獣唄2021-改訂版 公演情報 劇団桟敷童子「獣唄2021-改訂版」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    新・すみだパークスタジオ倉へは二度目の訪問(二度とも桟敷童子の観劇)。新館の特徴はステージが奥深、客席の段も多い(と見える)。天井高め、最上段にオペブースが組まれ劇場全体にフェードアウト感があるのに対し、旧スタジオは横長で最上段は背中が壁、天井も迫る感じだったから閉塞感即ち一体感もあり、客席とステージも間近。前回、今回と最上段から観たことで、長い旧スタ時代に完成されたとも言える桟敷童子舞台の検証の機会となった。
    前作『花トナレ』は千秋楽、今回は初日を観たが、アングラの系譜を辿れる桟敷童子の「テント」に劣らぬ熱量が、新スタジオの最上段=「巻き込まれ感」圏外まで直接には届かず(地球が最適距離なら火星位か)、俯瞰の目線になるが、それでも前回の『花トナレ』は一個の有機体にも似る劇団の即応力(観客や場の空気に対する、また「同時代」に対する)にただ感服し、抑制から滲み出る純度がコロナ下の一つの理想形にも思えた。
    今回、「そこまでではなかった」との感想はまだ初日のせいか、客演率の高さ(主役も客演)のせいか・・。人間どうしても比べてしまうが、同じ回を観た知人は前作に比べて大満足だと笑顔をこぼしていた。
    詳細後日。

    ネタバレBOX

    村井国夫氏が初演では降板していた事を今回知った。初演も初日を観劇。微妙なバランスで成立した芝居だと感じたのを覚えている。家族を顧みない「花ト」(山地の崖を渡って蘭の珍種を採る名人=花を商う村に固有の職業)である老父と、彼を(生活苦で)母を奪った奴だと恨みながらも「花」に魅せられ父に弟子入りする長女、足の悪い次女、同じく花トに憧れる三女の三姉妹との関係を中心軸にドラマが展開する。
    満州に本社を置く花販売会社(東亜満開堂)の社長の「幻の花=獣唄」への情熱、社長の妻と古参の女中、社員が村に現地法人を設立し、長期逗留となり芽生える姉妹らとの仄かな恋、戦争の深化に伴う「花商売」の暗い雲行きと、戦争体制に迎合する在郷軍人会による「非国民」狩りとエピソードが分岐して行くが、時代という不安定要素が言わば写実的になぞられる居心地の悪さが「悲劇」の構造に収斂される事で(逆に)観客が安定を得るのは、三姉妹の死によってである。
    戦時の花禁止令で村と花ト、東亜満開堂は万事休すとなるのだが、辛うじて繋ぐ糸は幻の花と言われる蘭の一種「獣唄」の伝説、即ち「絶望の際で姿を見せる」花の存在だ。ただし現実的な敗勢の中では、この花の存在は希望とならない。もっと別の意味での絶望がこの花の存在と紐づけられている。
    花の生産地が戦争時代花禁止令で苦悩する古い戯曲を見たことがあるが、初演に無かったのは今や「不要不急」の典型である演劇がこの芝居の生業に重ねられている(と感じる)ことだ。
    さて老父は花きちがいの偏屈物だが長女トキワ(板垣)が弟子入りして一年、長女を花トにしようという気になっている。そこへ三女シノジ(大手)が「自分も弟子入りできるよう話を通してほしい」と姉に頼み、聞き入れない姉をよそに自分で山に入って珍種の花を採って来る。二人の感情的な対立は初演ではもっと肌の泡立つ感覚があった。次女ミヨノ(増田薫)は幼少時の事故で足を痛め「村の男らの慰み者」として存在を許されてきたとされるが、村では異質の者であった三姉妹が(そうとはっきり書かれていないが)花トとして村に貢献する存在となり、また東亜満開堂の登場により村に活気がもたらされ、長女と三女が村の宴席にも呼ばれると次女にも行こうと誘う等、本来対等な村の成員である権利意識も描かれる。男好きのする次女ミヨノにまず接近するのが東亜満開堂の社員加藤(稲葉)。同情・憐憫の域を出ないと見える加藤は招集を受けた時、ミヨノを袖にするがそれが良心の発露であるのか逃げであるのかが不明(初演では男の一時的な熱情であった事が露呈した、それに絶望して自死する経緯がはっきり見えた)。一方社員山浦(三村晃弘)は考え深いタイプ、これにトキワが惚れ、相思相愛となるが山浦は戦争に対する疑問を口にし、徴兵逃れの方法を教えた咎で捕まってしまう。三女は一本気で空気を読まない突進型に描かれているが、村で徴兵にも取られない男三平と何故か気が合いカップルのようになっているが、その三平がついに徴兵に取られる。・・・こうして老父(村井国夫)は、時々登場して我が儘ぶりや、長女との関係の変化を示す程度であった所が、(作者がそう書いたのだから当たり前ではあるが)三姉妹が皆死することで「望まずして」主役に躍り出るのである。
    初演での印象は、この老人は「花に捕えられた」男であり、人間関係には不器用だが花採りにだけは才気を示すような存在、その男が娘と(親子ではなく花トの一味として)関係を持つこととなる。全てを選んで来たようであっても宿命の中に生きるしかない存在、そのようにも見える余地があった。頑なな老人が、娘を失うことでまるで「思い出したように」そこにあったはずの何かに自らが(はからずも)依存していた事に気づき、絶望する。この懊悩の中で、男は三たび「獣唄」と出会う。そして終幕で辛うじて体を支え、生きてやると叫ぶ。ラストで受け取ったのは父の存在(を演じる俳優)それ自体であり、村井国夫の父あっての感動だった。
    この「感動」を基準に今回の初演観劇を振り返ると、父のスタンダードと「変化」の描写に物足りなさを覚えた。簡単には認めない父である。頑なさ、傍若無人さ、人の神経を逆撫でする存在を存分に感じてから、娘の怪我に狼狽する父の姿が見えたかった。
    次女の自死に必然性がもっと見えたかった。花採りが禁じられた後、冬山に入る長女と三女の衝動がもっと見えたかった。正直な感想だが、「比べてしまう」自分にも困ったものだ。

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    2021/05/31 08:59

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