績を上げ、企業再生を遂げた後転売して利潤を得、投資者にその利益を分配するタイプのファンド)投資先が上場企業であればTOB(株式公開買い付け)が必要になる。その際、利潤拡大の手法としてレバレッジ(梃子のことだが、麻雀などでいうウマと同じで、これを掛けるとその倍率に応じて利潤もリスクも拡大する)を掛けることもある。但し、リスクも大きくなるので、リスクヘッジを同時に掛けておかなければ危険である。(追記2013.9.30)

ネタバレBOX

 金融商品を扱うことで、市場規模を拡大してきたアメリカの投資会社で初のパートナーとなった人物、矢張りコンサルティング会社で活躍して来た人物3人が集まって日本でも金融商品を取り扱う新会社を創設した。時恰も、バブル崩壊の兆し始めた頃である。大手証券会社が倒産、銀行の護送船団方式が崩れ、新たな金融システムが模索された時代と言っても良い。
 然し、日本の慣習に馴染まない方式やシステムの違いも大きい。その狭間で生じてくる様々な問題を嘗て、メガバンクで活躍して来た銀行マン、リサーチ、分析の天才等々が、再生させるべき企業を物色し、実際、企業をケアし、再生して行く過程を描く。
 無論、この間、外資のハゲタカファンドによって日本企業はズタズタにされ、良いように税金はむしり取られ、この「国」は、長い不況に突入したわけである。そんな、庶民の持っている金融不信をも射程に入れつつ、分かり易く、リアリティーのある、而も楽しめる舞台に仕上がっている。
最高傑作 Magnum Opus “post-human dreams”

最高傑作 Magnum Opus “post-human dreams”

劇団銀石

ギャラリーLE DECO(東京都)

2013/09/17 (火) ~ 2013/09/22 (日)公演終了

満足度★★

勉強不足
 カレル・チャペックの「ロボット」をベースに組み立てられた今作は、4パートに分かれたオムニバス形式で上演されたが、無論、各パートは連携している。主題は、ヒトとバイオノイドの連携・共存可能性と心的交流の可非、労働に於ける人間とバイオノイドの関係、バイオノイドに労働を負担させることによるヒトの労役からの解放とヒト型バイオノイドへの罪障感や愛・愛着に絡む創造主及び被創造主の関係、更には寿命と生命体特性の一つ繁殖問題を扱っているハズであるが、シナリオライターも演出も現代日本でこの作品を演ずることの意味も難しさも深く考えていないことが明らかである。舞台の状況設定も下手だ。漫然と状況を設えている。また、科学的な知識、実験的な科学の知に関しても完全に勉強不足である。劇場のサイズを考えない声の出し方も課題だろう。

ネタバレBOX

 チャペックの原作を現代に蘇らせたいなら、原作の本質をキチンと捉えた上で、現代最先端のロボット工学、バイオテクノロジー、流体力学、医学、材料・材質に関わる諸科学、動力源等々についても必要な勉強をしておかなければ、シナリオ自体穴だらけである。
 事件の推移する場所が、閉鎖系であることの意味ももう少し考えた方がいい。第1パートで原作同様、島にあるラボということを観客に分からせる必要があるのに、そんな表現は入っていなかったように思う。唯、ラボで其処に集められただけのシチュエイションでは、可能な展開が無限になってしまうことを思うべきである。この辺り、演劇に関わる際に最低限必要な想像力の問題なので、ここに気付かないようでは、この先、プロでやってゆくのは、シンドイと思う。
久保栄を読む!『火山灰地』第一部・第二部

久保栄を読む!『火山灰地』第一部・第二部

日本の近代戯曲研修セミナーin東京

芸能花伝舎(東京都)

2013/09/07 (土) ~ 2013/09/16 (月)公演終了

満足度★★★★

リーディング&シンポジウム
 拝見したのは、日本演出者協会主催の近代戯曲研修セミナーin東京「火山灰地」第二部のリーディング公演である。本来、この戯曲は、一部、二部で7時間以上に及ぶ大作だが、今回は、各々、2時間15分程に削っての公演である。演出上、残したのは、農民の生活、研究者の論理である。
 因みに、第二部の完成は、1938年、2.26事件の2年後だ。盧溝橋事件の翌年でもある。時代は、急速に右傾化し新劇運動にも体制の圧力が強く掛けられる時代になっていた。左翼は、四分五裂、解体を余儀なくされてゆく。当然のことながら、作品表記に関しても細心の注意が払われなければならなかった。久保 栄は、その為、大切な科白・表現を隋所に散らしたり、治朗“入隊”の表現を避けて、軍部隊の居る地域名、上川を出すだけに留めている。
(追記2013.9.30)

ネタバレBOX

 不勉強が祟って久保 栄の文章には、初めて触れたのだが、深く読み込まねばならない作家だろう。現時点で、自分が、言えることは、以下のことだ。

 だが、ラディカリズムの立場から言えば、現在を生きる我々のこれらの批評も総てアリバイ作りである。彼は、同時代に韜晦という手法を採って表現したのだ。この点をはっきりさせておかねばならない。そして、己が、時代の中で久保ほどのことを言えるか言えないかを問わねばなるまい。
 日本の思想が何故、かく迄低くなったかと言えば、根本的には、インテリが命を懸けなかったからである。論理は無限にたてられる。然るにそれを根拠付ける唯一のもの・ことは己の生き様にある。その事をすら理解できない似非インテリがこの国の支配層には圧倒的に多い。最悪の為政者、即ち、権力を持った下司である。彼ら程には厚顔無恥になれない、或いはそれを演じ切れない神経を持つ者の多くが、大学教授などになってアリバイを創る。そして、それだけのことだ。民衆に必要なのは、火のような言葉である。それを発すれば発した者の喉を焼き、舌を焼き、唇を爛れさせる。そのような言葉なのである。今、インテリの誰に、こんな火が、吐けるか? 

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