コデ。 公演情報 劇団きらら「コデ。」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    旧世界のままで終わる物語
     新古書販売のチェーン店に取材した、中年の店長と心が壊れた奥さん、新人だがやはり中年でちょっとイケメンの男、うるさい熊本弁おばさん、バツイチ子持ちで学のない女と、その元夫で「せどり屋」の男、コミュニケーション不全の青年、美貌の声楽の先生ら、一風変わった人間たちが織りなす群像劇。
     になるはずが、核になるドラマが弱く、一人一人のキャラクターの魅力も描き切れてはいない。軽妙な会話のやり取りや、個々人の部分的な描写には鋭い切り口を見せる面もあるが、全体としての印象は盛り上がりに欠け、あのエピソードもこのエピソードも、消化不良な形で終わってしまっている。演劇の持つ「限定性」をうまく活用しきれなかったことが失敗の原因だろう。
     とは言え、俳優のアンサンブルには目をみはらされた点も少なくなく、何人かの俳優の間の取り方の巧さには、訓練だけでは習得しきれない天性の勘のよさすら感じさせられた。物語として、声楽を物語に取り込む必然性は実はあまりないのだが、かと言って邪魔になっているわけでもない。ドラマの弱さを、声楽の練習を通して癒されていく登場人物たちの伸びやかな声と笑顔が補強している。

    ネタバレBOX

     「コデ。」という珍妙なタイトルは、作者・池田美樹が、人生の夕方を迎えた時に、“ココで何してるんだろう”という思いに駆られて付けたものだということである。でもなぜここまで意味が分からなくなるほどに省略しないといけないのか、理由がよく分からない。単に奇を衒っただけかも知れない(苦笑)。

     もっともタイトルの問題は枝葉末節で、いささか困ってしまうことは、物語の中身の方である。
     店長の目黒(井上ゴム)と新人の成増(寺田剛史)の37歳コンビ、「人生の黄昏」がテーマであるのならば、この二人が中心人物にならなければならないはずなのだが、決してそうなってはいない。掛け合い漫才のような楽しさはあるものの、この二人のドラマが物語の核になるほどには強くないのである。
     成増のドラマは、書店の店長を辞めて彼女に振られたことと、「飛ぶ夢をしばらく見ない」というどこかで聞いたような話くらいしかない。目黒は心を病んで家事を全く放棄している妻との離婚を真剣に考えているが、そのドラマは「家庭」の問題なのであって、殆ど「舞台外」のこととしてモノローグでしか語られない。舞台はその8割が新古書店内に限定されており、他の場所へ移動する余裕を持ち得てはいないのである。
     もしかしたら脚本の意図としては、この夫婦の確執と離婚に至るまでの修羅場などについては、観客の想像に任せたい、ということなのかも知れない。しかしこれは、ちゃんと舞台上で展開させなければならない話なのではないか。
     目黒は現実逃避からか、バツイチ女の阿比留(森岡光)にも言い寄るが、夫婦間のすれ違いや愛憎がきちんと描かれないために、共感どころか感情移入自体し難いキャラクターになってしまっているのである。

     主役が主役に見えなくなってしまうのは、中盤、物語が完全に阿比留の方に移ってしまうせいでもある。
     浮気や放蕩の末に阿比留と別れた軽薄な夫・野野原(豊永英憲)は、現在は「せどり屋」という奇妙な商売をしている(古書の転売で利ザヤを儲けること。梶山季之『せどり男爵数奇譚』や三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』などにその詳細が描かれている。野野原は「セドラー」と自称)。古書の相場を見抜く「勝負師」の勘が必要になる商売で、とても本能だけで生きているような野野原に務まるとは思えない。案の定、彼は元妻の阿比留のところに借金をねだりに来る。
     元夫婦の諍いが何度か繰り返され、二人の関係がどんな結末を迎えるのか、観客は固唾を飲まされる。しかし、口論の果てに二人が本当に別れることになったのか、野野原は借金を重ねた末に破滅に至ったのかどうか、このエピソードも何も語られないままになぜか尻切れトンボで終わるのである。
     他のたいして主要ではないキャラクターについても、バックボーンとなる設定がちょこちょこと語られはするが、一つ一つのエピソードはやはり散漫で比重も小さく、その程度の「ヒミツ」なら、もう何も語らない方がいいんじゃないかとさえ思う。

     唯一、全ての登場人物をつなぐ要素となっているのが、スタッフのスキルアップ研修として導入された「合唱」の練習である。
     声楽の先生・佐倉レイ子(青柳美穂)の指導で、店員たちは『遠き山に日は落ちて』(ドヴォルザーク『新世界より』)を練習する。その歌詞に「人生の黄昏」を感じ取る店員たち。若い店員たちもどこか涙ぐんで見えるのはおかしな感じではあるが、本作のテーマを内包した合唱のシーンが時折挟み込まれることによって、物語が空中分解してしまうのをかろうじて食い止めた、と言えるだろう。

     以上のように、脚本に少なからず難はあるものの、全体としてはそうつまらないという印象を抱かなかったのは、俳優たちの台詞の「間」の取り方に熟練の業を見ることができたからである。
     特に成増役の寺田剛史は、相手のツッコミにかなり間を置いて頷いたり返答したりして、確実に観客の笑いを誘っていた。古書店のブログに載せるからということで、写真を撮られる時に、店長から「加瀬亮っぽく」と注文される。聞いた瞬間、固まってしまう成増だが、しばらく「間」を置いた後で、“それらしい”ポーズを取る。また、野野原に自分の名札の文字を「セイゾウさん」と間違って読まれた時にも、正確な読み方を教えるのも面倒くさいとばかりにかなり「間」を取った後で「はい」と答えてしまう。
     様々な場面で、もうほんの1秒、タイミングを逃したら客に笑ってはもらえないという、ギリギリのところで絶妙な応対をするのだ。

     声楽の練習のシーンでも、青柳美穂の指導で、森岡光が次第に「巧く」なっていく過程をリアリスティックに描けたのは見事としか言いようがない。このシークエンスなどは本作で最もドラマチックなシーンとなった。
     通常の発声で歌う森岡と、ソプラノの青柳との合唱が声質が違うにも関わらず違和感なく受け止められたのは、表現された「感情」がシンクロしているからなのだ。これが「演劇」を構築する、ということなのだ。
     優れた演技が見られた反面、甲高い声で誇張され過ぎてかえって笑いを取り損なっていたのは野野原役の豊永英憲だったが、軽薄さを表現するためだとしても、もう少し抑えないことには「なぜこんな男に惚れて阿比留は結婚していたのか」という説得力が生まれない。これは演出の指示もよくなかったのだろうと思われる。

     舞台転換に、書架に見立てた「枠」を役者各人が動かしたり、映像を使った『遠き山に日は落ちて』の解説したりなどのアイデアも気が利いている。それだけに、どうしてもドラマの希薄さが気になってしまうのである。

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    2011/09/04 15:17

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