トンマッコルへようこそ 公演情報 劇団桟敷童子「トンマッコルへようこそ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    真実のトンマッコルへようこそ
     不明を恥じなければならない。
     パク・クァンヒョン監督の映画『トンマッコルへようこそ』を観た時には、いかにも『千と千尋の神隠し』に影響を受けた安易な作り方と、ファンタジーだとしても説得力がなさ過ぎる展開に呆れて、世評ほどには面白いと思わなかった。当然のごとく、感動の涙を流すこともなかった。
     原作として舞台戯曲があることは知っていたが、日本語訳の出版がない以上、実際にそれを読む機会があるはずもない。また映画の製作・脚本に原作者チャン・ジンの名前があったことから、舞台も映画も基本的には同じものだろうと思いこんでいたのだ。
     それでも両者が完全に同じであるはずもないから、言わば「軽い興味」で、舞台を映画化する際に、「どの程度の改変を加えたか」を確認するつもりで(あとは松田“仮面ライダー斬鬼”賢二と、塩野谷“B.スプリングスティーン”正幸見たさに)劇場に足を運んだ。それだけのことだったのだ。
     ところが、舞台と映画とは、根本的に構造が違っていた。ストーリーの大筋は同じであっても、舞台は映画にはなかったユーモアも随所に満ちていて、まさしく演劇ならではの魅力に満ちている。字幕付きでも構わないから、本国での舞台版を観てみたい、そんな気にさせられたほどに刺激的だった。
     『トンマッコル』という題材を、映画版だけを観て判断してはならない。その事実を痛感したが、如何せん、現在でもこの日本で舞台と映画を比較研究できる機会は極端に少ないのである。映画版だけを観て、感動した人にも、そうでもなかった人にも、それは『トンマッコル』の真の姿ではない、ということだけは強く訴えておきたいと思う。

    ネタバレBOX

     「トンマッコル」とは「子供のように純粋な村」という韓国語だという(原作者のチャン・ジンによれば、日本の村をイメージしたとか)。
     実在する村ではないし、そのタイトルからも、これが一つのファンタジーであることを――たとえ「韓国戦争(=朝鮮戦争)」を背景にしてはいても――示唆している。
     映画版で象徴的だったのは、人民軍(北朝鮮)の兵士たちが持っていた手榴弾が誤ってトウモロコシ小屋で爆発し、村の空いっぱいに「ポップコーン」が雪のように舞うシーンだ。戦争を知らない小さな山村で偶然出遭った、人民軍、韓国軍、そして米軍の兵士たち。彼らを結ぶ「平和」の象徴が、その「ポップコーンの雪」だったが、私は「戦争をそんなファンタジーで落としてしまっていいものだろうか」という疑念が浮かんで、素直に感動することができなかった。

     舞台版には、そんなポップコーンの雪のシーンはない。
     原作戯曲は三時間を超えていたというので、もしかしたらそういうシーンもあって、上演に際してカットしたのかもしれない。しかし映画と舞台の差異はそういう部分的な点に留まらない。原作舞台は、そもそも“ファンタジーではない”のだ。

     舞台にはまず「語り手」が登場する。彼は「作家」(板垣桃子)だ。彼が発見した一葉の写真が、物語の始まりとなる。その写真には、韓国戦争当時であると思われるにも関わらず、トンマッコルの村の人々と一緒に、敵同士であるはずの人民軍、韓国軍、連合国米軍の兵士たちの姿が、にこやかに写っていたのだ。
     このような“ありえない”写真がなぜ撮られたのか。作家は、写真の持主である父親に事情を聞く。即ちこの物語は、謎が徐々に解かれていくミステリーとしての構造を持っている。

     その父親――韓国戦争当時は少年だったトング(大手忍)は、ある日、知恵遅れの少女イヨン(中村理恵)と、墜落する戦闘機を目撃する。村の外れに落ちた戦闘機には、米軍のスミス(Chris Parham)が乗っていたが、足のケガだけで命は無事だった。突然現れた言葉の通じない珍客に、右往左往する村人たち。ここで村人たちの一人一人が、かなり詳しく描写される。
     村のまとめ役だが今ひとつ頼りにならない村長(塩野谷正幸)、その母親ですっかりボケた婆さん(鈴木めぐみ)、村一番のインテリだが正体不明のキム先生(深津紀暁)、トングのちびったウンコをうっかり掴んでばかりいるダルス(原口健太郎)、戦争帰りの粗暴なウンシク(外山博美)などなど……。
     映画版では殆ど書き割りに過ぎなかった村人たちが、ここでは生き生きと、そしてユーモラスな会話を繰り広げる。トンマッコルの人々は決して理想郷に住む仙人たちではない。後で明かされるが、ヒロインの少女イヨン(映画版のヨイルに当たる)は、実は村長の隠し子で、知能に問題があって生まれた彼女を、村長は娘として認めなかったという哀しい現実も示されるのだ。

     物語は全て、「村人たちからの視点」で描かれていく。映画版が兵士たちからの視点で描かれ、村人の純粋性が少女ヨイルだけに集約されていたのとは、全く正反対だ。
     スミスも、そして人民軍のトン・チソン(松田賢二)、チャン・ヨンヒ(鈴木歩己)、ソ・テッキ(桑原勝行)、韓国軍脱走兵のピョ・ヒョンチョル(池下重大)、ムン・サンサン(井上正徳)も、基本的には「お客さん」の立場を逸脱することはない。
     そして彼らは出逢い、当然、敵対する。村人になだめられ、農作業を手伝うようになる。少しずつうち解けるようになりながらも、結局は意見の相違から、殺し合う寸前に至るのだが――。

     舞台と映画の最大の違いは、ここからである。
     それまで、この物語を「作家」に伝えていた“父親”のトングが急死するのだ。即ち、「写真の謎」は真相が分からないまま、作家は途方に暮れてしまうのだ。
     それからの展開がとんでもなく面白い。仕方がないので、登場人物たちがめいめい勝手に動きだし、「自分たちの考える結末」を演じ始めるスラップスティック喜劇へと変貌してしまうのだ。特に松田賢二が敵を殺しかけていたのにいきなり平和主義者になって「みんなで記念写真でも撮ろう!」と言い出したのには場内大爆笑である。俳優たちが客席にも乱入、支離滅裂状態になったところで、作家が悲鳴を上げて、ようやく事態は収拾する。
     作家は、「これから先の物語は、全て私の想像です」と語る。いくつもの「結末」が示されるあたりはまるで黒澤明『羅生門』(と原作の芥川龍之介『藪の中』)だが、『羅生門』では最後に語られる杣人の証言が真実として示される。しかしこの『トンマッコル』の物語に「字義通りの真実」は存在しないのだ。

     これから先の展開は、確かに、映画と同じである。
     韓国軍の小隊が現れ、正体を見破られた兵士たちは彼らを殺す。流れ弾に当たったイヨンは死ぬ。村への連合軍による総攻撃があると知った兵士たちは、協力して「揺動」作戦を立てる。連合軍は、トンマッコルとは全く別の箇所を爆撃し、村は無事だったが、5人は死ぬ。「記念写真」は、兵士たちが村を去る直前にスミスのカメラで撮られ、トングに渡されたものだった。

     しかし、それは全て作家が「こうであってくれたら」という想像でしかないのだ。イヨンは、その知恵の足りない頭で、戦闘機から降りてきたのは「イエス様だ」と韓国軍に告げる。
     ファンタジーと言うよりも、この物語は「奇跡」の物語である。そうであってほしいという「祈り」を、作家はこの想像の中に込めたのだ。

     「真実」はそうではなかっただろうと、観客の誰もが思うだろう。なぜなら、作家が最後にこう語るからだ。「私は、一度もトンマッコルへは行っていない」と。
     「写真」にたいした謎はなかったのかもしれない。農作業を手伝っていたのだから、そんな写真が撮られる機会だってあっただろう。イヨンが写っていなかったのもたまたまで、5人が死んだのも、単に村から逃げたところをねらい打ちされただけかもしれない。
     「真実は夢物語ではない」という当たり前の事実が、そこにはあったことだろう。しかし、そんな夢物語があってもいいじゃないか、いや、あの戦争があまりにも悲惨だったからこそ、たとえそれが事実ではないことを知りつつも、そんな夢物語があったことを願いたい、トンマッコルがその名の通り、「純真な村」であってほしいという祈りが、この「真実ではない」物語に、一片の「心の真実」を与えている。
     「絵空事」を「これは真実ですよ」と提示して見せても、観客はその底の浅さに鼻白むばかりである。映画版の失敗はそれが原因だった。しかし、我々がともすれば厳然たる事実よりも、希望を内包した「虚構」を求める存在であることを認識した上で、あえて「絵空事」を「絵空事」として披露してみせてくれた場合――我々はその「虚構」に心を揺り動かされることになるのである。

     あの村人たちなら、韓国軍を前に、兵士たちを「家族」と呼んで匿ったに違いない、あの村長なら、最後にイヨンを「娘」と呼んだに違いない。「一度も父さんと呼ばせてあげられなかった」と泣いたに違いない、そう感じさせる「真実」がそこにはあるのだ。
     「事実」と、我々が本当に求めている「心の真実」とは違う。「物語」が観客に問いかけるべきものは、その「心の真実」の方なのではないだろうか。

     強いてこの舞台に注文を付けるのならば、これは劇団の構成員の問題もあろうから仕方がない面もあろうが、複数の男性役を女性が演じていたことだ。俳優のみなさんは、もちろんそれらしく演じてはおられたが、やはり男性が演じた方が自然ではある。
     自然、ということならば、やはり字幕付きになっても、韓国人俳優でこの舞台を観てみたいという気にもさせられた。チャン・ジンの話によれば、三時間の原作戯曲は冗長な部分もあったということではあるが、それでも物語に何が付け加えられ、何が引かれたかを確認することは、作品理解をより深めることになるだろうと思われるからである。
     

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    2012/02/19 07:55

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