ノートルダム・ド・パリ ストレートプレイ
GROUP THEATRE
浅草九劇(東京都)
2025/03/05 (水) ~ 2025/03/10 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
面白い、舞台は 総合芸術だと思わせる力作。
ヴィクトル・ユーゴーの原作小説を一気読みしたような充実感。その舞台の魅力を引き出す(ジプシー)ダンスや歌 そしてフラメンコギターの生演奏、また心象風景を表すような照明が実に効果的だ。小説という自分の想像によって膨らませる世界観とは違って、舞台ならではの視覚 聴覚など直接に感じる面白さ。ストレイトプレイとして表現することは、原作の魅力を削いでしまうのではないかと少し危惧していたが、それは杞憂であった。アニメ、ミュージカルなどで観たことがあり、その彩られた といった先入観を持っていた。本公演はミュージカル等と違った魅力、物語性を重視した描き方になっている。
公演では、登場する人物を魅力的に描くことによって 文字の世界(モノクロ)が彩られるといった感覚。しかし それは華やかといった彩ではなく、渋い光沢あるもの。頁と頁、行間を読むといった小説の味わいとは別の面白さがあった。
舞台は15世紀のパリ、教会の権限による弾圧や排除が横行し、その結果 差別や格差などが生み出された時代を背景にしている。その不穏であり混沌とした世界、その雰囲気を巧く漂わせている。
(上演時間2時間55分 途中休憩10分 計3時間5分) 【Aキャスト】
ネタバレBOX
舞台美術は 基本 高さある二段構造、上の段(台)から上手は横へ、下手は前(客席側)へ階段が2か所設えてある。上部の後壁の隙間から灯りが見える。場景に応じて、中央に刳り貫かれた出入口を表し、貧民街(ジプシーの溜り場)を表す。上り下りや穴をくぐるといった動作が躍動感を生む。
物語は、ノートルダム寺院の鐘撞き男 カジモトが、ジプシー女 エスメラルダへ抱く純真な思い。捨て子であったカジモトを拾い 育ててくれた恩人 大聖堂の副司教フロローのエスメラルダへの偏愛、その彼女は 危ないところを助けてくれた王室騎兵隊長を激愛。夫々の成就しない恋愛を軸に、当時のパリの社会状況…偏見・差別、そして迫害等をジプシーや(魔女)裁判といった場面に巧みに落とし込んでいる。カジモトは外見が醜い(傴僂男)ことから、寺院から出ることも許されないが…。彼が捕らえられた時に水を与えたのがエスメラルダ、その出会いが幸せなのか不幸なのか、救いなのかは観客の感性に委ねられるところ。それにしても夫々の愛のカタチ、狂気じみている怖さ。まさに恋は盲目なのか。
定住する所もなく放浪を余儀なくされるジプシー、その雰囲気を衣裳やメイクで表す。弾圧や排除といった迫害に抵抗する、その解放や自由を求める姿を個々の演技で表現する。一見まとまりのないように観えるが、そこに多くのパリ市民の渇望を見ることが出来る。ストレイトプレイだからこそ味わえる 地に足をつけた群衆の叫び、そこにミュージカル等とは違った力強さを感じる。
音楽・音響が印象的で、特にギターの生演奏が場景を引き立てる。また寺院の鐘の響きが、厳粛であり物悲しくも聞こえる。照明は全体的に暗く、その雰囲気は鬱積と閉塞といったパリの空気感のよう。昏い中でスポットライトを照らし、その人物の心情を際立たせるといった巧さ。またナイフや弓、コイン等の彫細工がリアリティーで 臨場感を漂わす。全体的に丁寧な好公演。
次回公演も楽しみにしております。
韓国現代戯曲ドラマリーディング ネクストステップVol.2
日韓演劇交流センター
座・高円寺1(東京都)
2025/02/28 (金) ~ 2025/03/04 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
【火種】
戯曲の面白さ、演出の妙、そして役者陣の確かな演技力、その総合的な魅力が観客の心を捉えて離さない。韓国の戯曲だが、そこに描かれている内容は、単に隣国の事情だけとは言えない。勿論、韓国ならではの事情(徴兵制)も散見できるが、持てる者と持たざる者 そこに厳然たる事実が立ち上がる。
説明にある「人間の欲望をグロテスクに描き出すブラック・コメディー」、その会話は漂流するかのようで どこに辿り着くのか解らない。その緊密にして滑稽な会話が邪魔されない設定が上手い。少しネタバレするが、舞台となる別荘は 陸の孤島のような場所にあり電波状況が悪く携帯電話が通じない。劇中では「沈黙の家」と言っていた。ここに居る人々だけの会話と行為、しかし その背景には多くの人が抱いているであろう(狂気と化した)感情が透けて見えてくるようだ。
朗読劇だが ト書き だけが上手に座り、役者は片手に台本を持ち動き回る。脚本のテーマを十分に引き出す演出ー特に音響と照明が実に効果的で印象に残る。この作品、ストレートプレイという演劇で行ったらどうなるのだろう、という興味を持たせるほど面白い。
(上演時間2時間 休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術は、奥の上手/下手に葉のカーテン。その内側に形の異なる椅子、その向きは様々。上手に椅子1つ ト書きが座る。中央に丸テーブルと椅子2つ。基本、葉のカーテン内は待機場所(時に物置部屋)で メインはオープンになった客席側。
物語は、説明にある通り 大学教授であるチェ夫妻は、ドイツ留学を控えた娘スンヨンの送別会を開くために別荘を訪れる。今の暮らしに満足していたが、娘が連れてきた婚約者ソンピルによって平穏は破れ 事件が起こる。娘と婚約者は30ほど年齢が離れ、しかもチェ教授が指導していた元教え子。彼は論文盗用の疑いで 以降 非常勤講師として生計を立てている。夫婦は体面や過去といった客観的理由で反対。一方、スンヨンやソンピルは愛情という主観的感情で説得にかかる。そのうち激論で興奮したのか、ソンピルが持病-喘息で亡くなる。その出来事(過程)の責任を押し付けあうためについた嘘がさらなる嘘を呼び、やがては別荘の管理人 キム夫妻とその息子ハヌルまで巻き込んで…。
物語は、チェ夫妻が2組の人物たちによってリベラルな顔の裏にある、傲慢・欺瞞で野卑な心が暴かれる過程を可笑しく描く。第1は娘の婚約者、第2は別荘管理人夫妻で、夫々の思惑や鬱屈がチェ夫妻を追い詰めていく。ソンピルは愛情を前面に譲らず、キム夫妻は弱みに付け込む狡猾さ。そしてハヌルが素朴な疑問を投げかけることで、糊塗が広がり誤魔化せなくなる面白さ。いつの間にか スンヨンまでが、ソンピルの死を隠蔽しようと両親に協力し出す。誰もが自分本位の思考で立ち回る狡猾さを持ち合わせている。そのうち言葉遣いも下卑てくる。何事も金銭的なことで解決しようと試みるが、だんだんと足元をみられジワジワ追い詰められる。そして過去の恩義まで持ち出すが…。最後は狂気の惨劇。
この不気味な朗読劇を見事な演出で印象付ける。外部(別荘地)へ電話連絡出来ず、ここに居る当事者だけで解決を図らなければならない という設定の妙。音響は雷鳴や蛙の鳴き声、音楽は軍歌や国歌を歌うといった効果付け。照明は幾何学文様、その表現し難さが心の中を映すようだ。
次回公演も楽しみにしております。
すいかの種の黒黒
う潮
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2025/02/27 (木) ~ 2025/03/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
小学校2年生から27歳迄、その約20年間という長い時間軸を紡いだ女性2人の心の彷徨劇。たしかに 生活環境や生き方が違う2人の女性を描いているが、何故か1人の女性が立ち上がる合わせ鏡のような存在に思える。家庭環境・境遇という条件(物質)的違い、物事に対する思考(精神)的違い、その溝のようなものが年齢とともに少しずつ大きくなり、いつの間にか疎遠になる。学校やクラスが違えば、会うことも少なくなり といった経験は誰にでもあるだろう。そんな等身大の女性を描いている。
27歳迄の生き様は、順調・不遇といった対照的な描き方だが、その根本には(自己)承認欲求 その腹の底が透けて見えてくる。お互い、自分の方が自分らしく生きているといったプライドをちらつかせる。相手の中に嫌いな自分の姿をみる その不気味、不穏な感情が怖い。しかし共通点があれば独特・相違点もある。その違いを受容できるか否か を問うているような気がする。コロナ禍を経て不寛容といった風潮が広がったが、そんな世相を人間観察をするといった視点で捉えた好作品。
ちなみに、客席はL字型で座る位置によって観え方が違うかも…。
(上演時間1時間50分 休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術は、奥の壁際に大きな本棚、その反対側に小さな収納棚。木のテーブル2つといくつかの椅子。ソファとミニテーブルが対になって配置されている。配置の特徴は2人の女性の家庭、その光景を表している。裕福で文化的な家庭に生まれ育った燈の家は、その象徴として大きな本棚で表す。歳の離れた兄弟と共に都営住宅に住む夏の家は、ミニテーブルやおもちゃ箱。その光景は、燈と夏という2人の女性の精神構造のよう。
見どころは、2人の隔たり 疎遠になっていく様子と過程が 実にリアル。そこに演劇という虚構に実在感ある人物を描き没入感を出す巧さ。2人の女性…燈は頭もよく 私立中学を経て希望した職業に就く。さらに自分でやりたかった演劇の世界へ、そして周りから認められるまでになる。一方、夏は勉強嫌いで 努力することもしない。好きでもない専門学校に入るが中途退学し風俗嬢として働く。そんな2人が或るきっかけで再会する。
燈が、舞台の題材として風俗嬢の取材をすることになり、現れたのが 夏。世間で言われるほど 大変ではない。むしろ自分には向いていると嘯く。そこに夏の燈に対する意地を見る。表面的には 燈の仕事は順調、しかし 内心は周りの期待に応えようと無理をし自分を見失いそう。親が介護状態になっても仕事のせいにして実家に帰らない。一見、二人の精神的な立場が逆転したかのようだが、実は 夏にも気になることが…。異なる世界を歩いてきたが、それぞれ27歳という女性の岐路、そして これからどう生きていこうか という自問自答する姿がリアルに描き出されていた。ちなみに子供の時と現在で、2人の すいか の食べ方が入れ代わったのが 面白い。
演出は、2人の成長に合わせて衣裳やメイクを変え、舞台セットも場景に応じて動かす。2人の女性以外は、1人複数役を担うが それほど違和感なく受け入れられる。照明や音響・音楽の印象がなく、心情劇としては もう少し舞台技術による効果、印象付けがあってもよかったのでは。
次回公演も楽しみにしております。
七人の墓友
diamond-Z
荏原文化センター(東京都)
2025/02/27 (木) ~ 2025/03/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「墓友」…聞きなれない言葉だが、その語感から何となく意味するところは分かる。公演では、高齢者が「墓」を通して死と真摯に向き合う様子、家族だから一緒の「墓」へ、という家族(制度)の在り方を改めて考えさせる。「墓」=「死」という描き方ではなく、むしろ 今をどう生きるか、そして夫婦、親子に起きる様々な問題を通して、家族とは を考えさせる。
「墓友」とは という定義があるのか知らないが、公演では家族以外の人との共同墓地を指しているよう。物語は、吉野家を中心に展開していく。そして長女 仁美がストーリーテラーのような役割を担いつつ、自分の問題にも触れていく。冒頭、母 邦子が仁美を東京スカイツリーの展望台へ呼び出し、「墓」の話をし出す。吉野家の墓ではなく、サークル仲間と一緒 ということを考えているらしい。父と何かあったらしいが…。
さて 個人的には、この公演を通して「墓友」という内容(概要)を知ることが出来てよかった。
(上演時間2時間5分 休憩なし)
ネタバレBOX
素舞台。プロジェクターで後壁に風景を映し出すが、役者に被らないよう工夫を凝らす。場景によって、例えば ファミリーレストランでは ソファを搬入し雰囲気をだす。
邦子の夫 義男は典型的な亭主関白。自分の意は絶対で子供たちも委縮している。長男は結婚し独立しているが、孫の顔見たさに同居させようと。仁美は30歳代だが、独身で 実は仕事関係者と不倫をしている。次男 義明は渡米しており、同性愛者。毎年恒例のバーベキューパーティのため、パートナーを連れて帰国している。仁美、義明に早く結婚するよう口煩い。そんな義男に愛想をつかした邦子が「吉野家」の墓に入らないと宣言し、墓友(7人のサークル仲間)の存在を告げる。
7人の現在…例えば職業や個性などは描くが、過去は語らない。共通しているのは皆 独身で「1人でお墓に入るのが寂しい」「あの世でも語り合いたい」といった思いを描く。邦子は義男と離婚しない、しかし「吉野家」の墓には入らない。今を大切にするなら、なぜ離婚しないのか という疑問が生じる。子供のため という言い訳もなさそう。独身ならば、一緒にお墓に入る家族がいないため、墓友を探そうとするが。
これまで「墓」は、「家(制度)」と結びついていたと思う。「血縁があるから同じお墓に入る」という考え方だが、「家」に対する価値観が変化してきた。核家族が増え、墓に入る段階においても「家」に縛られることや、「家」の供養に追われることへの疑問である。そして、少子化が進む中で 墓を承継する人が不足。物語の中でも墓友に若い人がいると、長く供養 そして墓守してもらえるような台詞がある。公演では、吉野家と墓友の在り様を対比するように描き、「墓」に入るとは、そして「死」とは を考えさせる。
場景は、プロジェクターを用い 東京スカイツリーの展望台からの遠望、吉野家のバーベキューパーティ、ファミリーレストランでの楽しい語らい、寺の境内での葬式(儀式にとらわれない)、そして桜吹雪が舞う光景 を映写し、分かり易く しかも余韻付けしているのが好い。邦子は義男と離婚せず 添い遂げるようだ。ラスト、義男は「邦子ありがとう」と頭を下げる。大団円にならず、この先どうなるのか分からない含みを残す。
最後に気になること…前回公演「親の顔が見たい」でも感じたが、演技力に差があるような。言い直しや微妙な間(ま)が見受けられるのが惜しい。
次回公演も楽しみにしております。
ボンゴレロッソ 2025
A.R.P
小劇場B1(東京都)
2025/02/19 (水) ~ 2025/02/25 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
聖淑高校4期生 3年 2組同窓会を12年ぶりに開催、30歳になる節目の年に集まった13人の悲喜交々を描いた青春群像劇。彼女達以外に2人の女性を加え、15人の女優による遠慮のない会話と演技が可笑しい。なぜ このタイミングで同窓会を行うのかが肝。
その開催場所が 雇われ店長をしているイタリアンレストラン「ボンゴレロッソ」。店の店員が狂言回しを担い、冒頭 この店員が主人公になる女性を早々に明かす。と言っても、最後には別の女性の近未来(数日後)まで言及して…その意味では女30歳、まだまだ若いが それでも色々な事がある。
本作では、たまたま高校時代に優等生であった女性に焦点を当てているが、誰が主人公になってもおかしくない。一人ひとりが卒業後から現在迄の状況を話す、この多様な人生経験が 観ている人の思いに重なるかも知れない。また女子高生の同窓会であるが、男性には男性の30歳が別の形で観えてくるのではないか。
基本コメディであるが、高校時代の文化祭で披露した歌やダンスを交え、面白可笑しく観せている。そして世代間のギャップが時代を感じさせる。時間と言えば、同窓会に集まってくるたびに暗転/明転を繰り返し人数が増える。その時間差を巧く表しつつ、一度に名前や近況が掴めないことから 登場の仕方に工夫を凝らしている。見どころは、30歳女性の複雑な心情、そして12年ぶりの歌・演奏、ダンスを観(魅)せるところ。そのライブ感が実に気持ち好い。
(上演時間1時間45分 休憩なし)
ネタバレBOX
二面客席。奥に同窓会を祝す看板「聖淑高校4期生 3年2組同窓会 みんな おかえりなさい‼」の文字。そしてドラムセットが置かれているだけの素舞台。
高校の担任教師が、もし店長が30歳になっても独身だったら結婚しようと、その言葉を信じて同窓会を開くことにした。その幹事はクラスの優等生だった相沢愛子が引き受けてくれた。12年ぶりに再会する友人、その現在の姿が観客(特に女性)の共感を呼ぶのではなかろうか。実家の商売を継いだ者、小学校教師、保険外交員、介護職員、広告代理店など色々な職業に就き、生活も 結婚し子だくさんの者、離婚した者など 様々。それぞれの職業や生き方をサラッと説明し、その職業の特徴を生かした物語が面白可笑しく展開していく。
2つの<何故>が物語のカギ。1つは相沢愛子が集合日に現れない。2つ目は、担任の坂本先生も現れず、姪と名乗る女性が先生の近況を伝えに来る。同窓(祝う)会だが、相沢は消費者金融の取り立てから逃げている。実は エリート社員だが、仕事に行き詰まり、付き合っていた彼氏ともうまくいかない。挙句にパチンコに のめり込んで借金地獄。優等生ゆえ友達に事情を告げられず苦悩といった孤独感を募らせていた。一方、先生は入院して来ることが出来ないと との伝言だが、実は姪と名乗る女性と付き合っており、という顛末。登場しないことによって、どのような人物像の先生か想像させる巧さ。全体的に何事も順調とはいかない30歳、その哀歓を面白切なく描く。
祝う会でもあり、そのサプライズを学園祭で披露したもの…バンドライブとチアリーディング、その練習風景から本番までを楽しく観(魅)せる。高校時代と同じ格好で行うため、セーラー服やレオタード姿へ。そして相沢愛子と坂本先生の夫々の事情が分かって大騒ぎ。最後はギター、ピアノ、ドラムなどの生演奏、そしてチアダンスを披露する。何となく予定調和ということは分かるが、それでも面白可笑しい展開は飽きることがない。いやぁ笑い笑いの連続で楽しめる好公演。
次回公演も楽しみにしております。
『300年の絵画と鉄仮面の姫君』
KENプロデュース
萬劇場(東京都)
2025/02/20 (木) ~ 2025/02/24 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「恋の魔法にかけられた 四人の若者たちの物語」…その四人が ロールプレイングゲームのように恋の話を展開していく。それを歌やダンス そしてアクションで観(魅)せるエンターテインメント作品。物語は、世界の童話集にあるような話を織り交ぜて描いているよう。そこに あまり教訓臭を出さず、逆に物語へ巧く溶け込ませ納得や共感を呼ぶ。
アクションシーンや群舞などが多いことから、舞台空間を広く観せる工夫をし、その魅力を十分に堪能させてくれる。また衣裳も華やかで魅惑的な ベリーダンスイメージである。そのダイナミックな動き、それを引き立たせる音響・音楽、そして照明の諧調が印象的だ。
少しネタバレするが、冒頭 シャハラザード(語り)が この話は眠りにつくまでの物語(枠物語の手法か)と言い、歌いながらその世界へ誘う。M-team(ミュージカル班)を観ているから頻繁に歌とダンスが披露されるが、皆うまい。タイトルから何となく想像できるが 妖(アヤカシ)が登場し、その魔法と「300年の絵画と鉄仮面の姫君」に込められた意味と謎が テンポよく明かされていく。序盤は冗長のように思えたが、妖が登場してからは面白味が加速する。
(上演時間2時間35分 休憩なし) 【M-team】 追記予定
カリギュラ
カリギュラ・ワークス
サブテレニアン(東京都)
2025/02/14 (金) ~ 2025/02/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
面白い、お薦め。満席
未見の演目「カリギュラ」、本来であれば上演時間3時間位の作品らしいが、それを1時間35分に凝縮したという。事前に難しそうな戯曲だと分かっていたが、本公演は 分かり易さを目指し、創意工夫を凝らし新しい翻訳で挑んだとある。不条理劇は、今まで何作品か観てきたが、本作は その中でも重厚にして濃密 そして心に響く秀作。
説明にもある「どうしてカリギュラが月を手に入れたいのか」「その宣言が自分の名なのか」という根本的な疑問、それを漂流するような会話(言葉)から だんだんと浮かび上がらせる。自分の解釈が正しいのか否か、少なくとも その入り口までは導いてくれるような。そこから先は、観客の想像力・感性に委ねられるが、舞台という虚構にも関わらず 激しく心が揺さぶられる。そんな 力 のある公演。観応え十分。
自分なりの解釈では、不条理 対 不条理 その捉え方 考え方の違い。その相容れない溝に横たわる得体の知れないもの、それは本能なのか感情なのか、いずれにしても 理性を飲み込み良識や常識を殺してしまう怖さ。それは誰が誰をという対立のように見えて、実は…。そもそも良識や常識といった条理とは何ぞやという根本をも問う。
「月を欲する」「宣言が自分の名」の疑問以外に、「正邪」「孤独」「生死」等の命題というか意味を投げかけてくる。その議論が広く深く考えさせる。抽象的とも思える内容、その議論の積み重なりを象徴するかのような舞台セット。そして音響・音楽(上演前の重低音の曲 含め)そして照明が効果的で印象に残る。勿論、俳優陣の演技は確かでバランスも良い。
なお、自分の勝手な思いが1つあるのだが…。
(上演時間1時間35分 休憩なし) 2.17追記
ネタバレBOX
舞台美術は、上手/下手に紗幕があり 上手は劇中のカリギュラの個(寝)室、下手は原作者 カミュの書斎、タイプライターを打ち 独白。この自作を俯瞰するような場面が妙。中央奥にベンチ その両側に本を積み上げ、板(床)上にも至る所に本の山。これは法・秩序や常識を表しており、冒頭 カリギュラがそれを崩すことによって不条理の世界へ という象徴的な場面が印象的だ。
衣装は、大臣などは黒一色、カリギュラの側近は赤基調、当のカリギュラは内に黒、上着は赤という条理・不条理という二面性を表しているよう。
生の喜びは いつも死の怖れであり、死は忌み 生は尊い。その感情を出発点とすれば、カリギュラが愛した妻で 実の妹ドリジュラの死は受け止めがたい。カリギュラにとって人の死は不条理。死は突然やってきて人の幸せを奪う。その不安に苛まれることも不条理の感情、一方 この不確定 幻影を断ち切ることが出来るのは死しかないという矛盾。
人が死という絶望を超えて 永遠性を求めた時、カリギュラになる。理性が崩壊し そこには正義・秩序そして合理的な感情は無になる。死は必然、その不条理を受け入れ 生きている間だけでも条理を尽くす。その条理・不条理を併せ持っているのが 生きている人間、言い換えれば 自分自身の内にカリギュラがおり、絶えず自己対立や対決をしているのではないか。
「月を手に入れる 俺はカリギュラだ!」…天空にある月を掌握することで、自分が神になる。神が人間を創ったのなら、自分が神になって不条理=死を無くす。不可能を可能にするのである。そのためには、この世にある条理を壊す…皇帝(権力者)として勝手な法律を制定し、虐殺と理不尽な圧政を強いる。カリギュラの圧政に対する反乱、しかし、カリギュラ曰く「誰も自分を裁くことなど出来ない、それが出来るのは歴史だ」。
考えてみれば、神だって近親相姦をし、「ノアの箱舟」にある大洪水による殺戮、「バベルの塔」を破壊し人を殺傷し言語の複数化という事態を引き起こした。本作も神のそれに比べれば、自分の不条理など大したことはない。説明にある「自分がもつ権力を神と対比し、カリギュラ自身の『論理』を力づくで正当化」する。独自の論理を持ったカリギュラ、意味合いは少し違うが、そのラストは 滅びの美学を思わせる。そう思わせる演出・舞台技術が実に上手い。
自分の勝手な思い…本公演は、カリギュラの寵愛を受けている詩人だけが男優で、それ以外 カリギュラも含め全て女優で演じている。その演技力は確かだが、理屈ではなく本能的に想像する情景が…。それは 例えば カリギュラが女を犯す といった台詞が陰惨・淫靡といった生々しさを想起させない。これが男優の暴力的な言葉・行為だったら、もっと違った臨場感が…。
次回公演も楽しみにしております。
女性映画監督第一号
劇団印象-indian elephant-
吉祥寺シアター(東京都)
2025/02/08 (土) ~ 2025/02/11 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
女性の芸術家を主人公にし、彼女たちの視点から社会や世界を見ていく「天井を打ち破ろうとする女シリーズ」の第一作。今作は日本初の女性映画監督 坂根田鶴子を取り上げている。観る前は彼女の評伝劇、それも生涯を描くものと思っていたが、1959(昭和34)年12月(55歳)までの半生で幕が下りる。そこまでに描きたいテーマが鮮明になり、それ以上描くとかえって暈けるといった際どいところまで攻めている。
どんな社会や業界でも 男女の別に関わらず先駆者は苦悩・苦労そして柵(シガラミ)や軋轢等と闘わなければならないだろう。本作では、その人間的な側面と時代という側面ー戦時という背景を巧みに繋ぎ 重層的に描き、同時に一筋縄ではいかない問題提起をしている。単に女性映画監督第一号の坂根田鶴子という一人の女性の生き様以上の問題を投げかける。
本作は 映画的にいえば、彼女の人生を投影することによって、その映像の奥には多くの女性の姿が映っているのではなかろうか。例えば 劇中における映画撮影所、そこでは日本社会で固定化された根深いジェンダー役割が次々に表れる。演劇における個人史と虚構をどう調整するか難しいところ、それを半生に止め 本来のテーマで纏めた手腕は見事。そして、満映時代を映画で言う<光>と<影>にして鮮やかに描き出した。
少しネタバレするが、物語は1959年12月に始まり同年へ回帰する、全14場で紡がれる。勿論、映画監督になりたい確固たる意志、同時に満州映画協会(満映)では、後進の育成等 映画界の環境整備に尽くすという観点も描く。そこに現代にも通じるジェンダー平等といった広がりを感じた。少し気になるのは、満映で撮影していたのは文化映画。単に映画が撮りたいという職業映画人ではなく、溝口健二監督の下でキャリアを積んだのは芸術家としての映画監督、それゆえ文化映画に劇映画の要素を加えるという発想へ。あたり前の意識・行動であるが、何となく「女性のパイオニアが男社会の壁をどう打ち破ろうとしたのか」から離れ、あくまで自分が こう撮りたいという欲望が前面に出過ぎたような印象が…。そのリアルの誇張が、後々 彼女を苦しめることになる。
(上演時間2時間15分 休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術は、天井にフィルムか階段状もしくは脚立のようなイメージのもの。それも所々朽ちて欠損している。板上は中央に大きな菱型の台、それを支えるように左右に変形した長方体の台。後景は黒紗幕。全体的にはシンメトリーで、場面に応じて丸卓袱台やディレクターズチェアを搬入する。簡素な造作であるが、その作り込まない大きな空間が逆に場所・時間そして状況を巧く表す。
物語は、1959(昭和34)年12月、京都の坂根田鶴子の部屋へ 2人の女性が訪ねて来るところから始まる。そして彼女たちと話しているうちに、自分の身の上を回想するように語り出す。そして 1929(昭和4)年秋、京都・日活太秦撮影所へ場面は転換し、彼女の映画人生と当時の映画界の事情が描かれる。生涯、大きな影響を受けたのが溝口健二監督、そして交友のあった監督夫人 千枝子。それは映画(撮影現場)のみならず、私生活に関わる深いところまで踏み込んでいく。
当時の映画界で女性が監督をしてスタッフや俳優に指示や演出をすることは考えられないこと。長いこと溝口監督の下で助監督に甘んじなければならない、という閉塞感に苛まれていた。そしてやっと「初姿」が監督第1作に、それによって日本映画界に女性監督が誕生したのである。それも溝口監督が監督補導。それが地続きとして 多くの女性監督、最近でいえば 山中瑶子監督などが活躍する場を築くことになる。
いくつもの出来事、転機を通して映画への思いを強くする。それがドイツ映画「制服の処女」から受けた強い衝撃であり、千枝子夫人の錯乱と溝口監督の焦燥、活躍の場のない日本映画界への訣別、そして満州(満映)へ渡航。その時々の状況を分かり易い演出で観せる。突然、歌い踊るといったミュージカル風になったり、映画のワンシーンのように紗幕へ映し出すといった面白さ。本公演を使って現代の映画手法のいくつかを披露したかのようだ。
満映時代の活躍と周落、それを映画に準えれば<光>と<影>になろう。文化映画…何もない荒野を耕すことによって暮らしに潤いを、一方 その開拓は他国を侵略していくという矛盾を孕んでいる。いくら美辞麗句を並べても、相手から見れば違う光景が映る。撮(録)る側と撮られる側、それはまさに盗(獲)る側と盗られる側に他ならない。それを助監督として登用した中国人女性 包琳琳によって知らされる。自分の思い描いた映画とは…満州というユートピアを撮ったつもりが、相手からしたらディストピアに映る。状況閉塞という日本映画界から新天地を求めたが、それが時代に翻弄され といった個人と状況・時代を巧みに描き出す。
演出は、紗幕を利用して 映画シーン(制服の処女)や脚立に乗っての撮影など、奥行きと俯瞰を表す。また戦火は天井のオブジェを赤く染め、業火に見舞われた地獄のよう。下から見上げれば赤い針の山または塔婆の林立である。物語(テーマ性)を強調するかのような演出、舞台技術は効果的で印象に残る。俳優陣は坂根田鶴子(万里紗サン)以外は、複数の役を担っているが、違和感なく演じている。そのバランスの良さも見事。
次回公演も楽しみにしております。
時代絵巻AsH 其ノ拾八『蒼穹~そうきゅう~』
時代絵巻 AsH
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2025/02/06 (木) ~ 2025/02/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
面白い、お薦め。
歴史における虚実の狭間、その埋もれた思いを巧みに掘り起こし演劇(舞台)という世界の中で紡いでいく。毎公演、販売するような豪華なパンフレットを配付してくれるが、その中に時代背景や史実そして相関図等が記されており、上演前にざっと読んでおくと更に分かり易い。勿論、公演を観るだけでも その面白さは分かる。
時代絵巻 AsHの公演は、脚本(物語)の面白さは言うまでもなく、音響・音楽、照明といった舞台技術が効果的・印象的なのが特長だろう。また本公演は、殺陣シーンの荒々しさ 躍動感の中に生き様のようなものが感じられた。美学とは また違った生命力のような荘厳さであろうか。
物語は奈良時代末期から平安時代にかけて、東北に住まう蝦夷たちの物語。その中心は、東北(日高見国)の阿弖流為と大和朝廷側の坂上田村麻呂の二人、その夫々の立場の違い 生き様そして苦悩を切々と紡ぐ。子役を使った出会いと邂逅が切ない。
(上演時間2時間20分 休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術は、いつもの時代絵巻 AsH公演のような段差を設えているが、上手/下手に異なった造作、それが いつもに増して躍動感を感じさせる。上手に物見柵、下手に岩洞窟のようなもの。また中央は開き襖ではなく、御簾(みす)を用いており、それらしい情景が浮かび上がる。勿論 衣裳も朝廷側と蝦夷民ではまったく違ったものを着ている。
物語は、阿久路(アクロ)こと後の阿弖流為と呼ばれた男と後の坂上田村麻呂(幼少期)が出会ったところから始まる。この2人、結果的には戦うことになるが、何とか共存共栄出来ないか模索する。その苦悩の過程を 夫々の立場と境遇を相互に描くことにより、時代状況を浮き彫りにしていく。さらに帝(天皇家)や公家(藤原氏)といった大和朝廷側の複雑な思惑も絡めて興味を惹かせる。時代と人物の背景を複雑/重層的な観せ方によって、資料が少ないこの時代の出来事を舞台というフィクションとして巧みに描く。
見所は2つ。まず 主人公的な2人の心情を丁寧に描き、その思いとは裏腹に時代状況がそれを許さない といった抗えない運命が観る者の心を打つ。次に その物悲しい思いを抱きながら戦う、その殺陣シーンが見事。田村麻呂率いる朝廷と阿弖流為率いる日高見国の衣裳から、何となく権力対反権力 1960~70年代の学生運動を連想した。この権力は帝の新羅系か百済系、さらに藤原氏という同族内の権力抗争という、国家的・個人的といった広がりを持たせ、物語に深みをもたらす。
舞台美術、その音響・音楽、そして照明効果が素晴らしい。音響音楽は殺陣シーンを中心に流れ、その勇ましく鼓舞するような音。それは会話の場面では抑えられ、しっかり台詞を聞かせる。一方、照明は会話の場面や人物が立ち去った無人の光景に照らす。その無の空間に余韻と印象付けするような上手さ。さらに本公演では、日高見国の衣裳やメイクに個性を表し、ビジュアル的に観(魅)せるを意識している。
次回公演も楽しみにしております。
映像都市
“STRAYDOG”
赤坂RED/THEATER(東京都)
2025/02/05 (水) ~ 2025/02/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
面白い、お薦め。
1970年代前半、日本映画の低迷期が舞台。映画好きの主人公の過去と現在を行き来し、その哀感と郷愁が相まって叙情豊かな物語を紡ぐ。時代背景には、素朴な日本の原風景と高度成長期へ といった過渡期の世態が垣間見える。脚本(物語)は、斜陽した映画館の中で、若かりし頃の思い出(夢想)に浸っている といった閉塞感を漂わせている。一方、演出は歌や踊りを交えエンターテインメントとして楽しませる。この哀歓するような世界観が好い。
また舞台美術が秀逸で、時代と心情を巧みに表出し 情景も鮮明に映し(描き)出す。その光景は、現在を1970年代前半とすれば、子供の頃は戦後間もない混乱期、青年期は映画全盛期といったことが分かる装置になる。薄昏い中で 手際よく場転換をするが、それによって集中力が途切れることはない。そして この劇場を映画館に見立て、観客を劇中へ誘い込むようなリアリティ。
登場人物は個性豊かな人々で、その化粧や仕草 そして衣裳に至るまで観(魅)せ楽しませる。本筋は、主人公が過去の自分と向き合い、映画こそが生き甲斐だと改めて知る。しかし衰退していく日本映画、それに伴って地方の映画館の行く末も知れてくる。笑い楽しませる中だけに、主人公の悲哀が際立ち印象深くなる。実に巧い。
(上演時間1時間45分 休憩なし)【Aチーム】
ネタバレBOX
舞台美術、冒頭は汚い石塀のよう。それが3つの時代に応じて場転換し、時々の情景をしっかり表出する。戦後間もない時期であろうか 主人公が子供の頃は、下手に手押し井戸と盥・洗濯板といった小道具、青年期は映画撮影所もしくはロケ地。そして現在 1970年代前半の映画館内が飛び出し絵本のように現れる。その館内の左右の壁に「スティング」「パーパームーン」の映画ポスター(両作品とも1973年製作)が貼られており、当時の映画館を彷彿とさせる。
公演は、上演前から既に始まっているような感覚で、幕に“STRAYDOG”に関係した映画が映し出されている。そして売り子に扮した主人公が通路を行き来している。物語は主人公が子供の頃、青年期のシナリオ作家を目指している時期、そして現在 結婚し映画館主、その3つの時代を往還するように紡いだ映画人生劇。主人公の夢と希望、そして現実という悲哀を描き、その背景に時代の流れが透けて見えてくる。何となく「キネマの神様」ー映画に魅せられていた時代を回想 を連想させる。
子供の頃、姉と二人暮らしに跛行の男。姉が見つけた八ミリカメラで遊ぶ様子。その童心、そして姉と男の不穏な関係をうすうす感じ取った心情が切ない。青年期はシナリオ作家として映画撮影に立ち会う。カリスマ映画監督、プロデューサー、二世俳優といった個性豊かな人々との軋轢に苦労している。そして現在、日本映画界は斜陽 映画館を売りマンションへ。子供の頃からの希望、それを転寝しながら見る夢想の中で物語は展開している。
この公演が好いのは、時代の変遷・変化によって浮き沈みする(映画)産業、それに重ね合わせるように映画(人)への思いが切々に語られるところ。物語は映画界を舞台としているが、他の業界でも同じような喜怒哀楽に思いを馳せている。その世態であり風俗史的な内容を舞台という虚構の中で瑞々しく描き(映し)出す。
現在の主人公曰く 夢=思い出を売り払うことは出来ない、しかし それを持ち続けることは重く溺れてしまう。現在も その一瞬を過ぎれば過去、だから残るのは過去しかない。過去のカリスマ映画監督曰く、過去作品の栄光(幻影)を追うのではなく、今できること といった言葉が重い。この現在と過去の対なすような言葉(台詞)が、公演の肝のよう。勿論 映画(芸能)界における往時のパワハラ等、今問題を鏤め 考えさせる。
さて 冒頭の石塀は映画館の裏塀、それをハンマーで壊すことによって光が見え始める。夢想の世界に閉じ籠もり前進出来ない情況からの脱皮。その希望に繋げるためには、敢えて骨太/重厚といった演出ではなく、笑いや憤りを盛り込みノスタルジーを漂わせているようだ。また映画撮影の現場を使っての歌や踊りといったエンタメシーンを盛り込む工夫が好い。
次回公演も楽しみにしております。
おばぁとラッパのサンマ裁判
トム・プロジェクト
紀伊國屋ホール(東京都)
2025/02/03 (月) ~ 2025/02/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
面白い、お薦め。
沖縄が、まだアメリカから返還される前の 1960年代が舞台。物語は、サンマに関税が課され価格が高騰することに反対した大衆運動。時代背景の妙、そして現代でも地続きの課題・問題として関心を惹く。日本にとって、沖縄の返還は重要な出来事だが、未だに沖縄におけるアメリカ軍基地問題は解決していない。基地の負担や環境問題、そして一番重要だと思われるのは、沖縄住民の声が反映されていないこと ではないか。
公演は 分かり易い内容で、それをテンポよく展開していく。何より役者陣の演技(台詞回し)が小気味よい。庶民が口にする食材 サンマ、その身近さが現代の物価高騰をも連想し切実になる。その戦う相手がアメリカ、しかも相手が定めたルール(法)に則って争う。それ(困難)をいかに論破するのか。大衆運動を扇動するような熱い演技、その漲る力強さ 高揚感溢れるシーンが なぜか清々しい。
脚本 古川健 氏と演出 日澤雄介 氏、この劇団チョコレートケーキ コンビの公演は面白い。アメリカは姿を現さないが、その見えない影の存在として米軍機の飛行音を轟かす。少しネタバレするが、物語は 大衆魚サンマへの不当な関税撤廃から 未来を守る戦いへ…ここに公演の真のテーマ<民主主義の希求>が浮かび上がる。
(上演時間1時間40分 休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術は、上手に平板の壁、その前にウシおばぁの家。下手も同じような平板の壁だが、その前は弁護士事務所で机、ソファとテーブル。中央は金網で上部は鉄線のようなもの。その前は階段状になっており奥へ抜ける。
1960年代、まだ沖縄が返還される前の話。アメリカが、サンマに関税を課すという暴挙、それに憤ったおばぁが敢然と立ち向かうが…。文字も読めないおばぁの無茶な奮闘記だが、それには知恵者や仲間が必要。その知恵者=弁護士が法に基づいて裁判所に提訴する。その法そのものがアメリカが定めたもの。関税する品目の定め(法)は、限定列挙で「サンマ」は記載されていなかった。それでも関税するとは如何なものか。そして裁判権そのものが日本に無いという問題。当時の不平等はもちろん不平不満を点描することで、問題の広がりや根深さを浮き彫りにする。
裁判結果(判決)は、勝利し過去の課税分も返還された。しかし、それはウシおばぁ家に限ったことで、今後は課税品目にサンマを加えるという暴挙。あばぁにとって「商売」「お金」は大切だが、それ以上でも以下でもない。しかし、目先の現実主事から「未来を守る」という思いへ変化していく。それは姪に子供が生まれ、その子が安心/安全な暮らしが出来るようにとの思いを巡らせたから。物語は、裁判の成り行きを おばぁ(柴田理恵サン)が語りとして説明するから分かり易い。
アメリカ相手に抗議行動、それが大衆運動としてプラカードやシュプレヒコールといった演出で盛り上げる。その高揚感溢れる思いが、清々しくそして痛快に感じられる。勿論、米軍機であろう轟音が響き、威嚇するような怖さもあるが、それを乗り越えなければ 沖縄の未来はないと。その誇りとしての沖縄民謡が米軍機音を凌駕するように流れた ように思えた。
次回公演も楽しみにしております。
ごはんが炊けるまで(仮)
演劇企画アクタージュ
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2025/01/30 (木) ~ 2025/02/03 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
面白い、お薦め。
「家族とは」という普遍的だが 当たり前すぎるテーマ、そこに「何か違和感」という興味を惹かせる。もっともこの違和感は、例えば 宮部みゆきの小説「理由」の設定でも用いられており、(ミステリー)小説ほどの牽引力はない。ただ 家族の強い結び付き といった先入観から一歩引いて俯瞰することで見え、考えさせるところが上手い。
家族の物語は、その家族の数だけ物語があると言える。公演は、その一形態を描いており、むしろ優しく心温まる、そして居心地の良い場所なのかも知れない。古くて新しい家族をテーマにした公演、何となく小津安二郎の古き良き時代の映画を彷彿とさせる。その小津映画は映画館で再上映しており、時代が変わっても色褪せることなく楽しませている。本公演も同じような味わいが続くかもしれない。
舞台美術は劇団員が作ったらしいが、神は細部に宿る というが本当に住めそうな造作。そこで巻き起こる騒動、典型的なスラップスティック・コメディとして描いており、分かり易く楽しめる。前半の小笑い・大笑い・失笑など笑劇といった観せ方から、中盤以降は この家族一人ひとりの事情や問題を点描していく。この家族に凝縮した諸課題は、多くの問題提起をしているよう。緩い雰囲気の中で強かな物語を構築している。そして説明にある、何故 結が直人の家族に会いたいといったのか、その理由と激白によって物語が引き締まる。「笑劇」から刺激ならぬ「刺劇」になっていく変化、その印象付けが巧い。
(上演時間1時間35分 休憩なし)【湯のみチーム】
ネタバレBOX
結婚を考え始めたカップルの直人と結。結婚すれば、その家族との付き合いも生じる。そこで 結は直人に家族を会わせてほしいと頼む。しぶしぶ 直人が紹介した家族は、役割分担を持った疑似家族である。もともとは民宿で居ついた人々が家族になり、自分にとって居心地が良い場所にしている。結は違和感を持ち、そして直人は何とか誤魔化しながら といったちぐはぐな対応を面白可笑しく描く。
物語は、この家族以外の人間が加わることで動き出す。第一に、長男役の妻 佳澄が、長男役と末っ子役とが仲良く歩いているのを見かけ、浮気を疑いこの家に乗り込んでくる。誤解を解くまでの真の夫婦間の会話が、この疑似家族を成している意味を代弁しているよう。疑似家族の言葉では言い表せないコト、その雰囲気を味わうために夕食を共にすることに。第二に、疑似家族の家で暇つぶしのように漫画を読んでいる隣家の詩織の存在。実は父親が事故で要介助状態になり、母親だけでは心配で 何か事が起きたら直ぐ行けるように待機している。この外部の人たちの思いが疑似家族という存在を擁護しだす。
一方、結の両親は生まれつきの障碍者であり、その環境下が当たり前だと思って生きてきた。ところが学生時代に友達から何気なく「結の家族は普通ではない」と言われ傷つく。どのような障碍かは明らかにしていないが、結という<通訳>を通じて<普通>に暮らしている。家族の在り方、多様性が浮き彫りになる。
それぞれの役割と性格をしっかり立ち上げ、疑似家族を構成している。勿論、実家族と言われれば信じてしまうようなリアリティがある。疑似家族ゆえ、両親の強い口調も少なく、兄弟姉妹の真に迫った諍いもない。その居心地の良さが伝わるような雰囲気を演じている。両親役の飄々とした口調と振る舞い、似ても似つかない兄弟姉妹のすれ違いの会話、そして浮気を疑った妻の激高。結の心情を吐露するような激白が迫真の演技だった。
次回公演も楽しみにしております。
ごはんが炊けるまで(仮)
演劇企画アクタージュ
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2025/01/30 (木) ~ 2025/02/03 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
コロナ禍を経て ますます無関心・不寛容になったように思うが、本公演はそんな世態を逆手に取ったような家族の物語を描いている。説明にもあるが、「その家族には何か違和感が…」という、一般的な家族とは違うことを示唆している。この家族、そこにいる人々には何か事情があるようだが、その背景を深堀しない。その緩い繋がりこそが物語の核心であり現実の世態とリアルに結びつく。人とは関わっていたい、しかし深い付き合いはしたくない、といった心情が透けて見える。オーソドックスのような物語だが、そこに演劇らしい奇知を仕込んで観(魅)せる。観劇歴が浅い人でも楽しめる、まさに演劇らしいお手本のような公演である。
家族の一人ひとりが抱えている問題なり悩み、その多様な提起の一つ一つが観客の共感・反感や違和感を誘う。小説における中間小説的な印象だ。勿論 小説のそれとは違い、いわゆる現実でもないが非現実とも言い切れない。そういう意味では、従来型の物語ではなく、かと言って突拍子もない物語でもない。演劇の醍醐味は、虚構の世界へ誘い込まれ堪能出来るかどうか。この公演は、「家族とは」という普遍的な問いを少し違った観点から切り取っている。家族という現実を描いているが、疑似家族という非現実=虚構の世界を紡いでいる。
(上演時間1時間35分 休憩なし)【茶わんチーム】
ネタバレBOX
舞台美術は、実に細かに造りこんでいる。出演者総出で作業したらしい。この疑似家族=磯部家の居間。十畳の畳、中央奥に襖戸、その上には欄間。上手に茶箪笥や電話台、中央に大きな座卓、下手は襖押し入れと床の間、そこに掛け軸と置物。いつでも住めそうな空間を作り出している。上手の鴨居の上に3枚の色紙。そこには「結婚後は出ていくこと」「己の器を持つべし(属人器の意)」「兄姉は名前のみで呼ぶべからず」という家訓めいたものが掛けてある。因みに 色紙の言葉の意味は劇中で語られる。
結婚を考え始めたカップルの直人と結。結婚すれば、その家族との付き合いも生じる。なんと直人が紹介した家族は、役割分担を持った疑似家族である。
長男役 智陽は、子供の頃 鍵っ子で食事も一人、結婚して家庭を持ったが 子供が生まれ食事もバラバラになった。その寂しさから離婚したことにして、疑似家族の元へ帰ってきた。長女役 実里は、同性愛者で親に認めてもらえず実家を飛び出して、以来帰っていない。末っ子役 杏は、実の家族では長女で、いつもお姉ちゃんだから と言われ我慢してきた。その反動で疑似家族の中では我儘言い放題の末っ子を演じている。そして直人は、母親が過干渉で何事にも口を出す。そして新たに妹役の恵美が来ることに…。それぞれの事情や問題が触れられるがあまり深堀しない。人にはいろいろな事情があり、それを言いたくない人もいる。同時に演劇的には、その余白のようなものが観客の想像力を刺激する。少し分かり難いのが、どうして独立した人間同士の共同体空間、いわゆるシェアハウスにしなかったのか。
物語は、この家族以外の人間が現れたことによって、その疑似の姿がだんだんと明らかになる。まず 長男役の妻 佳澄が、智陽の浮気を疑いこの家に乗り込んでくる。次に 隣家の詩織、いつも疑似家族のもとでブラブラしている。実は父親が事故で要介助状態になり、母親だけでは心配で 何か事が起きたら直ぐ行けるように待機している。口で説明されても直ぐに納得は出来ない。そこで 疑似家族ならではの家族団欒を味わうため、夕食を共にすることに、それが「ごはんが炊けるまで(仮)」。ドタバタした1日の出来事を締め括るに相応しいラストシーン…大団円へ。
結の両親は生まれつきの障碍者であり、その環境下での暮らしが当たり前だと思っていたが、友達から「結の家族は普通ではない」と言われ傷つく。結は自分という<通訳>を通じて<普通>に暮らしてきた。家族の在り方、多様性が浮き彫りになる。こちらの家族を主体に描いたならば、また違った問題点を炙り出した舞台になるだろう。出来れば そんな舞台も観てみたい。
舞台技術…音楽は、場転換の暗転時に流れるだけで 敢えて抑えて会話劇を生かしているよう。照明は、その諧調が少なく 印象にない。あるとすれば、結が心情を激白する際、スポットライトで彼女の心情を効果的に際立たせているところ。なお、茶わんチームと湯のみチームでは、結の立ち位置が逆で、照明の照射も違う。
次回公演も楽しみにしております。
藤戸
劇団演奏舞台
演奏舞台アトリエ/九段下GEKIBA(東京都)
2025/02/01 (土) ~ 2025/02/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
面白い、お薦め。
「藤戸」は、能・謡曲の演目として知られているらしいが、この公演では現代語訳を礎に上演しており分かり易い。そして演奏舞台ならではの臨場感溢れる生演奏が心情を揺さぶる。また今回特筆すべきは、生演奏とともに照明・映像(プロジェクションマッピング)が美しく抒情的な雰囲気を醸し出し、意味合いは違うが 能の様式美のようなものを感じた。
謳い文句であろうか「夢か現か幻か…」、この言葉が公演の肝。時は平安時代末期、登場人物は4人で それぞれの立場は明確に描かれている。この観える人物と観えない人物、それを肉体的・精神的な対比として表出していく。そして新領主と領民、母親と息子といった関係性、さらに主人公の心の有り様といった情感が実に巧みに立ち上がる。誰も為政者を罰することが出来ない、そして恨みを抱くものを懐柔しようと…。その如何ともしがたい気持がじっとり纏わりつく怖さ。合戦における生死とは別の生々しさ、それが力のない老婆と亡霊によって脅し迫られるという皮肉。卑小だが気になることが1つ。
(上演時間1時間10分) 【team奏】 2.3追記
ネタバレBOX
舞台美術は中央に白い菱形を重ねたような幾何学衝立、左右にも同型のもの。天井部には照明を房付きの赤い板枠(フレーム)で囲ったもの。シンプルだが、この色彩は源平をイメージさせるもの。また白色は、そこへのプロジェクションマッピングによる効果的な演出を狙っている。この映像が秀逸で、抽象的なものから左右への遠近法を用いて立体的に館(ヤカタ)内を映すなど巧み。狭い空間が一気に広がりを持ち、同時に世界観も豊かになる。途中に床几を持ち込み、武者の立ち 座りといった動作が静かな舞台に動きを現す。
物語は、源氏の武者 佐々木三郎盛綱が先陣をきって藤戸海峡を渡り 平家に勝利した。その功績としてこの地 児島の国の領主になった。領民を前に公正な裁きと安寧を約束した。盛綱は 馬で海峡を渡る際、地元の漁師に浅瀬の場所を教えてもらい、手柄を我がものにするため口封じに漁師を殺した。盛綱の前に漁師の母が現れ、息子は殺されたと訴える。公平な裁きをするためには自分自身を罰せなければ…その苦悩が肝。殺されたところを村人が見ていた、その抗えない事実。しかし その結果手に入れた領主という地位も事実。その相反する行為と結果によって自縄自縛する真情と信条。その葛藤が実によく表現されていた。
一方、従者の謹厳実直で世故に長けた話しぶり、その現実を見据えた対応こそが盛綱の苦悩を一層際立たせる。何の迷いもない、そして最後の判断(裁き)は領主自ら行うものと突き放す。また息子(漁師)を殺された老婆は、息子の無残な死を悲しみ、その下手人を裁きたい。そして殺された息子が亡霊となって…。老婆曰く、この世は仮の宿、その一時でも親子の契りを結んだからには情がある。それに対し、盛綱は瞍となっても心に見えるのは恐ろしい亡霊だけ。これからの人生は、その陰に怯えて暮らすだけ。その孤独・懊悩が老婆や亡霊の対になっているよう。救いは、鮫に殺されたという村人たちの話、犠牲になった人の霊を永さめる供養が…。これらの話の流れが、夢か現か幻か…。
卑小だが、気になったのは盛綱の衣裳。その時代の領主の衣装かどうかは分からないが、従者のそれらしい出で立ち、それに比べると羽織りなどは色鮮やかだが 紐の帯に太刀を差すなど違和感があった。その軽い外見と内面の苦悩する姿のアンバランスが気になった。勿論、役者陣の演技力は確かで観応え十分。
次回公演も楽しみにしております。
一角仙人
演劇ユニット 金の蜥蜴
ブディストホール(東京都)
2025/01/29 (水) ~ 2025/02/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
説明には「能楽『一角仙人』を題材に、神や鬼が跳梁跋扈する時代劇ファンタジー」とある。さらに当日パンフによれば「インドの『マーハーバーラタ』、今昔物語の『天竺編』、歌舞伎の『鳴神上人』そして能楽までアレンジした金の蜥蜴流平安神話ミュージカル」と記してある。長々と引用したのは、これら 取っ付きにくそうな芸能を独自の観(魅)せる公演として仕上げ、楽しませるところが巧くて好い。
また能楽作品を分かり易くとの配慮から用語解説もあり、例えば、三か月も雨が降っていなかったため、雨乞山へ向かった。この山、物語上は架空だが作品のイメージとしての地理的な場所や一角仙人が住む仙境ー御在所山など丁寧な説明がある。もっとも観劇に際しては、その前知識がなくても理解できるよう工夫されている。
時は平安、まだ神と人、あの世とこの世の境目が曖昧で同じ所で暮らしていた時代 という設定。能楽としての能面や装束ではなく、時代劇としての衣裳、そして言葉遣いも現代風で身構えることなく楽しめる。勿論、音響・音楽(音源)は、小鼓・能管・篠笛・龍笛といった和楽器、照明は鮮やかな文様や暖色を照射する美しさ。その舞台技術は、場転換などで効果的な役割を果たしていた。そしてラストは…。
(上演時間2時間 休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術は 山なりの段差を設えているが、左右は非対称。真ん中の台 下は空洞。場面に応じて屏風状の衝立や障子戸が運び込まれる。段上の一部が半円状 それが開閉し岩を現す。シンプルなセットは、一角仙人と竜神との殺陣シーンを観せるため 広い空間を確保している。上演前の鳥の鳴き声が山奥を思わせる。
物語は、人間を信じない一角仙人と信じる竜神の心の有り様や葛藤、それを人間の所業と絡め描いている。平安時代の朝廷(帝)は、その権力基盤が脆弱で いつ謀反などで崩壊するかといった疑心暗鬼に苛まれていた。知恵者 中宮徳子は、敵対勢力がいる拠点(村)を洪水で流すことを進言する。権力者の陰に女あり。そして朝廷は、巫女の協力によって竜神と契約を結ぶことに成功する。一方、一角仙人は 嘗て人間に欺かれ、額にあった鹿の角を切られた忌まわしい思いがある。人間に対する思いの違いは 戦いで決着を、その結果 竜神は岩山に閉じ込められた。
竜神は、その力をもって人間が必要としている地域へ、必要なだけ雨を降らせていた。その竜神の力がなくなり、三か月間も雨が降らない。物語には河童も登場し、この世は人間だけではなく、妖怪や獣 そして植物など万物が雨(水)を欲していた。ちなみに河童は、シェイクスピア劇における道化師の役割を担わせたのだろうか。さて、人の所業は至る所に影響する、そんな教訓めいたことが浮き彫りになる。何とか雨を降らせたい、そこで 一角仙人に酒を飲ませ神通力を弱めさせ、竜神が岩山から出られるように…。
一角仙人は酒好き、巫女の母娘が 何とか飲ませようとするが、頑として聞き入れない。母が唄い、娘が舞ってもてなす。別シーンでも同じような舞唄を披露し、金の蜥蜴公演らしい魅せる演出が好い。また場転換はすべて暗転、その際 雷鳴といった効果音を轟かす。照明は丸形や幾何学文様といった照射で美しく印象的だ。ラストは朝廷(帝)を始め、今回の騒動を起こした人間が自ら死をもって償おうとする。人間は過ちもするが、悔い改めることも出来る、そんな寓話劇。登場する者(神・妖怪・人間)が全員現れ、踊り歌う祝祭をもっての大団円。
次回公演も楽しみにしております。
メモリーがいっぱい
ラゾーナ川崎プラザソル
ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)
2025/01/24 (金) ~ 2025/02/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
面白い、お薦め。
この公演は、川崎市市制100周年記念事業として「若手演劇人によるプラザソル演劇公演」と銘打っている。多くの人に観てもらいたい といった思いからなのだろう、分かり易い物語で 観劇歴が浅い人でも十分楽しむことが出来る。見所は、親子の愛情と地域コミュニティの大切さ、そこに父親がロボットという奇知で興味を惹くところ。その物語を役者陣の確かな演技力で観せていく。まさに演劇による まちづくりに相応しい心温まる公演(物語)である。
説明にもあるが、離島・ロボットの父親・優しく見守る島の人々、それを30年の時間軸の中で純熟するように展開させる。出会いがあれば別れもある、たとえロボットであっても…。偏見かも知れないが、離島の人々にとっては 見知らぬ家族、しかも父親がロボットだから好奇心と警戒心を抱く。それがどう受け入れられていくのか。いろいろなエピソードを回顧するように紡ぎ、じんわりと納得と共感を呼ぶ。
子(娘)の幸せを 願わない親はいないだろう。さてロボットは、その答えのようなものを 娘が連れてきた男を殴ってしまう という行為で表わした。人間と変わらぬ愛情を娘に注ぐ、そんな普遍的な思いが切ない。
(上演時間2時間 休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術は上手と下手に大きさの違う平台、その中間に小さい平台を重ね合わせ階段状の段差を設える。そこに木椅子3つ。壁は平板模様だが、上手は横向き、下手は縦向きになっており微妙に異なる。そして平台の行き来や段差の上り下りが 場所(空間)や時間そして状況の違いを表す。同時に生きている、動いているといった躍動感を現す。
物語は りつ と登志夫が結婚するため離島の父 大地へ挨拶に行くところから始まる。りつは事前に父親がロボットであることを伝えていない。戸惑う登志夫と大地の行為が波紋と呼ぶ。登志夫は、なぜ父親がロボットなのか、島の人々はどうして不思議がらないのかといった疑問が…それを ばあさんのキヌが回想を交え順々と説明していく。このエピソードが人間とロボットの違いを際立たせ、いかに大地が りつ を大切に育てたか、そして大地が島の人々にとって 役立っているかを点描していく。
大地と りくを この地(離島)へ連れてきたのは翔太、自分で子は育てられない。そこで大地に子育てを。プログラミングされたとは言え、その愛情の注ぎぶりは微笑ましく、実に心温まる。それは りく だけではなく友達に対しても同様。また缶蹴り遊びで 缶を圧し潰したり、運動会の綱引きでは怪力を といった面白可笑しいシーンで笑わせる。その飽きさせない演出が上手い。登場人物は善人ばかり、1人ひとりの見せ場を作り その性格や立場をしっかり立ち上げる。またロボットらしい動きをした大地(豊田豪サン)、物語の語り手でもあるキヌおばあちゃん(内野詩野サン)の演技は秀逸。勿論 音響・照明といった舞台技術も印象的な効果を発揮していた。
人間はいずれ死ぬ、ロボットは永遠かといえば メンテナンスが必要。身近な機器類でも故障すれば修理が必要になるが、型落ち品で部品がなければ廃棄へ。大地もメンテ=バージョンアップが必要になるが、その結果 いままでの大地ではなくなる。その苦渋の選択を翔太が行うが、大地は大地であって他(バージョンアップすることで大地とは違うロボット)に代替が利かないといった悲哀。そこには単なるロボットではなく<大地>という存在が既に認識されている。りつや翔太そして離島の人々との別れ、その後のホッとさせるなようなラストは名場面といっても過言ではないだろう。
次回公演も楽しみにしております。
6回の表を終わって7-0と苦しい展開が続いております(仮)
坂田足立連続デッドボール
駅前劇場(東京都)
2025/01/22 (水) ~ 2025/01/29 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
面白い。
中年男性への密かな応援歌といった物語。タイトルは人生の3分の2(野球で言えば6回ぐらいか)ほど過ぎた中年男の現状を表しているような。舞台は銭湯、その名も招湯。そこへ来る常連客の愚痴、ぼやき、嘆きといった不平不満を笑いと悲哀で綴る。物語は悶々とした胸の内を曝け出すが、実際に行動を起こすかと言えば 二の足を踏む。見所は、その圧倒的な演技力。
まだ何者にもなれない中年男たち、無為に歳月だけが過ぎていくが、それでもよし といった惰性・諦念といった気持もある。ところが或る出来事によって心境の変化がおきる。まずは、草野球チームを作って という前向きな姿勢になること。もう一つが、常連客の1人が夢を叶えようとしていること。この男が 夢から一番遠そうに思えたが、努力は実を結ぶといった教訓じみたことが描かれる。
公演は むさい男=オッサンが「銭湯」と「サウナ」で語る くたびれた話が中心だが、劇中のキャッチボールのシーンは躍動感と迫力がある。なお オッサンたちの背景は 敢えて深追いせず、今の状況を淡々と描く。そこに身近にいるオッサンたちのリアルが立ち上がる。他愛ない会話の中に納得と共感を誘うような。ぜひ劇場で。
(上演時間1時間55分 休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術は、上手に脱衣所、そこにロッカーや冷蔵庫等、下手にサウナ室があるが直接行き来はしない。上手の暖簾が湯舟やサウナへ通じる入口。また銭湯の出入口近くにマッサージ機を置き雰囲気を漂わせている。
登場人物は6人、銭湯の主人 マスター、常連客の先生・オサム・岡・ユージ・戸塚と素っ気ない名前で、ほぼ今ある姿だけで物語を紡ぐ。そして夫々の会話から関係性や付き合いの長さが何となく分かってくる。常連客の先生は小説家、それも官能小説を執筆しているらしい。オサムは広島出身 独身でバイト暮らし。いい歳をして まだ母親に金を無心している。岡、何かを喋ろうとすると他の誰かが口をはさむ。その正体は最後まで謎のまま。ユージは地元のようで野球愛に溢れ草野球チームを率いている。戸塚は刑務所帰りの元ヤクザ、背中一面に刺青。ほとんど女性に係る話題はなかったが、マスターが婚活を始め、好感度を上げる対策を練る。面白可笑しい会話が次々と…。
話題と言えば野球、それ以外は他愛ないことばかりだが、不思議と現実感がある。マスターの婚活も スケベ心は勿論だが、将来の一人暮らしが心配といった悲哀も滲み出る。毎日明るく元気に過ごすこと、そんな日々に満足しているようだが、いつかは達成感めいたものが欲しい。先生曰くまだ本気を出していない。自分の実力はこんなものではない と言わんばかりだ。そんな中、戸塚が俳優オーディションに通った。それが何とアメリカ(ハリウッドか?)というから皆驚き。端役と思っていたが主役、それもヤクザ映画だから素で出来る。
年齢的に 何かを成し遂げようとするのは難しい、そんな躊躇する気持がどこかある。それでも大声を出し明るく元気、その第一歩が草野球で勝つこと。しかし世の中そんなに甘くはなく連戦連敗で意気消沈しそうになるが…。50歳になろうとする男たちが足掻く姿、それは惨めというよりは開き直りの清々しさを感じる。それがタイトルの最後にある(仮)、つまり苦しいが まだ(人生は)ゲームセットではない。
次回公演も楽しみにしております。
アンナの銀河
演劇集団nohup
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2025/01/22 (水) ~ 2025/01/27 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
面白い、お薦め。
SF仕立てにした人間観察劇といったところ。物語は二重構造<宇宙船の内と外>、さらに云十年に及ぶ時間軸を時系列に描く。一見 複雑そうに思えたが、プロローグとエピローグのような描き方で違いを表す。内容的には、人間の喜怒哀楽や冠婚葬祭に準えたイベントを展開し、人の在り様を洞察する。そうせざるを得ない状況を作り出し、さらに そこから抜け出せない半ば強制的な環境を巧みに設定する。その柔軟な奇知が物語に深みと味わいをもたらしている。
シンプルな舞台装置、それゆえ役者陣の演技力が問われるところだが、しっかり感情表現をしていた。個々人のキャラクターを立ち上げ、ありがちな人間関係(家族内や隣人家など)を上手く描いていた。シリアスでありコメディなシーンといった硬軟ある観せ方は観客を飽きさせない。
地球人が、異星人から高度な科学(兵器)技術を背景に 理不尽な要求を迫られる。その高圧的な相手が異星人というところが肝、個人的には「アンネの日記」「幕末の黒船来航」そして「拉致」といった深刻な状況を連想した。究極の進路選択を迫られた時、人はどのような判断・対処をするのか。そして独りになった場合は…舞台という虚構(世界)の中で しっかり考えさせる。
(上演時間1時間25分 休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術は、正面壁際に六角柱の椅子が7つ横並び、そして同形のものが舞台中央に1つ の計8つ。舞台と客席の間に折畳み椅子が3つ、というシンプルなもの。
木ノ川家は両親と姉・弟の4人家族、ゴライ家は両親と娘の3人家族の計7人が宇宙船で暮らす。後に、セパクという老人が 子供の教育係として同居し8人になる。宇宙船の外の人間は、異星人によって拉致されシェルターへ収容されているらしい。一方 決まった作業の繰り返し、その刺激の無さが だんだんと人の感情を蝕んでいく。平穏に暮らせる喜び、しかし 悪意はないが欲求するという感情は制御できず些細なことで怒る。そして宇宙船という小さい空間(世界)の中で、反抗期(13歳)を自我の成長と諭し、異性への恋愛感情を育み結婚、そして人の死、といった人生イベントを順々に描く。
長い年月を狭い空間に籠り、何の変化もない暮らしによって生まれる閉塞感や倦怠感。しかし外に出れば生命の危機といった八方塞がりの苛立ち。それは外から観察してきた星人にとっても同様で、食料にウィルス(毒)を少しずつ混入し、アンナ以外は全員亡くなる。1人になったアンナは孤独と戦うため日記を書きだす。この状況は、父と異星人が交渉した結果である。人の命と人生とは を問うー単に生きることが必要なのか、それとも存在意義ー生き甲斐のようなものを求めるのか。そんな根本的なことを考えさせる。
完全に孤独になったアンネが発狂もせず、以降も淡々と暮らしながらも希望を失わない。考えてみれば恐ろしいこと、誰とも話をせず 対話するのが自分だけ。その確固たる意思はどこからくるのだろうか。物語はシリアスとコメディ、そのバランスがよくラストも悲劇に追い込まない。このシェルター以外の様子や状況は解らないが、人智によって希望が持てるような。そこに銀河(宇宙)に1人取り残されたアンネの救いをみる。
次回公演も楽しみにしております。
カンテン「The Foundations」Final.
カンテン事務局(Antikame?)
座・高円寺1(東京都)
2025/01/22 (水) ~ 2025/01/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
面白い、お薦め。 [Select B:集]観劇。
「架空畳」の「Φ(ファイ)をこころに、一、二と数えよ」と「劇団だるめしあん」の「バイトの面接に遅刻しそうだったが、どうやら遅刻していたのは世界の方だったらしい」の2作品。
役者陣の演技力は素晴らしく、何もない空間に役者の息遣いが聞こえ、虚構の世界を立ち上げる。演出は、それぞれ特徴があって、「架空畳」は音響と照明が印象的で、それが物語の世界観の希望と恐怖といった明暗をしっかり印象付けていた。一方、「劇団だるめしあん」は、板にテープを縦横斜めに張り、その線上を或る世界観に見立て時空の歪みを表出しているようだ。勿論 テイストは異なるが、それぞれテーマは明確で考えさせるもの。
●「Φ(ファイ)をこころに、一、二と数えよ」
失われたモノは、無かったことではない。その表し難いことを多角的な観点で考察するような描き方で、物事の本質に迫ろうとした問題作。
●「バイトの面接に遅刻しそうだったが、どうやら遅刻していたのは世界の方だったらしい」
何かの拍子で時空が歪み、意識が別次元の自分と入違ってしまう。その世界は、性差や人獣等といったことを超えて といった挑戦作。
素舞台にも関わらず、物語が豊かに紡がれ テーマが鮮明に浮かび上がる。同じ空間、60分という限られた時間、その同一条件下で描く話は、団体毎に無限の広がりを持つ。観客の想像力を刺激し、演劇という壮大な世界へ誘ってくれる好企画。ぜひ継続を…。
(上演時間2時間10分 休憩なし 作品間の転換10分)
ネタバレBOX
舞台という空間・演じる人・物語の言葉という極めてシンプルなモノだけが俎上に上がる。そこに演劇の虚構の世界が立ち上がるから不思議である。しかも6団体すべて違うテイストになるのだろう。
●「架空畳」の「Φ(ファイ)をこころに、一、二と数えよ」
Φ(ファイ) 何もなければ新たに言語を作り出すことになるが、あった言語を失くすことは出来ない。原爆を投下された国⇒無くなった国⇒失った言語は、何も無かった訳ではない。言語を失ったら人間ではなくなるのか。地下で生まれ育った少女は、新たに言語に意味付けをする。言語は世界である。それはパソコンで翻訳できないスペルは 文字化けするといった変換不能(意味不明)=Φ(ファイ) ではない。征服/被征服といった怖い世界観、デパ地下やネズミといった場所や小動物といった比喩で観客に訴える問題作。
●「バイトの面接に遅刻しそうだったが、どうやら遅刻していたのは世界の方だったらしい」
舞台上の線の上を走り、バイト先の面接に向かう途中で、男子高校生と女子高校生がぶつかり性別が入れ替わってしまう。映画「転校生」のような設定で、同じようなことが続く。女性は成長するとゴリラになる世界へ転移する。何度か入れ替わり、だんだんと意識が混乱していく。螺旋階段をぐるぐる回るようだが、見える世界は少しづつ違う。時間軸が歪み、それに伴って意識も転送され 今いる世界が判然としなくなる。男とか女とか、性差はあっても男女における役割/分担など、既成の価値概念・先入観を崩壊させるような異色作というか挑戦作のよう。
次回公演も楽しみにしております。
どらきゅらぁズ
四宮由佳プロデュース
サンモールスタジオ(東京都)
2025/01/21 (火) ~ 2025/01/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
物語のカギは、フライヤーにある「ドラキュラー家のピンチがスタートする」…どうしてそのようなピンチが といった原因。物語は大きく前半と後半に分かれ、前半は どらきゅらぁズの現状を描き、後半はピンチを招いた原因と対応を描く。表層的には どらきゅらぁズvs人間といった内容だが、それには当然訳がある。
物語は どらきゅらぁズ が人間界で認識され、ある程度容認されているという前提に立っている。公演は、表層だけを観ていると味わいが薄(浅)いが、その奥にある<共生や享受>さらに<寿命や感情>を考えた時、味わいが濃(深)く、観客としての感性を問われているようで手強い。その意味では、観客によって評価が分かれるのではないか。
前作「べらんだぁ占い師シゲ子」でも感じたが、ツッコミどころが いくつかある。それは物語そのもの=表面的なことではなく、考えさせることが いくつかあるということ。そこへ導く伏線がもう少し丁寧に描かれていたら…惜しい。ちなみにドラキュラは悪役としての吸血鬼といったイメージで、災いを招くという先入観がもたれている。公演では そんな先入観を払拭するが、一方 悲哀も感じてしまう。
(上演時間1時間45分 休憩なし) 【Aチーム】
ネタバレBOX
舞台美術は、上手に大きくて頑丈そうな棺桶。天井には赤い紗幕が垂れ下がる。下手には円柱と立方体の椅子が各2つずつ。中央は 広い空間を確保している。上演前から 四宮由佳さんが棺桶に入っており、冒頭は その中から現れるところから始まる。またシーンに応じた衣裳替えも見所。
ドラキュラー家は母 赤坂ナナエ<武藤令子サン>と娘2人(既婚:白石ヤスコ<菅川裕子サン>、赤坂ソラミ<四宮由佳サン>)。ソラミは、血液成分を分析し癌の早期発見に資する仕事、母は若さを保つ秘薬の販売。その仲介業をする者(人間)は、この家族がドラキュラであることを知っている。勿論 怖がりもせず、普通の人間と接するような対応。ドラキュラは身近に存在していることが早い段階で認識されていることを示す。
後半は、このドラキュラを退治したい人間集団が現れた。なお ドラキュラは、朝日・大蒜・十字架に弱いという先入観を逆手にとって面白可笑しく描く。シルベスター秋山<黒田勇樹サン>が率いる組織、彼がドラキュラを憎む理由 しかし真相は…。そして彼に加担してドラキュラに接触したい人の思惑を次々に説明していく。イーゼルにフリップを置き、その内容をオムニバス風に紡いでいく。
知られたドラキュラ=吸血鬼は若い女性の血を吸って生き永らえるのだが、本作は性別 年齢問わず<噛む>ことで命を繋ぎとめる、若しくは殺してしまう。母ナナエは究極の行為に躊躇してしまう。仮に生きた場合、人間はドラキュラになり長寿。例えば、家族/親族、親しい友人を見送っても自分は死ぬことも出来ない。そんな悲哀を味わうことになる。人間の宿命(寿命)という道理が歪むのである。またドラキュラも結婚し (ドラキュラの)子孫を残し、また死にかけた人間を嚙むことによってドラキュラへ。何が人間との共存/共生なのかといった問題まで考えてしまった。
次回公演も楽しみにしております。