90ミニッツ 公演情報 パルコ・プロデュース「90ミニッツ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度

    一度目も二度目も悲劇
     28日(土)、29日(日)と2回観劇したが、2回に分けて詳述するのは面倒なので、まとめて書く。

     「三谷幸喜大感謝祭」の掉尾を飾る作品として相応しかったかどうかと問われれば、今イチ、今ニ、いや、今サンくらいかな、と言わざるを得ない。
     「90分」というタイトルが先にあって、それに合わせた内容を後付けで考えたことが明白な舞台である。勢い、設定と展開にかなり無理が生じる結果になった。三谷幸喜は事前のインタビューで「今回は“笑い”を封印します」と宣言していたが、実際にはかなり「くすぐり」を入れて、もたつきがちな展開を何とか繋いでいる。しかし果たしてこの題材は「笑い」に相応しいものであっただろうか。テーマと方法論にも乖離が生じているように思えてならなかった。
     その無理や乖離を、二人の俳優が何とか演技で繕おうと懸命になるのだが、如何せん、西村雅彦の方が役をかなり掴み損ねている。三谷幸喜は殆ど役者への当て書きでしか戯曲を書かないが、当ててもなお、その役をこなせないほどに西村の演技力は拙い。
     それでも1日目よりは千秋楽の方が、二人の掛け合いの間がよく、その分、客席での笑いの反応もよくなっていたのだが、前述した通り、ここで笑わせてしまっていいものかという疑問が、私の胸にわだかまっているのである。

    ネタバレBOX

     冒頭から結末まで、ほぼ途切れることなく、舞台中央に一条の光が射し、天井から床に砂が落ち続けているように見える。もちろんこれは「砂時計」の比喩的表現だ。刻一刻と迫るタイムリミットが、二人の人物の間を流れ続ける。そしてそれが「途切れる」瞬間が訪れる。
     この演出は、舞台に静かな空気を漂わせながらもサスペンスを産み出すという見事なものだった。しかし、これがこの舞台の誉めどころとしてはほぼ唯一。あとは三谷幸喜の才能の枯渇を実感させられるものばかりだった。

     9歳の子供が交通事故に遭い、緊急手術が必要になる。ところが父親(近藤芳正)はある「信仰」に従って、輸血を拒否する。医師長(西村雅彦)は何とか父親を説得して手術に踏み切りたい。それがこの舞台の基本設定だ。
     最初に映像で「現実の団体や思想を誹謗中傷する目的のものではありません」というテロップが流されるが、これが「エホバの証人事件」をモデルにしていることは明白だ。現実の事件では、医師がインフォームドコンセントを行わないまま輸血手術を断行し、信者から訴えられ、病院側が敗訴している。この舞台では、輸血の必要性はきちんと説明をしたものの、父親の同意が得られなかったため、最終的には医師が根負けし、「父親には何も説明しなかった」という形を取って、手術の指示を出す、という形にされていた。

     物語に無理が生じている、と感じたのは、まず、このようなデリケートな問題が、たった二人だけの対話で進められるリアリティの無さである。
     もちろんその不自然さをごまかすために、脚本は「電話」を駆使してはいる。父親は、妻が病院に駆けつけられない距離にあるとして、何度も携帯で状況を説明、相談をする。医師は手術室の担当医たちと手術を実行するか中止するか、頻繁にやりとりする。しかし父親側はともかく、医師長のところに担当医や看護師が誰一人談判に来ないのはどうしたことなのか。のんびり指示待ちとはおかしくはないか。おかげで手術室の悲壮感や焦燥感が全く伝わってこないのだ。
     また、頻繁に「笑い」を入れるのは、結局は信仰や宗教を嘲笑する結果になってはいないか。例えば、「牛肉は食べないが牛乳は飲む」という父親の言葉に、「矛盾しているじゃないか」と医師が突っ込む。父親は妻との相談した上で、「じゃあ牛乳を飲むのを止めます」と言うのだが、その途端、客席からは笑いが起きるのだ。これが「嘲笑」になるのではないか、というのは、「当事者が真剣になればなるほど他人から見ればそれは滑稽に見える」という法則、即ち「他人の不幸は蜜の味」というシステムに則っているからだ。
     このような会話でも「笑わせない」演出は可能だ。「間」を外せばいいのだ。だいたい、既に牛乳を何度も飲んでしまっているのだから、今さら「飲まない」で済ませられることではないだろう。父親はここで自ら罪を犯した意識に囚われなければおかしい。
     このほかにも、「信念と信念のぶつかり合いによるサスペンス」よりも「笑い」を優先した演技、演出の方が目立つのだ。全ては「二人芝居でできること」「90分というタイムリミットを設けてできること」から逆算して物語を構成したために生じた不具合である。初めからテーマを設定して物語を構成したなら、これは決して二人芝居にはならなかっただろう。

     西村・近藤が同じく二人芝居を演じた『笑の大学』の場合は、タイムリミットにも二人だけの密室劇であることにも必然性があった。その意味で、『90ミニッツ』は『笑の大学』よりもはるかに劣る。
     しかし『笑の大学』もそのテーマ(検閲官と劇作家の攻防による「表現の自由」の問題)も実は「後付け」であって、不自然さを感じないのは「偶然」に過ぎない。読売演劇大賞を受賞し、「三谷幸喜の作家としての決意表明だ」と高く評価されたが、流山児祥は『テアトロ』で「三谷幸喜にそんな決意はない」と喝破していた。
     『笑の大学』も『90ミニッツ』も、物語の構造は、『12人の優しい日本人』と同じで、基本的には「本格ミステリー」なのである。即ち「事件」があって、それを「裁判」においてどう解釈するか、弁護側と検察側とがお互いに「証拠」を出し合って、いずれかが勝利を得る「論理ゲーム」なのである。「信念」やら何やらと言ったテーマは、それに付随するだけのものでしかない。だから平然と「ないがしろ」にできるのだが、それを観客は笑って観ていていいものなのだろうか。

     どんなテーマ、題材であろうと、「笑い飛ばす」という姿勢を、三谷幸喜が持っているのであれば、それはそれで立派である。たとえ不謹慎だ、世の中には笑っていいものとよくないものがあるだろう、と非難されようが、黒い哄笑、ブラックユーモアの意義を認め、「どんな権威も認めない(弱者も弱者であることを主張することで権威となり嘲笑の対象となる)」という覚悟と矜持があるのであれば、たとえ身障者や病人や老人や女性や黒人であろうと、笑い飛ばしたって構わないと思う。しかしそんな決意が三谷幸喜にあるのか。
     そこが、筒井康隆が『十二人の浮かれる男』でディベートそのものをナンセンスと笑い飛ばしたのに比して、『12人の優しい日本人』が「和の精神(“なあなあ”とも言う)」でテーマを収めてしまった違いとして表れているのである。

     『90ミニッツ』のラストで、父親と医師のどちらが折れるか、医師が手術決行の電話を取るのが、父親の承諾書へのサインの決意よりも「3秒だけ早かった」ことが明かされる。父親は「私の父親としての愛情より、あなたの医者としての信念の方が3秒分、強かった。私はこの3秒分を一生、後悔し続けるでしょう」と語る。ここで客席からはすすり泣きすら聞こえてきたのだが、三谷幸喜の正体を知る者なら、これが物語に収まりを付けるためだけの「解説」にすぎないことに気付いて白けるだけであろう。
     「心を持った人間」なら、こんな説明的な告白はしない。感極まれば言葉が出ない方が自然であるし、そんなことをわざわざ口にすれば、かえって決断した医師を苦しめることになる。実際、医師は「そうなの?」と返事して、そこでまた客席は「笑い」に転化してしまうのだ。
     笑えねえよ。

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    2012/02/05 02:05

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