「母 MATKA」【5/17公演中止】 公演情報 オフィスコットーネ「「母 MATKA」【5/17公演中止】」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    前日の公演が中止だった事を当日知った。体調不良者が一人出たためだという。メールの「中止」の文字に一瞬ドキッとしたが、趣旨は「全員陰性を確認したので今日の公演は予定通り」。ホッと胸をなでおろす。陽性者がなかった事にでなく、自分が芝居を観られる事に。エゴも極まれりだが本心だ。

    舞台は期待通り。役者に心酔し、演出に心酔した。「演出誰だっけ・・上村聡史?」と当たりを付けたが、稲葉賀恵であった。着実にキャリアを積み、力を示している。
    2年ほど前「チャペック戯曲全集」という分厚い本を(高いので買わず)借りた時、『母』はざっとは読んだらしい。「息子の死」がリフレインであった事を徐々に思い出してきた。
    チャペックの戯曲は『R.U.R.』が有名で2回観たが、最も秀逸であったのは小説『クラカチット』の舞台化(演劇アンサンブルのブレヒト小屋最終公演)。どの作品にも万人が共感できる普遍性と同時に、作者が生きた「時・場所」を思わせる要素があり、それも含めた風味がある。
    この作品で男らが肯定的な響きで口にする「戦争」には、第一次大戦によって覆される前の戦争イメージ(限定的な場所でルールに則って為され、軍人だけが闘って死ぬ)が同居しており、戦争を巡っての男たちと(唯一の女である)母の論争は絶妙に拮抗している。大量破壊兵器が連想される現代の「戦争」が否定的な意味しか持たないのとは違う。医学や科学の進歩に対しても、懐疑的な現代とは異なるものを感じさせる(が、作者は懐疑的視点を織り込んでいる)。
    その事情からか、増子倭文江演じる「母」が唱える非戦は、知的なイメージを帯びがちになる。増子氏の好演がこの舞台の質を確かなものにしていたが、時代性の違いを「翻訳」「変換」する作業は(自分が勝手にだが)幾ばくかはやっていた。

    喜劇として場面は仕上がり、喜劇である分だけ母の悲哀が迫る舞台。反戦という一つの確立された思想への帰着は回避されている。母の人生というものを想像し、イメージの扉が開かれる(母を体験する事がなく、そういうタイプの母を持たなかった者としては)。

    舞台は、軍人であった亡き父の部屋である。この部屋に息子らはよく忍び込む。母はこの部屋で息子らが父に「感化」される事を嫌い、恐れている。部屋の隅に大きな額縁があり、その後ろに肖像画の主人公である父(大谷亮介)が立って風景の一部になっている。武器の類はワイヤーで吊るされ、喧嘩ばかりしている双子はフェンシングの剣を取って大はしゃぎ。国内で紛争が起きると銃を取った。
    母はこの部屋では死者と対話ができる、という設定がユニーク。それゆえ、初めは息子が死んだ事に気づかない。息子はおずおずと母の許しを乞うように(悪戯をした子どもが叱られる前みたく)「死んじゃった」と報告する。
    開幕時既に死んでいた長男オンドラ(米村亮太郎)は伝染病の研究をしていて感染。次に死ぬのが技術畑に情熱を傾けていた次男イジー(富岡晃一郎)、母に止められていた飛行機に乗って墜落。そして内戦が激しくなると、国軍派と反乱軍派に分かれた双子がそれぞれ、ペトル(林明寛)は反乱罪で銃殺、コルネル(西尾友樹)は戦闘で死ぬ。芝居の冒頭から「この子だけは違う」と信じ、可愛がっていた末っ子・トニ(田中亨)が、ラジオから流れる切実な声に使命感を焚きつけられ「行かせてよ母さん」と告げた時、母は狂乱する。女性の「国家の危機です、起ち上って下さい」と呼びかける声がラジオから響く。部屋には母の父(鈴木一功)も息子・孫らに駆り出されて登場し、既に死者となった男たちが内戦という事態に浮足立ち、「男に目覚めた」トニのためにと何のためだか判らない作戦会議を開いている、という光景。それへ入って来る母が、彼らに対決を挑む。だが全く平行線に終わる論争の後、再びトニと対峙した母は、息子の変わらぬ意志を確かめると全てを諦めたように脱力し、「行きなさい」と言う。

    舞台は黒褐色を基調とした昔の欧州らしい調度が点在するが、奥には広いレースの白いカーテンが張られている。このカーテンが不確実な外界(息子らを死に追いやる)との境界を示すかのよう。自在に揺れ、開くカーテンはいつでも息子らを飲み込み、逆光に照らされたシルエットを残して去って行く。作品の幻想的な側面を引き出した演出が舞台に膨らみを持たせていた。

    ネタバレBOX

    前日の公演中止は「関係者の体調不良」によるという。それだけで中止という判断は、「劇場でクラスター」のニュースが演劇界に与える最悪の影響を懸念しての自己犠牲だろうと恐れ入るが、「感染者が居ても大丈夫」なようにステージとの距離と換気をしている訳である。やるせなさがよぎる。
    演劇に限らず「かけられる保険」を何重にも無駄にかける生活にはある程度慣れっこになったが、根本的な「やれない事」は放置されている。このアンバランス。
    個人・民間レベルでやれる事は1年間飽きもせずやってきたが、公的レベルにしかやれない仕組の変革が何も為されていない。終電繰り上げで「コロナ対策やってる感」出してるが、逆に電車は混む(乗客減少に対するコスト削減に違いないが、名目は「人を遅い時間まで町に居させない事」・・だが30分~1時間程度帰宅を早める事がどれほど感染抑制に繋がるのか...)。飲食店の時短も人混みを作る一因になっている。フレックス出勤も今は無かったかのようにラッシュが起きている(自己都合に任せたらそうなるに決まってる)。
    何より咎められるべきは、体調や近隣者の感染で不安を感じたらすぐ検査を受けられる、という体制が未だに作れていない(感染の把捉を遅滞なく行う唯一の対策だと1年前から言われているのに未だ保健所管轄の検査しか公式に認めていない)。そして医療の逼迫。公的部門の無策のため個人と民間が割を食っているとどうしたって見える。

    各病院の努力と苦労が取りざたされ、個人には「わがままを言うな」という空気だが、本当ですか?と。 病院の努力とは医療報酬が経営のぎりぎりのラインにさせられて来た過去の経緯があって、「それにも関わらず、自腹で、コロナ対策やっている病院がある」・・? ちゃんと公的支援しろという話だ。自己犠牲を「褒めてる」場合じゃないでしょ。
    ただ確かに重症コロナ患者がECMO対応になれば習熟する者の負担は大きくなるだろう。受け入れてしまえばその対応に割く時間は「必要に応じて」決まって来る。だが緊急対応というイレギュラーは通常であっても担う部分だ。消防然り、介護然り、公務員的な働きを「させられている」事を同情したり「褒める」前に、公務員並みの保証をしろ、となぜ言えない。「我慢してる人」をほめ、本当は相当我慢して窮乏に陥っていても生活のために店を開けば「我慢していない」と叩かれる。医者は少なくとも食っていけている。過労死云々の話なら、ブラック企業にしか入れず心身を病んでる若い世代の事を心配しても良いんじゃね。医療体制が整わないのは民間の法人独自の努力に「お任せ」しているからで、もっと言えば民間法人である各病院の流儀(経営、社会貢献と社会的地位の享受、従業員の勤務体系等々)を尊重しているため(大きな票田だし)、公が口を出せない領域だからであり、公務員的働きを要求すれば「お金がかかる」と思い込んでいるからだ。全てのしがらみが「何も変えない」政治を許し、ただ感染数が増えた減ったと一喜一憂する「頭の悪い国」にしている。もういい加減、頭の良い政治家を歓迎し、国民が選ぶ政治風土を(そういう当り前の文化を)手にしよう・・そんな声も風に吹かれてさよなら。日本は廃れて行くのみ。
    あ、そうだ。日本には神風があったんだっけ。そうだな~、何も考えず楽勝楽勝、と思ってる方が楽かもね~~

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    2021/05/23 08:58

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