桜の森の満開のあとで(2020)
Ammo
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2020/03/12 (木) ~ 2020/03/18 (水)公演終了
満足度★★★★
初演のfeblaboプロデュース公演を思い出しながら、作者本人による演出を興味深く観た。ある大学のゼミで卒業もかかったモック(語尾を上げる発音)、即ち模擬会議を展開する模様が描かれる。
この会議は安宅市という北陸地方の架空の町の議会機能として採用されている「連合会議」を再現する形で行なわれる。出席者はその帰属先の代弁者という事で「商店」「議会」「漁民」などのカテゴリー名で呼ばれるが、初演ではこの呼び名と人物とが中々結びつかず、かなりアップテンポでラストは煙に撒かれた感も無くはなかった。今回は打って変わり、「こんなに少なかったっけ」とキャスト表を見直した程。
さてゼミの年度最終試験として行なわれるモック(模擬会議)のテーマに選ばれたのが、「高齢者から選挙権を剥奪する」条例案。「安宅市」はゼミでモックを行なう際の定番らしく、議会、商店、漁民、農民、観光、住民(南)、住民(北)、オンブズマン(勧進帳)、企業に加え、新たに「役場」を宛がわれたメンバー。新参はともかく、勉学とは言えこれと付き合って来たメンバーは、架空ながら既に愛着のある町である様子。
試験には卒業がかかっているとされるが、本当は皆卒業できるらしいよ、との発言もあったり、「真剣勝負」で議論を行なう事自体に主眼が置かれている、という事で観客は議論の中身に集中する。ちなみに参加者が取り得る立場は賛成、反対、保留の三つ、賛成か反対かを掲げて主張し、通れば成績Aがゲット出来るが、負けたらD、即ち不合格というリスクがある。無難にやり過ごすなら「保留」で合格だが判定はC。敢えてリスクを取って賛成・反対を選ぶ動機は、ある学生の場合志望が国家公務員なので成績Aは欠かせない、といった按配である。以上のルールが、人物紹介を兼ねて前段でさらりとやられる。ゲームの解説が終れば本題である。
ただし現実のドラマも勿論ある。長らく欠席している女子を、彼女をゼミから遠ざけた本人だと悩んでいる主人公女子がどうにか修了試験(モック)に誘う出そうと奮闘する前段がある。ゼミ生全員の合意という教官が出した条件をどうにかクリア(ここでの交渉術が面白い)した上で、本人に会うも、大学を無意味に感じている相手の同意は得られない。が、食い下がった彼女の思いが通じてか、当日少し遅れて問題児は登場するのだが・・。この現実ドラマはモックでの「賛成・反対」の立場表明とうっすら絡む。
で、今一つのルールは、会議中は「役」としての発言しか許されず、演じる「本人」から発せられる発言は「メタ発言」として退けられる。しかし実際には感情が高ぶってメタ発言乱発という事もあり、却ってそれが新展開をもたらしたりする。
初演は「あくまで架空の議論」と、斜に構える系に寄った演技が多かった記憶があるが、今回はそれぞれの人物が相応に「議論」に入り込んでいた(つまりはモックとしては上出来)。それはそれで、矛盾を抱える箇所も無くはないが、議論の深まり自体こそ恐らく本作の狙いだろうから、演劇的な高揚に繋がった成果の方を肯定的に見たい。
ただ模擬会議という「劇中劇」を終え、現実世界に戻っての大団円は微妙なニュアンスを残す。深刻に対立していたと見えた二人の女子学生が談笑している。対立自体が「振り」なのかと疑ったがそれは無かったよう。誤解をしっかり解く説明が十全であったとは思えず、そこまで複雑にしなくても・・と私などは思ってしまった。
議論はあくまで議論、現実は現実と判ってるが、でも無駄では無かったネ・・と芝居としてはまとめたい所だが、大学入学・成績という人の進路を決定付けるシステムへのシニカルな視点が強く混じると、議論そのものの価値が揺らぐ。複雑な気分になる。
人形劇「みつあみの神様」
人形劇団ひとみ座
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2020/03/18 (水) ~ 2020/03/24 (火)公演終了
満足度★★★★★
池袋でひとみ座を観た。1年前の『どろろ』が忘られぬが、今作70分の小品ながら、人の似姿が、モノ達が躍る光景に眩惑される。人形劇の持つ表現の幅に今回も驚嘆させられた。
こいつには人が演じる舞台でもアニメでも、まずお目に掛かれない。
是でいいのだ
小田尚稔の演劇
SCOOL(東京都)
2020/03/11 (水) ~ 2020/03/15 (日)公演終了
満足度★★★★
同じデザインの小さなチラシ、同演目をキャストを変えながら再演を重ねる形態に腰の据わった姿勢が滲み、何度か足を運びかけたが漸く叶った。
3・11を首都圏で体験した9年前が蘇る内容。被災という状況はドラマの下地を提供するが、本作は意外性を狙ったのでない「典型」と言える凡そ三つのエピソードを独自な文体で立ち上げ、時間経過と共に描いた「人間の記録」であり、「記憶の装置」。その後何年間か覆っていた暗鬱な気分の始まりの日の皮膚感覚を、私は久しく忘れていた。SCOOLという空間に照明を効果的に用い、想像を助け、情景を浮かび上らせていた。
その鉄塔に男たちはいるという+
MONO
吉祥寺シアター(東京都)
2020/03/13 (金) ~ 2020/03/22 (日)公演終了
満足度★★★★
土田氏のテキスト&MONO舞台は、判りやすいが「如何にも」な作りがあってそれがイマイチ不得手であったが、記念碑的作品という事で(ギリギリまで迷って)観に出かけた。
吉祥寺シアターのタッパを有効に「鉄塔」が組まれていて入場するとまず壮観なのだが、にも関わらず「シチュエーションに遊ぶ」故・別役氏の敷いた「演劇」モデルの空気が流れ、何を描いているにせよそれ自体「おいしい」。大装置は派手で機能的だが突出せず例えばゴドーを待つ2人が居ても違和感ない、自ずとそこにあるかのようで芝居とマッチしていた。(俳優が場をそのように見せた、とも言えるか・・)
話のほうは、狙ってるな、という作為をさほど感じさせずにおかしなやり取りを成立させ、(頭でなく)筆が書いたよう。作家土田英生へ私の(勝手な)イメージを修正。架空の(どこだか判らない)国での非日常が、日常のように過ぎる時間が信じられる。
ラストの形は如何ようにもあり得るだろうに、あのラストを選んだ。書き手が計算をしないなどという事は考えられないが、必然性も特段の説明もなくポンと置かれたエンディングが素直に受け止められた。
土田作品は過去3つ程度、この作品が持つ「らしくなさ」を私は見出した気でいるが、この演目の「良さ」を作者やメンバーはどう感じているのだろう・・目的化しきれないピース、余白を飲み込まざるを得ずにその場に存在する様に、豊かさを感じた。
「こういう時期」にしては、会場は客で埋まっていた。
ゆうめいの座標軸
ゆうめい
こまばアゴラ劇場(東京都)
2020/03/04 (水) ~ 2020/03/16 (月)公演終了
満足度★★★★★
まず「俺」、続いて「弟兄」(何故か「おととい」と読む)を観た。
3年前の下北ウェーブ企画(だったか)でピックアップされた3劇団の一つがゆうめいで演目は「弟兄」。スピード感があって中身はねちっと重い。確か「ドキュメント路線で成功したが、ネタ切れせず続けて行けるのか・・」的な感想を書いた覚えがあるが、デビュー作「俺」から最新作「姿」まで、かの路線を堂々と歩んでいる。
役が客席に語るナレーション・スタイルが成功している芝居は結構多い。昔~し観た「ホテル・カリフォルニア」、「焼肉ドラゴン」も。回想式が相応しいドラマ、と言えるか。今回のゆうめいの二作品も、苛烈ないじめや死と隣合せの日々が「回想」のフィルターによってノスタルジックに立ち上がる。「俺」ではMisha、「弟兄」では椎名林檎で。
優しい顔ぶれ
らまのだ
OFF OFFシアター(東京都)
2020/03/06 (金) ~ 2020/03/11 (水)公演終了
満足度★★★★
久々のらまのだ観劇。新人戯曲賞をとる前に観て、それ以来だから4年近く経った。過去観た3公演とも、労働と無縁でありえない人間の現代的なありようを極小的に描いて掬い上げている、との印象。今回もその印象大だが、それぞれタッチの異なる3作品のオムニバスで、コンテンツ的には贅沢。2番目がより長編で人物も多く、労組が死に体である日本で完全弱者となった下請、被雇用者という構造上の矛盾や、表現コードと自粛の問題が反面教師的に展開。1、3はほぼ二人芝居で描写される世界の極小度は高いが、ディテイルが醸す味わいに吸い寄せられる。説明不足を感じる事がままあるユニットのその印象は劇の閉じ方が影響。今回は軟着陸。憲法をテーマに括っているのはややこじつけ感。「個」の描写に傾注した作劇でも社会の中に生きる人間が象られている。
きらめく星座【公演中止3月5日(木)~8日(日)】
こまつ座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2020/03/05 (木) ~ 2020/03/15 (日)公演終了
満足度★★★★★
山とある井上ひさし戯曲でも再演頻度がえらく高い今作を一度観ておこうと足を運んだ。最も井上ひさしらしい娯楽性・社会性ともに高い作品、と思った。対米開戦前の日本では、既に歌舞音曲が規制され、国民を統制に導く標語が踊り、敵性言語(英語)が敵視され、軍服姿が行き来する。時代は戦争。一方舞台は都東京市のどこか、オデオン堂なるレコード店。この取り合わせで井上氏は両者の正面衝突を巧く回避しつつ、「こちら」側の土俵である歌の世界で勝負する。人間の心の襞を表現する歌曲、踊り、その人間が紡ぐドラマ、芸術・・これら大義(戦争)と対置されるものへの作者の深い愛情がこの上なく成就した娯楽作にしてプロテスト芝居。
蜚蠊
劇団女体盛り
シアターシャイン(東京都)
2020/03/11 (水) ~ 2020/03/15 (日)公演終了
満足度★★★★
この所どの公演の客席も通常の半分という印象だが、小さなシアターシャインはさながらサロン。逆にゆったり鑑賞できる貴重な機会、と思いきやのんびり観ていられる代物でなく。。ゴキ世界を擬人化した別の劇団の芝居を随分前に観たが、今作の残酷なテイストにこそゴキという選択は相応しく、巧く書かれた寓話であった。ある種の不快さはこの舞台に必要な不快さ。視覚的なインパクトも強いが、それ以上に無対象の、台詞のみで想像させる風景が脳裏に焼きつき甘苦い余韻を残した。若い役者の直線的で無技巧な(に見える)演技も、奇怪な夢のような劇の印象に加担している。
対岸の絢爛
TRASHMASTERS
駅前劇場(東京都)
2020/03/06 (金) ~ 2020/03/15 (日)公演終了
満足度★★★★★
IR法によるカジノ誘致にゆれる関東Y市・現代。漁民が軍により船の供出を強いられようとする九州の漁村・1940年代。大規模公共事業だか誘致だかへの反対運動が熾烈化する中国地方F市・1980年代。ロザリオを受け継ぐ家族史を縦糸に流しつつ「公」と個人・市民の対立局面を切り取りその本質に迫った力作。
人物造形が秀逸。付和雷同で思想の無い人間が自分の正しさを疑わず異質を目の敵にする姿、異なる価値観の折り合い地点を見出そうとする善意の人間が結果的に陥る欺瞞。。登場する凡そ末端に等しい人間を通して、こうした「事業」が持つ本質と、事業推進の根源となる何者かが「空白」として浮かび上がり、それについて考え始める。
2時間20分によくまとめたと思える濃さ。
黒い鳥
アートグループ青涯
アトリエ第Q藝術(東京都)
2020/03/07 (土) ~ 2020/03/08 (日)公演終了
満足度★★★★
初の成城学園前そしてアトリエ第Q藝術。駅から徒歩2分の道のりだったが見失い、心細くなったその時、前方から歩いて来るある若手演出家(先日舞台を観たばかり)の家族連れが目に入った。「このへん?、いや違う」的会話をしている風。これは心強い先客と安堵し、後をついて行こうかと家族を追った視線をふと進行方向に戻すと、数間先に劇場の小さな看板が手招きしているではないか。やあそこに居たのか君は。さっきの演出家はここに立ち寄ったのかい? 無言の対応で、どうやら全く無縁だったと了解。暖かいお出かけ日和、さほど遠くない土地にこんな劇場が、と嬉しくなる。調べれば2017年~とまだ新しい。狭い受付スペースを通って劇場へ入ると、どことなくアトリエ春風舎似。座席はゆったり幅に置かれ、隣席の脚に接触する(嫌がられる)心配なく、心は舞台に集中した。
劇団阿彌出身の二人のユニットによる立上げ一発目公演が実現の由。パフォーマンスは阿彌特有の世界がやはりベースにある。と言っても私は十年以上前、王子神谷駅からの道を迷いに迷ってたどり着いて20分程度目にしただけだが、舞踏と能を観た目には馴染みある世界。超低速の身こなしと、面の使用、劇的シチュエーション(ストーリーでなく)の吟味の時間。パフォーマンス中の時間は、人間のある劇的状況をするめを噛むように噛み締める時間であり、視覚的な美が物語の状況を突き放すように端麗さを保っている、という能の風景は阿彌のそれと(多分)共通している。舞台は霊的交感が目指され、そのための俳優の身体的鍛錬が恐らくあり、観客はその念を共有し霊性を感受する。観客(信者)を説得し続けるのが「道」の探求者となった者の宿命。
さて今回の舞台は、私には、阿彌の特徴がある仕方で継承可能である事を示した、という感想になる。それ自体物語を持つ個体(身体)と、物語の世界とを橋渡す言語が、今探り始めたように恐る恐る、ぎこちなく吐かれ、培われたそれなりの年輪と、素人性が同居する独自な空気が流れていた。つまり、阿彌との比較では言語世界の方へ一歩踏み出そうというベクトルを感じ、しかし未だ不分明、手探りとの印象だ。
現在進行形のストーリーを追う「お芝居」的側面がそれに当たるが、言葉は詩のモードで書かれ、出来事を既にあったこととして俯瞰的に捉える場所に誘う(彼女らの出自)。ストーリーとして見た整合性の甘さは、「芝居」のモードで浮き上がり、一方詩劇の基調となれば、ディテイルよりは全体を覆うディストピアに生きる人間の実存に意識が向かう。問題は「芝居」な部分で、舞台にメリハリを与えるピースにはなっていたが、演技態かテキストか、いささかぎこちなかった。
美術、照明含めシンプルな中に趣向(意図)が窺える。次の点を探り当て「青涯」の線(足跡)を画いて行ってほしい。
ダンシング・アット・ルーナサ
劇団俳小
d-倉庫(東京都)
2020/03/01 (日) ~ 2020/03/09 (月)公演終了
満足度★★★★
「群盗」「殺し屋ジョー」と秀作の続いた俳小の翻訳劇の最新作。「沖縄世」に続き小笠原響演出舞台であったが..。
わが想像力の減退のせいか(はたまた疲労か)、人物の個体識別までは出来るが、語り手である青年と彼が育ったその家族の他の成員との関係(続柄)が判然とせず。。それでもこの物語の舞台の地方性(都鄙の差)や民族的事情による困難、家族としての苦悩などが苦くもノスタルジックに再現されている、という雰囲気は感じ取った。
京河原町四条上ル近江屋二階 ー夢、幕末青年の。
Pカンパニー
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2020/03/04 (水) ~ 2020/03/08 (日)公演終了
満足度★★★★
昨年名前の頻出した福田善之(サルメCとの『オッペケペ』/新人会『新・ワーグナー家の女』/Pカンパニー『一人芝居「壁の中の妖精」』)いずれも旧作だったが、今回は齢八十九にして新作を作・演出。混迷の幕末を切り開いた(らしい)志士の一人坂本龍馬と盟友中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件というらしい)に照準したお話。取材記者とその上司風の現代男女二人の語り手は物語の「現場」に近接し、「今」にこの事件を再構築しようとのコンセプトが冒頭から小気味よく展開していた。
フォーカスは中岡慎太郎の方だが、しっかり登場する龍馬を演じた客演者は身の置きどころ(演じ方)を得ず、妙にヒロイックに振る舞うなど迷走していた様子。前半気になって仕方なかったが気を取り直して後半(休憩有)。
舞台は疾走感の中、語られる言葉を吟味する間もなく進む。時代と併走しながら人は物を考え、身の振り方を定め、事を為す他ない事実を近江屋事件の「時間」を再現して味わおうという趣向か。彼らにとっての悲劇が如何なる意味で悲劇か、そうでもないか、作者なりの眼差しを汲み取ろうとしたが、手垢のついた評を避けたのか。しかしある種の気迫のようなものは舞台に流れ(こちらも想像を逞しくし)、正体のよく判らない塊そのままを受け止め、帰路についた。
時代モノだがエレキベースとギター、ドラム3名の生演奏(監修:日高哲英)が効果的。プロテクトソング(ダンス?)としての「えじゃないか」(えやないか)が変奏されるフィナーレでは、重奏で聞き取れない歌詞は残念であり、この掛け声が二人の志士の生き様ともう少し響き合わせたかったが。。
出だし以降小気味よい自由な台詞運びは、前衛というより自然体に書きつけられたこの雰囲気、思い出せば別役実の最新作(下北B1でやった、昨年だったか)を思いだ出させた。
グロリア
ワンツーワークス
赤坂RED/THEATER(東京都)
2020/02/27 (木) ~ 2020/03/08 (日)公演終了
満足度★★★★
数回に一度観たくなるワンツーワークス。今作は初演で海外戯曲(メルマガでも俳優諸氏の「戯曲がヤバい」とのコメント)、オーディションとは言え客演で固めた布陣に古城氏の意気込みが・・という事で今回は迷いなく「買い」。中日を観た。
脚本がやはり面白い。翻訳の限界、英語文化圏の身体と発語に迫る難しさは感じるものの引き込むものあり、終演まで持って行かれた。秀逸は前段で悲劇が確定し、覆水盆に返らず努力は報われない事態から、「その先」が描かれる所。現在進行形で力強く物語は続くが・・。
ワンツー観劇7本程度?の中で一番面白く観た芝居だが、これが通常公演では団員さんも中々...とは余計な心配か。
色指南 ~或る噺家の恋〜
劇団ドガドガプラス
浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)
2020/02/22 (土) ~ 2020/03/02 (月)公演終了
満足度★★★★
こたびの新作はドガドガの要素の一である艶路線にぐぐっと踏み込んだ作で、野坂昭如による興味深い題材を舞台化した稀有な産物を目にした。
難点から言えば、、受け止め方にも拠るが、戯曲上のお家芸は歴史の中に物語を据える作りである所、今作の舞台は太平洋戦争開戦からミッドウェー海戦の手前まで、即ち日本が破竹の勢いでアジアの広域を軍事制圧下に押えた時期まで。冒頭戦勝の報に人々が湧く場面総集編が置かれ、また別の場面では自分のためでなく自分が誰のために役立てるかを考えねば(オリンピックもあるし)、という台詞、そしてラストは軍歌が立て続けに2曲、最後はフルコーラスを歌って赤紙青年を送り出す・・で幕。「日々の暮らしに文句もあろうが今は日本が大変な時、自分が国に対してどう役に立てるのかを考え、生きがいにしよう」・・このメッセージでまとめた劇であった、と結論付けても違和感のない作りになっていた。大いなる皮肉で締め括った、というような仄めかしもなく、やや後味が悪い。
一方、主役である空気読まない噺家の台詞「軍服に髭をはやした野郎共が幅を利かせやがって」が唯一「アンチ軍国化」を言語化した台詞と言えるが、酔った彼がそう言うのを友人が必死で止める、という場面は「現代」に重ねた皮肉と読める。だがこれ一つのみで最後の軍歌代斉唱を「皮肉」と解釈するのは中々厳しい(演出意図はそうであったとしても)。また「他者のために生きる」メッセージそのものは正しい、とのエクスキューズがあるのやも知れぬが、いやいや。語る文脈が言葉そのものより重要であるのは敢えて説明する事でもない。
それにしても客席はまばらでこれは客としても淋しかった。
Pickaroon!<再演>
壱劇屋
DDD AOYAMA CROSS THEATER(東京都)
2020/02/25 (火) ~ 2020/03/01 (日)公演終了
満足度★★★★
4年前の花まる王子以来2度目の壱劇屋。評判を聞きつつも日が過ぎた・・そのせいかと訝ったのは舞台がまるで変貌、しかも世界観は確立された感があり、狐につままれた心地であった。
芝居の方は、凡そ殺陣ショーに等しい冒頭暫くから、それなりな物語が立ち上って来るあたりは見物であった。。・・いやいや、その前にやはりこの変わりようである。
結局あとで調べたら同じ壱劇屋にも大きく二系統あるらしいと知り、得心。今回のは、私がチラシで容赦なく候補から外す、時代劇風・ファンタジック・活劇(勿論殺陣有り)、演目では「猩獣」「独鬼」(作・演出武村晋太朗)等で、要は新感線ファン向けの世界(個人の憶測です)。
これに対し以前観たのは別系統(「SQUARE AREA」作・演出大熊隆太郎)、王子小劇場の四面だか二面客席の真ん中に置かれた台(スクエア)を使って目まぐるしく展開する計算された身体パフォーマンスであった。
4年前のは「型」の芸術性を指向した知的なユニットの風情であったのが、今回は座長(作演出)自ら主要人物の一人を演じ、終演後もよく喋り、体を張って汗で売るパフォーマンス集団といった面持ち。このギャップは何度でも言い募りたくなるがここまでにして、、両者に共通した印象は、場面の造形と構成のアイデアとスピード、それを可能にする俳優の身体能力。
結論的には、今回のは物語が大掛かりな分、動きの型には情緒が伴い、以前観た「目だけで味わう快楽」は減退したが、物語による高揚があった。欲しかったのは以前のであったが。
その「物語」については又、余力があれば。
東京ノート
青年団
吉祥寺シアター(東京都)
2020/02/19 (水) ~ 2020/03/01 (日)公演終了
満足度★★★★
東京ノート実質初見がInternational ver.であり、良い方のインパクトを受けた(おまけに青年団的演技の新局面か?等と)。そのためか、オリジナルバージョンは従来の青年団現代口語演劇に「戻った」感じがあった。やや中心に位置する松田弘子・能島瑞穂のイイ感じも前回と変わらないはずであり見ていて特段変化はないが、多様な異質の中での光り方は違う。インターナショナルバージョンは設定じたいドラマチック。細部がよく出来ているのは今回のオリジナルの方であったりするが、群像として見る訳であるので、そういう感想になった。
欧州での戦争のため、美術品を皆遠い他国に送り出すことになっているらしい、という設定は、広い欧州のかなりローカルな地域までも戦闘(美術品が損壊するような)が及ぶ程シビアなのか、とか、ゆったりとした戦争なので人類の遺産保存等の公益を各国考える余地がどの国にもある、という事なのか(若しくは美術品保存団体が活発な運動を展開している、当事国同士のそれは合意事項となった)、とか。やや特殊な状況が近未来に発生する、そういう想像を客席でめぐらすのは悪くないが、戦争の実態が殆ど語られない中では「戦争」の語がドラマ性を担保する記号としては、いまいち機能しないな、というのが実感。作者がそれを狙ったか否かは判らないが。
そんな事で、戦争、美術品の保存、という世界大の「公」の視野と、美術館の中で展開する「個」的なあれこれの対比が、インターナショナルverでは「数カ国の人間が居る」状況から明白であるのに対し、オリジナルverでは皆日本人であるので遠いヨーロッパとここ日本という対比のみとなる。そこで「個」が強調されるが、個々それぞれの事情の切実度の見え方が前回とはやはり違うなァ(従来の青年団劇だなァ)と。
往転
KAKUTA
本多劇場(東京都)
2020/02/20 (木) ~ 2020/03/01 (日)公演終了
満足度★★★★
痛恨の中止発表が相次ぐ中、どうかこれだけは・・と祈る気持ちで当日を待った公演。
9年前の初演(もう9年!)は、せわしない日々に紛れて見のがした。震災の起きた年。初演をプロデュースした元・世田谷パブリックの矢作氏(現・穂の国とよはし芸術劇場)がパンフで上演までの紆余曲折を記しており、舞台が被災地福島である事と「事故」にまつわる物語である事とで、上演見送りの声もあったらしいが、演出・青木豪氏の押しで(具体的な地名を止める等して)上演が実現したという。
つまり作品自体は震災を踏まえて作られたものではない。にも拘らず会場に入るや高みから見下ろす舞台装置のシルエット、そして流れているノイズから2011年当時に引き戻される感覚に襲われた。混沌の状況で現在地を探していた、と今は思い出すあの混沌を思い出させる雑音。初演時に用いた音源使用なら合点だし新たに作ったとしても納得する。
夜行バスというプライベートかつ公共空間で人がたまたま居合わせ、そこでの出会いもあった3組の「それまで」と「それから」を点描し、全体を構成する本作は、人の言動のディテールに人の心を発見し、その接触と変化にハッとさせられる、桑原女史らしい上質な劇であった。
少女仮面
metro
テアトルBONBON(東京都)
2020/02/19 (水) ~ 2020/02/24 (月)公演終了
満足度★★★★
metro版『少女仮面』は主宰・月船女史としては、いつかは取り組みたかった本丸中の本丸に、時期尚早を怖れず船に飛び乗るように上演を決めたといった事のよう。女優月船女史の大一番な気配を察知しつつも、こちらは単に、単純に『少女仮面』世界をどんな風味で堪能できるかを楽しみにつぶらな瞳で舞台を見つめておった。
先日のシアタートラムでの同作を観た者としては、この演目にはこの会場の広さが何とそぐわしい事かと、首が痛くなる程頷きながら(いや心で)、まず女優志望少の女(熊坂理恵子)と婆(村中玲子)による絵本風可愛げなオープニングや、狂気演技のサイボーグのような若松力演じるバー春日野マスター、ボーイ2名(片岡哲也・影山翔一)によるブラックバイト的泣き笑いタップダンスやらに当てられる。蛇口をすする男(井村昂)、腹話術人形と暮らす男(久保井研)、そして元宝ジェンヌ月船による春日野の登場である。
小空間が可能にするのはまじめと不真面目、実と虚の共存であり、虚を生きる春日野の目に同期しつつ対象化する観劇というのは、相当な技であり、狭いステージから虚がはみ出して観客に侵食するという距離が必要なのではないか・・。
様々オイシイ要素が圧縮された天願演出の舞台であったが、前半の飛ばし方に比すれば後半、というか終盤少々息切れの感も。戯曲の問題と言えば問題だし料理法の問題と言えば問題。これだけ巧く料理できてもこの舞台の本質とは何なのか、劇中人物が括られるのだろうアウトサイダー性を発揮して彼らは一体何に抗っているのか、総体としての回答がやや薄い気がした。しかし過去観た3つの少女仮面の中で最も映像的に記憶に残りそうである。
炎の人【公演中止(02/28~ 02/29)】
劇団文化座
こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロ(東京都)
2020/02/20 (木) ~ 2020/02/29 (土)公演終了
満足度★★★★
本棚の戯曲本を手に取り電車で小一時間、ざっと眺めて劇場へ(この所の睡魔対策也)。三好十郎の戦後の出世作とされるが何処となく商業的成功を得たぶん批評性の点でどうなのか(甘いに違いない)・・等とぼんやり想像していた。「廃墟」や「胎内」等に見られる鬱々とした内省、自己批判とは、確かに一線を画した一画家の評伝だが、作者自身若い頃画家を志したという事情は作品が明快に打ち出すゴッホ観、芸術論・人間論の掘り下げに見事に結実している。評伝によくありがちな、鋳物の如く周囲から対象の輪郭に迫る方法をこの戯曲はとらず、全くゴッホその人に行動させ、多弁に語らせている。俳優の仕事としてはゴッホ役が主役として3時間の舞台を担う。
ただし作者はこの遠い他国の物語を、むしろ当時の日本としては「新劇」=左翼の演劇として受容され易い作品に仕上げ、そのように評価された事を良しとした・・と想像する。その価値観に振れたように思える場面(典型はゴッホ以外の役達がゴッホについて語るラスト)には言葉の総括に違和感があるが、ゴッホの死までの場面は秀逸であった。
ゴッホの出自・来歴(牧者として炭坑の町で人々のために奔走した)と、絵に向かう時のこだわりは不可分にあり、ギリギリの所を生きる様に人間の美を見出す感性は周囲の理解を得られない中、弟テオドールだけが彼を経済的・精神的に支え続けたのは史実に違わず。
タンギーという老マスターが営むパリの画材店では、ゴーガン他の絵の手法に目を見開かれたゴッホがそれらを生き急ぐように自作で試し、画家として出遅れた年齢分を取り戻そうと絵を描き、また激しく議論を闘わす。ここでゴッホは絵画にとって重要な原則を発見したと言い、盛り場で飲もうと出ようとする一行を引き止めて議論を吹きかける。ゴッホは絵には実在、人間が「そこに居る」事が重要なんだと唱える。これに対しロートレックかゴーガンあたりが近代的思考に基づく見解をもって反論する。全ての事物は人の目に映るイマージュに過ぎず、画家は自分が対象を見るイマージュをカンバスに描きつけるだけだ・・。こう来られれば普通なら引きさがるしかないが、ゴッホはさらに反論する。○○の描いたあれは確かによく描けている、だが表層を舐めただけの絵には、肝心の人間が居ない・・一番大事なのは、そこに人間が居る、それを外しては何もならない・・。
近代がやがて行き着く相対主義を代弁したかのようなゴーガンの説を否定するゴッホという存在は、「人それぞれ」と割り切れって生きる事のできる高踏遊民ではなく炭坑で困窮する人々をまず思い浮かべる人間であり、「確かにそこにいる」と認知される事が生存の条件である人間の方を顧みる人間である、と言える。(中流意識という戦後経済成長がもたらしたこいつから、この件を考察するも有り。)
実は本題は俳優について、のつもりだったが例によってだらだら書き連ねてしまった。
一言だけ。大型俳優がキャスティングされ集客される演目としてでなく、作品勝負で文化座の若手(にまだ入ると思う)を据えた公演で、彼はゴーガン演じた文学座のバリトン声の中堅俳優とは異なる「判り易くない」演技、言い換えればその場に即し、生きたゴッホを演じ、生き切ったと見えた。完成されておらず、完成を目指したものでなく、ただ一舞台を生きる、を続ける姿に好感。
社会の柱
新国立劇場演劇研修所
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2020/02/21 (金) ~ 2020/02/26 (水)公演終了
満足度★★★★
大作に挑んだ第13期修了公演。見応えあり。彼らが演じてこそのこの作品、という印象も。
幻想劇を書いていたイプセンが現代劇の作家となる転機の作品、とパンフあったが、昨年上演のあった「リーグ・オブ・ユース~青年同盟~」(雷ストレンジャーズ)がむしろ転換期の作品で、今作は既に現代社会劇の範疇に思えた。39歳で「ペールギュント」を書き、上記の作を経てその十年後に「社会の柱」、となっている。以後間をおかず「人形の家」「幽霊」「民衆の敵」とイプセンの代名詞となる作品が続くが、その始点と言える「社会の柱」が初々しく感じられるのは、人間の良心に頼んでのハッピーエンドだからか。
こううまくは行かない、と思える余地が多分にあっても、卑小な人間を新人らが体当たりで演じる姿はいささか出来すぎた結末も感動をもって受け取れた。この町随一の有力者という地位と富を危うくしてでも真実を告白するに至った男、カルステンの爪の垢をこの国のトップに進呈したい。