修学旅行
劇団「14歳」
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2013/03/27 (水) ~ 2013/03/31 (日)公演終了
満足度★★★★
缶バッチ買ってみました。
劇団14に行って来た。ここは,前回はまってしまい,二週にわたって,全10回観た思い出がある。池袋にあるお寺の近くにある小さな三劇場が,池袋シアターグリーンだ。
劇場だけ同じで,劇団14歳のメンバーは,ほとんどかわっていた。それ以外に,脚本も,演出も,がらっと変わってしまった。しかし,そこには,かわらない劇団14歳の部分もあった。
演技後あったショートHRでは,ほとんど初舞台だったという。前回のメンバーが,かなりあちこちで活発に出演していたので,その点は意外だった。
ストーリーは,おもしろく,非常に良くまとまっていた。わかりやすいし,あきずに最後まで観られた。前回の少女群が,清楚なセーラー服で「美しかった!」のに比べると,みんなジャージで,まくらでケンカしているのは,コントみたいな印象もあった。
修学旅行にまで来て,筋トレをやめない一少女を説得し,眠れない夜に「好きな男の子」の告白タイムを開始する班長。みんなして,同じ男の子を狙っていたことに気がつく。そんで,本人を呼び出すが,こいつが,まぎらわしい説明をするので,五人の和が崩壊し,修羅場となっていく。
サウンド・オブ・ミュージック
劇団四季
四季劇場 [秋](東京都)
2013/01/16 (水) ~ 2013/05/06 (月)公演終了
満足度★★★★★
「すがのカノンさん,今日でますか?」
劇団四季に行って来た。しばらくここには,顔を出していなかった。劇団四季の出演者は,複数キャストになっているようなことも多く,実際の出演者は,なんと開演一時間前に決まる。菅野花音が,今週出るらしい。いちかばちかで,土曜日にある二公演に賭けてみた。
お昼の部では,菅野花音の名はない。で,夕方の方はどうだろう,受付の係員にたずねてみた。プレゼントくらいは,受け取ってくれた。四時間ほどして,窓口で再照会すると,うれしそうに「はいでます!」。やった!これで,劇団四季の「菅野花音」を観られる。
『サウンド・オブ・ミュージック』は,トラップ大佐と七人の子どもの物語。そこに,修道院から,マリアが参戦。マリアの歌声で,子どもたちはみるみる明るくなっていく。その様子を見て,トラップ大佐自身も考えを変え始めた。
当日,私は,「すがのカノンさん,今日でますか?」を何度口にしただろうか。出なかったら,「ハムレット」とか,「ライオンキング」でも観よう。でも,「ハムレット」はすでに完売だった。
マルタ役の「のんたん」は,かっこ良かった。堂々とセンターで,歌い踊っていた。おお,すげぇ!劇団四季に出てるよ。(葵と楓のショー見ながら,はでに,アイスクリームを風に飛ばされていたようなことも思い出す。大丈夫かな失敗しないか,心配。)
「エーデルワイス」で,祖国愛を唄った。スイスを本当に,聖なる永世中立国に仕立てているが,現実はもう少し複雑怪奇なんだとは思います。でも,そこが,ミュージカル。何度も,なぜか涙ぐんでいた。
浅利慶太はいう,「僕らの生は無目的だし,どう生きても全ての行為は無償」。そして,「自分をつくることが,自分自身になること」。
人生の現実とは,その根本に,対立的なドラマを内容する。演劇は、この人生の反映である。いついかなるときも,演劇は人間にとって,不可欠のよろこびだった。人間は,何もなすこともなく時に流され,やがて死ぬ。人は,劇場に,自分自身をいやしに来る。
もし,演劇が,啓発行為なら,それは,教育等のことで十分できるはず。一同に集まって,生きるよろこび,歌う感動を確認しあうことが,大事なのだと。そこでは,必ず,自由があって欲しい。性格や,心理に重点を置くような演劇は好きではない。
三田文学にかつて,浅利自身が書いたことからは,以上のようなことが要約できる。
演劇が単に遊びに終わってはだめ。劇場を現実逃避の場にするな。演劇は見世物ではない。商業主義に毒されるな。俳優の生活を優先して,演劇の本質を失うことがないようにしたい。
ミス・サイゴン
東宝
青山劇場(東京都)
2012/08/22 (水) ~ 2012/09/09 (日)公演終了
満足度★★★★
劇団四季よりいいじゃん!
劇団四季とは,なにか。浅利慶太の父は,築地小劇場の創立メンバーだった。フランス語で,Quatre saisonsから,四季となっている。日生劇場から手を引き,演劇の東京一極集中をさけるべく,全国各地での公演をめざす。浅利慶太は,新劇関係者のような,「愚かな観客にまで観てもらわないくてもいい」と思わないところがあった。浅利は,『ウェストサイド物語』を,ブロードウェイから取り入れた。そのまま招いたのだ。有名スターに依存する東宝とはちがい,劇団四季は,アンサンブル中心のものだった。劇団四季の大ヒットは,『キャッツ』である。劇団内には,スターはできにくいシステム。浅利慶太は,カリスマ性を持っているので,後継者問題は難しい。
観客動員数というのを比較してみるとき,演劇の種類が問題になる。劇団四季は,年間観客動員数で,松竹・東宝をぬいて首位になる。松竹には,歌舞伎もあれば,新派,松竹新喜劇もあった。また,東宝には,女優芝居があり,演劇&歌謡ショーが含まれていた。東宝には,『レ・ミゼラブル』があったものの,ほとんどが,ブロードウェイ・ミュージカルだった劇団四季は,松竹・東宝とは少し異質であった。松竹・東宝には,団体客が目立つ。商業演劇としては,団体客で対応した方が成功だ。でも,劇団四季は,団体客よりは一般客がチケットを個々に買うことをめざし,作品に集中させる。ディズニー・カンパニーは,ブロードウェイにも進出している。『美女と野獣』『ライオン・キング』である。劇団四季は,ミュージカル分野でびっくりするほど貢献している。
でも,東宝だっていいものがあるよ・・・
『ミス・サイゴン』は,どういうミュージカルだろうか。物語は,オペラで同様のものがあり,舞台を「ベトナム戦争」に移したものであると良くいわれる。
『ミス・サイゴン』は,『レ・ミゼラブル』とはちがって,現代史のある部分を,観るひとに伝えてくれるものだ。『ミス・サイゴン』を観ていると,確かに,アメリカ兵がアジアに来て,ある戦争をしていたという事実が実感としてわかる。
キムという娘は,思いのほか一アメリカ兵に恋をしてしまう。その子どもを育て,もう一度アメリカ兵に再会することを夢見ている。アメリカ兵にとっても,キムのことは忘れられない思い出である。ミュージカルでは,アメリカ兵は,任務であるので,強制的に母国に帰還せざるを得ないので,確かに悲恋ともいえる。
実際,キムが,アメリカ兵の妻と再会し,ショックを受け,子どもを預けて,自殺する流れは,たいへん気の毒である。
この作品から,何を学ぶか,どういう印象を持つか,ひとそれぞれだ。アメリカ兵の身勝手を責める意見も多い。また,アメリカ兵の行動に翻弄されたキムは,愚かで,そのようなアジア人蔑視のミュージカルに反感もあって当然だろう。
ただ,そういったことを前提としても,「激しく生きている」キムがそこにいる。何度も観る場合,きっと,転落していくことがわかっていても,また観てしまうのだろう。
作品のオープニングは,場末の売春宿。そこで,ほとんど下着同然の若い女性たちがダンスし,それを,狂言まわし役が見ている。舞台が進むと,ベトナム戦争の雰囲気をあまりにリアルにイメージする,国旗,兵士の行進などがあざやかに広がる。ヘリコプターも印象的だった。
『ミス・サイゴン』とか,『レ・ミゼラブル』というものは,ほかのものに比べ,音楽性から何から抜群の完成度を持つものであろうから,一度は観て圧倒されるのも大事だろう。
赤毛のアン
劇団四季
自由劇場(東京都)
2012/09/15 (土) ~ 2012/10/14 (日)公演終了
満足度★★★★
名作『赤毛のアン』を観た。
浅利慶太は,若いときから「演劇の問題など何もない!」「当たるか,当たらぬかだけだ!」と豪語していた。劇団四季のミュージカルは,ブロードウェイで大ヒットしたものをリメイクして,NYまでいけない人の欲求を満たしている。今も,東宝は東宝で,ミスサイゴンをやっている。こちらもすごい。
ミスサイゴンは,オペラの蝶々夫人とどこか似ている。アメリカ人が,兵役でアジアに来て,恋仲になるが,本気にはならず捨てる。そして,母国アメリカに戻って,正妻を得るが,このことにヒロインはショックを受ける。アジアの人間は,なんかバカにされているという感じもしないでない。(でも観たい!)
浅利慶太は,「僕らの生は無目的だ!」「人間にあらゆる先験的な価値などない!」などと言う。かっこいい!スタニラフスキー・システムを目の敵にするが,これは,少しずれたものだったと言われる。浅利慶太は,劇団四季のストレートプレイの劇場を,「自由劇場」と名付ける。
浅利慶太は,哲学者で,サルトルの実存主義とか,カミュの不条理哲学にくわしい。パンフレットを作ると,父浅利鶴雄の『築地小劇場』と似ていた。彼は,自分のまわりに知的コミュニティを形成することを得意とした。1933年に生まれた浅利は,1954年に姉の自殺を経験している。
劇団四季は,1953年に慶応の仲間でたちあげた。メンバーには,日下武史もいる。当時の,気分としては,演劇活動が,過去の反ナチ,反軍国主義ばかりじゃ,それは,逃避と同じじゃないか!ということだった。
劇団四季の歴史的大ヒットは,『キャッツ』だ。左翼活動とは,距離をおくようになる浅利慶太であるが,国家権力,それと歩調をあわせる連中を嫌う。心の中で,政治的には革新をひめてもいる。
1960年前半までは,日本のミュージカルは,東宝一極だった。そして,そこは,スター中心であった。当時の劇団四季にいて,今は,東宝に移ったのは,鹿賀丈史・市村正親である。東宝は,その後,『レ・ミゼラブル』『屋根の上のヴァイオリン弾き』がある。 商業主義であるから,劇団四季やら,宝塚を嫌う意見もあるが,芸術に値する俳優養成やら,研修がほかにあったか,というと何も言えない。
今日の,日本演劇界は,哲学がない。演劇表現の確立に失敗している。知的コミュニティもあいまい,演劇人を職業的に自立させることにも挫折している。となると,市場原理では断念して,公的助成はないものか,ということになる。
浅利慶太は,助成金無用でやっていこうとした。そこに哲学があった。つまり,『キャッツ』は,T.S.エリオット原作であるし,『美女と野獣』は,ジャン・コクトー映画化のものである。
娯楽のために,劇場に足を運ぶ人間には,哲学などどうでもいい。たとえば,ベケットの『ゴドーを待ちながら』が,よほどの人気二俳優でもない限り上演で人は集まらない。市場で通じる演劇をめざすことは,浅利の真意とは遠い。
参照文献:戦う演劇人(管孝行)
劇団四季の自由劇場で,児童文学の名作『赤毛のアン』を観た。
物語の最初は,「男の子と間違えて女の子を引き取った夫婦の話」だ。赤毛で,そばかすのアンは,マシューに気にいられる。そのマシューは,アンとほんの少しの時間を過ごした思い出とともに,病死してしまう。マシューには,アンにあった粗雑な部分も愛すべきメリットに見えたにちがいない。それまで,ひとなみの愛情を注がれたことなどない孤児であったアンが,少しずつ暖かい世界で健康な少女に育っていくさまが楽しく描かれている。子どもむきの作品にはちがいないが,スーパー明るい『赤毛のアン』に,すべての者が救われる。これも又,良い作品。
ねぼすけさん
バジリコFバジオ
サンモールスタジオ(東京都)
2012/09/27 (木) ~ 2012/10/02 (火)公演終了
満足度★★★
家が破産しても,みんなでカラオケ大会できるおバカ集団
台風が来ている中,『ねぼすけさん』をサンモールスタジオ(新宿)で観た。この作品は,とても良くできている。主人公の,キナコは,実は,もともと未来から来た旦那と,その事実を知らずに結婚していた。だから,未来から来た彼が,あれこれコントロール(超能力で)することによって,キナコのまわりでは,かなり不思議な現象が,日々起きるのである。
作・演出の佐々木充郭は,的確に,昭和30年代の世界を再現していた。あの時代には,空き巣は入り放題だった。押し売りは,どこか哀愁のあるものだった。キナコのまわりには,ほかにも,個性的なキャラクターが光る。息子の担任の先生は,少しヒステリーだ。彼女は,キナコの家族のようにノー天気で生きていけるひとたちがどうしても理解できないのだ。
劇団14歳では,『山に登る』で,佐々木充郭は演出をしている。非常用の缶詰が,どうしてもあかない場面で,たいへん大げさに振る舞うのだ。今回の『ねぼすけさん』の出演者は,そのほとんどが,オーバー・アクションの連続。たとえば,額をテーブルに本気でぶつけるなど,ケガでもしそうなテンションだった。でも,こればかりというわけでもなく,劇は,きわめてまじめに展開。
『ねぼすけさん』は,第17回劇作家協会新人戯曲賞入選作である。多くの審査員をうならせた理由には,一度だけさらっと観ると気がつかないようなトリックがあるはずだ。過去の有名文芸作品やら,名映画から,ちょこちょこ聞いたことのあるような名前が浮かんでは,消えていく。やはり,『ねぼすけさん』は,相当手のこんだつくりになっているようだ。
この劇団は,人形を使う。このために,どのようにあやつり人形が出てきたり,あるいは,被りものの猫が演じるのか,ずっと気になっていた。ほかの作品はまだ一度も観たことがないが,少なくとも『ねぼすけさん』出演の人形猫は,どこか親近感のある楽しい存在だった。人形猫と,被り物猫が会話していると,アルツハイマー気味の老人が,なぜか会話に参加している(SF劇らしい)。
さて,『ねぼすけさん』を観おわって何を感じるか。ドタバタ会話の中にある,人間の世界など,きっと破滅に向かっている・・・という深みのある意見に共感するのか。あるいは,何度もくりかえされる,キナコ家族は,家が破産しても,みんなでカラオケ大会できるおバカ集団で,そこがまた魅力だというところに尽きるのだろうか。
青い鳥
劇団四季
四季劇場 [秋](東京都)
2012/10/02 (火) ~ 2012/10/21 (日)公演終了
満足度★★
メーテルリンクの『青い鳥』作品の意味!
1906年には,スタニスラフスキーと,ネビローヴィチは共同演出であった。スタニスラフスキーは,シェークスピアやら,モリエールの劇を越え,自分が何かに挑戦し,観客の期待に最大で答えたいと思った。文学からいのちを引き出すのだ。
ところが,ネビローヴィチはブレーキをかける。スタニスラフスキーに勝手にやらせたら,劇団の成功はない。スタニスラフスキーの新しい発想を,嘲笑する。確かに,スタニスラフスキーの文法は,仲間たちに評判は良くない。部分的に成功しているものばかり。心理学的発想は,俳優間でも混乱を招いた。
スタニスラフスキーは,ここで,メーテルリンクの『青い鳥』演出に夢中になっていく。劇団は,生き残るべきである。ネビローヴィチとの共存は困難である。芸術座は,いったい誰が創設したのだろうか。このふたりである。
スタニスラフスキーは,『青い鳥』の下稽古で,黒いビロードの効果に気が付いた。黒の上では,黒は見えないのだ。黒いビロードの小切れが大事なのだ。芸術上の課題を,この『青い鳥』で解決しようとした。この趣旨は,メーテルリンクにも届いていく。
人間は,地球を支配し,その神秘を意のままにできると思い始めている。精神的豊かさを本当に持っているのは,少数なのだ。大衆に,未知の世界の神秘を伝えたい。幸福をさがし求めたい。その幸福は,青い鳥のように,暗黒の世界で飛び去ってしまう。人間は,生涯ではじめての,曇りない眼を持つべきなのだ。その眼で,人間を見つめ直し,誠実な感謝の気持ちで世界を見守るべきなのだ。
スタニスラフスキーは,演出の中で,デザインも装置も,子どものヴィジョンをイメージする。ネビローヴィチは,これをからかう。見てみろ!俳優たちは,全員犬や猫の真似ばかりしているぞ。うれしそうに,スタニスラフスキーのまわりで,わんわん・にゃんにゃんやっているのだ。
スタニスラフスキーは,ネビローヴィチと喧嘩などすることは,愚かなことだと感じていた。彼が考えていたことは何か。それは,俳優は,戯曲のことばの受動的な解説者にとどまるべきではないということ。能動的な,創造者になるべきなのだ。そして,スタニスラフスキーの研究目的は,最終的に観客に感銘をもたらすべきであることに尽きるのである。
メーテルリンクの『青い鳥』は,1911年度に,ノーベル賞を授与された作品である。1908年に発表され,その後,世界中で上演されて来ました。
L‘oiseau blue。は,一見児童文学なのかとも思うほど,夢物語の中での冒険がその筋です。クリスマスの前夜に,妖女ベリリウンヌに,話を持ちかけられたのがきっかけである。
未来の王国・・・・
どうして,あの子は,ぼくの名前を知っているの?
ぼくは,きみの弟になるんだもの。いじめないでよ。
その袋には,何があるの?
ぼくは,三つの病気を持っていくんだ。しょうこう熱と,百日咳と,はしかだよ。
それで・・・
それから,死んでしまうのさ。
じゃあ,生まれるかいがないじゃないか。
だって,どうにもならないでしょう・・・
チェーホフは,晩年次第に象徴主義に関心をいだく。『かもめ』にも劇中劇で,ニーナにそのようなセリフを言わせている。芸術座にも,ベルギーの象徴主義作家モーリス・メーテルリンク(1862-1949)をしきりに勧めている。
これに対し,ネミロヴッチは,当初,心地良いオペレッタ程度の認識であったのに対し,スタニスラフスキーは,『青い鳥』にただならぬ深さを感じていた。
人間と,堕落した社会は,子どもの素直な純粋な目を通して,鋭く批判される。自分たちの生活に必要不可欠なものたちの「化身」,光,水,パン,火,砂糖,ミルク。ほかに,友としての犬と猫。
遭難、
劇団、本谷有希子
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2012/10/02 (火) ~ 2012/10/23 (火)公演終了
満足度★★★
片桐はいり演じる仁科というすごい母親。
池袋の東京芸術劇場を訪れた。かつて,鶴屋南北戯曲賞をとった作品は,かなりインパクトのあるものだった。本谷有希子は,この『遭難』をどのようなプロセスで完成させたのか,そして,今回再演したのだろうか。
四人の教師が,モンスターな母親・仁科と格闘するような話であるか,のような印象から物語はスタートする。この母親は,江國という若い女性教師を攻め立てる。わが子が,意識を回復しないのは,アンタのせいだ!。しかし,あとでわかって来るが,この母親は,子どもを虐待していて,それが,きっかけだったかもしれない。
江國は,たしかに仁科君から告白されたこともあった。もしかして,失恋のショックだったかもしれない。しかし,話の骨格としては,主役である里見という国語教師が,仁科君から,相談の手紙を受けていたのだ。同僚のきまじめな石原は,その事実を知っていたのである。里見は事実を,インペイをする。石原は怒る。
里見がすごいのは,さほど罪もない不破という軽薄な男性教師までも,今回の事件にひきずりこんでいく。びっくりするのは,唯一良識もありけがれもなかった石原は,ほとんど「弱み」がないことゆえに,全員の標的になりかけることである。これが,社会の真実ならば,そこに救いはないだろう。気の毒である。
一方に,片桐はいり演じる仁科というすごい母親。それに対して,里見というずるい人間がいる。里見のような人間も実際たしかにいるだろう。ただ,その人間には,その人間の歴史があって,もはや性格やら,主義は変えようもない。一番苦しみ,一番かわいそうなのは,里見だったりする。その里見に世界は崩壊させられるのか。
お気に召すまま
明治大学シェイクスピアプロジェクト
アカデミーホール(明治大学駿河台キャンパス)(東京都)
2012/11/09 (金) ~ 2012/11/11 (日)公演終了
満足度★
この世界はすべてこれひとつの舞台。
明治大学シェイクスピアプロジェクト「お気に召すまま」を観る。
この劇の中で,出て来るのは次の台詞である。
この世界はすべてこれひとつの舞台。人間は,男女を問わず,すべて役者に過ぎない。それぞれ舞台に登場しては,また退場していく。そのあいだに,ひとりひとりが,さまざまな役を演じている。
ここは,演劇というものを,シェイクスピア独特の視点で見ていたことがわかる部分だ。
「お気に召すまま」は,ロザリンドを恋するオーランドーの話が中心だ。少し時代が古いから,作品全体は,メルヘンチックになる。舞台の中心は,アーデンの森。そこで,男の子に扮したロザリンドは,オーランドーに恋のてほどきをする。本当に,わたしを「ロザリンド」だと思って,心の内をお話しなさい。オーランドーは,この趣向に夢中になっていく。最期の場面で,男の子は,実は「ロザリンド」であったことを知りめでたし,めでたし・・・ということになる。
シェイクスピア作品には,いろいろなものがあるが,かつてBBCで全作品を見た思い出の中では,この「お気に召すまま」は,不思議なものだ。とくに驚くような仕掛けはない。ただ,美しい音楽が全体を包み優しい気持ちになる。シェイクスピアにしては,鋭さはないかもしれないが,これも又シェイクスピアらいし,いや一番シェイクスピア的なものかもしれない。「お気に召すまま」は,だから,この作品は,どうぞご自由に鑑賞ください・・・と謎のメッセージを残した。
から騒ぎ
演劇集団若人
上野ストアハウス(東京都)
2012/11/22 (木) ~ 2012/11/25 (日)公演終了
満足度★★
シェークスピアの『から騒ぎ』は,クローディオとヒアローの出会いと決裂
本橋哲也は,その著書の中で,政治は結局権力をめぐる闘争のことであり,金銭の分配にも振り回され,要するに「腐敗」していくのだと言っている。その場合,多くの人はきっと権力を得て,その資質も変化してしまう・・・ということになろう。彼の本では,舞台はイギリス史劇であるが,シェークスピアは,権力を志向するひとの性(さが)という普遍的なテーマをわかり易く表現していると指摘する。シェークスピア演劇を,社会全般にわたる政治的権力の物語,として見る「視点」があるのだろう。
イギリス帝国が最初の植民地を建設したとか,ヘンリー八世の離婚で英国国教会が成立したとか,キリスト教が新旧に分裂した後のヨーロッパが宗教戦争にイギリスもまきこんでいくとか,そういった時代である。農村から都市に人口流入が激化する。スペイン・ポルトガル・オランダに遅れて,植民地主義に向かう。こういった錯綜とした時代に,異種混交的な包括的な場所で,演劇は大衆の見世物から,やがて,舞台芸術に向かっていく。そんなシェークスピアは,「現代劇」として,二十世紀初頭に再生して来る。
悲劇のためには,何かを知り,何かの能力をもたねばならない!このことをスタニスラフスキーは知った。自分が死に賭して演技したにもかかわらず,観衆は私のオセロに対してまったく冷やかなままだった。装置や,衣装が派手過ぎると,かえって観衆の集中を役者からそらせることもあるだろう。スタニスラフスキーは,自伝の中で,オセロに手を焼いたことを述べている。
その後,スタニスラフスキーは『から騒ぎ』を上演することになる。演出のための戯曲として『から騒ぎ』が選ばれた。ベアトリスを忌み嫌う粗暴な武人・ベネディクトをどう演じるべきか。悪党の公爵・ドン・ジョンたちは,どこに住み,どこで謀略をめぐらすのか。役者的な演技法から離れ,性格俳優の道を模索する。
『から騒ぎ』の中では,恋愛には不向きな二人の男女が出て来た。ベネディクトと,ベアトリスは,周囲のたくらみで,自分は異性などの興味はないが,「自分に夢中になっている異性がいること」を知って考えを少しずつ変えていくはめになる。
そういえば,上野ストアハウスでの,ベネディクトもとてもおもしろいキャラクターであった。舞台では,友人たちが,自分のうわさを始めた。さっと,客席側に身を隠して,あたりを伺う。そうか,あの高慢だと思っていたベアトリスは,自分のことを身を焦がすほど恋していたのだ!
「ゆうべあなたと,あなたの部屋で,話していた男はだれですか?」クローディオは,婚礼の前夜,策謀によって,まんまとヒアローに拭いがたい不信を抱いてしまったのだ。この事件にショックを受けたヒアローは,実際気絶してしまった。ここで修道士は,機転をきかせてヒアローがそのまま亡くなってしまったという芝居を打つ。確かに,ヒアローをせめて殺してしまったクローディオなのだが,真実はやがて明らかになって来る。そこで,自分の判断がまちがっていたことを悟り,深い悲しみに沈んでいく。
このシェークスピアの『から騒ぎ』は,クローディオとヒアローの出会いと決裂,そして,策謀をめぐらした者たちがつかまって,無事結婚できるという比較的シンプルな筋書きである。上野ストアハウスでの,演技者は,さほどの衣装もないが,それでいてシェークスピア劇らしい個性的な役者がおもしろい演技を見せてくれて良かった。次第に,シェークスピアも難しいものに入っていくだろう。
ノア版 人形の家
ノアノオモチャバコ
小劇場 楽園(東京都)
2012/09/20 (木) ~ 2012/09/23 (日)公演終了
満足度★★★★
イプセンの『人形の家』には,しっかりとしたストーリーがある。
下北沢小劇場「楽園」で,イプセンの『人形の家』を観る。
演劇史を研究していると,チェーホフとならんで,このノルウェーの作家が頻繁に出現する。明治時代,西洋の完成度の高い作品として,日本に紹介され,気が付けば,女性の自立を促すためとか,家庭の在り方への問題提起の意味を含んで,何度も上演されている。
演劇というものは,たしかに,戯曲を忠実に,演技するというだけではない。しかしながら,自由に演出し,自由に演技していく場合,もとの戯曲=テキストが,多少しっかりしたものでないと,うまくいかないものだろう。そういう意味で,翻訳劇には,登場人物名が覚えにくいなど違和感はあるが,筋は明瞭だ。
作品は実在した人物からヒントを得ている。イプセンは,ある女性から,夫の病気ゆえ借金話をもちかけられる。「すべての悩みをご主人に打ち明けなさい」とすすめるが,金は貸さなかった。結局,彼女は,うつ病になってしまう。劇中のノーラは,もう少し別の話で,借金はできたが,にせ借用書事件に追い込まれる。
「パパは,あたしを赤ちゃんと呼び・・」「あなた(夫=ヘルメル)も,私を人形として,この家であつかっていた!」。イプセンの『人形の家』のテーマは,このような会話に収束されるだろう。妻であり母親であるのに,その責任を放棄して,家を出ていくノーラは,この後,しあわせになれるだろうか。彼女は,明確に,自分には,子どもを育てる自信がないのだと述べる。さらに,子ども以上に,自分は,自分という人間を最初からやり直したい,という。そう,もう,人形ではいたくないのだ。
ノアノオモチャバコの演出は,とてもおもしろい。この小劇場は,普通のように,前に舞台があって,客席があるものとはちがう。劇の種類によっては,真横から,観客が,じっと劇を観ることが可能である。まず,入場すると,おどろいたことに,ノーラは,すやすや舞台中央の揺り椅子で眠っていた。その後,太陽やら,月をイメージした,おもちゃが,ぶらさがって,回転している中央で,演技をする。最後,左手奥にある観客席を,思いっきり蹴飛ばして,家を出ていく。
イプセンの『人形の家』には,しっかりとしたストーリーがある。そのために,ノアノオモチャバコ版においても,その基本構造は,びくともしない。
二組の男女が,物語の骨格を作っている。まず,主役のノーラと,その善良かもしれないが,見栄っぱりで,信念も,誠実さもどこか薄弱な凡夫であるヘルメルがいる。これに対し,ノーラに金を貸したどこか胡散くさいクロクスタと,ノーラの幼なじみのこれ又ひとくせあるリンデ夫人の組み合わせである。
意外とおもしろいのは,クロクスタが自滅していくのを,どういうわけかリンデ夫人は,救う展開となっている。「偽借用書事件」やら,「同窓生ゆえのなれなれしさ」に,ヘルメルは,銀行頭取になるや,クロクスタを解雇し,かわって,未亡人のリンデ夫人を事務職にすえる。この時点では,クロクスタとリンデ夫人は,あきらかに敵対しあう関係なのである。しかし,リンデ夫人は,クロクスタを救う。
かつて,クロクスタは,リンデ夫人に夢中になるが,はねつけられた。リンデ夫人は,そのクロクスタのかわりに銀行で職を得たのだ。でも,仕事をしてみたかったのは事実だが,欲をいえば,クロクスタの子どもたちがかわいくて,その母親にもなってみたかったのだ。そのためには,遅くなったが,リンデ夫人は,クロクスタの求愛を受け入れることは,まちがっていないと考える。
ただ,このリンデ夫人の機転のきいた判断で,ヘルメル・ノーラ夫婦は,一転危機を回避できたように見えるが,かえって深い決裂に向かってゆく。ノーラが,実際に,家を出ていくには,戯曲の中ではわからない複雑な思いがきっとあるだろう。ヘルメルは,彼なりに,自分のまちがいをなんとか詫びたいという気持ちにまでなった。しかし,時すでに遅し。ノーラは,傷つき,家を出るのだ。対話らしいものが,ひとつもなかったヘルメルが,変わるとは思われないのだ。
『吸血姫』
劇団唐ゼミ☆
浅草花やしき裏特設テント劇場(東京都)
2012/11/16 (金) ~ 2012/11/25 (日)公演終了
満足度★★
唐十郎の劇は,いつも観客の魂を揺さぶるアジテーションである。
いま,演劇に何が起こっているか。2005.12.西堂行人は,述べている。この時点で,唐十郎はもっとも注目を集めているという。教授として,横浜国大でも活動していた。
西堂行人によれば,演劇はギリシア時代より,つねに現実を「模倣」するものだった。ところが,唐十郎はこの関係を逆転させていた。日常の「反映」を舞台が「映す」のではない。唐十郎の言葉は,舞台上に次々に化身をつくり出す。唐十郎の劇は,いつも観客の魂を揺さぶるアジテーションである。
花やしき裏にあったようなテント劇場は,そもそも1967年に,花園神社に立てられた紅テントがスタートだという。テントそのものを,公園のような公有地に張ろうとすると今でもすぐに退去命令が出るという。テントそのものは,それ自体が一つの表現になる。そこに装置空間が発生する。演劇はいつも体験的な記憶となる。一時的に体験し,消え去るものがテント劇場である。「ラストシーンで背景の幕が切って落とされ都市の風景が忽然と劇の中に飛び込む」。この演出は,今回の唐ゼミでも,最後スカイツリーが目に飛び込むことで再現されていた。
芝居の集団は,表現集団+観客である。この点,テント劇場のようなものが,芝居の観客となるかもしれない人々へひろがりを持つのだろうか,という意見も当初からあったようだ。なお,今回の『吸血姫』は,1971年湯島天神・吉祥寺・渋谷で上演されている。
第21回公演 『吸血姫』を花やしき裏で観た!
花やしきの前にいったら,唐ゼミのPRが目にはいった。あわてて,50mさきの花やしき裏にいくと,青テントがはってあった。これが,かの有名な現代演劇を牽引しているテント小屋か!なんか,寒そうだな。まだ,入場券はあるのだろうか。とにかく時間までどこかで待ってみよう。なにやら,いかがわしい感じの入口。中で,ストリップでもやっていそうな(確かに,途中で二ヶ所そんな場面もあった)。
愛染病院というのがあって,院長・こうぞうは,もの凄くいい加減な男だ。人妻に,あなたをどうしてもお世話したい,とくどき,あきたらポイ。その亭主からは,悪魔のように憎まれている。子どもの頃に,実の父親に凌辱され,悲惨な人生となった女も出て来る。
それにしても,寒かった。内容は,わかったようなわからんような,感動するような,こらえるような笑いもあった。どうやら,関東大震災あたりの時代背景を知ると,もっとおもしろく鑑賞できたのかもしれない。寒い!それにしても,これじゃ外にいるのと,変わらない・・・と思っていると,舞台正面奥の一角が崩れ,穴があいたような感じ。
あっれ,むこうに見えるのは,なぜか東京スカイツリーじゃん。お昼,葵と楓の応援で,うちわ広げていたら,テレビに映ってしまったばかりの場所。おわって,椅子もなくすわりこんでいたので,足も痛かった。その後,丸一日お腹の調子も良くない。次は,やっぱり,ミュージカルにしようかな。
琉歌・アンティゴネー
ピープルシアター
シアターX(東京都)
2012/10/10 (水) ~ 2012/10/16 (火)公演終了
満足度★★★
タイトルの「アンティゴネー」とは何か?
ニライは,聡明で美しい娘で,すでに,恋人のウミンがいた。ニライには,言語障害があるが,素直で心の美しい妹カナイがいたが,実は,ひそかに,姉の恋人に思いを寄せていた。あるとき,ニライは,基地の連中に襲われてしまった。
ニライの父と,ウミンの父は,町では実力者でかつては,親友でもあったが,基地問題などを背景に,険悪な関係になっていた。このため,ニライと,ウミンは,ぼくたちは,ロミオとジュリエットのようなものだね,と笑っていたこともあった。
ニライの父は,かつて苦悩の大きさゆえに,自分で自分の目をつぶして,これ以上世の中の醜さを見たくない!と宣言していたが,その時の真意は,十分には明らかにされてこなかった。
物語の中で次第に明らかにされるのだが,ニライの父は,戦後ニライの祖父と大きな言い争いをしている。祖父は,戦後も教育者を辞めず,校長をやっていた。そのような祖父に,父は,「戦場に子どもを送り出し,自分ばかりがのうのうと生き残って・・・」と呟いてしまう。結果,あるとき,祖父は,首をつってしまったのだ。
ということは,みな,ニライの父は,親友に裏切られたゆえに,あるいは,些細なことで,実の父親を自殺においやった自責の念で,自暴自棄になったのか?
いや,問題は,そのような表面的なことではなく,もっとドロドロとした奥深いものが隠されていたのである。ニライの父は,この親友をかつて裏切り,彼の妻と不倫関係にあった時期がある。そこで,できた子どもは,ずっと,その事実を隠して成人してしまったのだ。それが,ウミンなのだ。そう!つまり,ニライ・カナイ姉妹は,ウミンと兄弟であったというのだ。
昨年10月,両国のシアターXで,琉歌アンティゴネーは,良かった。これは,沖縄基地問題。ここで,ヒロインのカナンは,血のつながった兄を恋してしまう。さらに,基地でアメリカ兵に犯されてしまう。広いとはいえない劇場には,砂浜をイメージした舞台で,沖縄特有のダンスがある度結構なほこりが舞っていた。で,タイトルの「アンティゴネー」とは何か?
「アンティゴネー」は,ギリシア悲劇で出て来る女性の名前。
テーバイには,ラーイオス王とイオカステー王女がいたが,神の啓示により子どもを作るとろくなころがない!といわれる。ラーイオス王は,これを無視して,できた子どもをしぶしぶ,かかとに目印で傷をつけ,森で捨てるが,これを情のある羊飼い夫婦が育てる。
ときが過ぎ,オイディプース(かかとが腫れた)は,森を通り過ぎた乱暴狼藉の老人を殺害してしまう。彼は,オイディプースの愛馬を,道のじゃまだからというだけで引き殺してしまったからだ。しかし,このときオイディプースは,この老人が父親であったことを知らない。さらに,テーバイにもどって,功績を認められ国王の妻と婚姻し,王にのしあがるが,実は,この女は母親であったのだ。
そして,彼らの間にできた呪われた子どもたちの中に,「アンティゴネー」の名がある。
あたたかい心
千葉子どもミュージカル
千葉市若葉文化ホール(千葉県)
2012/12/08 (土) ~ 2012/12/08 (土)公演終了
満足度★★
劇物語の世界を生きる!
演技はだれにもできる。ピアノや,絵は,多少の心得が求められるだろう。まるで習ってなくても,演技はすぐにできそうだ。それゆえに,演技や劇について,むしろ何も知らない世界でいいものが見られる。たしかに,小学生やら中学生には,表現の水準でまだ稚拙だと見えても,その演技が表現の真実・核心をついていると良いものになる。一方,見ていてなぜかちっとも感動できないプロが存在することになる。
劇物語の世界を生きる!そこでは,第二ステップがいきなり難しくなって来る。自分でいろいろなことを考え始める。無意識的に初心者がやっていた素晴らしい演技・劇を,今度は,意識してやろうとする。こういった趣旨のことを,山崎哲『俳優になる方法』の中で紹介している。その第二ステップにおいて,役者がなにか余分なことを始めると感じる場合,むしろ簡単に覚えられないセリフを与えてみたりするらしい。この場合,余計なことをやることが,彼には,初心者の持つよさを損なう原因と考えている。
ミュージカル『あたたかい心』は,とてもわかり易くいい演劇だった。可愛らしい子どもたちが,一生懸命やっていた。その内容・レベルを,しろうとで,演劇を少しばかり観た経験しかない私には,講評などできないだろう。また,無責任に,ダンスは感じが良くて,劇団四季より良かった!など,思っても正しい見解とはいえないだろう。ただ,素朴に,上記のような,山崎哲のお話が脳裏に浮かぶ。そうした意味で,いつも演劇を観る場合,そこに表現の真実・核心があるか,そういった視点を持ち続けたいと思った。
平成時代劇 萬屋錦之助一座「ざ☆よろきん」新春公演
アリー・エンターテイメント
シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)
2013/01/05 (土) ~ 2013/01/10 (木)公演終了
満足度★
がんばれ!眞嶋優!
平成時代劇 萬屋錦之助一座『ざ☆よろきん』の,新春公演「吉原火消し衆~松風編~」を観た。これは,池袋のシアターグリーンのBIGTREETHEATERで現在やっている。年忘れ公演もあったようだが,それは見ていない。私が見たのは,新春公演の初日だった。シアターグリーンは,劇団14歳のとき,10回も通った場所なので懐かしい。今回そのメンバーのひとりが参加していたので,内容もほとんど調べずアタックする。
何が起こるか?まったくわからぬまま飛び込むのもまた良いものだ。とりわけ,難しい内容のものでもない。だからといって,この純粋に日本的な世界は,深いものもあってあきないし,渋いものだから見て良かったと思う。花魁(おいらん)の世界は,あでやかで,それでいてせつない。出演者の会話が,いかにも江戸っ子というキレのいい感じで,終始気持ちがいい。演劇にもいろいろあるものにちがいない。どうせなら,三味線をどこかで誰かが少しくらい奏でてくれたら良かった・・・と思うのは少しぜいたくなのだろうか。
がんばれ!眞嶋優!なかなかのかわいい瓦版屋でしたね。
Oliver!
JOY Kids' Theater
渋谷区文化総合センター大和田・伝承ホール(東京都)
2013/02/08 (金) ~ 2013/02/11 (月)公演終了
満足度★★
原作に忠実で良かった。
『オリバー・ツイスト』とは,どのような物語であろうか。
まず,ブラウン・ロー氏の存在がある。彼には,可愛いアグネスという娘がいた。この娘は,親の認めない恋をして,子どもみごもるが,これを孤児院で生み落して絶命してしまう。ミュージカル『オリバー!』では,この孤児オリバーが,孤児院で空腹を訴えて,葬儀屋に追い出され,いじめに会いロンドンの街で,窃盗団の有望株ドジャーと出会うことになる。
この窃盗団には,首領のフェイギン以外に,サイクスという悪党と,情の深いナンシーがいた。オリバーは,ヘマを踏む。サイクスは,オリバーを処分してしまいたいが,ナンシーの止めがはいり,逆上したサイクスは,ナンシーを叩き殺すのだ。サイクスは,結局凶悪犯として,糾弾される。
『オリバー・ツイスト』は,美しい作品にちがいないが,主役のオリバーの存在は,ぼやっとしている。闘うオリバーの意思がほとんど見られず,ディケンズが書き足した原作の後半では,主役なのにほとんど出なくなる。さらに,孫としての,オリバーは,ブラウン・ロー氏に救済されるが,窃盗団の少年・少女やら,孤児院に残ったものについては,なんの言及もない。
ミュージカル『オリバー!』は,現在のミュージカル・ブームに火をつけた重要な作品である。子どもたちのかわいさが目立ったからだろうか。映画などでは,イヌが効果的に使われている。
天使の休日
SHOW-COMPANY
こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロ(東京都)
2013/03/23 (土) ~ 2013/03/24 (日)公演終了
満足度★★★
がんばれ!ゆうなっち
たくさんの演劇・ミュージカルを観ていて,だんだん同じようなものをまわってしまう。
でも,そのような中で,子どもがたくさん出演するものは,楽しい。今回は,はじまりが,大人のミュージカルだったので,知っている顔がなかなか出て来ないので心配になった。
おとなは,みんな楽しげに生きていない!仕事だって,ひとつも楽しそうにやっていないじゃないか!確かに,そういわれたら,それまでだね。でも,大人になるということは,いつだってそういうものなのだよ。ミュージカルのように,みんな笑顔で涙で終わる世界なんてどこにもないの・・・
自然の中で,子どもは育つべきかもしれない。確かに,夕方缶けりやら,鬼ごっこして遊ぶなんて時代じゃない。みんな塾やら,宿題で追われるのさ。そして,ゲームに夢中になって,人とのふれあいが消えていく。そうだね。それは,そうだろう。
がんばれ!ゆうなっち。では,次回・・・
「ワーニャおじさん」「かもめ」「三人姉妹」「櫻の園」
劇団だるま座
アトリエだるま座(東京都)
2012/12/24 (月) ~ 2013/01/27 (日)公演終了
満足度★★★★★
このチェーホフは,良かったと思う。
『かもめ』では,トレープレフ(コースチャ)は,才能があったが,俗物の母にはバカにされるわ,母の愛人トリゴーリンに恋人ニーナを横取りされる。結局は,ニーナを忘れられず自殺してしまう。チェーホフの世界は,気分・余韻の劇だから,明確に自殺のことは表現されていない。ただ,暗示されているに過ぎない。
『三人姉妹』のイリーナは,劇中ひどく変化していく。最初は,夢を持ち労働にも意欲的である。しかし,次第に,現実のつまらなさ,単調さに苦しむ。最後は,愛のない結婚をしても良いと考えるものの,その相手トゥーゼンバフは自殺まがいの決闘で自分から去ってしまう。それでも,生きていくのだと・・・とちかう。軍医の「同じことさ」という虚無的なことばが,ずっと心に残っていく。
『ワーニャ伯父さん』は,ちょっと気の毒な人間だ。尊敬しきった教授閣下は,その実たいしたものでないと気が付くが,ときすでに遅いのだ。ソーニャも,無謀な恋に狂い,何もできない。ふたりは,深く絶望し,ただ耐えることのみだ。とはいえ,意外と多くの人間にとっては,人生で勝者になれないことばかりだ。だから,演劇がリアルになる。
『桜の園』は,気分の演劇であるチェーホフの傑作だと思う。ロパーヒンは,さくらんぼ畑に斧を入れることしか頭にない。この『桜の園』転売の始末で,もともと孤児の境遇のシャルロッタは,またまた逆境に転落していく。軽妙に手品などやっている場合ではないのだ。どこかおかしみがあるが,その中に,しんみり人生の悲哀を感じさせてくれる。
四作品を通しで,上演してくれたことでいろいろな発見があった。また,猥雑で狭い劇場の中,観客も演者と同化していく。このチェーホフは,良かったと思う。
オペラ座の怪人
劇団四季
電通四季劇場[海](東京都)
2011/10/01 (土) ~ 2013/03/31 (日)公演終了
満足度★★★★★
劇団四季の中で特別な作品
『オペラ座の怪人』の原作は,1910年に出版されたガストン・ルルーによる怪奇小説。ミュージカル版の作曲は,アンドルー・ロイド=ウェーバーであり,ロンドンでの初演は,1986年10月。ということらしい・・・
さて,クリスティンは,オペラ座の地下に住む怪人に歌唱指導を受け,怪人のおかげで,見事にプリマドンナになれた。幼なじみのラウルと再会し,恋に落ちるが,これを怪人は認めない。たしかにクリスティンの才能に気づき,これを育てたのだから,怪人の気持ちもわからぬではない。巨大なシャンデリアが落ちて来たときは,本当に怖かった。怪人が,クリスティンたちをあきらめる幻想的なシーンは,たいへん印象的だったと思う。
劇団四季では,ほかに身よりのない『赤毛のアン』の境遇も心に残り,演劇界の記念碑である『青い鳥』も素晴らしかった。しかし,『オペラ座の怪人』は,劇団四季の中で群を抜いた作品だと思う。文学としても魅力的であり,音楽も完璧だと思う。