森の奥
王立フランドル劇場(KVS)&トランスカンカナル
こまばアゴラ劇場(東京都)
2008/09/09 (火) ~ 2008/09/13 (土)公演終了
満足度★★★★
おもしろい演劇ってどういうものなのだろう?
とても眠かったんです。どうがんばっても意識を失う瞬間が何度も。でもおもしろくってたまらなかった。どんな話だったかつなげられない、でもどの場面をとってもわくわくした。言葉とかストーリーとか、もちろんそれも重要な要素だけど、そういうのを乗り越える力もあるんだなあと、体感。字幕があるからつい追いかけちゃう、けど、そんなものより目の前の存在。外国人だから、言葉が通じないから、意思の疎通ができないから、って何も伝わらないわけじゃない。むしろそれで感じられるアンテナが研ぎ澄まされました。ま、寝ましたけど。それでも満足。こういう企画に感謝です。字幕を無視して、存在だけでびびっともう一回感じたい。
ネタバレBOX
物語は気にせず、とはいっても、やはり平田オリザ脚本のすばらしさも感じました。そこから生まれる感情っていうものが日本人だけじゃない、誰にでも通ずる普遍的なものであり、その時の表情やジェスチャーや間も、万国共通なんだな、と認識。初対面の会話の空気の途切れ感、チンパンジーの子殺しを止めに行く場面や、最後の猿のまね、笑ったり泣いたり、忙しすぎ。
家族の肖像
サンプル
アトリエヘリコプター(東京都)
2008/08/22 (金) ~ 2008/08/31 (日)公演終了
満足度★★★★
空気の広がりがわかる場所
客席のユニークさに目を奪われましたが、同時に同じ平面に観客がいないことで、芝居が作る空気の滞留のようなものまでが見えたことにちょっとびっくり。
その透明な重さになんとなく取り込まれてしまいました。
ネタバレBOX
一人ひとりの役者の常軌の逸し方が、まるで平均台の上でかろうじてバランスを取っている姿にも見えて・・・。
最初は気になっていた高いところからの視点も、お芝居が進むにつれてその視点でしか見えないものに対する評価へと変わっていきました
邪宗門
月蝕歌劇団
ザムザ阿佐谷(東京都)
2008/08/27 (水) ~ 2008/09/01 (月)公演終了
満足度★★★★★
面白い!
寺山らしい構造の作品を、月蝕風に解釈して好演。あまりにも面白いので9月1日にも観に行ってしまった。若い役者陣が力を伸ばしてきていると思った。
狂人教育 (北京語版・字幕付)
流山児★事務所
白鳥ホール(宮城県)
2008/09/09 (火) ~ 2008/09/10 (水)公演終了
満足度★★★
力強い舞台
がっちりと澱みなく流れる作品でした。骨太。見れて良かったです。
祝/弔[祝─駅前劇場側]15日本日千秋楽
クロカミショウネン18 (2012年に解散致しました。応援して下さった方々、本当にありがとうございました。)
駅前劇場(東京都)
2008/09/04 (木) ~ 2008/09/15 (月)公演終了
満足度★★★★
構成力と戯曲の力。
大変楽しめました。
綱渡りのようなストーリー。
付いていけないようなドタバタ感が最初は否めないのですが、徐々に板についてきて。
吉川アダムさんが素晴らしい。
ただ駅前劇場はやっぱりお尻が痛いです。
祝/弔
クロカミショウネン18 (2012年に解散致しました。応援して下さった方々、本当にありがとうございました。)
OFF OFFシアター(東京都)
2008/09/04 (木) ~ 2008/09/15 (月)公演終了
満足度★★★★
本日は「弔」。
昨日の「祝」に続いての「弔」。
「祝」がスピード感の「Show must go on」だとすると
「弔」の共犯関係は永井愛さんの「ら抜きの殺意」といったところか。
皆さんもおっしゃってるように「弔」の方が完成度が高い。
一つは父役の猪股さんの力によるもの。
もう一つは単純に戯曲によるものだと思います。
その辺はネタバレBOXで。
両方見てなんぼの「イベント」だったんじゃないかと。
だって片方観ただけじゃ明らかに消化不良ですもの。
ネタバレBOX
「祝」が最後の最後まで「絵に書いたモチ」(嘘)を
真実であるように一部の人に信じさせる作業に終始し、
結果嘘を突き通して終わるのに対して
「弔」は最後の最後に「嘘」を破綻させて
一つの山場を作っている。
これによって「弔」の方が最後の最後まで楽しめるし
振幅があって面白い。
僕の東京日記
劇団東京ドラマハウス
萬劇場(東京都)
2008/09/04 (木) ~ 2008/09/07 (日)公演終了
満足度★★★
上演時間2時間30分!
今回ほどスタッフの丁寧な案内に感激した事はなかったですね。
とにかく、大塚駅の方から劇場案内が出ており、受付に行ったら行ったで会場までスタッフが案内してくれて、懇切丁寧に対応して頂きました。
以下はネタバレBOXに。。
ネタバレBOX
さてはて・・・勿論ここでは上演時間について触れなければならないでしょうね。
小劇場上演時間2時間内という、なんとな~く、無言のうちに出来上がっちゃってるこの掟に逆らうかのごとくの2時間30分!
これが長く感じるか短く感じるかは芝居の内容によります。
ドラマはとあるアパートの中での出来事です。
良くも悪くもこのアパートから離れて壮大な場所に移るという事はありません。
1960~1970年代のベトナム運動から始まって学生運動、更には街にたむろするフーテン、ヒッピーと現在の団塊世代の方達が主役となっていた時代の設定です。
このアパートでは下宿屋風に大家が皆の食事の用意をしている所をみると家賃+食費がセットのようです。
このアパートには、女優になりたいという雇われママや強制的に学生運動に加担させられた学生、チンピラ、普段は公務員だがそれ以外はヒッピーという二つの草鞋を履く男・・・と様々な若者が見えない明日に向かって模索する姿を描きます。
たぶん・・・あの時代の人間関係や背景は実にリアルに表現しているのだと感じる。
が・・・とにかくアパート内での出来事が延々と続くのである。
壮絶なクライマックスも、まさに樹海レベルの磁場が狂うような出来事もなければ、脳が溶けそうになる熱い出来事もないのである。
かといって、「父さんの背中、けっこう小さかったんだね。」みたいな哀愁を漂わせるシーンもないのだ。
スポコン魂丸出しの生きてる事が精一杯って状況でもないし、ダイナミックな展開もなければ極限状態に陥る訳でもない。
とにかくアパート内での会話劇を延々と丁寧に紡いでいく手法だ。
今、フライヤーを確認しながら記憶の呼び水をたっぷり与えても、コメディだったのか、それとも何かを心理的に訴えたかったのか、ただ単にあの時代はこうでしたと説明したかったのか、今もって分からない。
ワタクシにとっての芝居とは、時代の説明だけなら、じつにどうでも良い事なのだ。
説明だけならニュースやビデオで理解できる。
どこまでも暴走するくらいのロマンチック・エンジンやあまりの恥ずかしさに鼻から血を噴出すような設定に「ああん」と我ながら会心の色っぽい溜息を漏らして卒倒する物語か、夏空に呵々大笑するような物語か、あるいは、死体を数えるくらいの陰気な声で妖怪たちが宴をしている場面とか、そういう怒涛の設定が欲しいのだ。
だって、芝居ってそうゆうことが出来るからお芝居なんでしょ。
今回の芝居はあの時代の背景と人情溢れるアパートでの出来事。というのが正解なんだろうか・・。
良くも悪くも大きなうねりはなかったです。
GET MY SOUL
ACTOR’S TRASH ASSH
萬劇場(東京都)
2008/08/28 (木) ~ 2008/09/01 (月)公演終了
満足度★★★★
光と風。
楽日に観ました。
以前からこの劇団は観ていますが、毎回よくなっている気がします。
風通しがいいというか開いたところに向かって終わったのが心地よかったです。
なんだかグッときたりして。
熱と風と光を感じました。
役者の力量にバラつきがあるのはちょっと気になりますが。
それと毎回、小学生男子かっ!
とツッコミたくなるところがあるのは・・・いつまでやる気なのか・・・。
青猫物語
東宝
シアタークリエ(東京都)
2008/09/05 (金) ~ 2008/09/28 (日)公演終了
満足度★★★
万人向けのワンシチュエーションコメディ。
昭和初期のカフェが舞台の様々な人間模様。ラブストーリーを軸にあちこちからの出入りのドアコメディを織り込んだ軽妙な作り。2幕150分。
ネタバレBOX
北村有起哉さんの役者的な魅力を楽しむ作品かなぁ、と。男子的な目線なら黒谷友香さんの様々な衣装姿がポイントか。
色々なドアからの出入りでのすれ違いが生む笑いの見せ方はタイミングも巧く見事だと思います。若干黒谷さんの着替え優先ぽいシーンも見られますがそこはご愛敬。
意外と出演者が多く、またそれぞれに少しずつでもエピソードを乗せていこうとした結果、全体的に薄味な印象になり、本筋の八起とそらの関係まで浅めに描かれてしまった感じ。なぜ、どうして二人がそこまで惹かれ合うのかもう少し描き込んでほしかったなぁ。
八起の変装時の様々な顛末も不自然すぎ。普段から化けている役者達が気づかなかったり、そらが一夜を共にしても気づかなかったりとよ~く考えると?な点が多いけど、コメディだからそこを追求しちゃ野暮なのかも^^;;
作風としてはそれなりの役者陣がいかにも演技してます的な動きでのドタバタが基本なので、小劇場慣れしている人達には不向きかもしれません。
宣伝が少ないのか客席の埋まり具合がイマイチなのはちょっと残念でした。
『ヤルタ会談』+特別企画『森の奥』リーディング公演
青年団
アトリエ春風舎(東京都)
2008/09/05 (金) ~ 2008/09/07 (日)公演終了
満足度★★★
暴れすぎと静かすぎはギャップ大。
上演を重ねる度に自由度が増しているヤルタはやはり面白い。「森の奥」はリーディングでのオリザ作品は静かすぎて。休憩込み126分。
ネタバレBOX
「ヤルタ会談」の本当なら全てを茶化した姿勢は笑えるものではないんだけど、それを見た目からして笑いに昇華しているつくりが見事。出演陣のやんちゃさ加減も楽しいし。
対して「森の奥」は役者が手にした猿のぬいぐるみに動きを委ねているものの、役者自身の動きは制限されるので静かな演劇が余計に静かになりすぎる弱点が見えた格好に。本公演は外国人とはいえ役者が動く分印象が変わるのかもしれないが。
無重力ドライブ RacerX
JAM BAL JAN JAN パイレート
インディペンデントシアターOji(東京都)
2008/09/06 (土) ~ 2008/09/08 (月)公演終了
満足度★★
'80年代演劇のエッセンスが端々に。
シーンの繋がりや筋道だった話や役者の個性や揃ってるダンスや映像との見事なコラボを求めるのなら受け入れ難い作風かと。83分。
ネタバレBOX
とにかく勢いありきでいろいろな断片が次々と提示されます。群唱したり、踊ったり、着ぐるみ着たり、台詞の強弱でシーンを切り替えたりとかつていろいろな劇団で使われてた
手法がこれでもかというくらい盛り込まれています。惜しむらくはそのひとつひとつの作り込みが粗過ぎること。
圧倒的な台詞量とかなり調べ上げてる科学的な内容は噛みしめたら味わい深いのかも知れませんが、ミクロからマクロまであまりに広がりすぎる世界観と滑舌の悪さと早口が言葉を拾ったり考える隙間を与えていない気がします。
結果、積極的に何か吸収しようという観客以外には理解しがたく、集中力も続かないつくりになってると思います。作り手のやりたいことを観客が見たいものに近づければ雰囲気も変わるかも。
描いてるものは腹筋善之介さんの一人芝居と似てるかなぁ、と少し思ったり。
東京寄席スタイルvol.3
東京寄席企画室
こまばアゴラ劇場(東京都)
2008/09/01 (月) ~ 2008/09/02 (火)公演終了
満足度★★
通した見せ物として成立してない
多様な大衆芸能を上演するのが寄席なら意味合いはあっているが、間口広げすぎでクオリティも方向性もバラバラ過ぎ。110分。
ネタバレBOX
オープニングの渡辺香奈vo.の開演前諸注意のムーンリバーの替え歌(かなりシュール)から異質な雰囲気が。
立川志ら乃(演目「だくだく」)は口調まで師匠の志らくに似せすぎ。早口なのが余計に空回りを助長したみたい。
JIROX DOLLS SHOW GOES ON!! WITH TOKIDOKI-JIDOは狙いなのか精一杯なのか下手ギリギリ(ウマまでは言えないくらい)のパフォーマンスの連続。完成度の低さがなせるハプニングとの境界線に光と笑いを求めているよう。あまりの再現性の低さは芸としてはいかがなものか。
柳家三之助(演目「棒鱈」)は久々に見たが年齢の割には枯れた感じがでてきて、古典を演じるにはだいぶらしくなってきたみたい。
休憩を挟んでのトークはゲストがダンス批評家の武藤大祐氏。さすがに武藤氏はここまでの流れを受けながらも自分のことも盛り込んで話していたが、企画側で進行の林真智子が自ら集めたはずの他の出し物に触れようともせず、観客に向かってトークを見せようという意識もなく、宣伝込みで話させたい着地点にだけ持っていこうとしてた姿勢がダメだった。
総じて木戸銭が取れるものと発表会レベルが混在してしまい、企画側の意図も見えにくく、枠として消化不良な感じが残った。★は三之助の落語と畑違いながらも話をまとめあげてた武藤氏のトークに。
森の奥
王立フランドル劇場(KVS)&トランスカンカナル
こまばアゴラ劇場(東京都)
2008/09/09 (火) ~ 2008/09/13 (土)公演終了
満足度★★★
外語能力が欲しい
平田オリザ作品は初めての鑑賞だったのですが。
やっぱり好みだなぁと。
個人的に動く芝居が好きなので…。
淡々と続いていくストーリーは、
会場内の気温もあいまって最初はものすごく眠気を誘いました。
(冷房を切るのは演出だったみたいですが)
しかしあれだけ何でもないシーンを舞台にしてしまい単純に「凄い」と思います。
後半は集中して観ることができました。
字幕を追っていると役者さんを見れないのがとても残念。
すごくいい表情や動きをしているのに勿体無い。
いや、これは自分の能力的に。
外語がわかればもっと細部まで観れるんだろうなぁと。
ネタバレBOX
字幕の文字。
「あぁ…いや…その」とか
「なるほど…でも…いやなんでもない」とか
日本語特有の曖昧さがあって。
あれは日本を意図したものなのか、
それとも外国でも日常会話では曖昧な表現が多発するのか、
なんとなく気になりました。
サザン・アイランズ
燐光群
イワト劇場(東京都)
2008/08/30 (土) ~ 2008/09/09 (火)公演終了
満足度★★
大音量の「国際交流」
「フィリピン国際交流プログラム」とある。燐光群の役者と、長い付き合いのあるフィリピンの役者とが、共同で、演劇を、3本、やる。
さすがに、長い実績のある燐光群。演劇としては、3本でたっぷり3時間の大ボリュームも、ベテランたちの手堅い演技で、緊張感を持って観ることができる。
ただし、僕は、この「国際交流」作品に、疑問がある。この、僕らの知らない情報を、ただ上から提出する、ジャーナリズムのような作品を、芸術作品と呼べるのだろうか。
ネタバレBOX
どの作品も、テーマが非常にはっきりしている。
「虎の杖」は、フィリピンの、米軍基地問題を、沖縄のそれと並べて、比較検討。「雪を知らない」は、沖縄の米軍基地周辺で、多数はたらくフィリピーナたちの現状を報告。最後の大作「コレヒドール」は、日本と米国の戦闘の舞台となったフィリピンの、板挟みの感情と、現在の彼らが戦争をどのように捉えているのかを報告するもの。
全ての作品は、共通して、「なにも知らない無知な日本人」が登場して、フィリピン人の現状を、情報としてやりとりする、という構造を持っている。一応すべてに、ちょっとした感情のやりとりがあるけれど、それは、「国際交流」のために伝えたい「情報」に、おまけとして添えられているような印象。確かに、これらの僕らの知らない情報は、おおいにためになるかもしれない。
当然、劇中に登場する「無知な日本人」たちは、情報を持っている「国際人」であろう作者たちからみた、僕ら市井の一般市民だ。これらの作品の目的は、僕ら無知な人々に「情報」を与え、啓蒙することにあるようだ。
ここには、情報を持つことが、力を持つという、権威主義がみえる。そして、非常に高いところから、上からの目線で、ものをみている、政治家のような目線を感じる。
作品中には、ものを良く知る日本人も登場。彼らも、フィリピン人のことをつい失念して、やりこめられる。例えば、「日本では○○なのに、ここではなんでこうなんだ」と日本人が言い、「フィリピン人は○○だったということを日本人はすぐに忘れる!」と怒られる。すると、日本人は、即座に「それはそのとおりだ、すまなかった」とあやまって、「でも……」と、自分の持つ新しい情報を披露するのである。
これは、情報を持つ作者たちの姿かもしれない。僕には、この反応のすばやさが、信用できない。この舞台は、時間が長いせいかもしれないが、やりとりの反応が、とてもすばやい。みんな、即座に、あやまる。そんなにすばやい謝罪を、人は、信用できるだろうか、と思っていると、その直後に、とても大きな声で、自分の持つ、相手の知らない立場が、新たに情報として示される。なんだ、彼らは、とりあえずあやまった後で、情報を使って、自分の優位性を保つのだな、とわかる。謝る前の発言は、これにより、検証されることなく見逃されるのだ。とにかく、「情報」としての世界を持つことが、「国際人」であることを、信じて疑わない姿勢が、ここにはあると思う。欺瞞が、あると感じる。
舞台芸術には、社会を批評的にみる視点が必要だと思う。声を大にして「国際交流」などを叫ぶ場合には特に。でも、情報を持つことが権威につながる社会そのものを疑わない姿勢こそが、まずは疑われるべきだと、僕は思う。自国の、市井の市民の目線が、大声で叫ばれる、一方的な「国際交流」の前に、忘れられている。そう感じる(そういう意味では、今をあらわす作品かもしれないが)。
怪談 牡丹燈籠
花組芝居
あうるすぽっと(東京都)
2008/09/03 (水) ~ 2008/09/15 (月)公演終了
トカゲを釣る-改-
スロウライダー
新宿シアタートップス(東京都)
2008/09/02 (火) ~ 2008/09/07 (日)公演終了
満足度★★★
とかげ
チラシに惹かれ見ました。
私の回はマチネだったせいか、残念ながら劇場の隅までは恐怖やそれからくる面白さは伝わってきませんでした。
結構真剣に見てたんですが・・・。
場面を見せないでセリフで表現しているところが多いと感じ、
説明的なセリフが多くみられ、もうわかったよ!と思う場面がちらほら。
(研究室の助手のカギュウを見たことがないから今度見せてくれ、等々)
初めの緑色の扉から食べられる前の女性が出てくる場面は緊張感があって見ごたえ十分。それ以降は暗転中の音楽がノイズ音など、一風変わったサウンドが気になりました。
日下部そうは初めて見る陰湿系なお芝居だったのですが、成り立っていたけど正直毒が薄いなぁと。
やっぱりさわやか物静かな日下部さんが好きです。
ネタバレBOX
シーンのところどころ、会話をしている2人の登場人物の”立場の逆転”がいくつかありましたが、ただ段取りを追っているようでなぜそうなるのか科白上で理解できても、お芝居的に理解できないことがちらほら。
連日で疲れていたのかな??
たとえば一番初めの所長と研究者のシーンなど。
劇場もある程度広いせいか科白が聞き取れなかったせいもありますが。
祝/弔[祝─駅前劇場側]15日本日千秋楽
クロカミショウネン18 (2012年に解散致しました。応援して下さった方々、本当にありがとうございました。)
駅前劇場(東京都)
2008/09/04 (木) ~ 2008/09/15 (月)公演終了
満足度★★★
「祝」から。
劇団初見。
もう本当にイギリス風のウエルメイドなドタバタコメディー。
マイケルフレインの「NOISES OFF」や
三谷幸喜の「Show must go on」なんかに通じる感じ。
もしくは中期のチャップリンの映画とか。
しかし良くも悪くもこちらだけ観ただけではすっきり家に帰れない感じ。
「弔」の方のメインキャストなんだろうけど
前半にちょいちょい出てくる人々が多すぎて、
しかもその後物語に絡まないから
序盤で人間関係を見失う。
これだけの作品を書ける作家さんなのだから
よほどクレバーな方だろうし、
今回のような仕掛け(2館同時公演)が無ければ
すっきり腑に落ちる良い作品を作ってることに違いない。
だとしたら観ているこちら側が
いかにおおらかにこの仕掛けと企画を楽しめるかな気がする。
「弔」も何とかして観たい。
ドラえもん「のび太とアニマル惑星」
サードステージ
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2008/09/04 (木) ~ 2008/09/14 (日)公演終了
満足度★★★
立ち止まれない流れ
とにかく、楽しい舞台だった。あまりに楽しすぎて、時間を忘れた。そして、観終わったいま、楽しさしか、残っていないことに気づいた。
ドラえもんって、こんなに、気が狂いそうなくらいに「楽しい」だけの作品だったっけ?
ネタバレBOX
ドラえもんが、舞台になる。とにかく、どのように舞台化するのか、鴻上さんの演出に注目が集まる。そして、結果、演出としては、満点だった。
とにかく、楽しい。タケコプターひとつとっても、ワイヤーで本当に飛んでみたり、不気味なほどにそっくりの、自分の飛んでいる人形がくっついている棒を、各自が持って飛ばしてみたり。空気砲も、でんじろう先生が良くやっている、段ボールで出来た、たたくことで煙のボールを打ち出すものを持ち出したり。実に多彩。次は、どんな演出が飛び出すのか、それだけを楽しむだけで、お腹いっぱい。鴻上演出の集大成が、ここにはある。
ダンスと音楽が随所に盛り込まれて、まるでミュージカル。最後の歌では、ついついこちらも手拍子。僕の席のまわりは大人ばかりだったのだけれど、いつの間にか、最初は腕組みしていたスーツ姿のおじさんたちも、一緒に、ぎこちなくだけど、笑顔で手拍子していて、嬉しくなった。本当に楽しい舞台だった。
でも、なんだか、不思議と疑問が残る。これでいいのだろうか。なんだか、子供向けの作品は、楽しければいいと考えられているみたいな気がする。この舞台、「楽しさ」以外のものが存在しないのだ。
原作の「アニマル惑星」では、「敵」である「悪魔=二ムゲ」が、もっとしっかりと細かく描かれていた。だからこそ、実は「二ムゲ」が、惑星を科学で滅ぼした人間だったということが、重みを持って明かされたとき、とても怖い思いがしたのだった。原作のラスト、捕まった二ムゲのリーダーがマスクを取って、支配がかなわなかった、憧れのアニマル惑星の風をうけて、「いい風だ……」とつぶやく。こういう「細部」こそが、感想を生んだ。
ところが、舞台版は、こうした、物語の細部を、ことごとく省略する。物語の細部は、演出の細部によって、取って代わられてしまっているのだ。すると、残る物語は、非常に淡白で薄っぺらいものになってしまう。
これは、もしかすると、鴻上作品の本質かもしれない。軽快な演出をベースにした大きな流れが、物語を飲み込んで、全てを、狂躁的な楽しさが支配する。だが、ともすれば、情報の生み出す「大きな流れ」が全てを押し流してしまう現代にあっては、楽しさだけに向かって走るという方法は、危険であるだろう。
前回の鴻上作品『グローブジャングル』では、走り出しても、その都度、きちんと立ち止まって、足下を確かめていたと思うのだけれど、今回は、楽しさという流れを疑う様子は全くない。それは、もしかすると、「子供向け」への甘えかもしれない。
現在鴻上さんは、虚構の劇団で、若い俳優たちに、舞台の「楽しさ」を徹底的に教え込んでいるところ。僕は、とても楽しそうに演劇をする彼らのファン。でも、今回の舞台にも出ていた彼らは、「楽しさ」が前に出過ぎて、みな同じ笑顔。みんなが同じ人のようにも観えて、そこには、確かに、意図されていない、怖さすらあった。
森の奥
王立フランドル劇場(KVS)&トランスカンカナル
こまばアゴラ劇場(東京都)
2008/09/09 (火) ~ 2008/09/13 (土)公演終了
満足度★★★★★
猿の地平で考える
現代の演劇界で、僕ら一般人の目線をもって、世界を表現できる人は、平田オリザさんだけかもしれない。
「森の奥」は、ベルギー王立劇場の依頼で、オリザさんが書き下ろした作品。完全な「乱交型」コミュニティを作ることで知られる、もっとも人間に近いと言われる類人猿、ボノボについて語る研究者たちの姿の向こうに、僕らをとりまく、地球規模の、人の世界がみえてくる。
「他者」をめぐる、ともすれば、高いところから見下ろす形になってしまいそうな題材が、オリザさんの、どこまでも自然な言葉と、ベルギーの俳優たちの、演技を忘れたような演技に、僕ら市井の人々の目線が込められて、ごくごく当たり前にしみ込んでくる。
感情が大きく揺れ動いたり、全く新しいものに触れたりということのない、地味な舞台。でも、ここは、喜怒哀楽から始まる、深い思索への、とても自然な入り口。僕は、この貴重な公演を、心から楽しんだ(できれば、もう一度観たい)。
ネタバレBOX
劇作家にとって、他国の劇場から、劇作のオファーがくるというのは、どういう気持ちのものなのだろう。オリザさんのこの作品には、そういうときに想像される、気負いのようなものが、全くない。それでいて、多文化と、自然と渡り合う、作家の姿が、はっきりと映る。
プログラムの言葉を引用してみよう。「結局、ベルギー本国を舞台にするとぼろが出やすいので、旧植民地であるコンゴを舞台にして、しかも私の得意分野である霊長類研究の話題を書くことになりました。日本のお客様には、分かりにくいかも知れませんが、人間と猿の違いを描くことで、ベルギーの中にある人種間対立の問題が透けて見えるような構造にしたつもりです。」とある。
自分の知らない国からの依頼を受けて、まず、その国について調べる。問題点を、テーマに据える。ここまでなら、なんとかなるかもしれないけれど、それを、自分の「得意分野」の話に紛れ込ませるとなると、相当の自信が必要だろうと思う。「霊長類研究」というような、国際的な得意分野をひとつ持っているかどうかが、これからの国際人には問われているのかもしれない。
なにより、この「霊長類研究」の部分が、楽しい。ボノボは、完全に乱交型のコミュニティを形成。全てのコミュニケーションは、同性、異性を問わず、セックスに依存している。そんな世界では、例えば、特定の異性とのみセックスすることが「不倫」となる、とか。ボノボの社会のような、乱交型のため、誰の子供なのかが全くわからない親子関係の世界では、子殺しが起こらない、とか。物語は、こういう、類人猿の世界に関するコミュニケーションを通じて、世界各国から集った、心理学や言語学といった、立場も様々な科学者たちの、ぎこちないやりとりを、とても丁寧に描いて行く。
僕は、同時に、舞台上の白人たちと、観客席の僕ら日本人の間に、無言のやりとりのようなものが生じたと、感じた。それは、もちろん、舞台から、客席にはたらきかけがあるというわけでは全くない。
僕は、恥ずかしい話だけれど、舞台上に白人の役者さんたちがいる舞台に、最初、萎縮してしまった。僕らと、全く違う人たちだと感じて、狭いアゴラの、舞台と客席の間に、どうしようもない見えない壁があるみたいに、感じた。
でも、それが、次第に、消えて行ったのだ。というか、消えてはいないかもしれないけれど、それを、意識しなくなったような気がした。「日本人」と「白人」というような、雑な区別が、「猿」と「人間」という、さらに雑な感じの、でもより根源的な区別を通して、個人間の差異に着地するような、そんな気がして、いつの間にか、舞台上の人々と、自分が、同じ地平(猿の地平というべきものかもしれない)に立っているような気がしたのだった。
それは、多分、コンゴのジャングルを表現するための、冷房を切るという演出に助けられてのことかもしれない。舞台上の人々と同じように、僕らも、暑くて、服をはだけて、次第にだらしない身体を獲得していたから。また、オリザさんのオリジナルな言葉の、つまり自然な日本語の字幕にも助けられたのだろう(おおげさな言葉のない、とても親しみ易い言葉の字幕は、めずらしい)。
このように、大きな気負いではなくて、細かいところに気を配るところから、アゴラの、「国際演劇月刊」は始まった。僕は、この姿勢を、信じる。ここには、巷に溢れる、自己満足の「国際交流」ではない、もっと自然なものが生まれると思った。そして、次の演目が、楽しみになった。
祝/弔[祝─駅前劇場側]15日本日千秋楽
クロカミショウネン18 (2012年に解散致しました。応援して下さった方々、本当にありがとうございました。)
駅前劇場(東京都)
2008/09/04 (木) ~ 2008/09/15 (月)公演終了
満足度★★★
見えない綱の向こう側。
野坂実の魅力は、曲乗りのような話の転がし方だ。
約束された最後を感じさせず、ギリギリの綱渡りに目を見張る。
それを見出せたのが、『NINPU妊xxx婦SANJO』であった。
今回思うのは、見えない綱渡りをいかに楽しむのか、である。
二劇場同時公演で登場人物が行き来するという状況下において、
「祝」で行為A、「弔」で行為Bが行われたとする。
A・Bともにそれぞれの主体性を帯びることもあろうが、
AがBのために行われたり、その逆のことが行われることもあるだろう。
結果として、多少の粗が見えてしまったりもする。
粗が見えることにより、逆に綱渡りの安全さ(結末)が見えたりもして。
誤った推論かもしれないが、一つの作品としてのクオリティは、
結果として低くなっているのではないか、と残念に思うのである。
端的に言えば、ちょっと強引な設定が多かったかな、と。
ああ。長々と書いてしまった。
要するに二劇場同時公演は、お祭り的要素が強い。
「祝」から「弔」を想像させるのは、興行的に言えば魅力はあるが、
作品的な魅力に直結するとは限らないのではないか。
それは、野坂実の力量の問題ではなく、興行スタイルの問題だ。
一つの問題として提起したい。
(そして、「弔」が見たくなったことも付け加えておきたい。
やっぱり、いろいろ気になるじゃんか)
ネガティブな印象ばかり書いているが、作品として納得はできている。
納得できたのは、観客の感情を一身に集める人間がいたからだ。
「祝」の巧さは、この人のキャラクタでカバーしている点にある。
脚本的に巻き込まれ役として、上手く味付けしているだけでなく、
それを素材のよさが、さらに引き立てているように思えた。
それが誰なのかは、ネタバレにて。
ネタバレBOX
場をうまい具合に成立させた、関根信一。
中性的で稀有な存在感は、観客の注目を集めやすかったと思う。
割と強引な設定も、ごまかしきれる強さも感服した。
「祝」は彼/彼女のためにあった。