再/生 公演情報 東京デスロック「再/生」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    再生・再生・再生・再生・再生…・・・
     観劇に際しては、できるだけ先入観を持たずに見ようと心がけてはいるのだが、この『再/生』にはかなり意表を突かれた。
     最初にモノローグ、途中にちょっとした会話が行われはするものの、80分間、男二人、女四人の役者は、伴奏に合わせてただひたすら踊りまくるだけなのだ。しかしそれは決して無秩序というわけではなく、綿密に計算されていることに少しずつ気付かされていく。
     すると、最初は「踊っているだけ」に見えていた舞台が、俄然面白くなってくる。そこに演劇的な仕掛けがちゃんとあって、人間やら人生やら世界やらを象徴するものも見えてくるようになるのだ。
     実際、よくこんな変な演出を思い付いたものだ。客によっては「これは演劇なのか」と憤慨するのではないかと、余計な心配までしたくなってしまう。斬新と言うよりは「勇気がある」と呼んだ方がいいのではないか。
     この舞台には無駄な説明は一切無い。独白や会話は必要最小限に抑えられている。それはつまり客に媚びていないということである。だからと言って、前衛を気取って抽象的すぎる演出を施しているわけでもない。基本は単純なのだ。ただ「踊り続けること」。それだけで観客に伝わるものはきっとあると、演出の多田淳之介は信じているのだろう。それは、演出が「演劇の効力」を信じているということであり、またそれによって喚起される「観客の想像力」を信頼しているということでもある。
     我々は信頼されているのだ。これを愉悦と呼ばずして何と呼ぼうか。この舞台から何を受け取るか、あとは我々観客の側の問題である。

    ネタバレBOX

     何もない舞台、背景は白いスクリーン(照明で俳優たちの影が映る)。
     舞台に散らばって佇む六人の男女。中央の女性が、おもむろに語り始める。
     「私は、自分が幸せでないことに気付いた」と。
     長い間があって、曲が流れ始める。
     サザンオールスターズの『TSUNAMI』。
     踊り出す六人。それぞれのダンスは全くバラバラで、統一性が全くない。コンテンポラリーなダンスを踊る女がいれば、軽やかにステップを踏む男もいる。器械体操的な振り付けの男や女もいる。
     見ているうちに、それらのダンスが、一人一人の生活と人生を象徴しているように感じられてくる。生真面目さや頑固さ、器用と不器用、軽快さと鈍重さ、人間は本当に様々だ。
     彼らは舞台を縦横に動き回る。しかし、交錯しても彼らが関わり合うことはない。二人で手を取り合ってダンスすることは決してない。そこに群衆の中の孤独を見出すことも可能だろう。あるいは逆に、集団の中にも埋もれることのない屹立した「個」を発見し、快哉を叫ぶことも可能だろう。
     解釈が観客に任されているのは、まさしくその部分だ。

     かかっている曲が『TSUNAMI』であることも、我々に様々な想像を誘う要素になっている。
     あの東日本大震災後、某音楽番組で、オリコン一位になった曲であるにもかかわらず、題名が呼ばれなかったという曰く付きの作品だ。
     もちろん、もともとの『TSUNAMI』は東日本大震災とは何の関係もないラブソングである。だからこの曲が使用されていることに何かの「意味」を見出そうとした場合、それは震災に関連付けるか付けないかで全く変わってくるだろう。
     「これは震災後の復興、人々の再生をテーマにしたいのだろう」と解釈するのももちろん観客の自由だが、そもそも『TSUNAMI』という題の曲であることを知らない観客なら、「解釈」のしようもない。普通に彼らは恋のダンスを踊っているのだろうと思うだけだろうし、その解釈が間違いであるということもない。

     ただ既にここで「再/生」というタイトルが示す通り、『TSUNAMI』は二度「再生(リピート)」されるのである。
     この「繰り返し」が重要な意味を持ってくるのは、次の曲だ。
     
     ザ・ビートルズ『オブラディ・オブラダ』。
     デズモンドとモリーの恋を歌った楽しい曲でありながら、解散寸前のビートルズにとっては何の愛着もない歌であり、アンチファンも少なくない。「ワースト・ソング」のアンケートを取ると、必ず上位に来るという歌でもある。
     「オブラディ・オブラダ」というフレーズには「人生は続く」という意味があるとされるが、実は適当な囃子ことばに過ぎない。
     これが実に8回、繰り返されるのである。アフタートークで多田氏が「5回くらいがちょうどいいんだろうが、あえて8回繰り返した」と述べていたが、実際には3、4回繰り返されたあたりで、ウンザリしてくる観客も少なくなかろうと思われる。もっとも私の場合は、その4回目あたりで「覚悟」を決めた。
     多田氏はご存じないようだが、アニメファンにはこの「8回繰り返し」は『涼宮ハルヒの憂鬱/エンドレスエイト』の八週連続放送というやつで「免疫」ができているのである。繰り返される理不尽な日常に無理やり付き合わされる、というのは、実は「現実世界」でも往々にして起こりうることなのだ。「エンドレスエイト」とは、まさしくそのメタファーであった。

     ここがこの『再/生』という舞台を評価するかしないかの分かれ目にもなるのだろう。
     人生は単調な毎日の繰り返しである。その永遠に続く牢獄のような世界に堪えうるかどうか、それに堪えた者だけが「超人」となりうると説いたのはニーチェだったが、さて多田氏がニーチェの永劫回帰の思想をこの舞台に持ち込むつもりで「八回繰り返し」などいう冒険に挑んだのかどうか、それは分からない。
     しかし少なくとも、実際の舞台で「見えてくる」のは、同じ曲に乗せて同じダンスを繰り返しながらも、少しずつ「疲れていく」、しかしそれでもなお「踊り続ける」俳優たちの姿である。
     たとえ単調で陳腐な毎日であっても、私たちはその平凡さに堪えてこの世界で生きている。「エンドレスエイト」の終了後に交わされる、俳優たちの「焼肉談義」。何の変哲もない会話が、ありふれた日常が、実は私たちの「平和」の象徴なのではないか。
     いつ果てるともしれない「オブラディ・オブラダ」の果てに投げかけられた、「カルビって、三人前ぐらい食べれません?」という腑抜けた言葉が、愛おしく感じられるようになるのだ。

     相対性理論の『ミス・パラレルワールド』、続いて『ラストダンスは私に』(歌い手は越路吹雪でないことは確かだが、誰がカバーしているかは分からなかった)が一回ずつ、これは「再生」なし。
     曲は「ラストダンス」なのに、これで終わりにならないところ人を食っている。クライマックスは次の曲。

     perfume『GLITTER』の三度リピート。
     最も激しいダンスを披露したあと、俳優たちは床に倒れ伏す。
     これまでも「立っては起き上がり」という「再生」を繰り返す動きを全員が繰り返していたが、今度は完全に力尽きたように、床に大の字になり、荒い息をして、そのまま身動きもできずにいる。
     しかし曲は繰り返されるのだ。立ち上がり、再び踊り始める六人。汗を飛ばし、服も乱し、それでも「再生」し続ける彼ら。歌詞の「なんでもきっとできるはず」というフレーズが、彼らを応援していると言うよりは、揶揄しているように聞こえてしまう。
     妥協のないその姿勢には、「ここまでやってこそ俳優」という言葉を捧げずにはいられなくなるのだ。「キラキラの夢の中」にいるのは彼らだ。

     ジョン・レノン『スターティング・オーバー』がかかり、彼らは舞台から去っていく。余韻と言うよりは、呆気に取られたまま、拍手をすることも忘れて彼らを見送ってしまったが、改めて俳優たちの「気力」と「体力」に惜しみない拍手を送りたい。

     公演を重ねるごとに、曲が変わり、台詞も変わり、ダンスも多彩になっていくようである。人生の数が人の数だけあるように、『再/生』の舞台も千変万化していくのであろう。数年後、また『再/生』が再生されることがあれば、それはどのような形を取るのか、観てみたいと思う。

     「“東京”デスロック」と言いつつ、多田氏は東京から拠点を埼玉県に移し、地方での演劇振興に力を入れてくれている。
     それは、かつてそれぞれの地方が「クニ」の文化として独自の発展をし続けていたにもかかわらず、明治以降の中央集権制で崩壊してしまったこと、そのことが日本文化全体の沈滞に繋がってしまったことを認識した上で、どうすれば「再生」は可能なのか、と多田氏が自問自答した結果なのだろう。
     我々観客は芝居を楽しんで観るだけだが、問題は、このような新劇の流れとも、多田氏が所属していた青年団「静かな演劇」の流れとも違う「面白さ」を受容できるキャパシティが、我々観客の中にどれだけ培われているか、その点に集約されるように思える。

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    2012/02/26 23:21

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