がっつり演劇LOVE わーくしょっぷ 発表会 公演情報 福岡市文化芸術振興財団「がっつり演劇LOVE わーくしょっぷ 発表会」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度

    シロウトだからではない
     『再/生』を楽しく観ることができたので、こちらも期待して観に行った。
     結果を言えば、ワークショップのシステムは面白かったが、出来上がった作品は何一つ見所のないつまらないもので、すっかり落胆してしまった。
     シロウトの集まりだからつまらなくなっているわけではない。ワークショップのやり方そのもの、多田淳之介の演出自体に重大な欠陥があるのだ。『再/生』と違って、この発表会の方は、観客の想像力が一切喚起されない。観客は置いてきぼりを喰らってしまうのである。

     想像力が喚起されないのは当然である。多田氏は、このワークショップでは、『再/生』とは全く正反対の演出を施している。アフタートークで多田氏自身が発言していたことだが、『再/生』は俳優同士にコミュニケーションを一切取らせなかった。それに対して、ワークショップは、コミュニケーションをとらせることをテーマにしているのだ。
     コミュニケーションを取らせなかったからこそ演劇として成立していた舞台を、根底から覆すような演出を試みれば、演劇になりようがないのは自明ではないか。

     『再/生』の舞台に立っていたのは、紛れもなく「俳優」であり、一人一人が「人生」を背負ったキャラクターとして生きていた。しかしワークショップの舞台に立っている人たちは、ただの「ワークショップの参加者」でしかない。そうとしか見えない人々に対して、想像を働かせることは不可能である。
     これはただのワークショップ発表会であって、演劇ではない、という言い訳は成り立たないだろう。「演劇LOVE」とまでタイトルに堂々と冠しているのだから、たとえ出演者がシロウトであろうと、出来上がったものは「演劇」になっていなければ、看板に偽りありと誹られても仕方がないはずだ。

     どうにも理解不能に陥ってしまうのは、どうして多田氏は、一目瞭然、できあがったものが、演劇にも何にもなっていないという、単純な事実に気付かなかったのだろうかということだ。それとも舞台上の登場人物がただ雑然と行き来するだけの舞台が、演劇として成立しているとでも思っているのだろうか。
     多田氏も果たして演劇人としての腕が一流なのか三流なのか、よく分からないところがあるようだ。

    ネタバレBOX

     舞台に集まった発表者のみなさんが、自分の名前(ニックネーム)を書いた「ゼッケン」を胸に付けていたのを見た時点で、すっかり落胆してしまった。
     これではこの人たちが「ワークショップの参加者」以外の何者にも見えないではないか。
     舞台で、俳優が衣装を着けるのは、その「キャラクター」を表現するためではない。その外形と内面との乖離から、観客の想像力を喚起させるためである。たとえば、王様の姿をした人間が。本当に王様であるとは限らない、仮に本当に王様であったとしても、その心が必ずしも王として相応しいものではないかもしれない、即ち衣装とは、そういう「疑い」を観客に抱かせるためのきっかけに過ぎないのだ。
     一見、Aと見えるものがAではないかもしれないと疑わせるところから、「演劇」は始まるのだ。だからこそ、「誰とも特定できない衣装」だってあり得るわけである。

     もしも、五十歳を過ぎた男性と女性が向かい合っていて、女性が着飾っているのに、男性はラフなジャージ姿だったりしたら、この二人はどういう関係にあるのだろうと、観客は想像を巡らすだろう。しかし、「名札を付けた二人」なんて存在が、現実世界で、相対するようなことがありえるだろうか。
     多田氏はさらに、彼らに「“LOVE”」について語らせるのだが、次のような会話が、現実世界のどのようなシチュエーションでなら起こりえるだろうか。

     「LOVEって何だろうね」
     「俺は、LOVEって、許すことだと思うんだ」
     「ああ、うんうん」

     世間は広いから、もしかしたら家族や友人や職場の同僚同士で、こんな会話をしている人たちもいるのかもしれないが、少なくとも私は、家族から「LOVEって何だと思う?」なんて聞かれたら、「はあ?」と呆れて、相手の脳がイカレたんじゃないかと疑うだろう。
     まず、これは絶対に「家族の会話」ではない。新劇だろうが現代口語演劇だろうが、こんなふざけた台詞を書いたら、劇作家は観客から石を投げられたって文句は言えない。
     こんな非現実的な会話を臆面もなくできる状況があるとしたら、私には「自己啓発セミナー」とか新興宗教の会合くらいしか思い付かない。こんな他人の「癒されごっこ」を見せられて、それを面白がるような下品な感性が一般人にあると多田氏は考えているのだろうか。

     参加者たちは、一様に楽しげに、多田氏の演出通りに動いてみせる。
     二人が背中合わせで会話する。
     四人のグループが、輪になって会話する。その輪が舞台いっぱいに広がる。一人だけが背中を向けて仲間はずれになる。
     台詞を使わずに、立ったり座ったりでやりとりする。拍手だけでやり取りする。
     ワークショップで何を行ってきたかの過程を示しながら、多田氏は、どんな形を取ろうがコミュニケーションは成立することを説明していくのだが、それは「表現の原理」であって、「演劇」ではない。それはせいぜい、「あ」という発音が、それだけでも意味を持って受け止められるという言語の原則的なレベルの事象に過ぎないのだ。
     確かに、拍手の仕方や、立ち上がり方などで、そこに喜怒哀楽の感情が生まれているようには見える。しかし、その感情が観客にも共感を持って迎えられるためには、そこにいるのが「ワークショップの参加者」であっては困るのだ。彼らに、何の立場も役柄も与えられていない以上は、多田氏の言うようなコミュニケーションは、本人たちの間には生まれていても、観客席までは届かない。

     四日間の練習期間しかないわけだから、通常の演劇のように、台本を持って台詞を覚えて、というやり方が不可能であることは分かる。エチュードによる即興芝居を試みるしかない、というのは逃げでも何でもなく、短期間で演劇の面白さを参加者に感じさせつつ、観客にも楽しんでもらう手段としては適切だろう。
     しかし、表現の原理を確認する段階で留まっていたのでは、せっかく「50歳からの」と冠した意義が殆ど失われてしまう。一人一人の仕草にそれなりの個性は感じられても、「人生」までは見えてこないのだ。

     第1回福岡演劇フェスティバルでも披露されていた「イッセー尾形の作り方・ワークショップ」をご記憶の方もいらっしゃるかと思う。
     あの発表会もまた、今回のワークショップと同じように、全くのシロウトを集め、やはり四日間という短期間で、台本のない即興芝居を立ち上げていた。しかも舞台上に、家族や、友人や、会社の同僚と言った人々の関係性と、彼らが織りなす人生の一編を切り取ったようなドラマまで作り上げていたのだ。
     それが演出の森田雄三と、多田淳之介の力量の差であると言ってしまえばそれまでであるが、多田氏は「シロウトなんだからこれが限度」という限界を初めから想定してしまっていたのではないだろうか。

     アフタートークでは、多田氏は「みなさんがなかよくなれれば」というようなことを話されていた。別に参加者が仲良くなることがよくないと言いたいわけではないが、目的は仲良しこよしではなくて、「舞台を作ることの面白さは何なのか」ということではないのだろうか。
     最後のステージで、参加者全員が昨日の『再/生』のように舞台上を自由に交錯しながら、昨日は決してしなかった「握手」を交わしてばかりいるのを見ながら、やはりこれは「仲のよさ」ではなく、「馴れ合い」を見せられているだけだなと、暗い気分にさせられてしまったのである。

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    2012/02/27 23:15

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