物の所有を学ぶ庭
The end of company ジエン社
北千住BUoY(東京都)
2018/02/28 (水) ~ 2018/03/11 (日)公演終了
満足度★★★★
「目にみえるもの」と「目にみえないもの」、「教え」と「学び」、「自己」と「他者」の境界、
「記憶」などについて思いを巡らせた。
ネタバレBOX
朽ち果てた母屋、日当りのよい庭、庭の背後に森。
空間をまるごと使った舞台美術は、静謐で、無言の迫力があった。
登場人物のなかには、
長時間労働やパワハラなどが原因で仕事を辞めてしまったり、仕事への意欲を失ってしまったり、
就職する道を選ばなかったりと、そのことを表立っては言わないものの、
社会に希望を持つ事が出来ず、生きることをあきらめそうになっているような人々もいた。
「森」は、社会との接点が弱くなり、社会的に死んでしまった人々が最後に辿りつく場所である、
というイメージをリアリズム的に捉えると、「樹海」という単語が頭に浮かんだ。
また、神話的になぞらえると、ダンテの迷いこむ「暗い森」のようだな、ともおもった。
混沌として絶望的だ、と世界を捉える人々にとって、ある意味では「地獄」とでもいえるような「現在」を、超えるための唯一の希望であった「庭」は「天国」に近い場所であるようにもおもわれた。天国というのは「実存しない」からこそ、幻惑的で、ユートピア的であるともいえる。
そういった意味で、「庭」というのは、脳のなかに思い描いた潜在意識であり仮想現実であるような、もしくは集合意識が作り出した仮想空間であるのかもしれないとおもった。
庭で行われる「教え」と「学び」。
それらは、自己と他者の境界や、「目にみえるもの」と「目にみえないもの」の「所有」について、「認知」し「理解」しあうことを目標としていた。
「目にみえるもの」というのは、物質的な所有と境界のことで、それは、主に女性の妖精であるチロルが学んでいた。
「もの」は、「だれ」のものなのか?を知る過程において、
「リップクリーム」、「母屋」、「森」という、3つの例えで
ミクロからマクロ的に「個」から「国家」へと、視点をスライドさせるプロセスが鮮やかだった。
「目にみえないもの」というのは、自他の境界、感情、欲求、関係性などのことで、
これらは、元国語教師である女性のハリツメ先生と、男性の妖精さんの鈴守が、「学び」あっていた。
好きだからこそ触れたいという欲求と、「触る」という「動作」と、「行動」と「感情」の相容れなさと、無自覚を装った「嘘」を重ねることが、所有することへの定義であるのかもしれない、とおもわせた。
妖精さんたちは、話の途中までは、人間ではない何か、ということになっていた。
それは、「理解できないもの」に対する「恐怖」から来る感覚や感情でもあるのだろうか。たとえばクルツさんの場合、そのほうがおいしいから。という、一方的な価値観を押し付けて、熱々のお茶を出して、妖精さんを困らせたり、
自身の庭が妖精さんたちの保護区になるということから、妖精さんに対し、敵対心を剥き出しにしていた。しかし、最後の方では、冷めたお茶を妖精さんに出すという風に、相手を尊重し「態度」に変化がみられたというのは、妖精さんたちの存在を受け入れたという証でもあった。
このように、妖精さんと人間の関係にはフレンドリーシップの形成のような発展的な動きもみられたが、身近であった者同士の関係は、
ハリツメに想いを寄せる仁王が「結婚」という「形式」を迫ったり、
クルツがエムオカの「所有」を「捨てた」り、といった
自己と他者を繫ぐ「形式」の「所有」が「無効化」し、
永遠にはなればなれになるような、無常さが残った。
それゆえに、近しい者同士の会話は、
分断されたモノローグのようで、それぞれの心情が、言霊のように彷徨い、
記憶が交差する時に、同時多発な不協和音となって響いては消えた。
今度は背中が腫れている
あひるなんちゃら
駅前劇場(東京都)
2018/03/01 (木) ~ 2018/03/05 (月)公演終了
満足度★★★★
とりとめのない話題を「会話」ではなく、あくまで「おしゃべり」という形態で繫いでいくことへのこだわりが「駄弁」であるということなのかと理解した。
オフビートでほわほわっとした感じの笑いに触れ合うのが久々だったから、なかなか楽しめた。
ネタバレBOX
チガサキさんという、男性社員の背中にある日、大きなコブのような腫れができてしまい、どうしたらいいものか同僚に相談するところから物語がはじまる。
そして、終わりまで話題の中心にあるのは「背中の腫れ」というより、むしろその話題だけで、物語を走らせる。
とあるオフィスを舞台に「背中が腫れている」ひとが悩んだり、戸惑ったり、そうでないひとたちは、そのことについて、あれやこれやとおしゃべりしているという話。
劇中には「背中がずっと腫れている」ひと、「途中から背中が腫れてくる」ひと、「背中を腫れさせたい」ひと、という「背中の腫れ」当事者側(背中の腫れ当事者に寄り添うひと含む)と、
「色々と憶測をたてる」ひと、「憶測に共感する」ひと、「憶測を正常に戻す」ひと、という「背中の腫れ」当事者についておしゃべりしているギャラリー側が、交互に舞台に登場するという構成になっていた。
ギャラリー側の場面の時は客席もうっすら明るくなったので、トーク番組に参加しているような一体感があり、なぜ「背中に腫れ」があるのか、その腫れをどのように考えていて、これからどうしたいと思っているのか、という当事者の気持ちを一緒に推理して行くような面白さがあった。
そのなかで「背中の腫れ」の原因については、人それぞれに原因があるのだろうということがだんだん分かってくるのだが、なぜそういう現象が起きるのかということについてはよくわからないということから、ひょっとして寄生獣的なアレが体内に入り込んで、宇宙人に浸食される系のSF!?と、思ったのだけども、最後まで真相は明かされないので謎のままという。
その点に関してはモヤモヤするが、それ以外はほとんど腑に落ちた。
ものすごいアクシデントとか、衝撃を受けるようなことは出来事は特になく。
舞台装置もミニマムであったけど、おしゃべりを一番の「装置」として、
話を展開していくことがあひるなんちゃらだと理解したので、「お話」に集中することができた。
登場人物では、特に「背中を腫れさせたい」願望を持ってるチガサキさんの部下のタナカさんがおもしろかった。なかでも印象的だったのは、女社長に出世を占ってもらう場面。
それ、「占い」じゃなくて「査定」だよ!っていうチガサキさんのツッコミが、かなりツボった。
あと、客入れの時にかかってたオリジナルソングがシティポップみたいなサウンドなんだけど、歌詞がひとクセあって聞き入ったのと、劇中ぴーひょろろろーぴーと、オフィスのコピー機の音がずっと小さく鳴っていて、音へのこだわりも感じられた。
このBARを教会だと思ってる(千秋楽満員御礼、終幕しました!ご感想お待ちしております)
MU
駅前劇場(東京都)
2018/02/21 (水) ~ 2018/02/26 (月)公演終了
満足度★★★★★
「現実と向き合えているか」
または「向き合おうとしているか」ということによって
見え方が変わるという内容だと解釈をした。
ネタバレBOX
「現実」と向き合い、地に足がついていて、それなりに心が満たされていれば、「逃避」はつかの間の「休息」でもあるはずなので、ギターで弾き語るマスターの奥さんと古垣さんのお姉さんが物語のなかで最も冷静で中立な立場であったという意味で、神的だったとおもう。
帰宅拒否組のおじさん4人衆も、マスターの奥さんや古垣さんのお姉さんと同じように、社会的に地に足が着いているいるけれども、日常的に「現実」と向き合いすぎて疲れていて。
「現実」に心が満たされていない。
だから、おじさんたちのやってることは「休息」ではなく「逃避」で、つかのまの「逃避」から、安らぎを得る。「逃避」があるから、現実と向き合おうとする意欲が生まれる。そういう、せめてもの「救い」があるから、帰宅拒否組のおじさんたちは「救われている」と感じた。
そして、おじさんたちの逃避先でもあるガールズバーの女の子たちの会話から、何度も繰り返される「現実じゃない方」というフレーズは、その中のひとりの女の子がポロっと漏らす「現実キツい」って本音の裏返しで。「現実はキツい」けど「逃避」しながら、現実をがんばってるから、本音を漏らした子を皆が後ろからハグして救済する場面が美しかった。
同じく、ガールズバーのパシり役のみかんちゃんと岡山崎さんの恋模様も可愛かった。
観劇する前夜に『youtuber の saecomが渋谷ハロウィンではしゃいでると親戚のおじさんと未知との遭遇』をyoutubeで見ていたので、saecomのおじさんはsaecomと会ったあの後、さざなみのバイトに行っていて、しかも上の階のガールズバーで働く、暗くてロキノン系のメイドちゃんと付合っていたのか!というミスリードが出来て、妙に納得した。
岡山崎さんの仕事できない加減をディスりながらも受け入れてるみかんちゃんのあのふたりの掛け合いも、血が通ってて好きだったな。
それから、「現実」から「逃避」したままで「救い」があるのかという観点から、何でも屋の草谷は、序盤から終盤まで常に気になる人だった。草谷は自らの欲求に従って動いていたが、その言動は最後まで「現実」を「逃避」をしていたことから救われないのは正しかったとおもう。
また、フルーティーの篤子ママも、草谷に捨てられた「現実」を受け入れられなかったことから、救いはなく。帰宅拒否組のおじさん4人衆に可愛がってもらった小動物系の川崎さんも、
『誰をも好きにはなれないのに誰かが自分を本当に好きでいるのか知りたい』
という人の気持ちを試すようなことをしたことから、救いがないのは合点がいった。
異色だったのは、古垣さんの妹と恋人のKくんとの仲を引き裂こうとした浮気相手の女性。
モノローグの中で、彼女は罪を告白(告解)し、祈りを捧げる。その祈りは、願いでもある。
願いは、現実的ではないかもしれないという意味で、ある種の「逃避」行為でもあるとも考えられるとすると、「赦し」は得ても、罪の「事実」は消えないという、矛盾を孕む。しかし、現実的には祈りつづけるという方法しかない。だから彼女だけは、彼女のなかの神さまだけにしか心の拠り所がないように思われた。
また、「現実」と「逃避」がトートロジー的であると仮定すると、
『このバーがお客さまの心に寄り添うさざなみのようであって欲しい』というマスターの心の拠り所であるバーは「逃避」であって「現実」でもあることから、実はマスターが一番救いがなくて、虚無的なんじゃないかという疑惑が残った。
ラストでの、古垣姉妹の掛け合いは、「現実」から「逃避」しようとした妹が、現実と向き合うことを選択したことに対する、姉のレスポンスであったと解釈をした。
その先に待ち受けるものが、希望であるのか絶望であるのかはわからないけれど。
そういう不確実性のなかに現実的に私たちも生きているから、それもあり得る選択だと思った。
ちなみに自分は、この話を、古垣さんのお姉さん目線で観ていた。
だから、妹がボロボロになっていく姿を見て哀しくなったし、自分を大切にしない妹に対して叱りたくもなった。あと、ビジュアル的に古垣さんのお姉さんが、ニンフォマニアックのシャルロット・ゲンズブールみたいで格好良かったし、古市みみさんの言葉のひとつひとつに重みがあって惹きこまれた。
まるで、自分の方にまでちゃんと生きなさいって背中を押してくれてるような。
そんな気がしていた。
※Kくんについての補足(2018/2/28)
Kくんは失踪してしまっているため、物語の会話のなかにしか登場しない、
観客の想像に委ねられたキャラクターだった。
ミステリアスな「Kくん」は、梶井基次郎の「Kの昇天―(或はKの溺死)」のKくんに似ているなと思った。
あのKくんも、このKくんも、この世界にはもういないかもしれないとしたら・・・?
そしてそれを引き寄せた原因が誰かのどこかにあるのだとしたら。
「罪」の意味が変質するのではないか、
扉を開けて入ってくのはKくんではないかもしれない、と思った。
だから、ラストのその先にあるのは「希望であるのか絶望であるのかわからない」とした。
異性人/静かに殺したい【ご来場ありがとうございました!】
Aga-risk Entertainment
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2012/03/08 (木) ~ 2012/03/12 (月)公演終了
満足度★★★★★
切れ味よいです。
『静かに殺したい』は所有と剥奪による制裁を、『異性人』は依存を経て共存と調和に至るまでの駆け引きをややこしい人間関係と愛情の対立を軸に表現していた。
両作品ともアガリスクの持ち味であるエッジの利いた作演と緻密に構成された舞台空間に死闘を繰り広げる役者陣営の泥臭さが加わり増々最強に。
特に『静かに殺したい』に出演した捨て身でタックルする後藤彗と、軽やかに立ち回る斉藤コータの存在がやばかった。
『異性人』は、ラストがうつくしい。
ネタバレBOX
”予期せぬ訪問者の到来に慌てふためく主人公がその場しのぎの「嘘」をつき「誤摩化」そうとするものの、それがかえって「誤解」や「勘違い」を招き、収集がつかなくなる様を、不意打ち的な「誤算」と「打算」 によって掛け合わせ、これらを関係性に基づく行動原理の相関図として記号的な抽象が点在する限りなく無に近い舞台空間からの具象化をはかり、ディスコミュニケーションの実態と考察をスーパーフラットかつ多次元的に可視化させる”
という、『みんなの部屋』を皮切りに『ファミリコンフューザー』や近作の『バッドバースデー』でも引用されたフォーマットをリミックスして、ディストーションかけて、トドメを刺したような作品。
なかでも『みんなの部屋』との親和性が高く、関係性の相関図に特化した『みんなの部屋』をリメイクしつつ、いかに超えるか、という挑戦を課し、ドラマ性への負荷をかけ、ドラマに「仕掛け」を用意することで、超えようとしているようにおもえた。
内容的に、大学生のシリアルキラーがバスタブに隠した女性死体を誕生日を祝いに来たサークル仲間らから隠そうとする話というと、一見突拍子なく聞こえるかもしれないが、
「好きなひととは、ずっと一緒にいたい」という気持ちが根底にあることにより、切り刻んだ死体をパーツごとコレクションする彼の行いは、命の「剥奪」ではなく「好きなひととは、死んでも一緒に"いたい"」がための”遺体”の「所有」と「保存」を目的とするために、極悪非道からはほど遠く「人間味」があることが伺える、そんな歪んだ純愛が良い。
しかも、ここぞという時にヘマをする。ちょっぴりドジでマヌケなセクシー系モテ男のシリアルキラーというキャラクター設定の妙に、三角関係のトリック、サークル仲間のおせっかい(打算)、不意打ち的なマクガフィン(小道具)、「うっかり出来心」によるアクシデント(誤算)を惜しみなくディテールに盛り込み、フルスロットルで荒ぶる波を乗りこなすようなアッパー系のパニックコメディとシリアスドラマ。そして何といっても、エクストリーム(!!)な個性を持った役者陣らのチームワークとフットワークのよさ。
それは物語の後半、窮地に陥った後藤彗(コーヒーカップオーケストラ)扮する「過激派活動家」が「過激」なことをひたすら行い、緻密に構成された劇空間を壊しにかかるという暴挙に出る場面で発揮された。
これは汚れキャラに徹する後藤彗のアドリブ力と、過激派の言動になすがままにされる役者陣の絶対服従と、回ってきたボールを落とさずにパスするという協力的な態度がなければ成立しなかったことだ。役者が全員全力だったからこそ酷いな、と心底笑えたし、
一体なんてことをしてくれるんだ!とすらおもえた。
お陰で最後の審判が下る場面が、おまけのように感じられてしまったくらいだ。すごい面白かったけど。笑
力技で超えるというのはこれまでのアガリスクではあまり観たことのない表現方法だったので驚いた。
『静かに殺したい』は私にとって、もはや事件だった。
『異性人』
看板落下事故の下敷きになって死んだところを宇宙人に助けられた青年・アキラ、「片時も離れることなく一緒にいる宇宙人」に戸惑いを隠せないアキラの恋人・ミキ、アキラへの気持ちをミキにカミングアウトするマナベ、宇宙人Bに恋するユウコ。この4人がそれぞれ異なる事情と立場・状況から宇宙人とかかわり合っていく。
命綱、異物、犠牲、恋人、と形は違えど、概ね自己実現を目指すための装置として宇宙人を捉えているのは人間の業の深さ故か。
だとしたら、ユウコが恋する宇宙人BとBの相方だった宇宙人Cが感情のないロボットのように、憮然とする様は私たち人間の本性だったのだろうか。
宇宙人Aだけが人間の痛みを感じることができるやさしい心の持ち主であったというその姿は人間よりもよっぽど人間らしい。本来の人間がそうあるべき姿の理想像であるような気さえする。
宇宙人が人種差別を受けている社会的弱者として扱われている点も興味深い。
物語のなかにそれを蔑んだり茶化したりするキャラクターがひとりもいなかったことはすくいかも。
ただ、終盤の宇宙人狩りにあった場面で他人事を決め込んだ観客のわたしたちの態度が、差別はいけない、しかし、差別はなくならないということへの決意表明であったのか、とおもうと末恐ろしくなる。
ラストのミキの行動は勇敢だった。
犠牲を省みず誰かを何かを救済することは、決められたルールやモラルの外側に飛び出さないとできないことだからだ。
また、「共生」を意味するこの場面は、アガリスクが、これから鹿島さん、淺越 さん、塩原さんの3人で活動していくことの合図のようにもみえた。
この話はややこしい人間関係と愛情の対立を軸に、「すき」と「きらい」の不条理や、目にみえない偏見・差別への嫌悪感や生命の尊厳を、「異物」と「違和感」からみつめなおしていた。
宇宙人と地球人の話というと、インディペンデンス・デイやエイリアンやX-FILEのように、敵対心を持っている宇宙人が地球を侵略しようとする作風のものと、E.Tや宇宙人ポール宇宙人と地球人の友情に焦点をあわせるものがあるけれど、『異性人』は、敵対と交流の一歩先を行く作品だとおもった。
「愛情の相関図」からはみだす情感についてのはなし、だったともいえるかもしれない。
愛はタンパク質で育ってる
ぬいぐるみハンター
駅前劇場(東京都)
2012/02/08 (水) ~ 2012/02/14 (火)公演終了
満足度★★★★★
突き抜けた!
大衆の自意識や人間模様をカラフルなタッチでキッチュに描くぬいぐるみハンターの魅力が惜しみなく発揮されたエポックメイキングともベストアルバムとも言えるような作品。伝説に残るといっても過言ではないだろう。団体としても突き抜けた印象を持った。
ぬいぐるみハンターは恐るべき速度で洗練され、進化しつづけている。
ネタバレBOX
冒頭、オリンピックの入場行進のような、マスゲーム。フォーメーションで統制されたダンスチューンにはじまり、各々の「選手(ランナー)」が物語の「スタート地点」を目指して走る。その道すがらで巻き起こるアクシデントやドラマをマラソン中継のハイライトのような趣きでピンポイント(点描的)に活写する。
「疾走感」と「高揚感(グルーヴ感)」、その応答手段としての「焦燥感」は作品の大きなファクターとなっており、その質感が、これぞぬいぐるみハンターの真骨頂!!とでも言うような「いかにも」個性的なキャラクター勢の持つ「可愛らしさ」や「コミカルさ」によって大胆に描かれる。そこでは非現実的な存在であるからこそ許されるファニーな物言いやギャグめいたフリーダムな振る舞いは大きな見所となり、お気に入りのキャラクターを見つけたりコレクションしたり「推しメン」に挙げたりする楽しさがある。また、劇中で引用される寓話や映画やテレビ等の元ネタをみつける嬉しさもある。
それぞれのキャラクターが単なる「ノリ」で登場していないところもまた憎い。
彼/彼女らは、走ること・歩くこと・旅をすることに根拠を、意味を見つけようとする。そしてその意味や根拠、行為そのものを「人生」というスパンに置き換えて、生きることへの価値観に見直しをはかろうとする。その根源的な苦悩や葛藤、迷いや戸惑い、挫折が、劇場空間いっぱいに張り巡らされた四叉路の「人生の岐路」で問答される。
そして終盤、これらのすべては、とある一組のカップルの母体に宿る遺伝子の「胎内の記憶」と「カルマの清算」、「煩悩」と「雑念」の「声」が産まれるまでの道のりであり、輪廻転生であり、人類の英知(ポップカルチャー)を辿るアドベンチャーであり、「誕生(物語のはじまり)」を目指す旅路でもあったということが明かされる。
(「種あかし」と生命の「種子」、「種子」が「誕生」と「喜び」の「芽」となる、というのも、なかなか洒落が利いていた。)
生きることへの辛さや絶望感が犇めく昨今において、生まれたことへの喜びを実感するのは容易いことではないだろう。それをあえて「バカバカ」しくて「コミカル」な狂騒で武装して超えていこうとする強さ。その勇気とメッセージに心を打たれたのだった。
Oi-SCALE企画公演オムニバスof Oi Oi vol 3
Oi-SCALE
駅前劇場(東京都)
2011/11/30 (水) ~ 2011/12/07 (水)公演終了
満足度★★★★
すべてはつながっていた。
この公演は5人の作家がエレベーターorエレベーターホールというシチュエーションを用いて執筆し、3作品ごとの2プログラムで上演するというもの。私はBプログラムを拝見。
3人の作家の描いたことに共通しているものは「痛み」と「記憶」であったようにおもう。
ネタバレBOX
楽園王『塔』。都会の雑踏のように不特定多数の人々が黙々と往来するエレベーターホールの光景は、その運動に絶えかねる人間の息苦しさであることが次第に露呈されていく。これはスズキという架空の人物を創造しその男にSOSを送る女の、現実からの切ない逃避行だったのだ。女は最後『塔』のてっぺんに幽閉させた過去の記憶を取り戻しに行くことを決意する。
自問自答を繰り返し自身に赦しを与えるまでの精神の葛藤を、儚い夢との決別によって、描いていた。
reset-N『Perspective』。エレベーターに乗る、または乗り合わせた人々の様相が監視カメラの映像を俯瞰しているかのような一歩引いた目線で描かれる。センスの良い音楽と青を基調にした照明が殊更心地よいうねりを生み、ひとつひとつのシーンがスタイリッシュでとにかく格好いい。しかも、その監視カメラの役割を担うのがエレベーターのなかに棲む女性の幽霊だったというのも洒落ているし、彼女に恋する男との場面は気恥ずかしくなるほどの純愛で。またある場面では、根深い差別について問う一幕があり、閉鎖されたエレベーターの扉を開けることから未来がはじまることを、それが痛みを緩和させる手段であろうことを、暗喩しているようにおもわれた。この短時間のなかで、社会問題と人間ドラマをメッセージとして伝える手腕がお見事。
Oi-SCALE『童話が生まれた日』。布団にくるまるひとりの少女の世話をする看護士。時々見舞いに訪れる親族。その光景は、これまでの2作品で描いていた場所が、病院のなかであったかもしれないことを、予感させる。そして、少女は老女であるかもしれないことも。彼女はもうすぐ死ぬのだろうか。そんなことを考えていると、ひとりの青年がひょっこりやってきて、自分が目指す、理想の場所について語りはじめた。そこは煙突の煙を目印にあるいて行けるのだろうが、遠すぎてなかなかたどり着けないのだという。またある日、その病院でかつて血なまぐさい事件が起きたということを彼女は知る。その犯人はあの青年であるらしいという噂も。しかし、彼女の心の拠り所は、今や、あの青年との交流のなかからでしか得ることはできなかった。たとえそれが、夢のなかの出来事であったとしても。そして、青年が猫を殺す度、夢は汚されて、その上を現実がひたひたと足音をたてて近づいてくる。青年の手招きに乗った彼女のその後は明かされないまま、話は終わる。
不思議なことに、そこにはやわらかな温度しか残らなかった。青年が彼女を閉ざされた世界から救済したのだろうとしかおもえなかったのだ。それに、痛みをぬぐい去ることができるのならば、どんな方法であってもいいのだろうな、とおもった。そうしてすべての狂気が、窓から差し込むぼんやりとした橙色の淡い光のなかに飲み込まれていくような気がした。こんなにもあたたかな気持ちに満たされるとはおもいもよらなくて一瞬戸惑ったけれど、それはとても心に染み入った。
久保らの歩く道
コーヒーカップオーケストラ
参宮橋TRANCE MISSION(東京都)
2011/12/05 (月) ~ 2011/12/07 (水)公演終了
満足度★★★★★
コーヒーカップオーケストラ版スタンド•バイ•ミー!!
人生ちょっとしくじってて、うっとうしくて、でも憎めなくてちょっぴり愛らしい奴ラの無茶ぶりが二乗三乗と上乗せさせられていくハイパー青春友情物語。これはもはや、コーヒーカップオーケストラ版スタンド•バイ•ミーではないか!!
ネタバレBOX
この公演は、モリサキミキさんを客演に迎え、日替わりゲストとコーヒーカップオーケストラのメンバーのみ、という少数編成。私の観た日のゲストは、はえぎわの踊り子ありさん。およそ2年前に高円寺の明石スタジオでみた公演の時にもありさんがご出演されていた。確か、主人公よりも怪力っていう女子高生の役。浮世離れした能力を持っているのだが、そこにはリアルな苦悩と葛藤と、それを裏切るカリカチュア的なポーズが交錯し、ありさんが登場すると場の空気が締まったことを覚えている。逆に言うとありさんなしではちょっと持たないようなシーンもあった。
それが、どうしたことだろう!
2年前に観た時とは比較にならないほどに、面白かったのだ。それは、コーヒーカップオーケストラのメンバーがめちゃめちゃがんばってるその『必死』さをあえて隠さなくなったこと、舞台上では無遠慮でいることに後ろめたさがなくなったこと、そして何より『久保ら』を演じた3人がとても楽しそうだったことにある。ひょっとしてそれはこのはなしが『友情』をテーマとしていたことに起因するのかもしれないのだが楽しそうな雰囲気を演出するというのは、下手したら内輪ノリになりかねないし、はしゃぎすぎると無理してる感が見え透いてしまうから、さじ加減が実は結構難しいのではないかとおもうのだが、これは、よかった。
相変わらず(?)あくは強いものの、奇をてらうことに頼りすぎず、高校時代に出会った久保、岡本、野島、の人生を、天国にいる『久保ら』が回想するという視点からストレートに描いていた。
その中身は、野球のルールを知らないのに甲子園に行く野心だけはもっていた高校時代の野球部での練習風景や、ファッションデザイナーになんてなる気もないのに離れがたくて同じ専門学校に通っていた頃、好みのタイプの女性のはなしで日が暮れるまで盛り上がったこと、とかそんな、なんでもない日常の1コマの、くだらなくて、ばかばかしくて、でも彼らにとっては特別なひと時で。
それから社会に出て、久保は貿易会社のリーマン、岡本はヒモ、野島は芸人と、それぞれの道を歩み、疎遠になって、再会して、一年に一回会うようになって...と関係性が変わっていく時間の経過が『銀河鉄道の旅』になぞらえられていた。
これは、久保らの人生とあるいて来た道をあらわすとてもいいアイデアだったとおもう。それに、『銀河鉄道』のレールが描かれた黒い箱。これをいくつか組み合わせ、教室、会社、居酒屋、と舞台空間を変化させていく方法はシンプルだが、それぞれの場面での個性(気質)や振る舞い(喋り方/しぐさ)は『会わない時間』を経て考慮されたものだった。
登場人物の造形がしっかりしているのは2年前にみた時にも感じたことだったが、今回はクリヤマチ●キ、エビヅカ、迷彩服の女、ガイドと、アクセントとして登場する者たちが、久保の同僚であったり、野島がナンパした女であったり、ストーリーテラーであったりと、すくなからず、久保らとかかわり合いのある人々であり、その背景に加えて、気持ちをみせるようにしていたので、たとえそれが、チープなカブリモノや、一発ギャグ、場の盛り上げ係であったとしても、単なる色物扱いにも『なんとなく面白い』という曖昧な笑いになることもなかった。これは、とても重要なことだし、2年前との大きな変化だったといえる。
特筆すべきは、『銀河鉄道』のモチーフを、それを用いた具体的なドラマとして、物語の流れに組み込み、成立させたことにある。
それは、芸人•野島が余命いくばくもない少年のために銀河鉄道に乗ったトウメイ人間と戦うという舞台を同僚と観に来ていた久保が劇場で岡本と再会したことをきっかけに、久保ら3人が学生時代の時のように、1年に一回集まるようになったということ。
その舞台は、岡本の妻•佐々木が脚本を手がけたものであるのだが、佐々木は野島が学生時代ナンパした女であったという繋がり。
彼らを繋げた心温まるこのエピソードには、もうひとつのドラマが隠されている。それは、佐々木が手がけた舞台を「あまりおもしろくない」作品として、みせていることだ。たとえば「セリフの途中でふと鼻を噛む」という1シーンは、「リアリティ」の使い方としては間違ってはいないのだろうが、ほんとっぽくすることに一体何の意味があるという、リアリズム的描写へのアンチテーゼを感じるし「病気がちな少年」で泣き落としをはかろうとすることは、やや戯画的な処理がなされてはいるものの、今日における悲劇的設定としての常套句に疑問を投げかけているように思えるし、それらをあえて「ギャグ」のポストドラマとして提示させることはなかなか、キレのある表現だとおもう。
更にこれと関連する、佐々木が手がけ、野島が出演する本能寺の変をパロった殺陣シーンに笑いのエッセンスを取り入れた寸劇的なフリス●CMのシーン。
あーあれのアンチテーゼね、とわたしは勝手に理解したけども、おもしろくもない脚本家が、テレビ業界にも幅をきかせ、公演を行えば即日完売、というのは現実でもよくあること。そういう俗っぽさを斜めに構えるアナーキーさが、コーヒーカップオーケストラには、実はとてもあるような気がしている。良い意味で、強かなのだ。
ジローラ●を敬愛しまくりで愛読書がレオン、なのに仕事ができない同僚エビヅカに先を越され、人生ちょっとしくじり気味の久保を、スマートなボケによって演じた前田さん、
実家は酒屋だったのに、酒飲みすぎて倒産させてしまい、女に喰わしてもらってるが、なんだか憎めない岡本を、不意打ち的にボケながら、役者に何かと無茶ぶりさせるポジションの宮本さん、
受けた仕事は断らないという芸風で、一世を風靡し、しかも低身長でそんなにイケメソでもないのになぜか昔からモテまくりで、スーパースターの異名(芸名)を持つ野島を、数々の無茶ぶりもエベレスト級の自尊心で超えまくる後藤さん、の掛け合いはもちろんのこと、
佐々木役とガイド役を兼任したモリサキミキさんの一生懸命さ、野島にフラれたことに腹をたて、よりを戻さないと殺すと脅し包丁を振り回す迷彩服女を熱演する踊り子ありさんの破壊力により、舞台はより、マジカルな空間に。
ほんとうに、とてもたのしかった。
そして、冒頭でみた久保らのシーンが、ラストでは、とても染み入る光景と変化していて、ベン•E•キングのスタンド•バイ•ミーのメロディーを耳にたぐり寄せながら、あたたかな気持ちを胸にその場を後にしたのだった。
乞局(こつぼね)
乞局
王子小劇場(東京都)
2011/12/08 (木) ~ 2011/12/13 (火)公演終了
満足度★★★★★
圧倒的に、人間。
喜怒哀楽が誤作動してしまう一筋縄ではいかないニンゲンらしさが、ちょっと鬱陶しいくらいの温度で描かれていて、とてもよかった。
それから音響、照明、舞台美術が細部に至るまでとても丁寧に設計されていて感動。
小劇場であの空間設計は最高レベルを誇るのではないでしょうか。
どこぞの地方の生活臭&土着臭が染み付いて逃れられない感じの役者さんたちの振る舞いが凄まじい。
安っぽい許しと人間愛に食傷気味なひとにとくにおすすめ。
ネタバレBOX
そこがどこであるものか、明確な特定はなされない。ただ、主要ターミナル駅から少し離れた、タクシーは呼ばないと来なくて、バスも通ってない、ちょっと辺鄙などこかの街。そんなうらぶれた街の商店街の一角に、ぽつねんと佇む風の場末感が漂う喫茶店。そこは病に冒された妻•葉万子と義兄•土手光を持つ千和という男が切り盛りしているが、店とふたりの世話で手一杯の千和は弟の颯太朗に葉万子との子供を養子に出しており、毎月養育費を支払う約束をしているが、支払いきれず、サラ金業者から金を借りている始末。金銭を要求する弟と、返済を要求するサラ金業者。治療する金もない、そんな内部事情を知る街人と、それをききつけ、群がる街人たちの群像劇。
と書くと一見、特殊なようにおもえなくもないが、刺激的な都心部をひとたび離れれば、退屈がやってくるのは時間の問題で、それは場合によっては安息に似ているかもしれないけれども、そういう土地には場所柄、”他人の不幸は蜜の味”とはいかないまでも『なにかおもしろいことはないだろうか』とかぎ回っている人間というのは少なからずいるもので、この一角では”たまたま”千知の家庭事情が今、激アツなトピックになっているというだけなので、それはなにもこの街に限ったことではないだろう。
そして、それは、まったく目をみはるものがある。
たとえば『様子を見に来た』と理由をつけて入り浸る薬局店員の触田が『千和はお金のことで相当困っているらしい』というネタを仕入れればその情報はスナックママ、お店のホステスの女の子、蟲屋の店員、andthem,,,へと光の速さで伝達がなされ、見えないところで会合(井戸端会議)が開かれ『今日聞いたことを明日になったら忘れてしまう、カワイソウな葉万子さん』に街人たちが同情した結果、『相談にのってもらってありがとう』との名目で、”カワイそうな葉万子さんをスクウ会”とでもいうような、慈善でもあり、偽善でもある募金めいた、あるいはお布施めいた行為を街人たちが、随分前からはじめたのではないだろうか、と推測される。
しかし、この街の人たちは『おせっかい』である割に良い事をすることに『引け目』を感じる弱き人々なので、こんな方法でしか気持ちをつたえることができない。
わたしはそこに、とても人間らしい一面を垣間みたような気がした。
これはとても誤った観方かもしれないが、人情や優しさというものがある種のうっとうしさによる善意であり、悪気はないのだろうけど受け取るほうとしてはありがた迷惑ともいえない善意とも悪意ともつかない曖昧な行為によるもの、であるとするならば、これは、下町の寅さんと同様の心理が働いているではないかとすらおもったほどだ。そしてその感覚は『良心の呵責に苛まれる』という倫理観によるものに近しい。
その光景を異常におもい、疑問を感じた葉万子がある時、憂さ晴らしのための手段として『利用』されているだけだった。と知ってしまったとしても、彼女の行為は曲がりなりにも千和を借金から『救って』いるし、彼女に話をきいてもらった人々の心もまた『救われて』いる。
『ありがたい』という意味で、葉万子は神のような存在だともいえる。彼女がただ頷くだけで、勝手にお金が溢れ出し、人は頭を深くさげる。
そんな彼女を千知がどこにも行かせたくないというのも無理はない。なぜなら彼女は、金銭を生む機械であり、救い主でもあり、また、憤怒と欲望の捌け口のペットであるからだ。そして、万葉子は千知の暴力行為を忘れてしまう。あるいは、ほんとうは忘れたフリをしているだけかもしれない。
だから、私は千和たちは、発狂し、気が狂いそうになりながらも、その一歩先は『良心の呵責に苛まれた懺悔』によって踏みとどまろうとして、同じ日を何年も、何十年も繰り返し、生きることを選択してしまうだろう、とおもった。
それこそが償いであり、無償の愛とかいうやつなんじゃないか、と。
もしくは、そうなるように祈りたいだけ、だったのかもしれないのだけど。
こんなにも、圧倒的に『人間』をみたのは久々だった。
夏葉亭一門会vol.3
夏葉亭一門
王子小劇場(東京都)
2011/12/05 (月) ~ 2011/12/05 (月)公演終了
満足度★★★★
小劇場俳優×落語の好企画。
夏葉亭一門会という企画は、小劇場俳優というフィルターを通して落語の面白さをひろめようという意志のある、すごくいい試みだとおもう。ただひとつ気がかりなのは平日昼夕各1回ポッキリの公演であるということ。これだと勤め人にはなかなかシビアなタイムスケジュールだ。しかし、もし万が一見逃したとしてもgiggleのブログ(http://ohji-giggle.seesaa.net/article/239033184.html)で動画をいつでも誰でもみれるという体制が整っているので問題なし。夜の王子落語会に来られるような方々と夏葉亭の回路がつながれば更にいい循環が生まれそう。なんせ『夏葉亭』という屋号自体、何やらしでかしてくれそうな、はたまた新しい風を吹き込んでくれそうないい気配が漂っている。
ネタバレBOX
まずは昼の部、トップバッター。金丸慎太郎さん扮する、夏葉亭桜は メールのサクラと桜命名秘話を掛け合わせ、花繋がりでゆるやかに「竹の水仙」の本編にはいり、現代的な感覚の語り口で、あまり落語を観たことがないひとでも違和感なくスッとその世界にはいっていけるようなフランクさでもって、宿屋と天才竹細工職人の駆け引きから温情までしっかり演じ分けているのが新鮮で、ほんとうにこれは古典落語なのかと思わせるほど、なじんでいた。金丸さんの辞書に『野暮』という文字はないような気がした。
一方、永島敬三さん扮する夏葉亭雛菊は、まくらに与太郎を置き、古典落語の血筋をなぞるようにそのまま噺へ。柿喰う客メソッド、高速台詞回しの引用により、話法としての独創性はそこそこ見受けられたものの、声のトーンがイマイチ演じ分けられていないように感じた。滑舌はしっかりしているので、語尾まできちんと台詞が聞こえるが、センテンスの真ん中あたりが時折混線した風というか、詰まる感じになるので、聞き取りにくい印象。動画でみるとそれが目立つ。
ホッチキスの小玉久仁子さんは、とにかくまくらからぐいぐいと惹きこまれ、いつのまにやら「たらちね」がはじまっていた。しゃしゃり出てくる大家の独壇場。台詞のリズムが音楽的に流れ行く様に、歌舞伎のようなダイナミズムで盛り上がり、そこから更に笑いに転調させるというアンサンブルがなんとも小気味よい。小玉さんの声の響きにはもっと、ずっと、聞いていたいと思わせる魔力を秘めている。
多田直人さんは、しじみ売りの少年、寿司屋の親父、親方、子分を変幻自在に演じ分ける。表情をかえ身体を切り替える。その瞬発力が凄まじく、ぞくぞくした。それぞれのこころの裏側がみえるような。惜しむらくはトリを努めることの恐縮から金保丸という名前の由来、それから自分語りを経て「たすけあいの精神」を強調するのだが、このまくらが冗長的な割に、まったくおもしろくなかったことだ。少年のはなしがおもしろくないという本編にあわせて多田さん自身の記憶と重ね合わせてそうしたのだろうが、もう少し違う噺をしてもよかったようにおもう。
夕の部、夏葉亭みかん(柿喰う客/村上誠基)による前座。開演に際しての諸注意を小話を交えて。しかしこれは落語というより、マクラの名を借りた雑談といったほうが近いような趣き。同級生のギュウちゃんという名前の女の子の失敗談を、携帯電話のヴーと鳴るヴァイブ音、と言葉遊びをしたくなる気持ちはわからなくもないが、噺としてはあまりおもしろくない。唯一、おもしろかったのが、柿喰う客のワークショップ秘話。これにはえらいカルチャーショックを受け、お陰で何の諸注意のことやらまったく失念してしまった...。笑
さて。夕の部のトップバッターは劇団兄貴の子供の小笠原結さん。落語の魅力を自らの体験談として語り、落語でおなじみの登場人物紹介する鉄板的なマクラでゆっくりと丁寧な語り口。本編も一語一句、言葉を大切に扱い、見る側に聞かせ、届けようとする姿には小笠原さんの、あたたかいお人柄が伝わってくるような、味のある語り口で、気がつくとクスっと笑っていて、ほっこりした気持ちに。ふわっとした空気感にゆるりと染める小笠原さんの存在感で魅せる落語。
続いては日栄洋祐さん。どちらかといえばインパクトのあるマクラで観客を惹きつけようとするのだけど余裕がないのか、緊張しているのか、気持ちが競ってる感じがした。客イジリとまではいかないまでもせめて、観客が笑った時に「今、冗談だとおもったでしょ」とか言ってフォローを入れながら話したらおもしろくなりそうなのにな、とおもった。本編のほうも、話す速度がはやいし、演じ分けもあまり出来てなくて、混乱した。
次、鬼頭真也さん。夏葉亭ハスカップという名前はおもしろいが、いくら身近なトピックとはいえいきなりマクラで一人芝居の告知するのは如何なものか。そもそもマクラの意味をはき違えてるのでは、とおもった。本編は、抑揚が無く、テキストを音読しているような印象を受けた。
ラストは齋藤陽介さん。会場の空気を読みつつ、本編にちなんだマクラを披露。齋藤さんの「芝浜』はとても叙情的で、物語の全体像と登場人物の情感が鮮烈な色としてみえてくるような豊かな語り口だったこと。とくに台詞の負荷の掛け方(抑揚/息づかい含め)と仕草が繊細で、かつ、そのバリエーションが多く、目が離せない。後半、なぜか失速し台詞を噛む場面が多発したことだけは気になった。
どの役者さんも『落語』とは、一体なんでしょうか。という概念的なことから考えて、試行錯誤を経ながら『芸』を磨き、のびやかに表現されていて、なかにはフリースタイル落語とでもいうような、新感覚の落語を披露される方もおられ、落語の楽しさ、面白さを改めて知ったひと時だった。
第16回王子落語会
花まる学習会王子小劇場
王子小劇場(東京都)
2011/12/05 (月) ~ 2011/12/05 (月)公演終了
満足度★★★★
バラエティ豊か。
落語の種類も芸風も異なる方々の、おはなし。堪能しました。
ネタバレBOX
トップバッターは立川こはるさん。彼女の落語はスピーディーでサクサク噺がすすんでいくのだけど、だからこそ一度つっかえてしまうとなかなかペースを取り戻せないのが弱点かな、と今年の8月にみたときに感じていた。それがたった数ヶ月の間に劇的な変化をみせていた。スピード感はそのままに、間を置くタイミングと客席を観ながらお話できていたので、臨場感が出ていた。
神田京子さん。講釈台の説明から史実に基づいたお噺をするということに至るまで、講談師のあれこれをおはなしくださった後に本編に入るので、私のようなビギナーにもわかりやすい。しかも、この日の本編は『忠臣蔵』。パンパン!と張扇で講釈台を叩いてリズムをとりながら、声高にお話をすすめていく。途中、客席で携帯電話が鳴るトラブルがあったのだけど、それを上手い具合に噺の内容に取り込み場内を笑いで席巻!!すごく面白かった。コメディやナンセンスギャグがすきな人がみたらハマりそう。
仲入りの後、桂米紫師匠。いかにも関西!な落語家さんで、マクラはお馴染みの(?)東京/大阪間のギャップのあれこれ。そこそこ会場があたたまったところで『宗論』。ただの痴話げんかでもその内容が宗教というタブーを恐れずに口論しまくるというのが噺としておもしろいし、米紫師匠の語り口がとにかくヤバい。ボケて、ツッコミいれて、はったりかまして、すっとぼけて、逆切れして、、、と会場にいる全員を笑かすまで絶対舞台おりんで!みたいな威勢のよい熱弁ぷりがほんとにヤバい。しかも熱弁すぎて座布団ズレまくり。最後は正座の意味を失うのではないかとおもうほど。かなり衝撃。そして、ラディカル。
トリは、瀧川鯉昇師匠。さきほどの荒ぶる米紫師匠とはうって変わり(笑)鯉昇師匠の落語はとても穏やかで、やわらかで、あたたかで、まるで春の木漏れ日のよう。そのふんわりした存在感と、すんだ声に耳をすますだけでおもわず笑みがこぼれる癒し系の落語家さん。そんな鯉昇師匠の本編はまさかの『三枚起請』。それをあんなにも柔らかなトーンでお話されては抱腹絶倒必須なのですが、なんだかそうすることが罪深くおもえて、必死に笑いをこらえたのでした。
雑種愛
角角ストロガのフ
王子小劇場(東京都)
2011/11/24 (木) ~ 2011/11/28 (月)公演終了
満足度★★★★★
ただ事ではない!!
本音と建前を使い分けず、欲望に忠実であり動物的で本能的でもある常識から一歩ズレた人間模様と主人公のピュアネスの対比が万華鏡のようにくるくると鮮やかに彩られ、夢から突き放されても尚、夢のなかを永遠に漂っていてるようなあの感覚をあんな風に描けるのはすごい。
ネタバレBOX
早熟性早老症を煩うひとりの少年と彼をとりまく世界のはなしが少年の自室、リビングルーム、病院の診察室、バイト先の漫画喫茶のカウンター/フロアー、路上というあらかじめ、舞台装置によってセッティングされた6つの場所で展開される。
それはなんだか青年の脳内を具象化した迷路のような雰囲気で、これらの場面が同時多発的に描かれることにより、物語がより重層的で複雑な構成をなす。
このような方法自体には斬新さや新鮮味はないかもしれないが、その空間設計や、横断する群像の描き方は一目で角田さんのものだとわかる独創的な世界観だ。
それは愛されたいのに、愛せない、愛したいのに、愛さない。なんてアンバレンツだったり、どうして自分ばかり?という身のつまるおもいがするような過剰な被害妄想からはじまる。
そういったフラストレーションの『種』の蓄積が意識下に宿るエゴイズムに触発されると、正しいとされてきた『常識』から意識が一歩ズレる。
そのズレによる溝は歪みを生み、それは深くなるごとに本音と建前を使い分けるという『理性』を失い、欲望に忠実であり動物的で本能的でもあるという『新しい価値観』が『開花』する。
しかし本人たちはそれに気がつかない。
『エゴ』はあらゆる喜怒哀楽をしのいで増殖していく。
そしてエゴに染まった人間は善悪の判断がまったくつかない。
だから、出会ってはならないひとと出会ってしまったときに運命を感じてしまったり、やってはいけないことをすることに美徳を感じる。それらに良心の呵責は伴わない。
だから、行き着く先は破壊であり、破滅的でもある。
それを、ギリギリのところで食い止めるのが主人公の少年のピュアネスだ。
しかし、ピュアであるが故に彼はある罪を犯してしまう。
『愛されたい気持ち』とは『エゴ』にしかすぎないのだろうか。
そしてそれは、愚かであるものか。
この作品はそんな風にしか生きられない人間たちの暴力的な不器用さが右往左往するさまを、まるで蟻の『生態』を観察するかのような視点を観客側に持たせて快楽を与えていた。
終盤、突拍子もない事故で少年の父親死んだり、彼の恋した女の子が実は年をとらない病気だったという驚きのカミングアウトは「もっと酷いことが起こればいい。」「ここで人が死んじゃえばいい。」という観客側の『エゴ』に応えるためのサービスだったのだろう。
そんな『ありえないこと』がつづいていく妄想チックなドラマに家族、恋人、障害というシリアスな問題を乗り越え、生まれ変わろうとする少年の心象風景が『草原の芋虫が羽化する瞬間にみた夢』としてメタ化され、その夢が現実に突き放されて、誰かに踏みつぶされたとしても尚、夢のなかを永遠に漂っていたい願望やその心地よい感覚を、記憶のフィルムをひきのばしてなんども再生しているかのようにも受け取れる。そんな風にして、観る者の想像力を羽ばたかせる角田さんのセンスはやはり、すごい。そして、それは、唯一無二のものだ。
新宿コントレックス Vol.2
新宿コントレックス実行委員
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2011/11/16 (水) ~ 2011/11/16 (水)公演終了
満足度★★★★
さらに深化。
「笑い」をもたらす表現であることを条件に募った個人/団体のよりすぐりの作品を、一度にいくつも観ることができるという一夜限りの祭典で、開催期を3ヶ月以内という「ハイペース」で行うということを掟に開催しているイヴェント、新宿コントレックス。
このイヴェントを企画したのは今、首都圏界隈のコメディやってるあれこれで最もイケてるアガリスクエンターテイメント。開催場所は彼らのホームグラウンドだというシアターミラクル。ここは普段、お笑い系のライブを多く上演している劇場なのですが、そういった場所にあえて活動拠点を置くのは、お笑い/演劇のジャンルを問わず楽しんでもらいたい、という願いがあるからなのだそうです。
そういったイヴェントの趣旨や開催目的が当日パンフレットに丁寧な挨拶文で記載されているのでイヴェントとしての信頼性が高く、また出演した団体紹介に関してもどういった類いの作品を作っているのかが明確に書かれているので、後々思い返した時のいい手がかりになりそうです。
そして、こんなに楽しいイヴェントが考えられないような価格で楽しめるというのもあって、このイヴェントにわたしはちょっとクラクラしてます。笑
ネタバレBOX
■ヨコスカトイポップ ★★★
『うんちく』3人の男女がそれぞれうんちくを披露。あまりにもくだらない時に頭をスリッパでちょっとたたかれる。だんだんKYなこといったからとかじゃなくて、リズミカルでいいね!とかそんな感じのノリになってくその常識のズレ加減がちょっとおかしい。
『次元の隙間』漫画家(女)の家を訪ね、結婚したことを報告する編集者(男)。
その相手とは、漫画家の描くキャラクターだった。編集者と両想いだと信じていた漫画家は振り向いてもらうため、必死のアピールを試みるがあえなく撃沈。2Dと3Dの齟齬による恋愛って割とありがちだけど、実は変態だったって驚きから漫画家先生の熱が急降下していくときの表情がおもしろかった。「どうぞお幸せに!」と吐き捨てたラストは痛快。
『妖精さん』小腹が空いてお菓子を食べようとしたあるひとりの女子のもとにお菓子の妖精があらわれてちょっかい出すってはなし。どうしたって妖精にみえない妖精がお菓子メーカー1つにつき1人の妖精がいるとか、大御所のお菓子メーカーは呼び捨てで読んじゃダメとか、日本と海外だと装いが違う、とか妖精界の規律/規範を熱く語るすがたが笑えた。
どの作品も、見た目普通のひとたちからはじまるカミングアウトを起点にしたすこし浮世離れしてる「あっち側」のひとたちとのふれあいからじわじわくる笑いで楽しめました。
■コーヒーカップオーケストラ ★★★★
『殺し兄弟 2011』タイトル通り、殺しを依頼された兄弟と依頼人のヤクザのコント。
兄弟はウィンブルトン選手権を目指しているらしいのだが、手にしているのはバドミントン。
WHY??とおもわずにはいられない、しかしそんなことすらどうでもよくなる力技万歳、シュールななりきり系。弟役の後藤さんが弾けてた。
『芦田愛菜、休日に山へ行く』ドリームズカムトゥルーの「晴れたらいいね」に合わせて愛菜ちゃんの山登りを実況中継。スタッフ役(宮本さん)がその都度「晴れたらいいね」の歌詞を状況確認の掛け声として引用するのがなんともおかしい。ここでも芦田愛菜ちゃん役の後藤さんが弾ける弾ける。
『OPPAI 祭り』知らぬ間に乳房を落としてしまい、慌てふためく女を「祭りだ!」と言って小馬鹿にする男たち。ブチ切れた女は乳房なんていらない宣言。
そのスピリッツに感銘を受けた男とゴールインするという、愛のものがたり。
OPPAIネタでうわーって盛り上がる中学生的なアホ臭さもさることながら”ありのままのわたし”が受け入れられるという救いがあるのがいいなぁ、と。あと、ハマりすぎの宮本さんの女装もナイス。
『最後の号令』転勤のため、このラーメン店で働くことが今日で最後の店長がバイトのふたりとお店であった悲喜こもごもを振り返りながら終礼(最後の号令)をする。
ラーメンの汁をお客さんの服にこぼしたこと、床に落ちたチャーシューをそのまま皿に入れようとしたこと、無断欠勤、そして店長とバイトくんの彼女が実は関係を持っていたということ。
実はそれが引き金となって埼玉の店舗から千葉の店舗に移動になったらしい。店長は男泣き。バイトもつられて嗚咽を漏らす。それにいい塩梅で流れ出すビートルズのレットイットビーのギャグめいた哀愁のダンディズムったらない。超笑わせてもらいました。
実はコーヒーカップオーケストラを2年前にみた時はおもしろいところはたくさんあるけど、全体としてみると、すごくおしい!!って印象が残ったのですが、わたしが今まで面白さを見落としていたのでしょうか。かなり、おもしろかったです。
笑いの類いとしてはカブリものだったり、なりきり系だったり、ちょっと見るからにオカシイなひととかが困ってたり怒ってたりする古典的な感じではあるんですが、全力で体当たりしてる様に、徐々に前のめりになってしまい、ズルズルとその世界に引き寄せられていきました。ひとまず12月の公演、チェキります。
■アガリスクエンターテイメント ★★★★★
『AC~アガリスクコント~5』
エクストリーム•シチュエーションコメディ(ペア)
冒頭で、ワークショップでひとが来なかったからふたりでやることになったこと、「バッドバースデー」というイギリスの戯曲を上演することが伝えられる。
舞台はとある一軒家。今日はこの家の主、ヘンリーの誕生日。
彼はホームパーティーの準備に追われる妻のブレンダが不在なのをいいことに不倫相手のローズを部屋に連れ込みよろしくやっていた。そこへ妻のブレンダのまさかの帰宅。ふたりが鉢合わせしないように『嘘をつき』『誤摩化す』ヘンリー。しかし事態は余計ややこしくなり、更に追い打ちを掛けるかのようにして、ローズの夫、ドンまで居場所を嗅ぎ付けてやってきてしまう。更に、ヘンリー家に水道屋としてやってきた男にも秘密があって...。
今、この場所で、会わないほうがいいひとたちが、入り乱れることで生まれる齟齬。
その関係性の相関図を、理詰めでみせられたのが2010年に見たみんなの部屋だった。
2011年の10月にみたファミリーコンフューザーでは、痴呆のひとからみてそのひとが、今、誰なのかわかるように、ネームプレートをつかって示した。
今回の公演ではこれらふたつの方法は更に深化/進化を遂げていた。
まずこの戯曲は、5人登場する。しかし役者はふたりだった。どうしたって3人足りない。
だったら、手の空いたほうが、それをやっちゃえばいいんじゃないか、というのが今回。
その方法は、5つの野球帽に登場人物の名前がそれぞれ書かれたものだった。
その帽子をかぶることでふたりは誰かになる。その役は常に代わる。
これは、チェルフィッチュが一世を風靡した『主体と客体が入れ替わり、役がローテーションしていく』あれだとおもった。
でも、アガリスクはもっと進んでいた。
『役』というもの、その不確定性原理に、『嘘をつき』『誤摩化す』という誰もがそれを知りながら、見ないフリをしてきた超根源的なことを、逆説的に暴露してしまったからだ。
これは、誰もまだみたことがない、最先端の、行き過ぎたコメディだったといえる。
この先、アガリスクエンターテイメントはどこに突き進むのか。楽しみだ。
しかし、冒頭でイギリスの戯曲って言ってたけどあれは本当だったのだろうか。
ワークショップは誰も来なかったのは嘘でした!て浅越さんが言ってたけれど。
そういえば、いくら虚構だからとはいえ、明らかに成立しない場面だったり、どうしようもない時に役を放棄しようとしてピ!て笛を鳴らして「はみ出さない!!」て言うやつ、おもしろかったな。
あぁいうのいい。
朝越さんて安定した説得力がある感じがする。
少年のまま大人になったみたいなあどけなさがあるのに、不思議。
塩原さんの、すっとぼけ方ってなんかすごく洒落てる。なんか、汗臭くないというか、西洋的。
そんなふたりの息がぴったりで、みていてすごく心地よい。
■ハーリ•クィン ★★★★★
膨張する宇宙によってもうすぐひとが暮らせなくなる惑星から、人々の期待を胸に日本に上陸した宇宙人の男はひとりの女性に恋をする。日本語の英才教育を受けた男はしかし、J-POPでしか話すことができなない。ふたりの声は、想いは、うたとなって響きわたる。しかし、永遠は続くはつづかなかった。マグマが吹き出し、ただちに宇宙を脱出しなければ宇宙人は滅びることとなる事態が訪れたのだ。仲間を助けるために宇宙へ行き、再び日本に帰ってくると60年もの月日が流れていたのだった...。
J-POPという誰かへの気持ちをうたった言葉ではあるものの、『あなた』へのものではない言葉でしか、伝えあうことができないという、ディスコミュニケーションが、 J-POPを重ねるたびに余計なことを言うよりも『こっちの方が伝わるんじゃないか』と思わせる凄みが増していくようで、はらはらした。
異星人と地球人の交流を描いた作品は多々あれど、これは今までに見たことのない斬新なドラマだったとおもう。
去年、今年と2年連続でアガリスクエンターテイメントの『無縁バター』で債権回収者の役で出演されていた望月雅行さんと、ファミリーコンフューザーに出演されていた大久保千晴さんが好演。
ルネ・ポルシュ『無防備映画都市―ルール地方三部作・第二部』
フェスティバル/トーキョー実行委員会
豊洲公園西側横 野外特設会場(東京都)
2011/09/21 (水) ~ 2011/09/25 (日)公演終了
満足度★★★★★
ゲルマン魂が炸裂!!
ダイナミックな舞台装置に、豊洲の夜景を堪能するだけでも一見の価値あり。個人的には、これは理想主義に陶酔してる田舎者たちの遠吠えなんだろうなぁっていう見方をしていたら、だんだん可笑しくなってきちゃって笑いをこらえるのにたいへんだった。日本と同じ敗戦国ってのもあるのかな。めっちゃ親近感沸いたよ、ドイツ。
ネタバレBOX
サーカステント、電飾が施された小さなステージ、パトカー、銀色のBMW、数台のロケバス、キャンピングカー。これが『映画撮影所』を舞台にした作品であることは知ってはいたものの、こんなにもダイナミックにあらゆる本物が配置されてるとは思いもよらなかった。
客席は、これらのセットをまるでディレクターズチェアから作品を精査するような位置に配置されており、舞台の背景には高層マンション群、下手側にはレインボーブリッジが見渡せる格好のロケーション。
それを、一杯飲みながら夜景を一人占めできるという贅沢なひと時に。私は運よく、高層ビル群の隙間に飲まれる夕陽を脳裏に焼き付けることができ、そんな景色をつまみにドイツビールを飲めたことに幸せを感じていた。開演前まで、アメリカンロックが適度な音量で流れていた。
作品は『映画撮影所』を舞台にドイツ零年を現在置からリメイクしようと試みるキャスト&スタッフの創作過程が主となる。
いかにも何かが起きそうなシチュエーションだ。
そして、案の定(?)あらゆるトラブル、ハプニング、アクシデントが巻き起こる。
まず、冒頭。銀色のBMWをパトカーが追いかけるという、まさかのカーチェイス。
映画ならありがちな光景だが、演劇ではまずない。
これは演劇の常識をくつがえす、とんだハプニングだ!と言っても過言ではない。
このシーンの後は、人的なトラブルの連鎖が続く。
それは、役柄に対する不満だったり、人間性に対する不満だったり、芸術への批評的なまなざしだったりもする。怒りと言ってもいいかもしれない。
『思い通りにいかない』という鬱屈したエネルギーと異なる『思想』を持った者たちの譲り合わない現場が上手くひとつにまとまるはずもなく。
ある者は名優になりきって映画のワンシーンの台詞を吐き、またある者は役から抜け切ることができずにいて、仕事と割り切って次へ次へとシーンを進めようとする者までいる。
劇中には車中で誘拐された美女を青年が命掛けで追いかける…なんてアクロバティングなシーンもあったりもするのだが、それもこれも名画のパロディの一部に過ぎないと言ってのける。
そして、オリジナルなき茶番を演じることも、それを作ることにも疲れ果てた者たちは、いつしか誰もが誰かの意見を聞くことを止め、自己主張を繰り返すことすらおざなりになっていく。
この会話の相いれなさ、意見の対立が生む不完全な関係性がコミュニケーションとして成立しているような状態は、なんだ日本とあんまり変わらないじゃないの!なんて思ったりもして、ドイツという国にたいして妙な親近感を抱いたりもした。
やはり、日本と同じ敗戦国だからだろうか。
そういえば、『戦争』の語り方がとてもユニークで自虐的だったのが印象的だ。
『ドイツ零年』をパロディ化する勇気にも恐れ入ったが、主人公・エドモンドを成人男性が演じ、監督がネオ・リアリズモの誕生だ!と言い切った場面。
潔すぎて笑ってしまったけれど、こうやって、皮肉に笑わせる戦争の語り方って、日本じゃまだまだ許されない雰囲気あるよなぁ。その違いはやっぱり国民性なんだろうか…。
後半は、アクロバティングな動きのあった前半とはうって変わり、それぞれの『理想』の語りが主となる。彼らは『議論』を通じてはじめて何かを語りあうことを獲得したといってもいいのではないかとおもう。相変わらず、喧嘩口調ではあるが。(笑)
議論は、言葉そのものの意味にではなく、その言葉を語るように仕向ける現実に対して思考するように促したミシェル・フーコーの言説を素地に、言葉の居場所と身体の在り方、それらが巧みに『利用』されてきた歴史的背景、またそれを牽引した『主義』について注意深く、そしてラディカルに探っていく。その台詞のひとつひとつが知の結晶であるかのように哲学的であり、また、くだらなくもある。
ちなみにこの議論の間、舞台はからっぽ。キャスト&スタッフがキャンピングカーのなかであーでもない、こーでもないと言ってる様子をスクリーン画面を通じてみることになる。身体が死んで、言葉だけに支配される空間。ささくれ立った言葉の群れに耳をそば立てる。なんて言ったら聞こえはいいかもしれないが、なんてシュール!なんて、残酷!!(笑)
そして、言葉による暴力を振りかざしてみても所詮、卓上の論理にしか過ぎない彼らのやるせなさ、苦し紛れに名画の台詞を引用したり、そんな方法でしか抗うほかないという敗北感は滑稽で。それは、ともすれば見えない大きな力に対する絶対服従でもあるのかもしれないというそんな、情けなくてお粗末なリアル。
それでも彼ら。
望むことは違っていても、お互いが『理想主義者』であることにはそんなに違いはなくて。
経済発展を遂げた後、産業から切り離されて時代から取り残されたような故郷(ルール)に別れを告げて、一発映画当てて地位と名誉と金を手にしてハッピーになろうぜ!ってな感じで夢みてて、たぶん。
だから。『そこ』(撮影所)は彼らにとっては『ローマ』であったのかもしれないが、わたしにとっての『ここ』(舞台)は荒廃したルールの田舎町としかだんだん思えなくなってきて。
ローマという名のユートピアを、ローマから遠く離れた、ルールという片田舎のどこか、閉鎖された工場地跡のようなそっけない場所(それも『都会』という金に物を言わせる摩天楼を背景にという妄想含む)で真剣にごっこ遊びをしているような。そんな気がしてきたのだ。
そうおもうとなんだか無性にむなしさがこみあげてくる。もう笑うしかないじゃん、とすらおもえてくる。
だのに最後は『感傷的に生きるなよ!』だもんなぁ。
ゲルマン魂半端ない。格好よすぎるでしょ!!
宮澤賢治/夢の島から 飴屋法水『じ め ん』/ロメオ・カステルッチ『わたくしという現象』
フェスティバル/トーキョー実行委員会
都立夢の島公園内 多目的コロシアム(東京都)
2011/09/16 (金) ~ 2011/09/17 (土)公演終了
満足度★★★★★
グラウンド・ゼロからはじめるセカイ
観劇。というよりもその場に居合わせたというか、これまでなかったことにされてきた歴史的な空白、いないものとされてきたわたしという存在との痛切な和解に向き合いその瞬間に立ち会ったという感覚の方が近い。
ネタバレBOX
腐敗した死体に群がる虫のような人工的なモスキート音が耳をつんざく不快感に苛まれながら背丈よりも高い白旗を掲げ整列し円の中心部に向かって歩く。
ザッザッザッ。足並みの揃わない不協和音に負のエネルギーがどんどん蓄積されていくような薄気味悪さが押し迫り、高揚感と恐怖感が入り混じりる。
旗を広げゆっくり腰をおろすと気分が随分和らいだ。
木々のざわめきに耳を済まし、風の音を聞き、天を仰ぎ、流れる雲をみつめ、星を数える。いま、ここ、に、わたしが、あなたが、わたしたちがたしかにいることを噛みしめる。
そうしてる間に、ゆっくりと足音をたてずにそっと、『わたくしという現象』ははじまった。
ひとりの小さな男の子がぽつんと椅子に座ってる。でもあんまり楽しくなさそう。
地球上にはまるでこの子しかいないみたい。
そこにひとりの男がやってくる。お父さんだろうか、それとも神さまとかいう実体のないひとだろうか。あるいはそのどちらでもあるのだろうのか。
男が無言で語りかけると少しずつ時空が歪んで、この世のすべてが飲みこまれてしまった。
とめどなく流れてくるおびただしい数の白い群れ。
匿名の死が尊厳なく物質と化していく『現象』は3.11の光景と、旧約聖書の洪水神話とが透明な糸でねじれながら結束しているようにもみえる。
まるでそれが『天命』だったんだ、仕方がないな。としか言われようがないような救いのない世界。
悲劇で埋まったじ め んに降り立ち、死んだものたちへ聖歌をささげる天使たち。
彼らは死者そのものであり、生まれ出ずるものたちへ何かを投げかけているようにもおもえる。
やがて大地の沈黙を切り裂く音、誕生を告げる合図が鳴り生命は息を吹き返す。
辺り一面、漆黒の闇。
遠くの方で誰かが旗を振っている。
わたしたちは、じ め んに立ち、旗を振った。誰からともなく旗を振った。
誰かへ、あなたへ、わたしへ、わたしたちへ、大きく力強く、旗を振った。
それは助けをもとめる絶望から、大丈夫、ここにいる。ことを教えるサインへとだんだん
変わっていったとおもう。
だから、最後、父と子が固い握手を交わしたその先の、どこまでも果てしなくまっすぐに伸びていくような青い光には希望しか見出せなくて。少しだけ泣いた。
舞台転換するための20分間の休憩はぼんやり夜空を眺めてた。
この空が世界を繋いできたことをおもうと、なんだか不思議な気持ちになったりもした。
『じ め ん』は少年がスコップで地中に穴を掘る場面からはじまる。
「a deep at hole!!」(どんどん穴を掘れ!)という心のなかに響く声に従って。
その穴は、『夢の島』にゴミを捨てるためにあけた穴であり、やがて自分の死体が埋まる穴であり、タイムホール(時空の穴)でもある。
掘れば掘るほどあらゆることの『ほんとう』をみつける手掛かりになるモノがたくさん埋まってる場所。
少年は出会う。
ポツダム宣言を受諾する天皇陛下に。ヒロシマ、ナガサキに。a little boyに。マリアに。ポーランドに。人類に。宇宙のはじまりに。
そして知る。
彼が生まれた日のことを。父が死んだ日のことを。
彼の生まれ故郷が、今はもうないことを。
それでも彼は冒険を続ける。
父親の墓標にも似たモノリスという名の飛行船に乗って舵をきり、宇宙を漂い、時間を、記憶を、歴史を、時代を、サーフする。
たとえすべてが夢であったとしても。
『目をとじてください』
『そこからは何がみえますか?』
なにもない、虚無の穴。グラウンド・ゼロ。
国旗のない旗を胸に抱き立ちつくするわたしたちに語りかける無人の声。
そこに救いはないけれど、その『Point』から未来をはじめることに気負いはないよ。
女がつらいよ
MCR
王子小劇場(東京都)
2011/09/07 (水) ~ 2011/09/11 (日)公演終了
満足度★★★
存在感にノックアウト。
ブルース・キャンベルの一人芸に悶絶しつづけることが醍醐味である死霊のはらわた2と同じようにMCRの女がつらいよもまた、小椋あずきさんの怪演に尽きる作品だったなぁ。
ネタバレBOX
布団の訪問販売会社に勤めて23年、売上ノルマを達成できず昇給したことのないしがない43歳・独身OLと13歳年下男の話だったんですがまず、結婚したことのないアラフォーの女性が主人公というと一昔前にもてはやされた『勝ち組・負け組』的価値観で容易に振り分けられてしまうような。その『形式』だけでもつらそうな感じはします。
一般的な女の幸せ。結婚して子供生んで育ててってこともなんかもう無理っぽいし、そうかといって管理職になってバリバリのキャリアウーマンになる能力もない…。気がついたときにはすべて手遅れだった。
そう思われても仕方がないかもしれない。けど、幸せにはなりたい。私なりに。幸せになることへの年齢制限はないはずだ。
でも幸せになったことないから、どうしたらいいのかわからない。さてどうしよう。そんな複雑な女心を持った女であることから逃れられなくて、女になることも諦めきれない女性が『あずきちゃん』なんですね。けれどもそんなダークサイドは微塵も感じさせず、誰に対してもいいひとでありつづけようとするんです。おまけに天性の頑張り屋さん。
自分の仕事が終わってなくても、誰かの仕事をいいわよって率先して受け入れちゃったり、彼氏に金出せ!っていわれたら給料全額あげちゃうくらい、いいひとすぎるくらいいいひと。それに曲がったところがひとつもないんですよね。残酷すぎるくらいピュアなんです。
痛いんですよね…。根本的に。でも、観ていて気持ちがいいんです。
白馬にまたがる王子が現れることを本気で期待している的な大人なんているわけないじゃん!っていう少女まんがちっくなファンシーさが。でも実は胃がんで余命6カ月!…。なにそれ。ないない。とおもいつつも、死が宣告されると途端に人生の儚さが滑りこんできてこの先どうなっちゃうんだろう、とハラハラもして。あずきちゃんの幸せを願いました。
孤児院育ちで殺し屋の彼氏、父親の再婚相手とよろしくやってる弟、変態的な上司、会社の同僚、入院先の女医と看護師…。あずきちゃんをとりまく人たちは、浮世離れした振る舞いをしていますがそれもこれも、あえりえないほど戯画的でないと現実に引き戻されて、途端に笑えなくなるから。なんだとおもいます。
どんなに辛いときでも弱音を一切はかないで周りのひとたちを心配させないように。と、やさしいピエロでありつづけるあずきちゃんのふとした瞬間にみせる影の表情…。まるで『あずきちゃん』と小椋あずきさん自身の人生模様をうつし鏡でみているようにも錯覚させられた迫力のある演技に圧倒されました。
新宿コントレックス Vol.1
新宿コントレックス実行委員
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2011/09/08 (木) ~ 2011/09/08 (木)公演終了
満足度★★★
企画としてはもう一歩かな。
『演劇』と『人を笑わせること』を自負する団体が複数登場するというショーケース的公演という意味では15minuts Madeの喜劇版、といった趣で、お気に入りの団体を見つけるいい機会になりそうな感じだけれど、これから継続していくイヴェントなら会期ごとにテーマ性を設けるとか、劇団劇場みたいにルールをつくるとか、連作風につづきは次回劇場で!とか何かプラスαの要素があるともっと楽しめるような気がした。
あと個人的にはピンで参戦する役者がみたいです。
ネタバレBOX
以下、覚えている範囲で。
■Agaーrisk Entertainment
『AC』
日本人夫婦の間に生まれた子供は黒人だったため、自分の子供ではないんじゃないかと疑う夫と愛さえあればなんだっていいじゃん!っていう奔放な妻との相いれなさをジェンダーフリー入門編的な体裁でわかりやすく解説。目のつけどころはハッとするものの、尺が短いのが玉に傷。
『Junk And Point』
とある場末のバーカウンター。カードゲームで勝負しようとするカーボーイ風の男ふたり。そのうちのひとりが突然おもむろにカードを投げ捨てじゃんけんぽん!とさけぶ。
じゃんけんぽん=Junk And Point。
しょーもな!としか言いようのない、シュールな四コママンガ的作風。
『カウント』
1から60までの数字に気持ちをなぞらえ愛を告白、後半はなぜかお料理教室のワンシーンに。そして〆(カウント60)は墨汁を並べまくるという飛躍っぷりに脱帽。
作品ごとにみると劇的な瞬間はあったのだけれども、10分〰15分程度のロジカルな脚本のコメディ1本に絞ってみせた方が団体の良さが伝わるんじゃないかとおもった。
■トリコロールケーキ
『命乞い』
男から拳銃を向けられる女。
恋愛関係のもつれから殺されるシチュエーションか?と思いきや、それがなんとプロポーズ!のワンシーンであることが男の脅迫内容から徐々に明らかになっていく。
ラストは拳銃を向けながら男は女の薬指に指輪をはめるという、サプライズ!
『離婚』
『命乞い』で結婚したふたりだったものの、今度は離婚の危機に直面してしまう。
向かい合うふたりの精神的な辛さが空気椅子をすることによる肉体的な辛さも上乗せさせられ、二進も三進もいかない状態。夫婦の価値観のずれによる会話の不成立さからおかしみと人間の切なさのようなものを丁寧に抽出する、傑作コント。
『ネコの思い出』
教師ふたりによる職員室での一幕。そのうちのひとりが生徒に対し潜在的な性的欲求を持つことを打ち明ける。
3作品とも、純粋に歪んでいるひとたちが軽やかに描かれていたとおもうのだけれども、悪意からつくる笑いではなく、ささやかな幸せを目指すがゆえの歪みや軋み、些細な感情の揺れ動きが、ほんの小さな目配せだったり、間だったりで表現されていて、すてきだった。
ただ、『ネコの思い出』に関しては場面設定からしてちょっと誇張されすぎているような気がして、会話が白々しく感じられた。
■コント集団 神と仏
『幼稚園』
5歳の幼稚園児が4歳の幼稚園児に人生とは何たるかを説教したり、入れ知恵を仕込んだりする。
5歳児がやたらませてるのが面白い。『親の前では子供のフリをしている。』というまるでこの世のすべてを知り尽くしたかのような傲慢ぶりなのだが、そこがいい。
「いくらドラえもんの声がダミ声だからって大人の前では大山のぶ代を非難しちゃだめだ。」なんてあながち嘘ともいいきれないし。
『大人の優しさ』
名探偵コナンが毛利小五郎になって事件を解き明かすシーンを完全にパロディ化。
しかし残念ながらわたしのなかではオリジナル超えはなかった。
少なくともあともうひとひねり気の利いたアイデアがほしいところ。
■黒薔薇少女地獄
『水面に映るシェイクスピア』
稚魚の頃、川で一緒に遊んでいたサケコとマスジロウであったが、
大きくなってふたりは互いの住む世界が違うことを知り、サケコはマスジロウを残し海へと渡る。
運命によって引き裂かれたふたり。マスジロウのサケコへの想いは募る。
そして、サケコを追っていざ海へ!
これは淡水魚が回遊魚に恋をしてしまったことからはじまる悲劇。
鱒と鮭による禁断の愛の物語!!
もしもロミオとジュリエットが鮭と鱒だった場合の生きざまを真剣にふざけて描いたのかな、という印象の作品。
セリフのひとうひとつが妙にポエティックで、エモーショナルで、それでいてドラマティック。
衣装はゴシック調でなんとなく格式が高い感じなのに、頭には魚のかぶりものというアンバランスさ。ラストは愛と生死を綺麗に描き、笑いのなかにも胸がつかえるような確かな余韻に燻られた。
■ゾンビジャパン
『男たちの挽歌』
チャイニーズマフィアのアジトを舞台にしたコメディドラマ。
拳銃のなかに玉を一発いれてロシアンルーレットで殺し合いをしようとする男ふたりの間に
日本人の男が割って入り、さび入り寿司のロシアンルーレットをやろうと言い出す。
でもやっぱりリアクション芸の本家は出川哲郎だよね!とおもった次第。
『TSUTAYA』
会社の同僚ふたりのオフィスでの他愛ない会話。TSUTAYAで借りたテープがみれなかったから店員を自宅に呼んだ日のことを再現しようとするものの、脱線してばかりでなかなか本題にはいれない。ゴドーを待ってるような、なんだか歯がゆい感じだった。
『SAY YOU』
声優養成所での一幕。先生がお題を出し、生徒がそれにこたえていくというスタイルのコント。
日本語の吹き替えと、トトロの真似をさせようとして、ジブリ愛が募ってだんだん先生が暴走していく辺りはおもしろかった。カンタがさつきにん!って傘渡すシーン。当時、6歳のわたしも胸キュンでした。
でも。全体的にちょっと完成度にムラがある感じ。それが持ち味なのかもしれませんが・・・。汗臭そうなおじさんが頑張ってる姿は結構心を打たれました。あとゾンビジャパンと名乗りながら、ゾンビ映画のパロディに走らなかったことはすごい。
余談だけど、ようつべで観た『アジアチャンピョン』はおもしろい。身近な癖と無駄にでかいスケール感の組み合わせから教則ビデオの盲点をつき、コントがYoutube(映像表現)でできることに革命をもたらしたと言っても過言ではない。リフレイン二度見はもはや伝説!!笑
「エダニク」「サブウェイ」
真夏の極東フェスティバル
王子小劇場(東京都)
2011/08/25 (木) ~ 2011/08/28 (日)公演終了
満足度★★★★★
『サブウェイ』
進化論と歴史観から現代を見直した「失われた20年」に対するひとつのアンサーとしてみた。観念的でありながら人類愛にあふれ猛烈な独創性とエネルギーを惜しみなく発揮した超大作。
ネタバレBOX
『地下鉄』を利用する人々の群れ。
そのなかから年齢・性別・職種・行動パターンの異なる7人(30代の保険屋、大学生、女教師、フリーター女、バイト君、看護師、図書館司書の女)の
月曜日から日曜日までの一週間をインタビュー形式のモノローグとして一日一人づつカメラは捉える。
レンズを向けられた人々は、各々の属性と近況について語る。
本音を吐露するような深刻な素振りはみせず、飄々としてはいるものの、
しかしどこか空疎で心、ここにあらず。といった感じ。
そんなポーカーフェイスな人々のイメージは白い装いという形で具象化され、
清潔で無機質、そしてほんの少しの冷たさを醸し出す。
彼らの心理、アイデンティティは如何なるものか。そのルーツは一体どこにあるのだろう。
それを突き止め、ドキュメンタリータッチで映画化しようと試みる一人の外国人映画監督の果敢な挑戦が、完成試写会の舞台挨拶というシチュエーションからドラマ仕立てで語られる。
また人間があくせくとなかばルーティーンワークで一週間をこなしている日常の最中、時同じくして一週間で天地を創造した神(創世記)について触れ、進化論も並列される。
更に近未来の視点から過剰供給される情報や行き過ぎた消費社会に毒された現代にフォーカスを当て『この時代は無意味だ』とぶった斬る。
そして、そんな世界をつくってしまったことは紛れもなく人間の責任である、ということも。
もともと『ひとつ』だった世界に多くを望んだひとびとはやがてバラバラになって気持ちを伝えあうことすら困難になってしまった。
しかしそのことにすら、目を向けず、目先の利益のためだけに動いている。
そんな世界はあまりにも絶望的だ。
ではどうしたらいいのだろう。
正解がみつかればきっと誰も苦しみを味わうことはないのだろう。
作品は聖書の約束の虹を誰かがぽつんとひとりごとのように呟いて終わる。
現実的には綺麗ごとだけでは済まないことだらけで、出口のないトンネルを行ったり来たりするような閉塞感に包まれているけれども、昔も今もぜんぶ『おとぎ話』なんだっておもえれば、少しは気がまぎれるかもしれないし、それがすくわれる方法なのかもしれない。なんて。
これは僕が神様になりたかったけれどなれなかった話で、僕の彼女が実は地球だったってオチが待っている話なわけで、
劇団エリザベス
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2011/08/19 (金) ~ 2011/08/21 (日)公演終了
満足度★★★
ちゃんと生きようとする
エリザベスの作品って、なんか自意識過剰で自己嫌悪しまくりでこの世のすべてを忌み嫌ってるひとりぼっちの男の子のぐちゃぐちゃーっとした思考回路が脳内から飛び出して散らばっちゃってるイメージがあるんだけど、そうやって自己防衛してきたフィールドから外側にある世界をみつめて、誰かの痛みを知ろうとする方向へ意識がすこし傾いていく。それだけでもかなり前向き。
ネタバレBOX
僕と幽霊の女の子との魂の交流を中心に学園内のなにげない日常や彼らをとりまく世界のことがやや自嘲的な日記を書き連ねるような趣で描かれていて。どちらかといえば無理がある設定もギャグとシリアスの往来に隙を与えず一気に加速させることで奇妙な説得力がもたらされていた。
だけど、ラブコメというには少々無理があったような・・・。
クラスメイトにしても、担任教師にしても、なんだかとても胡散臭くて、アンドロイドっぽいから、主人公の苦悩が生々しくて、真実味を引き立たせているようにおもえたけれど、あんまり意味がなさそうなギャグ的要素が強すぎちゃって、純愛におけるドラマティカルな要素だったり同じ場面が無限にループするようなダウナーな空気感が薄れてしまっていたような気がした。
耳の穴から入っていく砂の粒がどんどん肺に落ちていって窒息しそうになってる・・・なんて透明感のある詩的な表現もあったのに、太宰治の人間失格の一節をモノローグすることで、生きにくさへのイマジネーションが閉ざされてしまうような印象を受けた。また、僕と彼女の距離感だったり、息づかいををつたえるだけの時間がすこし足りない気がした。もっとずっとふたりのことを見ていたかった。
コメディのパートではショートコントや寸劇、CM、ドラマ、ゲームの1コマなどを巧みに取り入れパロディ化したギャグが種類も数も豊富で飽きさせないようなつくりになっていたので、笑いのツボは刺激させられっぱなしだったものの、ネタ見せ的な笑いも多くてちょっと辛かった・・・。苦笑
シーンごとに振り返ってみると林先生とメルトの戦いっぷりだったり、知的生命体としての平田オリザの存在だったりとエスプリが利いていておもしろかったところをおもいだせるのだけれども全体を通してみると、無為に100万回生きるよりもほんとうにすきなひとと一度だけ生きることがどれほど素晴らしいことであるか、そしてそれが叶わないことはどんなに哀しく切ない気持にさせるのか、っていう作品の肝になる描写が少し弱い気がした。なんだろう。人を好きになると『メルト』に感染して死んじゃうかもしれないけど、それでも好きでいられるだろうか。とかそんな感情の揺らめきというか燻るような焦燥感に突き落とされたり惑わされたかったのかも。
認められなくても、受け入れざるをえない運命と引き換え(受難)に、記憶とかすかなぬくもりだけが残るラストシーンは儚くて美しかった。
あなたをずっと見守っているから。ってメッセージはシンプルだけどすてき。
KUNIO08『椅子』
KUNIO
こまばアゴラ劇場(東京都)
2011/02/17 (木) ~ 2011/02/21 (月)公演終了
満足度★★★★★
無茶ぶり上等
これに行くにはそれなりの覚悟を要していたようにおもう。なぜってその状況を飲みこめたとしてもかなり戸惑うような無茶ぶりを振られるかもしれないし、そうかといって逃げ腰になるのも気が引ける。どちらにせよ、はじめからさいごまで安心して観させてはくれないのだ。
はじめてkUNIOワールドに触れるひとは、こんな風に人を舞台に釘付けにする方法もあるものか、ときっと驚くことだろう。
突き抜けたパワフルな演出でとにかくめちゃくちゃ楽しかった。
ネタバレBOX
ほんとうはきっとすばらしい才能があるはずだ、なんてずいぶん長い間自分が非凡であることに焦がれつづけた老人が死期を目の前にほんの一瞬だけ願いを叶える青臭いロマンティシズムに満ちた話。
序盤では、厭世的な老夫婦のなんともつかみどころのない会話がぐだぐだと続くのだけれど、劇中いきなりKUNIO氏が乱入した後、今から指名された人(観客)が老夫婦のゲスト(来訪者)役として出演しなければならないことが告げられると会場はこれから死のロシアンルーレットがはじまるかのように一瞬にして凍りついた。笑
するとこの空気感を見越したKUNIO氏が「誰も目をあわせてくれませんね・・・」とややにやつきながらマイクを片手にまるでテレビのクイズ番組の司会者のように観客に役を振っていく。
なんつー無茶ぶり!!
なんておもいながら、幸いなことに(?)役を振られなかったわたしは、指名され、舞台で来客として役を演じることになった観客のひとたちを固唾をのんで見守った。
最初のアクションは、老夫婦と来訪者が出会うところからはじまる。
挨拶ひとつするにしても、会釈をするだけではすまされず、老夫婦は来訪者に質問を投げかける。
その時、来訪者は演じる役相応の受け答えをしなければならないのだが、
リアルでは初対面であるために、なかなか状況は複雑だ。
微妙な距離感が生まれたり、気まずい沈黙が流れたりもする。
そんな中でも適当に話をあわせて踊りましょう・・・なんて老人に言われるとノリノリでチークダンスをはじめるひともいれば、老夫婦に差し出された『椅子』に坐っているだけで冷や汗ダラダラで緊張感がこちらまで苦しいほどに伝わってくるようなひともいる。
それぞれのひとたちの、枠にはまらない生のリアクションを発起するこのスリリングな演出方法は、普段なかなか意識しない対人関係の素性を見つめ直す契機にもなり、非常に優れていると感じた。
後半は、死に絶えた老人に成り替わり、かねてより老夫婦に招かれていた弁士が老人の言葉を皆の衆の前で演説をするのだけれど、この時、プレミアムシートなる椅子が舞台に設けられ、そこでは弁士の話を真正面から浴びることができるという仕組みになっていて、KUNIO氏が煽るというのもあって、前半ではシャイだった観客陣もこの時ばかりは我先にとプレミアムシートへ続々と向かっていった。(勿論わたしも)
で、この時の演説の内容っていうのはぼくはみんなを愛しています、みたいななかば厨二病的体裁で失笑寸前って感じでもあるんだけど、弁士がBen-Cなんつーナンセンスな名前のラッパーとして思いのたけをライム刻んでリズミカルに言っちゃったりするもんだから、こっちは爆笑しつづけているしかなくて。
だけど、老夫婦は天国で幸せに暮らしていてみんなの幸せを願ってるよーなんてちゃちな指人形でいわれちゃったり、フィナーレをエグザイルのビクトリーで飾られちゃったりなんかした折にはやっぱりこちらは笑顔でいるしかありません。
そしてほっこりした気持ちで家路を急ぐほかなかったのでした。
愛・王子博
INUTOKUSHI
王子小劇場(東京都)
2011/07/27 (水) ~ 2011/07/31 (日)公演終了
満足度★★★★★
犬と串による宣戦布告
ほんとうのことを言ったら排訴されかねない社会においてあらゆる事象やニンゲンの真実とやらに深く切り込んだ勇気ある演劇だとおもった。
ネタバレBOX
誰も信じることができず世界が灰色にしかみえないという少女・マリアの閉ざされた心を改善するためにキレイなおねえさんに連れて行かれたとある村。
そこは反則技をつかったために場外追放されたボクサーや、過激な思想を持った者、性的犯罪者など、薄汚い野郎どもが送り込まれる牢獄のような吐き溜めで、イカサマの神父とシスターに懺悔を繰り返し、許しを請い、一定の価値観を植え付けつけられても尚染まらぬ者たちを廃人化させる日本政府公認の特殊機関であった。
彼らは無事、そこから抜け出すことができるのか?
それとも感化されてしまうのか?
愛と偽善と性の戦いが今はじまる・・・。みたいな。そんな感じの話で、退屈なリアリズム演劇とは真逆をいく虚構性の強い芝居。
だけど、登場人物の名前が亀田三兄弟ならぬ亀頭三兄弟だったり、村の名前がDASH村だったり、村長の名前がJ社長(J事務所の)だったり、時には4号機がメルトダウンしそうな原発の光景を模倣したり、マリアの心象風景に金子みすゞのこだまでしょうかをはめこんだり、ちょっとしたひとことのなかに竹島問題がさりげなく言及されていたり・・・。そんなタブー視されがちな時事ネタだったり週刊誌ネタだったりをちょいちょい挟んでくるとこが強かで、苦笑した後、恐怖感に青ざめたりもした。
ふざけているようにみせかけてその実、観客ひとりひとりに問題意識を喚起している。馬鹿だな、こいつらとフェイクをかぶって中指つきたて本音をぶちまけている。
そのすべてが格好いい。