アイドル、かくの如し 公演情報 森崎事務所M&Oplays「アイドル、かくの如し」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    岩松了的アイドル論&観客論
     岩松了とアイドルという取り合わせは、ちょっと意外な気もするが、よく考えてみれば、これまでのドラマ、映画、舞台出演を通して、間近でアイドルに接する機会も決して少なくはなかったはずである。
     「アイドルがドラマ出演すること」について、事務所の意向や、ファンの反応などの実態を見て、アイドルたちにどのような葛藤があったか、それらが演劇化するに相応しい題材だと判断したのだろう。芸能事務所の一室だけに限定された舞台で、そこに集う関係者たちの思惑の違いが作り出すドラマは、極めて繊細で、時には激しく、時には静かな中にも狂気すら感じさせて、観る者を飽きさせない。岩松了お得意の「幻想」シーンも、ここぞというクライマックスに差し挟まれる。
     しかし、観劇後の印象は、一言で言えば「後味が悪い」。それは岩松了の他作品についても言えることだが、登場人物がみな、アダルトチルドレンであり、アイドルに群がる人々が「模範としての大人」とはほど遠く、それはアイドルを食い物にしているマスコミも、そして観客である我々もまたアイドルの心情を思いやる気持ちに欠けた「ダメな大人」であることを暗に指摘されてしまっているからであろう。
     それは岩松了の計算通りではあるのだろうが、劇中のアイドルが哀れさを増すに付けても、芸能界に、そして世間に、もう少しマトモな大人はいないのかという憤懣を抱かないではいられないのである。

    ネタバレBOX

     劇中、アイドル・高樹くらら(上間美緒)が、ドラマ出演に不安を抱くシーンがある。偶然にも先日、AKB48の前田敦子が、役者を続けることのプレッシャーを述懐していた。歌って踊ってだけがアイドルに求められる要素でないのは、アイドルの旬が極めて短期間であることを、関係者の誰もが熟知しているからだ。あえて断言すれば、「役者の道」を選ばない限り、アイドルには殆ど生き残りの道がない。
     事務所の所長である祥子(夏川結衣)と夫の古賀(宮藤官九郎)は、くららに役者の才能がないと思いつつも、無理やり仕事を押しつける。ストレスに耐えられないくららが頼ったのは、ディレクターの「平野」だった。
     この劇の中で最重要人物なのは、この“最後まで一度も登場することがなかった”平野だろう。もちろんこれは『ゴドーを待ちながら』のゴドーなのであって、実はこの世界の中心となる「論理」の象徴的存在である。この平野がどんな人物かというと、未成年への淫行事件を起こして逮捕され、自殺したとんでもないやつなのだ。しかしそんな腐った人間を“愛さなければならなかった”くららの苦悩の深さ、この劇の登場人物の誰一人として、「頼れる大人がいない」という悲痛な現実が、くららという「アイドル」を取り巻く環境なのである。

     自殺したのは、愛された平野の方である。しかし私は、くららと平野の関係に、自殺した実在のアイドル・岡田有希子と、峰岸徹の関係を重ね合わさないではいられない(自殺したアイドルは他にもいるが、象徴的なのはやはり岡田有希子のケースである)。
     岡田有希子は、同世代のアイドルの中では、かなり「しっかりした」印象があった。劇中のくららも、今どきのアイドルにしては、随分と喋り方が大人びていて硬い。それは「頑なさ」の表れでもある。マネージャーの百瀬(津田寛治)はあからさまに自分に好意を抱いているが、気持ちを汲んでくれる人間ではない。所長の祥子は、事務所の先輩であるトシノブ(金子岳憲)を「破滅」に追いやった人物であり、元女優という、まるで「見たくもない自分の未来」を見せつけられているような存在である。そして、自分を芸能界に送り込んだ母親の木山(宮下今日子)は、作詞家の池田(岩松了)と不倫関係にある。古賀もまた秘書の坂口(伊勢志摩)と不倫しているが、当然くららはその事実にも気付いているだろう。
     彼らが淫行事件を起こした平野よりもさらに下劣だったのか、冷静に考えれば疑問ではあるが、少なくとも、くららにとっては「そう見えた」のだろう。彼女の孤独には「救い」というものが感じられない。
     どうしてくららは自殺しなかったのか、平野の自殺が、そして明示はされないが、トシノブの「事故死」が、くららを呪縛したのだ。破滅もさせて貰えない、「アイドル」という名の牢獄の中に。

     祥子は、トシノブとくららの姿を幻視する。それは祥子がトシノブの死に責任を感じるがゆえの防衛機制だ。祥子は、幻視したくららの口から、「みんな、平野さんに死んでほしかった」と言わせる。しかし「自己を責める」行為は、本当の意味での贖罪ではなく、たいていの場合は「責めた自分」を認識することによって自己否定から逃れるための手段なのだ。
     大人たちは、誰一人、アイドルの未来に責任を負ってはいない。

     アイドルは虚像である。虚像でなければアイドルとは呼ばれない。しかし、虚像を演じきれる人間などいるのだろうか。「大人にならなきゃ」と言い残して消えたトシノブの言葉が虚しく聞こえるのは、虚像に大人的要素など誰も求めてはいず、そして転落していくアイドルに、周囲の「見かけだけは大人」な人々が、誰も助けの手を伸ばさないということだ。

     もちろん、観客である我々も。

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    2012/01/15 00:32

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