実演鑑賞
満足度★★★
隣屋の名称は耳にしていて、一度d倉庫の現代劇作家シリーズ「ハムレットマシーン」を観たようだが記憶になく、レビューでも言及していないので印象に残らなかった模様。といって気に食わなければ必ず一言申す自分が「書いてない」という事は、まあ統一感のある舞台ではあったのだろう。
さて今作は二作ともコロナを意識した「一人芝居」と場内数か所で映写される「映像」で構成。上演時間約1時間の中程で20~30分ほどの一人パフォーマンスがあり、他の時間に映像を観覧して回る。ただし映像は俳優の語り又は字幕、つまり「時間」で拘束するもので、全体を見終えるのに1時間程度必要である。で、1時間経つと音声は再生を終え、退出扉が開けられ閉幕。「展覧会」とは異なる。
一人芝居の一場面で「オイディプス」の物語を思い出しながらも、主人公オイディプスの「悲劇」の叫びが遠い声に聞こえた。神から告げられた「父を殺し母をめとって子を宿す」との忌まわしい予言から逃れようと旅に出たにも関わらず、オイディプスはその旅先で図らずも予言を自ら現実化させる。調べさせた家臣にその事を知らされるという場面が「芝居」のシーンだ。この悲劇は、尊属殺、母との姦通が「禁忌」であるという事実の上に成り立つが、禁忌の子であるアンティゴネとイスメネはその後も人間らしく生きて行く(作品「アンティゴネ」において)。古代では「罪」は「刻印」されるものであり、厄災の源だったが、現代においてもこの原初的「罪」を扱いかねている面はある。ただこの上演で強調される「嘆き」や人物らの「主観」を切実に受け止める素地が自分にはない。むしろこうした禁忌に苛まれる人間(又は禁忌で人を追い込む社会システム)への観察へと促されるものがある。「何をそんなに嘆いているんだろう・・」と。
「コロナ」という状況が如何に演劇をゆがめているか、その婉曲表現なのではないか、と思う所もある。まず一人パフォーマンスを行なうエリアは天井から吊り下げられた透明シートに囲われ、演じる台にはブルーシートが敷かれている。そして独特な衣裳(ギリシャ風をもじった)をまとった演者がゴーグルやマウスシールド(確か)など二重三重に「対策」を講じた姿で大真面目でオイディプスを演じる。観劇人数は10名程度に抑えられている。
感染対策に「ひたすら(大真面目に)忠実」であるのか、感染対策を強いる社会を「揶揄した表現」であるのか、判別がつかない。ただ、様子からして大真面目の方だろうと思うが、私は後者を望む者だ。「感染ゼロ」を理想とする形を目指す態度、その事自体に私は非人間性を覚える。何度も引用してしまうが戦中の竹槍訓練に「虚しさ」を感じるか、それとも「協同性の美しさ」を見るか、ベクトルは正反対になる。
私はクレバーでない政治・決定を盲目的に人に強いる力への隷従を忌む。竹槍訓練を本気で「戦争に勝つため」に指導した者はいたのだろうか・・。想像するに大半は自分の地位安泰だけが目指されていた。同様に、今の感染対策の殆どが感染防止よりは「異端視されないため」もしくは「濃厚接触者の認定を回避するため」に為されている。これは喜劇を通り越した悲劇だ(「悲劇を通り越した喜劇」のレベルを通り越している)。
今作、演劇のカテゴリーとしては評し難く、☆は上の通り。