鮭スペアレ版・リチャード三世
鮭スペアレ
銕仙会能楽研修所(東京都)
2021/04/17 (土) ~ 2021/04/18 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
沙翁の名をもじったこの集団の舞台には中々縁がなかったがようやく目にした。シェイクスピアへの拘りの所以は不詳だが遊び心の発露の態様を見た。己を醜く生み落とした創造主へ叛逆するかのように血塗られた道を行くリチャード三世の物語は、以前鵜山仁演出/岡本健一主演の新国立舞台を観て印象にある。悲惨な末路に殆ど同情の余地がないにも関わらず、そこに人間を見る。
舞台は一時間強。黒ずんでシックな能舞台にまず語り手(パンフにはウタイとあり謡い方に当る模様)の男女二人が切戸口(能の始めに囃子方・謡い方が出て来る)から現れ、次いで橋掛かりを通って5名の女優が巫女をイメージさせる白と朱の衣裳で登場。語り手は場のタイトルと地文を語り、5人は持ち回りで役を演じるのだが、場ごとに表現形態が変わり、前半にあったラップ調だけはもっと符割りにヒップホップらしいセンスを欲しく思ったが、トボケた演出であるのに場を重ねるにつれ「劇的」が高まり、「リチャード三世」はオーラスを迎える。
この「遊び方」というのが不思議に真面目さ、誠実さを感じさせ、抄訳に近い作りでも戯曲が生きていた。
一目置かれた存在らしい理由が判った気が。
「SEVEN・セブン」「岸田國士恋愛短編集」
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2021/04/09 (金) ~ 2021/04/16 (金)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
岸田國士が目当て。日が取れず配信を鑑賞したが環境よし、岸田戯曲の繊細な空気感を堪能した。「恋愛」と括られた戯曲3つの内「恋愛恐怖症」「チロルの秋」は正に男女の現在進行形の恋愛が描写され、言葉の密度が高い。いずれも二度と訪れない瞬間のヒリヒリと痛く心地よく悲しく滑稽な駆け引きを役者は演じ、恋愛の純度を高みに押し上げた作りであった。最後の「命を弄ぶ男」は飛び込みやすい線路に訪れた二人の男が登場人物で、自死へ駆り立てた動機に女との関係がある。両名ともがメロドラマ一本作れそうな苦い悲恋物語を語るが男らの滑稽さが芝居としては救いとなり、余韻の中に人生の情感が籠る。
「命」「チロル」の生舞台は初めて。繊細な機微に寄り添う音楽も効果的でキーボードの生演奏と最後に明かされた。
『crash~M銀行人質事件~』
singing dog
小劇場B1(東京都)
2021/04/08 (木) ~ 2021/04/12 (月)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
配信で鑑賞。
1979年に大阪で実際にあった銀行人質立て籠り事件の実況再現的な劇。同作者の作品は昨年「Crime 2」での短編を(やはり配信で)観て2度目。犯罪事件をリアルタイムに進行する形で描く点で共通する。
ただし今作の舞台は修羅場である銀行窓口のあるフロア(1階)ではなくその上、2階に潜入した警察が臨時で設置した対策本部。ここで現場指揮に当る警視正(村上航)や、その部下、米国帰りの若い警視(犯罪心理に強い)、本部から来たというベテラン刑事、交通課から異動したばかりの女性警官が、時折階下で響く銃声と不気味な静寂の中で次の策を考える。外部からは犯人から遣わされた男性行員、犯人の元愛人、一階から命からがら逃れて来た元警官という民間人(老人)が訪れ、現場を見る事のできない対策本部を揺さぶる。
結局のところ、最終手段=突入をするか否かが焦点になる。だがその対立点はベテラン刑事の登場からあり、現場指揮を本部から任されたと言う彼に対し、警視正の方も自分も本部の指示で指揮を執っていると主張するのだが、一階では既に警官二名、行員二名が死亡との報告が上がっており、これで突入しない選択肢はないとベテランが主張するのに対し、警視正はこれに強く反対する。
銀行一階の見取り図が届けられ、突入方法が練られるが、そこへ一階から使者が来る。犯人の言伝を告げに来た男性銀行員は何もするなと訴える。米国帰りは彼は犯人を絶対視する心理規制に嵌まっていると分析、因みにこの行員はこの後犯人から借りていた金を返済して来い(無論銀行から奪った金)との命を受け「外」へ出るが、彼は逃げずに銀行へ戻って来る。台詞による説明は無いが彼は間近で犯人に接し、犯人なりのいきさつがあり、それ故今は犯人に従うのが正しいと判断していると判る。このあたりから犯人の「人間像」が関心の領域に入って来る。元恋人の証言、そして漸く応じた犯人との会話(一階との電話)で垣間見せたかつて人と情を交わした生活の感触。だが無言の対応のあと又銃声が響く。「突入」への強硬論は最初、米国帰りが開陳した犯罪者心理「出口を失った者は自棄になる」で慎重論に落ち着く。次は一人目の訪問者の報告を受けてであったが、彼に聞いた犯人の位置を見取り図上で確認し実行された所、犯人が作った人の盾で頓挫する。
警視正は犯人の来歴を記した資料を繙いているが、老人は必死の形相で犯人の非人間性を訴え、警視正の態度に疑問を投げ掛ける。万策尽きたと断念した警視正は突入、と指示するが「ただし生きたまま確保!」と付け加える。結果は推して知るべし、人質解放。特設本部が片付けられ、ガランとした空間で警視正は「彼」が生きていた時間の感触をなぞるように(冒頭そうしていたように)床に耳を当て、再度「生きたまま確保」と繰り返す。
銃社会アメリカでは何かには当然、等と、やがて日本が「個人主義社会として正常に発展する」事を前提に語られる事があるが、アメリカは異常であると、思い切る時ではないか、との問題意識と共に引き出しにしまった。
タバコの害について/話してくれ雨のように
劇団夢現舎
ふらんす座(広島県)
2022/03/04 (金) ~ 2022/03/06 (日)公演終了
斬られの仙太【4月25日公演中止】
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2021/04/06 (火) ~ 2021/04/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
他に日がなく急遽足を延ばして当日券で観たのが初日であった。上演時間の立て札を二度見。だがあっという間の4時間強、三好戯曲に浸った。
フルオーディションという方式が小川絵梨子新芸術監督の下では行われ、今回がその第3弾という。フルでないオーディションとは、予め決まった出演者以外の者を選ぶという事か。ならばフルとは「本来の」と読み替えられそうだ。全て「芝居」のため、俳優もモチベーションのあるやつしか集まらない。主役の仙太郎役をゲットした伊達暁は声に存在感ある小劇場で鳴らしていた印象の役者だが、長丁場を演じきっていた。
なお清水邦夫の「楽屋」で再現される一場面を最初は気にして見ていたが(結局判らなかった..冒頭近くのあれかな?)、想像した「仁侠物」とは異なり社会批評の鋭くある硬派な作品であった。
国史を民衆視点で劇化した宮本研(明治の柩)を思い出したが、三好の本作の土臭さは拳に力が入る。知識人が言葉にする自己批判(という名の自己憐憫)を排し、百姓の目線が透徹している。
「運動」に名を借りた内輪のポジション争いの醜悪さなど、60~70年代の作品かと錯覚させる容赦ない「権力」批判は、凄惨な連合赤軍事件等を予見したかのよう(というより維新期について自分が何も知らないだけなのかも)。時代的制約を些かも感じさせない作品であった。
12人の怒れる男・12人の怒れる女
江古田のガールズ
「劇」小劇場(東京都)
2021/03/30 (火) ~ 2021/04/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「・・怒れる女」を観劇。額田やえ子翻訳の古典がどの程度原作に忠実でどの程度脚色されたかは分からないが、指紋やDNA鑑定といった科学捜査の無い時代、という要素を除けば、俳優らの現代感覚と共に台詞が吐かれる舞台は、不思議と成立した。
野球観戦野郎、ヘイト野郎、個人事情むき出し野郎、確信犯的付和雷同野郎が、米国産映画でも「正義」の障害として立ちはだかり、やがて克服されて行く。
今は昔のようにアメリカ=民主主義の国、等と単純に考えてはいないが、回帰すべき場所としてそれはある(と信じられている)だけ、日本とは異なるのだろうとは思う。そして考える。普遍的感動に導く同作品は日本でも好んで鑑賞・観劇されるが、しかし果たして民主主義は本当に信じられているのか、と。そうして頭を抱えてしまう。
夢を見る
シアターX(カイ)
シアターX(東京都)
2021/04/08 (木) ~ 2021/04/08 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
シアターX「一人芝居」シリーズ鑑賞2つ目。挑戦者の中でも若い清水優華は名も覚えあり、今調べると結構見ていた(直近では「農園パラダイス」、韓国現代戯曲リーディングの前回「刺客列伝」、そしてアンサンブル時代の各舞台。容姿と相伴って思い当ったのは「農園パラダイス」のみ、ほぼ主役のあの女性役だ)。
この企画に加わった俳優諸氏が、順繰りに試演会を行ない、今回が後半戦の一回目という。一時間半の距離を走り切るだけでも唸る。激情に身を震わせる終盤、ドラマの結語に向かう感興に飲まれまいとして飲まれ、それでも走り切ったという感じであった。「ヘル」という風変わりな名を名乗る元従軍慰安婦の女性と「私」との交流を一人称で書いたのは劇作家石原然との由であるが、今回のに先行して同じ一人芝居プロジェクトのメンバー、中山マリにヘル役を当てがった二人芝居を上演。相当見やすい舞台であったと想像されるが今回は難しい一人芝居。見せられているのは「芸」ではなく、テキストに対する演者の思い入れであり、ヘルという存在(との格闘)を通して社会から異端視されて生きた/生きる人々を思い、包摂の意志を伝えんとする行為、に見える。
毎回恒例らしいアフターミーティング(観客交えたトーク)で役者が述べた、「芸を見せる等という構えを取ったが最後化けの皮がはがれ、太刀打ちできない」、そういった存在に出会った事を喜び、純粋に打ち込む俳優の姿勢には感銘を受けた。社会的ポジションを目標とする(誰もが持つ)態度はなく、役とテキストとに向き合う自身を観客との間では媒介者として立てる(自分を評価する者との対峙ではなく)。この何とも評しようのない穢れなさ、というより恐らく強さは、舞台にその片鱗が窺えたように思うがトークの場がなければ触れられなかったと思う。
役者に苦行を強いる故か不思議な光沢を放つ一人芝居。次回試演会は6月との事。
雪の中の三人
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2021/03/16 (火) ~ 2021/03/30 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
一昨年末上演されたケストナーを描いた秀作舞台では、後半ナチスによる統制が文学にも及び苦渋を舐める作家が執筆欲に負けて(と脚本は描いていた)映画の脚本のオファーをついに請けたくだりがあった。あれは確か、、そう「ほら男爵の冒険」、戦後「お前もナチスへの協力者だ」となじるリーフェンシュタールにケストナーは辛うじて「俺は作品の中で抵抗した」と返す場面が印象に残っている。
さて本作も実はナチス時代に書かれた作品だ、といった事や、それどころか作者名すらも頭から抜けた状態で舞台を鑑賞した。何時書かれたか知れない喜劇として非常に楽しく観た。
オープニングで小間使いが多忙な仕事の僅かな合間に暢気に豪邸の主人気取りで悦に入る様を音楽に乗せて華麗に描写する演出(小山ゆうな)、これが小難しい客を武装解除させる抜群の効果。そして俳優座俳優の喜劇仕様の人物造形の巧さと、少ない台詞で心理と状況の変化を観客に知らせる瞬殺演技ポイントでの確かな仕事にちょっと感心。
物語をざっくり述べれば・・億万長者(事業を成功させた)トブラー氏がお忍びで旅をする。そのお膳立ては会社が催した広告コンペの二等受賞の副賞である豪華なホテルへの招待券、そこへトブラーは身分を隠しボロをまとって訪れたためホテルに冷遇される。たまたまコンペの一等を取った若者が同日同じ副賞のホテルを訪れるが、行商をする高齢の母との二人暮らしで職を探している彼はホテルでも仕事は無いかと尋ねるありさま。「雪の中の三人」の残る一人はトブラーの指示で青年実業家を装い、同じホテルを訪れた部下。彼はトブラー氏のホテルでの遇され方に驚愕するが、決して知人である事を明かしてはならぬとの厳命のはざまで身悶えする役回り。ドタバタの仕掛けはトブラー氏の出発直後、父の身を案じた娘がホテルに電話し、みすぼらしいなりをした男が訪れるが実は億万長者である、彼には良い部屋を宛てがい、マッサージと猫三匹、等々を用意せよと依頼するのだが、ホテル側は一足先に訪れた若者の方を億万長者と勘違い、上げ膳据え膳をやる。方やトブラーは屋根裏部屋を宛がわれ、冬の冷気に凍えるが、心優しい若者が彼への扱いを見て素朴な義侠心を持ち、トブラー氏を自分の広い部屋へ招く。一方青年実業家を騙る部下は若者の悩み(仕事がないこと)を聞き、素朴な同情心からぜひ我が社に紹介してやろうと「実はあの会社の社長には顔が効く」と約束する。この三人が一堂に会する場面で、トブラーと部下が初対面を取り繕うドタバタで観客を笑わせた後、若者を軸に友情関係が育まれて行く。その象徴的場面は、ホテル側が「じじい」を追い出そうと雑用を申しつけるのに全てが新鮮なトブラーは買い物から雪かきまで喜んで引き受けるのだが、その雪の日に三人はホテルの庭で雪だるまを作る。だるまを囲んだ三人を空と雪は祝福する。
美術は白亜の色調で冒頭・ラストのトブラー家邸内、劇中では件の有名豪華ホテル内、そして雪の日の戸外。中央の回転台が適宜用いられ機能的でリズミカルな劇展開を助けていた。
聖なる日
劇団俳小
d-倉庫(東京都)
2021/03/19 (金) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
メインキャストに客演を据える「こだわり」の成果か、ここ数年秀作舞台を出している俳小。今回の月船さららはリアルな人物形象を要求する「普通の劇」でちゃんと演技していたのが新鮮であった(metro等では月船ありきの演出)。
「黒人」と呼ばれる人々は先住民であり、それはアボリジニであり、従ってここはオーストラリアである、と鈍感にも後半で気づき、終わってみれば侵略史を告発するドラマであった。
もっとも物語は入植者(白人)同士が、当地の「情勢」を背景にいささか剣呑な部類の人間ドラマを展開。情勢とはアボリジニの報復を思わせる事件が続いている事であるが、舞台となる飲食を振舞う村はずれの娼婦の店にはアボリジニとの混血である「娘」がおり、仕事を求めてやってきたアボリジニの肌をした若い女との接触が娘の中に波紋を落とす。やがて己の出自を疑い始める思春期の娘と、不幸に染まった人生の代償のように娘(実はアボリジニの村の外れで拾ってきた)を溺愛する母との軋みも生まれる。また長逗留する事となった仕事を求めてやってきた三人の男(この人物らが登場する冒頭から終始ドラマにとっての劇薬となっている)、開拓伝道に訪れていたがついに自死に至った神父の夫人の登場等が絡まって、「崩壊」の予兆を告げる状況と決裂すべく最も剣呑な客であった男がアボリジニ殲滅部隊を組織し、「情勢」は極限へと昇り詰める。この部分は恐らく史実に基づいており、白人国家オーストラリアの負の歴史がやおら浮上するという案配である。
この舞台を特徴づけるのは不穏さという通奏低音である。四方を闇に囲まれた入植者のよすがは目の前に居る「生身の他者」という存在以外ない(確立された社会システム=「想定他者」が保証する安堵がもたらされない)、言わば原始的な条件である。舞台の魅力は、この不穏さがもたらすスリルと言える。人間の抗えない内なる暴力性やぎりぎりの妥協や、最後に何を死守するかを迫られて歩く生ゆえに崖縁を離れただけで得られる幸福感といった、得難い疑似体験が満載なのである。
かつて流刑地であったオーストラリアという国を自ら告発するような劇作であるが、荒んだ状況を生きる最も荒んだ人間たちを描く作者の筆致はそれらを包む温かさも感じさせる。
Don’t say you can’t
一般社団法人グランツ
駅前劇場(東京都)
2021/03/24 (水) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
映像にて観劇。
横浜桜座の本体である知的障害者劇団の活動(メンバーの舞台上の姿)を見たい、というのが一番の動機であったため、駅前劇場版に出演はなかった事はとても残念。劇場キャパ(駅前の狭いステージに乗らない)、また団員のスケジュールの問題がその理由だという。たた芝居は中々良く出来ていた。
お話の方は、、舞台上の作業所(就労継続支援B型と正式名称も紹介)の利用者を、北澤小枝子、神澤直也ら若手俳優が好演していた。
光景として現実には目にしそうにないシーンも劇中少なくないがこの現場固有の課題や「あるある」に触れられている。そして主人公の中途雇用女性(小飯塚)が高齢デイに来るかつての演劇仲間と共に、作業所で演劇を始める事となり、タブー視を乗り越え「好きな事」に取り組んで行こう、諦めず進んで行こうというエンディングに向かう。
即ちこの横浜桜座の舞台においてメタシアター的に「作業所劇団結成」がストーリーに組み込まれ、「現在地」へと近づく訳であるが、ここに至って当事者の出演がない事は、やはり淋しかった。
茨木のり子の森
茨木のり子の森実行委員会
シアターX(東京都)
2021/04/04 (日) ~ 2021/04/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
シアターXのシリーズ企画「一人芝居」にも一枚噛む女優志賀澤子のこれは又別のユニークな企画で基本コンサートであった。チェンバロ奏者としてあの著名な指揮者・秋山和慶氏の名前(別人かと最初思ったが同一人物のよう)を発見し、早速予約した。(終演の挨拶によれば二人が幼友達であり50年振りに会った事で実現した公演らしい。)
チェンバロは上下二段ある鍵盤の連弾、踊りはフラメンコでカントと呼ばれる歌とギターの伴奏、カルメンの2曲はチェンバロで踊った。演奏は女優による茨木のり子の詩と交互に奏され、時にシンクロし、詩は志賀女史が詩人に成り代わった語りのニュアンスで誦される。詩のタイトルと詩しか読んでいないのに、舞台を仕切る狂言回しにも見えた。
茨木のり子の詩は人や社会の来し方を見渡す目差しがあり、また己の今を見詰め、そこから踏み出すエネルギーとが渾然とある。前者が詩性を与えているから一定年齢以上の琴線に響かせ、自分も例外に非ず、涙した。僅か数行の言葉が持つ宇宙が音楽の持つ浸透力と見合ってこのパフォーマンスは成立したと思う。
チェンバロの鍵盤を我らが秋山氏はしばしばミスっていたが慌てる事もなく風景に収まり、こちらも志賀女史の知己というフラメンコ共々、悪くない取り合わせ。詩とそれを読む芝居の構成も良く、気持ちの良い時間であった。
「シャケと軍手」〜秋田児童連続殺害事件〜
椿組
ザ・スズナリ(東京都)
2021/03/17 (水) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
山崎哲と言えば昔よくTVのインタビューに答えて時代評論など語る眼鏡の人であったが、実は「演劇を作る人」であった。犯罪事件に触発された戯曲を書く。確か二、三年前に「転位21」名義の小さな公演チラシを見た他は近年の活動の詳細知らず。ただ此度は「触発され」芝居一本脱稿めでたき也、とスズナリへ出かけた。
本作は容疑者女性のTVに映った残像が脳裏に焼き付いた「あの事件」が題材(この時の取材攻勢は批判の的となった由)。ただ事件の記憶は薄れ、劇の進行を真実のありかを探るサスペンスな時間となった。
父に認められず、近隣社会では疎外感を覚え、娘との二人暮らしの心許なさを埋め合わせる交際相手といった、やがて「事件」へと導かれる素材が置かれる。ただし「客観的事実」と作者の「類推」「想像(創作)」の境界が、事件を正確に知らない事もあって自分の中ではあやふやになる。
この「連続殺人」の第一、即ち娘(実子)殺害を否認し、第二の殺人=二軒隣りに住む亡娘の同級生男子殺害の背景として、「警察に娘の捜索を依頼したのに応じてくれなかった」被害感(地域からも同様の扱いを受けていた疎外感と重ねた)を訴える容疑者に寄り添ったストーリーが、これを「わざとらしい演技」と揶揄するご近所目線も挟みつつ、辿られる。だが終幕近く、ようやく女性が後に供述する事になる(公判に入ってからは否認=後で調べ)娘の殺害の線が彼女自身の態度から浮かび上がる。
私の記憶ではこの事件は母親が子供二人ともを殺した、であったが、この芝居では解釈に幅を持たせている。子供が好きだった海の魚の絵本をめぐる交流が、少女を「水」へ引き寄せたのではないかと悩む叔父(母の弟)を登場させ、「娘が橋の欄干に上りたがり、そこへ駆け寄ったがその後何があったか分からず気づけば娘はそこから姿を消していた」という、母の証言の一つと相関させたり、また心神耗弱に至る母親の内面描写を試みたりしている。
私にこの舞台が「力作」と感じさせた要因は、(私がそのように見た)母親の犯人性の所在ではなく、ある抗えない道筋を辿って「ここ」に辿り着かざるを得なかった一個の人間を描き出そうとする意思である。
もっとも先述したように、「事実」と作者の「推測」「創作」の境界がどこに引かれるかで受け止めはどうしても変わって来るのであるが。。
「汚れた手」Work-in-Progress
Nibroll
BankART Temporary(神奈川県)
2021/03/24 (水) ~ 2021/03/26 (金)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
横浜のBankArtと言うとどうしても思い出される「グランギニョル未来」(2014)の強烈な記憶を上書きする、清冽な「作品」であった。ワークインプログレス(製作途上)と言われればそう納得されるが、複合パフォーマンスを謳うニブロールの面目躍如、柱、壁、高い天井に樹木の梢の影が次第に覆って行く映像・照明と、間接照明ならぬ間接音響とでも言うような、建物の境界を超え広がる音楽・音響、白と黒以外の色彩を殺いだ空間の光と影の間を動く三人の白い踊り子たち、三人を影の指南者然と立ち、移動する黒装束の者(矢内原)。中央と周囲を気持ち分かつ透明シートの衝立の間を観客は自由に動いて鑑賞して良く、パフォーマーも中央エリアからはけて外側を歩いたりそこで踊ったりフレキシブルな空気感はさながら森の中で戯れる子供の時間であり、溶暗から始まり夏の日差しの時間へと高まりやがて再び宵闇の支配する空間となる。子供の一日はまるで一生のように切実に刻まれていた遥かな記憶が呼び起され、そこに人生が重ねられる。
ずっと浸っていたい永遠性と、微かな物語性(時間経過)の切なさの混在する得難い体験。
踊り手の一人に先日の吉祥寺ダンスリライト出演グループの主宰の名前があった。明快なリズムのある音楽ではないため、何を補助線に三人が踊って(動いて)いるのか不明だが、その動きは「美」の追求というより己自身との対話という風で、自然の中での彼らなりの遊戯の時間、とも見えるが、完璧な調和の中で何故かそれとは一体化しない人間(神の眼差しからはそれ自体で美しい存在であるのに)と解せなくもない。
生きてる風/ ブタに真珠の首飾り
アマヤドリ
シアター風姿花伝(東京都)
2021/03/18 (木) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
「豚に真珠の首飾り」観劇。かなり久々のアマヤドリ、実はもう一つの演目を観るつもりで居たのだが二演目ある事を忘れ時間の都合で(確実に開演に間に合う)日へ後で変更し。。中身が違うと気づいたのは劇場入口での事。
もっとも両者とも未知の演目なんであるが、ただ新作にはコロナの影響が幾許かでも、この作者にどう及んだか窺えるのでは、というのが関心であったので、完全に予定外。が逆に機会である。1時間半というスパンの劇は久々に観た。(昔は割と標準で手頃な長さだったような。最近は1時間+α、2時間~3時間というのが多い気がする。)
結果、厳しい事を言えば謎解き的には先へと引っ張り過ぎ、そして説明に時間が掛かり過ぎ。ただ4人の女共の喋りの瞬間的輝きは何箇所かあった。
披露宴の縁故客の控室(花嫁側)に来た4名の会話で、二人組と一人が知らない同士、両者共通の知人が一人という構成で、二人組と共通知人が近い年代の先輩後輩関係、一人が若く、花嫁を通じての知人同士。
最初一人(若い)と共通知人の2人の会話があり、共通知人が去って一人若が残った所へ二人組の登場、2人の慣れた感じの会話(あけすけな後輩と彼女に気を許すお喋り好き先輩)で見せる本音トークは面白く、離れた所で見守る一人若と、やがて自己紹介、さらに二人組の会話が続き、今回の花嫁にまつわる「問題」、それがどうやら連れ子にある事、などが見え、そして二人(特に一方)が今現在不在の共通知人にわだかまりをもっているらしい事も見え、やがて当人登場4人揃う、と暗転。仕事で披露宴を早めに抜け二次会には参加できないらしい共通知人が、一人若と控室に戻ると、仕事に行かなくて良くなったとの連絡。挨拶までして中座したのに、と悩みつつも二次会に行く事になる様子、と、そこへ残る二人組登場し、そこからわだかまりを吐き出す本音の会話へ展開する。
さてこの小品の命はやはりリアリティであると思う。控室に4人だけの必然性は特に気にならず、演劇の都合でも良い。問題は、中心的話題となる話のリアリティがどこまで追求されたか、が重要、というのも混迷から抜け出す手がかりであるメッセージの重みに、そのまま掛って来るので。共通知人(確かミユと言った、以後ミユとする)に対し引っかかりを持つ後輩(根明なもう一人はそのさらに後輩)は最初「仕事で披露宴を抜ける」と言っていたらしい事に憮然とし、個別事情よりそういう彼女の人間性の変容を問題にしていた。が、本題に入るとそれは花嫁(確かアヤと言った)に対しミユが「ひどい事を言った」事にある、と説明される。
ミユと二人組は元高校のダンス部の繋がり、一方なぜかもう一人のミユの若い知人はダンサーへの夢を遂げたく渡米しようとしている。しかし最近彼女は自分が世話になった人たちに更に世話になりっ放しで、自分の事しか考えていない自分で良いのかと悩んでいる。ここでの伏線は、後に開陳される本題=すなわち花嫁の連れ子(重い障害を持つ)を、ミユと共に気にかけていた、として回収されるようだが、渡米への逡巡をこの「後で開陳される障害のある子どもを置いて行く後ろめたさ」に集約させるにはもう一つ必然性が盛られていない。
ミユに対する後輩の不満が、言わば後に謎解きされる事になる「謎かけ」なのであるが、この不満が一本に絞られて行かないのも憾みだ。
かつて部活時代にミユの金魚の分であった後輩が、成人以後の変貌(成長)に一方的な願望とのズレを感じ(最初はそういう種類の感情が仄めかされていた気がする)、最後にはやはりそこに着地するようなのであるが、謎解かれる本題は、ミユがあや(花嫁)に対して言ったという言葉、すなわち(24時間医療ケアを要する障害を持つ子供のために自分の人生を犠牲にする事はない、という意味で言った)「諦めてもいいんだよ」の方である。
打ち明けられた後輩は、たまたま弱っていた時に自分に話をしたに過ぎないし、ミユ先輩とあやさんの絆の方が深い、と自ら認めるのであるが、そう認めながら「不満」は持ち続けるという心理は中々理解しがたい。憧れの先輩であり続けてほしいといった子供っぽい願望と、この問題発言に対する違和感といったものは、質が異なる。これが並列に語られる事で、役者は心理を作りあぐねて苦しんでいた(と見えた)。
リアリティの面で決定的なのは{これも苦言です)、披露宴に出席し、その「子ども」を諦める諦めないといった会話がヒートアップしているのに、新郎の話題が全くでない事だ。むしろ子供を引き受けて行く事になる旦那がどう考えているらしいのか、一言も出ないのは戯曲の欠陥で、深い会話ができた事をもって相殺できるレベルでないと思う。それこそ会話は「余計な心配」であり、不毛な会話という事になる。
もちろん旦那の事を差し置いてついついそういう会話に発展する事も、またそういう舞台も「あり得る」と思うが、深刻に悩み、会話が展開する(軽快→深刻→軽快)ドラマ性で勝負する劇としてはやはり厳しいものがある。
ただこの欠陥に関わらず舞台を華やぐものにしていたのは、キャラの棲み分け、自然体の演技、それを発現させた台詞とは言える。
こどもとつくる舞台『花をそだてるように、ほんとうをそだてています。』
ひとごと。
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/03/24 (水) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
実演鑑賞
(体調による)睡魔が万遍なく襲っていたが、何やら楽しげな場面が展開。台詞を発する声はビンビン聞こえるのに意味を脳が解析せず、勿体無い感を残して帰路についた。(こんな無味乾燥な感想、感想とは言えないが..)
岬のマヨイガ
特定非営利活動法人 いわてアートサポートセンター
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2021/03/17 (水) ~ 2021/03/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
作と演出は別だったっけ、と思ったが同じ人(詩森ろば)であった。観ながら自分の中ではちぐはぐさが気になった。キャスティングはプロデューサー側の意向、そこで演出が頼れる縁故のある役者を配した、と、縁故役者を活かす想像の方が作者としては先行してしまう、結果バランスが崩れた・・等とまた余計な想像が膨らんだ。
全体に台詞が凡庸に留まり、予測を上手く裏切る劇作家の仕事が、舞台上では生かされないという印象で、演出の問題か演技の問題か、と考える。竹下景子がフランス家庭劇で求められるコメディエンヌ風な構えで「役」に深く入らない演技態であるのが最も気になった一つ。震災の影を背負う三人の女(地元の独り身のお婆=キワ、暴力夫から逃げて来た妻=結、東北の親戚に引き取られに行く途中で震災に合った少女=ひより)のマヨイガと名付けられた家と村での心許ない共同生活が、お婆が交信できる事による異界との交流を溶媒として、新たに生きる力を得て行く。このプロセスが持つドラマ性に心を寄せつつも、現実を生き直す「溶媒」としてのファンタジーが、舞台上で写実的に登場してしまう。「存在するが存在しない」という二重性の中に人の精神の力となり得る「物語=ファンタジー」は機能する、とは私の思いであるが、その線で言えばこの異界の存在をどう舞台上に存在させるかが今作の要であった。
冒頭の舞台上でセットしたスライド機による影絵は、竹下女史が孫らに「どんどはれ」で終る東北の昔話を語る背景に使われ、ぐっと期待感の高まる出だしだったが、この小道具的演出は後半、実在の「衣裳(詩森ろば)を着た」河童等の妖怪や、沢則行の(とは後で知った)人形によるダイナミックな戦いの場面といった「実写」が主となり、これが残念感を増す。
鈴木光介氏の生演奏は寸暇もなく殆ど舞台を支えていたという印象だが、唯一河童のテーマ曲だけは高揚をもたらさず、男衆が扮する6、7匹の河童が婆に呼ばれて会食する場面は「異界の時空」との境界を破った意外性がなく「現実の時間」に飲まれて相当きつかった(衣裳をまとった男としか見えない)。河童の歌は3回も歌われ、「河童さんとの食事は楽しかった」と言いながら「かっぱかっぱ~♪」とフレーズを繰り返し「え、歌っすか」と思わずツッコミたくなる(歌は舞台上の象徴的表現でしょ?)。もっと現実的、というと変だが河童が「歌」というものを本当に持っているとしたらどんな歌か、というオファーがもし演出から出されれば鈴木氏ならもっと違う物を提供したはず、と思う。テントンカントン伴奏を河童自身が付けて(鳴り物は持ってないからカラオケ機なんか持参して?)歌ってたと女共は記憶に刻んだの?こういう雑さが私には我慢ならぬ。河童とどのような「交流」があったのかも、舞台上にどう表現するかは難題だったと思うが、クリアしたと言えなかった。
後半展開する異界絡みのメインストーリーは、岬の村にかつて災害と荒廃をもたらした妖怪が、今再び忍び寄っているらしい事をお婆が(東北の主要各河川を担当する河童たちに頼んで)突き止め、東北の妖怪らに応援を募り、決戦の時を迎える、というもの。これは冒頭の昔話と連動しており、岬の「第四の洞穴」に封印された妖怪である白蛇と、これと昔戦って敗れた事で配下となった何とか言う男の精の二者が、敵役になる。
これが象徴するのは災害であり、それによる人の心の荒廃、絶望。三人の女は戦いの前に一度花巻を訪れるのだが、戻ると岬の村は一変していた。疑心暗鬼が支配し、ひよりと親友になった少女も心を閉ざしてしまう。白蛇らの暗躍とお婆は見て取り、到着した妖怪も各所に散るが、「現実」の生活で女三人が別行動となった所へ敵は襲いかかる。結末は「敵の弱点は目」と知ったひより、結が健気に戦い、勝利する。
身を寄せ合って暮らす三人は、花巻から戻って豹変した村を見て驚き、自分らを暖かく迎え入れた村の「現実」を初めて意識する。両親を亡くし孫を亡くした村人らが互いを励まし合い、日々を明るく乗り越える光景が序盤に描写されるが、結とひよりが偽名を騙って公の監視を逃れるのをお婆が助けた縁は、やがて妻を探して訪れた「悪相の男」を村人が(それと頼まれず)体よく追い払った事を契機に「村との縁」に広まっていたが、助けられる身から人を助ける主体へと転換するのが、三人、とくにひよりと結にとっての「戦い」となっている。村人らが抱えているだろう「喪失」によるPTSDは想像するしかなく説明困難なものに違いないが、震災という体験共有が舞台を観る前提となる。白蛇の象徴するものが何であるのか、具体的には判らないが(その一つは無味乾燥な防潮壁建設にあったりするだろうか)。。
そしてこの舞台は東北を回る。作者がこの事を意識し、アトラクションと明るさのある舞台を指向した事が推察されたが、(本人の意図ではなくとも)戯曲の不足を趣向で埋めた印象は自分には強く残ってしまった。
日本人のへそ
こまつ座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2021/03/06 (土) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
念願叶った井上ひさし処女戯曲の観劇。ごりごりとした感触、注げるものを全て注ぎ込んだかのような・・である故に場面の作りに精巧さの濃淡があるが、掌を加えない(己に)容赦をしない作家魂。この手触りは井上戯曲ではこれまで味わった事のないものであった。
第二幕冒頭より展開するは、井上コント(てんぷくトリオ)のフレームを折り重ね束ねたような、同性愛モチーフの精巧な産物、その勢いを減じる事なく(題名が示唆する)井上流ナンセンスを織り交ぜた日本人論が開陳され、手綱を徐々に締め上げるような筆致で終幕へ一気に突き進んだ。
第一幕は説明の省略技法=歌の多用により、吃音者の治療プログラムとしての劇(劇中劇)の開始以降ノリよく場面展開する。「参加者」の一人である東北出身の女性(小池栄子)の半生を「サンプル」とした劇だが、学もなく世間知らずの十代少女が東京に出、苦界に身を堕して行く主な舞台はストリップ劇場、その描写のディテイルは井上氏にしか書けないフィールドだろう。(戯曲を書こうとする者の多くが自分の体験をベースに書く(事により処女作の脱稿に至る)と言われる。文豪井上ひさしも例外でなかった。。) 惜しむらくは、作品が対面している(事が判る)時代、すなわち冷戦下にあって経済成長を遂げた日本特有の政治的版図、右翼と左翼の対立の表れ方が風刺の対象になっているが、現代に置き換え・読み替え可能とは言えここには宇野誠一郎氏の楽曲が伴走し、時代の制約から脱しきれない。
ただ、第一幕の語り手である(吃音研究者であり治療プログラムを主催する)先生(山西淳)をはじめ、役者はエピソード説明のため奔走し、小池以外は皆多くの役に扮して八面六臂、このエネルギーが時代感覚の落差を相殺して余る程である。ナンセンスコント風二幕と併せ、この劇は作家の筆に俳優が疲労困憊の域にまで酷使される様を見る劇、とも言える。
もちろん最後に訪れるのは「役割を演じきった」アスリートへの称賛のみでなく、戯曲の背面から立ち上る思想、作者の眼差しのようなもの。「見て来た」者だけが語れる人間と社会の「現実」、それを直視し批判でなく包摂しようとする精神、言ってしまえば人間愛。どのような人間の中にも生への願望、欲求、情熱、そして体温があり、打算に走ろうが妄信に迷い込もうが、そこに確かに「人間」という存在を見る眼差し、のようなものだろうか・・。他にありようなくそのようにしてある人間、を井上氏は描写する。それは人間の限界でもあるが、この眼差しは私達に、これ以外になり得ない自分、これ以上に気高くはなれない自分に今なり得ているかを問い掛ける。
吉祥寺ダンスリライト vol.2
公益財団法人武蔵野文化事業団 吉祥寺シアター
吉祥寺シアター(東京都)
2021/03/20 (土) ~ 2021/03/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
横文字の耳慣れない企画であるが参加グループの名前に食指が動き、特に観たかった妖精大図鑑の出るAプログラムを観劇。
トークによれば吉祥寺シアターが主催する「リライト」の狙いは若者の作品披露機会の提供、さらに第2弾となる今回は総合プロデューサー北尾亘の振付作品を公募の若手ダンサーが踊る演目を加え、振付師との作品製作の機会(ダンスカンパニー所属しない/できないダンサーには貴重)も提供の由。A・B各プログラム3演目の一つとしてA・B2チームが踊った。この作品が最も舞踊らしい舞踊作品。数名の若者が溌剌と登場、動体の緩急と姿態の毅然とした美しさ、アンサンブルの充実、コミカルさシュールさが止まらないという感じで。幾つかの相(場面)の移り変りもダイナミックで質の高い舞台であった。
続く2演目は、企画側がオファーした若手、浜田純平と妖精大図鑑。
前者は舞踊の既成概念(自体も更新されてるが)拡張を担う部類、意表をつく展開のある変ダンス、というか出し物。一人で作るためか主観の強さが良くも悪くも横溢、妙に長い場面(ここそんな長くなくてよくね?みたいな)があったりだがそれも含めて予測を裏切り続けたパフォーマンス。
休憩を挟んだ後者はより演劇的で、ストーリーがあり、その「語り」に身体表現、踊りが組み込まれる。ノリよくギャグありコメディ色強めだが、出演者(女4人男1人)個々の、またグループでの舞踊力がストーリー叙述の中に実に効果的なだけでなく、「<ダンス>を探す旅」がのっけに迷い込んだスーパーという世界が具象世界から迷走の中で抽象世界へ、シュールから芸術に昇華する瞬間を垣間見せる(計算による主産物でなく「面白い」を追求した結果の副産物に見える)。
休暇込みで各演目30~40分のそこそこ長い充実した公演。ゲスト岩淵貞太と大図鑑3名とのトークにて、ショーケースとしては持ち時間が長いのは劇場的に今後単独公演を見据えた企画だという。
共生
さんらん
アトリエ第Q藝術(東京都)
2021/03/17 (水) ~ 2021/03/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
第Q藝術は二度目。以前は客席少数でフラットな印象だったが、今回は割と競り上がった階段客席の、中央通路にも座席が追加され満席、見下ろすように眺めた。(75分という小品だから組めた客席だろうか。繰り言になるがコロナ以降の感覚、以前に戻る事はあるのだろうか・・。)
このスペースは狭いのだと開演後に気づく。中程度のホールでは標準だろう声の張りが序盤耳につき、ある場面で高温の張り上げ声が耳を刺したのはきつかった。殊更な「元気」は芝居の薄さを埋める手段(と言ってしまうには声量は演劇の常套、否演劇の機能ですらあるが)かと雑念が頭を巡った。
が、作劇家尾崎氏の豊かさ(を思わせるうまさ)を賞味する時間、俳優の演技と声量のモンダイを超えて訴えるものがあった。
象に魅せられた現代の女性活動家が、同様に象と所縁ある人生を送った父親(70年代)と祖父(40年代=戦争の時代)の逸話を紹介し、回想式に再現されるという芝居。象は一人の女性が舞いで表現し、ファンタジックな作り。しんみりしがちな話だからか溌剌と元気よく、が基調。悲劇性の強い戦時の動物園の動物たちの帰芻、現代の女性(語り手)の領分であるアフリカでの動物保護活動(死と隣り合わせの密猟者との戦い)を描きながら、中心は父親が取り組んだ百貨店屋上の子象の処置を巡る、一世と三世とを繋ぐハートフルなお話。
この二世の逸話にも依るが三世代に亘るこの物語をいつか前作並に書き込んだフルバージョンが観たい。(いやこれが全てですと言われるかも、だが。)
忘れる滝の家
ムニ
アトリエ春風舎(東京都)
2021/03/11 (木) ~ 2021/03/20 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
青年団若手自主企画らしいムニ/宮﨑企画の「静かな演劇」。同じアトリエ春風舎で観た前作との共通点は・・ストーリーより空気感、省略された台詞、謎解きに頭脳が駆使される、静けさ、舞台の周囲が闇に溶ける(春風舎の特徴?)。中で、ムニの最大の特徴は、複数エピソードが舞台上でニアミスで行き交う演出だ。
前作は3~4組の会話と行動が近い時空で交錯したが、今作は2つの異なる時空(40年離れているとか)のわりと書き込まれたエピソードがやはりニアミスしながら進み、接点も持つ。
始めに難点を言えば、ストーリーは緻密でなくイメージを伝える詩的世界に近いが、世界観はストーリーを介して伝えるしかなく、やはりストーリー説明の省略具合がネックになる。2つのエピソード(過去、及び現在or未来)を繋ぐ一人の男が、「同一人物」として登場しているのかどうか迷走する(名前は同じだが同一性が希薄)。さほど関連がないと見切るまで、芝居中に「徒労感」に落ち込まないよう「謎」が提示され続け観客もある程度騙され続けはするのだが、脳のどこかでは気づいている。しかし・・不親切に置かれて行く点が最終的には辛うじて「像」を結び(仄めかし)、消え去りそうな像を2つの世界の対照の含意が繋ぎとめる糊となり、ギリギリ成立したと思った。不思議な間合いや、役者の意味深な風情が「徒労」に帰する予感は幾度も訪れたが、それは回避されたという事である。
以下は一観客の気まま勝手な(舞踊を解釈するのに近い)受け止め。
役者は何かそこに無いものを見ている。彼らを規定している現実に対面しながらそこにないものを憧憬し、求め、寄る辺とする風情において共通するように見える。今やセピア色とインプットされた過去シーンは、世代の移り変わりと継承の哀愁を描く小津安の世界で、母は過去を眼差し、それを語って娘の未来への恐れを融かす。娘の友人とはらしい会話でホッとさせられ、登場しない「叔母さん」の事が会話によく出てきて昭和な世界である。方や現代or未来シーンはパンフには40年後とあるが40年でなければならない物理的事情はなさそうだ。こちらは冷たい青系の色で記憶されているが、現代風カップルの会話から男が突如訪問を受けた友人の誘いで山に行くあたりから謎めいた展開となり、2つの世界に共通する存在(役名・役者が同じ・・だがどう見ても別個の存在)との遭遇から(背景が山という事もあって)無色透明、従って山の深い土色になる。ここでは現代世が過去と出会いながら、自然的なものと出会い直す未来を見通そうとしている何者かの意志(作者ではない?)を感じ始める。筋そのものは作者の中では通っているかも知れないが観客の目に映る範囲では破綻又は叙述足らず。だが、我々の世界への「予感」を持つには十分な欠片が散りばめられていて、個々の話題について何か喋りたくなる。後味良し。