満足度★★★
流す涙のその意味は
平成生まれの若者たちが社会の中核になっていくだろう現在、「昭和」がノスタルジーの対象として語られる現象には何が背景としてあるのだろうかと考えることがある。
たとえば映画『三丁目の夕日』シリーズには、必ずしもその時代を知っているわけではない若い人たちもこぞって観に出かけて感動の涙を流している。実際にあの時代を体験している世代としては、ともかく「ものがない」時代で、そんなにいいものかと思ってしまうのだが、若い世代には、今は失われてしまった家族の絆やら何やら、肯定的イメージが増幅されて、一種のユートピア幻想まで感じさせているようだ。あの世界にはきっといじめも虐待もないのだろう。
『異郷の涙』の主人公は「原爆頭突き」の大木金太郎こと金一(キム・イル)である。往年のプロレスファンには懐かしい名前だ。しかし在日韓国人でそれゆえに差別に遭い、血の涙を流しながらも栄光を掴んだ人物にスポットを当てるのなら、師である力道山を主人公にするのが妥当てはないだろうか。
しかし劇団太陽族の岩崎正裕は、時代を力道山の死の二年前、1961(昭和36)年に置き、あえて力道山を殆ど登場させなかった。彼を主人公にしてしまえば、「ノスタルジーが在日差別の問題よりも優先されてしまう」ことを恐れたのだろう。
日韓のドラマとなれば、また差別問題か、在日コリアンだってのべつまくなしにサベツサベツと日本人を糾弾しているわけではあるまい、他の切り口はないのか、と思いはする。しかし、『異郷の涙』で大木金太郎が流した涙は、単に差別を受けたという悔し涙ではない。在日コリアンが被害者意識を乗り越えてもなお背負わなければならなかった「業」に対する「怨みの涙」である。日本を責めるだけで事が済む問題ではないのだ。
情に流されない描写や政治的な発言が連続するため、観客は素直に感動することはできにくい。そこがノスタルジーに堕した一連の「昭和もの」や、在日コリアンの涙ばかりを強調した従来の「反日」作品とは、ひと味違っている点である。彼らが流した涙が、日本人の差別によってのみのものではなく、彼ら自身のメンタリティにもあることを、この作品は明確に訴えている。