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テトラポット

テトラポット

北九州芸術劇場

J:COM北九州芸術劇場 小劇場(福岡県)

2012/02/20 (月) ~ 2012/02/26 (日)公演終了

満足度★★★

雪の降る海にて
 90年代以降、解離性障害が演劇のモチーフとして描かれることが多くなった。
 鴻上尚史『トランス』がその代表格だが、このような「病気」が芸術の題材として普遍性をもって受け入れられるようになったのは、大なり小なり、我々がみな、社会生活を営む中で、何らかの精神的疾患を抱えざるを得なくなっている状況があるからに他ならない。私たちは往々にして、「個」を喪失してしまう。複雑化する社会の中で自分を見失ってしまっている。
 「ここはどこ」「私は誰?」は、現代人に共通の、普遍的なテーマになっているのだ。

 『テトラポット』の主人公は、常に周囲の「現実」に対して「違和感」を覚えている。
 いや、周囲が、主人公に「現実を疑え」と問い掛け続けている。
 「誰もいない」と叫ぶ主人公に、周囲の「彼ら」は、「いないのはお前だ」と返答するのだ。

 我々の「主観」がどれだけ信じられるというのだろう。
 我々は常に自己の認識を「騙し」続けている動物である。「言葉」は決して真実を語る道具などではなく、欺瞞を作り出し、我々を虚構へと誘う。最大の欺瞞は、デカルトの唱えた「我思うゆえに我あり」である。その思考が他人から与えられたものではないと証明することが果たして可能だろうか。
 我々が現実に違和感を覚えるのは当然のことなのだ。自分が現実だと信じているものは、他者から見れば、当人が勝手に作り出した虚構に過ぎないのだから。

 柴幸男は、作品ごとに手を変え品を変えて、その我々が作り出す虚構に、果たして展望があるのかどうかを問い掛け続けている。
 『テトラポット』の恐ろしさは、主人公が、自らの虚構性を常に問われながらも、何一つ明確な返答もしなければ、行動に出ることもない、ということだ。
 そうなのである。この主人公は、徹底的に「何もしない」ことを明確な役柄として与えられている。私たちが、観客のあなた方がみな、今現在、「何もしていない」のと同様に。

 私たちは、「何かをしなければならない」時に直面してはいないのだろうか。もしも直面していながらその事実から目を背けているのだとしたら、やはり我々は自らの作り出した巨大な卵の中に閉じ籠もったまま、孵化することを拒絶している存在なのである。

ネタバレBOX

 廃墟のような教室。
 机の上に立って、海坂三太(大石将弘)が叫んでいる。「誰かいませんか!」
 おもむろに現れる兄の圭二郎(寺田剛史)。「いるよ」と返事する。しかしそのあとでこう続ける。「いないのはお前だ」。
 それから、細かい暗転が繰り返されて、いつともどことも分からない、脈絡のないシーンが点滅するように描写される。
 それは、三太と、彼を巡る人々の物語だ。

 長男の一郎太(谷村純一)は教師。妻のとと(ヒガシユキコ)とは別居中。あろうことか、妻の妹で生徒の葦香(折元沙亜耶)に恋をしてしまっている。
 次男の圭二郎は妻の紗知(原岡梨絵子)と正式に離婚。慰藉料と娘・片吟(米津知実)の養育費を請求される毎日である。
 四男の四郎(藤井俊輔)はまだ学生。なのに恋人の川合らっこ(古賀菜々絵)との間に子供ができて、どうすればよいか分からずにいる。

 それぞれに深刻な問題を抱えている兄弟だが、三太にだけはたいした問題がない。せいぜい幼馴染の抹香鯨(高野由紀子)に迫られている程度だ。
 それでも三太は、この「海の町」を出ていくつもりでいる。故郷を捨てて、もう戻らないつもりでいる。

 しかし、三太は戻ってきた。母の伊佐名(荒巻百合)が死んで、戻ってきた。
 葬式に集う四人の兄弟。しかし、それは“いつのことだったろうか“。

 時間と空間が前後し、交錯し始める。教室の時計を見る三太。2時46分前後。時計はいつでも、2時46分“前後”。そこから動くことはない。三太は、過去から現在に至るまでの長い時間を凝縮された形で、この時間の狭間に閉じ込められたのだろうか。
 だとしたら、“今はいつ”で“ここはどこ”なのか。
 最初に現れたのと同じシーンが、何度も繰り返される。背景に流れる音楽は、モーリス・ラヴェルの『ボレロ』。同じ旋律が何度も繰り返されるオスティナート奏法の代表曲だ。

 三太の前に現れる謎の女性、安藤いるか(多田香織)。たった一人の吹奏楽部員。オルガンを弾きながら、学生の三太に「部員になってよ、楽器弾ける子も連れてきて」と呼びかける。
 実は、彼女だけが、この海にちなんだ名前を持つ人々の中で、「本当の名前」を持っている。安藤“はるか”。かつて、病気で入院していた時に、兄の圭二郎と出遭っていたことがあった。大人になって、教育実習生として、弟の四郎の前に現れたこともあった。
 彼女は言う。自分は、海と陸の間の、テトラポットの中にいるのだと。それは何かの比喩か、それとも「現実」なのか。それが「夢」なのだとしたら、今、その夢を見ているのは誰なのか。

 人々が教室に集まってくる。めいめい、楽器を持って。
 演奏される『ボレロ』。プランクトンの死骸、マリンスノーが教室に降り注ぐ。
 三太は「溺れている」のだ。でもまだこの海の底から「帰れる」のだ。「帰って」と叫ぶいるか。人々が叫ぶ。三太を助けるのは「いるか」。
 地球は全て、海の底に沈んでいた。わずかに残された地上を支配していた生物は、進化したイカたち。三太は、最後にたった一人生き残った哺乳類“テトラポット”。
 彼らは叫ぶ。三太に戦えと。イカと戦えと。生命が誕生し、単細胞から進化をし続け、その果てに現れた最後の哺乳類の代表として、戦えと。楽器を演奏できない三太は、必死に指揮棒を振る。それは溺れる者のあがく姿。『ボレロ』が、クライマックスを迎える。


 あらすじだけを書き出すと、これは大いなる悲劇のように見えるが、実際はかなり笑いどころも多い喜劇である。ブラック・コメディと言うべきか。
 時間がループする(同じ時間を何度も繰り返す)アイデアは、小説、映画、アニメを問わず、近年のSF作品には数多く見られる。昨年の読売演劇大賞、前田知大の『奇ッ怪 其ノ弐』もそうだったし、先日の多田淳之介『再/生』も時間の観念は定かでないもののやはり「繰り返し」ネタであった。
 『テトラポット』の脚本・演出である柴幸男自身も、前作『わが星』で、ループネタを既に試みている。いささか手垢が付きすぎているアイデアだけに、「見せ方」に工夫が必要となると言える。

 ここで注目したいことが、三太が「何もしない」主人公であったという事実だ。閉ざされた時間の物語は、たいていの場合、主人公がそこから脱出しようと懸命の努力をし、あがくものだ。ところが三太はほとんど事態を傍観するばかりなのだ。
 他の兄弟は、何らかの形で前に進もうとしている。
 一郎太は自分の恋心に忠実に生きようと決意するし、圭二郎は養育費を払うようになるし、四郎はらっこに押し切られる形ではあるが、子供を育てることを決意する。
 しかし彼らはみんな死んだ。
 何もしようとしなかった三太だけが生き残った。そして今、彼は溺れかけている。なのに、自分が溺れているのだと事実すら、認識しようとしない。まるで閉ざされた時間の中にいた方がいいと無意識のうちに望んでいるかのように。
 人間にとって最も困難なことは、実は「現実をありのままに認識する」ということなのだ。いや、困難と言うよりもそれが「不可能である」と理解するところから全ての表現活動は始まる。もちろん、演劇の場合も然りだ。

 彼らを襲った未曾有の災害に、東日本大震災を想起する観客は多いだろう。しかし、SF作品は、実際の災害や原発事故が起きるずっと以前から、それらに備えず“何もしなかった”人々の愚かさを指摘し、警鐘を鳴らしてきた。『タイムマシン』然り、『渚にて』然り、『日本沈没』然り、『サイボーグ009』も『デビルマン』も藤子・F・不二雄のSF短編も、もちろん『ゴジラ』も。
 『テトラポット』が、なぜSFでなければならなかったかの理由がここにある。SFのみが、我々の「未来の愚かさ」を指摘し続けてきたのだ。80年代までは、SF作品は波こそあれ、常に文学、漫画、映画の最先端を走り、受け手を増やしてきた。しかしマニア化が進むあまり、次第に一般客がSFと関する作品から離れるようになり、「かつてSFというものがあった」と揶揄される事態にまで至ってしまった。
 しかし、我々は、SFという手法を、決して忘れてはならないのではなかったか。「想像の翼」を広げることをやめるべきではなかったのではないか。柴幸男をシュタイナーあたりのオカルトと絡めて語る変人もいるが、誰もマトモに聞いてやしないとしても、こういう狂った誤読がまかり通ってしまうのは、SFの衰退と密接な相関関係があるのである。

 なぜ最後の敵がイカでなければならなかったのか、ただのギャグと解釈する人もいるだろうが、海洋生物で有史以来、伝説やフィクションの中で、人類の最終的な敵として想定されてきたのはイカなのだ。海の怪物クラーケンは、しばしば巨大なイカないしはタコの姿で描かれている。
 SFはその「系譜」をきちんと継承した。『海底二万哩』を初めとして、海洋SFでは「進化したイカ」は、繰り返し描かれてきた。アーサー・C・クラークが大のイカ好きであったことも有名だ。
 人類対イカの対決は、この作品がSFであることの「記号」なのである(『侵略!イカ娘』ってのもあるが、あれはSFと言えばSFなんだが、まあ例外ということで)。


 物語に不満はない。
 演出については、マリンスノーは客席にも降らせた方がよかったのではないかと思っている。あの世界では、観客である我々も「死人」だからだ。

 手放しで賞賛しにくいのは、やはり俳優の力量不足である。
 もともと、福岡の俳優は概して練習不足で表現の基礎もできていない者や、演劇的センスに欠けている者が少なくないのだが、それを柴幸男はかなり見られるものに鍛えてはいる。しかしそれは従来の彼らの舞台を見ているからこそ言えることで、この『テトラポット』だけを見て判断する客は、やはり何だこの下手くそたちは、と思うだろう。
 群唱すると声が合わず、殆ど何と喋っているか分からない。実は、分からなくても「何か変な奴らが変なこと叫んでいるな」と思う程度で、それほど気にはならないのだが、これは戯曲が予め「そう仕立てられている」からで、つまり戯曲に俳優が助けられているのだ。戯曲に何か付け加え膨らませるのが役者であるなら、これは役者失格と言わざるを得ないだろう。
 ギャグがあまり受けていなかったのも、戯曲のせいではない。殆どの場合、役者が間を巧く取れなかったり、声を変え損なって、笑いに繋げられていないのである。たとえば、時間が少しも進んでいないことについて、「さっきも2時46分前後で、今も2時46分前後。前後っていうんなら、前はずっと前で、後はずっと後なんだから、いいんじゃないの?」ととぼけたことを言う四郎に、あとの兄弟が「いやいや」と突っ込むのだが、このタイミングが各自バラバラなのだ。これでは笑いたくても笑えない。
 一番、困ってしまったのは、『ボレロ』の演奏が超絶的に下手くそなことである。下手でもいいから迫力を出してくれればいいのだが、これもクライマックスで音が“滑って”すかしっぺをこいたような終わり方をしてしまう。全人類が死んでるんだから、ここだけ客席にも楽隊を入れて、人数を増やすことをしてくれたらよかったのにと残念に思う。

 柴幸男のインタビューによれば、今回は俳優一人一人に当て書きをして役を作ったということだが、もちろんこれは役者を鍛えるにはあまりにも時間がなかったということもあるのだろう。だがそれが裏目に出た面もある。自分に近い役を演じた場合、演劇的センスのない者は、それがモロに見えてしまうのだ。
 今回の場合、ほぼ全員がSF世界の住人になりきれてはいなかった。現実と虚構のあわいに存在している空気を身に纏うことができなかった。台詞の内容ではない、「言い方」の問題である。素の自分に近い喋り方が、「現実」の方に針を傾けすぎたのだ。それが最も顕著だったのが「いるか」で、彼女は三太を現実に返すキーパーソンである。だから彼女自身は決して現実側に傾きすぎてはいけないのだが、往々にして、「生」な部分が、はっきり言えば「女」の部分が見えすぎた。
 もちろん彼女はこの世界のセイレーンで、いったんは三太を惹きつける必要があるから、「性」を失うわけにはいかないのだが、それは三太を溺れさせるものであってはならない。性的でありながら性的であってはならないという、二律背反のとんでもない要素、つまりは演技力が求められるのである。福岡の俳優にはこれはいささか荷が重すぎたが、こういうキャラクターがいないことには、三太は現実に帰れなくなるから、さすがにこの役だけはいいキャストがいないからカット、という訳にはいかなかったのだろう。
 眼を全国に広げてみても、若手の女優で、「はるか」と「いるか」の両面を併せ持つこの役を演じきれる役者は、そうはいないだろう。でもだからこそ、別キャストで、『テトラポット』の再演を観てみたいとも思うのである。


 蛇足。
 舞台の内容とは無関係だが、「テトラポッド」は株式会社不動テトラの登録商標で、一般名詞としての呼称は「波消しブロック」である。だから劇中での台詞はともかく、タイトルとしておおっぴらに使うのは本当はマズイのである(つか、北芸もタイトル提示された時に誰か気付けよ)。
 訴えられはしないかもしれないが、念のため、ソフト化する時は改題した方がいいんじゃないだろうか。でもこれには「四足獣」としての意味も掛け合わされているから、「波消しブロック」にしたら何の意味もなくなってしまう。と言うか、んなふざけたタイトルが付けられるもんか。何かいいタイトルはないものかね。
 基本的に、私の批評は作り手に何かを要求する目的で書くことはないのだが、この点は気になったので、どなたかが柴幸男氏にお伝えいただけたらと思う。
クーザ

クーザ

CIRQUE DU SOLEIL

福岡・新ビッグトップ(筥崎宮外苑)(福岡県)

2012/02/09 (木) ~ 2012/04/01 (日)公演終了

満足度★★★★★

生身のファンタジー
 公演ごとにタイトル、設定を変えて演じられる、シルク・ド・ソレイユの最新作。「クーザ」とは、少年イノセントがトリックスターに誘われてやって来た「不思議の国」の名前だ。
 登場してくるキャラクター一人一人に名前があり、彼らの至芸にイノセントは魅せられていく。もちろん観客もである。
 少年の名前が「イノセント(無垢)」であるように、私たちもまた心を無垢にして、クーザの人々が繰り広げるイリュージョンにただ純粋に感嘆の声を上げるばかりである。もしもそのイリュージョンが小手先のものでしかなかったら、誰も感動はしない。やはりシルク・ド・ソレイユのメンバーの芸が、我々の想像を超えて、まさしく一つのファンタジック・ワールドを構築し得ているからこそ、万雷の拍手も起きるのだ。
 演じているのは生身の人間であるから、本当のファンタジーの住人のように、空を飛んだり火を吐いたり変身したりはしない。しかし、空中ブランコも、ダンスも、アクロバットの数々も、人間の身体能力の限界に挑戦し、それらに匹敵するだけの鮮やかな幻想を見せてくれている。
 別れの時間は必ず訪れる。物語が幕を閉じたあと、どの観客の胸にも一抹の寂しさがよぎったことだろう。『オズの魔法使い』や『ナルニア国ものがたり』のように、クーザの世界もまたシリーズにならないかと、心に願ったのは、私だけではないはずだ。

ネタバレBOX

 そう大昔の話でもない。サーカスのイメージと言えば、その煌びやかさの影に何かしらの「闇」を内包していることが常であった。
 小説や映画にサーカスのシーンが登場する時、それはしばしば「逢魔が時」のイメージと重ねられる。『美しき天然』の調べとともに現れる素顔を隠したピエロは、主人公を迷宮に誘い込む魔性の使徒のように描かれることも少なくなかった。
 眉村卓『迷宮物語』のイメージはその代表的なものだが、これがわが国だけの特徴でないことは、トッド・ブラウニング『フリークス』や、『ダレン・シャン』のシルク・ド・フリークの例を見ても明らかだろう。
 サーカスを構成していた人々は、そもそも我々とは違う「異世界のマレビト」であったのである。

 しかし、シルク・ド・ソレイユにはそのような「暗さ」は微塵もない。「太陽のサーカス」と名乗る通り、暗闇の天蓋にあっても、クーザの住人たちはひたすら陽気で、孤独な少年イノセントの心を癒すことだけに腐心している。

 ひとりぽっちで凧揚げをしている少年。凧はいつまで経っても揚がらない。どこかで見たような風景だと思いながらも、舞台を見ている最中は気がつかなかったが、あれは漫画『PEANUTS』のチャーリー・プラウンの定番のシーンにそっくりだ。
 どんなに努力しても揚がらない凧。やることなすことうまくいかない、草野球でも一度も勝てない、そして友人たちからはちょっとバカにされている移民の子のチャーリー。誰も、彼の孤独な魂には気がつかない。
 イノセントの周りにも、友達は誰もいない。楽しいサーカスを観に来たはずなのに、私たちの前に最初に提示されるのは、どこまでも寂しく哀しい、少年の傷つきやすい心なのだ。

 クーザの住人たちがイノセントに与える「夢」は、いずれ効力が切れる魔法などではない。
 彼らはファンタジーの住人だが、彼らの見せる「芸」は、人間が肉体の限界に挑戦することで紡がれる夢だ。

 キングとそのお供の二人のクラウン。
 クーザの王でありながら、やってることはたいてい客いじり。舞台に出るたびにアナウンスで「舞台から離れなさい!」とお叱りを受ける。嫌がるお客さんを舞台に引きずり出して、消失マジックにかけるあたりまでは予測が付いたが、銃声一発、客席の一つが突然“せり上がって”、お客さんが晒し者になったのには驚いた。ちょっとしたドッキリカメラである。
 マッド・ドッグ。
 その名の通りのイカレた犬。もちろんぬいぐるみで本物の犬ではない。イノセントにまとわりついて離れないこともある。
 へイムロス。
 鉄カブト、ヨロイに身を包んだ地下の住人。なぜそこにいるのか何をしているのかよく分からないが、幕間の「休憩」時間を教えてくれる。
 ピックポケット。
 変装の名人で、狙った獲物は必ず頂く大泥棒。と言うかスリ。お客さんから本当にサイフやネクタイをすりまくっていたから、本業なのであろう(笑)。警官は彼を追うのに血眼だが、ところがこれが捕まらないんだな。でもイノセントからは何も盗まない。
 スケルトンたち。
 骸骨なんだが、顔はどっちかというとドクロと言うよりも『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』のジャック・オ・ランタン。彼らがいるということは、クーザは死後の世界なのだろうか。
 そしてトリックスター。
 宝箱の中から忽然と現れて、イノセントをクーザの世界に連れてきた張本人。神出鬼没、彼が振るうステッキで、世界はいかようにも変化する。どうやら彼がクーザの世界の創造主らしいのだが、なぜイノセントを選んだのか、それは最後まで分からない。

 1.Charivari(シャリバリ)
  19名のダンサー、アクロバッターによるオープニング・パフォーマンス。
  中央の巨大な三層ステージの屋上から下のトランポリン目がけてダイブする(10メートルはあろうか)アクションで、いきなり客の度肝を抜く。
 2.Contortion(コントーション)
  三人の少女が、軟体動物のように体をくねらせ、えびぞったり積み重なったり。あれだ、往年のキング・アラジンの芸を思い出していただければ。
 3.Solo Trapeze(ソロ・トラピス)
  サーカスの花形、空中ブランコが早くも登場。あのブランコ、正式にはトラピスいう名前らしい。演じるのは女性1人だ。よくある2人組、3人組での空中タッチなどはないが、たった一人でも、バトンから手が離れるたびに、歓声と言うよりは悲鳴が起きる。喉が鳴ります、牡蠣殻と。
 4.Unicycle Duo(ユニサイクル・デュオ)
  一輪車に乗る二人組の男女。車上でダンスするだけでなく、男が女を軽々と持ち上げるのだから、 どれだけバランス感覚が凄いか。
 5.Double High Wire(ダブル・ハイ・ワイヤー)
  3人の男性による綱渡り。チャップリンの『サーカス』でもメインになった芸だが、今の観客はあの程度ではもう驚かない。綱の上でジャンプする、相手を飛び越える、椅子の上に乗る、肩車で立つ、縄跳びをする、自転車に乗る……。さほどふらつく様子も見せず、地上の動きと何ら変わりがないように見えることに驚嘆。
 6.Skeleton Dance(スケルトン・ダンス)
  豪華絢爛な骸骨たちのダンス。彼らを束ねる骸骨王は何者なのか? バックステージで踊るシンガーの歌声とダンスにも魅せられる。
 7.Wheel of Death(ホイール・オブ・デス)
  命綱もなければトランポリンもない。空中で回転する巨大な二つのホイールの上で、走り、ジャンプする二人。この眼で見ても、本当の出来事だとは思えないくらいに圧巻。観客の歓声が最も多く上がった、本ステージの白眉。
 8.Hoops Manipulation(フープ・マニピュレーション)
  アクロバチックなのにセクシー。女性の回すフープの数がどんどん増えていく。
 9.Hand to Hand(ハンド・トゥ・ハンド)
  男女の「愛」を二人の「バランス」で表現する。男性の周りを軽やかに動いて、時には肩や腰の上に足一本で立ってみせる。バランスが崩れれば愛も壊れるのだ。
 10.Balancing on Chairs(バランシング・オン・チェアー)
  椅子が1脚、また1脚と積み重ねられていき、その上でパフォーマンスを繰り広げる演者の男性。あれだけ危うい姿勢、片手だけでポーズを取っていて、なぜ椅子が崩れないのか、不思議としか言いようがない。
11.Teeterboard(ティーターボード)
  クライマックス。シーソーで空中に舞い上がる演者たち。空中できりもみ回転してトランポリンに着地、さらには他の演者の肩にすっくと立ってみせる。縁者たちはイノセントにもジャンプを促すが、彼は固持する。
  もう、別れの時が近づいていたのだ。

 波が引くように、ダンサーたちは舞台からいなくなる。
 トリックスターも、魔法のバトンをイノセントに渡して消える。
 舞台に残ったのは、イノセントとキングの二人だけ。
 どこかに飛んでいったはずの凧を返してもらい、イノセントはキングから王冠を手渡され、それを被る。それは、彼がクーザの世界にいたことの証だ。
 イノセントはまたひとりぼっちになる。
 けれども、以前のように、その心までが孤独ではなくなったことは間違いのないことだろう。それは、クーザの世界に触れた観客がやはり、胸いっぱいの幸せを噛みしめているからである。
がっつり演劇LOVE わーくしょっぷ 発表会

がっつり演劇LOVE わーくしょっぷ 発表会

福岡市文化芸術振興財団

ぽんプラザホール(福岡県)

2012/02/19 (日) ~ 2012/02/19 (日)公演終了

満足度

シロウトだからではない
 『再/生』を楽しく観ることができたので、こちらも期待して観に行った。
 結果を言えば、ワークショップのシステムは面白かったが、出来上がった作品は何一つ見所のないつまらないもので、すっかり落胆してしまった。
 シロウトの集まりだからつまらなくなっているわけではない。ワークショップのやり方そのもの、多田淳之介の演出自体に重大な欠陥があるのだ。『再/生』と違って、この発表会の方は、観客の想像力が一切喚起されない。観客は置いてきぼりを喰らってしまうのである。

 想像力が喚起されないのは当然である。多田氏は、このワークショップでは、『再/生』とは全く正反対の演出を施している。アフタートークで多田氏自身が発言していたことだが、『再/生』は俳優同士にコミュニケーションを一切取らせなかった。それに対して、ワークショップは、コミュニケーションをとらせることをテーマにしているのだ。
 コミュニケーションを取らせなかったからこそ演劇として成立していた舞台を、根底から覆すような演出を試みれば、演劇になりようがないのは自明ではないか。

 『再/生』の舞台に立っていたのは、紛れもなく「俳優」であり、一人一人が「人生」を背負ったキャラクターとして生きていた。しかしワークショップの舞台に立っている人たちは、ただの「ワークショップの参加者」でしかない。そうとしか見えない人々に対して、想像を働かせることは不可能である。
 これはただのワークショップ発表会であって、演劇ではない、という言い訳は成り立たないだろう。「演劇LOVE」とまでタイトルに堂々と冠しているのだから、たとえ出演者がシロウトであろうと、出来上がったものは「演劇」になっていなければ、看板に偽りありと誹られても仕方がないはずだ。

 どうにも理解不能に陥ってしまうのは、どうして多田氏は、一目瞭然、できあがったものが、演劇にも何にもなっていないという、単純な事実に気付かなかったのだろうかということだ。それとも舞台上の登場人物がただ雑然と行き来するだけの舞台が、演劇として成立しているとでも思っているのだろうか。
 多田氏も果たして演劇人としての腕が一流なのか三流なのか、よく分からないところがあるようだ。

ネタバレBOX

 舞台に集まった発表者のみなさんが、自分の名前(ニックネーム)を書いた「ゼッケン」を胸に付けていたのを見た時点で、すっかり落胆してしまった。
 これではこの人たちが「ワークショップの参加者」以外の何者にも見えないではないか。
 舞台で、俳優が衣装を着けるのは、その「キャラクター」を表現するためではない。その外形と内面との乖離から、観客の想像力を喚起させるためである。たとえば、王様の姿をした人間が。本当に王様であるとは限らない、仮に本当に王様であったとしても、その心が必ずしも王として相応しいものではないかもしれない、即ち衣装とは、そういう「疑い」を観客に抱かせるためのきっかけに過ぎないのだ。
 一見、Aと見えるものがAではないかもしれないと疑わせるところから、「演劇」は始まるのだ。だからこそ、「誰とも特定できない衣装」だってあり得るわけである。

 もしも、五十歳を過ぎた男性と女性が向かい合っていて、女性が着飾っているのに、男性はラフなジャージ姿だったりしたら、この二人はどういう関係にあるのだろうと、観客は想像を巡らすだろう。しかし、「名札を付けた二人」なんて存在が、現実世界で、相対するようなことがありえるだろうか。
 多田氏はさらに、彼らに「“LOVE”」について語らせるのだが、次のような会話が、現実世界のどのようなシチュエーションでなら起こりえるだろうか。

 「LOVEって何だろうね」
 「俺は、LOVEって、許すことだと思うんだ」
 「ああ、うんうん」

 世間は広いから、もしかしたら家族や友人や職場の同僚同士で、こんな会話をしている人たちもいるのかもしれないが、少なくとも私は、家族から「LOVEって何だと思う?」なんて聞かれたら、「はあ?」と呆れて、相手の脳がイカレたんじゃないかと疑うだろう。
 まず、これは絶対に「家族の会話」ではない。新劇だろうが現代口語演劇だろうが、こんなふざけた台詞を書いたら、劇作家は観客から石を投げられたって文句は言えない。
 こんな非現実的な会話を臆面もなくできる状況があるとしたら、私には「自己啓発セミナー」とか新興宗教の会合くらいしか思い付かない。こんな他人の「癒されごっこ」を見せられて、それを面白がるような下品な感性が一般人にあると多田氏は考えているのだろうか。

 参加者たちは、一様に楽しげに、多田氏の演出通りに動いてみせる。
 二人が背中合わせで会話する。
 四人のグループが、輪になって会話する。その輪が舞台いっぱいに広がる。一人だけが背中を向けて仲間はずれになる。
 台詞を使わずに、立ったり座ったりでやりとりする。拍手だけでやり取りする。
 ワークショップで何を行ってきたかの過程を示しながら、多田氏は、どんな形を取ろうがコミュニケーションは成立することを説明していくのだが、それは「表現の原理」であって、「演劇」ではない。それはせいぜい、「あ」という発音が、それだけでも意味を持って受け止められるという言語の原則的なレベルの事象に過ぎないのだ。
 確かに、拍手の仕方や、立ち上がり方などで、そこに喜怒哀楽の感情が生まれているようには見える。しかし、その感情が観客にも共感を持って迎えられるためには、そこにいるのが「ワークショップの参加者」であっては困るのだ。彼らに、何の立場も役柄も与えられていない以上は、多田氏の言うようなコミュニケーションは、本人たちの間には生まれていても、観客席までは届かない。

 四日間の練習期間しかないわけだから、通常の演劇のように、台本を持って台詞を覚えて、というやり方が不可能であることは分かる。エチュードによる即興芝居を試みるしかない、というのは逃げでも何でもなく、短期間で演劇の面白さを参加者に感じさせつつ、観客にも楽しんでもらう手段としては適切だろう。
 しかし、表現の原理を確認する段階で留まっていたのでは、せっかく「50歳からの」と冠した意義が殆ど失われてしまう。一人一人の仕草にそれなりの個性は感じられても、「人生」までは見えてこないのだ。

 第1回福岡演劇フェスティバルでも披露されていた「イッセー尾形の作り方・ワークショップ」をご記憶の方もいらっしゃるかと思う。
 あの発表会もまた、今回のワークショップと同じように、全くのシロウトを集め、やはり四日間という短期間で、台本のない即興芝居を立ち上げていた。しかも舞台上に、家族や、友人や、会社の同僚と言った人々の関係性と、彼らが織りなす人生の一編を切り取ったようなドラマまで作り上げていたのだ。
 それが演出の森田雄三と、多田淳之介の力量の差であると言ってしまえばそれまでであるが、多田氏は「シロウトなんだからこれが限度」という限界を初めから想定してしまっていたのではないだろうか。

 アフタートークでは、多田氏は「みなさんがなかよくなれれば」というようなことを話されていた。別に参加者が仲良くなることがよくないと言いたいわけではないが、目的は仲良しこよしではなくて、「舞台を作ることの面白さは何なのか」ということではないのだろうか。
 最後のステージで、参加者全員が昨日の『再/生』のように舞台上を自由に交錯しながら、昨日は決してしなかった「握手」を交わしてばかりいるのを見ながら、やはりこれは「仲のよさ」ではなく、「馴れ合い」を見せられているだけだなと、暗い気分にさせられてしまったのである。
再/生

再/生

東京デスロック

ぽんプラザホール(福岡県)

2012/02/18 (土) ~ 2012/02/19 (日)公演終了

満足度★★★★

再生・再生・再生・再生・再生…・・・
 観劇に際しては、できるだけ先入観を持たずに見ようと心がけてはいるのだが、この『再/生』にはかなり意表を突かれた。
 最初にモノローグ、途中にちょっとした会話が行われはするものの、80分間、男二人、女四人の役者は、伴奏に合わせてただひたすら踊りまくるだけなのだ。しかしそれは決して無秩序というわけではなく、綿密に計算されていることに少しずつ気付かされていく。
 すると、最初は「踊っているだけ」に見えていた舞台が、俄然面白くなってくる。そこに演劇的な仕掛けがちゃんとあって、人間やら人生やら世界やらを象徴するものも見えてくるようになるのだ。
 実際、よくこんな変な演出を思い付いたものだ。客によっては「これは演劇なのか」と憤慨するのではないかと、余計な心配までしたくなってしまう。斬新と言うよりは「勇気がある」と呼んだ方がいいのではないか。
 この舞台には無駄な説明は一切無い。独白や会話は必要最小限に抑えられている。それはつまり客に媚びていないということである。だからと言って、前衛を気取って抽象的すぎる演出を施しているわけでもない。基本は単純なのだ。ただ「踊り続けること」。それだけで観客に伝わるものはきっとあると、演出の多田淳之介は信じているのだろう。それは、演出が「演劇の効力」を信じているということであり、またそれによって喚起される「観客の想像力」を信頼しているということでもある。
 我々は信頼されているのだ。これを愉悦と呼ばずして何と呼ぼうか。この舞台から何を受け取るか、あとは我々観客の側の問題である。

ネタバレBOX

 何もない舞台、背景は白いスクリーン(照明で俳優たちの影が映る)。
 舞台に散らばって佇む六人の男女。中央の女性が、おもむろに語り始める。
 「私は、自分が幸せでないことに気付いた」と。
 長い間があって、曲が流れ始める。
 サザンオールスターズの『TSUNAMI』。
 踊り出す六人。それぞれのダンスは全くバラバラで、統一性が全くない。コンテンポラリーなダンスを踊る女がいれば、軽やかにステップを踏む男もいる。器械体操的な振り付けの男や女もいる。
 見ているうちに、それらのダンスが、一人一人の生活と人生を象徴しているように感じられてくる。生真面目さや頑固さ、器用と不器用、軽快さと鈍重さ、人間は本当に様々だ。
 彼らは舞台を縦横に動き回る。しかし、交錯しても彼らが関わり合うことはない。二人で手を取り合ってダンスすることは決してない。そこに群衆の中の孤独を見出すことも可能だろう。あるいは逆に、集団の中にも埋もれることのない屹立した「個」を発見し、快哉を叫ぶことも可能だろう。
 解釈が観客に任されているのは、まさしくその部分だ。

 かかっている曲が『TSUNAMI』であることも、我々に様々な想像を誘う要素になっている。
 あの東日本大震災後、某音楽番組で、オリコン一位になった曲であるにもかかわらず、題名が呼ばれなかったという曰く付きの作品だ。
 もちろん、もともとの『TSUNAMI』は東日本大震災とは何の関係もないラブソングである。だからこの曲が使用されていることに何かの「意味」を見出そうとした場合、それは震災に関連付けるか付けないかで全く変わってくるだろう。
 「これは震災後の復興、人々の再生をテーマにしたいのだろう」と解釈するのももちろん観客の自由だが、そもそも『TSUNAMI』という題の曲であることを知らない観客なら、「解釈」のしようもない。普通に彼らは恋のダンスを踊っているのだろうと思うだけだろうし、その解釈が間違いであるということもない。

 ただ既にここで「再/生」というタイトルが示す通り、『TSUNAMI』は二度「再生(リピート)」されるのである。
 この「繰り返し」が重要な意味を持ってくるのは、次の曲だ。
 
 ザ・ビートルズ『オブラディ・オブラダ』。
 デズモンドとモリーの恋を歌った楽しい曲でありながら、解散寸前のビートルズにとっては何の愛着もない歌であり、アンチファンも少なくない。「ワースト・ソング」のアンケートを取ると、必ず上位に来るという歌でもある。
 「オブラディ・オブラダ」というフレーズには「人生は続く」という意味があるとされるが、実は適当な囃子ことばに過ぎない。
 これが実に8回、繰り返されるのである。アフタートークで多田氏が「5回くらいがちょうどいいんだろうが、あえて8回繰り返した」と述べていたが、実際には3、4回繰り返されたあたりで、ウンザリしてくる観客も少なくなかろうと思われる。もっとも私の場合は、その4回目あたりで「覚悟」を決めた。
 多田氏はご存じないようだが、アニメファンにはこの「8回繰り返し」は『涼宮ハルヒの憂鬱/エンドレスエイト』の八週連続放送というやつで「免疫」ができているのである。繰り返される理不尽な日常に無理やり付き合わされる、というのは、実は「現実世界」でも往々にして起こりうることなのだ。「エンドレスエイト」とは、まさしくそのメタファーであった。

 ここがこの『再/生』という舞台を評価するかしないかの分かれ目にもなるのだろう。
 人生は単調な毎日の繰り返しである。その永遠に続く牢獄のような世界に堪えうるかどうか、それに堪えた者だけが「超人」となりうると説いたのはニーチェだったが、さて多田氏がニーチェの永劫回帰の思想をこの舞台に持ち込むつもりで「八回繰り返し」などいう冒険に挑んだのかどうか、それは分からない。
 しかし少なくとも、実際の舞台で「見えてくる」のは、同じ曲に乗せて同じダンスを繰り返しながらも、少しずつ「疲れていく」、しかしそれでもなお「踊り続ける」俳優たちの姿である。
 たとえ単調で陳腐な毎日であっても、私たちはその平凡さに堪えてこの世界で生きている。「エンドレスエイト」の終了後に交わされる、俳優たちの「焼肉談義」。何の変哲もない会話が、ありふれた日常が、実は私たちの「平和」の象徴なのではないか。
 いつ果てるともしれない「オブラディ・オブラダ」の果てに投げかけられた、「カルビって、三人前ぐらい食べれません?」という腑抜けた言葉が、愛おしく感じられるようになるのだ。

 相対性理論の『ミス・パラレルワールド』、続いて『ラストダンスは私に』(歌い手は越路吹雪でないことは確かだが、誰がカバーしているかは分からなかった)が一回ずつ、これは「再生」なし。
 曲は「ラストダンス」なのに、これで終わりにならないところ人を食っている。クライマックスは次の曲。

 perfume『GLITTER』の三度リピート。
 最も激しいダンスを披露したあと、俳優たちは床に倒れ伏す。
 これまでも「立っては起き上がり」という「再生」を繰り返す動きを全員が繰り返していたが、今度は完全に力尽きたように、床に大の字になり、荒い息をして、そのまま身動きもできずにいる。
 しかし曲は繰り返されるのだ。立ち上がり、再び踊り始める六人。汗を飛ばし、服も乱し、それでも「再生」し続ける彼ら。歌詞の「なんでもきっとできるはず」というフレーズが、彼らを応援していると言うよりは、揶揄しているように聞こえてしまう。
 妥協のないその姿勢には、「ここまでやってこそ俳優」という言葉を捧げずにはいられなくなるのだ。「キラキラの夢の中」にいるのは彼らだ。

 ジョン・レノン『スターティング・オーバー』がかかり、彼らは舞台から去っていく。余韻と言うよりは、呆気に取られたまま、拍手をすることも忘れて彼らを見送ってしまったが、改めて俳優たちの「気力」と「体力」に惜しみない拍手を送りたい。

 公演を重ねるごとに、曲が変わり、台詞も変わり、ダンスも多彩になっていくようである。人生の数が人の数だけあるように、『再/生』の舞台も千変万化していくのであろう。数年後、また『再/生』が再生されることがあれば、それはどのような形を取るのか、観てみたいと思う。

 「“東京”デスロック」と言いつつ、多田氏は東京から拠点を埼玉県に移し、地方での演劇振興に力を入れてくれている。
 それは、かつてそれぞれの地方が「クニ」の文化として独自の発展をし続けていたにもかかわらず、明治以降の中央集権制で崩壊してしまったこと、そのことが日本文化全体の沈滞に繋がってしまったことを認識した上で、どうすれば「再生」は可能なのか、と多田氏が自問自答した結果なのだろう。
 我々観客は芝居を楽しんで観るだけだが、問題は、このような新劇の流れとも、多田氏が所属していた青年団「静かな演劇」の流れとも違う「面白さ」を受容できるキャパシティが、我々観客の中にどれだけ培われているか、その点に集約されるように思える。
日韓演劇フェスティバル in Fukuoka

日韓演劇フェスティバル in Fukuoka

日本演出者協会 福岡ブロック

大博多ホール(福岡県)

2012/02/11 (土) ~ 2012/02/19 (日)公演終了

満足度

劇団ヌリエ『恋愛』
 昨年度の釜山演劇祭で最優秀賞を受賞した劇団だそうである。
 しかも無言劇だというのだから、どんなに斬新で面白い舞台になるかと期待もしようというものだ。
 ところが実際の舞台は学芸会を一歩も出ていない幼稚極まりない代物。これが最優秀なら釜山の演劇レベルは著しく低いと言わざるを得ないくらいに酷い出来だったのだ。
 福岡の場合もそうだが、一つの劇団が“腐って”いくのには様々な要因があるが、その最大の理由として、「よい舞台をろくに観ていない」 という点が挙げられる。恐らく劇団ヌリエの人々は、無言劇(パントマイムとは違う)をろくに観たことがないのだ。
 だからなぜ無言でなければならないのか、その理論が全く分かっていないのだ。
 これはもう、演技や演出がどうこうという以前の問題で、観客にしてみればとんだ詐欺に逢ったも同然である。今後も日韓演劇フェスティバルは続いていくのだろうが、運営側には事前のリサーチは充分にしてもらいたいと切に思う。

ネタバレBOX

 パントマイムが身体表現のみで演劇を成立させることを目的としているのに対して、無言劇は現実世界における無言の時間を切り取って、対話がなくとも成立する時空間を提示することにある。
 つまり、パントマイムにおける無言は演劇の「手段」だが、無言劇のそれは作品世界の中の「必然
」なのだ。マイムの場合は、観客はなぜ舞台上の人間が喋らないのか疑問に感じることはないが、無言劇においては「彼らはなぜ無言でいるのか」について想像を巡らせることになる。それが無言劇の「演劇的効果」だ。

 好意的に解釈すれば、劇団ヌリエは、パントマイムと無言劇の中を狙ったのかもしれないと考えられなくもない。しかしそう考えてみても、どうにも首を傾げざるを得なくなるのは、部分的に台詞を喋らせてしまっていることだ。しかかもたどたどしい日本語で。

 アフタートークで、日本語の台詞を喋らせた理由について、演出家は「無言では持たなかった」と正直過ぎることを答えていたが、ならば最初から普通に韓国語で通常の芝居をすればよかったではないかと腹立ちすら覚えてしまった。
 「優秀な学生はみんなソウルで学んで、釜山は演劇の指導者も少なかったが、最近は改善されつつある」ということであったが恐らくはまだまだ発展途上だというのが実情なのだろう。
 学生の発表会を見せられたようなものだが、演劇の事前情報や前評判はほとんど当てにならないというのが普通だから、これはもう、悪いものに当たって、食中毒でも起こしたのだと思って諦めるしかない。





ミュージカル「テニスの王子様」 青学vs六角

ミュージカル「テニスの王子様」 青学vs六角

テニミュ製作委員会

TOKYO DOME CITY HALL(東京都)

2012/02/09 (木) ~ 2012/02/12 (日)公演終了

満足度★★★★

大千秋楽
 面白い。
 しかし、この面白さをどう伝えたらいいものか、言葉の選び方次第では、ただのギャグのように聞こえてしまいはしないかと危惧するのである。
 CoRichには小劇場ファンは多くても、演劇全般のファンは少ない。許斐剛原作の『テニスの王子様』を未読の人も多いだろうし、これまでのあらすじを説明するだけでも手間がかかる。ましてや、そのファン層の中核を成す「腐女子」の説明までし始めたら、とんでもない長文になってしまう。
 ここはもう、「この手の世界」をよく知らない人は、とりあえず、この『ミュージカル・テニスの王子様(愛称:テニミュ)』が、2003年より連続公演を繰り返し、日本では例を見ないヒットシリーズになっていること、その魅力は決して原作ファンのみが楽しめる狭い世界に留まるものではないということを理解してもらいたいと思うのだ。
 俳優たちはみな新人である。演技は決して巧くはない。しかし、このミュージカルを成功に導いているのは演技の巧拙ではない。青春の情熱を、彼ら若手俳優たちが自ら体現してくれているからだ。心の赴くままにジャンプしダンスする、その汗と涙が観客の心を打つからなのだ。本気で踊っているから、息は切れる、音程は外れる。でもそれは口パクじゃない、彼らが「本気(マジ)」だという何よりの証明ではないか。
 原作マンガで、故障してもなお試合に出場、勝利した選手がいたように、実際の舞台でも、足をケガしながら公演中、痛みに耐えつつ連日踊り続けた俳優がいた。
 作り物ではない、本物の「青春」を、我々は『テニミュ』の舞台に見ることができる。日本の三大ミュージカルは、劇団四季、東宝ミュージカル、宝塚歌劇団だとよく言われるが、前二者が海外の「借り物」ばかりであるのに対して、『テニミュ』は純然たる和製ミュージカルである。その事実はもっと声を大にして指摘してよいことではないだろうか。

ネタバレBOX

 1st..シーズンの放送をテレビで観たのはもう十年近く前になるのか。
 何の気無しに観てみただけだったから、その斬新な演出には度肝を抜かれた。既にテニミュファンが散々指摘していることだが、テニスのラリーをピンスポットの照明で表現、これが本当にボールが飛んでいるように見えるから、まるで魔法だ。
 もちろんミュージカルだから、歌とダンスは欠かせないが、これが試合で窮地に陥った時に一曲歌うと、そいつは格段に強くなるのである。ミュージカル嫌いはよく「いきなりの歌い出し」が不自然だと文句をつけるが、歌って強くなれるのなら、そりゃ歌うだろう。いや、別にそんな設定があるわけではないが、「そのように見える」ことが重要なのだ。
 なぜ、『テニスの王子様』を、通常の映画や演劇ではなく、ミュージカルにしようと発想したのか、もちろんそこには新人売り出しのための商売上の原理が働いてはいるのだが、それが結果的にはこのシリーズに、他の舞台とは一線を画した斬新さを与えることになった。
 「商売上の原理」と書きはしたが、ただ新人を売り出すためなら、まずは俳優ありきのキャスティングになっていただろう。しかし、オーディションで選ばれた歴代のキャストは、いずれもまるで原作から抜け出てきたようなそっくりのイメージの俳優ばかりで、制作者たちが、この舞台を成功させるために何が肝要であるかを知悉していることが見て取れる。
 小越勇輝くんの立ち姿を見れば、ここに越前リョーマがいる、と誰もが感じるはずなのだ。

 今回の「青学VS六角」編は、いきなり部長の手塚国光(和田琢磨)のリタイヤから物語が始まる。
 手塚は、先の氷帝戦で肩を痛めて治療に専念することになっていた。
 俳優が新人ばかりだから、全体的に演技は拙いと書きはしたが、試合に出られぬ苦悩を手塚役の和田くんは、抑制の利いた静かな演技で好演していた。ライバルである氷帝の跡部景吾(青木玄徳)が、イケメンだがナルシストのお笑い担当なので(何しろそのカリスマ性ゆえに森の動物たちまで後を追いかけてくるのである)、手塚の苦悩は反作用的に深刻に見える。

 次の対戦相手、実力高である六角中を、手塚不在のままいかにして倒すか。青学メンバーは、みな敵の意表を突く攻撃に翻弄されることになる。
 マンガが原作であることの「強み」は、ここで一段と発揮されてくる。ライバルの六角選手たちが、みなキャラクターとしてエキセントリックで、決して一筋縄ではいかないことをその大仰なまでのデザインや、台詞や演技で体現してくれているからだ。まあ、天根(木村敦)のダジャレはことごとく滑っていたけれど(「爺さんなのにババロア」だよ)。
 六角選手中、誰が最強かって、そりゃ部長の葵剣太郎(吉田大輝)だ。テニスをやってる動機が「女の子にモテたい」だもの。ストレートにもほどがある。対する海堂(池岡亮介)は「やつには何か信念を感じる」なんて言うんだが、それ、煩悩ですから(苦笑)。
 こういう下品なキャラは、女の子からは絶対に人気が出ないので、演じる吉田くん、ちょっと割に合わない役をやっている。ところが彼がカーテンコールでその天然ぶりを発揮して、場を攫っちゃったから面白い。和田くんを役名じゃなくて「和田部長役の」と言っちゃうし、今回が初参加で「付いていけるか(不安だ)な」と言うべきところを「追いついてこれるかな」と言っちゃうし。
 腐女子諸君も、イケメンばかりをフィーチャーしないで、吉田くんにもエールを送ってほしいものだ。

 物語は、敗退した氷帝が推薦枠で再び参戦することと、リョーマの次戦への決意を示して終わる。
 今回、リョーマの見せ場がほとんど無かったのは残念だが、『テニミュ』はもちろんこれで終わりではない。リメイクという形で2nd.シーズンに入っているが、原作はさらに続編も描かれている。3rd.シーズンばかりでなく、新シリーズもまたきっと立ち上がってくるはずだ。
 彼らの熱い青春は、決して終わらない。

 福岡では、キャナルシティでの生公演もあったのに、ライブビューイングで大千秋楽を観ることにしたのは、カーテンコールでの彼らの「絆」を観てみたかったこともある。
 青学も、氷帝も六角も、彼らは素でもチームだった。言葉は拙い。みんな「ありがとう」としか言えない。でもそれで充分ではないか。次回公演は全キャスト大集合の「大運動会」。さてこれはライブビューイングがあるのだろうか。
Hobson's Choice -ホブソンの婿選び-

Hobson's Choice -ホブソンの婿選び-

無名塾

ももちパレス(福岡県)

2012/02/10 (金) ~ 2012/02/18 (土)公演終了

満足度★★★★

仲代達矢の Hobson's Choice
 「仲代達矢役者生活60周年記念」というサブタイトルが付いている(パンフレットは仲代さんの写真集にもなっている)。デビューは1954(昭和29)年、黒澤明監督『七人の侍』の通りすがりの名もない浪人。わずか数秒のエキストラに過ぎなかった。
 それが国内外の数々の名画、名舞台に出演し、「世界の仲代達矢」にまでなったのだから、その記念作に何を選ぶかは演劇、映画界にとって注目の的であったと思われる。しかし、それが名匠デヴィッド・リーン監督による、ベルリン映画祭金熊賞受賞作とは言え、純然たる「喜劇」である『ホブスンの婿選び』であったことに驚いた向きも少なくはなかったのではないか。
 けれども、意外なほどに、と言っては失礼だが、仲代達矢はこれまで喜劇も多数、演じてきている。突っ込まれて「受け」た時、ボケる間が絶妙に巧い。今回も、飲んだくれの癇癪持ちのホブソン役を、「詰め物」もしているのだろうが、オリジナル版のチャールズ・ロートンよろしく、腹を揺らして楽しげに演じている。「モヤ」さんとあだ名されている通り、喜劇の場合の仲代さんは、どこか茫洋として、熱演しても熱演に見えない。生来の持ち味なのだが、今回もそれが発揮されて、舞台に「和み」を産んでいる。
 なるほど、記念作に『ホブソン』を選択したのはまさしく「Hobson's choice(=唯一の選択)」だったのだなと、納得させられたことだった。

ネタバレBOX

 その昔、トーマス・ホブソンという配達夫がいて、副業で「馬貸し」もやっていた。飼い馬には、良馬もいれば駄馬もいたが、借りに来る連中は当然、良馬ばかりを借りたがる。そこでホブソンは、出口に近い馬から順番に貸し出すルールを作り、顧客の貧富に関わらず、これを押し通した。
 その故事から生まれた成語が「Hobson's choice(=選択の余地無し、究極の選択)」である。

 支配的な頑固親父と、結婚適齢期(多少過ぎ)の三人娘の葛藤、という筋立ての舞台で真っ先に思い浮かぶのは、ショラム・アレイハム作『屋根の上のバイオリン弾き』だろう。昨年観劇した『焼肉ドラゴン』もこのパターンを継承していたから、これはもうドラマの一つの定型パターンであると認識して構わないようだ。
 三人のうちの一人が「幸せになる」というのならば、このパターンは『シンデレラ』にまでルーツを遡ることができる。しかし、残念ながらあの前近代的メルヘンには「父親」が存在していない。これはあくまで近代文学における「父性と「母性」との対立の物語なのだ(父と娘という形は取っているが、娘が体現しているのは極めて本能的な母性である)。
 そしてそれは、父性が歴史の中で連綿と築きあげてきた「封建制」に対して、原初的な母性が反逆を翻す物語でもある。
 そう考えていくと、この物語のルーツは、改めてシェイクスピア『リア王』にあったのだと見なすことができそうである。それ以前にこのパターンが存在していたかどうか、非才の身ゆえ断言はできかねるが、恐らく明確な形式としては無かったのではないか。日本の須佐之男にも三人娘がいたが、特に父親に反逆した形跡はない。
 シェイクスピアが「近代文学」の祖であることの、これも一つの証明になるのではないか。観劇しながらそんなことをぼんやりと考えていた。

 物語は、長女マギー(渡辺梓)が、根性無しのヒョウロクダマである靴職人・ウィリー(松崎謙二)を立派な男に「調教」する“逆”『じゃじゃ馬馴らし』な展開もあるから、作者のハロルド・ブリッグハウスが、この物語をシェイクスピアのパロディとして書いたことは間違いないことだろう。
 『リア王』では父親も娘も結局は“共倒れ”してしまうが、フェミニストのブリッグハウスは、そんな「痛み分け」みたいな結末はよしとしない。「男が女に勝てるわけ無いじゃないの」とばかりに、ダメな男どもを翻弄するのである。
 ついでに言えば、主人公ホブソン(仲代達矢)の名前は、ヘンリー・ホレーシオと言う。いかにもシェイクスピアの作品から名前を借りてきました、というのが見え見えの、オアソビのネーミングだ。そして、仲代達矢が黒澤明監督『乱』で、“リア王”一文字秀虎を演じていたことを思えば、この配役が「二重のパロディ」を意味することにニヤリとされるファンも多かろう。

 ヘンリー・ホブソンは、昼間から「酔いどれ亭」で飲んだくれているような道楽親父だが、商売のホブソン靴店は、名職人のウィリーと、切り盛り上手のマギーのおかげで繁盛している。
 三人の娘たちはもう結婚させてもいい年頃で、実際、次女のアリス(松浦唯)と三女のヴィッキー(樋口泰子)にはそれぞれ恋人がいる。ところが女手が足りなくなるのと、持参金惜しさに、ヘンリーは娘たちの結婚を一切認めようとしない。一計を案じたマギーが取った手段が、ウィリーの調教と、店からの「独立」だった。
 ウィリーを「主人」に、新しく店を作ったところ、顧客はこぞってウィリーの店に鞍替え、ヘンリーはたちまちジリ貧に陥ってしまう。酒で健康が悪化し、さらに訴訟沙汰にまで巻き込まれて(もちろんマギーが影で糸を引いている)、にっちもさっちもいかなくなり、残された選択肢はたった一つしかない。マギーとウィリーに頭を下げて戻ってきてもらうことだけ、というのがタイトル通り「ホブソンの選択」だったという落ちである(この期に及んでもなんとか給金を値切ろうとけちくさく交渉する仲代達矢の演技がまた可笑しい)。

 シェイクスピアの『リア王』は、もちろん「選択を間違えた男の悲劇」である。最も自分に忠実な身内は誰なのか、人は往々にして見誤る。しかし父親の身をコーディリアが本気で心配していたのなら、もう少し巧く立ち回ったのではないか、という疑念を抱かないではいられない。彼女もまた、あまりにも自分の感情にストレートで愚かすぎるのだ(だからあの父にしてこの娘ありなのだが)。
 その点、マギーは実に巧く男どもを操ったと言える。頑固親父のヘンリーが「骨抜き」にされていく様子は観ていて実に小気味いい。仲代達矢が従順にこっくりと頷く仕草の「可愛らしさ」などは、『乱』を観た直後に見比べたなら、抱腹絶倒してしまうのではなかろうか。
 無名塾では中堅の、松崎謙二の「変貌」ぶりも目を見張る。軟弱な田舎者だったのが、一転して全ての問題を収拾する「男」となって再登場するのだが、そのウィリーも最後の最後で、やはりマギーの掌上にあったと分かる落ちは、「女性上位の時代」を礼賛したブリッグハウスの快哉だったと言えるだろう。まさしく「歴史は女で廻っている」のである。
 何だかんだで妹二人も体よく排除し、ホブソン家の財産はマギーが独り占めすることになる。つまり、「最後の勝利者」、実質的な主役は彼女であって、ヘンリーではないのだ。ヘンリーもウィリーも、マギーの「引き立て役」にすぎない。
 すなわち、“仲代達矢記念公演”でありながら、彼はマギー役の渡辺梓を「立てる」立場に廻ったことになる。仲代達矢ファンとしては寂しい限りだが、彼女はその期待に充分答えたと言えるだろう。凛として、ウィリーに「あなたは私の最高傑作よ」と言い放つマギーの姿は美しい。
 このシーンで「男どもめ、ざまを見ろ」と溜飲を下げた女性観客は、初演当時、それこそ星の数ほどいたのではないか。そして恐らくは今も、この日本でも。

 もともと無名塾は俳優養成を第一の目標に掲げ、受講料も一切取らず、一人前になったと判断されれば、独立をどんどん推奨してきた劇団である。だから中堅までは在籍者がいても、50代、60代のベテランは殆どいない。
 その中堅も、外部公演、テレビ、映画出演をどしどしこなしているから、勢い、定期公演は若手ばかりになることが多い。おかげで仲代達矢との演技力の差が歴然としてしまうというネックはあるのだが、今回は前述した通り、仲代さんが「引いた」立場の役柄であったために、そこまでの落差を感じずにすんだ。
 仲代ファンとしては、彼が出ずっぱりでないのはいささか寂しいのだが、引退を撤回し、なおも無名塾を続けていくのはなぜか、仲代さんが出した答えがこの立ち位置なのだろう。

 それでも「仲代達矢の“主演作”をこそ観たい」というファンの声は少なくないだろう。映画でも実はこの20年、仲代達矢の純粋な主演作は『春との旅』くらいしか見当たらないのである。
 そんな声に応えてか、次回公演は、仲代達矢個人の公演『授業 La LeÇon』(イヨネスコ作/丹野郁弓演出)と、無名塾公演『無明長夜 ~異説四谷怪談~』(松永尚三作/鐘下辰男演出)とに分かれる。これは、仲代達矢亡き後も無名塾が存続することに意義があるか否か、それを問うための二分割公演でもあるのだろう。
 残念ながら、今のところどちらも福岡公演の予定はない。『授業』は仲代劇堂のみの公演である。東京で観劇できる機会がある方はぜひご覧になっていただきたい。
トンマッコルへようこそ

トンマッコルへようこそ

劇団桟敷童子

大博多ホール(福岡県)

2012/02/11 (土) ~ 2012/02/11 (土)公演終了

満足度★★★★

真実のトンマッコルへようこそ
 不明を恥じなければならない。
 パク・クァンヒョン監督の映画『トンマッコルへようこそ』を観た時には、いかにも『千と千尋の神隠し』に影響を受けた安易な作り方と、ファンタジーだとしても説得力がなさ過ぎる展開に呆れて、世評ほどには面白いと思わなかった。当然のごとく、感動の涙を流すこともなかった。
 原作として舞台戯曲があることは知っていたが、日本語訳の出版がない以上、実際にそれを読む機会があるはずもない。また映画の製作・脚本に原作者チャン・ジンの名前があったことから、舞台も映画も基本的には同じものだろうと思いこんでいたのだ。
 それでも両者が完全に同じであるはずもないから、言わば「軽い興味」で、舞台を映画化する際に、「どの程度の改変を加えたか」を確認するつもりで(あとは松田“仮面ライダー斬鬼”賢二と、塩野谷“B.スプリングスティーン”正幸見たさに)劇場に足を運んだ。それだけのことだったのだ。
 ところが、舞台と映画とは、根本的に構造が違っていた。ストーリーの大筋は同じであっても、舞台は映画にはなかったユーモアも随所に満ちていて、まさしく演劇ならではの魅力に満ちている。字幕付きでも構わないから、本国での舞台版を観てみたい、そんな気にさせられたほどに刺激的だった。
 『トンマッコル』という題材を、映画版だけを観て判断してはならない。その事実を痛感したが、如何せん、現在でもこの日本で舞台と映画を比較研究できる機会は極端に少ないのである。映画版だけを観て、感動した人にも、そうでもなかった人にも、それは『トンマッコル』の真の姿ではない、ということだけは強く訴えておきたいと思う。

ネタバレBOX

 「トンマッコル」とは「子供のように純粋な村」という韓国語だという(原作者のチャン・ジンによれば、日本の村をイメージしたとか)。
 実在する村ではないし、そのタイトルからも、これが一つのファンタジーであることを――たとえ「韓国戦争(=朝鮮戦争)」を背景にしてはいても――示唆している。
 映画版で象徴的だったのは、人民軍(北朝鮮)の兵士たちが持っていた手榴弾が誤ってトウモロコシ小屋で爆発し、村の空いっぱいに「ポップコーン」が雪のように舞うシーンだ。戦争を知らない小さな山村で偶然出遭った、人民軍、韓国軍、そして米軍の兵士たち。彼らを結ぶ「平和」の象徴が、その「ポップコーンの雪」だったが、私は「戦争をそんなファンタジーで落としてしまっていいものだろうか」という疑念が浮かんで、素直に感動することができなかった。

 舞台版には、そんなポップコーンの雪のシーンはない。
 原作戯曲は三時間を超えていたというので、もしかしたらそういうシーンもあって、上演に際してカットしたのかもしれない。しかし映画と舞台の差異はそういう部分的な点に留まらない。原作舞台は、そもそも“ファンタジーではない”のだ。

 舞台にはまず「語り手」が登場する。彼は「作家」(板垣桃子)だ。彼が発見した一葉の写真が、物語の始まりとなる。その写真には、韓国戦争当時であると思われるにも関わらず、トンマッコルの村の人々と一緒に、敵同士であるはずの人民軍、韓国軍、連合国米軍の兵士たちの姿が、にこやかに写っていたのだ。
 このような“ありえない”写真がなぜ撮られたのか。作家は、写真の持主である父親に事情を聞く。即ちこの物語は、謎が徐々に解かれていくミステリーとしての構造を持っている。

 その父親――韓国戦争当時は少年だったトング(大手忍)は、ある日、知恵遅れの少女イヨン(中村理恵)と、墜落する戦闘機を目撃する。村の外れに落ちた戦闘機には、米軍のスミス(Chris Parham)が乗っていたが、足のケガだけで命は無事だった。突然現れた言葉の通じない珍客に、右往左往する村人たち。ここで村人たちの一人一人が、かなり詳しく描写される。
 村のまとめ役だが今ひとつ頼りにならない村長(塩野谷正幸)、その母親ですっかりボケた婆さん(鈴木めぐみ)、村一番のインテリだが正体不明のキム先生(深津紀暁)、トングのちびったウンコをうっかり掴んでばかりいるダルス(原口健太郎)、戦争帰りの粗暴なウンシク(外山博美)などなど……。
 映画版では殆ど書き割りに過ぎなかった村人たちが、ここでは生き生きと、そしてユーモラスな会話を繰り広げる。トンマッコルの人々は決して理想郷に住む仙人たちではない。後で明かされるが、ヒロインの少女イヨン(映画版のヨイルに当たる)は、実は村長の隠し子で、知能に問題があって生まれた彼女を、村長は娘として認めなかったという哀しい現実も示されるのだ。

 物語は全て、「村人たちからの視点」で描かれていく。映画版が兵士たちからの視点で描かれ、村人の純粋性が少女ヨイルだけに集約されていたのとは、全く正反対だ。
 スミスも、そして人民軍のトン・チソン(松田賢二)、チャン・ヨンヒ(鈴木歩己)、ソ・テッキ(桑原勝行)、韓国軍脱走兵のピョ・ヒョンチョル(池下重大)、ムン・サンサン(井上正徳)も、基本的には「お客さん」の立場を逸脱することはない。
 そして彼らは出逢い、当然、敵対する。村人になだめられ、農作業を手伝うようになる。少しずつうち解けるようになりながらも、結局は意見の相違から、殺し合う寸前に至るのだが――。

 舞台と映画の最大の違いは、ここからである。
 それまで、この物語を「作家」に伝えていた“父親”のトングが急死するのだ。即ち、「写真の謎」は真相が分からないまま、作家は途方に暮れてしまうのだ。
 それからの展開がとんでもなく面白い。仕方がないので、登場人物たちがめいめい勝手に動きだし、「自分たちの考える結末」を演じ始めるスラップスティック喜劇へと変貌してしまうのだ。特に松田賢二が敵を殺しかけていたのにいきなり平和主義者になって「みんなで記念写真でも撮ろう!」と言い出したのには場内大爆笑である。俳優たちが客席にも乱入、支離滅裂状態になったところで、作家が悲鳴を上げて、ようやく事態は収拾する。
 作家は、「これから先の物語は、全て私の想像です」と語る。いくつもの「結末」が示されるあたりはまるで黒澤明『羅生門』(と原作の芥川龍之介『藪の中』)だが、『羅生門』では最後に語られる杣人の証言が真実として示される。しかしこの『トンマッコル』の物語に「字義通りの真実」は存在しないのだ。

 これから先の展開は、確かに、映画と同じである。
 韓国軍の小隊が現れ、正体を見破られた兵士たちは彼らを殺す。流れ弾に当たったイヨンは死ぬ。村への連合軍による総攻撃があると知った兵士たちは、協力して「揺動」作戦を立てる。連合軍は、トンマッコルとは全く別の箇所を爆撃し、村は無事だったが、5人は死ぬ。「記念写真」は、兵士たちが村を去る直前にスミスのカメラで撮られ、トングに渡されたものだった。

 しかし、それは全て作家が「こうであってくれたら」という想像でしかないのだ。イヨンは、その知恵の足りない頭で、戦闘機から降りてきたのは「イエス様だ」と韓国軍に告げる。
 ファンタジーと言うよりも、この物語は「奇跡」の物語である。そうであってほしいという「祈り」を、作家はこの想像の中に込めたのだ。

 「真実」はそうではなかっただろうと、観客の誰もが思うだろう。なぜなら、作家が最後にこう語るからだ。「私は、一度もトンマッコルへは行っていない」と。
 「写真」にたいした謎はなかったのかもしれない。農作業を手伝っていたのだから、そんな写真が撮られる機会だってあっただろう。イヨンが写っていなかったのもたまたまで、5人が死んだのも、単に村から逃げたところをねらい打ちされただけかもしれない。
 「真実は夢物語ではない」という当たり前の事実が、そこにはあったことだろう。しかし、そんな夢物語があってもいいじゃないか、いや、あの戦争があまりにも悲惨だったからこそ、たとえそれが事実ではないことを知りつつも、そんな夢物語があったことを願いたい、トンマッコルがその名の通り、「純真な村」であってほしいという祈りが、この「真実ではない」物語に、一片の「心の真実」を与えている。
 「絵空事」を「これは真実ですよ」と提示して見せても、観客はその底の浅さに鼻白むばかりである。映画版の失敗はそれが原因だった。しかし、我々がともすれば厳然たる事実よりも、希望を内包した「虚構」を求める存在であることを認識した上で、あえて「絵空事」を「絵空事」として披露してみせてくれた場合――我々はその「虚構」に心を揺り動かされることになるのである。

 あの村人たちなら、韓国軍を前に、兵士たちを「家族」と呼んで匿ったに違いない、あの村長なら、最後にイヨンを「娘」と呼んだに違いない。「一度も父さんと呼ばせてあげられなかった」と泣いたに違いない、そう感じさせる「真実」がそこにはあるのだ。
 「事実」と、我々が本当に求めている「心の真実」とは違う。「物語」が観客に問いかけるべきものは、その「心の真実」の方なのではないだろうか。

 強いてこの舞台に注文を付けるのならば、これは劇団の構成員の問題もあろうから仕方がない面もあろうが、複数の男性役を女性が演じていたことだ。俳優のみなさんは、もちろんそれらしく演じてはおられたが、やはり男性が演じた方が自然ではある。
 自然、ということならば、やはり字幕付きになっても、韓国人俳優でこの舞台を観てみたいという気にもさせられた。チャン・ジンの話によれば、三時間の原作戯曲は冗長な部分もあったということではあるが、それでも物語に何が付け加えられ、何が引かれたかを確認することは、作品理解をより深めることになるだろうと思われるからである。
 
現代能楽集Ⅵ 『奇ッ怪 其ノ弐』

現代能楽集Ⅵ 『奇ッ怪 其ノ弐』

世田谷パブリックシアター

J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)

2011/09/10 (土) ~ 2011/09/11 (日)公演終了

満足度★★★★★

読売演劇大賞
 昨年は前川知大の年であったと言ってもいいのではないか、というくらいに彼の活躍が中央から遠く離れた福岡でも観ることができた。
 『抜け穴の会議室~Room No.002~』『散歩する侵略者』『現代能楽集Ⅵ 奇ッ怪其ノ弐』の3作が立て続けに上演され、そのどれもが演劇によってしか表現できないいくつもの「仕掛け」によって、劇場を異空間へと誘っていた。
 それは、具体的には象徴的な舞台美術であり照明であり、もちろん前川戯曲そのものが常に「SF」である点に起因しているのだけれども、特に『奇ッ怪 其の弐』は、能舞台をイメージした舞台上舞台を設置し、俳優たちには、夢幻能を思わせる緩慢な演技と、日常的な演技とを演じ分けさせることによって、まさしく虚実皮膜の世界を構築していた点において3作中、白眉であった。これまでの読売演劇大賞作品には、どうかなと首を傾げたくなる作品もあったが、今回は多くの人に支持される受賞であったろう。
 残念なことに、もう一つの新作『太陽』は、福岡まで来ることがなかった。リチャード・マシスンや藤子・F・不二雄に触発されて書かれた作品であることを、前川氏自身が語っているので、今後、福岡での再演の機会があるならば、何を置いても観たいと思う。

ネタバレBOX

 何十年ぶりかで故郷の村に帰省してきた矢口(山内圭哉)は、実家の神社がすっかり廃墟となっている様子に茫然とする。そこに住みついているという山田という男(仲村トオル)に、矢口は「奇妙な話」をいくつか聞かされることになる。

 荒れ果てた寒村、そこで来訪者が出会う死の影を漂わせる人々、出だしはまるでエドガー・ポー『アッシャー家の崩壊』だが、「現代能楽集」シリーズとして判断した場合、発想の元となったのは夢幻能『求塚』だろう。
 菟名日処女(うないおとめ)が自らの「生前」を旅の僧に聞かせたように、山田ももちろん「死者」なのである。そして彼の語る物語も、さらに来訪してきた役人の橋本(池田成志)や曽我(小松和重)の「物語」も、彼らの「生前」の「執念」が凝り固まって、この村の底によどむように、「来訪者」の前で繰り返し繰り返し、語られていくのである。
 それぞれのエピソードは特に繋がりはない。まるで夏目漱石『夢十夜』のように、独立した現代社会の奇談として語られる。しかしそれらはやがて、この村を襲った災厄の物語へと次第に収束されていく。
 それはまるで菟名日処女(うないおとめ)を取り合った二人の男にもスポットを当ててエピソードを重層化させたような、「『求塚』の複数化」といった趣である。

 しかし同時に、『奇ッ怪 其の弐』はある“二つの”作品との極めて酷似した構造を持っている。それに気がついたのは、曽我や橋本が、「自分が死者であることに気がついていない」のに対して、山田は「自分が死者であり、そのことを『物語る』ためにここにいる」という「自覚」を持っていることが示された時だ。
 曽我や橋本は、彼らの「物語」の中で、何通りもの「役」を演じる。他の役者も同様だ。だがその役を演じている間は“その役になりきっていて”、自分が“与えられた役を演じているだけ”だとは自覚していない。しかし山田は違う。彼はこの物語のただ一人の「演出家」だ。
 前川知大が生粋のSFファンであることは、その作品傾向からしても自ずと知れる。意識とその具現化はSFの重要なモチーフだが、その枠をファンタジーやアニメーションのカテゴリーにまで広げると、特に共通項のある2作が浮かび上がってくるのだ。一つは「夢幻」の中における「死者と創造主」の物語、C.S.ルイス『ナルニア国物語』であり、もう一つは「夢幻」の中における「俳優と演出家」の物語、押井守『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』である。即ち「山田」は「アスラン」であり「夢邪鬼」なのだ(これに藤子・F・不二雄『モジャ公』のエピソード「天国よいとこ」の「シャングリラ大神官」を付け加えてもいい。藤子Fファンであることを前川は公言しているからである)。

 ループSF作品の先例は枚挙に暇がない。「同じ時間を永遠に繰り返す」パターンは、時間遡行ものやモダンホラーの諸作に多く見られるから、具体例を出さずとも誰でも容易に2、3作は想起することが可能だろう。演劇でも後藤ひろひと『ダブリンの鐘つきカビ人間』がそのアレンジパターンであった(奇しくも池田成志がこの作品にも登場している)。
 だが、「祝祭の前日」に硫化水素ガス漏れによって村人も役人もみな死に絶え、「同じ日を繰り返し続けている」という設定から判断するに、やはり「文化祭前日」を繰り返した『うる星2』を前川知大は確実に意識していたと思しい。

 先行作に発想の源があるということで、この作品の評価を下げるべきだと主張したいのではない。むしろ逆で、殆どのループ作品が、その霧のルング・ワンダルングの中から脱出する方法を発見するのに対し、本作にはそういった「救い」が用意されていない点に、前川のオリジナリティがあるのだ。
 死者たちは決して生き返らない。彼らの妄念が解き放たれることは絶対にない。彼らには「同じ話を繰り返し話し、同じ行動を繰り返し取る」ことしかできないのだ。言ってみれば――語弊が生じることを承知でたとえるが、「認知症の老人が同じ話を繰り返し語るのに付き合わされる」苦痛に等しい。彼ら老人たちも、自らの「夢」の中にいる。そう考えた時、初めて気付くのだ。“これは果たして本当に「死者だけの」物語なのだろうか”と。
 「死んでいるのは確かに俺だが、生きてる俺は誰だろう」――落語『粗忽長屋』ではないが、我々が信じているこの「実存」が、「誰かが見ている夢の中のキャラクターではない」と、証明できるものだろうか。あるいは、たびたび舞台に登場する面を被った人物たち――彼らが「自分と同じ顔をしていない」とどうして言いきれることができるだろうか。
 ここでその物語を聞かされ続けるのは矢口だが、彼の抱く不安は、容易に観客に伝播する。矢口は現実世界に戻る(ように見える)が、死者たちはやはり永遠の牢獄の中で彷徨い続けている。それを見ている矢口も実は死者として「ここに来た」のではないかという余韻を残して。
 山田は我々に語っているのだ。さながら『アマデウス』のサリエリが、観客に向かって「未来の亡霊たちよ」と語りかけたのと同じように、このように。

 「アナタハ、ジブンガ、イキテイルト、シンジラレマスカ?」
 「アナタハ、ホントウニ、シバイヲミニキタ、オキャクサンデスカ? ココガ、シシャノクニデナイト、ドウシテダンゲンデキマスカ?」

 前川知大、戦慄すべき戯曲家である。
異郷の涙

異郷の涙

劇団太陽族

J:COM北九州芸術劇場 小劇場(福岡県)

2012/02/04 (土) ~ 2012/02/05 (日)公演終了

満足度★★★

流す涙のその意味は
 平成生まれの若者たちが社会の中核になっていくだろう現在、「昭和」がノスタルジーの対象として語られる現象には何が背景としてあるのだろうかと考えることがある。
 たとえば映画『三丁目の夕日』シリーズには、必ずしもその時代を知っているわけではない若い人たちもこぞって観に出かけて感動の涙を流している。実際にあの時代を体験している世代としては、ともかく「ものがない」時代で、そんなにいいものかと思ってしまうのだが、若い世代には、今は失われてしまった家族の絆やら何やら、肯定的イメージが増幅されて、一種のユートピア幻想まで感じさせているようだ。あの世界にはきっといじめも虐待もないのだろう。
 『異郷の涙』の主人公は「原爆頭突き」の大木金太郎こと金一(キム・イル)である。往年のプロレスファンには懐かしい名前だ。しかし在日韓国人でそれゆえに差別に遭い、血の涙を流しながらも栄光を掴んだ人物にスポットを当てるのなら、師である力道山を主人公にするのが妥当てはないだろうか。
 しかし劇団太陽族の岩崎正裕は、時代を力道山の死の二年前、1961(昭和36)年に置き、あえて力道山を殆ど登場させなかった。彼を主人公にしてしまえば、「ノスタルジーが在日差別の問題よりも優先されてしまう」ことを恐れたのだろう。
 日韓のドラマとなれば、また差別問題か、在日コリアンだってのべつまくなしにサベツサベツと日本人を糾弾しているわけではあるまい、他の切り口はないのか、と思いはする。しかし、『異郷の涙』で大木金太郎が流した涙は、単に差別を受けたという悔し涙ではない。在日コリアンが被害者意識を乗り越えてもなお背負わなければならなかった「業」に対する「怨みの涙」である。日本を責めるだけで事が済む問題ではないのだ。
 情に流されない描写や政治的な発言が連続するため、観客は素直に感動することはできにくい。そこがノスタルジーに堕した一連の「昭和もの」や、在日コリアンの涙ばかりを強調した従来の「反日」作品とは、ひと味違っている点である。彼らが流した涙が、日本人の差別によってのみのものではなく、彼ら自身のメンタリティにもあることを、この作品は明確に訴えている。

ネタバレBOX

 最初に、俳優たちが自己紹介するシーンからこの物語は始まる。
 韓国から招聘された二人の俳優、金一役のキム・ジュンテは来日したのは初めてであり、姜哲役のチョン・ウォンテは二度目であることが語られる。
 日本人俳優たちは、舞台となった1961年にはまだ生まれていない、あるいは生まれたばかりで、あの時代のことはよく分からないと、口々に語っている。ここで既に、この物語がはるか「歴史の彼方」の物語であり、俳優たちもノスタルジックな感傷は持ち合わせていない基本姿勢が提示される。

 大阪難波の在日コリアン街、そこの旅館に投宿している大木金太郎、力道山の新妻田中敬子、ボリショイサーカスのプロデューサー・セルゲイといった面々。実はその宿は、後に「和製R&Bの女王」として売り出されることになる金海幸子(本名金幸子)の実家でもあった。
 当時彼女は小学六年生、それにしては身長が大人並にあって、学校では在日ということでからかわれていた。
 この少女が、和田アキ子(本名・金福子)をモデルにしていることは、物語の最後で『あの鐘を鳴らすのはあなた』が流されることでも暗示される。
 和田アキ子が在日コリアンであることは知っている人は知っていただろうし、かなり昔ではあるが、週刊誌の記事になったことが何度かある。しかし本人の口からその事実が語られたのは近年のことであり、彼女が日本人であると思っていた人も少なくはないのではないか。劇中、「在日がいなくなったら紅白歌合戦の歌手は半分に減る」という台詞が出てくるが、彼女はそうした「コリアンであることを隠さねばならない」人々の代表としてこの劇に登場している。

 しかし、彼女よりももっと切実に、自らの出自を隠さなければならない男が一人いた。
 それが、この劇では名のみ語られるばかりでいっこうに宿に現れることのない力道山その人である。力士時代、彼が執拗な差別に遭っていたこと、「民族の壁」に阻まれて大関になれなかったこと、それらは現在では周知の事実となっている。だが劇中でも語られていたように、彼は自らの出自を捏造し、ニセの伝記映画まで作っていた。純粋の日本人であるかのごとく装った。そして彼は木村政彦とタッグを組み、アメリカのシャープ兄弟を空手チョップでリングに沈め、敗戦後、意気消沈していた日本人たちを鼓舞し、「日本人の英雄」となった。
 朝鮮人であるということで差別を受けていた力道山にしてみれば、日本人から熱狂的な支持を受けていたことに屈折した思いを抱いていたことは想像に難くない。劇中、力道山は大木金太郎を実は憎んでいた、という台詞が語られるシーンがある。大木が2年後の未来を幻視し、力道山の死を田中敬子から伝えられるシーンだ。
 大木金太郎は、初めから朝鮮人である事実を隠さなかった。朝鮮人としてリングで戦った。力道山も、“本当はそうしたかったはず”なのだ(厳密には力道山は北朝鮮出身であり、大木は韓国生まれだが、分裂以前の感覚で同郷と感じていただろう)。
 力道山は、在日コリアンたちにとっても「祖国の英雄」である。大木金太郎が力道山に送る憧憬の眼差しは、力道山にとってはそれが純粋であればあるほど、鋭い刃となって胸の奥を貫いていたことだろう。

 当時の和田アキ子は普通の庶民である。力道山はスターである。そのどちらもが、本名で出自を明かして生きていくことには躊躇せざるを得ない現実があった。とは言え、多くの在日コリアンが本名を名乗り、自らの民族性を誇りに思い、堂々と生きていた例だって少なくはないのだ。
 幸子は、自分の名前がハングルで「ヘンジャ」と発音することに劣等感を抱いている。父親は「お前はサチコじゃない、ヘンジャだ」と、コリアンとしての誇りを捨てるなと言い聞かせる。しかし幸子は頑なに父を拒絶し、「日本人として」歌手になる道を選んでいく。結局、その劣等感こそが「コリアンは差別されても仕方がないもの」と自ら認めてしまっていることに気付かないままに。
 「祖国の星」である力道山が出自を隠していたという事実、それが在日コリアンたちの生き方に、暗い影を落としていたのではないだろうか。力道山ですら朝鮮人であることを隠さねばならなかったのだから、ましてや一庶民である自分たちは、と考えたコリアンたちも多数いただろうと思う(在日コリアンの中では力道山の出自はとうに知られていた)。鉄の男の内面は、民族の誇りを捨てるほどに誰よりも繊細で、恐怖に震えていた。そしてその恐怖は、多くの在日コリアンたちに伝播していたのである。

 物語は、力道山が背負っていた「闇」の部分にも容赦なく光を当てている。
 大阪難波での興行を一手に牛耳ろうとする関西芸能は、セルゲイや田中、大木にも興行収入の半分を寄越せと迫る。しかし田中敬子は、力道山にも「後ろ盾」がいることをほのめかし、その要求を突っぱねるのだ。
 「在日コリアンは常に日本人に差別され搾取されてきた」という被害者意識だけで描かれた一連の日韓ドラマ(たとえば『焼肉ドラゴン』などは在日コリアンを「善人」としてしか描かなかった)に比べれば、『異郷の涙』は彼らの屈折した心理や「裏の顔」にまでかなり踏み込んで描写している点、大いに評価に値すると思う。

 もっとも、いくつかの描写で、首を捻るような部分があるのも事実だ。 
 ラスト近く、それまでの物語の流れとは脈絡もなく、唐突に日の丸の旗をバックに、大阪市長・橋下徹の映像が流され、登場人物たちが毒づくシーンがある。ナショナリズムがマイノリティをいかに圧殺していくか、それを端的に描いたつもりなのだろうが、果たして岩崎正裕は、政治と教育を分離する理念に基づいて、「教育現場で国歌斉唱、国旗掲揚を義務づけている国が世界各国を見渡しても殆どない(国によっては卒業式などの儀式もない)」という事実を知っていて、このシーンを付け加えたのだろうか。
 国旗国歌の強要をを実行しているのは、実は中国と“北朝鮮”だけなのである。言わば日本各地で無自覚的に「北朝鮮化(多分、橋下徹にもその意識はないだろう)」が進んでいるわけで、それを韓国出身の大木に非難させるというのはどういう意図なのだろうと疑問に思わざるを得ない。岩崎は恐らく、橋下ファシズムを単純な「戦前回帰」としか捉えてはいないのだろう。
 だが現代における最も恐ろしいファシズムは、社会主義国家の中で培われているのである。あの時代、「地上の楽園」と喧伝された北朝鮮が、ただの全体主義国家であることは、現在、白日の下に晒されている。

 大木金太郎は晩年、韓国に帰り、韓国プロレスの興隆に従事した。それは本来、力道山がもう少し長生きできていれば、そして自らの出自を堂々と口にすることができていれば、彼自身がやりたかったことだろう。「日本人としての通名」を名乗るコリアンがまだ多数いる現在では、差別に立ち向かう勇気がまだまだ在日コリアンの中に育っていない証拠だと言えるし、それが結局はマイノリティを踏みにじることを是とする橋下徹のようなファシストを跳梁させる遠因にもなっているのである。
東儀秀樹 雅楽ワークショップ&ミニライブ

東儀秀樹 雅楽ワークショップ&ミニライブ

そぴあしんぐう

そぴあしんぐう(福岡県)

2012/02/04 (土) ~ 2012/02/04 (土)公演終了

満足度★★★★

掌上のミクロコスモス
 会場のそぴあしんぐうは、新宮町の片田舎、交通アクセスも頗る悪い位置にあるので、いつどの公演を観に行っても、満席になっていたのを観たことがない。このCoRichにも企画制作としても劇場としても一切の記載がなく、演劇ファンからは殆ど無視されている有様だった。
 時折、おもしろい公演もあるので、もったいないよなあと思って、関係者でもないのにこうして公演情報をアップしてみたのだが、そぴあにしては珍しく、今回の公演はチケット完売、595席の大ホールが満席であった。さすがは東儀秀樹、ということなのであろう。

 テレビなどで雅楽を漫然と聴いたことはあるが、専門的な知識のない全くの初心者なので、東儀さんのお話はすべて新鮮な驚きに満ちていた。漠然と抱いていたイメージに「言葉」が与えられることで、「そうだったのか!」と目から鱗が落ちる喜びである。
 雅楽初心者向けのワークショップであるから、どのステージでも同じ内容のレクチャーをされているのであろう。従って一度体験したら、あとは普通のコンサートに行くなり、CDを聞くなりすればよいものなのであろうが、やはり実際に鳳笙(ほうしょう)、篳篥(ひちりき)、龍笛(りゅうてき)と言った和楽器を吹けるのが嬉しい。機会があればまた参加したいものだ。

 600人を相手のレクチャーであるから、残念ながら東儀さんに手取り足取り教えて貰うというわけにはいかない。
 吹き方だけを教えられて、あとはロビーで用意された楽器をご自由に、という流れではあったが、いつでもどこででも触れられる類のものではない。不器用ゆえに何とか音らしきものを出せただけで精一杯だったが、それで充分満足であった。

ネタバレBOX

 狩衣(かりぎぬ)姿の東儀さんが、鳳笙を吹きながら客席に登場する。ステージに上がって、まずは当時の貴族の服装についての解説。「狩衣は当時の普段着で、もちろん私もコンビニに行く時はいつも狩衣で馬に乗っています」と会場の笑いを誘う。
 基本的に当時の衣装はワンサイズしかなく、にもかかわらず大男でも小男でも着ることができたのは、伸縮自在な「仕掛け」があるから。型紙も正方形で、畳むのが楽でシワにもならない。単衣(ひとえ)は何枚でも重ね着ができて、四季の変化に対応できる。実は洋服よりもずっと機能性に優れているのである。
 以前から感じていたことではあるが、日本人が和装をやめてしまったことは全くもったいない話だと感じた。

 続いて、雅楽は現存する世界最古の管弦楽、オーケストラであり、音楽そのもののルーツだと言えることを論証していく。
 シルクロード起源の音楽が、東西に分かれ、東は中国、朝鮮半島にもたらされ、日本において、唐楽(とうがく)、高麗楽(こまがく)、国風歌舞(くにぶりのうたまい)の三つの様式の完成形を見る。雅楽は全て「口伝」で次代に伝えられるので、千三百年前の形が、全く変化しないまま、現代に残されているのだそうだ。シルクロードの音楽文化は完全に消滅しているので、音楽の発祥が最も原初的な形で残されているのは雅楽しかない。これは既に「人類の遺産」と言うべきものであると。

 そして、三種の管楽器は、それぞれに「天」「地」「空」を象徴している。
 鳳笙は「天から射す光」を。
 篳篥は「地上の人の声」を。
 龍笛は文字通り「龍の鳴き声」を。
 東儀さんの専門は篳篥であるが、なるほど、篳篥の音色は人の声のように常に「揺らいで」いる。西洋のリコーダーは、穴の押さえ方で音階を正確に刻むが、篳篥は穴を押さえただけでは音程は一定しない。口で「操作」することによって、音色を作り出すのだ。だから下手が吹くと、どうしようもない音しか出ない。
 清少納言『枕草子』の一節に、「篳篥はいとかしがましく、秋の虫をいはば、轡虫(くつわむし)などの心地して、うたてけぢかく聞かまほしからず」とあって、さて、あの美しい音色が清少納言にはどうしてそのように耳障りに聞こえたのだろうと、長年、謎に感じていたのだが、東儀さんによれば、「彼女の周りにいた人たちが、みんな篳篥を吹くのが下手だったんでしょう」ということであった。当時も篳篥吹きの名人が全くいなかったとは思えないが、確かに雅楽師でなければ吹きこなせるしろものではない。下手くそは上手の何十倍もいただろうから、東儀さんの指摘には根拠があるのである。

 東儀さんが雅楽の道を志し、それが間違ってはいないと確信するに至ったあるエピソード、それがちょっと耳を疑うような話なのだが、一番印象に残った。
 モンゴルかどこかの外国に演奏旅行に出かけた時のことである。草原で、東儀さんが一人、スタッフと離れて、時間潰しに笙を吹いていた。すると地平線の向こうから、何かが群れをなして近づいてくるのが見える。牛だ。
 牛の群れは、笙を吹き続ける東儀さんに近づき、ちょうど2メートルほど手前でぴたっと止まった。気付いたスタッフはみんな血相を変えたが、東儀さんは不思議と恐怖を感じなかった。牛たちみなは笙の音に聞き入っている。東儀さんが演奏を終えると、牛たちは踵を返して、また地平線の向こうに去っていった。
 また、こんなこともあった。やはり外国の海で、クルーザーに乗って、甲板で笛を吹いていたところ、船に併走するようにイルカの群れが泳いでいることに東儀さんは気がついた。単に進む方向が同じだけなのかと思って、東儀さんは船を止めさせた。すると、イルカたちは、笛を吹く東儀さんの船の周りをクルクルと回り始めたのである。
 「もしかしたら、私の吹く音が『本物』だと、牛やイルカたちが教えてくれたのかもしれません」。

 東儀さんのお話を伺いながら、私がぼんやりと考えていたことは、日本文化における芸術のありようには、等しく共通点があるのではないか、ということであった。
 いささか牽強付会に聞こえるかもしれないが、それは「宇宙」と「自然」の「ミニチュア化」ないしは「フィギュア化」ということである。ミクロコスモスを身のまわりに感じようという意識が表現を伴ったものが日本的な芸術と見なされるということだ。
 日本庭園は、そこに山水を、渓谷や森や人里を作り出す。花鳥風月を詠むことを奨励した和歌・俳諧の歴史は、宇宙をわずか十七文字、三十一文字に凝縮させた。絵画はもとより、子供たちの玩具や折り紙、陣取りやかくれんぼといった遊戯に至るまで、小さな世界の中の宇宙を私たちは無意識的に感じてはいなかったか。
 そして雅楽の「天・地・空」も、そう広くはない方丈の上で表現される。宇宙は我々の生活の中にあった。この伝統は、現在もプラモデルやフィギュアやジオラマや、漫画やアニメーションの小さなコマの中に息づいていると思う。

 シルクロードの人たちも、遙か彼方の星々を、身近なものと感じていたのだろうか。


 おまけのミニライブの内容は以下の通り。
1,『JUPITER (ホルスト:組曲《惑星》作品32 第4曲:木星より)』
2,『Boy's Heart(ボーイズハート)』
3,『誰も寝てはならぬ~プッチーニ:歌劇《トゥーランドット》から』
アンコール,『ふるさと』

 宇宙の広大さも、青春の繊細さも、軽やかなユーモアも、切ない郷愁も、全てはこの掌の上にある。
アテルイ ―北の燿星

アテルイ ―北の燿星

わらび座

ももちパレス(福岡県)

2012/01/31 (火) ~ 2012/01/31 (火)公演終了

満足度

阿弖流為の叫びは聞こえるか
 なぜか、わらび座には縁があって、いろいろなツテで観劇する機会が多いのだが、興味深い題材に惹かれ、意欲的な舞台作りに感心はしても、心の底から満足できる舞台に出会ったことは一度もない。
 それは、俳優たちの演技が古臭く単調な(キャラクターの描き分けができておらず、みんな同質の芝居をする)せいかと思っていたのだが、『アテルイ』を観ると、そもそも原作を咀嚼する能力(即ち「モノガタリの魅力とは何か」を読み取る力)自体、わらび座には欠けているのではないかという疑念が湧いてきた。
 映画に比べて、時間と空間の制約が大きい演劇は、逆にその制約を利用して、いかに観客のイメージを増大させるか、「無から有をいかに生み出させるか」が成功の鍵となる。しかしともすれば舞台は「あれもできない、これもできない」という「引き算の法則」でイメージを貧困化させることになってしまう。
 結局、この舞台は、長大な原作を消化しきれず、ぶつ切りのダイジェストに収めることになってしまった。歴史のロマンも、まつろわぬ民たちの魂の叫びも、英雄アテルイの勇気も感じられない。今はただ「私はここで何を観たのだろうか」という寒々しい思いだけが胸に去来しているのである。

ネタバレBOX

 高橋克彦の原作『火怨 北の燿星アテルイ』は、文庫本にして上下巻、千ページに及ぶ一大長編である。主人公の「阿弖流為(跡呂井)」および「母礼」は八世紀に実在した蝦夷の棟梁たちだが、『続日本紀』ほか、いくつかの資料に坂上田村麻呂によって降伏させられた記載があるが、それ以上の詳細は詳らかではない。人物設定や物語は、殆ど高橋克彦の創作によるものである。
 一部の著作で、UFOや終末論を信じている旨、トンデモ発言を繰り返している高橋克彦のことであるから、考古学的な考証はかなりいい加減なのだが、その是非はとりあえず置いておく。原作のキモとなっているのは、東北の蝦夷たちはもともと出雲族、大国主命の末裔であって、日本の先住民族であると設定されていることだ。大和朝廷、つまり天皇家は渡来系であって、蝦夷たちを東北に追いやった「侵略者」であるという認識である。原作にはその「反天皇」の思想が色濃く描き出されている。
 かつて蘇我氏によって滅ぼされたはずの物部一族の末裔・天鈴が、蝦夷に内通して生き残っているのは、その「まつろわぬ民」たちのネットワークが未来においても決して滅びることはないという思いを込めているからだろう。東北出身の高橋克彦の魂は、未だに過去の蝦夷たちの地の底からの叫びを感じ取っているのである。

 一応、そのこと自体は、舞台でも語られてはいる。説明的な台詞が多すぎて、小説ならばともかく、ドラマとしては「もたつく」ばかりなのだが、原作にできるだけ忠実に、という姿勢がそこにはうかがえる。
 ところが舞台版は、原作ではにぎやかしの脇役に過ぎない阿弖流為の妻・佳奈(もちろん原作者のオリジナルキャラクター)をクローズアップする。その恋模様を前面に押し出したせいで、原作のテーマがどこかに吹き飛んでしまっているのだ。
 田村麻呂との三角関係を描き、更には阿弖流為を慕う女戦士・滝名を登場させて、四角関係にまで仕立てる。おしとやかな姫様である佳奈と、男勝りの滝名、なんて、ありきたりなゲームキャラクターそのままで、原作はそこまで露骨ではない。
 そんな色模様を描かなければ、物語が持たないと脚本の杉山義法は考えたのだろうか。思い返してみれば、杉山はテレビ時代劇スペシャル『忠臣蔵』でも『白虎隊』でも、お涙頂戴のベタなドラマばかり書いていた。過大な期待を寄せる方が間違いだったのである。
 つまりは「観客への媚び」である。これは観客に感動を与えたいという意識とは似て非なるもので、「このツボを押せば客は泣く(=人が死ねば客は泣く)」という安易な手法に過ぎない。それでも客が感動できるのならいいじゃないか、というご意見もあるだろうが、たとえば懐かしアニメの番組などで、『フランダースの犬』の最終回だけを観て涙をこぼすタレントらを見て、あれがマトモなドラマの鑑賞の仕方だと言ってもいいものだろうか。それまで50話に渡って積み重ねられてきたドラマを一切無視して、ただ主人公が可哀想な死に方をしたという、それだけでゲストも視聴者も泣いてしまうのである。

 阿弖流為と田村麻呂との恋のさや当てなんて、たいして掘り下げて描かれているわけでもない、佳奈は「田村麻呂様のことは尊敬しているだけです」であっさり終わり、タキナも敵の矢を受け阿弖流為に抱かれて「お前に抱かれて死ねるのが嬉しい」とベタな台詞を口にして退場する。こんなん、わざわざ原作の英雄的な漢(おとこ)のキャラクターを削りまくってまで挿入しなければならないエピソードなのかと訝しむが、客なんてその程度でもオロロンオロロンと泣くものだと、作り手側から舐められているのだ。で、実際、泣いてる客もいるしな。
 この「ツボ押し効果」は、手塚治虫がやっつけで仕事をする時に多用した方法である(たとえば映画『西遊記』では、手塚が無意味にヒロインのメスザルを死なせようとして、宮崎駿らの大反対に会い、撤回するハメになった)。そう言えばわらび座は『火の鳥鳳凰編』や『アトム』でも、この手塚式の安易な手法をしっかり「継承」していたのであった。
 フツーの感性があれば、この適当さは怒っていいレベルだと思うんだが、わらび座ファンは、この程度のお話で満足しているのだろうかね。

 何とか「見られた」のは、和太鼓を伴奏にした「剣舞」だが、これにも難点はいくつもある。
 古代の土俗的な音楽でミュージカルを作ろうとする意欲は理解できるのだが、太鼓だけでは「鼓童」の勇壮さには敵わない。そして我々は既に、映画『日本誕生』や『わんぱく王子の大蛇退治』などで、古代のイメージを和洋折衷のオーケストラによって表現し、世界的な名声を得た伊福部昭という巨匠の存在を、財産として持っているのだ。甲斐正人の音楽は、それよりも一段も二段も劣るものとしか聞こえない。
 その「剣舞」もまた、舞台上で殺陣を繰り広げるだけの余裕がない(そもそも俳優たちにろくな殺陣ができない)ための、やはり「引き算の手法」による苦肉の策だろう。しかし、敵が誰一人いなくて、ただ剣を振り回し、飛んだりのけぞったりするだけで敵がいるように見せようというのは、相当なマイムの技術が必要になる。その技術がないから、「何を“エア殺陣”やってるんだ、『血がだくだくと出たつもり』かよ」と失笑するばかりなのだ。
 それでもこの剣舞のシーンがミュージカルとしては一番マシで、あとの合唱のシーンは普通の現代音楽、と言うかただの歌謡曲である。人間だものとか自由がなんたらとか、現代の感性を描きたいのであれば、古代を舞台にする意味がどこにあるか。これが再演、再々演を繰り返しているわらび座の代表作で、しかもミュージカルファンが相当数付いているというのであれば、日本のミュージカル全体のレベルは欧米に比べて著しく低いと言わざるを得ない。
 実際、わらび座に限らず、劇団四季も東宝ミュージカルも、海外のミュージカルをそのまんま持ってきているだけで、モノマネに過ぎないんだけどね。オリジナルで勝負し続けているわらび座の方がなんぼかマシと言えなくもないが、五十歩百歩である。

 もう一つ、細かいことではあるが、阿弖流為の息子・星丸役で、東日本大震災に被災して、福島から福岡に非難してきた子供が出演している。それを記事にするか記念にするかなのだろう、出演シーンでやたらフラッシュを焚いて写真を撮っていたが、これは予定されていたことだったのか、家族が勝手にやったことなのか。
 そもそも東北救済のための公演であるから文句が言いにくいのだが、事前に何らかのアナウンスがあって然るべきではなかったのか。被災のことは被災のこと、観劇のマナーとは別問題だと思うのである。
90ミニッツ

90ミニッツ

パルコ・プロデュース

キャナルシティ劇場(福岡県)

2012/01/28 (土) ~ 2012/01/29 (日)公演終了

満足度

一度目も二度目も悲劇
 28日(土)、29日(日)と2回観劇したが、2回に分けて詳述するのは面倒なので、まとめて書く。

 「三谷幸喜大感謝祭」の掉尾を飾る作品として相応しかったかどうかと問われれば、今イチ、今ニ、いや、今サンくらいかな、と言わざるを得ない。
 「90分」というタイトルが先にあって、それに合わせた内容を後付けで考えたことが明白な舞台である。勢い、設定と展開にかなり無理が生じる結果になった。三谷幸喜は事前のインタビューで「今回は“笑い”を封印します」と宣言していたが、実際にはかなり「くすぐり」を入れて、もたつきがちな展開を何とか繋いでいる。しかし果たしてこの題材は「笑い」に相応しいものであっただろうか。テーマと方法論にも乖離が生じているように思えてならなかった。
 その無理や乖離を、二人の俳優が何とか演技で繕おうと懸命になるのだが、如何せん、西村雅彦の方が役をかなり掴み損ねている。三谷幸喜は殆ど役者への当て書きでしか戯曲を書かないが、当ててもなお、その役をこなせないほどに西村の演技力は拙い。
 それでも1日目よりは千秋楽の方が、二人の掛け合いの間がよく、その分、客席での笑いの反応もよくなっていたのだが、前述した通り、ここで笑わせてしまっていいものかという疑問が、私の胸にわだかまっているのである。

ネタバレBOX

 冒頭から結末まで、ほぼ途切れることなく、舞台中央に一条の光が射し、天井から床に砂が落ち続けているように見える。もちろんこれは「砂時計」の比喩的表現だ。刻一刻と迫るタイムリミットが、二人の人物の間を流れ続ける。そしてそれが「途切れる」瞬間が訪れる。
 この演出は、舞台に静かな空気を漂わせながらもサスペンスを産み出すという見事なものだった。しかし、これがこの舞台の誉めどころとしてはほぼ唯一。あとは三谷幸喜の才能の枯渇を実感させられるものばかりだった。

 9歳の子供が交通事故に遭い、緊急手術が必要になる。ところが父親(近藤芳正)はある「信仰」に従って、輸血を拒否する。医師長(西村雅彦)は何とか父親を説得して手術に踏み切りたい。それがこの舞台の基本設定だ。
 最初に映像で「現実の団体や思想を誹謗中傷する目的のものではありません」というテロップが流されるが、これが「エホバの証人事件」をモデルにしていることは明白だ。現実の事件では、医師がインフォームドコンセントを行わないまま輸血手術を断行し、信者から訴えられ、病院側が敗訴している。この舞台では、輸血の必要性はきちんと説明をしたものの、父親の同意が得られなかったため、最終的には医師が根負けし、「父親には何も説明しなかった」という形を取って、手術の指示を出す、という形にされていた。

 物語に無理が生じている、と感じたのは、まず、このようなデリケートな問題が、たった二人だけの対話で進められるリアリティの無さである。
 もちろんその不自然さをごまかすために、脚本は「電話」を駆使してはいる。父親は、妻が病院に駆けつけられない距離にあるとして、何度も携帯で状況を説明、相談をする。医師は手術室の担当医たちと手術を実行するか中止するか、頻繁にやりとりする。しかし父親側はともかく、医師長のところに担当医や看護師が誰一人談判に来ないのはどうしたことなのか。のんびり指示待ちとはおかしくはないか。おかげで手術室の悲壮感や焦燥感が全く伝わってこないのだ。
 また、頻繁に「笑い」を入れるのは、結局は信仰や宗教を嘲笑する結果になってはいないか。例えば、「牛肉は食べないが牛乳は飲む」という父親の言葉に、「矛盾しているじゃないか」と医師が突っ込む。父親は妻との相談した上で、「じゃあ牛乳を飲むのを止めます」と言うのだが、その途端、客席からは笑いが起きるのだ。これが「嘲笑」になるのではないか、というのは、「当事者が真剣になればなるほど他人から見ればそれは滑稽に見える」という法則、即ち「他人の不幸は蜜の味」というシステムに則っているからだ。
 このような会話でも「笑わせない」演出は可能だ。「間」を外せばいいのだ。だいたい、既に牛乳を何度も飲んでしまっているのだから、今さら「飲まない」で済ませられることではないだろう。父親はここで自ら罪を犯した意識に囚われなければおかしい。
 このほかにも、「信念と信念のぶつかり合いによるサスペンス」よりも「笑い」を優先した演技、演出の方が目立つのだ。全ては「二人芝居でできること」「90分というタイムリミットを設けてできること」から逆算して物語を構成したために生じた不具合である。初めからテーマを設定して物語を構成したなら、これは決して二人芝居にはならなかっただろう。

 西村・近藤が同じく二人芝居を演じた『笑の大学』の場合は、タイムリミットにも二人だけの密室劇であることにも必然性があった。その意味で、『90ミニッツ』は『笑の大学』よりもはるかに劣る。
 しかし『笑の大学』もそのテーマ(検閲官と劇作家の攻防による「表現の自由」の問題)も実は「後付け」であって、不自然さを感じないのは「偶然」に過ぎない。読売演劇大賞を受賞し、「三谷幸喜の作家としての決意表明だ」と高く評価されたが、流山児祥は『テアトロ』で「三谷幸喜にそんな決意はない」と喝破していた。
 『笑の大学』も『90ミニッツ』も、物語の構造は、『12人の優しい日本人』と同じで、基本的には「本格ミステリー」なのである。即ち「事件」があって、それを「裁判」においてどう解釈するか、弁護側と検察側とがお互いに「証拠」を出し合って、いずれかが勝利を得る「論理ゲーム」なのである。「信念」やら何やらと言ったテーマは、それに付随するだけのものでしかない。だから平然と「ないがしろ」にできるのだが、それを観客は笑って観ていていいものなのだろうか。

 どんなテーマ、題材であろうと、「笑い飛ばす」という姿勢を、三谷幸喜が持っているのであれば、それはそれで立派である。たとえ不謹慎だ、世の中には笑っていいものとよくないものがあるだろう、と非難されようが、黒い哄笑、ブラックユーモアの意義を認め、「どんな権威も認めない(弱者も弱者であることを主張することで権威となり嘲笑の対象となる)」という覚悟と矜持があるのであれば、たとえ身障者や病人や老人や女性や黒人であろうと、笑い飛ばしたって構わないと思う。しかしそんな決意が三谷幸喜にあるのか。
 そこが、筒井康隆が『十二人の浮かれる男』でディベートそのものをナンセンスと笑い飛ばしたのに比して、『12人の優しい日本人』が「和の精神(“なあなあ”とも言う)」でテーマを収めてしまった違いとして表れているのである。

 『90ミニッツ』のラストで、父親と医師のどちらが折れるか、医師が手術決行の電話を取るのが、父親の承諾書へのサインの決意よりも「3秒だけ早かった」ことが明かされる。父親は「私の父親としての愛情より、あなたの医者としての信念の方が3秒分、強かった。私はこの3秒分を一生、後悔し続けるでしょう」と語る。ここで客席からはすすり泣きすら聞こえてきたのだが、三谷幸喜の正体を知る者なら、これが物語に収まりを付けるためだけの「解説」にすぎないことに気付いて白けるだけであろう。
 「心を持った人間」なら、こんな説明的な告白はしない。感極まれば言葉が出ない方が自然であるし、そんなことをわざわざ口にすれば、かえって決断した医師を苦しめることになる。実際、医師は「そうなの?」と返事して、そこでまた客席は「笑い」に転化してしまうのだ。
 笑えねえよ。
恒例!! 第32回 新春爆笑寄席

恒例!! 第32回 新春爆笑寄席

福岡音楽文化協会

福岡市民会館(福岡県)

2012/01/25 (水) ~ 2012/01/25 (水)公演終了

満足度★★★

来年はあるのか
柳亭小痴楽「湯屋番」、小痴楽を襲名してさほど経ってはいないが、語り口に淀みもなく、若旦那の痴態ぶりも悪くない。湯屋の客の反応の間にやや“もたつき”を感じたが、真を打つのもそう遠くはないだろう。
柳家ろべえ「もぐら泥」、小痴楽に比べると、今ひとつ観客の反応を待てず、多少急くところがある。笑わせどころの難しい噺を選んだのも失敗か。
桂歌丸「紺屋高尾」、もう何十年、この人の高座を観てきたか分からないが、語り口にこれだけ変化のない人も珍しい。若いうちに老成してしまったと言うべきか。それほど笑えないのだが、骨董品に文句をつけるのも憚られる面はある。
柳家小三治「お化け長屋」、昨年はかなり調子を落としていたが、今年はやや持ち直した印象。絶妙な間、ちょっとした仕草で笑わせる腕は、当代、敵う者がいない。それでもマクラが長すぎて、肝心の噺がサゲまで行かずに「中程」だったのは残念(もっとも元々長い噺なので端折られることはよくある)。
柳家三三「試し酒」、トリにしては軽い噺だが、酔っ払いの仕草の巧さで充分に笑わせてくれる。しかしこの会で、小三治、歌丸師匠以外の噺家がトリを務めるのは稀で、もしかしたらこれは「引き継ぎ」なのだろうかと、不安な気持ちにもさせられたことであった。

ネタバレBOX

 毎年、この会を観に行っているのは、小三治師匠の噺を聞きたいのが第一だ。
 小三治は当代一の名人と謳われてはいるが、長年のリウマチに加え、昨年は東日本大震災のショックで、一時期、落語を全く話せなくなったと伝えられた。

 今回の噺のマクラでも、東日本大震災について触れて、「でも、あれから人がみんな優しくなったような気がします」と結んだ。
 毒を吐くのが商売の落語家が、こんなに穏やかで、悪く言えば「差し障りのないこと」を口にするのはやはり元気をなくしているのかなといったんは思った。しかし、その口で「さらに昨年は談志が死ぬという喜ばしいことも」とやったので、ああ、結構「快復」されていると嬉しくなった。不謹慎だと怒る客もいそうではあったが、落語はそもそも不謹慎なものなので、そこに腹を立てるのは勘違いも甚だしいのである。

 まくらが長いことで有名な小三治師匠ではあるが、今回は特に長かった。
 爆笑寄席を初回から通して出演し続けてきたのは、もう小三治だけである(第1回は談志、円楽、小三治の3人)。市民会館のぼろっちさや、円楽への悪口(を何も口にしないが、「円楽は・・・・・・」と「沈黙の間」でもって笑わせてくれる)など、これまでの思い出語りで時間を費やし、同じ福岡音楽文化協会主宰の「寄席囃子の会」の宣伝でまた時間を費やす。おかげで、「お化け長屋」を中程で切り上げたにもかかわらず、終了したのは終演予定の9時の7分前。トリの三三師匠が、「お帰りの電車の都合のある方はどうぞお立ちになって」と言う羽目になった(そのあと「落語家に背中を見せると7代祟ると言われますが」と、しっかり落としてくれたが)。

 三三師匠がトリを務めることになったのは、小三治師匠が歌丸師匠に頼み込んでのことだったという。
 小三治の弟子も数多いが、「小三治」の名を継がせるだけの実力があると師匠は見込んでいるのではないだろうか(兄弟子が多いので、「気持ちの上で」ということではあろうが)。仕草の巧さは確かに小三治直伝という印象である。映画『小三治』の中で、入船亭扇橋が小三治の仕草について、「声を変えたりするわけでもないのに、すっと顔の向きを変えると別人になっている」と評したが、簡単に言えば「雰囲気そのものを変えてしまう」から別人に見えるのである。
 巧いとは言っても、三三はやはりまだまだ小三治のその粋にまでは届いていない。しかし、その事実を認めた上で、トリを余裕で務めているのがよい。師匠の「風格」はそのうち身についてくるだろう。

 けれども、小三治師匠が来られなくなってしまえば、この会を観に行くこともしばらくはなくなってしまうだろう。円生、志ん朝、談志らの全盛期を観てきた身にしてみれば、それ以下のクラスの落語家の会をわざわざ観に行く気にはなかなかなれないのだ。「名人」の名に値する落語家が本当に減ってしまったのだと、寂しさも覚えた「初笑い」の席であった。
深呼吸する惑星

深呼吸する惑星

サードステージ

キャナルシティ劇場(福岡県)

2012/01/15 (日) ~ 2012/01/15 (日)公演終了

満足度

残骸の底から
 第三舞台は80年代後半から90年代にかけて、演劇界において確かに天下を取った。しかし、第三舞台とは何だったのか、演劇界におけるその功罪は、と考えた時、罪の方がはるかに大きかったと判断せざるを得ない。未成熟なアダルトチルドレンの自己肯定(=甘え)を、それらしい社会的なテーマやキワモノ的なガジェットで粉飾して、傷つきぶりっこな観客に媚を売ってきた、結局はそれが第三舞台の正体ではなかったのか。
 90年代後半当りから、鴻上尚史の舞台に失望させられることが多くなっても、それでも先入観は捨てようと思って観劇した。だから冒頭のキレのよい“いつもの”ダンスパフォーマンスには、懐かしさも含めて好意的に観始めることができたのだ。しかし、期待感はすぐに失速する。陳腐で幼稚な物語、学生演劇特有の間を無視したデタラメな演技、ぐちゃぐちゃな場面転換、虚仮威しの照明、既製作品及び自分たちの過去作からのパクリ寸前の引用と、「演劇がやってはいけない」ことのオンパレード。
 しかし、かつて彼らと「同世代」だった我々が応援していたのは、そのデタラメさゆえにであった。新劇などの既製作品にない爆発的なエネルギーだったのだ。だから「これは本当はもの凄く下手くそでつまらないのではないか」と感じつつも、あえて旗を振ってきたのだ。しかしデタラメは結局デタラメでしかない。そのことに観客は次第に気付いていく。この20年あまりで、第三舞台のメッキはすっかり剥げてしまった。元のファンの多くは自らの不明を恥じつつ、彼らのステージから離れた。
 「時代の寵児」でしかなかったことを痛感しているのは鴻上尚史自身であろう。第三舞台から産み出される新しいものはもう何もない。第三舞台は変わらない。変わり続けもしなかった。解散公演は、みっともなくモダモダと愚作を発表し続けてきた鴻上の、最後の潔さだと言えるだろう。

ネタバレBOX

 舞台となる惑星の名前が「アルテア」と聞いて、なんだ『禁断の惑星』のパクリかとガッカリしてしまった。「人間の意識が具現化する」という設定も全く同じ。もっともこれはSF作品にはよく見られる設定ではある。しかし既製作品のアイデアを借りるのであれば、そこに独自のアレンジを加えるのが作家としての矜持だろう。鴻上尚史にはそれがない。
 同じアイデアを元にしていても、フレドリック・ブラウン『プラセット』はスラップスティック・ギャグとして昇華させていたし、スタニスワフ・レム『ソラリスの陽の下に』は哲学的深淵まで覗かせてくれていた。梶尾真治『黄泉がえり』はリリカルSFの一つの完成形を見せてくれもした。『深呼吸する惑星』は先行作のどれと比べてもはるかに劣っている。

 鴻上尚史がSFファンであることは、これまでの作品に「引用」されてきたキーワードから容易に理解できることであった。それこそ藤子・F・不二雄『ドラえもん』からフィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』、ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』あたりまで、幅広い読書量を誇っている。『ドラえもん』に至っては、自身で舞台化までしたほどの入れ込みようだ。
 しかしそれらのSFガジェットは、戯曲自体のテーマと殆ど絡むことなく、単に「自分が好きだから作品に引用してみました」程度の意味しか持ってはいなかった。それはそうだろう。それ以上にSFの提唱するテーマを自らのものとして内省し、作品として昇華させる能力が鴻上にはなかったからである。
 柴幸男『わが星』が岸田戯曲賞を受賞した時、選考委員の中で鴻上だけが唯一「ワイルダー『わが町』のままではないのか」と受賞に反対した。しかし、鴻上がこれまで何をしてきたかを熟知している者には、彼の発言の裏が容易に理解できるはずである。『わが星』は確かにワイルダーやブラッドベリ『火星年代記』をベースにしてはいるが、その上に幾重にも柴自身のオリジナルアイデアを積み重ねている。鴻上の「引用」にはそれがない。鴻上は自らの劣等感から、柴に嫉妬したのだ。

 もともと、自作に好きな作品をこれでもかというほどに引用しパロディ化する手法は、80年代、吾妻ひでおやいしかわじゅんら「ニューウェーブ」の漫画家たちが好んで行っていた手法だ。文学畑では栗本薫が評論『文学の輪郭』や『エーリアン殺人事件』でそれを試みていたのだが、鴻上は演劇でそれを大々的にやって見せた。それだけのことである。
 ところが演劇界の人間は、昔から文学方面にこそ眼を向けてはいたが(稚拙な文学コンプレックスゆえであるが)、漫画やSF、それらを含めたサブカルチャーの動きにはとんと疎かった。だから「鴻上尚史が新しく見えた」のである。単なる模倣に過ぎない底の浅さに気がつかなかったのだ。
 『テアトロ』2月号では、小山内伸が『第三舞台、「深呼吸する惑星」までの30年』と題して、その活動を包括し賞賛している。しかし、そこで小山内氏が指摘する第三舞台の三つの特徴、「複数の世界を並行してゲーム的に描く」「一人の役者が状況に応じて即興的に別の役に早変わりしたりする入れ子構造」「日常や社会を戯画化する一方で、物語は虚実の反転を繰り返して核や深層に到達せず、あくまで状況をオータナティブに示す」などは、全て、“漫画の中で吾妻ひでおがとっくにやっていた”ことなのだった。

 それでも鴻上尚史と同世代である我々は、彼とそして第三舞台を支持した。その「罪」は、結果的に、小劇場演劇に安易な笑いとベタな人情話を浸透させる結果となってしまった。
 更なる第三舞台エピゴーネン、たとえば演劇集団キャラメルボックスや劇団☆新感線、ヨーロッパ企画といった劇団に至る、「演劇って、この程度でいいんだ」という「極めて低いライン」を産み出してしまったのだ。
 鴻上は、『深呼吸する惑星』のパンフレットの角田光代との対談で、「阪神淡路大震災以後、観客が難解な作品を拒むようになった」と発言している。確かに、ここ20年ほどの観客の低レベル化は私も実感していることではあるが、その原因を震災による人々の現実逃避に求めるのは短絡的に過ぎるだろう。アニメーションの世界などでは、むしろ95年以降では難解な作品が増えているくらいで、それはもちろん大震災と同じ年の『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下にある。『エヴァ』を自作中に引用したこともある鴻上なら、その事実に気付いていないはずはない。観客が幼稚化したのは、鴻上の芝居が難解でも何でもなく、もともと幼稚だったためで、マトモな観客が呆れて次第に離れていったのは当然の結果だったと言えるだろう。言葉を装飾して小難しく見せかけたところで、所詮、「虚仮威し」は見透かされてしまうのである。
 鴻上の『朝日のような夕日をつれて'97』に、象徴的なシーンがある。既成の演劇を登場人物たちがマネをしてからかうシーンだが、「新劇病」「ミュージカル病」「小劇場病」などに続いて、平田オリザの現代口語演劇を「イギリス静かな演劇病」と称して演じてみせるのだ。皮肉なことに、これが役者たちの演技力が一番発揮されていて面白かったのだ。それまでの絶叫型演技が覆され、役者たちが接近し、普段の口調で喋るのだが、緊張感は倍増ししている。鴻上は平田オリザをからかったつもりで、自らの演出が平田の足元にも及ばないことを露呈してしまっていたのだった。

 90年代後半からの鴻上の凋落は、目も当てられないほどであった。
 熱狂的なファンでも、鴻上が映画畑に進出した『ジュリエット・ゲーム』や『青空に一番近い場所』の惨憺たる出来に茫然とした。90年代に入る頃から、「鴻上尚史って、実はただの馬鹿だったんだ」ということに気がついて、去っていった者が少なくなかったと思う。近作『恋愛戯曲』に至っては、映画、演劇界の双方で酷評ないしは黙殺と言った状況になってしまっている。

 私が、それでも「何か引っかかるもの」を感じて、鴻上作品を追いかけてきたのは、鴻上作品の底流にある“喪失感“、この正体は何なのだろうと気にかかっていたからだ。寡聞にして、私は商業演劇化する以前の、早稲田大学時代の第三舞台を知らなかった。旗揚げメンバーの一人、岩谷真哉が事故死していた事実を知らなかった。それを知ったのは、10年前の活動封印作『ファントム・ペイン』を観劇したあと、戯曲の後書きを読んだ時だった。
 鴻上の劇作の多くに、「失われた友」の影が、形を変え、さながら変奏曲を奏でるように描かれていく。『深呼吸する惑星』でも、冒頭は「葬儀」のシーンで始まり、放置されたままのブログ内の小説の話が語られ、そして幻想惑星アルテアで、神崎(筧利夫)は死んだ友(高橋一生)に出会う。それは確かに『ソラリス』からの引用ではあるが、同時に自作『天使は瞳を閉じて』や『トランス』などの変奏曲でもあるのだ。
 第三舞台にいる限り、鴻上は、帰ってこない友への思いから逃れることはできなかった。その「進歩の無さ」を、進歩がないゆえに批判することは簡単である。しかし、進歩ならざることがまさしく鴻上の「人間性」なのだ。理性として、鴻上作品が駄作のオンパレードであることはもっと指弾されなければならないだろう。しかし「情」においては、それはまた別の問題なのである。
アイドル、かくの如し

アイドル、かくの如し

森崎事務所M&Oplays

キャナルシティ劇場(福岡県)

2012/01/11 (水) ~ 2012/01/11 (水)公演終了

満足度★★★

岩松了的アイドル論&観客論
 岩松了とアイドルという取り合わせは、ちょっと意外な気もするが、よく考えてみれば、これまでのドラマ、映画、舞台出演を通して、間近でアイドルに接する機会も決して少なくはなかったはずである。
 「アイドルがドラマ出演すること」について、事務所の意向や、ファンの反応などの実態を見て、アイドルたちにどのような葛藤があったか、それらが演劇化するに相応しい題材だと判断したのだろう。芸能事務所の一室だけに限定された舞台で、そこに集う関係者たちの思惑の違いが作り出すドラマは、極めて繊細で、時には激しく、時には静かな中にも狂気すら感じさせて、観る者を飽きさせない。岩松了お得意の「幻想」シーンも、ここぞというクライマックスに差し挟まれる。
 しかし、観劇後の印象は、一言で言えば「後味が悪い」。それは岩松了の他作品についても言えることだが、登場人物がみな、アダルトチルドレンであり、アイドルに群がる人々が「模範としての大人」とはほど遠く、それはアイドルを食い物にしているマスコミも、そして観客である我々もまたアイドルの心情を思いやる気持ちに欠けた「ダメな大人」であることを暗に指摘されてしまっているからであろう。
 それは岩松了の計算通りではあるのだろうが、劇中のアイドルが哀れさを増すに付けても、芸能界に、そして世間に、もう少しマトモな大人はいないのかという憤懣を抱かないではいられないのである。

ネタバレBOX

 劇中、アイドル・高樹くらら(上間美緒)が、ドラマ出演に不安を抱くシーンがある。偶然にも先日、AKB48の前田敦子が、役者を続けることのプレッシャーを述懐していた。歌って踊ってだけがアイドルに求められる要素でないのは、アイドルの旬が極めて短期間であることを、関係者の誰もが熟知しているからだ。あえて断言すれば、「役者の道」を選ばない限り、アイドルには殆ど生き残りの道がない。
 事務所の所長である祥子(夏川結衣)と夫の古賀(宮藤官九郎)は、くららに役者の才能がないと思いつつも、無理やり仕事を押しつける。ストレスに耐えられないくららが頼ったのは、ディレクターの「平野」だった。
 この劇の中で最重要人物なのは、この“最後まで一度も登場することがなかった”平野だろう。もちろんこれは『ゴドーを待ちながら』のゴドーなのであって、実はこの世界の中心となる「論理」の象徴的存在である。この平野がどんな人物かというと、未成年への淫行事件を起こして逮捕され、自殺したとんでもないやつなのだ。しかしそんな腐った人間を“愛さなければならなかった”くららの苦悩の深さ、この劇の登場人物の誰一人として、「頼れる大人がいない」という悲痛な現実が、くららという「アイドル」を取り巻く環境なのである。

 自殺したのは、愛された平野の方である。しかし私は、くららと平野の関係に、自殺した実在のアイドル・岡田有希子と、峰岸徹の関係を重ね合わさないではいられない(自殺したアイドルは他にもいるが、象徴的なのはやはり岡田有希子のケースである)。
 岡田有希子は、同世代のアイドルの中では、かなり「しっかりした」印象があった。劇中のくららも、今どきのアイドルにしては、随分と喋り方が大人びていて硬い。それは「頑なさ」の表れでもある。マネージャーの百瀬(津田寛治)はあからさまに自分に好意を抱いているが、気持ちを汲んでくれる人間ではない。所長の祥子は、事務所の先輩であるトシノブ(金子岳憲)を「破滅」に追いやった人物であり、元女優という、まるで「見たくもない自分の未来」を見せつけられているような存在である。そして、自分を芸能界に送り込んだ母親の木山(宮下今日子)は、作詞家の池田(岩松了)と不倫関係にある。古賀もまた秘書の坂口(伊勢志摩)と不倫しているが、当然くららはその事実にも気付いているだろう。
 彼らが淫行事件を起こした平野よりもさらに下劣だったのか、冷静に考えれば疑問ではあるが、少なくとも、くららにとっては「そう見えた」のだろう。彼女の孤独には「救い」というものが感じられない。
 どうしてくららは自殺しなかったのか、平野の自殺が、そして明示はされないが、トシノブの「事故死」が、くららを呪縛したのだ。破滅もさせて貰えない、「アイドル」という名の牢獄の中に。

 祥子は、トシノブとくららの姿を幻視する。それは祥子がトシノブの死に責任を感じるがゆえの防衛機制だ。祥子は、幻視したくららの口から、「みんな、平野さんに死んでほしかった」と言わせる。しかし「自己を責める」行為は、本当の意味での贖罪ではなく、たいていの場合は「責めた自分」を認識することによって自己否定から逃れるための手段なのだ。
 大人たちは、誰一人、アイドルの未来に責任を負ってはいない。

 アイドルは虚像である。虚像でなければアイドルとは呼ばれない。しかし、虚像を演じきれる人間などいるのだろうか。「大人にならなきゃ」と言い残して消えたトシノブの言葉が虚しく聞こえるのは、虚像に大人的要素など誰も求めてはいず、そして転落していくアイドルに、周囲の「見かけだけは大人」な人々が、誰も助けの手を伸ばさないということだ。

 もちろん、観客である我々も。
RICHARD O'BRIEN'S『ロッキー・ホラー・ショー』

RICHARD O'BRIEN'S『ロッキー・ホラー・ショー』

パルコ・プロデュース

キャナルシティ劇場(福岡県)

2011/12/31 (土) ~ 2012/01/04 (水)公演終了

満足度★★

カルト・ムービーのカルトな楽しみ方
 いったいどんな客層が今どき『ロッキー・ホラー・ショー』を観に来るのだろうかと思っていたが、観客のはしゃぎぶり、スタンディングオベーションの熱狂ぶりは、どうにも70年代カルト作品としての本作を賞賛してきた客層とはかなりズレがあるように見える。古田新太がティム・カリー(フランケ“ン”・フルター)かよ、と幻滅した世代は、さほど劇場に足を運んではいなかったのだろう。
 基本的には映画と舞台は殆ど同じものである。ということは、この作品を70年代のゲイカルチャーやB級ホラーの再評価の流れと無関係に語ることは出来ないはずなのだが、現代日本の観客は、そんなものはいっこうに気にしない。と言うよりは「何も知らない」。実際、私が受けていたマニアックな(と言っても当時の文化を知る者にとっては常識の)部分では、若い観客は一切笑っていなかった。なのに最後には賞賛の嵐が渦巻くのだ。この矛盾の原因は何なのか。いったい彼らはこれの何をどう面白がっているのだろうか。
 作り手たちはもちろん、自分の好きな作品をあえて現代に同化させずに好きに演じるのだから、基本的には「客に理解不能だって構わない」というスタンスだ。しかし実のところ、「どんなに訳の分からないことをやっても、客は受けるに違いない」と彼らは確信しているのではないか。
 恐らくいのうえひでのりらは客を舐めている。観客の大半は「よく分かんないけれども、これは面白い気がするから面白がろうとする」と思っているのだ。そして実際、今の観客は、笑いどころで笑わずに笑えないところで笑っている。作り手としてはそれでもこの舞台は成功したと言ってのけられるのだろう。でも本当は、そういう阿呆な観客にこそ、冷水を浴びせかけるのが、『ロッキー・ホラー・ショー』の真髄であるはずなんだけどね。

ネタバレBOX

 パンフレットには、この舞台の「元ネタ」がかなり詳細に解説されている。
 それでもどうやら「タブー」に触れるらしいところは巧妙に避けられている。

 どうして屋敷の人間たちがゲイでエイリアン(宇宙人=規格外者)なのか、という点だが、もともと50年代くらいまでのB級ホラーでは、普通の人間が迷い込んでしまうのは「怪物」たちの住いであり、その「怪物たち」は、たいてい実際のフリークス(不具者)によって演じられていた。トッド・ブラウニング『怪物団』が代表的な作品であり、そこには小人を始め、実際のシャム双生児などが大挙して登場している。しかし、時を経て小人たちや奇形俳優が使いづらくなってくると、「奇形を模した」メイキャップ俳優たちに役割は移されていく。パンフで『ピンク・フラミンゴ』のディヴァインや『ファントム・オブ・パラダイス』が紹介されているのはそのためだ。
 被差別者の叫びを舞台や映像を通して訴える、そういう意味合いがあの当時のサブカルチャーには色濃くあった。日本でその影響を受けたのはもちろん寺山修司で、彼の映画や舞台に小人たちが登場するのは、この“被差別者からのサブカルチャー”の流れである。

 英米のゲイ差別は今も続く問題だが、ハーヴェイ・ミルクの暗殺事件などもあり、あちらのゲイは、宗教的な観点から、まさしく「化け物」扱いされていたのが70年代である。ホラー映画のフリークスにゲイを重ね合わせて、「我々は被差別者だ」と訴えるのはごく自然な流れであった。
 優生思想に凝り固まった元ナチスの科学者が悪者に擬せられるのも当然の扱いである。なぜ彼に「フォン」の名前が付くかということまではパンフにも解説があるが、その先の説明がない。あの科学者のモデルは、アメリカに亡命した実在のロケット工学者、フォン・ブラウンであり、既にスタンリー・キューブリックが『博士の異常な愛情』でストレンジラブ博士として登場させている。だから“車椅子に乗っている”のだ。
 フランクが「フェイ・レイになりたかった!」と歌うのも、それが『キング・コング』のヒロインの俳優だという解説はパンフにあるが、彼女がどういう人かということについては何も書かれていない。フェイは世界初の「スクリーム(叫び)」女優であり、野獣に攫われる美女(もちろんベースにはジャン・コクトー『美女と野獣』がある)であり、自らがケダモノ扱いされるフランクにとっては、まさしく求めても求められない憧憬の存在であるのだ。彼がロッキーを怪物ではなくマッチョに造形したのも、「自分が襲われたい」からなのね。基本、モンスターの発明者は、モンスターによって復讐されるものだからね。そこには被差別者としてのゲイの悲痛がしっかり背景にある。

 “ロック・ミュージカル”と言いながら、場末のバーレスクに近いデタラメなダンスであるのも、それがフリークスによって演じられることを前提としているからに他ならない。いっそのこと古田新太は無理してダイエットせずに(一応、ティム・カリーに合わせようとしたのだろうが)、超デブなまま醜く息も絶え絶えに踊ってくれた方がよかったのではないか。このミュージカルのダンスは、必ずしも巧い必要はない。むしろ「ゲテモノ」であればあるほど、「ゲテモノで何が悪いか」という強烈な「毒」を観客に発信することになるのだから。
 そういう点をとってみても、作り手側も本当に『ロッキー』フリークなんだろうかと疑問を覚えざるを得なくなる部分が随所にあるのだ。 最後に登場する宇宙人が本邦の『怪獣大戦争』に登場するX星人のコスチュームなのは何の冗談なのかね。日本にもこんなB級カルトがあるぞと言いたいのかも知れないが、その手のギャグはもうさんざん漫画やアニメで見せられてきているので、今更感の方が強い。昔ながらの特撮ファンも特に喜ばないだろうし、若い人は意味が分からないだろう。だから誰に向けてのギャグなんだか、さっぱり見当が付かないのである。
 自己満足だけで舞台を作られてもなあ。
コデ。

コデ。

劇団きらら

熊本市現代美術館(熊本県)

2011/08/26 (金) ~ 2011/08/28 (日)公演終了

満足度★★★

旧世界のままで終わる物語
 新古書販売のチェーン店に取材した、中年の店長と心が壊れた奥さん、新人だがやはり中年でちょっとイケメンの男、うるさい熊本弁おばさん、バツイチ子持ちで学のない女と、その元夫で「せどり屋」の男、コミュニケーション不全の青年、美貌の声楽の先生ら、一風変わった人間たちが織りなす群像劇。
 になるはずが、核になるドラマが弱く、一人一人のキャラクターの魅力も描き切れてはいない。軽妙な会話のやり取りや、個々人の部分的な描写には鋭い切り口を見せる面もあるが、全体としての印象は盛り上がりに欠け、あのエピソードもこのエピソードも、消化不良な形で終わってしまっている。演劇の持つ「限定性」をうまく活用しきれなかったことが失敗の原因だろう。
 とは言え、俳優のアンサンブルには目をみはらされた点も少なくなく、何人かの俳優の間の取り方の巧さには、訓練だけでは習得しきれない天性の勘のよさすら感じさせられた。物語として、声楽を物語に取り込む必然性は実はあまりないのだが、かと言って邪魔になっているわけでもない。ドラマの弱さを、声楽の練習を通して癒されていく登場人物たちの伸びやかな声と笑顔が補強している。

ネタバレBOX

 「コデ。」という珍妙なタイトルは、作者・池田美樹が、人生の夕方を迎えた時に、“ココで何してるんだろう”という思いに駆られて付けたものだということである。でもなぜここまで意味が分からなくなるほどに省略しないといけないのか、理由がよく分からない。単に奇を衒っただけかも知れない(苦笑)。

 もっともタイトルの問題は枝葉末節で、いささか困ってしまうことは、物語の中身の方である。
 店長の目黒(井上ゴム)と新人の成増(寺田剛史)の37歳コンビ、「人生の黄昏」がテーマであるのならば、この二人が中心人物にならなければならないはずなのだが、決してそうなってはいない。掛け合い漫才のような楽しさはあるものの、この二人のドラマが物語の核になるほどには強くないのである。
 成増のドラマは、書店の店長を辞めて彼女に振られたことと、「飛ぶ夢をしばらく見ない」というどこかで聞いたような話くらいしかない。目黒は心を病んで家事を全く放棄している妻との離婚を真剣に考えているが、そのドラマは「家庭」の問題なのであって、殆ど「舞台外」のこととしてモノローグでしか語られない。舞台はその8割が新古書店内に限定されており、他の場所へ移動する余裕を持ち得てはいないのである。
 もしかしたら脚本の意図としては、この夫婦の確執と離婚に至るまでの修羅場などについては、観客の想像に任せたい、ということなのかも知れない。しかしこれは、ちゃんと舞台上で展開させなければならない話なのではないか。
 目黒は現実逃避からか、バツイチ女の阿比留(森岡光)にも言い寄るが、夫婦間のすれ違いや愛憎がきちんと描かれないために、共感どころか感情移入自体し難いキャラクターになってしまっているのである。

 主役が主役に見えなくなってしまうのは、中盤、物語が完全に阿比留の方に移ってしまうせいでもある。
 浮気や放蕩の末に阿比留と別れた軽薄な夫・野野原(豊永英憲)は、現在は「せどり屋」という奇妙な商売をしている(古書の転売で利ザヤを儲けること。梶山季之『せどり男爵数奇譚』や三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』などにその詳細が描かれている。野野原は「セドラー」と自称)。古書の相場を見抜く「勝負師」の勘が必要になる商売で、とても本能だけで生きているような野野原に務まるとは思えない。案の定、彼は元妻の阿比留のところに借金をねだりに来る。
 元夫婦の諍いが何度か繰り返され、二人の関係がどんな結末を迎えるのか、観客は固唾を飲まされる。しかし、口論の果てに二人が本当に別れることになったのか、野野原は借金を重ねた末に破滅に至ったのかどうか、このエピソードも何も語られないままになぜか尻切れトンボで終わるのである。
 他のたいして主要ではないキャラクターについても、バックボーンとなる設定がちょこちょこと語られはするが、一つ一つのエピソードはやはり散漫で比重も小さく、その程度の「ヒミツ」なら、もう何も語らない方がいいんじゃないかとさえ思う。

 唯一、全ての登場人物をつなぐ要素となっているのが、スタッフのスキルアップ研修として導入された「合唱」の練習である。
 声楽の先生・佐倉レイ子(青柳美穂)の指導で、店員たちは『遠き山に日は落ちて』(ドヴォルザーク『新世界より』)を練習する。その歌詞に「人生の黄昏」を感じ取る店員たち。若い店員たちもどこか涙ぐんで見えるのはおかしな感じではあるが、本作のテーマを内包した合唱のシーンが時折挟み込まれることによって、物語が空中分解してしまうのをかろうじて食い止めた、と言えるだろう。

 以上のように、脚本に少なからず難はあるものの、全体としてはそうつまらないという印象を抱かなかったのは、俳優たちの台詞の「間」の取り方に熟練の業を見ることができたからである。
 特に成増役の寺田剛史は、相手のツッコミにかなり間を置いて頷いたり返答したりして、確実に観客の笑いを誘っていた。古書店のブログに載せるからということで、写真を撮られる時に、店長から「加瀬亮っぽく」と注文される。聞いた瞬間、固まってしまう成増だが、しばらく「間」を置いた後で、“それらしい”ポーズを取る。また、野野原に自分の名札の文字を「セイゾウさん」と間違って読まれた時にも、正確な読み方を教えるのも面倒くさいとばかりにかなり「間」を取った後で「はい」と答えてしまう。
 様々な場面で、もうほんの1秒、タイミングを逃したら客に笑ってはもらえないという、ギリギリのところで絶妙な応対をするのだ。

 声楽の練習のシーンでも、青柳美穂の指導で、森岡光が次第に「巧く」なっていく過程をリアリスティックに描けたのは見事としか言いようがない。このシークエンスなどは本作で最もドラマチックなシーンとなった。
 通常の発声で歌う森岡と、ソプラノの青柳との合唱が声質が違うにも関わらず違和感なく受け止められたのは、表現された「感情」がシンクロしているからなのだ。これが「演劇」を構築する、ということなのだ。
 優れた演技が見られた反面、甲高い声で誇張され過ぎてかえって笑いを取り損なっていたのは野野原役の豊永英憲だったが、軽薄さを表現するためだとしても、もう少し抑えないことには「なぜこんな男に惚れて阿比留は結婚していたのか」という説得力が生まれない。これは演出の指示もよくなかったのだろうと思われる。

 舞台転換に、書架に見立てた「枠」を役者各人が動かしたり、映像を使った『遠き山に日は落ちて』の解説したりなどのアイデアも気が利いている。それだけに、どうしてもドラマの希薄さが気になってしまうのである。
演劇大学2011 in 福岡

演劇大学2011 in 福岡

日本演出者協会 福岡ブロック

パピオビールーム・大練習室(福岡県)

2011/08/11 (木) ~ 2011/08/14 (日)公演終了

満足度

「大学」もなければ「演劇」もない
 幼稚園のお遊戯会で「あの芝居はなっちゃいない」と文句を付ける人間はいない。講師こそ一流どころを呼んできてはいるものの、練習期間はたったの4日、素人を集めて素人が演出を務めているのだから、そもそも「演劇」になりようがない。「一人一人、その人なりに一生懸命、頑張ったねえ」と、出演者のみなさんを労ってあげるのが順当な対応というものだろう。
 客だって殆どが出演者の身内のようで、よく笑ってあげている。正直な話、私にはどの芝居も苦痛なくらいに退屈だったのだが、一般客がこの場に紛れ込んでしまったこと自体が間違いなのだろう。

 と言って終わりにすることができ難いのは、この発表会が、曲がりなりにも「日本演出家協会」の企画によって成り立っているという事実があるからである。
 演出家協会の目的は何か。それは、各地域において演劇の土壌を作り、演劇文化の活性化を図る、即ち「一般客にも見せられるレベルの演劇の構築と、プロの演劇人を育成すること」ではないのか。
 だとすれば、現行の演劇大学の「お遊戯」な有りさまは、全く目的を果たしてはいないと断じざるを得ない。2ヶ月なり3ヶ月、じっくり時間を取って、演出も中央から招聘する演出家に全面的に任せる程度のことをしないことには、決して効果は上がるまい。もしそこまでの予算も時間もないというのであれば、「演劇大学」などという仰々しい看板を揚げるのはやめて、「演劇セミナー」程度にしておいていただきたいものだ。
 福岡の演劇人が参加しているとなれば、その内容も質も吟味分析することなく、安易な現状肯定、根拠も示さない擁護や賞賛、的外れなアドバイスを行う者も少なくない。「これは試演だから」などという擁護にもならない詭弁を弄する者も出てくる始末で、そんな言い訳が通用するのであれば、全ての演劇が試演ということになってしまう。そんな馬鹿な話があるはずもない。一般客の眼に晒されたものは、それが一つの完成形として観られることを覚悟しなければならないものなのだ。
 それでもなおあれが試演であって、あえてオモテに出して一般客の俎上に供したのだと主張するのであれば、そんな「演劇以前」のシロモノが批判に晒されるのは当然であろう。結局、擁護派の言は何の言い訳にもなってはいないのだ。
 そういう劇団や俳優にすり寄り、媚びる乞食のような連中によって「誉め殺された」劇団も福岡には少なくない。妙に「人の輪(和)を作る」行為が福岡では質の低下、逆方向にしか作用していない。演劇大学のこの無様な結果は、その端的な象徴と言ってよいだろう。

ネタバレBOX

 企画自体に問題がある以上は、個々の作品について心情的にはマットウには評価がしにくい。
 しかし観客は、制作の裏事情などは忖度せず、「そこにあるもの」をただ観て評価するものだ。と言うか、「時間がなかったんだろうねえ」なんて制作の裏事情が透けて見えるような舞台は演劇の名に値しない。素人が演じようがプロが演じようが、面白いものは面白いし、つまらないものはつまらない。その視点で個々の作品を鑑賞してみる。


『二つの星』青井陽治(講師)三浦直喜(作・演出/熊本総合舞台芸術舎)
 東日本大震災からの復興を、宮本武蔵や太陽系の惑星たちが協議するという何だか意味がよく分からない脚本。地震が起きたのはどうやら海王星の管理ミス、ということらしいのだが、これは「海王」=海の神ポセイドンの管轄、と言いたいのだろうか。惑星の名前、人間が勝手に付けただけなんだが。全てがこの調子で、被災の現実を直視して我々に何ができるかと真剣に悩んだ形跡が見られない。
 人の輪(和)が復興を助けるとでも言わんばかりに、観客を無理やり最後に舞台に引き出して輪を作らせる傲慢な演出。これが子ども、家族向けミュージカルとして、そういう場で上演されていたのならそれもありえるだろうが、ここは「演劇大学の発表会」である。場を一切理解していないとしか思えない。
 観客無視のこの酷い演出は何なのだ、と思っていたが、実際の演出は田坂哲郎(非・売れ線形ビーナス)が行っていたということが最後の挨拶で明かされた。どうしてそういうことになったのか事情が分からないが、これも「看板に偽りあり」ではないのか。


『あの星はいつ現はれるか』岸田國士(作)柴幸男(講師)渡部光泰(演出/village80%)
 このところ、岸田國士が上演される機会をよく眼にするが、これ、単純に版権が切れていて上演の許諾が要らないからなんじゃないだろうね。課題を与えたのが企画側からなのか、講師か演出家からなのかは分からないが、出来上がった舞台からは、岸田戯曲に真剣に取り組んだとは思えない、惨憺たる空気しか流れては来ない。
 対話劇(会話劇)を基盤とする岸田戯曲の台詞は、安易な改変を拒否する極めて微細な心情のやり取りで成り立っている。相当な演技力の俳優でない限り太刀打ちできない、というのが現実だ。つまりこんな劣悪な制作システムで岸田戯曲を上演しようというのが誤りで、実際、俳優は全く台詞を自分のものにしていない。
 演出は懸命に台詞に抑揚を付け、奇妙な動きを付け、台詞とは無関係なパフォーマンスを多々盛り込み、何とか舞台を「見せられる」ものにしようと努力するが、それが一切「内面の表現」には結びついてこない。ブツ切れに解体される台詞はドラマを完全に崩壊させてしまった。これでは舞台を見るだけでは筋も人間関係も分からない。戯曲をそのまま読んだ方がよっぽど面白い。
 岸田國士を上演するのに小手先の技術は役に立たないのだ。


『秋の対話』岸田國士(作)流山児祥(講師)幸田真洋(演出/劇団HallBrothers)
 同じ岸田戯曲の上演でも、まだこちらの方が見られるが、それは前者が酷すぎたために相対的にそう感じてしまうだけのことで、ト書きを台詞で言わせるなど、やはり戯曲を読み込んでいるとは言えない拙い演出が目立つ。
 戯曲には、花の役の俳優がそれらしい衣装を身につけるように指示されているが、衣装や舞台装置を用意する費用も時間もないから、状況を台詞で説明しようと考えたのだろうが、木は木の、草花は草花の、虫は虫の演技をすれば、そう見えるものだ。と言うか、それを「教える」のが「大学」だろう。ここでも「素人に四日間で演技を教えるのはムリ」というマイナスの判断が働いている。
 一つの役を、二人に分ける演出は、要するに全員に役を振らなければならないための苦肉の策か。これも演劇的な効果を考えてやったものではないから表現として昇華してはおらず、誰が誰の役なのやら混乱するばかりで、各キャラクターの心情などいっこうに伝わってこない。混乱させていい戯曲ではないだろう。


『知恵』小林七緒(講師)山下キスコ(作・演出/演玩カミシモ)
 教師と保護者の母親との、子どもを巡っての諍いを滑稽に描く「二人芝居」だが、これも一人の役をそれぞれ五人ほどが入れ替わり立ち替わり演じる。既にこの無意味な演出が「仕方なく行われている」ことには諦めが付いていたので、舞台上の出来事はあまり気にせず、筋と台詞のやり取りだけに集中したら、まあ何とか楽しめた。

 要するにどの芝居も、キャストが無駄に多い、でも全員役付けで出さないといけない、しかし演技力を付けさせる時間なんてない、どうにもならない状況で舞台を作っているのである。
 制約があってもなお、それなりのものを作らなければならない、というのが演劇の絶対条件ではある。しかし演劇大学の惨状はあまりにも演劇のありようからかけ離れている。これは参加者にとっても殆ど益のないシステムなのではないか。彼らがここで何を学べたというのだろう。学んだ気になれたという「雰囲気」だけではないのか。
 演出家協会が何を考えているのか、本当に理解に苦しむのだが、素人を使うのであるからそこには相当のストラテジー、「戦略」が必要になるのである。それが何もない。あるいはこの程度の企画で、福岡の演劇シーンの惨状をなんとかできると甘く見つもったのだろうか。それを何とかせよと烏滸がましいことを発言するつもりはないが、馬鹿が安易に誉めているからといって、これでいいのだと錯覚だけはしないでいて欲しいものである。
 身内客の跳梁のせいで、一般客が迷惑被ってるんだよ。
スガンさんのやぎ

スガンさんのやぎ

北九州芸術劇場

J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)

2011/08/12 (金) ~ 2011/08/13 (土)公演終了

満足度★★★★★

赤頭巾ちゃん気をつけて
 原作はドーデ『風車小屋便り』の一編。もちろん“童話ではない”。しかしフランスでこれが童話として絵本になっていることは事実で、「子どもには美しいものだけを見せたい」と考える親なら、この話をよく子どもに語って聞かせられるものだと、フランス人の教育意識に疑問を抱くことだろう。
 しかし、大人がこの寓話から、恐怖やエロス、生と死の問題、あるいは文明批評までも感じ取るように、子どももまた、言葉には出来なくともその鋭敏な感覚で、物語の背景にある「得体の知れない何か」を直観することは可能であるはずなのだ。そしてそれが子どもの成長に欠くべからざるものであることを、フランス人は確信しているのだろう。
 エレナ・ボスコは、哀れなスガンさんのやぎをマイムで演じる。子ども相手だからと言って、“わかりやすく”妥協することはしない。作り手、演じ手が、観客の想像力を信頼しているからこそ、この舞台は成立している。『スガンさんのやぎ』を観た子どもが大人になって、再びこの舞台を観る機会があったなら、当時は言葉には出来なかった心の中の「もやもや」の正体に気づき、慄然とさせられることだろう。

ネタバレBOX

 今井朋彦の日本語によるナレーションは、原作を99%、そのまま朗読したものである。日本人には分かりにくい「グランゴワール」「エスメラルダ」(いずれもユゴー『ノートルダムの傴偃男』の登場人物)などは省略、ないしは「言葉の置き換え」が為されたが、物語には一切、手を加えていない。
 即ち、ドーデが小説に込めたテーマは、そのまま舞台にも継承されたと判断してよい。作者が語りかける「グランゴワール」は架空の人物であるから、これはドーデが若き日の自分自身に向かって呼びかけているのだ、と解釈するのが一般的である。教職を辞して作家生活に入った自分と、新聞記者を辞めたグランゴワールを重ね合わせているのだ。
 冒険好きな若い雌山羊のブランケットは、飼い主のスガンさんの制止も振り切って、「自由」を求めて山へと旅立つ。山が狼の巣だということは熟知しているが、その恐怖もブランケットを翻意させることはできない。彼女は希望を胸に新天地に勇躍するが、果たして数々の苦難と危険を乗り越えて「成功」を手中にすることができたか。否である。彼女はあっさりと狼に嬲られて喰われ、物語は終わる。そこには何の意外性もない。“読者が心配していた通りの結末”が提示されるのだ。
 『風車小屋便り』を書くまでのドーデは、まだ作家として成功したとは言えなかった。彼の小説が評判を呼ぶのは、まさしくこの短編集以後のことである。数多くの夢見る青年が挫折を味わったのと同じく、ドーデも自らの人生への不安を『スガンさんのやぎ』のモチーフとしたと判断してよいだろう。そしてそれは読者である「若者たち」にとっても教訓となるとドーデは考えたはずだ。

 ところがあろうことか、フランス人たちは、この物語を「子供たち」に提供した。それは、本来は社交界のうら若き子女たちに向けて語られていた『赤頭巾』の物語が、「童話」として広まっていった過程とよく似ている。戒めは、“早ければ早いほどよい”と考えているのであろうか。

 舞台にはもちろん本物の山羊も狼も登場はしない。たった一人の出演者、エレナ・ボスコは、白い服を身に纏って、美しい白山羊を体技だけで演じている。時折、身体を掻く、紐に噛みつくなどの動物的な仕草を取り入れはするものの、彼女は紛う方なき“人間”である。
 旅立ちにあたり、彼女は靴下を履き、手袋を付け、帽子を被る。山羊はもちろんそんなことは“絶対にしない”。彼女は山羊に見立てられた人間ではなく、“人間”なのだ。全身の「白さ」は彼女の純真無垢の象徴ではあるが、同時に“これからどのようにでも汚される”ことを暗示してもいる。
 ブランケットは、山で、一頭のカモシカと恋に落ちる。舞台では、人形を抱きしめる演技でそれを表現する。ブランケットと人形は、箱の中に閉じ籠もって一夜を過ごすが、これはもちろんセックスの婉曲的な表現だ。彼女は白い衣装を脱ぎ捨て、黒い下着だけになる。
 そして彼女は狼と出会う。暴行と陵辱。回り舞台の壁を突き破り、彼女は遁走するが出口はない。舞台は轟音を上げ、回転はますます速まる。やがて彼女は動きを止め、その身を横たえ、いびつな姿勢のまま固まる。この救いようのない結末に「恐怖」を覚えない子どもがどれだけいることだろうか。

 イプセンが『人形の家』で女性の解放を描いたのは1879年、『風車小屋便り』の発表は1869年でちょうど10年前になる。まだ欧州でも女性の参政権は認められていないが、社会への参画が叫ばれていた頃であり、ドーデのこの寓話は、旧弊な“男に伍することを企む生意気な女”をたしなめたもの、と見なすこともできるだろう。実際に「自由」の獲得のために血を流した女性たちは数知れない。
 しかし、スガンさんが六匹の山羊を飼い、その全てが失われ、七匹目の山羊もまた同じ運命を辿っても、恐らく八匹目の山羊は必ず現れるのだ。ブランケットは、死しても何一つ後悔はしていない。最後に黒い衣装を身に纏った彼女は、もはや何も知らなかった頃のいたいけな少女ではない。命を賭してもなお、求める価値があるもの、それが「自由」なのだと知っているのだ。
 死の恐怖に襲われながらもブランケットが戦った「狼」の正体はいったい何だったのか。彼女が壁に描いた「もう?」のあとに続く言葉は何か。観客の子供たちがその意味に思い至る時が来た時、彼ら彼女らには新しい「生」が見えてくるはずである。

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