三人姉妹
ハツビロコウ
小劇場B1(東京都)
2024/04/02 (火) ~ 2024/04/07 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「ワーニャ伯父さん」に続いてのチェーホフ作品公演。今回は異色であった。というより、ハツビロコウの真骨頂はこれなのか。古典・名作の上演ではテキレジが優れていると感じたのだが、今回の「三人姉妹」は場面の構成、つなぎも含めて大胆な展開であった。特に私にとっては「こんな三人姉妹は初めて」な部分は、チェーホフ作品の厭世観、救いの無さを前面に押し出したようなラスト。軍楽隊の音を聞きながら、不幸と不運にまみれた姉妹らが「それでも生きて行く」意思を確認するような堂々としたラストが、今作では力なく弱々しい、没落し行く人間の等身大の没落ぶりがあった。ただしその事を強調したというよりは、三人力を合わせれば・・と希望がのぞく青春物語のラストを止め、淡々と終わらせる事を選んだようであった。普通ならとうに別れを告げたはずの軍医がまだ居て、最後のニヒリズムな台詞を、長女オーリガの「それが分かったらねえ」の直前に持ってきて、去らせるテキレジである。
私としては、地元の学校長に担ぎ上げられた事でモスクワが夢となった長女、恋する軍人と永遠に別れしょぼくれた夫の元に残された次女、本物の愛の到来を諦め誠実な結婚生活を選んだ矢先に夫が殺された三女。等しく不遇に置かれた事で三人が漸く手を取り合う場面でもあり、劇的なラストをやはり期待してしまう。だが、今舞台はそれを敢えて回避した。
要は、「変えた」所がはっきり見えてしまった。そこがこれまでの古典の舞台化と異なる点(といってもどの程度知っているかで「分かる」かどうかも決まる訳であるが..)。ラストの手前までは出はけを壁際の椅子で処理したのも含めて華麗な捌き方を味わって観ていた。私的には「危うい」挑戦であったが、ハツビロコウの志向がもたらした必然であれば、ただ前進して頂き、私としてはそれを見守る他はない。
La Mère 母
東京芸術劇場
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2024/04/05 (金) ~ 2024/04/29 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「父」をやった頃は公演情報にも触れなかった(多分現代翻訳劇にさほど食指が動かなかった)が、「息子」は観たくなって岡本父子共演を観た。息子が亡くなったという事実に直面できない父が最終的に死と向き合う話だったか、逆だったか・・実際には分かり合えなかった息子と「出会い直そうとする」父の姿があったと朧げに記憶する。
生活問題・金銭問題を捨象した近代的な室内で、家族の「関係性」のみを描写対象としたドラマであった点に、当時私は限定的な評価をしたように思い出しているが、観劇日はそんな事は一切忘れ、今回のゼレールの家族シリーズ第三作という事と、目玉である俳優・若村麻由美ともう一人いた(舞台上で伊勢佳世だったと確認)を観に行った。
若村氏の役者力炸裂であった。遅く戻った夫を迎える彼女が、認知の障害が危ぶまれるかと思うような応答をする。夫を翻弄するために敢えて演じている(身体をコントロールしている)のではなく、コミュニケーション意欲満々でいながら「そうなってしまう」内的必然性が「ある」と感知させる演技の流れがあり、圧倒され始めるのだが、その序盤はそれを受ける側の夫の当惑を想像して笑ってしまいそうになる。
そこで例によっての話だが、隣に地声の大きな、笑いが声に出る(しかも1テンポ遅れて次の台詞にかぶせて来る)男性がいて、「まじか・・」と自分の不運を嘆きそうになったが、何度目かの笑いのタイミングでため息と同時に姿勢をぐいっと変えるアピールした後は、どうやら自制をして下さった。さすがに入場料の額が札ビラの画像と共に頭をよぎったが・・助かった。
演技モードと照明と、若干の台詞の変化のある同じ場面が、不規則にリプレイされる構成が意味深で、今は何の場面なのか、訝りつつも場面の(日常性豊かな場面でさえ)張り詰めた空気に目が釘付けになっている。現実の場面なのか、彼女の想像なのか、実際の場面の回想(再現)なのか、彼女の記憶の再現なのか、あるいは上書きされた記憶なのか・・。
さほど違いのない(若干のニュアンスの違いはある・・淡泊だったり明るかったり)シーンの繰り返しは、彼女の認知と記憶は正確だが主観が反映されてる、という事が示されてるのか、法則性のある展開のされ方でないから、観る者にとっての拠り所もない。認知症患者の心情を想像した事があるが、自分の認知と記憶がブレている事それ自体に、彼らは不安を覚えている。パーになった訳ではないのだ。それゆえ、とも言えるが感情が増幅したり、逆に無気力(諦め)になったりする。
話は子供が自分の手を離れた寂しさから、不安定になった母の内面のループ化した変化の軌跡のようでもあり、現実での変化のようでもある。
後半になるとエッジの鋭い場面が訪れる。人生の目的を見失った母は、あろう事か息子の彼女をあからさまに敵視し、排斥して息子を自分の物に(まるで恋人のように)しようとするが、これに対しその恋人はあっさりと明るく「自分たちは若くて先が長い。貴方は残り少ない」と母に死刑宣告をする。また明らかに母の妄想だろう、夫とその愛人が妻の前で平気でジャレつつ出発していく場面。すなわち同じ場面の中で両者の認知がズレを起こしている。
だが認知の混沌は、主体が湛える感情の真実性を壊すものではない・・人は理解の壁に対面した苦しみを超えるため、そう信じようとする。感情は嘘がつけず、人はそこに真実の効能でもある信頼と安堵を見出す。
母は自身の人生への嘆きを、心を委ねる者の腕の中で、心を込めて嘆く。その姿を残像に最終暗転、芝居は終わる。
前公演と同様、本作も仏の演出家と装置家により作られた。発語のニュアンスの違いを、場面の変化に反映させ、構築する作業が、異言語によって進められた事に素朴に感心する。作為のない瞬間が一瞬もない精緻に作られた芝居。
TIME
(株)パルコ、朝日新聞社、集英社-T JAPAN
新国立劇場 中劇場(東京都)
2024/03/28 (木) ~ 2024/04/14 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
我が音楽脳に小さからぬ刻印を残した存在である故、「最後」ならば観て置こうとこれも迷わずチケット購入した。(見れば割安チケットであったらしい。)Corichに書き込むとは思わなかったが折角なので。
とは言えこの度も、普段の観劇同様チラシの雰囲気に惹かれた。モノクロの静謐に褐色系が微かな熱(情)といった色彩感は先日観た「船を待つ」の大阪バージョンの照明、東京バージョンの音が融合した感じ。過去の二人のワークを精査する事なく漠然と期待を抱えて新国立中劇場の一階席に座った。(実は一階席は初めて)
とても簡単な物語
Ova9
シアターX(東京都)
2024/04/03 (水) ~ 2024/04/08 (月)公演終了
実演鑑賞
Ova9初観劇。ベテラン新劇女優を軸に好きな作品好きな舞台をやってるユニットといった前評判で、演目はほぼノーチェックだったが、予期せず良品発見となった。作者はウクライナ出身の劇作家で、恐らくはソ連解体は今は昔の世代、しかし島国人の鼻はロシア文化圏の薫りを嗅ぐ。と言ってもロシア、ソ連は演劇大国であり一つの特色で語れないのだろうけれど。第一ソ連時代にはそれがウクライナのものかカザフスタンのものか、アゼルバイジャンのものか等気にもせずにいた。ウクライナが旧ソ連邦のなかでも農業も工業も盛んな地域であった事(それゆえ洗練された文化もあったろう)を知ったのも、ウ露戦争以降のこと。またついでにソ連に対する定評であった所の役人の腐敗に関してはウクライナがその筆頭だったらしいとも耳に入って来たが。
この作品の特徴は、農村のとある農家が舞台である事。さらに家畜(馬、羊、豚、鶏、犬...いや羊はいなかったか記憶が既に朧ろ)が、ごりゆかあさい人間たちをその脳ミソの大きさんなはかむしなりに観察している。つまりは、小賢しい台詞を喋る訳には行かない。台詞を構成する言語は平易で素朴で、難しい修辞は吐けない。
どの地域かに関わらず優れた作品はその事だけで称賛さるべきであり、と同時に作品を通して(とりわけ地域性を帯びた作品を通して)民族と国柄を知る。またそれを通してさらに人間を知る。
そんな作品の一つに出会った今回の舞台。後日追記(予定)。
ギラギラの月
プレオム劇
ザ・スズナリ(東京都)
2024/04/03 (水) ~ 2024/04/07 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
中島淳彦作品と言えば随分昔、春風亭昇太らが出たバンド演奏付きステージを観ただけ(探せばもう一作位あるかも)という程度。今回スズナリでやるというので勇んで出かけて行ったのだが、大当たり。大泉サロンという、女性漫画家版トキワ荘と称される場所(トキワ荘は1950年代、こちらは1970年代前半)を舞台に、当時起きた三億円事件を絡めて漫画家に憧れ目指す女性たちの群像を描く。役名から思い当たったのは萩野素子(萩尾望都)、大山弓枝(大島弓子)、山西恭子(山岸涼子)くらい。中心的存在らしい人物(役名竹本ケイ)は一体誰かと後で調べてみると、竹宮惠子という著名な少女漫画家という。史実的には竹宮と萩尾が同居したのが始まりで、実家の離れを家屋として提供した増山法恵(役名増田典子。同じく漫画家を目指していたが彼女らの才能を見て世話役、助言者に回り、やがてプロデューサーとなる)の三名が中心だったよう。
既に時代遅れと煙たがられていた貸本漫画家と何故か意気投合しておどろおどろしい漫画を描く事になる山西(山岸)は居住者ではなく、実際はサロンに遊びに来ていた人。大山(大島)もガッツリ居住者のメンバーの役だが史実的には接点は無さそうだ。漫画家を夢見て上京して来た若々しい女の子の到着の日が芝居のオープニングとなる。この女子・坂口も恐らくサロンに出入りしていた一人(wiliにも列挙されている。地方の同人誌をやっていた坂田)と思われるが、具体的エピソードを模したものかは不明。他には、マイナー雑誌の編集者の岡島は不明、大手出版社で少女誌の新刊担当として来訪し手厳しく評する編集者・山本は実在したらしい(こちらは男性の山本順也)。残る一人が嵐の夜に逃げ込むようにサロンにやって来た謎の「手塚治子」は三億円事件の犯人?ではなく彼氏が主導する学生運動のマドンナ的存在にまつり上げられ警察から逃れてきた。本名笹塚奈々が名を借りたらしい漫画家はあるが(笹尾那美)エピソードの由来は不詳。だが大まかな背景を眺めた上で作品を想起しても、身勝手なフィクション化には感じられず史実へのリスペクトと漫画家を目指した者たちへの愛情が満ちている。後に竹宮と萩尾は距離を取る事となり、相互に精神的なダメージを負う事になったと「史実」には書かれているが、舞台は青春群像劇として完結し、魅力的な役者の存在感により味わい深い時間であった。
掟
TRASHMASTERS
駅前劇場(東京都)
2024/02/15 (木) ~ 2024/02/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
TRASHのここ数回は配信で観ているが、台詞を明快に発する台詞劇で殆ど不足を感じる事がない。
で、今作だが、中津留氏の時として「え、ここでこの台詞?」と人物描写的に厳しい場面のある(それでも力技で捻じ伏せる)作劇が、影をひそめ、地方政治の因習?を抉り出す秀作だった。強いて言えば主役である新市長が反感を買う初動として議会でいびきをかいて寝ている議員がいた、とSNS上でつぶやく、それを受けて議会と協議した会合を「その後の経緯」としてSNS上に挙げた際「恫喝を感じた」とした。これらは場面として描かれ観客はその心証を持っており、「恫喝には見えなかったな。この市長大丈夫か」との印象を持つ。
後のこの市長の態度を「敢えて、挑発している」「議論を喚起しているのだろう」との推測を第三者にさせ、整合を付けているが、最初はポッと出の首長にやらせてみたらマズかったケースを描こうとしているのか、と訝った。
だが通常描かれない地方政治の実態に斬り込むドラマとして成立した。私は現在の日本社会の停滞の本質的な病根がそこにもある、と感じており、溜飲を下げたものの、多くの観客に届いただろうか、という些かの不安も。(つい先ほどJACROWに期待するテーマに地方政治を挙げたばかりだが、中津留氏の題材のチョイスは毎回さすがと感じる。)
特徴的な人物(当選回数の多い議員)を演じてるのは最初よく見えなかったが山本龍二。キャスティングも良かった。
正夢
星歌オムニバスひとりしばい公演
北池袋 新生館シアター(東京都)
2024/03/28 (木) ~ 2024/03/31 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
頑張っていた。
・・というコメントは一番無粋な類だとは思うが、見たそのままの感想が出た。五名の劇作家のラインナップは目を惹くが、書き下ろしとなると贅沢な反面「出来」も気にかかる。もう一つ別の舞台と散々迷ってこちらを観た。どっちが良かったとは判定できないが、結果的に良かった。北池袋駅周辺の長閑な地区に降り立ってすぐの新生館という空間も駅も初めての場所で、昼下がりに池袋駅方面へ歩く道行きも新鮮で久々に旅気分込みの観劇であった。
演目の方はそれぞれの劇作家らしさのある作品、10〜15分程度の、と当初書いたらしい宣伝文句の中にあったが、前説で115分と案内される(とすると一作15〜20分の勘定)。テーマ設定がない分、この星歌なる若輩のパフォーマーにインスパイアされて書いたと思しい作品が多い。手作り感のある劇場には星を誂えた美術が、最後の演目(柴幸男)に寄せたのかとも思ったが、「星歌」に寄せたのだな。ムシラセ・保坂萌の作はゾンビがいるディストピアな未来に、一人でやってるラジオ放送を聴きながら「読まれる」はがきを書こうと頭を捻る少女の話、笑いを好む作者らしい内容。続くMCR櫻井智也は先頃別れた彼氏の悪態をつきつつ想念から離れない二律背反に悶える女性の話、オノマリコの作品が最もスケール感とスピード感があったのは意外だった。続く鈴江敏郎は友達から聞いて作った物神との対話(自己問答)、柴幸男のは宇宙を旅する者の語り。「他者」が出て来ないほぼ独白は詩の朗読の域で、ラスト2つ抽象的舞台が続いて体力もそろそろで眠気が襲ってしまった。見て判りやすいものが三つ続いた後でもあり、順番的にどうだったかな、と。体力さえあれば終盤に抽象度の高い世界に入るのも悪くはないが・・。
しかし全体として中々なレベルであった。
花田少年史
人形劇団ひとみ座
川崎市アートセンター アルテリオ小劇場(神奈川県)
2024/03/26 (火) ~ 2024/03/31 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ひとみ座を見始めたきっかけが同じ劇場で観た70周年記念と力の入った「どろろ」。今回も劇団総出の力の入った公演、観るしかないと足を運んだ。
終演後、自分には意外だったのが今回が75周年だった事。つまりひとみ座観劇歴史は5年。えーもっと前かと思った。。やはりコロナ禍が時間感覚にかなり影響している。
作品は所謂「人形劇=子ども対象」の範疇。そこが「どろろ」と大きく違う。題材がこれなのでそうなるかという所ではあるご。。
面白い演出ではあった。いや存分に趣向を凝らしこのコミックのドラマ世界を具現していた。ただ、ドラマの強度が気になった。同じ筋書きで別の色合いは出せた、かも知れないが、脚本かな・・。
冒頭とラストでロック調のテーマソングが
生演奏で披露されるが、この曲は悪くないが、ラストではオープニングにはなかった歌詞、あるいはCメロが欲しかった。カーテンコールで同じ曲のサビ〜ラストを一クサリやったのもお腹一杯であった。音楽監修が入ったらそこは意識してアレンジを施したのではないか、と想像をしてしまう。終わり良ければ、なのである。
アンドーラ
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2024/03/11 (月) ~ 2024/03/26 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
隣国「黒い国」と緊張関係を持つ架空の国アンドーラを舞台とし、ユダヤ人差別を軸に展開する不思議な味わいのドラマだった。文学座のアトリエ公演は濃い。秀逸。
文学座の勢いある女性演出陣の若手の一人とされる西本由香の演出舞台は初めてであった。その視点で反芻していなかったが、アトリエ公演らしい実験精神も見られた。架空の世界を描く際には、確かに、その世界を統べる法則や人々のふるまい方、習慣が戯曲に即して特徴的に描かれたい。
ただこの作品では「ユダヤ」という固有名詞は現在用いられるそれそのものとして使われ、迫害の熾烈な隣国の好戦的ファシズムの脅威にさらされた国、を舞台に、平和主義を貫いているとは言いつつそこここに欺瞞が満ち、ユダヤ差別も屈折した形で存在する哀れな弱小国の現実が浮かび上がる。この作品のメタファーがどこへ向かっているのか、どの現実を特に意識して書かれたものなのか、知りたく思うが舞台のみでは思い至らなかった。
天の秤
風雷紡
小劇場 楽園(東京都)
2024/03/29 (金) ~ 2024/03/31 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
久々の風雷紡観劇。再演だったとの事。好評ゆえとすれば納得である。冒頭でよど号ハイジャック事件が題材と分かる。透明プラスティックの椅子二台を動かすだけの転換で、場面を淡々と構成。「楽園」の狭い舞台で感情が爆発するとダイレクトに波動を受ける。ハイジャック犯一人の他は、機長、副操縦士、CAのキャップと部下二名、行政官(大臣と政務次官)、キャップの先輩も行政サイドに居る、という人物構成で、事件解決に向かう人物たちの群像だ。乗客がゼロ、ハイジャック犯が一人(ここはやや気になったが)でも、この歴史的事件をうまく現代に浮かび上がらせ、観客に強い関心を持って事件を見据える事を促している。各場面が事態の進行と共に人間模様の簡潔な描写を兼ねて面白い。後半の展開のテンポも良い(程よく間を省いている)。
かもめ
Ito・M・Studio
Ito・M・Studio(東京都)
2024/03/26 (火) ~ 2024/03/31 (日)公演終了
実演鑑賞
愉しい観劇であった。俳優諸氏が提示するキャラが芳醇で堂に入っていて(過去観た「かもめ」だって役者は堂に入っていたはずなのだが)、本物だな、と思わせるものがある。翻訳劇である「かもめ」が持ち得る世界観の研ぎ澄ました一つがここにある、と思った。発する言語の意味ニュアンスは的確で切れ味よいが、役人物の性格、心理といった側面からのアプローチで果してこういう仕上がりになるだろうか・・?(研究所の設立者である故・伊藤氏は大変厳しいであったと聞いた事があるが、娘に受け継がれたそのメソッドを聞いてみたいものだ。)
劇空間の快楽。救いのない苦い物語を観客に飲ませる甘味さがある。
あとのさくら
ここ風
「劇」小劇場(東京都)
2024/03/13 (水) ~ 2024/03/17 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
二度目のここ風。それでも「らしい」芝居だ、と思えるのは、前回観た記憶に引っかかる特徴と、符合する所があるからだろう。関西弁ががっつり登場するのは一つの特徴になる。人情物である事、家族の泣かせる話がある事、など。「確かあれだったっけ」と記憶と資料のページをめくるとタイトルは「チョビ」、幽霊だった、に帰着する「よくある」人情劇(涙の誘発の仕方も古典的)だが構造に工夫があってドライさが勝っていて、後味が良かった。
今回、途中が抜けた(例によって入眠によって)。台本を後で読み返すと、やはり抜けていた。やはり観た感じより、読めば完成度がある。
今回は幽霊でなく、回想が挟まれる構造の劇。三代前が開業して今は休業中だった山村の旅館を再開する前、特別価格のプレ営業に訪れた客四組(五名)と旅館サイドの人間(四名)による、旅館家族の秘密が明かして行く物語。
パズルのピースをはめ込むような脳内作業は大変で、眠気に勝てなくなった。
三代前の回想シーンがあり、二代目たちは不登場。台詞で語られる証言で事実を構成する。
the sun
カンパニーデラシネラ
シアタートラム(東京都)
2024/03/22 (金) ~ 2024/03/24 (日)公演終了
実演鑑賞
いつもの、と枕が付くデラシネラ舞台。
この日は劇場をハシゴしての観劇日となり、この前に眠い身体も叩き起こすパワフル舞台を観た直後。後部席から「さあ存分に寝てくれ」と言わんばかりの抑えめの照明では、抗いようもなくほぼ全編寝落ち。耳をつん裂く三味線の音だけが覚醒の足掛かり。
凡そどんな動きをしていたかの断片が網膜に映るのみ、「the sun」のモチーフをその中に見出す高度な情報処理は無理であった。
その動きとアンサンブルはデラシネラのもので、私が初めて観た頃はこの動きの連鎖の美そのものを味わっていたが、ある何かを抽象化した表現として鑑賞する時、この比喩性は些か難解だ。
今作では手話を繰り出す踊り手がいて、聾者とのアンサンブルという難易度の高い身体表現を密度高く仕上げていて、その模様もつぶさに観察したかったが...終演の拍手で目を覚した。残念であった。
三味線奏者は歌も歌い、和風の謡いのみならず(三味線の伴奏に乗せた)洋楽をオペラ風の発声で歌うなど何気に際物をやっていた。
新ハムレット
早坂彩 トレモロ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2024/03/22 (金) ~ 2024/03/31 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
演出の勝ったステージ、という意味では予想の範囲であった。戯曲に対し「揺さぶり」の要素は配役、と言えるか。濃茶に塗った木製の床几、椅子、梯子等を組み合わせ、絡ませた杉山至氏のオブジェ風装置を中央に、劇展開させる。見終えて一等最初に素朴に思った事は、太宰治の「新ハムレット」を知った上で観るのが良いかも、という事だ。(ネットの青空文庫に上っている。)
この作品が、原作ハムレットをどの程度、どんな角度で翻案した作品なのか(またはタイトルを借りた全く違う代物か)を知らずに観ると、途中までは沙翁の「ハムレット」とどう違うのかが分からない。細かな台詞回しはともかく、叔父クローディアスの反応を見て疑惑から確信に至る寸劇をやるのが旅芸人でなくポローニアスら友人だったり、、オフィーリアでなく母が溺れ死んだり、最後の「死」の順序が違う(ここで母が池に身を投げる)等とあるが、もしこれらを広い意味で「演出」の範疇だと説明されたとしても、意図(作り手の欲求)が想像されれば、チケット代返せとまで怒る観客はいないだろう。
ただ、「なぜそう変えたのか」。それは「新ハムレット」を上演する事のエクスキューズでもあるが、そこから演劇の「謎」は始まっており「謎解き」が要請されているとすれば、その問題の深掘りは私の目には見出せず、太宰作の認知された一作品を「かく料理した」にとどまった。
小説「新ハムレット」の序文的な文章で太宰治が「この作品は」と解説を施しており、戯曲の形式を取った一つの小説と思ってほしい、という趣旨を述べている。舞台ではこの部分を「男」が本を片手に読み、やがて本編へと誘うのだが、男が読む間オブジェを覆うシートの中で俳優らが蠢き、「待てない」のか、装置からはみ出して来る、という演出があって、最後は彼らがコート、帽子、靴等を持って来て文豪の衣裳を男にまとわせ、拍手で褒めちぎって体よく退場させた(体よく、というニュアンスをもっと感じたかったが)後は、男は登場しない。
テキストに忠実に、とは演出の一つの有り方ではあるが、地の文で書かれたこの序文の箇所は、演出がむしろ「このたび、なぜ『新ハムレット』か」を(はったりでも良いので)押し出す部分ではなかったか、と素朴に思った。
(芸術作品全てが、あるいは芸術を扱う・語る場合にも、「今なぜ」は常に潜在的に問われる問いだと思っている。「演劇は謎かけの謎解き」理論からすると、上演を決めた時点で謎かけがある。天賦人権論と相容れぬ狭量なこだわりかも知れぬが。。)
船を待つ
ミクニヤナイハラプロジェクト
吉祥寺シアター(東京都)
2024/03/23 (土) ~ 2024/03/31 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
台詞のある矢内原美邦舞台=ミクニヤナイハラプロジェクトであるが、その特徴でもあった喧噪は影を潜め、登場人物は三人、矢内原女史の舞踊主体の創作ユニットnibrollの音響と照明メンバーがこちらに参入し、芝居と空間演出の贅沢なステージが出来た。大阪公演キャストと二組の上演がある。
大阪公演キャストのバージョンも観た。俳優陣に佐々木ヤス子の名があった事もあるが、映像・照明、音のワークによる「快楽」をもう一度とリピートしたのだったが、大阪バージョンでは映像、音がなかった(フラットになった会場片隅のオペ・ブースは暗く空席であった...)。
途中でそれに気づいて落胆したが、素手で戦う大阪キャストの格闘家振りを見ている内にこれはこれで完結した演出の形と見えても来た。
テキストも東京キャストバージョンに比べて短い。(なおこの日は序盤に言及されるはずのくだりが飛んだと思しく、予定は90分だった所80分程で終わっていた。それが作品性を損ねていた訳ではなかったが。)
モノクロとセピアの二種で構成する絵画のような照明の中で、「人間」が突出している。東京版は異国からの移住者役とその従者的な存在が女性、そこに登場する男、という構図だったのが、従者に当たる存在が男で東京版では「ヘイ!ゴドー」と話し相手をさせられるAIに見えていたが、こちらは同道する者(用心棒的な?)で機械っぽさは出していない。後で現われる男は東京版は十代に屈折した経験を経て何とか逞しく大人になった風で苦労人の様相だったが、こちらは色白で生ッちょろさを感じさせる若い経験浅の風貌。紅一点だ。
東京版はテキストを「足した」のか大阪版は催し用に圧縮したのか・・先日東京版では後半主人公が兄を自死で亡くしたその男に捧げると言って(それまで反目して激しく公論していたのが)詩を読むと言って語り始めるのだが、大阪版はその詩が大変短かった。
東京版で流れた観客を未来へ、あるいは時空を超えた想念の世界に誘う音楽を大阪版ではカセットデッキを持ち込んだ男がプレイを押してノイズだらけの音で流す、という演出、モノクロに時折橙が混じる照明(太陽に言及する際に照らされる)と相似に、無音の中のワンポイント流される音は鮮烈に印象付けられる。
大阪バージョンはミクニヤナイハラプロジェクトの空気感が残る(無音である事と、俳優の台詞が基本激しく強い)。
自慢の親父
工藤俊作プロデュース プロジェクトKUTO-10
シアター711(東京都)
2024/03/20 (水) ~ 2024/03/24 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
やっぱオモロイなァ。オイスターズ平塚氏の世界が炸裂である。ふとした不安から不条理を極めた態度を見せる存在が、一人に加えて、二人目が出てきて関係者一同カオス化したのち、二人目の不条理が一人目の不条理への「返し」と思しく見え始め、ようやく「さて次の日=を待つのみ」と落ち着いた夜が明け。実は前夜に二人目が「おや?」と引っ掛かる台詞の伏線通り、卓袱台返しをして平然としてるのに唖然、も束の間、新たな不条理言動の登場でカオスだ〜というオチであった。構成はシンプルだが笑いどころ多々あり、余は満足であった。
イノセント・ピープル
CoRich舞台芸術!プロデュース
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2024/03/16 (土) ~ 2024/03/24 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
納得の舞台。
スマホで書いては消え、が続いたので嫌気がさして打っちゃっていたが、気を取り直して何がしか書いてみる。
キャスティングに感心しつつ観た。名を知るのは川田希、森下亮、山口馬木也、阿岐之将一、水野小論、保坂エマ(顔がちゃんと判るのは最初の二三名だけ)という案配で、後方席だった事もあって役者の照合を断念(上の二三名以外)したら、役の人物による物語だけを浴びる感覚になった。
畑澤聖悟による脚本は、原爆開発を行なった米国南端のロスアラモスの研究所が舞台。
冒頭はある記念式典のため久々にかつての研究仲間たちが当地に集まり、旧交を温める場面。
主人公となるホストファミリーの夫婦は共に当時の研究者であり、進路を探る年齢の子ども二人(兄妹)もいる。家族まじえた交流の時間、戦争当時を回顧し、現在の情勢への思いを語り合う中、息子が合格通知をもらった優秀な大学を蹴って、海兵隊に志願したいと宣言した事がドラマの起点となる。ベトナム戦争が始まり、大統領の呼びかけに答え、若者は応召して行った。
時は移り、今度は娘が自分の交際相手を両親に紹介しに戻って来る。相手は日本人、しかも幼少時に被爆した広島の若者。反核キャンペーンの米国派遣団に選ばれ、渡米していた。娘は親が研究者であった事から核兵器に対する問題関心が芽生えていたのであり、必然的な出会いであったが、親は顔を曇らせる。娘はなぜ祝福できないのかと問い、その理不尽な思いから親の研究を難じる言葉を投げつけるに至り、絶縁状態となる。
この時既に、息子はベトナム戦争で負傷兵として帰還し、車椅子姿である。
他の元研究仲間には、罪意識を抱えて研究所を去り、一介の高校教師となって教え子と結ばれた者、郷土愛と愛国心に溢れ軍人の道を歩んだ者、二人を両極として、主役に当たるホストファミリーの家長と、あと二人がある(二人の人物的特徴は忘れた。一人は結婚し、一人は独身)。
軍人のグレッグは冒頭のパーティに連れていた恋人と結ばれ、一粒種が育っていたが、息子も親の思いを受け止め、海兵隊になると言う。グレッグは誇らしげだ。
戦争当時の回想も挟まれる。轟音と火柱を遠くに眺めた彼らが「これで(対日)戦争に勝てる!」と沸き立つ中、後に高校教師になるマッケランは「あれを町の上に、落とすのか」と愕然とする。
ブライアンとジェシカが良い仲となり、会話を交わしている所へ、実験成功についての感想を聞きたく意気揚々と仲間がやって来る・・。回想場面はあくまでも明るい。
時が経ち、老境にある彼らは既にイラク戦争後の世界にいる。マッケランは既に自殺によって亡くなっている。元教え子は夫人となっていたが、死ぬ前まで苦しんでいた夫の事を述懐する。
グレッグの息子は出征したが、戦闘によってでなく、肺癌で死んだ。米軍が用いた劣化ウラン弾により被曝した兵士の多くが肺の病で亡くなったが、グレッグは味方がいるのにこんな兵器を使うとは軍人として信じがたいと憤り嘆く。だが核兵器使用を正義と主張し続けた男の言葉は、弱った男の周囲を虚しく巡る。
最終場面、日本からブライアンの娘の夫が訪ねて来る。既に妻のジェシカは亡くなっている。だが、息子は彼のヘルパーをするベロニカへの前場面での反発を乗り越え、彼女の愛を(即ち、己の運命を宿命として)受け入れている。
前の場面ではネイティブ・アメリカン出身であるベロニカが、居住地にあったウラン鉱の採掘に親族らが駆り出され、病に亡くなった体験を語り、右翼的発言を止めないグレッグを黙らせるシーンがある。
ブライアンは婿であるタカハシから、シェリルが亡くなった報告を受け、最後の機会だと家族「三人」で広島を訪れる。
シェリルが彼を親に紹介した時は白い仮面を彼はつけており、言葉は発しなかったが、この場面では仮面を取る。英語で台詞を発している表象でもあろうが、父と対面し目を合せて会話をしている風景として映じる。父は娘のことについて彼の言葉を通して聞くしかないのである。
広島でブライアンは娘を弔った後、タカハシから紹介された娘の友人たちと対面する。彼らの言葉をタカハシが「●●はこう言っています」と取り次ぎ、父は娘の生きた足跡をこれを聴きながら噛み締めている。
(タカハシ以外の日本人は皆やはり白い仮面を被っているが、以前観た青年座研究所での公演でも確かそうであったから戯曲の指定かと思う。と書いたその後、この戯曲が収録された畑澤聖悟戯曲集がこの4月に出版されていたのでご関心の向きは確認されたし。)
そのやり取りの最後、ブライアンが携わった原爆開発の成果により、「何万人もの無辜の日本人」が亡くなった事についてどう思うかを問われる。そして「謝罪の言葉はありませんか」と、彼らが考え続け願い続けた事の一つの証しを、ブライアンから引き出そうとする。直截で痛い言葉が、会場に響きわたる。
元よりこの質問は無辜の立場から、悪を為した側への一方的なそれとしては成立しない憾みがある。
日本は民主主義ではなかったとは言えこぞってこの戦争にもろ手で賛同し熱狂した。遅れて来た植民地主義時代の文明国としての戦争の勝利に酔った。「無辜」ではなく罪多き戦争を遂行した側でもある。
従って「戦争を止めるため」が正論として成立してしまう。ただし謀略を巡らし覇権を堅持するため手段を択ばぬ弱肉強食の帝国主義的あり方を脱し、別のステージを選んだのなら、その立場からアメリカに問いを発する事ができる。
一方ブライアンは一研究者として、科学的真理を追究する営為に、善悪はない・・一貫してこの立場を譲らず、是非を語る事がなかった。しかし娘の生き方はあたかも親の罪を償うために捧げられたかのようで、ついに彼はその前に伏して詫びる。果して何が解決したのか、一抹の疑問が過ぎるような空気(ここはかなり主観的な受け止め方だろう)。その流れで、現われた孫娘と対面し、その頬へ手を伸ばそうとする手前、プツッとテープが切れる音と共に照明のカットアウト。終演であった。
このラストの解釈と感想は様々あるだろう。
日澤氏と畑澤氏との対談に「脚本に喧嘩を売る」的なくだりがあったとどこかで読んだが、この処理について言ったものだろうか。
山口氏演じるブライアンは、前半は快活だ。研究者として成功し、愛する妻との間に子を設け、長男が有名大学に合格した、という一場。それが時を経るごとに寡黙になる。大学進学をやめて海兵隊を志願した息子が、負傷して帰還し車椅子に。親の原爆開発を指弾した娘を勘当同然にし、やがてジェシカを失い、息子が一人の女性と結ばれるのを見ながら、隠居後の生活を送る・・。最後に彼が何を思うのか、日本の地で謝罪を乞われて何を言うのか。作者はドラマの終着地にこれを持って来る。ここまでで既に脚本の勝利と言える。ブライアンがどうふるまうにしても、成立する。
平均的な「父親」であった彼は最終的には、国家が行なった非人道的行為の責任について考える事より、家族へ心を傾ける事を最も大事にした、そのようにして己の人生を整理するという、平凡な市民の姿を見せた。
栄えある研究を共にしたジェシカとの青春時代の「実」として子どもたちがある以上、研究を否定する事は許されなかった。
だがジェシカを失い、彼女との人生の証でもある娘シェリルを認めない態度に固執する事もやはり彼にはできなかった、そのようにも見える。
私は彼が「謝罪した」と記憶していた。が、実際には彼が答える前に、同行したロゼッタが自分の村で発見されたウラン採掘のため親族は死んだが、そのお陰で日本人が亡くなった事を申し訳なく思う、と彼女はそう言ったのだった。
以下は「謝罪した」前提で書いた箇所なので、そこを削除し、また書き改める事とする(律儀である)。
日本の歴史認識を巡る現状を踏まえて、これに触れるドラマを作る時、とりわけ原爆投下を扱う場合、何を強調するかは難しい問題。「未だ解消していない」問題は、「問題提起」を結末にできる。原爆投下の「罪」、そこに至る道を自ら開いた日本の大陸進出の「罪」、当時世界を席巻していた帝国主義・植民地主義の「罪」、その原動力として経済構造を塗り替えた資本主義、その淵源としての産業革命、果てはルネサンスに至るまで、罪の告発は議論の霧散を準備する。
だから演劇は人を描く。生きる姿を刻印する。
田園に死す
流山児★事務所
ザ・スズナリ(東京都)
2024/03/14 (木) ~ 2024/03/24 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
天野天街脚色・演出での本作舞台版は、初演が2009年。その後2012年、2014年と再演し、以来10年振りの今回ぎ4回目。出演陣(20人超え)は初演より幾許かの入れ替わりがあるも下地は変わらず、その事に後で驚いた。
自分は2014年版を同じスズナリのやや後方席で(映像記憶に依れば)観ており、今回はほぼかぶりつきなので(アングラ劇は前が良い)受け取る熱量が違うとは言え、配役に無理を感じないのみならずボルテージも前回より高かった(さとうこうじ、蒲公仁、伊藤弘子、小川厚雄、沖田乱、、)。演出にも恐らく細かな変化があり、「芸術監督」流山児祥のクレジットが加わった部分かと推測。芝居に茶々入れつつ介入する流山児氏の出番が多いのだが、つくづく「変わらないなー」と苦笑を誘う立ち姿には「出直して来い」と演技ダメ出しで成立させていた。
昨年久々に観た天野天街演出舞台が「天街技」を封印したものだったので、今回は存分に堪能した格好である。
変わらぬ夕沈ワールドのムーブ場面は二度出現。ラストの群舞の高まりの動力は、音楽にある。担当が万有引力J・A・シーザーとは思い至らず、諏訪創又は誰かと思っていたので後で名前を見て納得。慕情に彩られる場面、その一つの感情の色を一定の時間の間に徐々に昂らせていく力に、やられていた。
再演を重ねて来たこの演目を再び拝む日が来るのかどうか。。あと十年後の自分がこうして芝居を観ているのかどうかも分からないが、このえも言われぬ時間を愛でる人たちがまだ居てくれるといいな。
カタブイ、1995
名取事務所
小劇場B1(東京都)
2024/03/15 (金) ~ 2024/03/18 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
「1972」から「1995」と一世代下った時代の沖縄、さとうきび畑農家を舞台に、装置も(劇場も)同じ形をなぞっていたが、同じ家族の物語だとは後でパンフを見て気づいた。
故人である誠治おじい、そしてつい先日亡くなった信夫おじい(その孫である当家の一粒種=中二の智子から見れば祖父だ)と、二人の名前が序盤で頻繁に口にされるも区別がつかなかったが、前作を踏まえていた訳だ。芝居の終盤には必要な家系図は見えていた。
今作では沖縄在住の花城清長(おじいの弟茂役)、宮城はるの(孫の智子役)が参加し、音曲が程よく挿入されているのも作品の味。前作と同じく、時折低空飛行の戦闘機の爆音が鳴る。
1972年は本土復帰、1995年は米軍による少女暴行事件を受け、前沖縄規模で基地反対運動が起きた年。前作と同様、東京からこの農家を訪れる男性があり(本土復帰の頃にも現われたあの青年、という事で同一人物であった)、もう一人のキーとなる他者として、前作では事情あって身を寄せていたが居なくなった女性、そして今作では反戦地主である当家に土地売却の提案に来る沖縄防衛局の若い女性職員。「見られる」存在としての当家の者たちが、「見る」(共感し精神的に繋がる)外部の存在として位置し、多様な価値観と生き方、その中に共通のものを見出し合う理想的な関係を示唆する(東京の男性と同じく「この地を去る」のがミソ)。
『口』
エンニュイ
王子スタジオ1(東京都)
2024/03/05 (火) ~ 2024/03/10 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
エンニュイなステージであった。
自分にとってのエンニュイは抽象的・ワークショップ的で台本がどこまで指定なのか不明、的なもの。物語性のある前作(初期作品の再演)が「台本」の存在を感じさせる(私には)珍しいケース。今回は以前の印象と符合。
初の王子スタジオ。前作(at上井草)と同じく四角い箱の中にzzzpeaker仕込みの超手作り感の物たちを飾り込んだ、昔の大学サークル棟の一室か大家が高齢の下宿部屋を想起させる雑然さに、まず目が慣れることが観劇のプロローグ。
七割方進んだ頃合いが、ある抽象性を維持しつつ、一つのコンセプトによるパフォーマンスとして観客の中に収まりそうであったが、即興的遊びに続いて「事件発生」的な観客巻き込みの時間、そして閉じ繰りまでの流れによってちょっとした大作となり、主宰の前宣伝通り、何でもありで何でもない時間となっていた。
面白いが少し長い、が感想である。実験ゆえ、今後洗練されて行く(同作品としてであってもなくても)プロセスであるが、「あってもいい」と思えるレベルではあった。年末のパフォーマンスからさほど日を置かずに観て、団員と言って良いのか同じ面々と認識されたが、願わくは継続してこのグループならではの「何か」、主宰の脳内再現だけでない「エンニュイ」が見えて来るといいな、と夢想。