Posthuman Theatre 4 公演情報 劇団解体社「Posthuman Theatre 4」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    鑑賞日2018/11/04 (日) 19:00

    解体社の公演が、今回はテアトルシネマというポーランドの劇団とのコラボ。
    テアトルシネマは「ポーランド演劇における「タデウシュ・カントール以後」を代表するカンパニー」という惹句に期待して、足を運ぶ。相変わらずの盛況。

    どこからがネタバレがわからないので、以下「ネタバレ」へ

    さて、舞台の解題を楽しみに、トークセッションに入るのだが。
    ズビグニェフ・シュムスキ氏の、演劇の作り方の話(役者の自由な発露をもって、それを観察する段階(第1段階)と、演出家がそれを全体として構成をする段階(第2段階))は面白かったし、演劇が上演されるのは舞台ではなく、教師のいない(細分化し良悪に分ける存在)学校だ、という発言は面白かったし、清水信臣氏の「ニース、7月14日」の「マクベス」的な構造の指摘も面白かった。
    進行の演劇評論家の鴻 英良が「ニース、7月14日」はプレ・カタストロフィーといった指摘は、わが意を得たりという感じで、うれしくも思った。

    しかし、ちょっとグダグダ過ぎない!
    元は、ズビグニェフ・シュムスキ氏の時間配分や打ち合わせ無視が原因なのだろうけれど、同じ話の繰り返しが多く(ズビグニェフ・シュムスキ氏と鴻 英良氏)て、予定を大幅に超えたのもそちらの原因が大きい。

    また、ズビグニェフ・シュムスキ氏の日本武闘の話は、もう少し聞けば、演出の関係が何となく分かりそうな気もしたのだけれど、あそこで話す話ではないやな。
    鴻 英良氏は急にシナリオが崩れた不運や、いきなりのズビグニェフ・シュムスキ氏の振りがあったとはいえ、ポイントを除けば何を言っているのか???「要は」「つまり」を50回は繰り返したのではないか、でも「要」判らなかったけれど)

    清水さんの指摘は興味深かったのだけれど、癖なんですよね口に手を当てるの。(シャイなんだ、きっと)よく聞き取れません。

    終了22時20分は打ち上げで一杯飲むには、疲れもあり遅すぎだったので、今回はパス。
    ちょっと、ポーランド語が行きかう飲み場を乗り切るだけの気力もなかったし。森澤さんの手料理食べたかったけれど、次回期待。

    ネタバレBOX

    解体社「プレヒューマンショウ」
    作・演出の清水信臣氏、言うところの理性以前(プレ)の状態、野蛮な状態にいる人間の判断。これを清水氏は否定も肯定もせず描き尽くす。

    ある男(熊本賢治郎)が宣言する(彼は時折空を飛ぶ鳥のような仕草をし、自らの精神の自由を表象する)「私は450人の障碍者を殺すことができる。それによって、障碍者によって苦しめられている家族や、介護者を開放することができ、彼らの余力は経済の活性化や社会発展に貢献するであろう」それを手紙にして投函する。(誰に?)

    もう1人の男(森澤友一朗)がいる。彼は250人の障碍者を殺戮することを宣言する。の
    彼は真理とは何か、というテーマを体現する存在だ。自立した心理などあるのだろうかと。真理とは信仰に裏打ちされてこそ真理足りえるのであって、もし神なき心理があるとすれば、それを誰が保障するというのだろう、と。そして、彼は障害者の殺戮に対して、自らの法的な責務をも軽減するように訴える。

    前述の男は行動に移し、後述の男は実行に至る前に挫折(死?)に至る。
    行動に移した男は、殺した障碍者たちに向かってこう言う「君たちは私が択んだのだ」。そして、いかに巧妙に実行したのかを誇らしげに語る。そこで、彼は断罪されてしまう(誰に?)なぜ選んだのかを、選ぶべきではなかったことを。
    前述の男が殺した人々の衣類を、妻らしき女が洗濯して干している。
    生きている男は、また自らの前人間的な「野蛮な」行為へ立帰るがごとく、また手紙をしたためる。

    テアトルシネマ「ニース、7月14日」
    2016年ニーストラックテロ事件を題材にしているが、もちろんテロ描写があるわけではない。とはいえ、ピカソの「ゲルニカ」のごとくテロ(ピカソの場合はホロコーストだが)を象徴的に描いたわけでもない。
    暗示的な3人の女が、異様ないで立ち(臀部や胸部に詰め物をしたり、体に様々な布類を巻いたり)で舞台に登場すると、彼女たちは別の女から叱責を浴びせられたり、お互いを攻撃するような言動を繰り返す。(これを清水氏は、「マクベス」の災厄を招く魔女の引用と見るが、演出したズビグニェフ・シュムスキ氏は肯定も否定もしない)そこからは、、、
    丸椅子を使った2人の男のマスゲーム、お互いの心臓部と心臓部を木片で突き合う男達や女達、男女が大きな袋を両手に持って支えったり倒れそうになったり、等々。
    ニースで起こるテロへの胎動、そこに至る国際情勢と言えるし、殺された人々の日常と見える行為が繰り返される。
    ラスト近く、ズボンの片足ずつにに足を入れる2人の男、ジャケットを両袖から起用として悩む女。まさに恐るべき(何の過誤もないと真剣に思い込む)行為、そして何の出口もない懊悩。その後に、殺戮のための包丁は、微妙なバランスで椅子を支える(人が腰掛ける道具を刃物が支えている状態)オブジェが作られ、7月14日は今来るのだろうという暗示を持って舞台は終わる。

    中々、両作品とも鋭いよなあ。というか、短剣を胸に突き付けられたような、切迫した恐怖と不安を感じさせる作品。



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    2018/11/05 12:57

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