実演鑑賞
満足度★★★★★
前日の公演が中止だった事を当日知った。体調不良者が一人出たためだという。メールの「中止」の文字に一瞬ドキッとしたが、趣旨は「全員陰性を確認したので今日の公演は予定通り」。ホッと胸をなでおろす。陽性者がなかった事にでなく、自分が芝居を観られる事に。エゴも極まれりだが本心だ。
舞台は期待通り。役者に心酔し、演出に心酔した。「演出誰だっけ・・上村聡史?」と当たりを付けたが、稲葉賀恵であった。着実にキャリアを積み、力を示している。
2年ほど前「チャペック戯曲全集」という分厚い本を(高いので買わず)借りた時、『母』はざっとは読んだらしい。「息子の死」がリフレインであった事を徐々に思い出してきた。
チャペックの戯曲は『R.U.R.』が有名で2回観たが、最も秀逸であったのは小説『クラカチット』の舞台化(演劇アンサンブルのブレヒト小屋最終公演)。どの作品にも万人が共感できる普遍性と同時に、作者が生きた「時・場所」を思わせる要素があり、それも含めた風味がある。
この作品で男らが肯定的な響きで口にする「戦争」には、第一次大戦によって覆される前の戦争イメージ(限定的な場所でルールに則って為され、軍人だけが闘って死ぬ)が同居しており、戦争を巡っての男たちと(唯一の女である)母の論争は絶妙に拮抗している。大量破壊兵器が連想される現代の「戦争」が否定的な意味しか持たないのとは違う。医学や科学の進歩に対しても、懐疑的な現代とは異なるものを感じさせる(が、作者は懐疑的視点を織り込んでいる)。
その事情からか、増子倭文江演じる「母」が唱える非戦は、知的なイメージを帯びがちになる。増子氏の好演がこの舞台の質を確かなものにしていたが、時代性の違いを「翻訳」「変換」する作業は(自分が勝手にだが)幾ばくかはやっていた。
喜劇として場面は仕上がり、喜劇である分だけ母の悲哀が迫る舞台。反戦という一つの確立された思想への帰着は回避されている。母の人生というものを想像し、イメージの扉が開かれる(母を体験する事がなく、そういうタイプの母を持たなかった者としては)。
舞台は、軍人であった亡き父の部屋である。この部屋に息子らはよく忍び込む。母はこの部屋で息子らが父に「感化」される事を嫌い、恐れている。部屋の隅に大きな額縁があり、その後ろに肖像画の主人公である父(大谷亮介)が立って風景の一部になっている。武器の類はワイヤーで吊るされ、喧嘩ばかりしている双子はフェンシングの剣を取って大はしゃぎ。国内で紛争が起きると銃を取った。
母はこの部屋では死者と対話ができる、という設定がユニーク。それゆえ、初めは息子が死んだ事に気づかない。息子はおずおずと母の許しを乞うように(悪戯をした子どもが叱られる前みたく)「死んじゃった」と報告する。
開幕時既に死んでいた長男オンドラ(米村亮太郎)は伝染病の研究をしていて感染。次に死ぬのが技術畑に情熱を傾けていた次男イジー(富岡晃一郎)、母に止められていた飛行機に乗って墜落。そして内戦が激しくなると、国軍派と反乱軍派に分かれた双子がそれぞれ、ペトル(林明寛)は反乱罪で銃殺、コルネル(西尾友樹)は戦闘で死ぬ。芝居の冒頭から「この子だけは違う」と信じ、可愛がっていた末っ子・トニ(田中亨)が、ラジオから流れる切実な声に使命感を焚きつけられ「行かせてよ母さん」と告げた時、母は狂乱する。女性の「国家の危機です、起ち上って下さい」と呼びかける声がラジオから響く。部屋には母の父(鈴木一功)も息子・孫らに駆り出されて登場し、既に死者となった男たちが内戦という事態に浮足立ち、「男に目覚めた」トニのためにと何のためだか判らない作戦会議を開いている、という光景。それへ入って来る母が、彼らに対決を挑む。だが全く平行線に終わる論争の後、再びトニと対峙した母は、息子の変わらぬ意志を確かめると全てを諦めたように脱力し、「行きなさい」と言う。
舞台は黒褐色を基調とした昔の欧州らしい調度が点在するが、奥には広いレースの白いカーテンが張られている。このカーテンが不確実な外界(息子らを死に追いやる)との境界を示すかのよう。自在に揺れ、開くカーテンはいつでも息子らを飲み込み、逆光に照らされたシルエットを残して去って行く。作品の幻想的な側面を引き出した演出が舞台に膨らみを持たせていた。