GREAT CHIBAの観てきた!クチコミ一覧

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Posthuman Theatre 4

Posthuman Theatre 4

劇団解体社

左内坂スタジオ(東京都)

2018/11/02 (金) ~ 2018/11/04 (日)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2018/11/04 (日) 19:00

解体社の公演が、今回はテアトルシネマというポーランドの劇団とのコラボ。
テアトルシネマは「ポーランド演劇における「タデウシュ・カントール以後」を代表するカンパニー」という惹句に期待して、足を運ぶ。相変わらずの盛況。

どこからがネタバレがわからないので、以下「ネタバレ」へ

さて、舞台の解題を楽しみに、トークセッションに入るのだが。
ズビグニェフ・シュムスキ氏の、演劇の作り方の話(役者の自由な発露をもって、それを観察する段階(第1段階)と、演出家がそれを全体として構成をする段階(第2段階))は面白かったし、演劇が上演されるのは舞台ではなく、教師のいない(細分化し良悪に分ける存在)学校だ、という発言は面白かったし、清水信臣氏の「ニース、7月14日」の「マクベス」的な構造の指摘も面白かった。
進行の演劇評論家の鴻 英良が「ニース、7月14日」はプレ・カタストロフィーといった指摘は、わが意を得たりという感じで、うれしくも思った。

しかし、ちょっとグダグダ過ぎない!
元は、ズビグニェフ・シュムスキ氏の時間配分や打ち合わせ無視が原因なのだろうけれど、同じ話の繰り返しが多く(ズビグニェフ・シュムスキ氏と鴻 英良氏)て、予定を大幅に超えたのもそちらの原因が大きい。

また、ズビグニェフ・シュムスキ氏の日本武闘の話は、もう少し聞けば、演出の関係が何となく分かりそうな気もしたのだけれど、あそこで話す話ではないやな。
鴻 英良氏は急にシナリオが崩れた不運や、いきなりのズビグニェフ・シュムスキ氏の振りがあったとはいえ、ポイントを除けば何を言っているのか???「要は」「つまり」を50回は繰り返したのではないか、でも「要」判らなかったけれど)

清水さんの指摘は興味深かったのだけれど、癖なんですよね口に手を当てるの。(シャイなんだ、きっと)よく聞き取れません。

終了22時20分は打ち上げで一杯飲むには、疲れもあり遅すぎだったので、今回はパス。
ちょっと、ポーランド語が行きかう飲み場を乗り切るだけの気力もなかったし。森澤さんの手料理食べたかったけれど、次回期待。

ネタバレBOX

解体社「プレヒューマンショウ」
作・演出の清水信臣氏、言うところの理性以前(プレ)の状態、野蛮な状態にいる人間の判断。これを清水氏は否定も肯定もせず描き尽くす。

ある男(熊本賢治郎)が宣言する(彼は時折空を飛ぶ鳥のような仕草をし、自らの精神の自由を表象する)「私は450人の障碍者を殺すことができる。それによって、障碍者によって苦しめられている家族や、介護者を開放することができ、彼らの余力は経済の活性化や社会発展に貢献するであろう」それを手紙にして投函する。(誰に?)

もう1人の男(森澤友一朗)がいる。彼は250人の障碍者を殺戮することを宣言する。の
彼は真理とは何か、というテーマを体現する存在だ。自立した心理などあるのだろうかと。真理とは信仰に裏打ちされてこそ真理足りえるのであって、もし神なき心理があるとすれば、それを誰が保障するというのだろう、と。そして、彼は障害者の殺戮に対して、自らの法的な責務をも軽減するように訴える。

前述の男は行動に移し、後述の男は実行に至る前に挫折(死?)に至る。
行動に移した男は、殺した障碍者たちに向かってこう言う「君たちは私が択んだのだ」。そして、いかに巧妙に実行したのかを誇らしげに語る。そこで、彼は断罪されてしまう(誰に?)なぜ選んだのかを、選ぶべきではなかったことを。
前述の男が殺した人々の衣類を、妻らしき女が洗濯して干している。
生きている男は、また自らの前人間的な「野蛮な」行為へ立帰るがごとく、また手紙をしたためる。

テアトルシネマ「ニース、7月14日」
2016年ニーストラックテロ事件を題材にしているが、もちろんテロ描写があるわけではない。とはいえ、ピカソの「ゲルニカ」のごとくテロ(ピカソの場合はホロコーストだが)を象徴的に描いたわけでもない。
暗示的な3人の女が、異様ないで立ち(臀部や胸部に詰め物をしたり、体に様々な布類を巻いたり)で舞台に登場すると、彼女たちは別の女から叱責を浴びせられたり、お互いを攻撃するような言動を繰り返す。(これを清水氏は、「マクベス」の災厄を招く魔女の引用と見るが、演出したズビグニェフ・シュムスキ氏は肯定も否定もしない)そこからは、、、
丸椅子を使った2人の男のマスゲーム、お互いの心臓部と心臓部を木片で突き合う男達や女達、男女が大きな袋を両手に持って支えったり倒れそうになったり、等々。
ニースで起こるテロへの胎動、そこに至る国際情勢と言えるし、殺された人々の日常と見える行為が繰り返される。
ラスト近く、ズボンの片足ずつにに足を入れる2人の男、ジャケットを両袖から起用として悩む女。まさに恐るべき(何の過誤もないと真剣に思い込む)行為、そして何の出口もない懊悩。その後に、殺戮のための包丁は、微妙なバランスで椅子を支える(人が腰掛ける道具を刃物が支えている状態)オブジェが作られ、7月14日は今来るのだろうという暗示を持って舞台は終わる。

中々、両作品とも鋭いよなあ。というか、短剣を胸に突き付けられたような、切迫した恐怖と不安を感じさせる作品。



テツガクするキカイ

テツガクするキカイ

888企劃

Route Theater/ルートシアター(東京都)

2018/10/31 (水) ~ 2018/11/04 (日)公演終了

満足度★★★

鑑賞日2018/11/01 (木) 15:00

フライヤーにアシモフのロボット工学三原則が掲載されており、そこに興味を持って観劇。

話は、自殺しようとするAIを巡り、テツガク(正確には「倫理」)をすることで、AIはどれだけ人間に近づけるかというテーマに進んでいく。

ガールズバーに来た客は、この自殺しようとするAIに哲学教授したロボット工学者。
彼は仲間とを共に、このAIを破壊しようとするのだが、、、、
結局、全ての判断は人間がするべしという立場から、AIの開発は中止となる。

殺したAIを埋めに来た山小屋での話と、それに続くAI開発中止に至る顛末そして、、、となるのだけれど。
山小屋でのAIとロボット工学者とで会話される、倫理とロボット三原則との矛盾。
AI開発中止に至る、ロボット工学三原則の不完全性。
特に後者の場面では、ロボット工学三原則が及ぼす幾つかのパターンを、ユーモアも交えて、とても愉快に観させていただいた。

ネタバレBOX

しかし、途中でAIがロボットの範疇を超えて、バーチャルを生み出す人工頭脳の話にすり替わってしまう。その上、ラストではロボット工学三原則なんかどこに行ったのか、イデア界における人格の別確保というどっか別の方向に持っていかれてしまい、AI開発の話もふっとんでしまう。
ガールズバーにいた男は、AI開発のために、自殺しようとしたAIの論理的解明を図ろうとして、人間の自殺の意図を理解しようとして絶望し、殺人に至るということなのだけれど、これってどこが「テツガクするキカイ」の話なのだろう。

何かとんでもない方向に行ってしまった感がある残念なお芝居でした。
評価は前半部分のみでしかできないなあ。
トミイのスカートからミシンがとびだした話

トミイのスカートからミシンがとびだした話

新国立劇場演劇研修所

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2018/10/26 (金) ~ 2018/10/31 (水)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2018/10/31 (水) 14:00

座席1階C1列16番

千秋楽の完成形を観たということで、割と評価しやすいかな、と。

まず、67年も上演されていない戯曲をよく持ってきたなあ、というのが最初の感想。
三次十郎作品の上演も、「炎の人」や「廃墟」を除くとあまりお目にかかれない。
この作品も、初めて聞く題名だし、調べても出てこない。
パンフレットには、若い役者たちの想像力、役を作り上げる力を試す、みたいなことが書かれていたのだけれど、まあ大変だったろう。
パンパンだ、コカインだと言っても、イメージできないだろうし。
映画で「肉体の門」や「赤線地帯」でも観て、少しはその時代の空気を感じたのだろうか。

さて、題名がキッチュでかわいいので、研究生観たさもあり観劇。
ただし、前半の富子が娼婦を辞めて、貯めたお金で買ったミシンをもって故郷に帰る件は、ただただ退屈。結局、社会更生の美談として雑誌に取り上げられたことから、元パンパンであることが親族に判ってしまい、錦を飾ったはずが、街の人間達だけでなく、親族からも疎ましく思われていく。
元娼婦と判ると、それまで自慢の姪だとしていた叔父が関係を迫ったり、妹は叔父と姉の関係を知って精神状態が不安定に、弟はぐれてしまう。

「カルメン故郷に帰る」のようなからっとしたユーモアもなく、啖呵を切って開き直りきるでもなく、三好十郎特有のジメジメした(鬱鬱とした?)苦笑いを催す場面が続く。主演富子を演じる永井茉梨奈も、懸命に明るくバイタリティある女を演じるのだけれど、いかんせん彼女を取り巻く男のほとんどがクズで救いがなく、物語り上で空回りせざる負えない。

何となく悶々と芝居が続き後半に入ると、職を転々とする富子の境遇と、かつての娼婦仲間との交流が描かれる。このあたり「嫌われ松子の一生」のような錯覚を覚える。

富子が働く見世物小屋(「衛生博覧会」!)のような、ちょっとした見物はあるけれど、結局は娼婦としての不遇を見せられ、それでも明るく生きています!的な病院での展開はちょっと辟易。しかし、、、、

ネタバレBOX

きょうちゃんこと、富子たちと昔の仲間が病院に訪ねてくるところから、俄然、物語りは高揚感を覚える。きょうちゃんを演じる石原嵩志の独り舞台である。彼は地元を締めているヤクザの組長を刺殺して逃亡中。病院で富子他と出会い、これから自首すると言う。そのセリフ1つ1つが、抜群に粒だって素晴らしい。彼は正義のためでも、誰かのためでもない殺人の動機を語るのだけれど、このあたりは流石にカミュの不条理劇。
抜群の説得力(合理的ではなく)を持って、観客に迫ってくる。
このあたりだけで、少し疲れを覚えていた私も、一気に舞台に没頭してしまい、次第に目頭がウルウルに。
場面転換直前のギター壊しには、驚いた。おまえはジミヘンか。
でも、千秋楽だから壊したのかな、毎日やっていたのかあ、知りたいところ。

最後は、きょうちゃんの意見を聞き入れて、求愛してきた男と結ばれ、また実家から取り戻したミシンでの裁縫を差異化するという他愛もない話。

パンフでは、三好十郎も何も起きない話的な事を生前語っていたというからそんなものかと。今回の★の半分は石原さんの演技に対して。
これからに大きな期待をしています。
『ダムウェイター』『ヴィクトリア駅』

『ダムウェイター』『ヴィクトリア駅』

T-PROJECT

「劇」小劇場(東京都)

2018/10/30 (火) ~ 2018/11/04 (日)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2018/10/30 (火) 19:00

座席1列

パンフには、是非笑ってください、と書いてある。
だからなのか、結構(特に「ダムウェーター」の方で)笑い声があがる。
そんな芝居だったっけ。初見の舞台では、やたらと居心地の悪い覚えがあって、舞台進行と共に、あれでもないこれでもない、ダムウェーターって何?(食器昇降機としてではなく、何かの象徴?)とか、かなり振り回された記憶しかない。

そこが、ピンター作品の醍醐味でもあり、ある種の中毒性でもあるのだけれど。

とはいえ、今回の演出は軽快で、むしろ観客を心地よく巻き込んでくれる。
意味を考えさせるのではなく、軽妙洒脱に別世界に引きづり込むことに成功している。
確かに楽しいものなあ。こういう演出もありなんだなあ。と言いつつ、これよいのか、とも思ったり。

不気味ということでは、「ヴィクトリア駅」の方が極北で、不確かな247号の存在、誰も無線に出ない状況、可視される焼失したホテル、タクシーで寝ている女と247号の女への愛、いるのかいないのか不明な娘、ベッドに横たわっているであろう妻、完成度としては、こちらの方が上かもしれない。

初日ということで「ダムウェーター」は、これから数日で、伸びしろを感じさせる作品。「ヴィクトリア駅」は、肝に銘じて観劇すべき。

るさあるかゔぉじゃのおい

るさあるかゔぉじゃのおい

劇団パラノワール(旧Voyantroupe)

阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)

2018/10/24 (水) ~ 2018/10/28 (日)公演終了

満足度★★★

おなじみの丸山翔,平良和義の両氏に、イツキを加え、何とも男性陣の灰汁が強すぎ。
それに比して、女性陣がその灰汁に抗うような強さがなく、池を挟んだ物語りの展開がうまくバランスが取れていない気がします。

ただ、冒頭の男女の別れ話が、全くの錯誤という展開は、とても気持ち悪く、怪奇譚としてはよくできていました。

ネタバレBOX

でも、怪物の姿がカエルの化け物かと思っていたのに、ザザーン(判るかな?)のようなのだったのは残念。
美しい村

美しい村

タテヨコ企画

小劇場B1(東京都)

2018/10/24 (水) ~ 2018/10/28 (日)公演終了

満足度★★

残念な出来でした。物語の方向性がバラバラで、描きたいことが判らないし、それを超えた不条理劇にもなっていない。何かごちゃごちゃというか。

小さな村で、花見に集まった村民が青酸カリが混入されたおはぎを食べて14人が被害にうち5人が死んで、、、
外部の人間が、毒物を混入させることは不可能。
容疑者の東原康子(旧地主家)は、おはぎを作ることを提案したことから一旦、容疑を被るが否認。
村人たちの幾つもの証言から、毒物混入の機会がないことが明らかになる。
しかし一転、罪を認めるが、村人たちは不思議に思いながらも、犯人が判ったことで安堵する。しかし、再度、康子は否認をし始め、、、

この物語のポイントは、康子がなぜ自白をしたのに、再度否認に転じたのか、そう思っていた。おそらく、そこには、村社会の暗部や怨念、因習や旧階級制度、そうした部分が描かれるのだろうと。しかし、否認に転じた理由は、物語途中で弁護士によって「拷問に近い取り調べがあったのだろう」ということで軽くスルー。

話は康子を犯人にするための、検事たちの暗躍と、それに躍らされる村人たちの物語へと転換していく。(ネタバレへ)

フライヤーよりも、ずっと可憐な岩倉真彩(ヒロインの必須条件)さんと、舞台装置の巧みさ(養蜂箱の使い方や畳台、後方の障子みたいな吊り物ーこれが村社会の隠れた耳目を表現するーなど)などは評価できるのだけれど。

ネタバレBOX

正義感は強く、警察の悪を朗々と説くが、全く役に立たない弁護士。
(無罪を主張するための物証や証言は、みな村人が自主的に申し出たもので、彼が集めたものではない)、
冒頭の惨劇に際し、被害にあった村人たちを労わりながら、真摯に事件解決に臨む刑事。しかしながら、彼は後半、元特高だと肩をいからしながら、恐喝や恫喝で村人たちに証言の歪曲を迫るようになる。(何か違うぞ!!!)

有罪には、機会と動機あること、そして物証と言う。明らかに、無罪を勝ち取るには機会がないこと、物証(青酸カリには赤い着色があった)だと思うのだけれど、なぜ動機がないことを証明するのに、康子と死んだ不倫相手との会った時間が問題になるのかが判らない。会ったとしても、別れ話が決裂したかもしれないし。
まあ、不倫相手を殺そうとしても、無差別毒殺はするかなあ。食べるとは限らないし、
確実に殺人なのだから、警察が介入してくればいろいろ面倒だろうし。

という風に、どうもしっくりこない。

結局、被疑者死亡につき不起訴ということに収まり、ラストに真犯人(だろうね)が主人公の前で自白をする。このあたりの伏線はちゃんとありはするけれど、犯人の怨念の深さ、つまり復讐をさせる衝動が、全く描かれていない。真犯人の技術的な背景(薬剤知識や取扱技術)はなるほどとは思わせるけれども、何とも共感はもちろん、恐ろしさもない。はあ?という感じは拭えない。

東原の叔母さんも、村人との関係で、もう少し強力な毒が欲しいかな。
こう言いました、過去にこんなこと(子供を病院に行かせずに死なせた)がありました、では毒は伝わりませんよ。

どうせなら、東原家、村人、警察の三つ巴の憎悪劇みたいな感じにしたらどうでしょう。弁護士さんも1枚咬んで。
エレベーターの鍵

エレベーターの鍵

大人のためのおとぎ話(文学座有志による自主企画公演)

文学座新モリヤビル(東京都)

2018/10/18 (木) ~ 2018/10/20 (土)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2018/10/19 (金) 20:00

タイトル「エレベーターの鍵」は、夫が最初に妻から取り上げた物の意。
それを取り上げるのは、愛なのか?というお話。

ネタバレBOX

エレベータの鍵を持つことで、外界との接触を持っていた妻は、住居の周囲を散歩していりと、見知らぬ男から花を送られる。このことに怖れを抱いた妻から、夫は「心配だから」と鍵を取り上げる。
そして、彼女が身体の一部に不調を訴えるたびに、夫は友人の医師からその不調の原因を取り除いてもらう。簡単な手術によって。足が動かなくなり、音が聞こえなくなり、目が見えなくなり。

果たして、夫に愛情はあったのだろうか。かなり怖い話。
最後に、妻の苦悶の声に神経を削られる夫を心配した医師は、妻の声をも取り上げようとする。
これに初めて抗う妻。そして結末は、、、

人間は苦痛を伴うことでしか生きては行けず、その苦痛そのものを排することは、人間として生きることを否定してしまうことなのだということか。夫の盲目の過保護が招いた悲劇とも見れるし、生はあらゆる不自由をも受け入れることなのだという諧謔的な喜劇とも見れる。

あの医師って、何を象徴しているのだろう。
ゲッコーパレード出張公演 家を渉る劇vol.3『リンドバークたちの飛行』

ゲッコーパレード出張公演 家を渉る劇vol.3『リンドバークたちの飛行』

ゲッコーパレード

早稲田大学演劇博物館(東京都)

2018/10/17 (水) ~ 2018/10/17 (水)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2018/10/17 (水) 17:00

ゲッコーパレードの十八番。
毎年、家屋を替え乍ら上演されている作品らしい。今回は早稲田演劇博物館という、大物を相手に演じられた。
最近、ブレヒト作品を見かけることが少なく楽しみな演劇。
1日3公演なのだけれど、家屋の部屋を巡るという性質上、観客数も限られていて1公演20名。
ここのところ、大隈大講堂でのイベントでも、早稲田演劇博物館開催のものでは抽選に外れまくっていたので、
今回の当選はまさに神の僥倖かな。

定時前、荷物をロッカーに預けて、33時間を1時間に凝縮したリンドバーク大西洋無着陸飛行の旅へと出かける。
彼がなぜこの冒険に踏み込んだのかは判らない。彼は観客1人1人に挨拶と握手をし、飛行機に搭載する荷物を列挙し、海図を拡げる。ガソリンは持つのかを不安がり、磁石は最上級の物を調達したことを自慢げに述べる。

天候はけしてよくないが、待ち続けることもできない。
彼は、愚か者と揶揄されることも恐れず、霧の中旅立つ。吹雪に出会い、時として海面すれすれになることもあり、疲労と高いテンションを持ってただただ、操縦を続ける。

なぜ彼がこの冒険を思い立ったのかは語られない。ただ暗示されるのみだ。幼稚さの克服、いまだ到達されえないものへの憧憬、文明による自然の支配。
死への接近、恐怖と楽観。スコットランドの半島では、やっと飛行機が発見され、彼の生存が確認される。(ここでは、観客参加型のセリフ芝居となる)彼は飛行機を降り、飛行機整備をした仲間たちに、感謝の辞を述べて雑踏の中へと消えていく。

屋外でのラスト。つい涙が浮かんだのはなぜだろう。リンドバークの内面を追体験したからなのだろう。雨降らないでよかったな。淡々としながらも濃密、音楽効果も高く、建物の構造に則した視線、導線。一見の価値あり。


「マラー/サド」東京公演

「マラー/サド」東京公演

東京ソテリア

イタリア文化会館 アニェッリホール(東京都)

2018/10/13 (土) ~ 2018/10/13 (土)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2018/10/13 (土) 17:50

やっぱりなあ
オープニングの挨拶長!!!予定を10分以上オーバーして、どうなるのかと思った。
セレモニー部分の円滑な進行が、こうしたイベントの成否に大きな影響があることを、主催者は判っていないのかな。朗々と組織の説明などされても、観客の心に響くわけがない。

ただし、舞台は別。1時間20分お疲れさまでした。劇中劇の演出と進行がそのまま、この舞台の物語になるというメタドラマ。映画でこの作品があることは知っていた(クイズで、最も長いタイトルの映画は?として出題されることがあります)けれど、舞台で観るのは初めてだったし、そもそも舞台作品になるものだとは、想像だにしなかった。

劇中の歌唱は圧巻。実際の精神病院の患者さんが演じていることに、深い感銘を受ける。いや、生半かな芝居ではありません。自由を勝ち取るために、人は何を成し遂げなければならないか、ということを実感として提供してくれます。

舞台上の檻が自由の阻害を強調し、そこからどうやって出ていくのか、出て行くことは可能なのか、と役者と観客に訴えかけているようです。

でも、最前列に座っていた前ボローニャ精神保健局局長他数名のイタリア関係者、やたらとスマホで舞台を撮影したりしているのは、お行儀悪すぎないかい?チラチラした画面に気を取られて落ち着きません。すぐ後ろの人となれば、機嫌悪くしたのではないかな。イタリアではOKというわけではないでしょうに。

ネタバレBOX

終演後の会場との対話での「ラストに舞台上の檻が外れるかと思ったのですが」という観客から質問に対して、ナビゲータや、他の観客、前ボローニャ精神保健局局長がいろいろと意見を述べるのですが、遅れて出てきた演出のナンニ・ガレッラ氏は一言。
「そうした演出がよいと言うのであれば、次回はそうしましょう」と、軽く答えておりました。
その後の、彼の明快な演劇論を聞いてみると、なるほど思慮深い人は、無駄なことは考えないのだな、と得心した次第。舞台とは、「生活」そのものなのだそうです。
1回性、日常との時間の連続性、その上で演じられるという代替不可能な芸術ということなのでしょう。(昔、ゴダールが、「あらゆる映画はラブストーリーである」と言ったことを思い出しました)
金魚鉢のなかの少女

金魚鉢のなかの少女

地人会新社

赤坂RED/THEATER(東京都)

2018/10/06 (土) ~ 2018/10/14 (日)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2018/10/13 (土) 14:00

座席1階2列10番

全てはめぐりあわせだということを知った時、アイリスは大人になる。
彼女は、現実という鋭利な刃物の存在を知り、期待も理想も儚いものだということを知る。
でも、絶望だけがそこにあるというものではないことも、知ったのだろう。

堺小春さんは、これから芝居の途で生きていくのかな、次を観てみたいなあ。

ネタバレBOX

ローレンスの死は突然に、あっけなく(ある意味、ばかばかしく)訪れる。それは、最後の最後に、家族を繋ぎとめるよすがになろうかという時に、また突然に家族の終焉を招いしてしまう。残酷だ。

ラスト、過去を回顧するアイリスが羽織るレインコート、あれいつあそこにあったのだろう。誰か教えてください。
通し狂言 平家女護島(へいけにょごのしま)

通し狂言 平家女護島(へいけにょごのしま)

国立劇場

国立劇場 大劇場(東京都)

2018/10/01 (月) ~ 2018/10/25 (木)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2018/10/15 (月) 12:00

座席1階2列11番

中村芝翫が、実は現在の歌舞伎界で第一人者であることを証明しているような舞台。
普段は第2幕を独立して「俊寛」で演じられるのですが、やはり通しでやってくれるのは国立ですね。
国立劇場の良さは、通し狂言を贅沢な意匠で、じっくりと見せてくれるところ(足元もゆったりして心地よい)。1時間程度の幕で、休憩もゆったりと取れるので、ご高齢の方にはもちろん、体にも優しい。

ただ、例年、年末に歌舞伎公演が続くので、もう少し均等間隔で上演してくれたらと思うのですがいかがでしょうか。年末・新春の連続公演は、縁起物としてよいとは思うのですが。

芝翫が俊寛と平清盛の2役を演じますが、2幕最後の俊寛の痛ましいまでの慟哭と、3幕の清盛の狂気の両方を演じきれるのは、御大含めてもそうはいないのではないでしょうか。先月の「オセロー」も観ておけばよかった。

追伸:レストランのビールが、小瓶600円になっておりました。以前は中瓶で500円だっ   た気がするのですが。メニューも減っていたので、業者が変わったのかな。小鉢   も少し貧相になった気も。残念。

歌舞伎ミュージカル「不知火譚」

歌舞伎ミュージカル「不知火譚」

劇団鳥獣戯画

ザ・スズナリ(東京都)

2018/10/05 (金) ~ 2018/10/14 (日)公演終了

満足度★★★

鑑賞日2018/10/12 (金) 19:30

座席1階D列7番

もったいなあ。
昨年の第一章の最後で、石丸さんが第二章はスズナリで上演と伝えた時、自虐的に「さて、この大蜘蛛は舞台に収まるのでしょうか」と申しておりました。
大蜘蛛は、なんとか収まっておりました。また、化け猫も走り回っておりました。

でも懸念は、そこではなかったのだろうな。
劇団鳥獣戯画、渾身の歌舞伎ミュージカル。やはり、スズナリは狭い。
本多劇場では、左右、奥を目いっぱい使った活劇が、何かぶつからない様に、ちまちま動いている感が終始舞台を覆っていて、観ているこちらが息苦しい感じがする。
もはや、台本、演出、演技がどうこうではなく、箱という前提が間違っているのだから楽しめようもない。

ラストのユニコ、蜘蛛の糸に見立てたローププレイも、前回本多劇場の高い天井であるから生えたのに、スズナリでは浮遊感もなく、失礼ながら何をやっているのか感が痛ましい。

次回は本多劇場とのことで、捲土重来を期待したいのだが、それゆえに今回のスズナリでの上演がもったいないなあ。

ちなみに、お捻りは劇団の文化なので、否定はしないけれど、最前列に座って、頭にぶつけられてのは2回目だなあ。かなりの高確率ですよ。

恭しき娼婦2018

恭しき娼婦2018

新宿梁山泊

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2018/10/10 (水) ~ 2018/10/14 (日)公演終了

満足度★★★

鑑賞日2018/10/11 (木) 19:00

座席1階G列20番

まず、タイトルなのだけれど、フライヤーや新宿梁山泊blogには「恭しき娼婦」とのみ書かれているが、こりっちや東京芸術劇場HPでは「恭しき娼婦2018」と書いてある。
この不統一は何ぞや。
フライヤーを見て行こうと思った私は、原作サルトル、翻訳芥川比呂志という記述と相俟って(多少の翻案はあるとしても)、このもはや古典劇をそのまま鑑賞できるものと思っていた。
だから、舞台の進行が当初から???になってしまい、最後自分なりに得心するまで、この話は何のこっちゃとなってしまった。これからご覧になる方には、冒頭から振りまかれている様々なパーツ(セリフや舞台装置)に気をつけながら観劇されることをお勧めする。20世紀初頭のアメリカの話でもありませんし、黒人も出てきませんから。

それで最後まで???だったとしても(案外、ご年配な方が多かったし)、一見の価値があるのは、出ずっぱりのサヘル・ローズ。
彼女の肢体、動き、仕草、ポーズを観、軽快で艶のあるセリフを聞くだけでも(少なくとも男性は)お金を払って観に来たことを後悔はしないと思う。
ちなみに、サヘルの役名も「サヘル・ローズ」で、彼女がイラン出身であることを暗に前提としている。

舞台はヨーロピアンな調度のアパートの一室。そこで、この話はてっきり欧米(原作ならアメリカの片田舎)の話だと思うのだが、実は日本(サヘルが裸足で掃除を始めるところで気が付かないとね)。そして、まず???が入る。(ネタバレへ)

ネタバレBOX

サヘルが掃除を始めるのだけれど、掃除機がコードレスなのである。

実はこの話、最近舞台で流行り?(「1984」とか「華氏451度とか)のディストピア物なのである。それもかなり近未来、おそらく今から10年程度の。

娼婦サヘルに甘言をもって近づいた男は、実は彼女が目撃した電車内で朝鮮人を刺殺した男の従弟。従弟を助けるために、偽証を求めに彼女と関係を持った。

さて、ここから出てくる事実に関する言葉と、架空の言葉。
関東大震災時の朝鮮人虐殺(直接「亀戸事件」とは言わないが)や、満州国の五族協和。
一方で「第二次朝鮮戦争」や、大量の難民・移民の受け入れ。

この物語の舞台は、山口県。(本州の片隅と言っている)
男の大叔父は、70年変えられなかった日本国憲法を変えて、戦争ができるまともな国にした歴史上偉大な人物。そう、安倍晋三のこと。男の名前は彼から一字もらって「シンゴ」(晋吾?)と言い、拘留された従弟は「シンノスケ」(晋之輔?)というらしい。
シンゴの父は、有力な地場の国会議員。

アジアからは大量の難民・移民を受け入れているが、彼らは富裕層に安く働かせられる召使となっていて、特に朝鮮人は「チョン」と呼ばれ差別されている。
大量の朝鮮人受け入れをしてやりながら、彼らは関東大震災時と変わらず、いつも盗みや悪事を働くことしか念頭にない、というシンゴ。

相手が朝鮮人であれば、日本人の罪は隠蔽されるのが当然で、朝鮮人が罪を犯したという風評だけで、集団リンチの対象となる。

サヘルの部屋に匿ってほしいと訴える(ここに、サヘルがイラン人という前提が通底されているように思われる)朝鮮人はこう訴える。
「町で見知らぬ人同士が話し込むと恐ろしいことが起こる」(集団リンチの前触れ)
「日本人はあることをないことに、ないことをあることにする」(ある=亀戸事件やもしかしたら慰安婦問題、それとない=朝鮮人の犯罪や劣等性)

そんな10数年後の日本。まさにディストピア。

ラストは、サヘルの部屋に匿われた朝鮮人は逃げおおせ(このことをサヘルに伝えるシンゴは多少の悔恨の情が見れるのだが)。
シンゴはサヘルを愛人として囲うことを申し出る。(ここも現代という意識からすれば、彼女がイラン人ということと通底していないか)

でも、サヘルがシンゴを銃で撃たず、首を絞めて殺すのはなぜだろう。
華氏451度

華氏451度

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)

2018/09/28 (金) ~ 2018/10/14 (日)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2018/10/08 (月) 14:00

まずは、白い本の巨大な棚。この棚から落ちてくる本は、当然決まっているのだろうけれど、どのように落下を制御しているのだろうか。適当に落ちてきたら危ないし。
物語りでは、この落ちてきた(あるいは、ファイヤーマンが落とす)本が、発見されたものとして、キレイに燃やされていく。その白に映えるの炎の投影が美しい。ある意味この演出が、物語りを全てリードしていき、登場人物の心理や考えの流転や抑揚を、見事に観客に伝えていく。

今回の舞台では、白石氏と長塚氏で、配役をどうするかで頭を悩ませたらしいが、結果、少人数で複数の役を演じさせることで、説明に終始することなく、共有された世界観を出せると考えたらしい。確かに、美波の娘クラリスや妻ミルドレッド、吹越満のベイティー隊長とグレンジャーの対の関係性は、同一人物が演じることで深い妙味を醸し出しているし、2役の意識の差が相乗的に働いて、陶酔感溢れる演技に昇華している。

 特に吹越満の2役は、彼特有の無機質なセリフ回しと相俟って、ケレン味さえ感じさせる名演になっている。双方を演じている部分だけ切り取って見せたら、この役は分裂症なのかというくらいに、自負に溢れた表現力は、2役を演じているということが大きいと思う。

さて、今回の上演に際しては、パンフで、白石や長塚氏が述べているように、スマホに代表されるようなデジタル文化への傾倒への警鐘があり、文化軽視、情報過多、アナログ蔑視への批判という面が指摘されている。さもありなん。これが65年前に発想されたということに驚かされる。
最近では、「1984」の舞台化、映画「2001年宇宙の旅」の再評価などが続いている。「華氏451度」も上演も、すでに古典と化しつつあるこれらSFが、今なお機知と新鮮味に溢れたものであることを示すものではないだろうか。

誤解

誤解

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2018/10/04 (木) ~ 2018/10/21 (日)公演終了

満足度★★★

鑑賞日2018/10/07 (日) 13:00

つい、先日には、同じ新国立劇場でサルトルの「出口なし」を観劇したばかりで、今回のカミュの「誤解」の上演を知った時、これは両方観ねばならぬなあ、と当然のごとく思ったのだけれど、そう思った人はたくさんいたことだろうと思う。
ほぼ同年の作、カミュとサルトルの蜜月時代、ドイツ占領下の作品。主要登場人物も双方3人とコンパクトな構成で、彼彼女らは行き場のない存在だ。(「誤解」のジャンは、外部から戻ってくる存在で、選択的に生きているようだが、「出口なし」のガルサンら同様に、自らの素性を隠しながら、死に導かれるように登場し、そこから抜け出ることができなかった) シス・カンパニーと新国立劇場、とはいえ、両方とも小川絵梨子氏ががっちりと噛んでいる訳なので、この時期の同時上演ともいえるスケジュールには、十分な意図が感じられるのだけれど。

 さて、「誤解」は2年前に岩崎直人企画にて、立川三貴演出で観て以来である。新国立の小劇場よりも、はるかに小さい阿佐ヶ谷マルシェ。それでもホテルのカウンターもテーブルもあったし、何よりもホテルの裏には死体を沈める川が、時として轟音を立てながら存在していた。
今回の舞台では、ホテルの一室を記号化するかのようなベッドと椅子があるのみ。死体を飲み込む川も、暗鬱な森も、陽光が差さない曇天も、じめっとした暗い背景と登場人物の周辺にまとわりつくような闇で表現される。
 何とも心象世界でのみ、物語りを展開するような演出。登場人物個々の内面に、物語りが浸透していくような舞台になっている。
 ただ、あの川の深淵を感じさせる轟音と川を想起させる舞台装置は必要な気がしたのだけれど。ただ、闇ではなあ。

 やはり舞台では、マルタ役の小島聖と老召使の小林勝也が出色。
驚いたのは、こうも役者の身体性によって、舞台が変わるのかと思ったことで、2年前の舞台でのマルタ役のコトウロレナと老召使の立川三貴では、全く舞台から受ける印象が異なる。マルタは海と太陽を求め、強い思い入れで生き抜こうとする女性に違いはないのだが、小島マルタはその身体性ゆえに母を道ずれに、ひたすら前に進む女性というイメージなのに、コトウマルタはどこかおっかなビックリで、何かに後ろ髪を惹かれるような臆病さを感じた。逆に老召使は母娘の業を一身に背負う(なぜかは判らない)役割なのだけれど、立川召使が彼女らの犯罪を下支えするような強い意志を感じたのに、小林召使はそっと手を貸すような、むしろ傍観するような諦念をもった存在に感じられた。これもやはり、身体性が故なのだと思う

ちなみに、なぜ題名が「誤解」なのだろう。誰か誤解している?ジャンは自らの名前や素性を明かさなかっただけだし、母とマルタは自らの仕事を淡々とこなしただけ。相互理解はなかったけれど、誰にも誤解はしていないよねえ。

燃えひろがる荒野

燃えひろがる荒野

ピープルシアター

シアターX(東京都)

2018/10/03 (水) ~ 2018/10/08 (月)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2018/10/05 (金) 19:00

ついに第2部。他の方もおっしゃっていましたように、場面の転換時に、投影でどこなのか示してくれるアイデアは、ナイスでした。前作以上に、スムーズに進行した感じがしました。2時間そこそことは思えないスケール感は健在でしたし、前面の舞台は前作よりも少し広めに取ったのですかね、領事館に使われるときも、アクションがある時も、ちょうどよい広さになった感じがしました。(単に私の勘違いで同じ広さなのかもしれませんが)

この舞台で面白いのは、セリフで語られる歴史上の人物が、一切登場しないにもかかわらず、彼らの息吹が感じられるような生命観が醸し出されているところでしょうか。満州国に来た溥儀や、五一五事件の犬飼毅、毛沢東や蒋介石が、そこを闊歩しているような世界観が、歴史の躍動感を与え、時代のうねりの中で己自身に徹しようとする敷島四兄弟に生命観を与えている感じがします。彼らを取り巻く時間感覚が、周囲の死生の中で重く、冷徹に刻まれます。特に義母の自殺や、太郎の息子の病死、四郎の特高刑事殺しは、一見素っ気なく、実は1つ1つのアクセントとして、ストーリーに重い軛を打ち込んでいきます。

ただ、こうした連作で問題なのは、前作を観ていないと、どうしても?になること。
その最たるものが、義母の自殺でしょう。二部から観た方には、なぜ、四郎があれほど動揺するのかは、想像だにできないでしょうし、彼女と情を通じていた男が誰かも判らないでしょうから。

来年の三部上演後には、一度通しで上演して欲しいですね。役者の方々には大変かもしれませんが。
この三年間、積み立ててきた財産がいかばかりなものなのか、舞台と観客とでしっかり確かめてみたいと思います。

猪八戒、次回も頑張ってね。

月極セイラ ゴールデン★ベスト

月極セイラ ゴールデン★ベスト

Dr.MaDBOY

スタジオ空洞(東京都)

2018/10/03 (水) ~ 2018/10/08 (月)公演終了

満足度★★★

鑑賞日2018/10/03 (水) 19:30

最初の白黒イラストが入ったコピーのフライヤーが、かなりおどろおどろしくて、観ることを決意。

舞台設定としては、ストレートな密室(この場合は月極セイラの別荘)・外部から遮断された空間(説明はないが、大雨による土砂崩れなどで外部との交流が途絶えた模様)。
ここで、故人月極セイラについて、座談会開かれるために彼女の関係者が集められる。
座談会は、月極セイラのベストアルバム発売を前にした回顧企画であり、いうなれば販売促進企画である。
集まったのは、プロデューサー、マネージャー(女性)、作曲家、作詞家、そしてオブザーバー兼ホスト役であるコアなファン(彼女の支援者?よく立場が判らない)の5名に、座談会を開催した雑誌記者の計6名。

関係者の間で、セイラを巡っていがみ合いが起こり、座談会は不成立に。
その後、別荘は孤立して、1人1人のセイラとの関係が解き明かされていくといった話。
この解き明かされていくプロセスが、この舞台の見どころで、その展開はとても独創的で興味深いものになっている。1人1人の夢とも幻想ともつかないセイラとの交歓シーンは、楽しくもあり、また残酷でもある。

ただ、各人のセイラとの関係性や感情がよく判らない部分がある。
例えば、作曲家とセイラのデビュー前の関係や、マネージャーのセイラへの嫉妬心の根源など。

また、ホラーサスペンス(娯楽作でもあるが)ということを差し引いても、解明されない・観客の想像を喚起させない事象が多いのが残念。
例えば、マネージャーはなぜ電話線を切るような暴挙に出たのか、また彼女がセイラに渡していた喉薬は本物だったのか、失踪した上野記者は生きていたのかなど。
(以降、ネタバレへ)

なお、舞台奥の壁面には、月極セイラのキャンペーンポスターが年代順に並べて貼られているという設定なのだが、それがないのが残念。せっかくベスト盤レコードのケースまで作ったのだから、ポスターが背景に並んでいれば、かなりこの作品の異様さが増幅されて、怪作になったのに。

それと、チェスボクシングの件は、あまりに荒唐無稽すぎてバランスを崩している感じがする。

ネタバレBOX

ちょっと、この物語で起こったことを、自分なりに解釈してみたい。
月極セイラの霊がいた(これが怨霊なのかは問わない)としないと、説明ができないので、一応ホラーとして捉えている。

この物語は、4日間にわたるものだと思われる。
登場人物がセイラと邂逅する時間帯は以下の通り。
1日目:夜・作曲家がセイラと邂逅
2日目:夜・ファンが邂逅
3日目:朝・作詞家が邂逅
   夜・マネージャーが邂逅
4日目:未明・プロデューサーが邂逅
プロデューサー以外は、皆死んでしまうのだけれでも(ただし、彼も自室に戻ってからどうなったか判らないが)、死因は不明。

彼らがセイラに会った時に、リビングからセイラの歌が聞こえてきたことは、他の者たちも証言しているので、音がしたことは間違いないのだろう。実際、音はしたのだ。

まず、座談会後にマネージャーのみが、セイラの霊を見ている。
これは、セイラに対しての悔恨あるいは罪悪感が、彼女にセイラを見させたのではないか。

そして、作曲家、ファン、作詞家、マネージャーの順で、セイラに会うのだけれど、このセイラに会うという現象そのものが、この4人がレコードをかけたということに由来しているように思う。
つまり、各シーンではセイラと会うドラマがあって、セイラの歌謡シーンにつながるのだけれど、セイラと会うシーンそのものがセイラの歌の中で起こっている幻想ではないだろうか。

作曲家は酒で酩酊し、ファンは一日電話線を直すことに疲労困憊し、作詞家は死者の連鎖からセイラとの思い出に浸り、マネージャーはセイラを夢に見て動転し夢遊病者のように、自身の心に深く刻まれた曲を耳にするためにレコードをかけた。(冒頭、ファンがレコードをかけようとすると、各自聞きたくない曲や、聞きたい曲にかなり執着するシーンがある)

さて、ではなぜ彼らは死んだのか?
これは、霊に呼ばれたとしか言いようがないな。セイラは、自分に対して好悪に関わらず強い執着を持ってくれた人々を、呼んでしまっただけなのだと思う。
だから、失踪した上野記者も、関係者はもちろん月極セイラ自身とも接点があったようなので、その因縁次第では、レコードのサンプルを借りてきたのち、自分とセイラを結び付けていた曲を聞いて、セイラに呼ばれたのかも。(彼のデスクにレコードが置かれていたということになっていますが、レコードを聞いてすぐに死ぬというわけでもなさそう)

一方、元彼のプロデューサーは、彼女と会っても(彼はレコードをかけていない。なぜなら、セイラの歌のシーンがないから)、それは回想でしかない(彼は1人でいるわけではなく、後輩記者のインタビュー中に会っている。ただし、この場合、霊はいたわけで、霊と会話しているというのが正解かな)。

そして彼ははっきりと「セイラのことは忘れよう」と言っている。それで、彼女は自分に執着しない彼を認めて、彼に別れを告げて去っていくのである。
セイラの霊が去っていったのは、突如、圏外だった携帯電話が通じることでもわかる。

月極セイラの「ゴールデン★ベスト」は、彼女に執着心を持つ者たちへの踏み絵みたいなものだったのではないかな。それを彼女は確かめに、別荘に戻ってきたと。

セイラ役を5人に割り振った配役は、ダンスや進行も考えると妙案。セイラの多面性も演出できるし。
『ジェイミー・フォスターの通夜』

『ジェイミー・フォスターの通夜』

劇団東演

東演パラータ(東京都)

2018/09/29 (土) ~ 2018/10/07 (日)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2018/10/01 (月) 14:00

座席1階1列

アメリカの演劇というのは、どうしてこうも渇きを覚えさせるのだろうか。
ユージン・オニールしかり、テネシー・ウィリアムズしかり、アーサー・ミラーしかり。
この舞台では、登場人物たちの渇きは、ジンで癒されていく。バーボンであれば、少しは観客にも癒しも与えられたであろうが、ジンには「不道徳な酒」といったイメージが付きまとう。どうも登場人物たちの安寧が、自らを偽ろうとしているかの印象だ。

ジェイミー・フォスターの通夜のために、彼の弟夫婦、彼の元妻の妹弟等が彼の元家、元妻の家に集まってくる。パンフには、人物相関図が書かれているが、それらの人物がどういった人物で、どのような関係性を持っているのかが、この舞台の焦点になっていく。そして一夜明けて、翌日の葬儀に至るまでの物語だ。
彼らは、ジェイミーを中心に繋がれているのだが、彼に対する愛増入り混じった感情・行動が、過去の出来事と共に綴られていく。

ただ、どうも舞台が落ち着かない。やたらとバタバタしているだけで、登場人物の絡みが、会話や行動でも「えっ、どういうこと?」「何が言いたいの?」「今どこに話は進んでいるの?」と常に?付きにしか捉えられない。

それが落ち着くのがブロッカーの登場で、能登剛がこの舞台に重石を置いて、急に進行がスムーズになってくる。ブロッカーの行動原理は、シンプルだ。マーシャルに対する深い愛情と、その表現の術が掴めない苛立ち。
ジェイミーの通夜に訪れた近隣者は、彼1人らしい。(ただ、ジェイミーの若いケーキ職人の恋人はブルーベリーパイを持ってきている)それも、彼への憐憫や哀惜というわけでもなさそうで、マーシャルにしてあげられることはないか、ただその一点のための口実のようだ。そして、、、

さすがに、会葬割のために喪服着てきた人はいなかったですね。
やはり、400円のために喪服引っ張り出しはしないよなあ。また、いつかのためにきれいにしてしまわないといけないし。せいぜい、黒いネクタイや黒いショールなど、くらいにしてくれないと、実効性はないような。

それと気になったのだけれど、酒棚にシーバスリーガルのみずならがったような気がするんだけれど、あれって当時はないでしょう。(見間違い?)





ネタバレBOX

最期、ブロッカーがマーシャルのために歌を唄ってあげ、彼女に安らかな眠りを捧げるシーンは感動的。彼はやっと、彼女に自らの愛を示すことができたのだから。
無名塾 2018「かもめ」

無名塾 2018「かもめ」

無名塾

シアタートラム(東京都)

2018/09/28 (金) ~ 2018/09/30 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2018/09/29 (土) 14:00

「かもめ」は初見なのだけれど、凄いな。
イプセンの「野鴨」に材を得た舞台と聞いていたけれど、さもありなん。
でも、きちんとそれを昇華している。(「野鴨」はそれ自体、「かもめ」を凌駕している部分があるのだけれど。)

と、思わせるのは、やはり無名塾の力量なんだろうな。
正直、初めは、いかにもな新劇セリフが気になって、やや古式ゆかしいかな、という感じがしたのだけれど、次第にそれも気にならなくなり、むしろその確立した形式に身を委ねるような心地よさを覚えた。

ある種の到達形を見せられたかな。

追記:全くもって申し訳なかったのだけれど、電車が人身事故で大幅に遅れて、開演に少し間に   合わなかった。案内の方が、席に誘導してくれたのだけれど(私が悪いことを前提とし    て)、席の位置を把握していなくて、入場後に立ち往生したのはまいったなあ。
   誘導する前にも、係の方同士で意見が違って、こちらも戸惑ったし。
   その辺りのノウハウは共有して欲しい。

次回は、その「野鴨」らしい。絶対観に行こう!!!

幻書奇譚

幻書奇譚

ロデオ★座★ヘヴン

盛岡劇場 タウンホール(岩手県)

2018/10/12 (金) ~ 2018/10/12 (金)公演終了

満足度★★★

鑑賞日2018/09/29 (土) 20:00

演劇というものが、脚本、演出、演技で構成されているとすれば、演技は◎、演出は△、脚本は△という評価。

ネタバレBOX

折角のナノ文書の設定なのだけれど、うまく生かしていないなあという感じ。最古の本が、いわゆるエロ本というところにオチがあるのだと思いますが、その衝撃度がない。
エロ本というオチに何か伏線を絡ませるとか、逆手に取った仕掛けがあるとかないのかな。
ちょっと、ベタ過ぎる感じがします。

役者さんたちは熟練の域というか、とにかくストレートプレイを、新宿眼科画廊という狭い空間の中で、うまく配置ながら、立体的に見せている。セリフ1つ1つが粒だっていて気持ち良い。

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