満足度★★★
見えない綱の向こう側。
野坂実の魅力は、曲乗りのような話の転がし方だ。
約束された最後を感じさせず、ギリギリの綱渡りに目を見張る。
それを見出せたのが、『NINPU妊xxx婦SANJO』であった。
今回思うのは、見えない綱渡りをいかに楽しむのか、である。
二劇場同時公演で登場人物が行き来するという状況下において、
「祝」で行為A、「弔」で行為Bが行われたとする。
A・Bともにそれぞれの主体性を帯びることもあろうが、
AがBのために行われたり、その逆のことが行われることもあるだろう。
結果として、多少の粗が見えてしまったりもする。
粗が見えることにより、逆に綱渡りの安全さ(結末)が見えたりもして。
誤った推論かもしれないが、一つの作品としてのクオリティは、
結果として低くなっているのではないか、と残念に思うのである。
端的に言えば、ちょっと強引な設定が多かったかな、と。
ああ。長々と書いてしまった。
要するに二劇場同時公演は、お祭り的要素が強い。
「祝」から「弔」を想像させるのは、興行的に言えば魅力はあるが、
作品的な魅力に直結するとは限らないのではないか。
それは、野坂実の力量の問題ではなく、興行スタイルの問題だ。
一つの問題として提起したい。
(そして、「弔」が見たくなったことも付け加えておきたい。
やっぱり、いろいろ気になるじゃんか)
ネガティブな印象ばかり書いているが、作品として納得はできている。
納得できたのは、観客の感情を一身に集める人間がいたからだ。
「祝」の巧さは、この人のキャラクタでカバーしている点にある。
脚本的に巻き込まれ役として、上手く味付けしているだけでなく、
それを素材のよさが、さらに引き立てているように思えた。
それが誰なのかは、ネタバレにて。