tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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それは秘密です。

それは秘密です。

劇団チャリT企画

座・高円寺1(東京都)

2020/01/23 (木) ~ 2020/01/30 (木)公演終了

満足度★★★★

初演は観ていないと思っていたが、お笑い芸人、逮捕・・?よく調べたらアゴラで観ていた。深刻な話題と、劇のスタイルとの乖離を若干感じた事をぼんやりと。
だが今作は初演とは舞台風景が異なり(サイズも倍以上)、チャリT路線での磨かれ方ではあるが光沢のある舞台に。美術のダークグレイがテーマにも即して硬質さと柔かさを許容し、キラリ光るものを感じた。
とは言ってもチャリTの本領は「問題の噛み砕き方」「説明の巧さ」にあって(以前「40minutes」で観た芝居(IS日本人人質事件の顛末)が私的にはベスト)、ナレーション(解説)とそのユーモラスな文体がそれに貢献し、説明のテンポに乗って芝居が進行するスタイルである。
テキストとしては情報を出す出し方・順序にやや難有り、「今注意を向けるべきはそっちじゃないでしょ」という躓きや、もっとディテイルを埋めて欲しい箇所も散見されたが、問題の焦点を一箇所に集約する方が得意なのだろうチャリTが、多面的で割り切れない「現実」の痕跡を舞台に残すことに(結果的に)成功していたのではないか。
俳優の「演技」は記号的で、感情移入を拒まれてしまうが・・

ネタバレBOX

・笑いを狙ったと思われる刑事二名のコント?の精度はもう少し上げたかった。
・お笑いコンビ達が冒頭のやり取りに小ネタが挟まるのも堂々と笑いを取りに行ってないように思えたり。

・中東への自衛隊派遣がイラク戦争時代の話なのか近未来(今般の中東緊迫からの)か、やや不明。非戦闘地域で起きた戦闘の残酷さを証言する婦人が語るのは伝聞情報、その出所は?...等の違和感はあるのだが、秘密保護法と「戦争」の親和的関係には真実性があり、極端なストーリーとは今や思えない現実に生きているのだな、と思う事である。
『どんとゆけ』

『どんとゆけ』

渡辺源四郎商店

こまばアゴラ劇場(東京都)

2020/01/25 (土) ~ 2020/01/26 (日)公演終了

満足度★★★★★

出だしが『だけど涙・・』と同じ。もっともこちらが元祖である。以前元祖と併演された『あしたはどっちだ』も、元祖の物語の数年後設定のスピンオフ。元祖に出てくる最も特徴的な人物・青木しのの過去に繋がるのが『だけど涙』だ、とは本作(元祖)上演後の挨拶で知り、工藤千夏の構想の的確さにひどく納得する。
それにしてもこちら元祖は傑作の部類。「死刑員制度」なる制度が存在する架空の物語であるが、想像を超えた状況に思わず笑ってしまう余白と、それでも場に流れる時間のリアリティが、絶妙に混在している。
配役がまた絶妙である。なぜぽこぽこクラブの彼?いやいや。若い死刑囚役、メイド衣裳で迎えるその「妻」、被害者の父、妻。問題の焦点がスペクトルのように移り変わるのも素晴らしい。

ネタバレBOX

その他・・
*積み上げたボール箱を止める木材が、所々十字架又は墓標となっていた(『だけど涙』では前列最端の席で分らなかった)。
*本作の初演(2009年)の前年公開された映画『接吻』がちょうど死刑囚の妻になる女の話。触発されたと想像するが、映画は女性の「精神(狂気?)」に焦点化していったのに対し、本作は明確なテーマを据え、しかも女性の存在に芯が通っている。
*「死刑員制度」はネガティブな制度ではなく、死刑の正当性を被害者(遺族)感情のみに限定し、被害者が望まなければ死刑は執行されない点で、一定進歩した制度だ。被害者側も処刑に立ち会う事以前に刑に処する決断を行なう点で覚悟を求められる。
悪霊

悪霊

CEDAR

シアター風姿花伝(東京都)

2020/01/23 (木) ~ 2020/01/29 (水)公演終了

満足度★★★★

風姿花伝にて中々本気勝負の芝居を観た。『胎内』『夜への長い旅路』など重厚な古典に挑戦しているユニット、とだけ。俳優陣そして演出も恐らくは若手であろう(三十路も若手の内ならば)、初めて観るユニットであったが作品世界に肉薄していた。
原作は読了していないが、何つってもワイダ監督の『悪霊』。二十代前半の心はガクガクと揺さぶられた。以来特別な思いがある作品だけに期待を募らせて劇場を訪れたが、休憩挟んで3時間20分興味津々、人物達を凝視し続けた。
映画の方は二十年以上観ていないのだが鮮烈な場面が断片的ながら記憶に刻まれ、観劇は結末までの道程をなぞる時間になった。ドストエフスキーの原作を、カミュがどの程度脚色したかは不明だが、映画版より原作に近いと推測された。映画はシャートフ目線で描かれ、舞台には登場しなかった妻(イザベル・ユペール)が恋に破れてシャートフの元へモスクワから戻る場面が序盤にある。この二人のプライベートな空間の描写が、結末を一層痛切なものにしていた、という事に今回気づいた。登場人物とエピソードがある程度そぎ落とされ、印象的な場面が断続的に連なる中から背景を類推させる作りであった(まあ映画的処理であるが、画面と人物が非常に印象深い)。
一方舞台のほうは冒頭から新劇の味わいで(外国戯曲ゆえか)、人物が面白く登場しては絡み合って行く。エピソードの繋がりがきちんと説明され、それでも登場させた人物全ては描き切れず、小説が描く物語の壮大な広がりを想像させた。
ロシアの地方都市の青年が「先進思想」にかぶれていく過程の中で、悪魔が暗躍する。権力や指導的地位への欲望・復讐心が、平和や人々の幸せの実現のための社会改革という目的を凌駕する。悲しい現実は、わが国の「左翼」が陥った一つの帰結である連合赤軍事件に殆ど直結するが、これは閉じた組織内の事でなく、私には今の現実そのものが策士ピョートルの罠に嵌った状態にみえる。「おかしい」と思いながらそれを言えず同調してしまう、策士が勝利した社会。

劇団黒テント第78回公演『ぼっかぶり』

劇団黒テント第78回公演『ぼっかぶり』

劇団黒テント

「劇」小劇場(東京都)

2020/01/22 (水) ~ 2020/01/26 (日)公演終了

満足度★★★★

約一年振り、とは言っても2019年中にはお目に掛かれなかった、黒テントの瓢けたお芝居。戦前戦中を生きたある歌人の生涯を独特の構成と演出でやっている。黒テントだけにやっぱり歌がいい。座長でござい服部吉次がぺーぺーの如く随所で細かな芝居(先日若葉町で見た龍某氏とえらい違い)、紅二点は本木&平田、心配する勿れ婆役内沢(久々)始め混成ならぬ混沌部隊。滝本女史、及び当日スタッフに居た女優3名の不参加は単なる配役上の問題?
不思議な味のある劇になっていたが、役名があるような配役なら人物の粒立ち(書き分け)がもう少し欲しい気も。もっともこの種の劇にしてはよく書かれた方だとも(千秋楽コールの役者紹介では一人一役であった)。。
千秋楽の幕を閉じた劇場を出て所用を済ませ、劇場前をたまたま通ったらバンに荷物を積んでいた。「これだけ?」よく思い出せば舞台上に出ていたものと言えば、蒲団、時々キーボード・・だけだった。照明一つで多彩に場面を作り、「学校」場面での蛍光灯色の明かりは秀逸で、飾り皆無のホリゾント?にも映えていた。
終演後の舞台挨拶にて、黒テントは今年50周年だと知る。模索しながら生き続ける劇団に秘かなエールを・・。

ポポリンピック

ポポリンピック

ゴジゲン

こまばアゴラ劇場(東京都)

2020/01/03 (金) ~ 2020/01/21 (火)公演終了

満足度★★★★

ロングランの序盤(2か3ステージ目)を観劇し、もう一回観てみたくもあったが叶わなかった。
ボーリング場に捨てられ不遇に育ったポポの物語。ボーリングが染みついてるポポは生活の中にボーリングがなきゃならず玉を持ち歩き、時々投げるという、特殊な生い立ち故の特殊な人間という設定。ストライクしか出さないポポは最初持て囃されやがて飽きられるが、あるボーリング場に職を得て仕事仲間を得る。またロッククライミングをする男と出会い、初めて「親友」を得る。
難を挙げれば、、オールメイルの若手俳優らは学校の教室の隅で目立ったやや不良男子グループ風・・役柄より俳優自身のキャラでファンサービス的。要は若い女子の肩笑いをゲットな存在キャラ。あと型で決めるギャグ(これも若い女子にアピール)を優先し人物イメージにブレが(特に主人公ポポ)。(先日別のレビューで触れたが)オリンピックの選考に漏れた種目を盛り上げようという「他意なき」イベント=純粋さを印象付けるため、アンチ(オリンピック反対派)を「これと間違えられちゃ困る集団」として自らを区別し、世間に取り入る姿勢(「誤解されて可哀想」と、観客のシンパシーを獲得できるとの前提だが、これは痛い)。また親友が頑張ってたスポーツクライミングが新種目に選ばれるや、ポポらの署名活動(ボーリングを公式に)にも、イベントにもえらく冷淡、「こっちは国を背負ってるんだ」とヒロイックに切れる姿は定型的(ありがち)でリアリティがない。あんなにスポーツを楽しんでいた彼が「楽しむ」境地から離れている時点で五輪って何?、アスリートとしてもどうなの?、いつからメダルを国威発揚・求心力にする途上国に日本はなっちゃったの?・・等々疑問を投げかける契機は多々あるが、石を投じる事がなく、最後は「世間との適切な距離の取り方」に戻って行くという話で、「それに抗おうとしたはずでは?」と。面白いのはポポがストライクを取れなくなるというラストだが、総じてこれらは作者がそうである所の「突出した才能で勝負する世界」の話であり、若い頃のある種の才能が発揮される場を得られず、紆余曲折の中で摩滅し、別の生き方(創造の方法)を模索するか勝負の土俵から退くか、次の人生のステージへ移る局面を描いているように見える。
「親友」の変貌はリアリティの面で厳しいが、公式選手はさながら正社員で、それ以外は非正規社員、上に立つ人間には責任がある、お前ら気楽でいいよな、と言う言葉の裏に「公式」とか「公」とかそこに繋がる「責任」の側から、格下を見下げるような「今」の空気は意図的かは判らないが舞台に反映ている。
理不尽さから反旗を翻したか、ラスト、仲間はどういう訳かヘルメットをかぶり、いつしか「アンチ」となっている(外見は間違いなく)がこれは唐突。オリンピック開会式会場の壁の前で、式を妨害するためなのかマイナー種目のスポーツの祭典への参加というだけを貫くのか判らないが、開会式の開始の合図を待って各々待機している所、ポポがふと空を眺める。それにつられて他の者も「戦いを忘れる」時間に入って行く。気づけば開会式は始まり、タイミングを逸していた。
ここだけ抜き出せば、戦場で夕日を眺める的なイイ話っぽいのだが、結局のところ彼らの行動の動機は何だったのか、うまく掴めない。

ただ役者らの敏捷さ、身体能力、ギャグを成立させる瞬発力で上演時間はコース料理のように飽きずに最後まで運んでくれた。俳優の実力を愛でる上演。美術も機能的でなかなか巧かった。

『だけど涙が出ちゃう』

『だけど涙が出ちゃう』

渡辺源四郎商店

こまばアゴラ劇場(東京都)

2020/01/23 (木) ~ 2020/01/26 (日)公演終了

満足度★★★★

『だけど涙が出ちゃう』(工藤千夏作)を観劇。死刑制度がテーマの2本立ての一つ目。良い出来。出ずっぱりの三名が客演であった。家の主であるマサミ(山藤貴子)が居間の座卓に腕を付いて待つ。そこへ現れる神原(各務立基)と、お目当て天明留理子(神原の手の手錠に結ばれた縄を握った刑務官役)。二人の登場から会話が始まり「状況」が徐々に氷解し見えて来る。死刑に関する新たな制度に揺れる架空の物語にリアリティを与える畑澤聖悟の父(妻を死なされた遺族)、その娘(三津谷友香)。計5名の芝居。
今の現実と少しズレた架空の現実を、段ボール箱を使った山下昇平の美術、中島氏の照明が支えている。
死刑制度論議の優れた素材と感じた所以は、これも議論のある尊厳死に纏わる事件を扱った事、そして被害者(遺族)感情の絶妙な所を提示できた事(畑澤の演技も大きな要素)。

雉はじめて鳴く

雉はじめて鳴く

劇団俳優座

俳優座劇場(東京都)

2020/01/10 (金) ~ 2020/01/19 (日)公演終了

満足度★★★★★

俳優座でも小劇場界に出張る保亜美や清水直子、また若手を配し、年配をエライ役にしない戯曲、杉山至の(久々見た)グレイトな美術で、新劇の俳優座の舞台である事をふと忘れ「事態の細かな推移」を凝視する小劇場演劇の世界に入り込んでいた。
女性の会話がやはり巧い作家。俳優座俳優が精度高く戯曲の要求に答えていた。危うげなストーリーが崖から転落せず踏みとどまってイイ話に収まるが、これが青少年(人間)理解の議論に一石投じる結末となり、広く現代批評ともなる。微かな辛味が(私としては)作品の命であった。

ネタバレBOX

二つの時が流れていた事が最終場で分るのだが、三十年の時を経た「答え合わせ」が本当に正解であるのかも含め、単純に割り切れない人生の時間を思わせられた。十代当時、学校という空間で、「俺に仕事をさせろ」状態の教頭も含めて(含めて良いのか疑問はあるが・笑)、彼を巧くいなす女性校長、ズルいサッカー部顧問、主人公である副顧問の女性教師と、新任のスクールカウンセラー、そして同部員の生徒(男女)が、問題の男子生徒と彼が離れたいと思っている一人親(母)と対峙する場が、彼を救わねばという真摯な思いを凝縮して結晶となる。その伏線は、演出か戯曲の指定か、芝居の冒頭に飛び交う声、即ち問題の生徒を探して呼ぶ声である。舞台中央上手寄りに立つグランド用スピーカーを通して流れる幾つかの声が、限定された区域を越えて行く音として残響するのだが、これと装置とのマッチングが素晴らしい。
多様に使いまわす回転舞台を舞台手前中央に据え、奥にややカーブのあるプラットフォームが左右袖まで渡されているが、それら全体がくすんだコンクリートの地肌色で、特に奥の高みのある通路は左右に立つランプと相まって、高速道路に見える。ごうごうと鳴る走行音に「声」が掻き消される情景がまず提示されるという按配である。前方席から見上げる角度がその印象を強めたのかも知れないが..。
奥の通路は「もう一つの時間」で、年を重ねた男がさらに年嵩の女性の車椅子を引き、見晴らしの良いそこで会話をする場所になる。
殺伐とした都市の象徴から、喧騒を離れたのどかな時間への変化。変化する背景色、生々しくひりつく「現在」が展開する回転舞台エリアとの対照も印象的であった。
ニオノウミにて

ニオノウミにて

岡崎藝術座

STスポット(神奈川県)

2020/01/11 (土) ~ 2020/01/19 (日)公演終了

満足度★★★★

STスポットの狭い空間にはパフォーマンスエリアが大きく取られ、その片隅に申し訳程度の客席が割合スシ詰めで30席程度か。
このユニットの初見が数年前、横浜での殆ど取り付く島のない抽象舞台であったが、その風景を彷彿させた。ただし今回のは面白い。自分の感覚が耕されたのか..、しかし作り手の「問い」がより普遍的か否か(普遍的表現に昇華されているか)も大きな要素のはず。
言語化して伝える材料が見出しづらいが、四角の台上の世界はある種の箱庭。愛着を感じる。そう言えば初見舞台にもあった宙に浮かぶ大きな球体が、場面によって色を変えて幻想的に光っている。もう一つ魅力的なアイテム、弦楽器は三つの伝統的な楽器を兼ね備える(これ如何に)。

ネタバレBOX

本舞台は最終的にある結語へ集約される「集約型」でなく、当初のテーマからイメージが拡がる「拡散型」と言える、と言ってみる(トータル的には集約されねば演劇としては売り物にならないだろうけれど)。
奇想天外と言えば地点、先日観た鳥公園もそうであったが、装置など一工夫も二工夫もしているがそれが果して何に貢献しているのやら(笑)。チラシ通り「和」に寄った出し物で、せり上げた長方形の木の舞台、語り口とその中身も、能のテイストが(終わってみれば)そこはかと匂っていた。
従って身のこなし所作や装置を設える動きなども儀式として連続性があり、といって俳優は和のモデルに「似せて」いる訳でなく、独自。この舞台での約束事が自律的に成り立っている、と見える。
三幕の内一幕と二幕の間に休憩があり、おもむろにシュウマイセットとお菓子を売り出していた。思い返せばこれは歌舞伎系の劇場で休憩=食事として過ごす時間の再現である。売らんかな精神よりささやかながらのサービスでございます的売り子の雰囲気。場に馴染んでいた理由はそのあたりに。

といった具合で雰囲気はとても良いが、魚の外来種と移民を重ねてみる着想は、お伽噺に潜り込み、現実社会で首を出す、という風に行きたかったがそこは難しいものがあった。
会社の人事

会社の人事

一般社団法人横浜若葉町計画

WAKABACHO WHARF 若葉町ウォーフ(神奈川県)

2020/01/12 (日) ~ 2020/01/20 (月)公演終了

満足度★★★★

通りに面し時折エンジン音が間近に通過する会場だが、「演劇」の魅力的な発生地である事をまた一つ実証したと満悦至極(単なる好みという話も..)。昨今痛感する事は、演劇も芸術もゼロベースで、白紙の心で鑑賞してこそ深く飲み込めるもので、期待(想定)に応える力量を持った出し物も良いが、芸術の価値という事を考えるに、観る者を裏切ってナンボでないか、と。若葉町ウォーフで観たパフォーマンスは既に多分10を数えるが全て、鑑賞前にゼロ地点に観客を連れて行く空気がある、と感じる。
さてお芝居。ユニークな作品だ。30年前に書かれた戯曲だという。ただし「平成の30年」という台詞もあり、今回のために書き改めたらしい。三人の会社員が物語の主たる構成員で、皆おっさん。他の三人は、超越的存在もしくはおっさんらを近未来から眺める存在(皆若者)。「会社」で起きている具体的な事象はうまく掴めなかったが、不思議な味のある台詞が劇空間に浮遊して心地よいものがある。
30年前すなわち1989年ベルリンの壁崩壊から雪崩打っての1990年冷戦終結。言及される地下鉄サリンと阪神淡路大震災は、その5年後だ(今回の加筆という事になるが隔世の感が半端ない)。
歴史を俯瞰した心象風景を刻み付けようとする言葉は根源的な「何故」の問いであり、人を共通の土俵に立たせる。私の好みである。予め答えが決まった問いが純粋な問いとして発せられる道理はない。利害を離れた問いの多くは人を解(真理)に向かわせ、競いつつも協力していく光景を生み出す。学生の頃は見慣れていたはずなのに、人生でそういう瞬間にあと何度巡り合える事だろうか。

ネタバレBOX

全く本題を外れるが、投票し損ねた2019年ベスト10公演をこの場を借りて。

1位 文学座「スリーウィンターズ」
2位 こんにゃく座「野物語」
3位 ひとみ座「どろろ」
4位 ドガドガプラス「肉体だもん・改」
5位 ファーミ・ファジール&山下残「GE14 マレーシア選挙」
6位 SPAC「RITA&RICO「セチュアンの善人」より」
7位 岡崎藝術座「バルパライソの長い坂をくだる話」
8位 桟敷童子「獣唄」
9位 KAKUTA「らぶゆ」
10位 ラッパ屋「2.8次元」

その他捨てるに忍びなかった作品群。
・うりんこ「わたしとわたし ぼくとぼく」
・演劇アンサンブル「クラカチット」
・bunkamura「唐版 風の又三郎」
・風姿花伝「終夜」
・鳥公園「終わりにする、一人と一人が丘」
・新国立劇場「オレステイア」
・新国立研修所「るつぼ」
・文化座「アニマの海」
・bunkamura「キレイ」
・第27班「潜狂」
つかの間の道

つかの間の道

青年団若手自主企画 宮﨑企画

アトリエ春風舎(東京都)

2020/01/08 (水) ~ 2020/01/13 (月)公演終了

満足度★★★★

若い書き手が無隣館を経て青年団若手自主企画として打ち出した舞台。ラストに登場していた役者だけが礼をして去る(カーテンコール無し)という青年団の習わし等、現代口語演劇のフォーマットを踏襲していたが、世界観と筆致は独自に確立されつつあるものがあり、三つのエピソードに共通する主題「自他の別のあやふやさ」が切なく響きあっていた。混沌のこども時代から「他者ならぬ自己」へ脱するプロセスを系譜学的に回想すると、集合から個がはがされた近代というものがぼんやり重なって見えた。

十二人の怒れる男 -Twelve Angry Men-

十二人の怒れる男 -Twelve Angry Men-

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2020/01/10 (金) ~ 2020/01/20 (月)公演終了

満足度★★★★

密室討論劇の古典(始原と呼ぶのが適切かも)に若い俳優らが挑んだ舞台。半強制的に集められた雑多な出自と背景を持つ者の集団が、一つの結論を導き出す目的のために言葉を闘わす。「ナイゲン」や「桜の花の・・」でも、作り手は真剣であったのだろう、そう思わせるfeblaboの真摯な芝居作りが見えた。演出的作為の跡は勿論あるが役者はその演出的「枷」を逃げ道とせず、即ち役の貫徹に傾注しており、戯曲の懐の深さを改めて感じる観劇でもあった。古い海外戯曲の制約を、どうクリアしたのか、テキレジをやったのかどうか判らなかったが、会話の距離感やニュアンスに現代性を込滲ませつつ、原典が求める微妙で重要な役どころ(偏見に凝り固まった男、個人的感情を持ち込む厄介者など)も押えていた。
利害を離れた「為にしない議論」があり得るという事、言葉に頼むしかない議論こそ民主主義の要である事、といった教科書に載せても良い位の啓蒙的作品だが、この古典作品のメッセージが身近に立ち上って来るのは現代日本人キャラの造形に依る所もあのだろうが、それが骨太に成立しているのは意外であった。

ネタバレBOX

ヘンリー・フォンダ主演の映画は若かった頃3回以上は(レンタルで)見ているが(「12人の優しい日本人」の方は多分もっと)、思い出せば舞台版も三本目にしていた。二つが新劇系で広い舞台、一つがプロデュースユニットで比較的狭い劇場(今回程でないが)。後者はストーリーの語り口(まあ演出)に趣向、新劇系は人物形象に力が入るがその分筋を追うのに重い荷物を引くようで、終劇時の達成感はある(無論人物形象は大変なので細部に文句は出てくるが)。
今作は問題の焦点を明確に示し、疑問点を持ちながら議論の行方をストーリーとして追跡するためのリレーを見事に行っていたが、(無いものねだりかも知れないが)新劇的な人物造形の深さはもう幾ばくか欲しく、「人物」あっての群像をもう一歩濃い味で見たいと思う所はあった。
上を望めば切りがないという話。
ハツカネズミと人間

ハツカネズミと人間

Triglav

スタジオ「HIKARI」(神奈川県)

2020/01/10 (金) ~ 2020/01/12 (日)公演終了

満足度★★★★★

2018年末大森の地下スペースで『ピローマン』の見事な上演をやったTriglav。今回は神奈川の青少年センターHIKARIスタジオで前作とは随分異なる舞台風景だったが、期待を裏切らずクオリティの高い舞台であった。ほぼ真四角の舞台を三方客席(二段若しくは三段)でゆったり囲み、平台箱足を組み合わせて全四場四通りの装置を組む。
同演目は10年以上前に東京芸術座の渋いアトリエ公演で観て印象深い舞台だったが、終盤の強烈な展開は忘れようもなく、にも関わらずその時点に至る場面場面が新鮮に立ち上がっていた。
以前の多目的室を改良して「小劇場」に生まれ変わったHIKARIスタジオの劇場としての可能性を展望させる舞台でもあった。

放送禁止演劇人寄席

放送禁止演劇人寄席

劇団東京ミルクホール

ザ・スズナリ(東京都)

2020/01/08 (水) ~ 2020/01/08 (水)公演終了

満足度★★★★

お笑い寄りの演劇人との印象を裏打ちした。過去にも行なったタイトルだが今回は初の試み、公演参加枠を広げ他流試合の一回切り公演。しかもスズナリという事で気合の入った企画であったらしい。
前方席で見た。準備が足りなかったか噛みまくりの出演者も含めて、堂々たるもので「笑い」がしっかり提供され、ネタも役者のタイプも多種多様、被る事なくどれも旨い中華コースを味わった気分。
別レビューで(時局に触れるネタでの)「笑い」の難しさについてこぼしたが、どの演目も十分に毒があり、予定調和的な笑い(ストーリーが快調に進んだり期待感を高めた時におふざけをやるタイプの、演劇でよく使われる)とは一線を画する。「放送禁止」のタイトルがどう影響したか判らないが、偽証と証拠隠滅と情報の糞詰まりが常態である「臭い物にフタ」の現社会では、放送に乗らない方に理があり、今後状況が腐れば腐るだけ優良情報・表現は地下化し、容量は膨らむ事だろう。先日すごした寄席での2時間と同じくお値段も手頃だが、中身の濃さはこちらが勝ったというのが率直な感想。

新年工場見学会2020

新年工場見学会2020

五反田団

アトリエヘリコプター(東京都)

2020/01/02 (木) ~ 2020/01/05 (日)公演終了

満足度★★★★

今年は初日の工場見学。昨年までは思いもしなかったが幅狭の椅子に3時間の長丁場を嫌って「ザ・ぷー」の出ない初日を選んだ。周りを見れば、以前は散見したご高齢のお人は今回一人も見当たらず(私の目には)、せいぜい自分より年下だろう年増の類が数える程。若者率の高い劇団は他にもあるがここは少し雰囲気が違う...と話し出せば長くなりそうなので割愛。

黒田大輔不在の為、「なあ大輔洋介・・」と二人に声掛ける前田司郎という図が見られず、それを気にしたネタ、というより本音トークを最後までやっていた。
演劇の方は二つとも基本パロディだが、五反田団はネタとして入れ込む感じ、ハイバイの方は劇全体でパロってる感じなのが、毎年変わらぬ両者の棲み分けで今回もそれは見事。芝居も中々であった。
五反田団は「こんか~つ、こんか~つ」(ちりりん)という売り声で自分を嫁として売り歩いてるシーンに始まり、日本を代表する男女を集めたという(笑)「婚活パーティ」を舞台に陰謀が交錯し、毎度の血しぶき(紙)舞う活劇。初代伝説の婚活荒し(的な名称、忘れた)に内田慈、彼女とまぶダチの二代目に西田麻耶。主人公である二代目が小泉進次郎+滝川主催の婚活パーティで他の女性らを先導しながらヘナチョコ男性ら(と一蹴する感じでもない微妙な線がいい)を物色するシーンのリアルなコメントが笑える。けなすばかりが能でない、フォローしつつの己もチャンスに掛ける部分あり、という気合の漲り方が、虚実(舞台と現実)の境界を行く。それが(それが特徴とも言える?)五反田団の醍醐味か。
一方岩井秀人作は年末までやってた出演舞台を終えた僅かな時間で作ったという、ガチンコファイトクラブという番組のパロディ。「伝説の俳優」(冒頭マイクを持ったナレーション役が、ハイバイ初期の公演で「7~80人」の観客を沸かせたというエピソードと共に紹介、演じる役者がその本人かは不明)が集った荒くれ者の一人から食らう「お前誰だ」の一言から始まる。番組そのものを笑っている訳でもあり、垣間見える人間性を視聴者目線で笑っている訳でもあるが、大げさで作り物っぽくても真実らしさがあり、それをまともに食らった衝撃を緩和するために笑うのでもある、あの番組の美味しい所を舞台でリアルに再現という趣向であった。これを見たさに最終日も行こうかと迷った。(初日は若干粗かったので)
合間には「トラディショナル」な獅子舞現代アレンジの出し物、休憩時はこれも毎度のホットワイン。という事で雑煮で腹一杯の正月時間であった。

ネタバレBOX

「笑い」の難しさ。五反田団劇では師岡広明がそのノリをうまく真似た山本太郎(ラッパーよろしく手のゼスチュアと関西弁で熱く語る)が過激派となり、グレタもグリンピースのボートで登場という具合。一方前田本人が滝川クリステルと並んで「殆ど何も言ってない」小泉進次郎をやる。山本太郎はマイノリティを背景にしており、パックスロマーナ時代の見かけの平和と抑圧された周辺との対比が現日本にも当てはまる様相で、「吠える側=過激派」VS「狡かったり無能だったりするが床の間に据えておれば平穏な体制側」の構図では不公平感が過ぎる。「そういう事は置いて、笑いましょう」が通りづらいな、との正直な感想。
後日寄席の初席に寄った際、ニュースペーパーがよく考えたテレビ報道のもじりネタの後、共産党志井委員長を登場させ喋らせるのだが、万年野党、反対ばかり、ソ連中国にシンパシー、といった古いいじりネタをまだやっていてそこが笑えず、そうして下げる所を下げておいて最後に反論できない正論をかます、という折角の手法が、もう一つであった。これも時勢の捉え方に影響される部分。寄席などに来るのは良識あり平和を好む人たち、「正論かます」の比率を上げても行けるのでは、と思ったが一方、足元をすくう少数派(電凸要員)が場を荒らす時代、ネタの出し方にも自主規制が働く必然の成行きを思う。
もう一つがアゴラで観た『ポポリンピック』だが(レビュー未投稿)、オリンピックを軸に、不幸な生い立ちの天才ボーリング少年(後に青年、後に中年)の物語が描かれるが、話題になるのが2020年オリンピック。後半「選考から外れた種目たち」のささやかなイベントをポポリンピックと名づけて打ち上げようとするが世間に「不協和音」と受け止められ、その事態に彼らは「アンチと思われてるよ、これ」と落胆するくだりがある。オリンピック開催そのものに反対する人らを一つのグループとして忌避し、「やつらとは違う」という論法で、自分たちが如何に純粋にスポーツを愛する心でこれをやっているかを強調するアイテムとして台詞に組み込んでいた。オリンピックに賛同しない私などは、そんなグループねえよ、と居心地が悪くなったが、政治ネタ社会ネタを「笑い」に変換する難しさを実感する時代になった、とある種の気づきを得た。一つのバロメータとして笑いを観察して行く所存。
R.U.R.

R.U.R.

東京娯楽特区

調布市せんがわ劇場(東京都)

2020/01/05 (日) ~ 2020/01/06 (月)公演終了

満足度★★★

今回3公演目という若手、初であったが演目にひかれて観劇。1年前のハツビロコウ公演はやや圧縮版(1時間半強)であったが今回のは2時間。結論的に言えば結構厳しい観劇であった。台詞をもっと大事にしてでも休憩を挟んで2時間20分、やるという判断も有り得たと思った。もっともラストの台詞までの時間をどう按配するか、という観点ではスピード優先が正しい判断かも知れぬが。。
ロボットの支配に下った人類が「奴隷」であるはずの(自らが作った)ロボットと対峙する状況のリアル感覚の度合いが、登場人物らにどう共有されているか、その上でどういうやり取りになるか、この劇の高揚は何から来るのか、役者の「思い」の向けどころという点で相当厳しいものがあった。拙いながらの役のリレーはどうにかゴールまで完走はした、とは思う(その間の多くの台詞を勿体無い扱いにしているのは否めないが)。
せんがわ劇場には5年前、重厚に作られた風煉ダンスの舞台以来で、今回ステージ床面と袖、歩くと木の音がする普通のステージの様子を初めて見たが、この小屋の使えこなし方についても考えてしまった。空想物語であれば尚、その工夫は考えられて良い気がした。

だから、せめてもの、愛。

だから、せめてもの、愛。

TAAC

「劇」小劇場(東京都)

2019/12/25 (水) ~ 2019/12/30 (月)公演終了

満足度★★★★

俳優陣をみて観劇。年末押し詰り、人通りもまばらな夜の下北沢にて。
丁寧に作られた舞台。飾り込みの得意な稲田美智子の美術、厳選された?俳優、私としては音楽。言葉不足までを補い、作者の伝えたい境域へと観客の心を誘っていた感がある。
ドラマの軸は恐らく兄弟特に血縁でない長男と、父との家族的繋がりについて、であると思われるが、途中眠気で台詞を飛ばしたせいか(恐らく長男絡みの場面)、終幕で感動にまで至らず。謎解き=状況の全容が次第に明らかになるテンポが、スローである印象。ディテイルに疑問符が浮かぶと残念感が広がるが、幾つか複数に及んでしまい、その分減点になった、だけでなく父の存在がバシッと明瞭に見えてこなかったのが惜しい。

ネタバレBOX

ディテイルの大きな一つは、母が寝たきりになってしまったその具体的な症状。脳卒中系で全身麻痺は珍しいように思うが(大概は片麻痺)、それはともかく、まず急性期のリハビリという話が出ない、車椅子にも乗らない、認知障害がどの程度あるのか、ないのか、夫は妻の「どの状態」を見て、それ以上見たくなくなったのか、コミュニケーション不全の線が強そうだが、そのレベルの障害でヘルパー一人出入りしないのは非現実的で、次男も長男も出て行き、主に介護を担っていた次男の恋人(後に妻)が通うにしても限界がある。一日3回は排泄介助が要るだろうし・・など、具体的にイメージし始めると不明部分が大きく、家族それぞれがどういう状態に対しどう対応しているのか、そこがネックで話の輪郭がくっきりしなくなる。
次男が恋人から妊娠を打ち明けられるくだりの煮え切らなさから、父の反応を言質に次男が物申す場面の運びはうまかったが、それ以前に父の様子が「ずっとおかしい」訳であり、息子らが父の変化をどう見ているのかがやはりぼんやりしている。そもそも変化する前の父はどんな父だったのか。芝居は父が「余命半年」宣告を受けた時点から始まるので、イレギュラーな状況での父しか観客は見ていない。従って息子らにとっての、また家族にとってのこの父の存在の性質は、息子らの父への態度や言動で知るしかないが、ヒントが薄い(例えば余命宣告された時の父は見違えるものがあったがこの頃また「以前のような○○な父」に戻った、などの台詞が欲しい)。
父が「この頃おかしい」理由は、単に妻が寝たきりになった事、でなく、医師をわざわざ尋ねて告白させているくだり、「死ぬはずだった命を生きながらえている」死にぞこないの感覚(かつての特攻帰りみたいな?)にある、と推測されるが、余命を言われて輝いた命が、またくすんだ色に戻ったというのなら、問題自体は以前からあったわけで、それは何であり本人がどう感じているのかが分りたいが、父は黙して語らない。
経済状況も気になる。父は治療に3年も専念できる程の資産家か、企業の社長か。
電車で喧嘩をした父に意見した長男は「お前は息子じゃない、出ていけ」と父から言われ、言い返せず出て行くが、疎ましく思っていた友人宅に上りこみ、宅で飲めば良いものを(金もないだろうに)居酒屋に誘って飲む、ってのもどうか。
父は時々(兄が出て行く前も)デリヘルを呼んで(一発やるでもなく)過ごす事が幾度となくあるらしいが、仕事をしていない長男が居ないタイミングは?、なども気にしだすと気になる。
話の発端とも言える「長男は施設からもらってきた」報告を、最初余命宣告を受けたことを息子らに告げたその場で行なうのだが、この時父はどういうつもりでそれを息子に告げたのかが、よく判らない。父は何を正しいと信じる人である故に、それを息子に伝えたのか、それによって父の人柄がしのばれるが、この場面で感じられる人柄は、「後で真実が判って文句を言われたら困る」という程度の、クレーマー対策的な思想しか窺えない。息子の方も、過去の父を勘案して、どうそれを受け取ったのか、もちろん判らない。
「自分の息子じゃない、出て行け」と話の成行きで言われたのに対し、素直に出て行くのも何だかであるが、その彼が酒に溺れる気持ちが実際よく判らない。父の発言が物の弾みであれば機を窺えばいい、本心からだとしたら、静かに受け止めればいい。脚本を書く演劇人の設定(須貝氏本人に重なるが)なら、もっと自分を客観視できないだろうか。。
また父の喧嘩の際、警察を呼べと主張する相手(若者)と父の間に入ってとりなし、電話で長男を呼び出すのが彼の友人なのだが(彼は鉄道機動隊?)、登場しないその相手の所に息子は謝りに行き、戻って来ると父を家路へと促す。ここでの友人の判断がまた引っ掛かる。警察沙汰になるなら息子に出てきてもらって丸く収めた方が良い、という考え方も分るが、やはりよく判らない。相手の若者のイヤホンを引っ張った位で。。やった事に対するけじめを父は取る覚悟なのだろう、そこへ「前科がついては困る」と周りが判断し、まるで父の保護者であるかのように振る舞う理由が、「ある事情」にあったのだ、という風に展開のきっかけなら分るが、当然そうすべき事として事態が進むのがよく判らない。やった事はイヤホンを引っ張る行為だけなのか、殴ったりしたのか、もし殴ったなら警察を呼ぶべきだし、呼びたくないなら示談金を持参せねば。だが働きのない長男にそんなまねは出来ない。
友人は「謝れば何とかなる」程度だが父は謝らないので困っている、という。帰宅後、「父さん、何やってんだよ」とやるんだが、だったら警察を呼ばせて、絞られて膿みを出して、その後「父さん、何やってんだよ」とやってもいい。事を未然にとどめ、問題の本質をみるための真相の露呈を観客から体よく奪っているように感じる。諸々をオブラートに包み、何となく「問題あり」程度で事は進んでいるのではないか。

探せば違和感は多々あるが、不思議なもので、役者の佇まいとあの音楽、他のスタッフワークでドラマは劇的に見える。

このドラマは「父」が、僅かばかりの変化の兆しを見せる、というラストで終える。正直言えば、これしきの変化に掛ける手間と時間ではないな、との印象だ。なぜあの程度の変化しか見せられないのか。というか、実は人間は「変わらない」という結語であったのかも。
父の変化を望んで書いた作品なのであれば、父はそうめんを食う箸を置き、立ち上がって母の寝る部屋のドアを開ける、位させてみたってバチは当たらないと思う。
高校演劇サミット2019

高校演劇サミット2019

高校演劇サミット

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/12/27 (金) ~ 2019/12/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

今回は一ステージのみ、駒場高「てくてく」オーラスの回を観劇。終演後、生徒たちのやり切った涙を見るだけでもう胸が。。通常高校演劇は大会で落ちればそこ止まり、全国まで行けば都合3回程度上演する事になるのだろうか。しかし毎回一回勝負で臨む訳で、今回のように所謂公演として3日間3ステージをやり切るという事は学齢期である彼ら彼女らにとって特別な、大きい事なのだろう。

高校演劇に触れて感じる思「強み」は何と言ってもナチュラル演技。「今」が匂い立つ。社会を操縦しているのは(老齢にして)パッパラパーの権力者たちだが、最も「今」を感知しているのは若者であり良くも悪くも「今」を鋭く「今」たらしめている。オリジナル脚本を書いた人は(多分)大人であろうが、彼らの生活圏と接していなければ書けまい。
彼らを「包囲」している社会という建造物が、壁が、彼らを圧迫し、自分や他者をめぐって苦悶する姿は、客席をほぼ埋めていた中高年男性(に限らずだが)の姿と何ら変わらないと思う。
舞台は美術室。(憂さを逃れて)訪れる生徒らがいつしか増え、常連になった7~8人が不可避に接触していく中で個の抱えるものが顕れ変化も遂げる話であるが、それぞれ「居そうな」人物で秀逸である中、最後に爆弾級=ミュージカル女優を目指すかなりうざい(痛い)生徒を投入。一方「ここで部活やろうか」という話題が進む中でも個性がぶつかる。そこへ「自殺クラブ」なる案が浮上。そこから修羅場、そして終盤アップビートのMをバックに彼らが「演劇」という手段で己らの暗面を表現し始めた場面であるかのような、台詞連射の抽象的・詩的なシーンとなる。
美術室へ逃れて来る彼らは同質性を持たず、傷の舐め合い感が皆無。価値観を異にし反目さえする様相は教室の縮図にも見える。特殊な生徒たちのエピソードに括らせないが、一人ひとりの個性を明確に描き分ける事で群像を立ち上がらせていた。
無論「助け合い」「共感」「連帯」などとはこのドラマは無縁、というより意図的にそこに落ち込む事を避けているかのよう。むしろ相手を突き放す(普段は本音を出せず仲良しを演じるという気遣いに疲れ果てている、その反動のように)。本音が零れ出る場所となった美術室とはユートピアであり、ここで起こった事こそ生徒らの人生にとって真に貴重な学びだ、と芝居が言っている訳ではないが、根源的な問題と向き合う場面と時間をこの演劇は高校生たちに、教師たちに提供したかったに違いないと思えて来る。いずれにしても生徒(役者)自身と役との距離(の近さ)は、この舞台にとっての強みである事は言うまでもない。

ネタバレBOX

別に断る必要もないが・・演技・テキストともに拙さのある本作に星五つの理由。過去見た幾つかの高校演劇の中で最上。飴屋法水「ブルーシート」、柳美里「静物画」よりも。無論これらはテキストが優れていたし生徒らの魅力も引き出していたが、監督(まあ演出ですけど)の存在が大きく見えた。今回の作品は限りなく出演者たち自身に近い劇世界でありながら、超具体から普遍へ手を伸ばし、高尚な領域に触れんとするところがあった。
貧乏が顔に出る。

貧乏が顔に出る。

MCR

OFF OFFシアター(東京都)

2019/12/26 (木) ~ 2019/12/30 (月)公演終了

満足度★★★★

2度目のMCR、凡そ2年振りか。その時のスズナリでの多場面の劇より、OFFOFFに合う萎びた部屋での場所変らずの作劇が良かった。再々演と知っていたが、新作の新鮮さで目に入ってきた。

ネタバレBOX

友達とは何か、を考察するシミュレーション劇。後日加筆、かも。

青い鳥

青い鳥

世田谷シルク

シアタートラム(東京都)

2019/12/25 (水) ~ 2019/12/28 (土)公演終了

満足度★★★★

先日のアゴラに続き、三茶はシアタートラムにて世田谷シルクの「青い鳥」を鑑賞(シアターXの円公演は断念)。主宰・堀川女史は無隣館での修行?を経て、「赤い鳥の居る風景」(座高円寺、2014年)以来の大型舞台で演出的存在感を示していた。原作(戯曲)の持つ幻想的で物憂げな雰囲気をよく再現し、貧しい家の子供・チルチルとミチルが訪れる先の世界もカットせず2時間10分たっぷり。総勢30名程が様々な衣裳で出入りし、固定役を担う数人以外は一人が4~6役を担う。
堀川女史らしい趣向は随所にある。目立った所では対面しあう客の視界を遮るように中央に引かれたレースの幕。照明の具合で透けて見えるが、カーテンを移動・開閉しながらチルチル・ミチルの居る世界と裏側の世界の関係を示したり、病室のカーテンにしたりと場面によって便利に使い分け、時に吊ったバトンごと上に飛ぶ。

今回の大きな翻案はチルチルを病室の老人、ミチルを介助者(病院スタッフでなく身内か、より親身に病人を気遣う人)に変えた事だ。
老人役を青組の藤川氏が演じ(客演は知っていたがチルチルとは予期せず)、大半は旅に同行するメンバーの反目やら、訪問先の世界の描写になるが、やがて旅から戻った(気づいたら寝ていた)現実の場面で、この翻案の着眼が生きる。原作では貧しい小さな兄妹が様々な世界で人物と出会い、現実の世界を支えているもの、即ち自分たちとの関係(約めれば孤独ではない事)を体感し、ついでに隣家の女性が解決されるというおまけ付きの大団円なのだが、今作はもう十分に生き死を待つのみの老人に「今この時」を生きる喜びを全身で語らせる。そして原作どおり、隣の娘との対面へ接続される。この一連の「現実」場面は伏線を回収しながら作者の思いを台詞に無理なく、がっつり書き込んだ戯曲の教科書的な躍動する場面だが、「症状のバロメータ」としか老人の言葉を解しない殺伐とした病院の「現実」にその場面を作った。藤川氏に当てたかと思える嵌まり方で、年輪を重ねた人間の口から零れ出た言葉が堀川氏の翻案意図を結晶させていた。 

ネタバレBOX

「変える(換える)」「加える」演出の作業に、「省く」「兼ねさせる」作業を強化されん事を・・観ていて思ったこと。振付=舞踊表現と演劇(ドラマ)という両領域を跨ぐスタンスで作る事を始めてしまった堀川女史はその表現の性質からして帰属先は自分自身しかなく、受難の芸人生をつい想像するが、着想力に様々な(現実に関わる)知をテコ入れし、製作を続けて欲しい。
ガリバー旅行記

ガリバー旅行記

三条会

ザ・スズナリ(東京都)

2019/12/26 (木) ~ 2019/12/29 (日)公演終了

満足度★★★★

昨年面白く観た『ひかりごけ・男子バージョン』(確か)に出ていた夏目慎也とG.K.Masayukiの名も見えたのでほぼ全幅の信頼と期待をもって観劇日を待った。スズナリへ到着すると客席の埋まり具合は程々(お陰でゆったり座れる。制作的には何だが)、ステージを見るとこれがまた一風変った仕掛け。鈍く光る(金属製に見える)半円形の台が壁面から出ており、外周に沿ってレールっぽい溝があってその両端、即ち左右のどん詰まりは開口し、のれんの目隠しが垂れている。要は空港の荷物受け取り場にあるベルトコンベアの形だ。冒頭その半円の外周に沿って俳優らが順次立ち、奇妙な挨拶を始める。
客席は程々と書いたが、演出関氏の「芝居の面白がり方」=作風が通好み?客を選ぶ?のだろうか。本作もけったいな演出であったが、確かにガリバー旅行記であった。
方向性は好みである。ただ、漫才で言うボケのアイデアは潤沢なのだが、ツッコミと言うか拾い方が難しい所、切れ味がもう一つ欲しい箇所もある。夏目+立崎真紀子のコンビをしつこく登場させてサラリーマン風ガリバー男にツッコミやらせる反復ボケなど、ボケる事でガリバーから何を遠ざけているか(それによって困らせているか)が、もう少し判りたかった。
奇態なアイデア勝負に見えるが一朝一夕思い付きで出来上がる代物でなく、様々な試行錯誤により時間をかけて細部が作られた感触があった。何つっても犬が登場って・・客に対するボケも極まり、客はどうツッコんで良いか判らないが、いずれ受け方を見つけるのやも知れぬ。

ネタバレBOX

ボケと言えば最後にMasayukiが周りが歌う中でガリバーの旅行を要約して語る。語り口は「まとめ的」なのだがよく聴けば「全部説明しちゃってんじゃん」と、思わず(好意的に)突っ込みたくなったが・・反応は客に委ねる風であった。
「ガリバー」は小人の国を訪ねる話、としか認識していなかったが、実は様々な世界を訪れ、その発見と出会いから人間と人間の理想について思索をして行く話なのだとか。
俳優では、夏目氏の場面対応力をもっと見たかった。大谷ひかるという女優はどこかで印象深く見たという記憶があり、昨年の「ひかりごけ」以外に・・とぐぐってみると危口氏の遺作「わが父、ジャコメッティ」に出演とあった。色んな役と場面を見たい女優。良い書き手や演出には良い俳優が集う(若しくは育つ)と常思うが三条会もその例に漏れずと見受けた。

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