サザン・アイランズ 公演情報 燐光群「サザン・アイランズ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★

    大音量の「国際交流」
    「フィリピン国際交流プログラム」とある。燐光群の役者と、長い付き合いのあるフィリピンの役者とが、共同で、演劇を、3本、やる。

    さすがに、長い実績のある燐光群。演劇としては、3本でたっぷり3時間の大ボリュームも、ベテランたちの手堅い演技で、緊張感を持って観ることができる。

    ただし、僕は、この「国際交流」作品に、疑問がある。この、僕らの知らない情報を、ただ上から提出する、ジャーナリズムのような作品を、芸術作品と呼べるのだろうか。

    ネタバレBOX

    どの作品も、テーマが非常にはっきりしている。

    「虎の杖」は、フィリピンの、米軍基地問題を、沖縄のそれと並べて、比較検討。「雪を知らない」は、沖縄の米軍基地周辺で、多数はたらくフィリピーナたちの現状を報告。最後の大作「コレヒドール」は、日本と米国の戦闘の舞台となったフィリピンの、板挟みの感情と、現在の彼らが戦争をどのように捉えているのかを報告するもの。

    全ての作品は、共通して、「なにも知らない無知な日本人」が登場して、フィリピン人の現状を、情報としてやりとりする、という構造を持っている。一応すべてに、ちょっとした感情のやりとりがあるけれど、それは、「国際交流」のために伝えたい「情報」に、おまけとして添えられているような印象。確かに、これらの僕らの知らない情報は、おおいにためになるかもしれない。

    当然、劇中に登場する「無知な日本人」たちは、情報を持っている「国際人」であろう作者たちからみた、僕ら市井の一般市民だ。これらの作品の目的は、僕ら無知な人々に「情報」を与え、啓蒙することにあるようだ。

    ここには、情報を持つことが、力を持つという、権威主義がみえる。そして、非常に高いところから、上からの目線で、ものをみている、政治家のような目線を感じる。

    作品中には、ものを良く知る日本人も登場。彼らも、フィリピン人のことをつい失念して、やりこめられる。例えば、「日本では○○なのに、ここではなんでこうなんだ」と日本人が言い、「フィリピン人は○○だったということを日本人はすぐに忘れる!」と怒られる。すると、日本人は、即座に「それはそのとおりだ、すまなかった」とあやまって、「でも……」と、自分の持つ新しい情報を披露するのである。

    これは、情報を持つ作者たちの姿かもしれない。僕には、この反応のすばやさが、信用できない。この舞台は、時間が長いせいかもしれないが、やりとりの反応が、とてもすばやい。みんな、即座に、あやまる。そんなにすばやい謝罪を、人は、信用できるだろうか、と思っていると、その直後に、とても大きな声で、自分の持つ、相手の知らない立場が、新たに情報として示される。なんだ、彼らは、とりあえずあやまった後で、情報を使って、自分の優位性を保つのだな、とわかる。謝る前の発言は、これにより、検証されることなく見逃されるのだ。とにかく、「情報」としての世界を持つことが、「国際人」であることを、信じて疑わない姿勢が、ここにはあると思う。欺瞞が、あると感じる。

    舞台芸術には、社会を批評的にみる視点が必要だと思う。声を大にして「国際交流」などを叫ぶ場合には特に。でも、情報を持つことが権威につながる社会そのものを疑わない姿勢こそが、まずは疑われるべきだと、僕は思う。自国の、市井の市民の目線が、大声で叫ばれる、一方的な「国際交流」の前に、忘れられている。そう感じる(そういう意味では、今をあらわす作品かもしれないが)。

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    2008/09/10 13:16

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