RICHARD O'BRIEN'S『ロッキー・ホラー・ショー』 公演情報 パルコ・プロデュース「RICHARD O'BRIEN'S『ロッキー・ホラー・ショー』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★

    カルト・ムービーのカルトな楽しみ方
     いったいどんな客層が今どき『ロッキー・ホラー・ショー』を観に来るのだろうかと思っていたが、観客のはしゃぎぶり、スタンディングオベーションの熱狂ぶりは、どうにも70年代カルト作品としての本作を賞賛してきた客層とはかなりズレがあるように見える。古田新太がティム・カリー(フランケ“ン”・フルター)かよ、と幻滅した世代は、さほど劇場に足を運んではいなかったのだろう。
     基本的には映画と舞台は殆ど同じものである。ということは、この作品を70年代のゲイカルチャーやB級ホラーの再評価の流れと無関係に語ることは出来ないはずなのだが、現代日本の観客は、そんなものはいっこうに気にしない。と言うよりは「何も知らない」。実際、私が受けていたマニアックな(と言っても当時の文化を知る者にとっては常識の)部分では、若い観客は一切笑っていなかった。なのに最後には賞賛の嵐が渦巻くのだ。この矛盾の原因は何なのか。いったい彼らはこれの何をどう面白がっているのだろうか。
     作り手たちはもちろん、自分の好きな作品をあえて現代に同化させずに好きに演じるのだから、基本的には「客に理解不能だって構わない」というスタンスだ。しかし実のところ、「どんなに訳の分からないことをやっても、客は受けるに違いない」と彼らは確信しているのではないか。
     恐らくいのうえひでのりらは客を舐めている。観客の大半は「よく分かんないけれども、これは面白い気がするから面白がろうとする」と思っているのだ。そして実際、今の観客は、笑いどころで笑わずに笑えないところで笑っている。作り手としてはそれでもこの舞台は成功したと言ってのけられるのだろう。でも本当は、そういう阿呆な観客にこそ、冷水を浴びせかけるのが、『ロッキー・ホラー・ショー』の真髄であるはずなんだけどね。

    ネタバレBOX

     パンフレットには、この舞台の「元ネタ」がかなり詳細に解説されている。
     それでもどうやら「タブー」に触れるらしいところは巧妙に避けられている。

     どうして屋敷の人間たちがゲイでエイリアン(宇宙人=規格外者)なのか、という点だが、もともと50年代くらいまでのB級ホラーでは、普通の人間が迷い込んでしまうのは「怪物」たちの住いであり、その「怪物たち」は、たいてい実際のフリークス(不具者)によって演じられていた。トッド・ブラウニング『怪物団』が代表的な作品であり、そこには小人を始め、実際のシャム双生児などが大挙して登場している。しかし、時を経て小人たちや奇形俳優が使いづらくなってくると、「奇形を模した」メイキャップ俳優たちに役割は移されていく。パンフで『ピンク・フラミンゴ』のディヴァインや『ファントム・オブ・パラダイス』が紹介されているのはそのためだ。
     被差別者の叫びを舞台や映像を通して訴える、そういう意味合いがあの当時のサブカルチャーには色濃くあった。日本でその影響を受けたのはもちろん寺山修司で、彼の映画や舞台に小人たちが登場するのは、この“被差別者からのサブカルチャー”の流れである。

     英米のゲイ差別は今も続く問題だが、ハーヴェイ・ミルクの暗殺事件などもあり、あちらのゲイは、宗教的な観点から、まさしく「化け物」扱いされていたのが70年代である。ホラー映画のフリークスにゲイを重ね合わせて、「我々は被差別者だ」と訴えるのはごく自然な流れであった。
     優生思想に凝り固まった元ナチスの科学者が悪者に擬せられるのも当然の扱いである。なぜ彼に「フォン」の名前が付くかということまではパンフにも解説があるが、その先の説明がない。あの科学者のモデルは、アメリカに亡命した実在のロケット工学者、フォン・ブラウンであり、既にスタンリー・キューブリックが『博士の異常な愛情』でストレンジラブ博士として登場させている。だから“車椅子に乗っている”のだ。
     フランクが「フェイ・レイになりたかった!」と歌うのも、それが『キング・コング』のヒロインの俳優だという解説はパンフにあるが、彼女がどういう人かということについては何も書かれていない。フェイは世界初の「スクリーム(叫び)」女優であり、野獣に攫われる美女(もちろんベースにはジャン・コクトー『美女と野獣』がある)であり、自らがケダモノ扱いされるフランクにとっては、まさしく求めても求められない憧憬の存在であるのだ。彼がロッキーを怪物ではなくマッチョに造形したのも、「自分が襲われたい」からなのね。基本、モンスターの発明者は、モンスターによって復讐されるものだからね。そこには被差別者としてのゲイの悲痛がしっかり背景にある。

     “ロック・ミュージカル”と言いながら、場末のバーレスクに近いデタラメなダンスであるのも、それがフリークスによって演じられることを前提としているからに他ならない。いっそのこと古田新太は無理してダイエットせずに(一応、ティム・カリーに合わせようとしたのだろうが)、超デブなまま醜く息も絶え絶えに踊ってくれた方がよかったのではないか。このミュージカルのダンスは、必ずしも巧い必要はない。むしろ「ゲテモノ」であればあるほど、「ゲテモノで何が悪いか」という強烈な「毒」を観客に発信することになるのだから。
     そういう点をとってみても、作り手側も本当に『ロッキー』フリークなんだろうかと疑問を覚えざるを得なくなる部分が随所にあるのだ。 最後に登場する宇宙人が本邦の『怪獣大戦争』に登場するX星人のコスチュームなのは何の冗談なのかね。日本にもこんなB級カルトがあるぞと言いたいのかも知れないが、その手のギャグはもうさんざん漫画やアニメで見せられてきているので、今更感の方が強い。昔ながらの特撮ファンも特に喜ばないだろうし、若い人は意味が分からないだろう。だから誰に向けてのギャグなんだか、さっぱり見当が付かないのである。
     自己満足だけで舞台を作られてもなあ。

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    2012/01/08 16:29

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